村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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最近、違法アップロードをしないように訴えるテレビ広告が盛んに放映されています。
私はてっきり、法律が改正されたので、それを告知する広告をやっているのかと思いましたが、法律改正とは関係ないようです。

この広告は、日本民間放送連盟が放送番組の違法配信撲滅キャンペーンとして始めた「違法だよ!あげるくん」というシリーズです。
「あげるくん」「タメヨちゃん」に犬のお巡りさん(?)の「トメ吉」というキャラクターが出てきます。
昭和っぽい雰囲気に、アニメのキャラクターがかわいくて、全体的な印象はいいのですが、実は大いに問題なところがあります。




「トメ吉」は、見た目はかわいいのに、声が太くて、脅かすように「つかまるよ、マジで」などと言うのが不愉快だという意見があります。
確かに不愉快ですが、それは声や言い方だけの問題ではありません。

この広告にはいろいろなバージョンがありますが、代表的なものを書き起こしてみます。

「あげるくん、遊ばないの?」
「昨日の番組をネットにあげてから」
「またか」
「暇か」
「見られなかった人のためにあげているんだよ」
「違法」
「えっ?」
「それ、無断アップロードっていって違法だから」
「はいはい、わかりました」
「つかまるよ、マジで」

あげるくんは「見られなかった人のためにあげているんだよ」と言って、自分はいいことをしているんだと主張しますが、トメ吉はそれが悪いことだという説明をせずに、「違法だから」「つかまるよ、マジで」と言うだけです。

ほかのバージョンもすべて同じです。

「ドラマを録ってネットにあげるのは違法って言ったよね」
「でも、みんなのために僕は法を犯すのでーす」
「10年以下の懲役または1000万円以下の罰金、もしくは両方」
「バレなきゃいいんじゃない」
「バレるから。それがネットだから」
  *
「昨日のドラマ、みんなのためにアップしてあげよう」
「違法」
「えっ?」
「つかまるよ、マジで」
  *
「この番組、最高。SNSで拡散だな」
「それ、無断アップロードっていうんだよ」
「みんなが喜ぶんだよ」
「つかまるよ、マジで」

どれもみんなのためにやっている行為が「違法」として否定されます。
これでは道徳的な行為を法律が否定していることになります。
おとななら著作権法の趣旨を理解しているので、自分の頭の中で補いをつけることができますが、子どもがこの広告を見たら、理不尽な法律があるなと思うでしょう。
いや、この世界はみんなのためになることをすればつかまってしまう理不尽な世界だと思うかもしれません。

おとなが見ても、なんの説明もせずに「違法」だの「つかまるよ、マジで」だのと言われるのは不愉快です。
子どものころ、頭ごなしに説教されたことが思い出されます。

「有害CMだ」という声が高まっても不思議ではありません。


不愉快でない広告にするには、違法アップロードがなぜいけないかを説明することです。
「みんなのためにアップしてあげよう」という主張に対しては、「みんなのためっていうけど、番組のつくり手のことは考えてないよね」とか「それは将来の有料配信の利益を奪うことになるよ」とか言ってから、「つかまるよ、マジで」と言えばいいのです。

この広告のつくり手は、国民など頭ごなしに言ってやればいいのだと思っているのでしょうか。

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7月10日、都内の新型コロナウイルスの感染者は243人と過去最高を記録しました。
全国でも430人で、過去最高だった4月11日の720人に迫っています。
しかし、新たな休業要請などは行われず、東京アラートなどもどこかに消えてしまいました。
逆に政府は、8月中に開始する予定だった「Go Toキャンペーン」を前倒しして7月22日から開始すると発表しました。

経済を回復させるために消費を喚起したいという狙いはわかりますが、いろいろな消費喚起のやり方がある中で、なぜ旅行や観光の振興を優先するのでしょうか。
人が動けば(とくに東京から動けば)、感染が拡大します。

感染の恐れがなくなれば、キャンペーンなどしなくてもみんな旅行するようになります。
キャンペーンの費用を休業補償に回して、感染を抑えることを優先させたほうがいいと思うのですが。

小池都知事は都内での感染拡大を受けて7月4日、都民に不要不急の都外への移動自粛を要請しましたが、西村経済再生担当相は7日の記者会見で、政府としては移動の自粛は求めない考えを示し、菅官房長官も一律に県をまたいだ移動を自粛すべきとは考えていないと述べました。
政府と都が一致していないと問題になりましたが、西村経済再生担当相は8日の衆院内閣委員会で「小池都知事と考えは一致している」と述べたので、小池都知事が政府の方針に合わせたのでしょう。

政府は旅行や移動の推進だけでなく、イベント開催も推進します。

イベント観客5000人容認…政府、8月以降は人数制限の撤廃想定
 政府は10日、新型コロナウイルス対策で行ってきたイベント開催制限を緩和し、5000人の観客入場を認めた。22日から始める旅行などの需要喚起策「Go To キャンペーン」と合わせ、社会経済活動の再開をさらに進める方針だ。

 今回の緩和では、コンサートやプロスポーツなどは屋内、屋外とも入場者数が5000人以内、もしくは収容人数の50%以内のいずれか厳しい方の条件で開催できるようになった。政府は、おおむね3週間ごとに緩和を行っており、8月以降は5000人の人数制限の撤廃を想定している。

 菅官房長官は10日の記者会見で、東京都内などで感染者が増えていることに関し、「感染リスクをコントロールしながら、段階的に社会経済活動のレベルを引き上げていくことを基本的な考え方としている」と述べ、制限の緩和方針を維持する考えを示した。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200710-OYT1T50281/amp/

感染拡大などおかまいなしに、「緩和ありき」でスケジュール通りに進めています。

政府のこうした方針は、西村経済再生担当相が6月24日、専門家会議を廃止すると表明したときには決まっていたのでしょう。
この廃止表明は唐突な感じで、混乱が生じましたが、もちろん西村経済再生担当相の思いつきなんかではなく、政府の方針によるものです。
専門家会議の後継組織として発足した新型コロナウイルス感染症対策分科会には複数の経済専門家が入りました。
つまり政府の方針は「感染防止から経済回復」へと転換したのです。

いや、これは正確な表現ではありません。
政府が感染症の専門家と経済の専門家の両方の意見を聞いて、経済を重視するというのなら、通常の意志決定です。
政府がやったのは、感染症の専門家と経済の専門家をいっしょにして、感染症の専門家の意見をわからなくすることです。
なにかよくない意図が感じられます。

「Go Toキャンペーン」の前倒しを見て、世の中には、政府はわざと感染を拡大させようとしているのではないかという声まであります。
常識的にはそんなことはないと思うでしょうが、絶対にないとは言えません。
政府が意図的に感染拡大をする理由を考えてみました。


国別の感染レベルを見てみます。

人口当たり感染者数
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-chart-list/

アメリカは日本の重要な同盟国であるのに、感染レベルが極端に違います。

アメリカ「日本はどうしてそんなに感染者が少ないんだ」
日本「民度が違うからです」
アメリカ「…………」
日本「おわかりですか」
アメリカ「いずれにせよ、こんなに感染レベルが違うのはよくない。なんとかしろ」
日本「わかりました。日本の民度をアメリカに合わせます」

こんなやり取りがあったかどうかわかりませんが(あるわけないですが)、アメリカに要請されたか、日本が配慮したということはありえます。

ちょうどこんなニュースもありました。

沖縄の米軍でコロナ大規模感染を確認 複数施設で60人超との情報【7月11日】 
 沖縄県内の米軍基地で11日までに60人超が新型コロナウイルスに感染したことが確認された。複数の関係者が明らかにした。うち38人は普天間飛行場で確認されているという。基地内で「クラスター(集団感染)」が発生しているとみられる。

 6月と7月に県内中部で大規模なバーべーキューパーティーが開かれ、米軍関係者や日本人も参加していた。イベントに参加していた米軍関係者らは隔離されているとの情報もある。【琉球新報電子版】
https://news.yahoo.co.jp/articles/9bef581a3f9a3a279e1d026ee1984367b6080905
あまり日米の感染レベルが違うと、自衛隊と米軍の連携にも支障が出ます。
それに、安倍首相は8月下旬にもアメリカで開催されるG7サミットに行かねばなりません。

いや、日米間のことだけではありません。
来年東京オリンピックが開催されれば、世界各国の選手団と観光客がやってきます。
日本だけ感染レベルが低いと、感染レベルの高い外国の選手団や観光客を受け入れるべきでないという声が高まります。
つまり日本の感染レベルが低いと、オリンピック開催の妨げになるので、今から感染をふやして、それに慣れておくのは賢明なやり方です。

いずれにしても、現在のように各国で極端に感染レベルが違うと、国際交流がうまくいきません。
いずれWHOかどこかが音頭をとって、感染レベルの国際標準がつくられるかもしれません。
そうすると、今むやみに感染を抑え込んでもむだになってしまいます。


今、新型コロナによる日本の死者は1000人程度です。
肺炎の死者は毎年9万人余りですから、冷静に考えると、新型コロナはぜんぜん大した病気ではありません。
アメリカみたいに感染が拡大するのは困りますが、これからは「国際標準」ということを意識していいかもしれません。

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幼児虐待の原因のひとつに、家庭が密室化していることが挙げられます。
大家族や地域社会の中で子どもが見守られていれば、虐待はそんなに起こりません。
ですから、各人が近所の子どもの様子を気にかけて、声かけしたりするのもたいせつです。

しかし、「子育ては親の専権事項」とでもいうのか、外部の口出しを嫌う親も多いようです。
確かに無責任な口出しは困りますが、口出しを拒否する親も問題です。

次はたまたま見かけた記事で、子育てへの他人の口出しを親が拒否するのですが、親の理屈がそうとうへんです。にもかかわらず、親に賛同する声が多いというので首をかしげてしまいます。


スーパーで「お菓子欲しい」とごねる息子すると知らないオジさんから『衝撃の言葉が』ネット民「素晴らしい考えと返し」
Twitterでこんなツイートが話題です。

「スーパーでお菓子欲しいとごねる3歳息子をたしなめてたら、知らんおっちゃんから「お菓子の一つくらい買ったらすぐ終わるだろうに」と言われ、買った方が楽なことくらい百も承知じゃクソが!!の代わりに「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したので5億ほしい。」

すんなりと子どもの言うことを聞けば静かになるとはわかっていても、甘やかしてばかりでは子どものためになりませんよね。なかなか難しい場面です。投稿者さんは「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したそうです。


他のユーザーからは↓
・素晴らしい考えと返しと子育てですね
・働いてる側はわかってますよ。お母さん達、頑張ってる!
・約束の練習!良い響き!頂きます。

世のお母さん達は頑張っています、見かけた場合は優しく見守りましょう!
いまトピが伝えています。


「いまトピ」のもっと詳しい記事はこちらで読めます。

母親の事情もわからないのに口出ししてくるおっちゃんも問題ですが、母親が「約束の練習中なんです」と返した言葉は、明らかに嘘でしょう。嘘を言ってはいけません。

しかも、「約束の練習中」という言葉もへんです。
「約束」は国語辞典によると「当事者間で取り決めること」などとなっています。基本的に対等の関係でなされるものでしょう。
子どもと親の間の約束があるとすれば、「今お菓子をがまんすれば、あとでオモチャを買ってあげるね」といったものです。
しかし、現実には親が子どもより優位の関係にあるので、親が一方的に子どもに約束をさせていることが多いでしょう。こういうのは命令と同じです。
この母親が言う「約束の練習中」は、「親の命令に従う練習中」という意味です。

この母親は自分なりのルールをつくっているのでしょう。
しかし、子どもが守るルールを親がつくると一方的になり、ブラック校則ならぬ“ブラック家則”になりがちです(「家則」という言葉はないようです。「家法」ならあります)。

ちゃんとしたルールがあるなら、嘘をつく必要はなく、たとえば「さっきからお菓子を食べすぎていて、ご飯が食べられなくなりますから」とか「この子はアレルギーなので」とか言えるはずです。

ともかく、世の中にはこういう母親もいるとして、問題はツイッター上で、「そんな嘘をつくのはよくない」という意見はほとんどなくて、「うまい言い方ですね。真似します」みたいな意見ばかりだったことです。
こんな親が多くては、「地域で子育て」などとうていむりですし、家庭の密室化が進んで、幼児虐待がますます増加しそうです。



こうした問題が生じるのは、子育てのあり方が過渡期にあるせいかもしれません。
これまでは、子どもを甘やかすのはよくない、きびしく育てるべきだという考え方が主流でした。
しかし最近は、体罰がいけないのはもちろん、叱るよりもほめることが推奨され、子どもが幼いうちは十分に親に甘えさせるべきだという考え方が強まっています。

この母親は、子どもは甘やかすべきではないという古い考えですが、自分の考えに自信が持てなくなって、「約束の練習中」などという言葉でごまかしたのかもしれません(反対に、子どもを叱らない子育てをしている親が世間の目の前に肩身の狭い思いをしている場合もあるでしょう)。

子どもにはきびしくするべきだという考え方は、「子どもを甘やかすと子どもは限りなくわがままになって、最終的にわがままなモンスターになる」という考え方に基づいています。
しかし、この考え方は間違いです。それは動物の子育ての様子を見ればわかります。
動物の親は、子どもに食べさせることと子どもの安全に気を配るだけで、あとはすべて子どもの自由にさせています。それでも子どもはモンスターにならず、普通に育ちます。人間も同じはずです。

親が自分の子どもを信じられないというのは人間特有の不幸です。
そういう親は、動物の子育ての映像などを見て学ぶのがいいと思います。

子どもを自由にさせていると、スーパーなどで子どもが周りの人に迷惑をかけて、文句を言われることもあるでしょう。
そんなときは子どもを守るのが親の役割です。
子どものすることはすべて子どもの発達に必要なことです。

親と子がよい関係である社会は、平和で健全な社会です。

なぜ子育て中の親が肩身の狭い思いをして嘘をついたりしなければいけないのか、考え直してみてはどうでしょうか。

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日本では新型コロナウイルスの新規感染者数が7月3日、4日と200人を越え、第2波の到来が懸念されていますが、アメリカではこのところ連日、新規感染者数が5万人を越えています。
アメリカと日本の人口の違いを考慮しても、アメリカは日本の100倍も感染者が出ていることになります。
ヨーロッパではある程度抑え込みに成功していますが、アメリカではむしろ増加ペースが高まっています。

国別感染者グラフ
https://www.anzen.mofa.go.jp/covid19/country_count.html

ブラジルは、ボルソナロ大統領が新型コロナウイルス感染症を「ちょっとした風邪」と呼び、経済活動を止めないという方針なので(州政府は独自に対応)、感染拡大もやむをえないのかなと思いますが、アメリカは一応対策をとっていながらこの数字です。

新型コロナウイルスの感染については地域差がひじょうに大きくて、その理由はまだよくわかっていませんが、私はとりあえず文化的社会的な側面について、なぜアメリカで感染がこれほど拡大するのかについて考えてみたいと思います。


手掛かりはマスクです。

日本から見て不思議に思うのは、欧米人はマスクを着けることに妙な心理的抵抗があるらしいことです。
私は最初、マスクを着けるのはアジア人というイメージがあるので、欧米人はアジア人への差別意識からマスクを着けないのかと思いました(欧米では握手をしなくなっているので、代わりにおじぎをすればいいと思うのですが、やっていません。これも差別意識かもしれません)。

しかし、ヨーロッパではマスクを着けるのが今では普通に行われるようになっています。
問題はアメリカです。アメリカではトランプ大統領を初め今でもマスクを着けない人が多くいます。


なぜアメリカ人はマスクを嫌うのでしょうか。
西部劇などの銀行ギャングはスカーフで顔を隠すので、顔を隠すのは悪人のイメージだからだという説があります。しかし、悪いことをするときに顔を隠すのはアメリカ人に限りません。
テレビである心理学者が、アジア人は相手の目を見て心理を読むが、欧米人は口元を見て心理を読むのだと言っていました。だから、サングラスは欧米で普及しても日本ではあまり普及しないのだということです。
テレビ朝日系「大下容子ワイド!スクランブル」では、アメリカでは正義のヒーローは目を隠しても口は隠さないのだと言って、例としてキャプテンアメリカやバットマンやロボコップを挙げていました。
これらは話としてはおもしろいのですが、理由としては弱い気がします。

もっと単純に、マスクをするのは弱いイメージだからだという説が有力だと思います。

ウイルスから自分を守るためにマスクをするのだとすると、マスクをつける人間はウイルスを恐れる弱い人間だということになります。
トランプ大統領は、ディールを得意としていますが、つねに強さを誇示して相手を圧倒するというやり方です。少しでも弱みを見せるとディールは不利になるので、自分のマスク姿は見せたくないでしょう。

強さを誇示するやり方は、男性性と結びつけて、マチズモとか男性優位主義と言うのが一般的です。
しかし、最近は強さを誇示することは男性に限るものではないので、マチズモという言葉は当てはまらない気がします。
とりあえず「強さを誇示する文化」とでも呼んでおきます。

アメリカは独立戦争以来、強さを誇示しながら発展してきました。先住民の土地を奪うときも、黒人奴隷を使役するときも、強さを誇示すると有利に運びます。西部では男は腰に銃をぶら下げるのが普通でした。
ですから、強さを誇示するのはアメリカの伝統文化です。
アメリカの保守派はこうした伝統文化を重んじ、銃規制に反対しますし、マスク着用にも反対です。

トランプ大統領の演説会に集まる人たちはほとんどマスクをしていません。
一方、「Black Lives Matter」を掲げてデモをする人たちはほとんどマスクをしています。
保守派とリベラルの違いがマスクに表れています。

マスクをしないような人は、手洗いやソシアルディスタンスもきちんとしないでしょう。
トランプ支持の保守派は人口の4割程度います。イタリアやスペインで爆発的に感染が広がったころの生活習慣を持った人が今もアメリカに4割程度いるため、アメリカで感染が広がり続けているのだと思われます。


トランプ大統領は感染が始まった初期の段階から、「ウイルスは暖かくなれば消え去る」と楽観論を述べ、感染が拡大してくると、「アメリカがほかの国より検査を多く行っているためで、名誉の印だ」と言い、5月8日には「新型コロナウイルスはワクチンがなくても消滅する」とまったく根拠のないことを言いました。

7月2日には、2日連続で感染者が5万人を越えましたが、トランプ大統領は記者会見で「我々はこの病気を理解している。すぐに収束できる」と楽観論を語り、ペンス副大統領も「個々の局所的なものだ」と言いました。
普通なら感染が拡大すると、「事態は深刻だ。国民はいっそう感染防止に努めてもらいたい」と国民の危機意識に訴えかけるところですが、まったく逆のことをやっています。

ちなみに日本では、マスコミが感染の初期の段階で危機感をあおりすぎて、今でもまだ恐れすぎの傾向があるかもしれません。アメリカの100分の1程度の感染で騒いでいます。


トランプ大統領は国民をウイルスから守らねばならないのですが、「守る」というのは弱い人間のすることだと思っているので、できません。その代わりにもっぱら「攻撃」をします。
トランプ大統領は国内で感染が拡大すると、中国とWHOに責任があると言ってひたすら「攻撃」しました。
また、感染のごく初期の段階でいち早く中国とヨーロッパからの入国を禁止しましたが、これもトランプ大統領においては「攻撃」だったからでしょう。

4月23日には、家庭用漂白剤が新型コロナウイルスの消毒にも有効だという研究発表を受けて、トランプ大統領は「(新型ウイルスを)1分でやっつける消毒剤もあるだろう。1分だ。そういうのをやる方法はあるかな? 体内への注射とか」と語り、消毒剤を注射してもいいのかという電話相談が急増するという騒ぎになりました。
5月18日には、新型コロナウイルスの感染予防のため抗マラリア薬「ヒドロキシクロロキン」を毎日服用していると言いました。この薬は新型コロナウイルス治療薬としては未承認であり、さらに深刻な副作用のリスクが指摘されたことから、20日には服用をやめると表明しました。
まったくのでたらめをやっているようですが、トランプ大統領においては、消毒剤や治療薬はウイルスに対する「攻撃」なのでしょう。


現在、「Black Lives Matter」を掲げるデモや、アメリカの歴史上の偉人の像を撤去する運動が盛り上がっています。
日本から見ていると、なにも新型コロナの感染が拡大する真っ最中にしなくてもいいのにと思えますが、アメリカでは、感染拡大を防げないトランプ大統領ら保守派の権威が失墜し、今まで抑え込まれてきたマイノリティやリベラルが力を解き放っている状況なのでしょう。
そういう意味で、新型コロナウイルスはアメリカ社会を根底から揺り動かしているのかもしれません。


トランプ大統領は7月1日、FOXビジネスのインタビューで「マスクには大賛成だ」と述べ、公的な場で自分がマスクを着用することには「なんの問題もない」として、方針転換したようです。
しかし、7月4日の独立記念日の祝典で花火大会と大規模な集会を開催し、トランプ大統領が演説したとき、大統領はもちろん集会に参加した数千人はほとんどマスクをつけていませんでした。

現在、アメリカでは保守派対ウイルスの戦いが行われていて、その成り行き次第で、保守派対リベラルの力関係も、大統領選挙の結果も決まるのではないかと思われます。

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読書感想文は必要か――という国語教師らしい人物の問いかけをきっかけに、ツイッター上で必要派と不要派が議論を繰り広げたそうです。

この問いは、学校は必要か、教育は必要かという大きな問いにつながっているので、簡単には答えられませんが、読書感想文のあり方を改革するという答えなら簡単に示せます。

とりあえずどういう議論があったかの記事を示しておきます。


「読書感想文は必要か?」国語教師の問いかけが議論呼ぶ…「強制がよくない」「自分の意見を持つ訓練になる」 
読書感想文は必要か——国語の教員だという人物からの問いかけを発端にTwitterで議論が交わされている。

学生時代、夏休みの宿題やコンクールへの応募のために提出が求められた読書感想文。その必要性に疑問を投げかけている投稿者は、本来、読書は「知りたいから」「自分が好きだから」読むもので、強制されるものではないとしている。そして、感想文を書かされることで「読書が憂鬱になる」「日本人の読書嫌いと作文嫌いを助長している」と語っている。さらに、「原稿用紙はこう使いなさい」「作文はこう書きなさい」という形式的指導のせいで「メッチャ堅苦しい、つまらないものになっている」とも述べている。

この投稿がきっかけとなり、読書感想文は不要か必要かの議論に。読書感想文が嫌いになった子どもの頃の体験や、大人になってどう役立つのかの解説など、様々な意見が寄せられていている。

■不要派

「頑張って書いた読書感想文を授業参観の日に『ただのあらすじで感想文になってない』と担任に言われてから文章書くのが暫く嫌いになりました」

「そもそも読ませる相手が明確になってないから、小中学生にとっては超絶難しい作文」

「強制でやらせるものではないですね。本嫌いの一因になっている」

■必要派

「読んだだけで終わりになることの方が勿体無い。読んで、様々な角度から感想を考えてみることで逆に楽しみ方が増える」

「自分の意見を持つ訓練になるから必ず将来に役立ちます」

「自分の気持ちを明確に理解し他者へ可能な限り正確に伝えるという、人間として大事なコミュニケーション能力を鍛える大事なもの」

「医師として思うのは、『問題点を集約せよ』『それに対しどう思ったか』の能力は大変重要で、出来ない人間の相手は困難を極めます。重要」


議論は、「不要」「必要」に留まらず展開。「内容を誉めなきゃいけないようで大嫌いでしたが、あるとき酷評したら愉しかった」「ちゃんと授業として少なくとも1時間は『読書感想文の書き方』を指導して欲しい」「教師の指導力と人員を割けるかの問題」といったコメントも寄せられている。
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0629/blnews_200629_9132066413.html


読書感想文を書くことには当然意味があって、とりあえず一冊の本を読んでなにがしかの知識が得られますし、感想文を書くことで文章力も鍛えられます。
教師もそれを狙って読書感想文を書かせるのでしょう。

しかし、「感想」を書くことに意味があるのかというと、これがよくわかりません。
普通の人はありきたりの「感想」しか書けません。当然、教師にいい評価をされるとは思えません。それがわかっているので、読書感想文を書くのがいやになるのです。

そこで、改革案を考えました。
「感想抜きの読書感想文」にすればいいのです。


一冊の本を読んで、その内容を要約した文章を、たとえば原稿用紙三枚で書きなさいといった課題にします。小説であれば、そのあらすじを書きます。
その本を読んでいない人に、どういう内容の本であるかを理解させる文章を目指します。

内容を要約するには、その内容をよく理解しなければいけないので、自然と読解力が鍛えられます。
もちろん文章力も鍛えられます。
頭の筋トレみたいなものです。
10冊ぐらい書けば、かなり鍛えられるでしょう。

読解力と文章力が鍛えられたら、国語教育の目的はほとんど達成できたも同然です。


現在の国語教育は「文学」に寄りすぎていると思います。
作文教育は、「枕草子」や「徒然草」みたいな文章を書くことが理想になっているのではないでしょうか。
読書感想文で「感想」を書かせるのも、それに近いものがあると思います。

しかし、子どもが書いた「感想」を教師は評価できるでしょうか。
「こんな普通の感想じゃだめだ。もっと独自の考え方を示しなさい」と言われても、子どもは対処しようがありませんし、傷つくだけです。

「文学」を教えるのは、教師の個人的な力量に依存する要素が大きいので、全国一律にすることではないと思います。
学校では「文学についての知識」だけ教えればよく、これならテストで評価できます。



とはいえ、当面読書感想文を書かせるという今のやり方が続いていくことになりますから、それにどう対処するかを考えなければなりません。

読書感想文を評価するのは担任の教師だとします。
その場合、「担任の教師に評価される感想文」を目標にします。
そのためには、担任の教師の趣味嗜好、思想傾向を知り、それに合わせて書かなければなりません。
これはむずかしいことですが、このスキルは必ず役に立ちます。
「読者を念頭に置いて、読者に理解される文章を書く」というのは文章の基本だからです。
これは「国語の成績を上げる」ということに直結するので、モチベーションアップにもなります。


今回、「読書感想文の書き方」で検索してみると、いろいろなアドバイスがありますが、「教師に合わせて書く」というアドバイスは見当たりません。
教師目線で子どもにアドバイスするものばかりです。

「その本のどこに心を動かされたかを書こう」というアドバイスがあって、教師はこういうことを求めているのだなと思いました。
しかし、こうした内面を表現するには教師と子どもに信頼関係がなければいけません。
たいていそういう信頼関係はないので、子どもは困惑するばかりです(そもそもなぜ教師は子どもの内面をのぞきたがるのかという問題もあります)。

教師も子どもも、読書感想文を読解力と文章力を鍛えるための手段ととらえると、すっきりします。

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