村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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菅義偉首相は「人間・菅義偉を育ててくれたのは、ふるさと秋田だと思っています」と言い、「ふるさと秋田」を繰り返し強調しています。
しかし、菅首相は高卒後秋田を離れ、横浜市議会議員になり、衆院選には神奈川二区から出馬し、現在までそこを地盤としています。
「ふるさと秋田」とは縁が切れてしまったようです。

ふるさとがだいじなら、ふるさとの家族もだいじなはずですが、菅首相は自分の家族のことをほとんど語りません。
これも不可解なことです。

菅首相は自分の生い立ちについて、秋田の貧しい農家の生まれだの、集団就職で上京しただのと言っていますが、実際のところ、生家はけっこう裕福な農家であったようですし、集団就職もあやしそうです。自分の苦労を“盛ってる”のではないかと疑われています。
集団就職か否かは大した問題ではありませんが、家族関係は重要です。人間形成に直結するからです。

そうしたところ、週刊朝日が菅首相の生い立ちについての記事を書いて、それが東京新聞のコラムに一部が紹介されました。

菅首相の生い立ち

このコラムから一部を引用します。
その生い立ちについて詳しく書いたのは「週刊朝日」9月25日号「菅首相の知られざる過去」。菅氏の亡き父親への十一年前のインタビューの再現だ。ずけずけと物を言う父親だったようで、息子の状況の経緯をこう話す。
「アレは全然勉強しなかったの。『バカか』と言ったの。北海道大を受けて弁護士か政治家になりたがっていたけれど、全然勉強しないから入れるわけないの」
この父親も死後、自分の発言がこんなふうに紹介されるとは思わなかったろう。菅氏の旧友たちは、大学受験に失敗した彼が、この父親から「お前はもう駄目だ」「農家を継げ」などと言われたことが、上京のきっかけだったのではと証言している。
この話を菅氏本人にぶつけると、こう語ったという。「東京に出ればいいことがあるかなと思って出てきたが、思い出したくない青春」。

父親が語った「全然勉強しなかった」「バカか」という言葉を使って菅首相批判をする人がいるようですが、これは夫婦喧嘩の一方の言い分を信じるのと同じで、間違っています。

父親の言葉を真に受けて「何が叩き上げの苦労人だ?怠け者の道楽息子やないか」とツイートした人に対して、人気ブロガーの斗比主閲子氏もこう反論しています。
私が記事を読んだ感想は、このTweetを書いている人とは正反対です。

というのも、父親が息子を「アレ」とか「バカ」とか呼んだ上に、大学受験に失敗したことで「お前はもう駄目だ」「農家を継げ」などと言っていたとしたら、時代もあるのは理解しつつも、この父親は相当毒親っぽい印象を受けるからです。
斗比主氏は「毒親っぽい印象」と遠慮した表現にしていますが、私は「毒親」と断定してしまいます。

菅首相が毒親から離れて都会に出てきたのは当然です。
そして、総理大臣にまで上り詰めたのですから、大したものです。

ここで日本国民はこういう事実に直面するわけです。

総理大臣の父親は毒親だった。

そんな個人的なことはどうでもいいと言う人がいるかもしれませんが、毒親は連鎖するので無視できません。
もちろん「自分の親は毒親だった」という認識を持てば、連鎖から逃れられます。

ですから問題は、菅首相は父親をどう思っているかということです。


菅首相は自分の家族についてほとんど語っていないのですが、「東洋経済ONLINE」の『第99代首相「菅義偉」を読み解く本人の言葉18選』という記事に、こんなことが書かれていました。

⑥ 「父親はどんな人」という質問に(14年2月取材)
 菅:戦前に南満洲鉄道に勤め、戦争に負けて帰ってきてからは、ボーッとしていたみたいです。いろいろなことをやろうとして、イチゴの栽培で米作りよりも収入を多くした。人はよかったが、だめなところも見てきた。親父より私のほうがはるかに緻密だと思う。

父親はイチゴ農家として成功し、いちご生産出荷組合の組合長や町会議員も務め、死後は旭日単光章を受章したということです。
ですから、菅首相としては「父親は社会人としては立派だったが、父親としてはだめだった」と言うところです。
ところが、逆に「人はよかった」と言っています。
「だめなところも見てきた」とも言っていますが、なにがだめかというと、自分の緻密さと比較しているので、ルーズとかいい加減とかだらしないとかいうことでしょう。
毒親という認識はないようです。


それから気になるのは、母親はどんな人だったかということです。
平均的な日本人は「父親は頑固なわからず屋だったが、お袋はやさしかった」という認識で、お袋への思いとふるさとへの思いが重なるものですが、私の知る範囲では菅首相は母親のことをなにも語っていません。
ウィキペディアにも母親は元教師と書かれているだけです。
菅首相にはお姉さんも二人いるのですが、お姉さんについてもなにも語っていないようです。

菅首相は家族への思いがなにもないのではないでしょうか。
そのため「ふるさと秋田」とは言っても、具体的なものがなにもなく、ふるさとへの思いが感じられないのです。

菅首相は国家観がほとんどない変わった政治家です。
父親を心の中で拒否しているので、そのため国家観がないのではないでしょうか(父親と国家は権力という点で似た存在です)。


菅首相が毒親を毒親と認識していないとすれば、それは自民党の価値観とも関わってきます。

最高裁は1973年に尊属殺人を特別に重罪にする規定を違憲だと判決しましたが、自民党が多数を占める国会は尊属殺規定を廃止または改変する義務があるのを無視して放置し続け、1995年の刑法大改正の際にやっと廃止されました。
「親が上、子は下」とするのが自民党の価値観です。その価値観に基づいて道徳教育が推進されてきました。

もし菅首相が自分の父親を否定するようなことを言ったら、自民党の価値観に反しますし、菅首相が非難されます。そのため菅首相はそういう認識を持つことを自分に禁じているかもしれません。

毒親を毒親と認識するか否かは政治的な問題でもあります。


毒親を毒親と認識しないと、自分に毒が回ってしまいます。
菅首相の政治には、規制改革やタテ割り打破など攻撃的なものはありますが、人に対するやさしさや温かさが感じられないと思うのですが、どうでしょうか。

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安倍首相が8年間で成し遂げた最大の功績は、憲法九条改正を完全に不可能にしたことでしょう。
菅政権は安倍政治の継承をうたい、改憲についても言及していますが、安倍政権にできなかったことができるとは思えません。

9月19日、安倍前首相は靖国神社を参拝しました。
首相を辞めてから参拝したということは、首相在任中に参拝することはできなかったということです。それはこれらからも同じでしょう。

これから日本の政治は、改憲論議や靖国参拝問題などにむだな時間を費やさなくてよさそうです。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げていましたが、別な形でそれが実現しました。


では、今後なにが政治の争点になっていくかというと、やはり格差問題でしょう。
格差問題は、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で指摘したように、世界的に拡大し続けていて、日本も例外ではありません。

自民党は金持ち優遇、格差容認の政党です。
自民党は2010年に新綱領を制定したときから、「格差や貧困は本人が努力しないせいである」という理屈を用意していました。

平成22年(2010年) 綱領

新綱領はそんな長い文章ではありませんが、その中に「努力」という言葉が6回も出てきます。
その部分を抜き出してみます。

我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。
   *
我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。
   *
日本の主権は自らの努力により護る。
   *
努力するものが報われ、努力する機会と能力に恵まれぬものを皆で支える社会。その条件整備に力を注ぐ政府

「努力する者が報われる社会」を自民党は目指しています。
その社会は「努力しない者は報われない社会」でもあります。
そのような社会をつくるには、「努力する者」と「努力しない者」を識別しなければなりませんが、それは不可能です。
なぜなら、「努力」には客観的な基準がないからです。

福祉の窓口で「努力する者」と「努力しない者」、「働き者」と「怠け者」を識別しようとすると、担当者の恣意的な判断になり、現場が混乱するだけです。

「努力する者」と「努力しない者」、「働き者」と「怠け者」という考え方は一般社会には存在しますが、学問の世界や行政など公の世界ではありえません。

ちなみに経済学は「経済人」ないし「合理的経済人」という人間観をもとにしていて、「働き者」と「怠け者」がいるというような人間観は採用していません。

「よい人」と「悪い人」にも客観的な基準がないので、「悪い人」だからといって逮捕・投獄されるようになったらたいへんです。
そうならないように膨大な刑法の体系をつくって、それを客観的な基準にしています。
自民党も「努力」を重視したいなら、「努力」の客観的な基準をつくるべきです。


もちろん自民党にそういう考えはありません。
自民党は「努力」を経済学や法学の問題ではなく、道徳の問題としてとらえているのです。
自民党は昔から道徳教育を推進し、今では道徳の教科化に成功しました。
子どもだけでなくおとなに対しても「人間は努力するべきだ」という道徳を教えているつもりなのでしょう。

もっとも、全国民に対して教えようということではありません。
「真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち」とあるように、自民党は富裕層の側に立っているのです。

これは前回書いた「『共助の衰退』という現実を前にして」いう記事で引用した自民党ホームページにも同じ意味のことが書かれています。
自民党は、タックス・ペイヤー(納税者)重視の政党です。
わが党は、汗を流して懸命に働き納税義務を果たしている人々が納得できる政治を行います。『自助・共助・公助』の考えを基本に、“がんばる人が報われる政治”を実現します。
https://www.jimin.jp/news/policy/130412.html
高額納税者(富裕層)が納得できる政治をすると宣言しています。
自民党は国民政党ではなく階級政党になったのです。
富裕層が納得できるように、「努力しない者」への公助をできる限り削減するというわけです。


菅義偉首相は自分の政治理念として「自助・共助・公助、そして絆」を掲げていますが、これは、新綱領制定に寄せて書かれた谷垣貞一総裁(当時)の次の一文からパクったのかもしれません。
この綱領の精神は、時代の流れの中でも普遍的な価値を持つものであるとともに、自助・自立を基本としながら、困っている人がいればお互いに助け合う共助の精神を大切にし、さらには国が力強く支える公助があるという、私の考える「絆」の政治、「おおらかな保守主義」と通ずるものでもあります。
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/aboutus/kouryou.pdf

抽象的な発想が苦手の菅首相は、自民党の綱領を読み込んで自分の政治理念としたのでしょう。


なお、先ほど経済学は「経済人」ないし「合理的経済人」という人間観をもとにしていると言いましたが、そうではない経済学者もいます。それは竹中平蔵氏です。
竹中氏はかつて若い人に対して、「みなさんには貧しくなる自由がある」「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と語ったことがあります。
竹中氏が富裕層の立場から貧困層を切り捨てていることがよくわかります(このことは「竹中平蔵教授のトンデモ発言」という記事に書きました)。

自民党の綱領に竹中氏の思想が反映されているということは十分に考えられます。


菅新政権が誕生し、野党が合同して新しい立憲民主党も生まれました。
自民党が富裕層を代表する政党なら、対立軸もおのずと見えてきます。

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菅義偉首相の掲げる政治理念「自助・共助・公助、そして絆」が議論を呼んでいます。

「自助を筆頭に挙げるのは、弱者切り捨ての新自由主義思想だ」とか「公助をどうするかが政治家の役割だ。自助や共助を言うべきではない」というのが主な批判です。
賛成意見は「当然のことを言っているだけ」といったものです。


この理念は菅首相個人のものというより自民党のものです。
自民党は下野していた2010年に新綱領を制定しましたが、その中に「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」とあります。

自民党のホームページにもこう書かれています。
自民党は、タックス・ペイヤー(納税者)重視の政党です。
わが党は、汗を流して懸命に働き納税義務を果たしている人々が納得できる政治を行います。『自助・共助・公助』の考えを基本に、“がんばる人が報われる政治”を実現します。
https://www.jimin.jp/news/policy/130412.html
脱税している人以外は全員「納税義務を果たしている人々」ですし、消費税があるので、日本人は全員が「タックスペイヤー」です。
しかし、自民党が重視する「タックスペイヤー」とは、そういう一般人ではなく、高額納税者、つまり高所得者のことでしょう。
また、「汗を流して懸命に働き」という言葉は、病人や障害者の除外を意味しますし、“がんばる人が報われる政治”は、“がんばらない人は切り捨てる政治”でもあります。

つまり自民党は完全に新自由主義の政党になったのです。
このとき自民党は下野していたので、民主党との差別化をはかるために新自由主義路線を明確化したということもあるでしょう。


ともかく、自民党は綱領にもあるように、「自助」を重視し、「共助」と「公助」は補助的な位置づけにしています。
「自助」重視が新自由主義路線だとすれば、福祉国家路線は「公助」重視ということになります。
今、このふたつの路線で対立が起きています。



こうした議論からすっぽり抜け落ちているのが「共助」の部分です。「共助」をどうとらえるかが実はいちばん重要なところです。

菅首相は新総裁に選出されたあとの記者会見で、「自助・共助・公助」を説明して、「まず自分でやってみる。そして地域や家族がお互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りをします」と語りました。
つまり「共助」とは、家族や地域の助け合いです。

しかし、誰かが失業したとき、地域の人が生活のささえになってくれるかというと、そんなことはありません。そこは家族しかありません。
つまり「共助」とは実質的に家族の助け合いです(災害時や緊急時は地域の助け合いがだいじです)。

しかし、家族の構成員の数は文明の進歩とともにへる傾向があって、大家族から中家族、核家族となり、最近はシングルマザーなど一人親家庭がふえています。
大家族であれば、一人ぐらい失業者がいても抱えていけましたが、核家族や一人親家庭ではそうはいきません。


人類の歴史は家族崩壊の歴史である――と、なにかの名言風に言ってみました。
人間は家族的な人間関係から逃げたいようなのです。

昔は家族以外にも家族的な人間関係がいたるところにありました。

前回の「個人崇拝の時代」という記事に「パターナリズム」という言葉を紹介したのですが、あまり一般的でない言葉なので、気になっていました。
よく考えると、「パターナリズム」などという言葉を使わずに、「家族主義」という言葉でよかったのです。

1970年代、私は中小企業向け経営雑誌の編集部にいたことがあるのですが、当時の中小企業経営者のほとんどが、人手がほしいこともあって、「わが社は家族主義経営だ」と言っていました。ドライな雇用関係ではなく、人情味のある会社だということです。従業員のために独身寮をつくって、社長の奥さんが面倒を見ているというのもよくありましたし、女性従業員に花嫁修業をさせて、うちから何人嫁に出したということを自慢する経営者もいました。

江戸時代の落語には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言いながら、間借り人のお節介を焼く大家がよく出てきます。
昔の徒弟制度の親方と弟子の関係というのも、要は家族主義です。
ヤクザの親分子分の関係も家族主義です。家族のいないはみ出し者は、ヤクザ組織という疑似家族の中に居場所を見つけるということがありました。
また、昔の家族は「居候」というのを抱えていることがよくありました(今「居候」はほぼ絶滅したでしょう)。
ついでにいえば、「日本人はみな天皇陛下の赤子である」という戦前の日本は、国全体が家族主義だったといえます。

こうした家族主義もどんどんすたれていきました。
というのは、中小企業の家族主義経営も、従業員のほうはドライな雇用関係を望んでいたということがあるからです。

田舎には濃密な人間関係がありますが、多くの人はそれよりも都会の希薄な人間関係を好むのが事実です。
それと同様に、家族も家族主義も崩壊し続けてきたのが人類の歴史です。


その原因については改めて論じたいと思いますが、ともかく「共助」を担う家族や家族主義が崩壊し、機能を縮小しているのが現実です。

そうした現実を反映して、シリアスな小説、映画、ドラマのほとんどは家族崩壊の問題を扱っています。
一方、よい家族を描くものとして「サザエさん」や「寅さん」や小津映画がありますが、これらはすべて“古き良き時代”のものとして認識されています。

「サザエさん」や「寅さん」はフィクションなので問題ありませんが、困るのはNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」です。現実にはさまざまな家族があるのに、この番組はいい家族ばかり紹介して、国民に偏見を植えつけています。この番組は「突撃!隣の家族」というタイトルに変えて、どんな家族も分け隔てなく紹介する番組にするべきです。

自民党も家族の現実を直視せず、“古き良き時代”の家族を夢見ています。
自民党が夫婦別姓に反対し続けているのは、「家族の絆を壊すから」という理由からですが、夫婦別姓とは関係なく家族の絆は壊れ続けています。

2008年、リーマンショックが起き、大量の派遣切りが出たとき、会社の寮などで生活していた人が行き場を失うということがありました。
普通なら会社の寮を追い出されたらとりあえず実家に帰るでしょうが、帰るべき実家のない人がたくさんいたのです。

家族崩壊が進んで「共助」が機能しなくなっている現実があらわになりました。

このときNPOや労働組合によって「年越し派遣村」が日比谷公園内につくられました。
そのときは自民党の麻生内閣でしたが、厚生労働省が講堂を宿泊所として提供するなど年越し派遣村に協力しました。
「共助」が機能しないなら「公助」で支えるしかないという認識が自民党にもあったのでしょう。


しかし、その後自民党は新自由主義政党に変質しました。それまでは多分に家族主義的な政党だったと思います。

自民党や菅首相は「自助・共助・公助」と三つを同列に並べますが、これが間違いのもとです。
歴史的に「共助」が衰退するという現実があって、今はそれにどう対処するかが問われているのです。

「共助」が衰退した分を「自助」で補うか「公助」で補うかといえば、結論は明白ではないでしょうか。

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9月16日、菅新内閣が発足しました。
安倍首相が辞任表明をしたのは8月28日です。その時点で、菅義偉氏が首相になると予想していた人がどれだけいたでしょうか。

自民党総裁選が菅候補の圧勝だったのは、派閥力学だけでは説明できません。地方票もかなり菅候補に流れました。
国民の人気も、それまでは石破茂候補がトップでしたが、あっという間に菅候補が上回りました。
共同通信社が8、9両日に実施した世論調査では、次期首相に「誰がふさわしいか」と尋ねたところ、菅義偉官房長官が50・2%でトップ。石破茂元幹事長が30・9%、岸田文雄政調会長が8・0%となりました。

これはやはり安倍首相が菅氏を後継指名したからでしょう。
安倍人気が菅人気にシフトしたのです。

今、私は「安倍首相が後継指名した」と書きましたが、安倍首相は公では後継指名はしていません。
そのためマスコミも「安倍首相が後継指名した」とは書きません。
代わりに「二階幹事長の手腕で菅支持の流れをつくった」とか「五派閥の結束で菅氏が当選した」などと書いています。
しかし、二階幹事長が手腕を発揮したのも、五派閥が結束したのも、すべて安倍首相の意向を受けたものに決まっています。


これまで安倍首相と菅官房長官は一心同体で政権運営に当たってきました。
今回、裏の顔だった菅官房長官が表の顔になり、安倍首相は裏に回りました。
菅政権はいわば二人羽織りで、菅氏が顔で、安倍首相が裏から手を動かすという分担です。

国民もそのことをわかっています。菅氏個人を支持する国民がそんなにいるとは思えません。裏に安倍首相がいるから菅氏を支持しているのです。


8年間という史上最長の政権は、国民の意識を大きく変えたようです。
国民は安倍首相を“個人崇拝”するようになったのです。

個人崇拝においては、政策はどうでもいいことです。
安倍応援団はみな反中国ですが、安倍首相が習近平主席を国賓として招待することを決めても安倍支持に変化はありませんでした。

石破氏は正統な保守で、安倍首相以上のタカ派です。しかし、安倍応援団は石破氏が反安倍の態度をとってきたというだけで、「後ろから鉄砲を撃った」と言って石破氏を非難しました。
そして、国民もけっこうそれに同調して、石破氏の人気は低下しました。


国家指導者の個人崇拝は今や世界的傾向です。
どこの国と言うまでもなく、世界の主要国のほとんどがそうです。

昔は、国家指導者のあり方というのは、新聞記事を通してしか知ることができませんでした。
それが今やテレビとインターネットを通して、国民は指導者を身近に感じることができます。
そうすると、国民は指導者に対して家族のような親しみを感じます。
国家指導者個人と国民一人一人が対峙すると、圧倒的な力の差があります。
人間がこのような力の差を体験するのは、子どもが親に対峙したときだけです。
ですから、国民は指導者を身近に感じると、自分の親(とくに父親)を想起し、イメージを重ね合わせます。

親子関係が社会関係に反映されることはパターナリズムと呼ばれます。
ウィキペディアにはこう説明されています。
パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている。

日本語では家族主義、温情主義、父権主義、家父長制、中国語では家長式領導、溫情主義などと訳される。語源はパトロンの語源となったラテン語の pater(パテル、父)である。同じ語源をもつ英語の「ペイトロナイズ(patronize )」では「子供扱いをする・子供だまし(転じて「見下す・馬鹿にする」とも)」という意味になる。

温情主義と父権主義ではずいぶん意味が違いますが、それは実際の父親がさまざまだからです。強権的な父親もいましすし、温情のある父親もいます。

パターナリズムは上から見た言葉ですが、国民一人一人の心理に注目すると、社会の権力関係に親子関係が投影されることになります。
早い話が、テレビで安倍首相の顔をいつも見ていると、無意識のうちに自分の父親の顔が重なってきて、父親に対する愛憎が安倍首相に向けられるというようなことです。
愛憎といっても、愛が向けられるか、憎しみが向けられるかでぜんぜん違ってきます。
そういうことから安倍応援団と反安倍派に分かれるということも言えます。

少しでも心理学をかじったことのある人なら、親に対する感情が他人や社会にも向けられるということは理解できるでしょう。
こういうことは政治心理学としてもっと研究されていいはずです。


この心理をもっとも巧みに利用したのがヒトラーです。
ヒトラーは激しい調子の演説で父親のような強さを示し、一方で、笑顔で子どもの頭をなでたり赤ん坊を抱き上げたりするパフォーマンスでやさしい父親を演じました。

レーガン大統領は包容力のある父親像を演じて人気になりました。
トランプ大統領は、暴力と暴言の父親像を演じています。
アメリカの家庭にDVが蔓延している反映でしょうか。

安倍首相は野党を攻撃したり、スキャンダルを強引に封印したりすることで強い父親像を演じたのかなと思います。


国民が国家指導者を父親のように見なすと、指導者は超法規的存在になります。
誰も自分の家族が犯罪をしても警察に売ろうとしないのと同じことです。

トランプ大統領は山ほど嘘をつき、公私混同をし、疑惑の行為も山ほどしていますが、支持者はまったく気にしません。
安倍首相も、モリカケ問題、桜を見る会問題などで追及され、公文書改ざん、記録廃棄などが明白になっても、支持者は気にしません。

知識人はこういう事態を理解できていないようです。
知識人は「法の支配」を適用すべきだと思っているのですが、支持者は家族関係に「法の支配」を持ち込むべきでないと思っているのです。

今後は国民のこうした「政治心理」に光を当てていく必要があります。



ところで、菅首相の就任記者会見を見ました。


言葉に力がなく、権力者らしいところがまったくありません。
むしろ弱々しく見えて、心配になるほどです。
もっとも、これまで裏では権力をふるってきたわけです。

裏の顔が表の顔になって、今後どうなるのか、見ていきたいと思います。

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人種差別問題で揺れるアメリカにおいて、ハリウッドは人種差別反対に熱心だとされています。
ハリウッドの大勢はリベラルで、反共和党、反トランプですし、最近はマイノリティに配慮した映画づくりをしているようです。
そして、9月9日、アカデミー賞の作品賞の新しい選考基準が発表され、そこでもマイノリティに配慮した基準が示されました。

『アカデミー賞、作品賞の新基準を発表 「主要な役にアジアや黒人などの俳優」「女性やLGBTQ、障がいを持つスタッフ起用」など』

これに対して「ハリウッドはリベラルに乗っ取られた」「ポリコレばかりの映画はつまらない」「アカデミー賞が黒人ばかりになってしまう。逆差別だ」などの声が上がっています。

こんなことを言う人は、これまでのアカデミー賞が白人ばかりのものだったことが見えていないのでしょう。
というか、ハリウッド映画は人種差別、性差別を助長するようなものばかりでした。

ですから、私などは、ハリウッドがマイノリティ尊重だとか言っても、うわべだけではないかと疑ってしまいます。

たとえば、社会における女性の地位向上を反映して、最近はハリウッド映画でも会社や組織で高い地位についている女性がよく登場します。主人公(男性)の上司が女性であるというケースもしばしばです。
ところが、こうしたケースはたいてい、女性上司は冷酷なもうけ主義者だったり陰謀をたくらんでいたりする悪役です。
こうしたケースはあまりにもありふれていて、今、具体的なタイトルが思い浮かびませんが、「あるある」と納得する人が多いのではないでしょうか。

映画会社の偉い人は、女性軽視と見られないために高い地位の女性を登場させなければならなくなったとき、「そうだ、この悪役を女性に演じさせよう」といった感じで、自分の性差別意識をもぐり込ませるのでしょう。

映画の中で高い地位の女性が悪役ばかりだと、女性が高い地位につくのはよくないという風潮が形成されかねません。


今回作成された新基準は、A、B、C、Dと4つあって、そのうちの2つを満たせばいいことになっています。映画の内容に関する基準はAだけで、あとの3つはスタッフにマイノリティを起用するといったものです。

そのAの基準は次のようなものです。

(A)作品のキャスティングやテーマ

 ・主役または重要な助演俳優に、少なくとも1人は、アジア人、ヒスパニック系、黒人・アフリカ系アメリカ人、ネイティブ・アメリカン、中東出身者、ハワイ先住民含む太平洋諸島出身者など、人種または民族的マイノリティーの俳優を起用しなければならない。

 または

 ・二次的およびマイナーな役の少なくとも30%は、女性、人種/民族的少数派、LGBTQなどの性的マイノリティー、障がい者のうち2つのグループの俳優を起用しなければならない。

 または

 ・作品のストーリーやテーマが、女性、人種/民族的少数派、LGBTQなどの性的マイノリティー、障がいを持つ人などをあらわすものである。


重要な助演俳優にマイノリティを起用するというのは、すでにかなり行われていますから、それほどきびしい基準ではありません。
それに、Aの基準を満たさなくても、B、C、Dのうちの2つを満たせばいいので、かなり甘い基準といえます。

ただ、煩雑な基準ではあります。「ポリコレにはうんざりだ」と言いたい人の気持ちがわからないではありません。


映画で重要なのは主役です。主役が男性か女性か、白人か黒人かで、その映画はまったく変わってきます。
ところが、この新基準は「主役または重要な助演俳優」となっていて、しかも「マイナーな役の少なくとも30%」をマイノリティにすればいいという抜け道があるので、すべての主役を白人男性にすることが可能です。


2008年制作の「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド監督・主演)という映画があります。ウィキペディアを参考に物語を紹介します。
デトロイトに住むコワルスキー(クリント・イーストウッド)は長年自動車工場で働いて今は引退し、グラン・トリノ(古きよきアメリカ車)を愛車にしていますが、街には日本車があふれ、住人もアジア系が多くなっています。がんこさゆえに息子たちにも嫌われ、限られた友人たちと悪態をつつき合い、国旗を掲げた自宅のポーチで缶ビールを飲んですごしています。今の典型的なトランプ支持者のような設定です。
隣家にモン族(中国やベトナム原住)の姉弟が住んでいますが、差別主義者のコワルスキーは相手にしません。しかし、不良にからまれているのを助けたことから親しくつきあうようになり、最後は凶悪なギャングから姉弟を救い、感謝と敬意を捧げられます。
コワルスキーは最初から最後まで差別主義者のままなのですが、最後は自分が差別している相手から感謝と敬意を捧げられるという、なんとも好都合な展開になっています。

クリント・イーストウッドは、マイノリティに配慮しなくてはいけないというハリウッドの空気を敏感に察知してこの映画をつくったのでしょう。
登場人物の多くは隣家の姉弟、不良、ギャングというアジア系なので、「マイナーな役の少なくとも30%」をマイノリティにするという基準は楽にクリアしています。
しかし、いくらマイノリティがたくさん登場しても、みんな主人公の引き立て役と敵役です。

「ダイ・ハード」シリーズや「ランボー」シリーズには、中東のテロリストを殺しまくるのがありますが、これもマイノリティが一定数以上登場するという基準に合っていることになります。

エンターテインメントのストーリーの基本は、善人が悪人に苦しめられているところに正義のヒーローが登場して、悪人をやっつけ、善人を救うというものです。
正義のヒーローからすれば、善人は引き立て役、悪人は敵役です。
引き立て役や敵役にマイノリティが多くいても、たいした意味はありません。

正義のヒーローがつねに白人男性であることこそハリウッドは改めるべきです。


「黒人俳優ランキング」で調べると、トップはウィル・スミスであるようです。
ウィル・スミスの主演作はいっぱいありますが、たとえば「メン・イン・ブラック」シリーズは、敵役が人間でなくエイリアンです。「アイ・アム・レジェンド」は、地球最後の男という設定ですし、「アフター・アース」は人間のいない異星で息子とともにサバイバルする物語です。
正義のヒーロー役はあまりやっていないのではないでしょうか。
少なくともブルース・ウィリスやシルベスター・スタローンのように悪人を殺しまくる役はやっていません。

白人俳優は正義のヒーローとして人を殺す役ができるが、黒人俳優に同じ役ができないとすれば、これは白人至上主義にほかなりません。

ハリウッドはリベラルだといっても、所詮は白人富裕層が支配するところです。

「マイナーな役の少なくとも30%」をマイノリティにするなどという基準はほとんど意味がなく、むしろごまかしです。
ハリウッドが人種差別撤廃に本気なら、「マイノリティが主役の映画を少なくとも30%にする」という基準をつくるべきです。

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