村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

ph3-r021130-birthday1
宮内庁ホームページより

眞子さまの婚約者である小室圭氏とその母親に対する異様なバッシングを見ていると、背後になにかの陰謀があるのではないかと思えます。

小室氏親子に対するバッシングのきっかけは、母親の元婚約者と母親の間に金銭トラブルがあると週刊誌が報道したことです。
元婚約者は婚約期間中に母親に約400万円の援助を行い、自分から一方的に理由も述べずに婚約解消をしたあと、自分の懐事情が苦しくなるとお金を返してほしいと言い出しました。もちろん借用書はありません。
女に振られると、つきあっていた期間のプレゼントの品物やデート代を返せと言う男がいるそうですが、それに似ています。いや、振られた腹いせに言うのはまだわからないではありませんが、元婚約者は自分から振っておいて金を返せと言っているのです。
あきれた言い分です。
いずれにしても、当事者には複雑な感情のもつれがあるでしょうから、外部の人間が口出しするべきではありません。
それに、これはあくまで母親の問題ですから、小室圭氏の結婚とは関係ありません。


ところが、マスコミは元婚約者サイドに立って母親と小室氏を猛烈に攻撃しました。
それによって結婚に対する否定的な世論が形成され、宮内庁は結婚を2年延期すると発表しました。

こういういきさつを見ていると、宮内庁がマスコミを操作して結婚つぶしをしたのかと思えます。
なんのためかというと、「女性宮家」創設のためと想像されました。
女性皇族が結婚して皇籍離脱すると、どんどん皇族の数がへっていき、天皇制の存続があやぶまれるので、女性宮家を創設しようという動きが当時ありました。その場合、女性皇族の結婚相手は元皇族とかそうとうの家柄の男性でなければならないということで、“普通”の家柄の男性である小室氏はふさわしくないことになります。
女性皇族の「婚姻の自由」を無視したとんでもない計画です。そのためか最近は言われなくなりました。


そして、小室氏親子への攻撃が今度は秋篠宮家へと向かいました。
佳子さまが国際基督教大学卒業に際して発表した文書で、眞子さまの結婚に関して「私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と当たり前のことを書いただけなのに、「個人の意思を優先するのはワガママだ」とか「秋篠宮家の教育方針が問題」などと批判されました。
さらに、悠仁さまを学習院でなく幼稚園からお茶の水女子大付属に通わせ、中学もお茶の水女子大付属に進ませたことも批判されました。このころ、悠仁さまの教室の机にナイフが置かれるという事件もありました。

そうしたところ、「週刊文春」2019年4月11日号の記事によると、安倍首相は秋篠宮さまが大嘗祭について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べられたことに不快感を示し、その意をくんだ官邸スタッフが秋篠宮バッシング情報を週刊誌に流しているということです。

「週刊文春」の記事が正しいかどうかわかりませんが、秋篠宮家への異様なバッシングを見ていると、なにか裏があるのだろうと考えざるをえません。
私は、マスコミには意外に反天皇制主義者がいて、結婚問題を機会に皇室の権威を落としてやろうとたくらんでいるのかなどとも考えました。


今年4月、小室氏は金銭問題について説明する28枚の文書を公表しました。
するとマスコミの反応は、「長すぎる」の大合唱でした。
しかし、もし文書が4、5枚だったら、今度は「短すぎる」と言って批判したでしょう。
「ていねいに説明します」と言ってなにも説明しない政治家が多い中、実際にていねいに説明したのは立派です。
それから、「内容が一方的だ」という批判も多くありました。
しかし、事実が一方的なら内容が一方的になるのは当然です。
マスコミは内容を批判することができないので、「一方的だ」ということしか言えなかったのです。

もともと借金ではないので、マスコミが反論できないのは当然です。
小室氏が結婚したあと、母親はマスコミを相手に名誉棄損の裁判をすれば、多額の賠償金が取れるのではないでしょうか。


それから、小室氏が髪型をポニーテールにしていることもマスコミに批判されました。
人がどんな髪型をしようと自由です。批判するマスコミがバカをさらしただけです(ブラック校則の弊害がこんな形で出ます)。

とにかく、この結婚問題に関してはマスコミがあまりにもバカで、しかもそれがまかり通っているので、あきれるしかありません。



宮内庁は10月1日に、眞子さまと小室氏が10月26日に正式に結婚されると発表し、同時に眞子さまが「複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)」の状態にあることも公表しました。会見に同席した医師は「自分自身と家族、結婚相手と家族に対する、誹謗中傷と感じられる出来事が長期的に反復され、逃れることができないという体験をされた」と説明しました。

これでさすがに小室氏親子や秋篠宮家に対するバッシングはやむだろうと思ったら、ぜんぜんそんなことはなく、むしろ激しさを増したのではないかと思えるぐらいです。

ここまで小室氏親子や秋篠宮家をバッシングする人が多いとなると、これは陰謀論では片づけられません。
そこで考え直してみました。


この結婚に反対する人が多いのは、皇室は日本最高の家柄なのに対して、小室家はごく普通の家柄で、「究極の格差婚」だからです。
したがって、皇室を高く評価する人ほど、小室家が下に見えて、結婚に強く反対したと思われます。
しかし、「家柄が違う」と言って結婚に反対するわけにいかないので、むりやり借金問題を捏造して、反対の理由にしたのです。

一方を持ち上げれば、もう一方が相対的に下がるのは、当然の理屈です。
ですから、天皇制は差別につながると主張する人もいます。

そのことはわかっていましたが、もうひとつの問題について認識が足りませんでした。
もうひとつの問題というのは、持ち上げられた皇室も差別されるということです。


帝国憲法では、天皇は「神聖」でした。
ですから、天皇や皇族は人間的な感情を持っていなくて当然です。
戦後になっても古い感覚の人は、皇族は神に近い人なので、人間的な感情を持っていると思っていないようです。
ですから、眞子さまが複雑性PTSDになったと発表されても、信じられません。「複雑性PTSDは嘘だ」と言っている人もいます。
小室氏がマスコミからバッシングされれば眞子さまも心を痛めるということも理解できません。
ですから、平気で小室氏親子や秋篠宮家をバッシングできるのです。

雅子さまも2004年に適応障害であると公表されましたが、世の中は正面から受け止めませんでした。逆に「スキーをしたりディズニーランドに行ったりできるのに、なぜ公務はできないのか」という批判が起きました。
雅子さま(現皇后陛下)の適応障害は放置されたままです

「皇族も普通の人間である」ということが認識されていないのです。
これもまた差別です。
「下への差別」でなく、「上への差別」です。

そうすると、小室氏親子へのバッシングは「下への差別」で、秋篠宮家へのバッシングは「上への差別」だとなって、わかりやすくなります。

この結婚を巡る騒動の根底にはやはり天皇制の問題があります。

202063_01
自民党公式ホームページより

10月4日、岸田文雄氏が100代目の内閣総理大臣に就任しました。

私は岸田氏によい印象も悪い印象もありませんでしたが、人事を見て一気にイメージダウンしました。
金銭スキャンダルで経済担当相を辞任したままなんの説明もしない甘利明氏を幹事長にしたのが最悪ですし、閣僚の顔ぶれを見渡しても、目玉になるような人が誰もいません。
岸田新首相は安倍元首相のあやつり人形だという説がありますが、人事を見ると、そうかもしれないという気がします。

マスコミの岸田内閣に関する世論調査も、毎日新聞は内閣支持率49%、不支持率40%、朝日新聞は支持率45%、不支持率20%、読売新聞は支持率56%、不支持率27%と、スタート直後にしてはパッとしません。

しかし、今からだめだと決めつけるのは早計です。
あえて岸田首相のいいところを探してみました。


岸田首相は「人の話をしっかりと聞く」ということを売りにしていますが、就任の記者会見を見ると、「しゃべるほうもしっかりしてるじゃないか」と思いました。言葉が明瞭で、力強さがあります。
もっとも、それは首相としては当たり前のことです。菅義偉前首相があまりにも「しゃべれない人」だったので、岸田首相がよく見えるだけです。
それにしても、国民に向かって語りかけることのできない人が1年間も首相を務めていたのですから、ひどい話です。

ですから、岸田首相は菅前首相を徹底批判して、違いを強調すれば、支持率はもっと上がったはずです。
もっとも、それができないのが岸田首相であり、自民党なのでしょう。


しゃべれるのは当たり前のこととして、私が評価したいのは、岸田首相には改憲への熱意があまりなさそうだということです。
岸田首相は総裁選のときに改憲を「重要な課題」と言いましたが、「やりたい」とは言いませんでした。政策パンフレットには「新しい時代の変化に対応した憲法改正を目指す」と書かれている程度です。

安倍元首相はきわめて改憲に熱心でしたが、第二次政権の7年半をかけてもついに達成できませんでした。
岸田首相が安倍元首相のあやつり人形だとしても、「熱意」まで人形に吹き込むことはできません。
いや、かりにできたとしても、安倍元首相と同じ程度の熱意ではやはり改憲はできないわけです。

総裁選の候補の中で、改憲に熱心なのは安倍元首相の支援を受けた高市早苗氏だけです。河野太郎氏も野田聖子氏もたいして熱心ではありません。
菅首相も改憲にはまったく興味がなかったので、不要不急の改憲問題は放置されました。

昔の自民党には中曾根康弘氏のように改憲に熱心な人がいくらでもいましたが、さすがに世代交代が進みました。
私は第一次安倍政権が終わったときに、もうこれで改憲(九条の改憲)は不可能になり、改憲問題は政治の世界から消えていくだろうと思いました。
ところが、安倍氏は奇跡の復活を遂げて、強力な政権を築いたために、改憲問題が復活しました。
しかし、結局それは一時的なことでした。


そもそも改憲問題とはなんでしょうか。
日本が戦争に負けたとき、「これで命が助かった。負けてよかった」と思った人たちもいますが、国家と一体感を持っていた人たちは、負けて心に痛手を負いました。
そのトラウマを解消するために、政治学者の白井聡氏は「敗戦の否認」をするのだと言っています。
占領下でつくられた戦後憲法は敗戦の象徴で、さらに九条は戦後憲法の象徴ですから、九条改正をすることで「敗戦の否認」をしようというわけです。

こうして、負けてよかったと思う人は九条を受け入れ、負けを認めたくない人は九条改正を主張して、これが戦後政治の最大の争点だったわけです。

改憲派というのは「戦後否定、戦前肯定」なので、慰安婦問題、徴用工問題、靖国参拝、教育勅語など、こだわるのはすべて戦前のことです。
戦後七十何年たって、さすがに国民も国会議員もこうした戦前のことにこだわりを持つ人は少なくなり、改憲問題はフェードアウトしつつあります。
安倍元首相の政治力が衰えれば、改憲問題は完全に消滅するでしょう。

そうすれば日本会議などの右翼やネトウヨなどは目標を失い、また護憲派も存在意義がなくなり、政治の世界から最大の争点がなくなります。


岸田首相は、そこに新たな争点を提起しました。
「令和版所得倍増計画」を掲げたのです。もちろん池田勇人首相の「所得倍増計画」をまねたものです。
池田首相は激しい60年安保闘争のあとに登場し、「所得倍増計画」によって政治の争点を安全保障から経済にシフトさせることに成功しました。
岸田首相がどこまで戦略的に考えているのかわかりませんが、改憲のようなイデオロギーに代わる争点として経済を提起したのだとすればたいしたものです。

もちろん所得倍増がうまくいくとは思えません。
岸田首相は成長戦略と分配戦略ということを言っていますが、成長戦略はこれまでずっとだめだったので、これからもだめでしょう。
とすると、問題は分配戦略です。岸田首相も「分配なくして成長なし」と言って、分配に軸足を置いています。
「新しい資本主義」とも言っています。新自由主義から転換して、格差社会を是正していくということのようです。もしかすると「社会主義的」という意味で「新しい資本主義」と言っているのかもしれません。

つまり岸田首相の経済政策は立憲民主党や共産党の政策を取り込んだものです。それによって選挙に勝利しようという戦略です。


しかし、そうはうまくいかないでしょう。
岸田首相は子育て世帯への住居費や教育費の支援、医療や介護、保育で働く人たちの賃金アップを言っていますが、これではただのバラマキで、財政赤字がふくらむだけです。

もっとも、岸田首相はその対策も言っています。それは金融所得課税の増税です。
富裕層に増税し、貧困層に分配するというなら筋は通っています。

問題はここです。
自民党が富裕層に増税できるでしょうか。
金融所得課税の増税には証券業界が強く反対して、エコノミスト、経済学者、マスコミなどを動かして反対の論陣を張りますし、自民党に巨額の献金をしている経済界も強く反対します。

岸田首相が反対を押し切って増税できればたいしたものですが、これまでのやり方を見ていると、とうていできそうにありません。
戦略はよくても実行力がないために政権運営に失敗する――という道を岸田首相はたどりそうです。


とはいえ、岸田首相が「分配」の問題を争点化したのは正しい方向です。

最近、「親ガチャ」という言葉が問題になっているのも、格差が拡大して、貧困層から上昇するのが困難になっているからです。
高市早苗氏は総裁選において、「結果の平等反対、機会の平等賛成」ということを主張しました。これがまさに新自由主義の発想です。人間は生まれ落ちたときに不平等であるという「親ガチャ」の現実を無視して、全員を同じ土俵で戦わせて、その結果を受け入れろというのです。

ところで、もともと「分配なくして成長なし」と言っていたのは立憲民主党の枝野幸男代表です。
枝野代表は、そうしたバラマキの財源はどうするのかと記者に聞かれて、「国債に決まっているではないですか」と答えていました。
富裕層への増税を実行できない点では岸田首相と同じかもしれません。


成長できればそれに越したことはありませんが、成長できないとなると、パイをどう分配するかが問題になります。
きたるべき総選挙ではそれが争点になるはずです。


war-211274_1920


アメリカは8月末にアフガニスタンから米軍を完全撤退させ、イラクでは、完全撤退とはいきませんが、米軍の戦闘任務を年内に終了させる予定です。
アメリカが中東から手を引く理由は簡単です。失うばかりで、得るものがなにもないからです。

米ブラウン大学の「戦争のコストプロジェクト(Costs of War Project)」によると、アメリカがアフガニスタン戦争にかけた費用は総額2兆2600億ドル(約247兆円)であり、また、9.11テロ以降の20年にわたる一連の対テロ戦争の費用は8兆ドル(約880兆円)にのぼるということです(米軍の人的損失については「アフガン戦争の死者を数える意味」に書きました)。

これだけの費用をかけて、なにが得られたでしょうか。
アルカイダやISIL(イスラム国)の勢力をそいだかもしれませんが、そもそもISILはアメリカが対テロ戦争を始めてからイラクの中で生まれたものです。

昔はアメリカが中東に関与するのは石油のためだと言われましたが、現在はアメリカでシェールオイルの開発が進んだので、中東の石油にこだわる必要はほとんどありません。


昔、戦争は勝てばもうかるものでした。
人類は狩猟採集時代にはほとんど戦争をしませんでしたが、農耕時代とともに戦争がよく行われるようになりました。
なぜ農耕社会に戦争が多いかというと、土地所有による土地争いの発生、人口増による飢饉の深刻化、集団の組織化、宗教の影響などが挙げられますが、単純に言って、収穫期に戦争を仕掛ければ数か月分の労働の成果を1日でごっそりと奪うことができるからでしょう。そのため環濠集落がつくられるようになります。
文明が進むにつれて戦争に勝ったときの利益も増大し、領土、財産、奴隷などを獲得することができました。
ローマ帝国、モンゴル帝国のように戦争の強い国は、勝つ限りどこまでも戦争を続けました。
近代の植民地主義の時代も同じです。近代国家が非近代国家と戦争するとほとんど必ず勝つことができました。

勝つともうかるということは、どの国や集団も勝つ機会をねらっているということですから、どの国や集団もつねに防衛戦争に備えていました。


第二次世界大戦後、国連憲章で戦争はほぼ禁止されました。
「ほぼ」というのは、自衛戦争は禁止されていないという説があり、集団的自衛権という概念でさらに自衛戦争の範囲が拡張されたからです。
しかし、戦争で領土や賠償金などを得ることは禁止されましたから、戦争は勝ってももうかるものではなくなりました。
ということは、戦争する最大の理由がなくなったことになります。
そのため、国家対国家の戦争はひじょうに少なくなりました。


アメリカは朝鮮戦争とベトナム戦争という大きな戦争をしましたが、人的にも金銭的にも大きな損失を出し、得るものはなにもありませんでした。
朝鮮戦争は引き分けでしたが、ベトナム戦争は実質的に敗北で、そのためアメリカ国内は厭戦気分が充満しました。

それを変えたのが湾岸戦争です。
1990年8月、イラクがクウェートに侵攻し、占領しました。これは明らかに国連憲章に違反する戦争ですが、国連はうまく対応できず、結局アメリカが多国籍軍を組織してクウェートを解放し、さらにイラクに攻め込み、占領はせずに引き上げました。
アメリカはこの戦争に611億ドルを費やしましたが、 約520億ドルは他の諸国より支払われました(日本の負担は130億ドル)。
つまりアメリカにとってはかなり安上がりの戦争で、しかもアメリカが「正義」を掲げて多国籍軍の指揮をしたことでアメリカ国民の自尊心も高揚しました。

これによってベトナム戦争以来の厭戦気分は払拭され、アメリカはアフガン戦争、イラク戦争へと突き進んでいったわけです。

アフガン戦争もイラク戦争も、アメリカは負けたわけではありません。軍事的には勝ったとも言えます。
しかし、損得で言うと、なんの得もなく、大損でした。
アメリカ国内が再び厭戦気分で満たされたのは当然です。


世界はアメリカのやることを見ていて、現代の戦争は勝っても大損だということを改めて認識しました。
そうすると、理性的な判断で戦争を仕掛ける国はないはずです。
戦争があるとすれば、狂気の判断による戦争か、偶発的な戦争だけです。
偶発的な戦争は、双方に理性があれば、戦争を継続すれば損をすることがわかっているので、すぐにやむはずです。

国際連合広報センターの「紛争と暴力の新時代」というページから、最近の戦争とテロの動向に関する部分を引用します。
75年前に国連が創設されてから、紛争と暴力の性質は大きく変わっています。紛争は犠牲者こそ少なくなっているものの、長引く傾向にあり、しかも国家間ではなく、国内の集団間で発生することのほうが多くなっています。
   ※
世界的に見ると、戦死者の絶対数は1946年以来、減少を続けています。しかし同時にまた、紛争や暴力は現在、増加傾向にあり、大半の紛争は政治的民兵や犯罪集団、国際テロ集団など非国家主体の間で生じています。
   ※
現在では、武力紛争よりも犯罪が多くの人の命を奪っています。2017年には、全世界で50万人近くが殺人によって命を失っていますが、これは武力紛争による死者8万9,000人とテロ攻撃による死者1万9,000人を大きく上回る数字です。
   ※
テロは依然として幅広く見られるものの、その影響は近年、衰えてきています。全世界でテロ攻撃よるものと見られる死者の数は、2018年に3年連続で減少し、1万9,000人を下回っています。

国家対国家の戦争がほとんどなくなっていることがわかります。

そうすると各国は軍備を削減し、軍事費を減らしていいはずです。
しかし、英シンクタンク「国際戦略研究所(IISS)」の発表によると、2020年の世界の軍事費は過去最高水準に達しました。
つまり「戦争の危機は減少しているのに軍事費は増大している」という現象が起きているのです。
どうしてでしょうか。

理由はいくつか考えられます。
アメリカに限らずどの国にも軍産複合体があって、軍事費を削減されると困る人たちがいます。
政治家は戦争の危機があるとみずからの権力が強まるので危機をあおろうとする傾向があります。
マスコミもみずからの利益につながるので危機をあおろうとする傾向があります。
そして、人間には「世界はどんどん悪くなっている」と思い込む認知バイアスがあります(『ファクトフルネス』の著者ハンス・ロスリングはこれを「ネガティブ本能」と名づけています)。

ともかく、戦争の危機は減少しているのに、そのことが認識されず、さらに危機感をあおろうとする人がいるので、おかしな現象が起きているのです。


フランス海軍のフリゲート艦シュルクーフは5月に沖縄周辺で自衛隊とともに洋上補給訓練を実施しました。
イギリス海軍の最新鋭空母クイーン・エリザベスを中心とする空母打撃群が極東に派遣され、9月初めに横須賀などに寄港しました。
ドイツ海軍のフリゲート艦バイエルンは自衛隊と共同訓練をするため11月ごろ東京に入港する見通しだそうです。

どうしてヨーロッパの海軍が極東に来るのでしょうか。
表向きは「中国をけん制するため」ですが、要するにどこの国の軍隊も存在価値が問われているので、リストラされないように「仕事するふり」をしているのです。

自衛隊も同じです。
ここ数年、自衛隊は離島奪回訓練をしきりにアピールしています。
「本土防衛」がまったく現実的でなくなって、自衛隊の存在価値が問われているので、これも「仕事するふり」です。
敵基地攻撃論議も同じ意味です。

米インド太平洋軍のデービッドソン司令官は3月9日、米上院軍事委員会の公聴会で「6年以内に中国が台湾を侵攻する可能性がある」と証言して、“台湾危機”を盛り上げました。こうした動きも、アメリカの軍事費を削減されないためです。中国が台湾に侵攻したときの利害得失を考えてみれば、まったく現実的でないことがわかります。

防衛省は8月31日、2022年度予算の概算要求で5兆4797億円(21年度当初予算比で2.6%増)を計上しました。要求通りとなれば防衛費は過去最大となります。
自民党総裁選に立候補中の4氏も防衛費増で一致しています。

防衛費はまったくむだではありませんが、戦争の可能性が低くなると、限りなくむだに近づきます。
多額の防衛費は、千年に一度の洪水に備えて堤防をつくるみたいなものです。
あるいは家計が赤字なのに高額な生命保険に加入するみたいなものです。
日本が財政破綻してIMFの管理下に入ると国家主権が制限されます。防衛費のために財政破綻しては本末転倒です。


「世界はどんどん悪くなっている」という認知バイアスを脱して、現実的で冷静な防衛論議をしなければなりません。


363473_m

「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。

isaak-alexandre-karslian--oBfOjcoSVY-unsplash


9.11テロから20年がたち、アフガニスタン戦争が終結したこともあって、現在さまざまな論考が行われていますが、あまりにも見方が偏っています。

たとえばタリバン政権が成立したアフガン情勢の報道は、女性キャスターが追放されたとか、デモ隊にタリバン兵が発砲して死者が出たとか、暫定政権の主要閣僚はタリバンの男性ばかりで「包括的」でなく、米政府がテロリスト認定して指名手配した人間も含まれているとか、女子教育が制限されるのではないかとか、否定的なことばかりです。

実際は、肯定的なこともあるはずです。
なによりも内戦が終わり平和になりました(反タリバン武装勢力は北東部パンジシール州で最後の抵抗をしていましたが、ほぼ制圧された模様です)。
自爆テロに巻き込まれたり、米空軍の誤爆にあったりという心配がなくなったことは、アフガン国民にとって大きなプラスです。すべてのマイナスを打ち消して余りあるのではないでしょうか。
また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は8月27日、2021年末までに最大50万人が難民として国を離れる可能性があると発表しましたが、今のところ難民の流出はとくになさそうです。


どうしてマスコミはタリバン政権に否定的なのでしょうか。

私は第一次タリバン政権が成立したころのことをよく覚えています。
アフガン情勢など新聞の国際面にもめったに出ませんが、タリバンという「謎の勢力」が現れ、急速に勢力を伸ばしているという小さな記事が目につきました。
当時、アフガンは1989年にソ連軍が撤退してから各地に軍閥が群雄割拠する内戦状態にありました。1994年ごろからタリバンが現れ、たちまち支配地域を広げ、1996年にカブールを占領して政権を樹立したのです。
タリバンはパキスタンの支援を受けているという説もありました。「タリバン」というのは「神学生」という意味で、戒律を厳格に守り、腐敗したほかの勢力とは一線を画していて、それが民衆の支持を得たといわれていました。
私自身は、日本の戦国時代に織田信長が現れて天下統一したみたいなものかと思っていました。
タリバンは原理主義的で、過激でしたが、戦乱の中ではいちばん過激なものが勝ち抜けるものです(織田信長もそうです)。

ともかく、タリバンが天下統一し、まだ地方には軍閥が残っていましたが、1979年にソ連軍が侵攻してから20年ほど続いた内戦がようやく終結し、アフガンに平和が訪れました。

タリバン政権はイスラム原理主義とされ、国際社会から警戒されました。
バーミヤンの石仏を破壊したときは世界的に非難されましたが、そのときタリバン政権の広報官が「アフガン人がいくら死んでもなんの関心も示さなかった国際社会が、石仏が壊れただけで大騒ぎするのには驚いた」という意味の発言をしたのは、なかなか辛辣な指摘で、記憶に残っています。

タリバン政権が過激なのは内戦が20年も続いたからで、しばらく平和が続けば、だんだんと穏健になっていくだろうと私は思っていました。


ところが、アメリカが2001年にアフガンに侵攻し、平和は破壊されました。
9.11テロの首謀者とされたオサマ・ビンラディンをタリバン政権がかくまったというのが侵攻の理由ですが、そこからまたもや20年も内戦が続いたわけです。

アメリカはタリバン政権を倒して、新たな政権をつくりましたが、これは明らかな「武力による現状変更」ですから、タリバン政権のほうに正統性があります。
アメリカは「民主的」な政権をつくったと言いますが、選挙からタリバンは排除されていましたから、「民主的」とはいえないでしょう。
米軍撤退とほとんど同時にタリバン政権が復活したのは、国民もタリバンを支持していたからです。


タリバンは女性の権利を認めないので、アメリカがタリバン政権を倒したのは正しいし、撤退もするべきでなかったという意見があります。
女性の権利はたいせつですが、権利意識は国によって違うものです。

ヤフーニュースの『「タリバンは残虐なテロリスト」って本当? 現場を知るNGOスタッフの答え』という記事から一部を引用します。

長谷部:まずは、私の体験からお話しますね。2005~2012年に私が支援活動をしていたのは、カブールから東に約150km離れた、ジャララバードを中心とする「ナンガルハル州」というところでした。そこでは、その当時でも成人の女性がひとりで街や村の外を歩くということはなく、家族とともに外出している女性はブルカを着用していました。
 家に招かれた客人は、「ゲストルーム」という離れの一室ですごすことになっていて、家の女性とは一切会うことはありません。例外は長老の許可があったときだけ。そのときだけ、地域の女性と会うことができました。

西牟田:アメリカが統治していた時代でも、地方はそんな感じだったのですね。タリバンが統治していた1998年、私がジャララバードへ行ったときと大差がない。一方、カブールは違っていそうですね。私が行ったときは、地元の女性は全員がブルカを着けていました。仕事が一切できないからか、バスターミナルにブルカ姿の物乞いがかなりいました。

長谷部:私がいたころはカブールに出ると、頭にヘジャブを巻いて顔を出して独りで歩いている女性がたまにいたりして。カブールのような都会と私が活動していた田舎ではずいぶん違うので、めまいがしそうなくらいでした。

西牟田:カブールでアメリカナイズされた人たちや外国人と、それ以外の地方の人とでは文化がまったく違うし、捉え方も違うのですね。

「女性の権利」というような価値観は、外国が力で押しつけるものではありません。
日本も、男尊女卑の自民党が政権の座にありますが、日本国民が解決するべき問題です。

民主主義についても同じです。
アフガンは、一部の都市を除いてほとんどは部族社会です。
「部族社会における民主主義」というのは想像できません。長老の意見に従うのが当然と思っている人たちに一人一票の投票権を与えても意味がなく、長老会議で物事を決めたほうが効率的です。

人権や民主主義が価値あるものなら、いずれ人々はそのことに気づくはずで、力で強要するのは間違いです。


アメリカの愚かな間違いがもたらした結果は重大です。
人的被害だけに関しても、ウィキペディアの「アフガニスタン紛争 (2001年-)」にはこう書かれています。

ブラウン大学の「コスト・オブ・ウォー」プロジェクトによると、2021年4月時点で、アフガニスタンでの死者は17万1,000〜17万4,000人、アフガン民間人が4万7,245人、アフガン軍・警察が6万6,000〜6万9,000人、反対派の戦闘員が少なくとも5万1,000人となっている。


アメリカ側の人的被害はというと、8月19日時点で、米軍の死者数は2452人、イギリス、カナダ、ドイツなどNATO加盟国の死者を含めると3596人になります。
9.11テロの死者数は2977人です。


現在、アフガン戦争と対テロ戦争についての反省点がいろいろ議論されていますが、どれもアメリカ側に立ったものです。
たとえば、9.11テロ後のアフガン戦争とイラク戦争などでの米軍の戦死者は7000人超ですが、自殺者は3万人超になるということで、帰還兵の傷ついた心理に焦点を当てたルポルタージュがいくつも目につきます。これらは戦争の悲惨さを伝えているようです。
しかし、17万人超のアフガン人の死者は無視されています。

マスコミは、アフガン人に17万人超の死者が出たということすらまず報道しません。
米兵の死者数や9.11テロの死者数は報道します。
アフガン人とアメリカ人の命に軽重をつけているのです。
米空軍が民間人の誤爆を繰り返したのも、アフガン人の命を軽く見ているからです。
おそらくはイスラム教徒への差別と人種差別によるものです。

アメリカの侵攻と占領のせいで、アフガンは17万人超の死者を出しただけでなく、国土が荒廃し、経済が停滞しました。
私が思うに、アフガン政府はアメリカ政府に対して損害賠償を請求していいはずです。
トランプ前大統領は、新型コロナウイルスを流出させたとして中国政府に多額の賠償金を求めると息巻いていましたが、ウイルスは自然界のもので、アメリカのアフガン侵攻は意図的行為ですから、こちらのほうが罪が大きいのは明らかです。
実際はアメリカが賠償金を払うことはないでしょうが、アメリカの「戦争責任」を追及する議論は行われるべきです。

それから、戦争が終われば「戦後復興」ということになり、国際社会はアフガンの戦後復興に手を差し伸べなければなりません。
ところが、そういう議論がまったく起きていません。
タリバン政権にけちばかりつけているのは、戦後復興に金を出したくないからでしょうか。


世の中にはさまざまな価値観があって、それが偏見を生みます。
偏見を脱するために、間違った価値観と格闘するのはなかなかたいへんです。
それよりも簡単な手があります。
それは、死者の数(命の数)を数えることです。
死者の数の多いほうが悲惨な目にあっていて、おそらくそこに差別すなわち偏見があります。

このページのトップヘ