村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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トランプ氏暗殺未遂事件は衝撃的でしたが、1人死亡、2人重傷という犠牲はあったものの、トランプ氏自身は耳を負傷しただけの軽傷ですみました。
トランプ氏は事件直後に拳を突き上げるポーズをとったように、「テロに屈しない」というお決まりの言葉とともに、ますます攻撃的な言動で分断を深めるのではないかと思われました。

ところが、共和党全国大会で大統領候補の指名受諾演説を行う際、トランプ氏は一転して抑制的な語り口となり、内容も「社会における不一致と分断は癒やされなければならない。私はアメリカの半分ではなく、アメリカ全体のための大統領になろうと立候補した」などと、分断解消を訴えるものとなりました。
報道によると、事件後演説原稿を全面的に書き替えたそうです。
バイデン大統領の名前を出して批判したのも一か所だけでした。

演説の後半は調子が上がっていつものトランプ節を取り戻したなどといわれていますが、1時間30分の動画を見ると、後半もいつものトランプ氏とはまったく違います。笑顔や得意そうな表情や余裕の表情がありませんし、例のトランプダンスもありません。聴衆の盛り上がりも今一歩です。

なぜかほとんど指摘されないことですが、暗殺未遂事件以降、トランプ氏はまるで別人になりました。
あれだけ分断や対立をあおってきた人間が「癒し」などという言葉を使うのですから、別人といっておかしくありません。
演説内容が融和的になったのは、無党派層を取り込むためだと説明されていますが、
無党派層を取り込む必要性は前からありました。今回の演説内容変更は事件が影響したとしか考えられません。


犯人の銃弾はトランプ氏の右耳に当たりました。もし2、3センチ銃弾がずれていたらトランプ氏の命はなかったでしょう。
死に直面した人間は心理的に大きな衝撃を受けます。戦場で繰り返し死の恐怖を味わった兵士は、帰還後もPTSDを患うことが少なくありません。
トランプ氏も当然大きな心理的衝撃を受けました。それは、銃撃されて1分ほどして立ち上がったときの表情にも表れています。
それを見て私はトランプ氏も“人の子”だなと思いました。

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このあとトランプ氏は拳を突き上げるポーズをします。
しかし、それはあくまでうわべのことです。
強い心理的衝撃を受けたことは変わらず、それが演説内容の変更になって現れました。
ボクサーが不意のパンチを食らってダウンし、それからはガードを固める作戦に変更したみたいなものです。
あるいは愛国心に燃えて戦場に赴いた兵士が、耳元を敵の銃弾がかすめたとたん命が惜しくなったみたいなものです。
人間として当たり前の反応です。

ところが、
メディアはやたら拳を突き上げるポーズを取り上げて、トランプ氏に「不屈の精神」があったかのように伝えます。

共和党大会ではトランプ氏を神格化するような言葉があふれました。
トランプ支持者がトランプ氏の神格化をはかるのはわかりますが、メディアまで同じようなことをしてはいけません。
「トランプ氏は銃撃された直後はこんな顔をしていた。そのあとも弱気になり、演説内容を全面的に変えた」と報道してもらいたいものです。


もっとも、トランプ氏の弱気も一時的だったかもしれません。
トランプ氏は7月20日、ミシガン州グランドラピッズの選挙集会で演説し、冒頭からジョークを言うなど「トランプ節全開」とメディアで報じられました。バイデン氏出馬でもめる民主党を「病気で、弱く、哀れなやつらで、選挙も戦えない」と罵倒しました。
早くも融和から分断へと逆戻りしたようですが、完全には戻れません。
というのは、銃撃の犯人をテロリストとして単純に批判できないからです。

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その場で射殺された容疑者はトーマス・マシュー・クルックスという20歳の白人男性です。共和党員として有権者登録を行っていましたが、民主党に15ドル寄付をしたこともあります。高校卒業後は地域の療養院で栄養補助員として働いていました。高校時代、射撃部に入ろうとしましたが、射撃の腕がないので断られました。地元の射撃クラブに少なくとも1年間在籍していました。犯行に使ったAR-15ライフル銃は父親が購入したものです。父親はリバタリアン党員、母親は民主党員であるようです。
容疑者は高校時代にいじめを受けていたという情報もありますが、きわめて平凡な白人家庭で育った
20歳の若者です。本人も父親も銃規制反対派に違いないので、トランプ支持層と見なされておかしくありません。


トランプ氏は共和党の大統領候補指名受諾演説で「不法移民は刑務所や精神科病院からやってくる。そしてテロリストたちも、これまでに見たことない数が入ってくる」と語りました。
これはいつも言っている得意のセリフです。
しかし、今回のテロリストは、外から入ってきたのではなく、ラストベルトの普通の白人家庭から出てきたホームグロウン型のテロリストです。

今のところトランプ氏は、すでに射殺されたとはいえクルックス容疑者を非難することはしていないようです。
いかにもひ弱そうな20歳の若者は非難しにくいかもしれませんが、彼がもし移民だったり黒人だったりすれば、トランプ氏は非難しているかもしれません。


クルックス容疑者がいかにしてテロリストになったかというのは重要な問題で、ぜひとも解明しなければなりません。
これは当然、家族の問題ということになるので、保守派がよりどころとする「家族の絆」にメスを入れることになります。
しかし、今のところメディアは、
クルックス容疑者の父親に電話して「今はなにも話せない」というようなコメントを引き出しただけです。
両親がなにも語らないなら、親族や近所の人から取材してクルックス家の実態を解明すればいいわけですが、アメリカのメディアは保守派に配慮しすぎるのか、家族の問題には踏み込まない傾向があるようです。
大統領候補暗殺未遂という大事件としてメディアも対応してもらいたいものです。


ここで、バイデン大統領が大統領選から撤退してハリス副大統領を候補として支持すると表明したというニュースが入ってきました。
トランプ氏が一時的に弱気になり、バイデン大統領の批判を控えたので、バイデン大統領も撤退表明がしやすくなったということがありそうです。
一発の銃弾が世界を大きく変えたかもしれません。

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東京都知事選で2位になった石丸伸二氏は、安芸高田市という人口2万6000人ほどの小さな市の市長からいきなり東京都知事選に立候補して、165万票を獲得しました。
石丸氏が人気者になった理由はなんでしょうか。

私が石丸氏を初めて知ったのは、石丸安芸高田市長が市議会で居眠りをしていびきを議場に響き渡らせた議員を非難して「恥を知れ恥を!」と言っているのをニュース番組で見たことでした。
もっとも、これはニュース番組の取り上げ方にも問題がありましたが、私が誤解していました。
居眠り議員のいびきが議場に響き渡ったのは市長の就任直後のことでした。石丸市長はその場ではなにも注意せず、逆に「眠たくならないような答弁をしないといけないな」と言って“おとなの対応”をしていました。
しかし、その後ツイッターで居眠り議員をさらしたので、議員たちが反発し、石丸市長に抗議だか注意だかをすると、石丸市長は「非公開の会議の席で『議会を敵に回すと政策に反対するぞ』と議員から恫喝された」とメディアに告発、その後もツイッターで議員たちの非難を続けました。
恫喝したと名指しされた議員は、恫喝はなかったとして石丸市長に発言の撤回と謝罪を求めましたが、石丸市長が応じないため名誉棄損の訴訟を行い、広島地裁と広島高裁で議員が勝訴して33万円の支払いが命じられました。

ともかく、こうしたことから石丸市長と議員たちはことあるごとに対立します。
そして、市長が市議会の定員を16名から8名に半減する条例を議会に提出し、それが14対1で否決されたとき、市長は「恥を知れ恥を!」と言ったわけです。
議員定数半減の条例案は議会軽視だと批判されると、市長は「居眠りをする。一般質問をしない。説明責任を果たさない。これこそ議会軽視の最たる例です」と真っ向から反論しました。

このころから市長と議員のバトルがYouTubeの切り抜き動画となって多数視聴されるようになりました。「恥を知れ恥を!」だけでなく、「バッジを外して出て行ってください!」「これが恥の重ね塗りというやつです」「頭が悪い人は具体的な議論のポイントが示せない」「議員の仕事をしてください」などの決め台詞を効果的に使うので、切り抜き動画を見た人は、若い市長が古くさい議員をやりこめていると思い、喝采しました。
石丸市長は議員だけでなく記者も「偏向」「取材不足」などと攻撃し、バトルの幅を広げました。

議員定数を半減させる条例案は、否決されるに決まっています。それを提出することで市長と市議会のバトルを演出したわけです。
そのときに発した「恥を知れ恥を!」という言葉もあらかじめ用意したものでしょう。
2019年6月、野党が安倍首相に対する問責決議案を出したとき、自民党の三原じゅん子議員が参院本会議場で野党議員に向かって「恥を知りなさい!」と言ったのが安倍支持層に大いに受けたのを参考にしたに違いありません。
「改革の志に燃えて古い政治家やメディアと戦う若き政治家」という構図づくりに成功し、石丸氏はYouTubeなどで大人気となりました。その勢いを駆って、市政を放り出して東京都知事選に立候補すると、165万票の大量得票をしたわけです。

石丸氏の都知事選の公約は「政治再建」「都市開発」「産業創出」の三本柱となっていますが、大した内容ではありません。街頭演説を数多くしましたが、演説は大してうまくないといわれます。
石丸氏の人気はすべてSNSを駆使して「戦う政治家」のイメージづくりに成功したからです。
ちなみに彼のYouTubeチャンネルの登録者数は30万人以上。小池氏と蓮舫氏の公式チャンネルはそれぞれ3000人と1万人です。



石丸氏はトランプ前大統領に似ているといわれます。トランプ氏も激しい言葉で政敵を攻撃するのが得意ですし、ツイッターなどSNSを利用して支持を広げてきました。

小泉純一郎首相も、当時は劇場型政治といわれましたが、郵政民営化を争点にして改革派対守旧派の構図をつくり、守旧派に対して“刺客”を放つというバトルを演出したので、国民は熱狂しました。
郵政民営化の是非が判断できる国民はあまりいなかったと思われますが、そんなことは関係ありませんでした。
安倍首相も小泉首相のやり方を受け継いで、つねに「戦う政治家」を演じ、「やってる感」を出すことで高支持率を維持していました。

石丸氏がいちばん参考にしたのは維新の会のやり方でしょう。
橋下徹氏、松井一郎氏、吉村文洋氏はつねに役人とマスコミに対して攻撃的で、それによって人気を博してきました。

外国のリーダーを見ても、最近はやけに攻撃的な姿勢の人が目立ちます。
これはインターネット時代の特徴でしょう。
政治家の声が直接有権者の耳に届くので、攻撃的な言葉ほど受けるのです。


石丸氏は「戦う政治家」を演じて人気となりましたが、戦う政治家がよい政治をするとは限りません。
維新の会の政治家は思想も理想もない人たちなので、大阪府の行政改革をある程度やってしまうとほかにやることがなくて、維新の会の存在価値もなくなってしまいました。

石丸氏も、安芸高田市長としての実績はどうかというと、ほとんどなにもないようです。
7月7日に行われた石丸市長の後任を選ぶ市長選では、石丸市政からの転換を訴える候補が当選し、石丸市政の継承を訴えた候補は落選しました。これだけで地元では石丸市政が評価されていないことがわかります。
石丸市長が議員やメディアとバトルを演じるのは、遠目にはおもしろいかもしれませんが、地元の人たちにとっては迷惑だったのでしょう。

なお、居眠りしていびきを響かせた議員は、のちに軽い脳梗塞だったことがわかり、診断書を提出しました。今はすでに死亡したということです。


都知事選が終わって1週間とちょっとたちましたが、石丸氏のインタビューの受け答えがまともでないので、「石丸構文」とか「石丸話法」とかいわれて、あきれられています。
石丸氏は安芸高田市の記者とバトルを演じて、それが受けていたので、同じことをやったのでしょう。
しかし、東京のインタビュアーとバトルを演じても意味はなく、一般の人にとっては「インタビュアーにかみつくおかしな人」ということになってしまいました。

また、政治家ならなにか主張したいことがあるはずで、質問が的外れであっても、この機会に言いたいことを言うはずです。
ところが、石丸氏にはなにも主張したいことがないのでしょう。インタビュアーと無意味な言葉のやり取りで時間を使ってしまいました。


石丸氏と対極にいるのが自民党の古い政治家です。
石丸氏がリングの上で戦う政治家だとすれば、自民党の古い政治家は水面下の談合や寝技を巧みにすることで出世してきました。
ですから、石丸氏の「政治屋を一掃する」という公約は有権者の心に刺さります。

蓮舫氏も戦う政治家のようですが、実は批判するばかりで戦っていません。お決まりの生ぬるい批判ばかりでは効果もありませんし、国民に飽きられています。
敵の急所を鋭い言葉で攻撃して、敵の存立を脅かすぐらいにやらなければいけません。


戦う政治家がよい政治家とは限りませんが、今後、戦う姿勢を示す政治家が支持される傾向はどんどん強まっていくでしょうから、どの政治家もそれに対応しなければなりません。

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「失われた30年」といわれる経済の停滞は、経済政策の誤りだけが原因とは思えません。
では、経済政策以外にどんな原因があるのかというと、教育政策です。教育がだめなために日本全体がだめになっているのです。

ブラック校則の問題はだいぶ前から指摘されてきましたが、少しも改まりません。
朝日新聞の「(教育の小径)校則見直し声上げたけど…中学生たちの落胆」という記事に最近の状況が書かれていました。有料記事なので、簡単に内容を紹介します。


記者は、学校を考える集会で出会った気になる中学生グループに話しかけ、話を聞きました。
昨年5月、その中学では全学級で校則のありかたを議論し、どの校則を変えたいかを問う全校アンケートをしました。回答率を上げるためにポスターで呼びかけもしました。夏休みには県内十数校の校則を調べ、「カーディガンの色は黒」「靴下は白」「ツーブロック禁止」の三つに絞って校長先生に見直しを求めました。
しかし、受け入れられたのは「靴下」だけ。しかも5か月後で、理由の説明もなし。「すごいエネルギーをかけて、結果は、これっぽっちでした」とメンバーの一人は語りました。
落胆しているのは彼らだけではありません。「日本若者協議会」の2020年のネットアンケートでは779人の小中高生らの68%が「児童生徒が声を上げて学校が変わるとは思わない」と答えました。
同協議会に寄せられた声には「変えたいという声は多くの生徒から上がっているが、態度が悪いから変えられないなど、難癖をつけられている状況」「『それはしょうがない。生徒なんだから』とまるで取り合ってもらえない」といったものがあります。
記者が先生や校長10人余りにたずねると、「学校を運営するのは教員」「生徒に責任を取らせるわけにはいかない」「未成年に決定権はない」といった答えで、子どもも同じ学校の構成員だという意見は聞けませんでした。


生徒はひどい状況におかれています。
私が気になったのは、生徒が校則見直しを申し入れたら、校長が返事したのは5か月後で、理由の説明もなかったというところです。完全に生徒を侮辱しています。こんな人間が教育者を名乗っているのかと思うと、暗澹とします。

最近、教師の働き方改革が問題になっています。過重労働の解消は必要ですが、そもそもその労働が子どものためになっているかが問題です。子どものためにならないのではやりがいもなく、そのため心を病む教師が増え、人気のない職業になっているのではないでしょうか。


ともかく、今の学校は生徒を管理の対象としか見ていなくて、生徒の意見を聞こうという気がまったくないようです。
ということは、文科省もそれを肯定しているわけです。
本来なら文科省は「校則の制定には必ず生徒の意見を反映させるように」という通達を出すべきところですが、どうやら文科省は逆に「子どもの人権」を無視する方針のようです。


そのため子どもは理不尽な校則に縛られて、自分ではなにもできないという無力感に打ちひしがれています。
そうして中高6年間をすごすと、社会に出ても社会をよくしようという意欲が出ないのは当然です。
いや、自分の人生をよくしようという意欲もなくしてしまうかもしれません。
ブラック企業に入っても、それがブラック企業と気づかないということもありそうです。

日本の若者の意欲の欠如は起業家精神の欠如に現れます。
世界45カ国、男女計50,861名を対象に実施した「アムウェイ・グローバル起業家精神調査レポート」によると、日本人の起業意識は前年に続き世界45カ国中、最下位という結果となりました。他国と比較すると日本人は若いうちから起業家精神が低く、また「野心」「向上心」「自信」「能力の理解」が大きく欠如していることが鮮明になったということです。
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若者に起業家精神がなければ新しい企業が生まれませんし、日本経済も活発化しません。

ただ、校則についていえば、昔はもっときびしかったといえます。私の若いころは男子は詰襟の学生服、女子はセーラー服が多く、男子は坊主頭の学校も少なくありませんでした。
しかし、戦前戦中はもっときびしかったわけで、それと比較すると解放されたといえます。


おとなはつねに若者を支配しています。
伝統的な社会ではそれで問題はありませんが、時代の変革期や世の中の変化が速くなるときには、若者のほうが時代に適応するので、世代間の対立が激化します。
幕末に尊王攘夷を叫んだ志士はほとんどが若者でした。
明治時代は、大学卒や留学経験のある若者が世の中をリードしました。
戦後、日本国憲法ができたときも大変革期でした。おとな世代は自分たちの価値観が否定されて自信を失い、その分若者が活躍しました。
そうした中からソニーやホンダが生まれて日本経済が急成長したわけです。

資本主義社会は世の中の変化が速いので、つねに世代対立が起きています。
若者が元気な社会は発展します。
たとえばアメリカでは若い起業家がGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を創業し、今ではGAFAはアメリカ経済を引っ張る存在になっています。
日本ではそうした若い起業家の活躍がなく、それが日本経済低迷のひとつの原因になっていることは確かです。

日本では、戦後の一時期を除いて、若者が活躍しない社会になっていきました。
なぜそうなったかというと、自民党の長期政権が続いたからです。
昔から「最近の若者は権利ばかり主張して義務を果たさない」と言っていた年寄りはいましたが、自民党はそういう年寄りの主張に合わせて学校教育をしてきました。

1960年代末に全共闘運動が盛り上がると、文部省は69年10月に「高等学校における政治的教養と政治的活動について」という通達を出します。
そこには「最近、一部の生徒がいわゆる沖縄返還、安保反対等の問題について特定の政党や政治的団体の行なう集会やデモ行進に参加するなどの政治的活動を行なつたり、また政治的な背景をもつて授業妨害や学校封鎖を行なうなど学園の秩序を乱すような活動を行なつたりする事例が発生している」とした上で、「学校の教育活動の場で生徒が政治的活動を行なうことを黙認することは、学校の政治的中立性について規定する教育基本法第八条第二項の趣旨に反することとなるから、これを禁止しなければならないことはいうまでもない」と書かれていました。
つまり高校生の学校での政治活動は完全に禁止されたのです。
この通達は選挙権年齢が18歳に引き下げられるのに伴い廃止されましたが、長年にわたって政治に無関心な若者をつくってきたことは間違いありません。

生徒会活動もきわめて範囲が限定されたので、若者は自分の主張を学校や社会に訴えるという経験がまったくできませんでした。
自民党の好む「権利を主張しない若者」がつくられてきたのです。


学校では管理教育が強化されました。
世の中の流れとしては自由な教育が求められていましたが、逆行したのです。
そのため70年代後半から「校内暴力」が吹き荒れました。
文部省は管理教育を転換するのではなく、むしろ強化する方向に行きました。
1985年ごろを境に校内暴力は沈静化しますが、体育教師を中心とした教師暴力によって校内暴力を制したのだともいわれます。

このころから「内申書重視」の流れが強まりました。大学や高校の入試で、それまでもっぱら入学試験の点数で決まっていたのが、内申書の評価が重視されるようになったのです。内申書を書くのは教師ですから、教師の生徒に対する権力が強まり、生徒が教師に反抗するということがほとんどなくなりました。
学校が生徒を完全に制圧したのです。

その後は、不登校といじめは増大の一途をたどっています。

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おとな対若者の対立において、日本は自民党長期政権のせいで、おとなが若者を制圧した国になりました。
今では赤ん坊の泣き声がうるさいという主張までまかり通っています。

少子高齢化で若者人口があまりにも少ないので、政治も若者を無視しています。
ブラック校則の問題を取り上げているのは共産党ぐらいです。
しかし、若者の元気がない国は衰退しますから、今のおとなにとっても無視できない問題です。
今後、教育改革が政治の最大の争点になるべきです。

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ネットの子育て悩み相談でよく見かけるのが「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」というものです。
最近、「ほめて育てる」ということが奨励されているので、悩みは深いようです。

「叱る」というのはどういうことでしょうか。
いきなり親が子どもを叱るということはありません。
最初に親は子どもになにかするように要求します。子どもが要求通りに動いてくれないと、親は命令します。それでも子どもが動かないと、親は叱るわけです。

昔は子どもが親の言うことを聞かないと親は体罰をしていました。
今は体罰は社会的に許されないので、もっぱら叱るわけです。
体罰は体に痛みを与えますが、叱ることは心に痛みを与えます。たいして変わりません。

厚労省は、子どもに対する体罰・暴言は脳の萎縮・変形を招くと明言し、「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っています。
なにが暴言かというのは必ずしも明確ではありませんが、どんな叱り方をしても子どもの心は傷つくはずですから、叱ることはすべて暴言と見なしていいのではないでしょうか。


親が子どもに命令したり叱ったりするのは、親子が上下関係になっているからです。
軍隊や企業は厳密に上下関係が決められているので命令があり、命令違反には罰があります。
友人関係には上下がないので、友人に命令することはできません。命令すると友人関係が壊れます。
家族関係も基本的なところは友人関係と同じはずです。


親は子どもに対して命令する権限があると思っていますが、子どもはそうは思っていません。ですから、親に命令されても聞きませんし、叱られても聞きません。
そのため、「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」という親の悩みが出てくるわけです。

もちろん叱るのはよくありませんが、それ以前に命令するのがよくありません。
命令するから、命令違反を叱ってしまうわけです。

命令がだめならどうすればいいかというと、頼めばいいわけです。
親が子どもになにかしてほしい場合は、頼むしかありません。

たとえば子どもが保育園に行くのをしぶったとします。
親がむりやり行かせようとし、それでも行かないと叱るというのが最悪のやり方です。子どもは傷つきますし、ますます保育園嫌いになる可能性があります。

子どもには保育園に行きたくない事情があるわけです。親と離れたくないとか、友だちにいじめられるとか、いやな保育士がいるとか。
親にも子どもに保育園に行ってほしい事情があります。
子どもの行きたくないという気持ちと、親の行ってほしいという気持ちをぶつけ合うと、気持ちの強いほうが勝って、気持ちの弱いほうは譲ることになります。
これが正しい妥協です。
譲ってもらったほうは借りができたので、いずれの機会に借りを返そうとします。
そうして互いに思いやりのある関係が築けます。
親が一方的に命令し、叱っていたのでは、まともな人間関係にはなりません。

夫婦も互いに気持ちをぶつけ合っていけば、正しい妥協ができて、仲良くやっていけるはずです。


家族関係に上下があるのは家父長制の家族です。夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するというのが家父長制です。

家父長制でない本来の親子関係はどんなものでしょうか。
文化人類学の古典とされるブロニスロウ・マリノウスキー著『未開人の性生活』にはこのような記述があります。

トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。


日本でも江戸時代までは、庶民階級では子どもはたいせつにされ、少なくとも体罰はありませんでした。
明治時代になると武士階級の制度であった家父長制が民法によって国全体の制度となり、夫婦も親子も上下関係となりました。
戦後の日本もまだ家父長制を引きずっています。

愛情で結びついた家族には、上下関係はありませんし、命令も強制もありません。
つい子どもを叱ってしまうという親は、命令や強制で子どもを支配しているのです。


「子どもを叱りすぎてしまう」という悩み相談に対して、子育ての専門家はたいてい「子どもが納得いいくように話し合いをしましょう」とか「感情的に叱ってはいけません」などとアドバイスしますが、叱ることそのものを否定する人はめったにいません。
しかし、「叱らない教育」は平井信義(1919年―2006年)が1970年代から唱えていて、そんな特殊なものではありません。
子どもを尊重していれば命令、強制、叱責などはできないはずです。

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最近、なにかとカスタマーハラスメント(カスハラ)が話題です。

厚生労働省は「職場におけるハラスメント対策」という資料をホームページ上に公開しましたが、その中に「威張りちらす行為」をする人として「社会的地位の高い人、高かった人、定年退職したシニア層などに傾向が見られる」との記述がありました。
そうすると、「これは高齢者差別ではないか」「『社会的地位の高かった人』や『シニア層』などと特定の人たちだけを名指しすることは誤解を招く」「どんな人でもそういうことは起きる」などと抗議がありました。

カスハラをする人に高齢者が多いというのはちゃんと根拠のあることです。
労働組合「UAゼンセン」は流通・小売業・飲食・医療・サービス業などで働く組合員3万3000人を対象にアンケート調査を実施し、こういうことがわかりました。
迷惑行為をしていた客の性別と推定年齢については、2020年調査では「主に40~70代の男性がカスハラをする」と結論づけられていた。今回の調査でも40代以上の客が9割以上を占めたが、特に70代以上の割合が大きく増えた。
〈20年:11.5%(1750人)→24年:19.1%(2955人)〉

「社会的地位が高い」ということについては推測が入っているようですが、年齢については数字で示されています。
ところが、厚労省は抗議されると、カスハラをするのは高齢者が多いという記述を削除しました。

そうすると、それがまた問題になりました。
「その抗議自体がカスハラだ。カスハラ対策を訴える厚労省がカスハラに屈するとはなんのコントだよ」などの声が上がり、専門家もこういう対応はカスハラを助長しかねないと懸念をしました。

カスハラをする人に高齢者が多いというのは顕著な傾向です。
ですから、厚労省がそれを指摘したのは当然ですが、問題は指摘しっぱなしで終わっていることです。「傾向と対策」を論じなければいけません。
中途半端な指摘をするので抗議されたのでしょう。
誰もが感じていることでしょう。

UAゼンセンのカスハラ調査については、注目するべきことがもうひとつありました。

UAゼンセンは、2017年、2018年、2020年に続き、2024年も小売・サービス業で働く組合員を対象に、カスタマーハラスメント(顧客等による過剰な要求や迷惑行為)の実態についてアンケート調査を実施した。
直近2年以内で迷惑行為被害に遭ったと答えた割合は46.8%(1万5508人)で、前回2020年結果での56.7%(1万5256人)から約10ポイント減少した。


カスハラというと、どんどんひどくなって、接客業の従業員がつらい思いをしているというイメージがありますが、実際は減少しているのです。
マスコミはつねに危機感をあおるような報道をするので、誤解してしまいます。
犯罪件数も、2002年をピークに減少を続け、現在は3分の1以下になっていますが、テレビのワイドショーなどはつねに「犯罪は深刻化している」というスタンスで報道していました。

ほかのハラスメントはどうなのかと調べてみると、「令和2年度 厚生労働省委託事業 職場のハラスメントに関する実態調査」にはこう書かれています。
○過去3年間のハラスメント相談件数の推移については、パワハラ、顧客等からの著しい迷惑行為、妊娠・出産・育児休業等ハラスメント、介護休業等ハラスメント、就活等セクハラでは「件数は変わらない」の割合が最も高く、セクハラのみ「減少している」の割合が最も高かった。
○過去3年間のハラスメント該当件数の推移については、顧客等からの著しい迷惑行為については「件数が増加している」の方が「件数は減少している」よりも多いが、それ以外のハラスメントについては、「件数は減少している」のほうが「件数は増加している」より多かった。

やはりハラスメントは全般に減少しているのです。
「顧客等からの著しい迷惑行為」だけは増えていますが、これは要するにカスハラのことでしょう。
この調査は令和2年と古いので、最新のUAゼンセンの調査ではカスハラは減少しています。

ハラスメントが減少してるのはいいことですが、喜んでばかりはいられません。日本人が元気をなくしている現れかもしれないからです。
それから、ハラスメントに対する耐性がなくなってきている可能性もあります。
たとえば、コンビニ店員が客から怒鳴られたとします。昔の人ならそれほど気にしなかったのに、今の若い人は傷ついてしまって、それでカスハラが問題になっているのかもしれません。

今の若い人は打たれ弱いということはよくいわれます。会社で若い部下をちょっと叱ると、すぐ会社を辞めてしまうとか、パワハラだといわれるとか。
昔は学校でも部活でも体罰とかきびしい指導が当たり前で、親もよく体罰をしていましたから、そういうことはありそうです。

かといって、子どものときからきびしく育てるべきだという意見には賛成できません。きびしく育てられた人間がパワハラやカスハラをするようになるからです。
部活で上級生からきびしく指導された1年生は、2年生になると1年生をきびしく指導するようになり、親から体罰を受けた子どもは自分が親になるとたいてい子どもに体罰をするようになります。
カスハラをするのは高齢者が多いというのは、そういう育てられ方をしたからでしょう。

これは戦争までさかのぼることができます。昔の男はみな兵隊になるように育てられ、しかも実際に戦争に行った者が多いので、みな暴力的でした。戦後になっても映画「仁義なき戦い」に近いものがありましたし、私の世代も戦中派の親に育てられたので、暴力的な影響を受けています。
しかし、平和な世の中が長く続いて、若い世代はとりわけ軟弱になり、暴力的な高齢者からパワハラやカスハラを受けているというのが現状です。
ですから、パワハラやカスハラは高齢者世代対若者世代の戦いともいえます。

平和が長く続けば人間が平和的になるのは自然の摂理です。
ただ、そのためにパワハラやカスハラに弱くなるとすれば困ったことです。
しかし、打たれた経験がないから打たれ弱くなるのではありません。
問題は自己評価です。
自己評価が低い人間は、打たれるとめげてしまいます。
自己評価が高い人間は、不当な仕打ちをされたときは反撃しますし、反撃しないときもそんなにめげません。


日本人は他国民に比べて自己評価が低いとされています。

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しかも、年齢がいくと自己肯定感が低下する傾向があるというデータがあります。

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ワコール「10歳キラキラ白書」2018年度版より


なぜそうなるのでしょうか。
単純に考えると、学校でブラック校則や細かい生活指導に縛られ、家庭ではテストの点数が悪い、行儀が悪いなどのダメ出しをされ、社会でも子どもの遊ぶ声がうるさいなどと抑圧された結果ではないかと思われます。
もっとも、ここ数年は自己肯定感が向上する傾向が現れています。「体罰禁止」や「ほめて育てる」などの考え方が奏功しているのでしょうか。

若者は自己評価が低いので、カスハラ、パワハラに弱いといえます。
最近の若者は会社を辞めるとき、退職代行サービスを利用することがあるといいます。とくにブラック企業を辞めるときに利用しているようです。
しかし、ブラック企業であっても、いったん会社を辞めると決心したら、なにを言われても平気なはずです。働いた分の給料はもらわねばなりませんが。
退職代行サービスがはやっているということは、今の若者はよほどパワハラに耐性がないのでしょう。


自己評価の低さは急には改まりません。
では、パワハラ、カスハラにどう対処すればいいかですが、パワハラというのは会社の権力に関わってきてむずかしいので、ここではとりあえず、店員対客といった単純なカスハラについて考えます。
たいせつなのは、まず怒りの感情について知ることです。というのはカスハラはつねに怒りの感情から生じるからです。

怒りの制御のしかたを教えるアンガーマネジメントでは、怒りは動物が縄張りの侵入者を威嚇して戦闘準備状態にあるときの感情と同じで、生体の防御反応だとされます。
怒りは攻撃反応と思われがちですが、実は防御反応なのです。この違いは重要です。
カスハラする人というのは、攻撃されていないのに攻撃されていると勘違いする人です。自分と他人の境界線がずれていて、なんでもないことでも自分が攻撃されたと勘違いするのでしょう。

怒っている人は、そこに自己の生存がかかっていると思って必死なので、まず譲歩するということがありません。
ですから、反論せず、説得せず、時間がたって怒りの感情が収まるのを待つということになります。


カスハラする人と戦う方法もあります。

怒っている人と怒っていない人は対等ではありません。怒っていない人は、怒っている人から物理的に攻撃されるのではないかという恐怖心を持つからです。
しかし、もし相手が手を出せば警察を呼んで相手を暴行罪か傷害罪にすることができ、こちらの勝利となります。
一発殴られる覚悟さえあれば、「相手が手を出せばこちらの勝ち」と思って余裕ができ、怒っている相手と対等になれます。
対等になれば、あとは言葉による戦いです。


モラルハラスメント(モラハラ)という言葉があります。本来はモラルに反するハラスメントという意味で、セクハラやパワハラなどすべてのハラスメントを指す言葉でしたが、今はモラルによって相手を攻撃するハラスメントという意味で使われます。
たとえば夫が妻に対して、「だらしない」「怠けている」「妻としての務めを果たしていない」といったふうに道徳的に非難することがモラハラです。
パワハラやカスハラも、「お前が悪い」「お前は務めを果たしていない」と言って相手を攻撃するので、広い意味ではモラハラです。

道徳には根拠がありません。
最近では、河村たかし名古屋市長が「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と発言し、イスラエルのネタニヤフ首相は「われわれの軍隊はもっとも道徳的な軍隊だ」と言いました。
要するに道徳は言ったもん勝ちです。

カスハラする客は店員に対して「お前は店員としての務めを果たしていない。態度が悪い。私は被害を受けた。責任を取れ」みたいなことを主張します。これに対して弁明したのでは守勢ですから、相手はこたえません。
別角度から相手を攻撃するのが有効です。
「客だからなにをしてもいいわけではない。客にも礼儀が必要だ」「さっきから大声を出されてほかの客が不愉快な思いをしている。営業妨害だ」「あなたに対応しているために仕事ができない」「暴言を吐かれて傷ついた」といった具合です。
モラハラ夫が妻を攻撃するのと同じ要領です。
こうすれば対等の戦いになり、客よりも多くの言葉を使って攻撃すれば勝つことができます。


人間は言葉を武器にして互いに生存闘争をしています。
相手を攻撃するもっとも強力な武器が「道徳」です。
ライバルを蹴落とすとき、取引先に値下げを迫るとき、政治家を非難するときなど、道徳を使うのが効果的です。

道徳の正体を知ると、うまく生きていけます。
パワハラする上司の言い分も基本は道徳なので、言われても気にならなくなります。
道徳をありがたいものだと思っていると、誰か他人の思う壺になってしまうので、注意してください。


こうした道徳のとらえ方については、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。

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