村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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「マクドナルドがある国同士は戦争をしない」という言葉があります。
アメリカのコラムニストが1996年に書いた言葉だそうです。
マクドナルド・チェーンが進出するのは、ある程度資本主義経済が成功して、政治も安定している国なので、そういう国は戦争という愚かな行為はしないはずだということです。
しかし、ロシアにもウクライナにもマクドナルドはあったので、この論理は破綻しました(実際は2008年のロシア・ジョージア戦争のときに破綻していました)。


経済と戦争の関係はどうなっているのでしょうか。
交易の始まりは物々交換です。
山の民は獣の肉は食べ飽きて、海の民は魚を食べ飽きているので、互いに獣の肉と魚を交換すれば双方に利益があります。
交換せずに略奪すればもっと利益がありますが、それは戦争になるので、うまくいくとは限りません。
ただ、「交易か略奪か」ということはつねに天秤にかけて判断していたでしょう。
やがて略奪だけでなく、負かした相手を奴隷にして働かせて利益を得るということも行われるようになり、また、植民地を獲得して利益を得ることも行われるようになりました。
ローマ帝国やモンゴル帝国のような戦争に強い集団は、限りなく戦争をして略奪し、領土を広げ、奴隷を獲得しました。
つまり戦争はつねに利益を求めて行われました。

しかし、産業が高度化すると、奴隷制も植民地支配もあまり利益を生まなくなりました。
第二次世界大戦後は、人権や民族自決権という考え方が広がり、戦争に勝っても領土も植民地も賠償金も得られません。
戦争をするより互いに貿易や投資をしたほうが利益が得られる時代になりました。
そういうことから
「マクドナルドがある国同士は戦争をしない」という言葉も出てきたわけです。
これからも世界経済が成長し、各国の経済的つながりが緊密化するとともに戦争の危機は減少していくものと思われました。

ですから、プーチン大統領の今回の戦争の判断にはほとんどの人が驚きました。
プーチン大統領はどうしてウクライナに攻め込んだのかというと、経済的利益のためではなく、自国の安全保障のためでしょう。
NATOの拡大に脅威を感じていたというのは嘘ではないと思います。

「自国の安全のために他国を侵略する」というのは論理的におかしい気もしますが、「自国の安全」を絶対と思えば、成立しないわけではありません。
たとえば、アメリカがアフガニスタンを侵略したのはアフガン政府が9.11テロを実行したアルカイダをかくまったというのが理由ですし、イラク侵略のときはイラクが大量破壊兵器を持っているというのが理由でした(その情報は捏造でしたが)。

北朝鮮も、貧乏な国なのに核兵器とミサイルの開発に金をかけて攻撃能力をつけているのも、「自国の安全」のためでしょう。
自民党が「敵基地攻撃能力」をつけようとしているのも、
「自国の安全」のためという理屈です。


しかし、「自国の安全のために他国を攻撃・侵略する」というのは、やはり間違っています。
どこが間違っているかというと、「自国の安全」ばかり考えて、「他国の安全」を考えていないところです。
自分の利益しか考えない我利我利亡者は、周りの人間から嫌われて結局利益を失います。
それと同じで、「自国の安全」しか考えない国は、結局「自国の安全」をも失うものです。

もっとも、アメリカのようなスーパーパワーは例外です。やりたい放題が可能です。
アメリカがロシアを追い詰めたという面は否定できません。

トランプ政権はNATO加盟国に対して軍事費をGDP比2%以上にするように要求しました。これはバイデン政権も受け継いでいます。
もともとアメリカの軍事力は突出しているのに、NATO加盟国の軍事力も強化されたら、ロシアは自国の存続が風前の灯と感じても不思議ではありません。

ちなみに世界主要国の軍事費はこうなっています。
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「諸外国の軍事費・対GDP動向をさぐる(2021年公開版)」より

プーチン大統領は核兵器使用の可能性に何度も言及して、世界の顰蹙を買いましたが、NATOとロシアでは圧倒的な軍事力の差があるので、核兵器の威嚇に頼るしかなかったとも言えます。

ともかく、NATOとロシアはもともと著しく軍事力のバランスを欠いている上に、NATOは加盟国をふやし、さらに各国の軍事力も強化しようとしていたのです。
まさに「自国の安全」だけ考えて「ロシアの安全」を考えないという自己中心的な態度でした。
NATOが少しでもロシアの言い分を聞いていれば、また違った結果があったでしょう。


アメリカは日本にも防衛費を
GDP比2%以上にするように要求しています。
日本では中国の軍拡がいかにも脅威であるかのように喧伝されています。
しかし、アメリカの軍事費は中国の軍事費の約3倍です。
米中の適正な軍事力バランスを考えるのが先決です。

ともかく、ここまでのロシア・ウクライナ戦争を見ていると、戦争がなんの利益も生まないことは誰の目にも明らかです(アメリカだけは兵器を売って利益を得ているかもしれません)。
世界経済が成長するとともに戦争の危機は減少するという流れはやはり変わらないと思われます。


ところが、新たに「経済安保」という考え方が出てきました。
一般のマスコミは書きませんが、これもアメリカに要請されたものです。

「選択」4月号の『醜聞続き「経済安全保障」の暗部』という記事の冒頭部分を引用しておきます。

国会では現在、経済安全保障推進法案について議論が進んでいる。岸田文雄首相の肝煎りで今国会の重要法案と言われているが、実は安倍晋三政権時代に動き出した経済安保政策に、大した政策のない岸田首相が乗っかっただけに過ぎない。
そんな経済安保をめぐってはこれまでさまざまな思惑が渦巻いてきた。そもそも経済安保とは、米国が強く唱えてきたことだ。中国企業排除を念頭に、米国のNIST(米国立標準技術研究所)が定める技術安全標準などを強調して米国製品を日本政府に調達させようというもの。米国系コンサル企業が積極的に働きかけてきた。

経済安保推進法案は5月11日に成立しました。

この法律の目的は、中国などを敵性国と見なして、ハイテク分野などで経済の規制を強めようというものです。
その結果、日本経済はアメリカ依存を強めることになります。

アメリカはアフガン戦争とイラク戦争の経験から、戦争をやっても利益が得られないことを知り、軍事力の優位を利用して利益を得る戦略に転換したのかもしれません。

このように考えると、アメリカは世界でいちばんうまく立ち回っている国です。
しかし、膨大な軍事費を支出しているので、世界でいちばん損をしている国という見方もできます。

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5月3日の憲法記念日には、例によって憲法九条についての改憲論議が行われましたが、改憲は当面不可能でしょう。
なぜなら岸田文雄首相にはまったく改憲する気がないからです。
ときどき改憲に意欲があるようなことを言いますが、それは保守派の支持者のためのリップサービスです。

岸田首相のやる気のなさは、施政方針演説や所信表明演説を見ればわかります。
改憲について触れるのは、いちばん最後か、最後の前と決まっていて、それもわずかの行数です。
官邸ホームページから引用しておきます。

第二百五回国会における岸田内閣総理大臣所信表明演説
六 おわりに

 憲法改正についてです。
 憲法改正の手続を定めた国民投票法が改正されました。今後、憲法審査会において、各政党が考え方を示した上で、与野党の枠を超え、建設的な議論を行い、国民的な議論を積極的に深めていただくことを期待します。


第二百七回国会における岸田内閣総理大臣所信表明演説
十 憲法改正

 憲法改正についてです。我々国会議員には、憲法の在り方に、真剣に向き合っていく責務があります。
 まず重要なことは、国会での議論です。与野党の枠を超え、国会において、積極的な議論が行われることを心から期待します。
 並行して、国民理解の更なる深化が大事です。
 大きく時代が変化する中にあって、現行憲法が今の時代にふさわしいものであり続けているかどうか、我々国会議員が、広く国民の議論を喚起していこうではありませんか。


第二百八回国会における岸田内閣総理大臣施政方針演説
九 憲法改正

 先の臨時国会において、憲法審査会が開かれ、国会の場で、憲法改正に向けた議論が行われたことを、歓迎します。
 憲法の在り方は、国民の皆さんがお決めになるものですが、憲法改正に関する国民的議論を喚起していくには、我々国会議員が、国会の内外で、議論を積み重ね、発信していくことが必要です。
 本国会においても、積極的な議論が行われることを心から期待します。

「議論を歓迎する」と言っているだけで、改憲に意欲を示すということはありません。

改憲にきわめて熱心だった安倍晋三元首相が第二次政権の8年間でできなかったのですから、やる気のない岸田首相にできるわけがありません。

それに、安倍政権は2015年に新安保法制を成立させるときに、内閣法制局長官の首をすげ替えてまで「解釈改憲」を行いました。これで改憲する理由がほとんどなくなりました。
安倍氏がほんとうに改憲したいなら、「切れ目のない安全保障体制を築くにはどうしても憲法九条改正が必要だ」という論理で押し通すべきでした。
なぜそうしなかったのかというと、おそらくアメリカから新安保法制の成立をせかされたのでしょう。それに、かりに改憲の発議ができたとしても、国民投票で否決される可能性があるので、アメリカは認めなかったのかもしれません。

「仏つくって魂入れず」と言いますが、改憲の魂は新安保法制のほうに入ってしまったので、今の九条改正論議には魂がありせん。


ともかく、九条改正はとうてい不可能ですが、憲法が「戦力不保持」をうたっているのに戦力である自衛隊が存在しているのはおかしなことです。
なぜこういうことになったかというと、もとはといえばアメリカのせいです。

自衛隊の前身である警察予備隊が結成されたいきさつは、ウィキペディアにこう書かれています。

警察予備隊(けいさつよびたい、英語表記:Japan Police Reserve Corps(J.P.R)又は、National Police Reserve)は、日本において1950年(昭和25年)8月10日にGHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された準軍事組織。1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組された。

要するに占領下にGHQの命令でつくられたのです。
よく「戦後憲法は押しつけられた」と言いますが、実は「自衛隊も押しつけられた」のです。

アメリカは最初、日本を無力化する計画で平和憲法をつくりましたが、朝鮮戦争が起こったことで計画を変更し、日本を再軍備化することにしました。
アメリカの矛盾した方針が、戦後日本における平和憲法と自衛隊という矛盾を生んだわけです。


自衛隊は災害救助活動をすることで少しずつ国民から認知されてきたとはいえ、ずっと日陰者でした。改憲論者は九条改正をすれば自衛隊は日陰者でなくなると思っているかもしれませんが、出自に問題があるので、そうはいかないでしょう。

ロシア・ウクライナ戦争を見て、日本の防衛は大丈夫かという声が上がっていますが、それに対して「日本には自衛隊があるので大丈夫だ」という声は聞いたことがありません。
改憲派やタカ派も自衛隊を信頼していないようです。

アメリカは自衛隊をつくっただけでなく、安保条約、日米地位協定、新安保法制もつくり、日本の防衛政策の根幹を決めています。
憲法九条だけ変えても意味はありません。


防衛予算のあり方もアメリカが決めています。

このところ日本の防衛費はGDPの1%程度です。
ところが、昨年10月12日に自民党が発表した衆院選の選挙公約では、2022年度から防衛力を大幅に強化するとして、「GDP比2%以上も念頭に増額を目指す」と記されました。
2021年度当初予算の防衛費は5.1235兆円でしたが、それを倍増させるなど、ありえないことです。
タカ派の高市早苗政調会長が公約の中に自分の趣味を押し通したのかと思えました。

そうしたところ、10月20日の米上院外交委員会の公聴会において次期駐日大使に指名されたラーム・エマニュエル氏は、「GDP比2%以上も念頭に増額を目指す」という自民党選挙公約に触れて、「1%から2%にしようとしているのは考え方が変わったからだ」との認識を示し、日本の防衛費の増額は「日本の安全保障や我々の同盟に不可欠だ」と述べました。
また、11月22日の朝日新聞の記事によると、前駐日米大使であるウィリアム・ハガティ上院議員は朝日新聞のインタビューに答えて、「米国はGDP比で3・5%以上を国防費にあて、日本や欧州に米軍を駐留させている。同盟国が防衛予算のGDP比2%増額さえ困難だとすれば、子どもたちの世代に説明がつかない」などと語りました。
つまり前駐日大使も現駐日大使も、防衛費のGDP比2%以上を要求しているのです。
ということは、これはアメリカの要求で、自民党の選挙公約はそれに応えたものだったのです。

もともとGDP比2%以上という数字は、トランプ政権が2020年にNATO加盟国に対して要求したものです。
それがここにきて日本にも向けられてきたということでしょう。


それにしても、防衛費の倍増はいくらなんでもむりです。
自衛隊は人員募集に苦労していて、現在2万人近く定員割れしているのが実情です。自衛隊の規模を拡大するわけにもいきません。
とすると、高価な装備を買うか開発することになります。
最近、自民党が「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」と言い換えることにしたのも、金の使い道はここぐらいしかないと見きわめたのでしょう。

日本の防衛政策の根幹はアメリカが決めているのです。

憲法九条を改正するか否かなどはどうでもいいことです。

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自民党はこれまで「敵基地攻撃能力」と言っていたのを「反撃能力」と言い換えるそうです。
「反撃」とは広い意味の言葉ですから、なにを言っているのかわかりません。
これは「越境攻撃能力」と言えば意味が明快です。
つまり中距離ミサイルや渡洋爆撃で中国や北朝鮮をたたく能力ということです。
ただ、そんな攻撃力にお金をかけていたら、肝心の防御力が手薄になってしまいます。


ロシア・ウクライナ戦争によって、日本人の戦争観のおかしさが浮き彫りになりました。

橋下徹氏は戦争の初期、「ウクライナは早く降伏したほうがいい」とか「国外退避も選択肢のひとつ」などと主張していました。ほかにもウクライナ降伏論を主張した著名人は何人もいます。

当時、ロシア軍はウクライナ軍よりも圧倒的な戦力があると言われていました。もし確実にウクライナ軍が負けるなら、早期に降伏したほうがいいということもいえますが、確実に負けると決めつけることはできません。
一般的に侵略する側の兵士よりも防衛する側の兵士のほうが士気は高いものですし、防衛する側は民衆と一体となれるという利点もあります。

橋下氏らがウクライナ軍は確実に負けると予測したのは、要するに第二次世界大戦末期の日本と重ね合わせたからでしょう。
あのときの日本と今のウクライナはまったく違いますが、日本人は橋下氏に限らず敗戦の体験がトラウマになっているので、そういう冷静な判断ができません。


「ゴジラ」のような怪獣映画は、怪獣は戦争の象徴として描かれます。
ゴジラが日本に上陸してくると、人々は荷物を背負い、子どもの手を引き、家財を載せたリヤカーを引いたりして逃げまどいますが、これは空襲で街が焼かれて逃げまどったことの再現です。
そして、自衛隊はゴジラに銃弾や砲弾やミサイルを雨あられと浴びせかけますが、ゴジラにはまったく効果がありません。最終的にゴジラを倒したのは「オキシジェン・デストロイヤー」という科学的な新兵器です。

日本の怪獣には通常兵器はまったく効果がありません。最終的に怪獣を倒すのはなにかの新兵器か別の怪獣かウルトラマンのような存在です。
アメリカなどの怪獣映画では、割と簡単に通常兵器で退治されることが多くて、日本人が観ていると拍子抜けします。
ここに日本人とアメリカ人の戦争観の違いが出ていると思います。

ともかく、日本人は敗戦のトラウマがあるので、戦争というと「戦っても勝てない」という負け犬根性がしみついています。
実際はアメリカに勝てなかっただけなのですが、トラウマはそう論理的なものではないので、一人の男にレイプされた女性が男性全般を拒否するようになるのと同じで、日本人は戦争全般を拒否するようになっています。
橋下氏のような降伏論はそこから出てきます。


それから、日本人は侵略戦争と防衛戦争の区別がつけられない傾向があります。

近代日本のやってきた日清、日露、日中、日米の戦争はすべて侵略戦争です(日露は双方が侵略戦争です)。
侵略戦争が悪だというと、日本の戦争はすべて悪ということになります。

そういうことは認めたくない人もいます。
真珠湾攻撃の直後に天皇の名で出された「開戦の詔書」には、「自存自衛ノ為」という言葉があるので、戦後右翼はこれを根拠に「太平洋戦争は自衛戦争だった」と主張しています。
そういう人においては侵略戦争と防衛戦争の区別がつかなくなるのは当然です。

2013年、安倍晋三首相は国会答弁で日本の植民地支配や侵略に関して、「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と述べました。
それを受けて橋下徹氏も「侵略の定義が存在しないのは事実」と述べました(実際は1974年、国連第29回総会において、「侵略の定義に関する決議」が日本も賛成して採択され、定義は定まっています)。

ウクライナ戦争が始まってから安倍氏や橋下氏の発言が迷走を続けているのは、ここに根本原因があります。
「ロシアは侵略戦争、ウクライナは防衛戦争」という明快な認識があれば、橋下氏もそう簡単にウクライナに降伏しろとは言わないはずですし、安倍氏もプーチン大統領を批判する言葉を口にしたはずです。
安倍氏はウクライナ戦争以降、「核共有を議論するべきだ」とか「台湾有事は日本有事」とか「敵基地攻撃能力は基地に限定する必要はない。中枢を攻撃することも含むべきだ」とか、おかしな発言を連発しています。

日本は侵略戦争しかしてこなかったのですが、硫黄島と沖縄の戦いは防衛戦争です。防衛戦争では日本軍は善戦しました。日本の領土以外で戦っているときは、無意味な突撃をして自滅する傾向がありました(もっとも、日米戦争は真珠湾攻撃という侵略から始まったので、すべてが侵略戦争だとも見なせますが)。

日本が本土決戦に突き進めば、そこで初めて本格的な防衛戦争をすることになりますが、その前に降伏してしまいました。
ですから、日本人は防衛戦争の経験がほとんどない、世界でも珍しい国民です(アメリカもそうです)。
ロシアなどはナチスドイツに攻め込まれたときからずっと防衛戦争をしていたので、日本人と戦争に対する見方が百八十度違うはずです。


今後、日本が中国やロシアに攻め込まれたら、そのときはまさに「本土決戦」をすることになります。
ところが、日本人は「本土決戦はするべきではない」と思っているので、そこで思考停止してしまいます。
本来なら「中国軍はどのようにして上陸してくるのか。それにどう対処するのか」ということを考えなければなりませんが、誰も考えませんし、誰も議論しません。

では、これまで日本で行われてきた防衛論議はなにかというと、「半島有事や台湾有事にどう対応するか」「シーレーン防衛をどうするか」「イラクに自衛隊を派遣するべきか」など、侵略論ばかりです。
「敵基地攻撃能力」も同じです。

専守防衛に徹するなら、うんと安くつきます。
アフガニスタンのタリバンは、たいした武器もないのに山の多い地形を利用したゲリラ戦をやってアメリカ軍を追い出しました。
日本も国土の75%は山地で、しかも森林が多いので、ゲリラ戦に最適の地形です。
軽トラに携行式ミサイルと迫撃砲などを積んで林道などを移動すれば、空からも発見されません。
主要都市を占領されても、山岳ゲリラをやって敵を消耗させて最終的に勝利するというシナリオもあります。
攻め込んでも最終的な勝利は困難と敵に思わせれば、それが抑止力になります。


日本の防衛費はGDP1%程度で、NATO諸国と比べると少ないといわれますが、島国だから少ないのは当然です。
ところが、自民党は防衛費を倍増させてGDP2%程度にするという目標を立てています。
財政赤字大国の日本にとって冗談としか思えない数字ですが、これはアメリカから要請されたからです。
江戸時代、幕府は各藩に「御手伝普請」といわれる土木工事を命じて、藩の財政力を弱体化させようとしましたが、アメリカも同盟国に「御手伝軍備」を命じて、同盟国の財政力を弱体化させようとしているようです。

普通、予算というのは、必要なものを積み上げて最終的に数字を出しますが、防衛費については、目標の数字が最初にあって、それに合わせて防衛装備などを積み上げます。「越境攻撃能力」もその一環です。


ところで、日本が中国を攻撃する能力を備えたところで、中国の主要な基地を全部たたけるわけがありません。
中途半端な攻撃力があっても意味がないではないかと思えますが、そういうことではありません。
朝日新聞の『自民、首相に「反撃能力」提言 北ミサイル対処→「米軍の一翼」へ』という記事にはこう書かれています。

今回、自民党が出した「反撃能力」は、①仮想敵国は中国②米軍の打撃力の一部を担う③攻撃対象を拡大という3点が特徴だ。
反撃能力を求めた項目では、北朝鮮には触れず、軍事力を増強する中国を名指しして対抗する色合いを強めた。また、米国との役割分担についても言及。「相手領域内への打撃については、これまで米国に依存してきた」と指摘し、「迎撃のみではわが国を防衛しきれない恐れがある」とした。日本も打撃力を保有する必要性につなげている。
提言に関与した政府関係者は、狙いについて「米国の攻撃の一翼を担うこと」と明かす。日米安全保障条約に基づき、敵を攻撃する「矛」の役割は米軍にゆだね、日本は「専守防衛」のもと守りに徹する「盾」の役割を担ってきた。反撃能力はこれを転換し、自衛隊も米軍とともに矛の一部を担うことを意味する。

要するにアメリカの攻撃力の一部を日本が肩代わりするということです。
そうすればアメリカの費用負担がへります。
自民党の言う「反撃能力」とは、日本の税金を使ってアメリカの財政を助けるという話なのでした。

橋下氏、安倍氏、高市早苗自民党政調会長のような右翼のタカ派ほど、敗戦のトラウマが深いので、アメリカにものが言えなくなるようです。

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今年は日本共産党結成100周年です。
ソ連東欧圏の崩壊とともに共産主義も思想として破綻したと見なされていますが、日本共産党はずっと「共産党」を名乗って、綱領には「科学的社会主義」が掲げられています。
「科学的社会主義」とはなんでしょうか。

志位和夫委員長は4月14日の記者会見で、ウクライナ侵略に反対することと「科学的社会主義」の関係について問われ、「マルクス、エンゲルスはその生涯を通じて、19世紀の二つの覇権主義――帝政ロシアの膨張主義およびイギリス資本主義の植民地主義に対してたたかいを続けてきた」とし、「日本共産党はマルクス、エンゲルスの立場を引き継ぐものだ」と述べました。
どうやら「科学的社会主義」はマルクス主義のことのようです(レーニンは排除されたようです)。
綱領には「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく(中略)民主主義革命である」とありますが、そのあと「日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる」として、「生産手段の社会化」をうたっています。

国民民主党や連合の芳野友子会長が野党共闘から共産党を排除するよう立憲民主党に要求しているのは、共産党がマルクス主義政党だからということでしょう。

しかし、社会主義経済や計画経済は、格差社会問題や地球環境問題の観点から世界的に見直されています。
単純な反共主義も時代遅れです。

とはいえ、ソ連東欧圏が政治的にも経済的にも行き詰まって崩壊したのは事実です。
マルクス主義はどこが間違っていたのでしょうか。
思想的な観点から解明したいと思います。


そもそもマルクス主義はなぜ「科学的社会主義」を名乗っているのでしょうか。
これにはダーウィンの進化論の影響があります。
ダーウィンとマルクスはほとんど同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。
マルクスは『種の起源』を読んで感銘を受け、『資本論』の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化するという唯物史観は進化論の影響でしょう。
革命家は体制側に立つキリスト教会とも戦わねばなりませんでしたが、聖書の創造説を否定する進化論の登場は革命家にとって強力な援軍になりました。
マルクス主義は「宗教はアヘンだ」としてキリスト教と全面対決しましたが、それを可能にしたのは進化論の援軍でした。

マルクス主義は進化論を土台にしたので「科学的社会主義」を名乗ったのです。

幸徳秋水は『平民主義』において、「社会主義が自由競争を禁止しようとするのは、進化論の生存競争の法則と矛盾するのではないか」という疑問に答える形で、進化論とマルクス主義の関係について次のように書いています。
ダーウィン氏の進化説は、千古不滅の真理である。けれども、彼はただ、生物自然の進化する根本の理由を説示するにとどまった。
だから、どうしてこれを人類社会に応用すればいいか、という問題になってくると、あの、いわゆるダーウィニアンの徒が、まちまちの議論にわかれ、なかにはひどい謬見におちこんでいる者がある。
そして、ダーウィンが生物自然の領域でなしとげたのと同じような創見を確立して、じかに人類社会の領域にもちこんで貢献したのが、近代社会主義の開祖マルクスである。
マルクスもまた、すべて従来の独断・迷信を排除し、人類社会の史的発展過程を研究して、社会進化の法則が、かならず社会主義に帰着しなくてはならない必然の筋道をあきらかにした。マルクスの『資本論』は、まことにダーウィンの『種原論』(『種の起原』)とならんで種子をおろした十九世紀の大作である。
だから、ダーウィンの進化説は、ほんとうにマルクスの資本論によって、はじめて大成されたものである。いったい、社会主義をさして進化説と矛盾する、というような論者は、まだ社会主義がわからないばかりでなく、また進化説もわからない者である。(幸徳秋水著『平民主義』中公クラシックス)

マルクス主義と進化論は一時期、このように幸福な関係にありました。
しかし、ダーウィンはジェントルマン階級の人間で、しかもイギリスでもっとも格式の高い社交クラブに属するような“最上級国民”でした。その階級的立場ゆえに、ダーウィンは進化論を人間に適用するときに間違いを犯したのです。
ダーウィンは『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』で進化論から見た人間を論じ、そこにおいて社会ダーウィン主義と優生思想を肯定し、人種差別を助長する考えを示しました。これ以降、社会ダーウィン主義と優生思想が社会を席巻し、ナチスによるホロコーストの悲劇も生まれました。
現在でも進化論によって人間を論じると、人種差別、社会ダーウィン主義、優生思想を肯定する間違いを犯す者が少なくありません(たとえば橘玲や竹内久美子など)。

ともかく、ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったので、マルクス主義と進化論はたもとを分かちました。
今ではマルクス主義と進化論に密接な関係があったことはほとんど忘れられているので、なぜマルクス主義が「科学的社会主義」を名乗っているのかわからない人も多いかもしれません。


ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったのは、あくまでダーウィンの間違いで、マルクス主義とは無関係です(ダーウィンの間違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく述べています)。
それとは別に、マルクス主義そのものに間違いがあります。


マルクス主義など社会主義思想は、経済体制の変革を目指すものですが、その根底には「人間解放」ということがあります。
人間解放の思想の源流は、ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』にあります。
『人間不平等起源論』の有名な一節を引用します。

ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言うことを思いつき、それを信ずるほど単純な人たちを見いだした最初の人が、文明社会の真の創立者であった。

このときから人間社会の不平等が始まって、それ以前の自然状態では平等だったというわけです。
マルクス主義が人間社会の最初の状態を原始共産制と見なしたのと同じです。

ルソーは、土地に囲いをすることを思いついた賢い人間と、それを信じた愚かな人間との間で不平等が生じたとしています。しかし、そんな自分に損になることを単純に信じる人間はいません。実際は土地の囲いを巡って争いがあったはずです。そして、強者が弱者に対して自分の言い分を通したのです。
つまり自然状態でも生物学的な強者と弱者がいました。ただ、その差はわずかでした。しかし、その差をもとにした社会制度ができると、社会的な強者と弱者が生まれ、その差はしだいに拡大してきたというわけです。

ともかく、不平等や支配は個人と個人の関係から生じるので、社会から不平等や支配をなくそうとすれば、個人と個人の関係から正していかなければなりません。

ところが、マルクス主義が問題にしたのは、奴隷と市民、地主と小作人、資本家と労働者という、生産関係における階級支配でした。
資本主義社会では、労働者階級が資本家階級を打ち倒せば人間解放という目的は達成されると考えたのです。
これがマルクス主義の根本的な間違いでした。
労働者階級が資本家階級の支配から解放されたとしても、さまざまな支配のひとつから解放されたにすぎません。

たとえばソ連においては、女性が職場や軍隊にも進出し、男女平等に近づいたようでしたが、党や国家の上層部は男性ばかりで、家庭内の性別役割分業も昔とほとんどかわりませんでした。
つまり女性は男性支配から解放されていなかったのです(フェミニズムがそれを明らかにしました)。


さらに、もうひとつの問題があります。
それは知識階級支配という問題です。
複雑化した現代社会では知識階級の力が大きくなりました。
社会主義運動も、労働者が主体であるというよりも、実質的には知識人が主導して行われていました。
とりわけマルクスやエンゲルスの書く文章はむずかしいので、知識人でないとなかなか理解できません。そのため労働者は読書会や学習会で知識人から学びました。
マルクス主義は「科学的社会主義」という“真理”なので、知識人はより“真理”に近い人ということになりました。
つまりマルクス主義には“知識階級独裁”という罠が隠されていたのです(これを“プロレタリアート独裁”という言葉でごまかしていました)。

革命が成功してソ連が成立すると、党や国家の上層部は知識階級によって占められました。
これはどんな国家でも同じですが、マルクス主義では知識階級支配に対して無警戒なので、ソ連は独裁国家になり、党幹部や国家官僚は特権階級化しました。
これがマルクス主義のもたらした最大の問題です。


マルクス主義は労働者階級が解放されればすべての問題が解決すると考えたのですが、実際には男性が女性を支配しているという問題があり、さらに、知識階級が非知識階級を支配しているという問題もありました。

つまりルソーが想像したように、強者と弱者が出会ったときに支配が生じるので、支配はいたるところにあります。
しかし、今のところ人間解放の思想としては、マルクス主義など社会主義思想とフェミニズム思想しかありません。
このふたつでは不十分です。
いちばん肝心なことが抜けています。

人間が生まれて最初に体験する支配は、親からの支配です。
親は子どもに対して圧倒的な強者です。
親は自分の子どもを思い通りにしようと教育・しつけを行い、「やさしい子になってほしい」とか「たくましい子になってほしい」とか「医者にしたい」とか「ピアニストにしたい」とか考えますが、こうした考えはすべて子どもの人生を支配しようとするものです。
そうしたことがまかり通っているので、悲惨な幼児虐待も起こります。

親子関係は人間関係の原点なので、親子関係に支配があることを理解すれば、あらゆる人間関係の支配が理解できるようになります。
人間社会の不平等や支配を解決するには、親子関係の改善から始めなければなりません。


このようにマルクス主義は、人間解放の思想としては、階級支配しか視野になくて、性差別も子ども差別も無視していたので、まったく不十分でした。

日本共産党の綱領には、フェミニズムが取り入れられて「ジェンダー平等」がうたわれています。
しかし、「子どもの人権」や「子どもの主体性」という言葉はなく、子どもは「教育の対象」ととらえられています。
また、「民主集中制」という言葉もあって、ソ連の独裁政治に対する反省も不十分です。


あと、社会主義経済はうまく機能するのかという問題もあります。
これは大きな問題なので、簡単には答えられませんが、中国もベトナムも市場経済を取り入れることで経済発展をしています。
市場経済を前提に貧富の差の解消をはかるというのが正しい道ではないかと思います。

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映画監督の榊英雄氏、俳優の木下ほうか氏、映画プロデューサーの梅川治男氏による性加害報道が相次いで、映画界のセクハラ体質が問題になっているところに、園子温監督も女優に対してセクハラ・性行為強要を行ったと週刊誌が告発しました。
園監督は謝罪文を公表しましたが、「ご迷惑とお騒がせ」をしたことを謝罪しただけで、告発内容については「事実と異なる点が多く」と、むしろ否定しています。

私は園監督のかなりのファンです。園監督は多作ですが、私はメジャー作品の8割ぐらいは観ていますし、園監督の書いた本も3冊読んでいます。
私は映画界全体のことはよくわかりませんが、園監督のことなら多少はわかります。
園監督によるセクハラ・性行為強要はあったのでしょうか、なかったのでしょうか。


園監督は『獣でなぜ悪い』という本の中で、映画監督と女優の関係についてこのように書いています。
僕は映画を撮っている最中、俳優をまずひとりの人間として見て、その存在を尊重することが大切だと思っている。
そして、基本的に女優とは恋愛関係になっていると思う。自分の希望とは違うキャスティングをプロデューサーとかから無理矢理当てられたとしても、一生懸命努力してその俳優を好きになり、本当に好きになっているような気になることができる。しかし、クランクアップした瞬間に、その気持ちはスッと消えていく。
あるいは、実際に恋愛をしている女優をキャスティングする場合もあるが、その場合は撮影後もそれが続いていることもある。とにかくどういう形であれ、撮影中は恋愛状態にあり、それが本気か本気じゃないかわからなくなるくらい夢中になっている。

吉高由里子さんや満島ひかりさんは園監督の映画に出演することで女優として高く評価されるようになりましたが、この二人は園監督にとっても特別な存在だったようです。
いま思えば、吉高や満島との仕事はエキサイティングだった。普通の女優と監督の関係は指揮者とオーケストラ奏者だと思う。しかし、彼女ら二人と僕はバンドのようだった。バンドは、オーケストラと指揮者よりもっとお互いの距離が近い。僕らは映画づくりにおいてバンド仲間のような「共犯関係」にあったと思う。
彼女たちとの出会いに共通するのは、ある種の「隙」だ。何か油断があるほうがいい。共犯関係に陥るような出会いにはさり気なさが必要だ。

園監督の演技指導はかなりきびしいようです。
映画「紀子の食卓」で吉高さんと吹石一恵さんは姉妹の役で出ているのですが、園監督は吹石さんにはきびしく当たらなかったといいます。
一方で吉高に対しては厳しく、ファーストテイクから数えきれないほどやり直させた。その回数は、朝から日が暮れるまでのあいだに百回くらいに及んだ。それは吉高が相手役の男の子と教室で二人きりで話すシーンだったから、彼もまた同じ演技を繰り返すことになって気の毒だった。しかし当の吉高はといえば、人生最初の撮影現場だったこともあり、それが普通だと思ったらしく文句も言わずに何度もやった。
演技は最初のシーンの最初のカットがいちばん大事だから、僕はそこで役者をこれでもかと追い込む。追い込むことで、役者の「演技なんてこんなもん」という思い込みを消し、緊張感を生み出し、役者を自分自身と向き合わせて、いまもっている殻を自分自身で破らせ、その人だけがもっているカラーを生む。厳しいことを言えば吉高も泣くことがあったが、僕は何のケアもしなかった。そうしたケアは、僕以外の誰かがしてくれる。

「きびしい演技指導」と「パワハラ」は紙一重です。
そこに園監督の場合は「恋愛関係」が入ってくるわけですから、「セクハラ」とも紙一重です。

それに、園監督の映画の特徴は、エロスとバイオレンスに彩られていることです。
そうなると、園監督のセクハラ・性行為強要は限りなくありそうに思えます。

園監督自身はそれを性行為強要と認識していない可能性があります。
たとえば『けもの道を笑って歩け』という本によると、園監督は「東京ガガガ」というパフォーマンス集団を主宰していたころ一回だけ関係を持った女性から、5年ぐらいたってから電話があってファミレスに呼び出されます。その女性は「私は組長の娘だけど、あのときあなたは私をレイプしたよね?」と言います。外を見ると、黒い車がずらっと並んで、ヤクザがこちらをにらんでいます。
連れていかれた組事務所は、建物の出入口からエレベーター、最上階の扉まですべてオートロックで施錠され、絶対に逃げ出すことはできない。事務所に入ると、ジャラジャラ鳴っていた麻雀の音がピタッと止まった。「オメエか。娘をレイプしたのは?」と組長に凄まれて目線を落とすと、ギザギザのガラスの灰皿が置いてあった。小説でよく、走馬灯のように人生が駆け抜けるというけどまったくそうで、いろんなことが思い起こされて、死ぬんだと覚悟しました。
こんな時、「レイプはやってません!」と事実を主張しても、ただの間抜け。灰皿でボコボコにされるのがオチです。せめて死ぬ時は明るくさわやかにいこうと、大声で「ヤリました~!」と言うと、チューイングガムのぺちゃくちゃが一斉に止まった。唖然とした組長が娘を見ると、バツの悪い顔をしたのでハッとした。レイプではないと気づいたのです。長い沈黙の後、「駅まで送ってやれ」と組長が言って無罪放免になりました。腹を括るしかなかっただけですが、結果的に、人生最高の選択になっていました。

園監督はこのエピソードを別の本にも書いていて、そこにははっきりと「僕はもちろんレイプなどしていなかった」と書いています。
私はこれを読んだときは、そのまま受け止めていましたが、よく考えるとおかしなところがあります。
完全な合意の上の性行為なら、5年もたってからこんな電話がかかってくるでしょうか。
実際は限りなくレイプに近かったのではないでしょうか。
組長の娘は、園監督が映画監督として売り出しているのをテレビなどで見て、レイプされたときの悔しさがよみがえり、仕返ししたくなったと考えると、一応腑に落ちます。

このように考えると、園監督のセクハラ・性行為強要疑惑は限りなく黒に近いと思えます。
もちろん断定はできませんが、黒という前提に立つと、ここは園監督がきちんと謝罪しなければなりません。
本人は納得いかない気持ちがあるかもしれませんが、組長に対して「ヤリました~」と言ったのと同じことです。映画監督生命を守るためにも謝罪するしかありません。


園監督が謝罪したとすれば、今度は世の中が園監督を許すか否かを問われることになります。
謝罪しても過去の罪は消えないという考えもありますし、そんな罪を犯した人間の映画なんか観たくないという人もいるでしょう。

私はというと、園監督の罪は許すべきだという考えです。園監督の映画のおもしろさは常識の枠を破ることにあるのですから、常識で裁いて、園監督の映画を排除するのはまったく愚かなことです。


先ほどの組長の娘に呼び出される話もそうですが、園監督はさまざまな常識外れの体験をしている人です。
たとえば園監督は17歳のときに家出して東京に出てきます。行くあてもなく駅前でギターを弾いていると、女性に声をかけられます。これは逆ナンパに違いないと思って、童貞を捨てるチャンスと女性をラブホテルに誘うと、女性もあっさりと了解していっしょにホテルに入ります。
そうすると、女性はこんなことを言います。
「実は旦那と喧嘩して家出してきて、田舎に帰ろうと思ってたんですが帰れない。あなたが拾ってくれたのもなにかの縁……」と言って、カバンから大きな植木バサミを取り出した。彼女は「これで一緒に死にましょう」と言う。
僕はあまりの展開になす術がなかった。殺される……もうこれまでかと思ったとき、彼女が、「二つの選択肢をあげる。ひとつはここで一緒に死ぬこと、もう一つは私の田舎に行って旦那になりすまして、私の母親と一緒に暮らすこと」と言った。つまり「sex or die」の二択だ。死にたくない……僕はもちろん田舎に一緒に行くことを選んだ。すると彼女は植木バサミをしまって、「じゃあ、セックスでもしますか?」と言ったが、僕はセックスなんかできる状態じゃなくなっていた。

園監督はタクシーで彼女の実家に連れていかれ、彼女の母親に「なんだかちょっと若いね」と怪しまれながら、しばらくいっしょに暮したということです。
このときの体験から、レンタル家族を題材にした「紀子の食卓」の発想が生まれました(先の組長の娘の話から、ヤクザの組長が自分の娘を主役にした映画を撮ろうとする「地獄でなぜ悪い」の発想が生まれます)。

園監督は途中で逃げ出すこともできたはずですが、わけのわからない状況に突っ込んでいくのが園監督の生き方です。

園監督は統一教会に入っていたこともあります。
五反田の駅前で「神を信じますか?」と声をかけられ、「信じたら飯が食えるのか?」と聞くと、「もちろん」と言うので、ついていきます。当時は貧乏だったので、ご飯にありつけるならなんでもよかったのです。教会に行くとご飯が食べられたので、教会に住むことになり、しばらく宗教理論の授業を受けたり、奉仕活動をしたりしていました。
「愛のむきだし」はオウム真理教をモデルにした映画ですが、統一教会での体験が下敷きになっています。

園監督がハリウッド進出を目指したときも、ハリウッド通の日本人と人脈をつくるより、渡米して直接人脈をつくったほうが早いだろうと判断して、2007年に実行します。20世紀フォックス、ソニー・ピクチャーズ、ディメンション・フィルムズなどを回って、偉い人に会わせてくれと警備員に頼んでいると、ハリウッド村は狭いので、へんな日本人がぐるぐる回っていると話題になり、20世紀フォックスの会長がおもしろがって会ってくれました。その後、ディメンション・フィルムズの社長、MTVの副会長、ソニー・ピクチャーズの人など、ありとあらゆる人に会ったそうです。
そして、園監督がハリウッドで初監督したニコラス・ケイジ主演の映画が2021年に公開されました。

普通の人なら尻込みするようなことでも突き進んでいくのが園監督流です。

合法・非合法という区分も園監督にとっては意味がないようです。
「東京ガガガ」というパフォーマンス集団で「ガガガ」と叫びながら道路を練り歩いていると、どんどん人数が増えて2000人ぐらいになりますが、デモの届けもなしにやっているので、毎回逮捕者が出ます。
また、渋谷のスクランブル交差点を占拠して、鍋を囲んで一家団欒をするというドリフターズのようなコントもしますが、これなど完全に道交法違反でしょう。

園監督の実質的にメジャーデビュー作となった「自殺クラブ」には、新宿駅などのホームで女子高生二、三十人が並んで手をつなぎ、一斉に電車に飛び込むというシーンがありますが、これはJRの許可なしにゲリラ的に撮影されました(実際には飛び込んでいません)。
今なら撮影手法が非難されて、映画の公開もできないかもしれません。

世の中が常識とか法律にとらわれていたら、園子温という才能は世に出ていなかったかもしれません。


もちろん性暴力はいけないことです。
園監督の作品はエロスとバイオレンスが特徴で、性暴力の場面も少なくありませんが、ベクトルは性暴力を否定する方向です。

映画界から性暴力を追放するのは正しいことですが、間違って映画から性暴力を追放するようなことはしないでもらいたいものです。


【追記】
私は園監督を高く評価しているのですが、評価する理由をはっきり書かなかったため、園監督の性暴力に寛容な印象を与える文章になったかもしれません。そこで、少し書き加えておきます。

園監督の父親は東大受験に失敗して外語大に行った人で、学歴コンプレックスを持っていて、園監督が幼いころから「お前は東大に行って、将来は官僚になるんだ」と言い聞かせ、口を開けば「勉強しなさい」と言っていたそうです。四角四面の堅物で、他人のことなど眼中になく、自分のことばかりしゃべっているような人です。
母親は、父親が黒と言えばなんでも黒、白と言えばなんでも白という人で、園監督にとっては存在しないも同然でした。父親からは「この子がだめなのはお前の血のせいだ」と繰り返し言われ、また祖父からは何度も殴られていました。しかし、実家の親戚などとお酒を飲んでいるときはよくしゃべり、別人のようだったというので、園家では自分を殺していたのでしょう。
園監督は家でも学校でも怒られてばかりだったので、通学路を歩いているときがいちばん楽しかったといいます。小学校では新聞部と放送部に所属して、新聞づくりや映像づくりをしていて、もしそれができなかったら自殺していたかもしれないということです。

このように自分の家族の問題を赤裸々に語れるのが園監督の特別なところです。
最近は家族の問題を描く映画がふえていますが、まだまだきれいごとの感じがします。しかし、園監督が描く家族は、負の側面まで深く掘り下げています。それは園監督自身の家族の問題とつながっているからでしょう。
園監督と女優の関係に不適切なところがあったとすれば、それは園監督の家族に負の側面があったことの反映でもあるでしょう。これを機に、それは克服してもらわねばなりませんが、園監督は2011年に神楽坂恵さんと結婚しているので、もはや過去のことである可能性もあります。

ともかく、園監督には家族の負の側面を描く映画作家として今後も活躍してほしいと願っています。(4月17日22時20分)


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