村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

hip-hop-2733138_1280

東京都千代田区立麹町中学校でダンス部がヒップホップダンスの発表をすることが禁じられ、波紋を呼んでいます。

麹町中ダンス部では春の体育祭と秋の文化祭でヒップホップダンスを発表するために週2回ヒップホップ専門のコーチから指導を受けてきましたが、4月からは活動内容を「創作ダンス」に変更することを学校側が決定、コーチも交代し、体育祭と文化祭でのヒップホップダンスの発表もなくなりました。
保護者らが学校に抗議したところ、1学期末の7月まで週1回だけヒップホップの自主練習をすることが認められましたが、ある保護者は「部員たちは学校側の一方的な変更で別の部に入れられたようなもの」と話しています(朝日新聞の『部活でヒップホップ、だめ? ダンス部、中学校が「創作ダンス」に』より)。

これは単に一中学校の部活の問題ではなく、日本の学校教育全体の問題でもあります。
重層的な問題でもあるので、ひとつずつ解きほぐしていきたいと思います。

まずこれを「ヒップホップ」の問題ととらえることができます。
ヒップホップは1970年代にアメリカで生まれた黒人の音楽、ダンス、ファッションの大衆文化です。
そのため、「不良の音楽」ととらえる向きもあります。ジャズやロックなどもみな昔は「不良の音楽」でした。
「ヒップホップ禁止は当然」とか「部活にヒップホップはふさわしくない」とか「ヒップホップをやりたければ学校外でやればよい」といった意見がありますが、これらはみなヒップホップに対する価値観に基づく意見です。

それから、学校と部活の関係という問題があります。
ダンスといってもいろいろあります。ダンス部という名前であればどんなダンスをやってもいいはずです。
どんなダンスをやるかは、ダンス部が決めることです。
ところが、麹町中では学校が決めたわけです。
しかも学校は部員たちの希望とは違うことを決めて、押しつけました。
部活動の破壊といわれてもしかたありません。

学校が部活に対してこうした理不尽なことをしてもいいのかと思いますが、文科省は容認しているようです。
生徒が理不尽なブラック校則に縛られていても、文科省はなんのアクションも起こさないですから、部活でも同じなのでしょう。


文科省は生徒を管理の対象としか見ていません。
2017年告示の学習指導要領総則には部活動に関して「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化、科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること」とあり、この中に「生徒の自主的、自発的な参加」という言葉があって注目されました。
それまでは生徒は最低ひとつの部に所属しなければならないという学校があり、部活が強制されていましたが、そういうことは否定されたわけです。
しかし、この「自主的、自発的」はあくまで「参加」にかかった言葉で、部活の内容について「自主的、自発的」を認めたわけではないと思われます。


ともかく、日本の学校は生徒の意志を平気で無視するというとんでもないところです。

ミュージシャンのGACKT氏はXにおいてヒップホップ禁止問題について「何でよくわからん偏った大人の尺度で子供たちを縛るのか?」「そもそもダンスは自分の表現のためのもの。表現することに縛りをつけるのが教育と呼べるのだろうか?それはまるで、絵を描きたい子に絵の具はダメだ!墨だけ使え!と言っているようなもの」「今の日本を象徴しているかのような歪んだ教育の末路とも言える」などと意見を述べました。

ゆたぼんのパパで心理カウンセラーの中村幸也氏もXにおいて「このようになんでもかんでも禁止することによって子どもたちは可能性を奪われて凡人化されていく。しかも『学校』の禁止令は人権侵害スレスレのものばかり」と述べました。


麹町中がヒップホップ禁止令を出した背景には、大きな教育観の対立がありました。

麹町中は公立中学ですが、昔から日比谷高校に多数の合格者を出し、越境入学者も多くいるという名門中学校です。
2014年に工藤勇一氏が校長に就任すると、生徒の自主、自律を尊重した学校改革に取り組み、宿題廃止、定期テスト廃止、固定担任制廃止、校則の自由化など大胆な方針を打ち出しました(定期テストは廃止しても成績をつけるための別の形式のテストはあります)。
これは評判となり、越境入学者はさらにふえ、工藤校長は「カンブリア宮殿」や「林先生の初耳学SP」に出演するなどし、何冊かの著書も出版しました。


こうした学校が可能で、評判もよいとなれば、日本の学校教育も変わっていくはずです。
麹町中はいわば希望の星です。
ただ、これは文科省の教育の否定です。
工藤氏は文科省関係の公職にもついているので、文科省との関係は悪くなさそうですが、文科省としては工藤氏の教育方針を認めるわけにはいかないはずです。

工藤氏は2020年3月に校長を退任しましたが、後任の校長が同じ路線を継承しました。
しかし、2023年4月に堀越勉氏が校長に就任すると、7月の保護者向け学校説明会で、定期試験の実施、学級担任制の導入、指定の制服・体操着の着用などの方針を表明、方針転換の理由としては生徒の学力向上、生活指導強化の必要性を挙げました。
要するに工藤校長の方針を全部くつがえして、「当たり前」の学校に戻すようです。
ヒップホップ禁止もその一環なのでしょう。
日本の教育を根本的に変革する可能性を堀越校長一人がつぶそうとしているわけです。

もっとも、堀越校長の背後に文科省あるいは千代田区がいるのかもしれません(樋口高顕千代田区長は都民ファーストの会推薦で当選)。
堀越校長には、個人の考えでやっているのか、文科省の後押しがあるのか、問いただしたいところです。

いずれにしても、麹町中のヒップホップ禁止令は、日本の学校教育の今後を左右する問題です。
文科省式の管理教育か、工藤校長式の自由教育かが問われています。
もちろんどちらがよいかは明らかです。
文科省式の管理教育では子どもの意欲も創造性も失われてしまいますし、それ以前に、子どもの自殺、いじめ、不登校が統計的に増加していることで破綻は明らかです。

教育といってもむずかしく考える必要はありません。
子どもが元気になる教育がよい教育です。

right-7472518_1280

名古屋市長で日本保守党共同代表である河村たかし氏は4月22日、「なごや平和の日」に関して「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語り、各方面から批判を浴びました。
自民党市議団からも批判され、擁護や賛同の声はほとんどありませんでした。
しかし、河村氏は発言を撤回せず、4月30日の記者会見で「道徳的」の意味は「感謝される対象、徳がある」などと説明し、「祖国のために死んでいったことは一つの道徳的行為だった」と改めて語りました。

圧倒的に批判されても河村氏が発言を撤回しないのはどうしてでしょうか。
それは「道徳的」という言葉を使ったからです。
「道徳的」ないし「道徳」という言葉を使った人は決して反省しません。


杉田水脈議員は衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したことがあります。
男女平等を否定する発言にはさすがに批判一色でした。
しかし、杉田議員は発言の撤回も謝罪もしませんでした。衆院本会議場の発言はそのままになっています。
「道徳」という言葉を使ったからです。

広島市の松井一実市長が職員への講話で教育勅語の一部を引用し、新規採用職員の研修用資料にも教育勅語の一部が引用されていることが批判されてきました。
教育勅語については戦後の国会で排除・失効が決議されており、平和都市広島にふさわしくないということなどが主な批判の理由ですが、松井市長は今年3月の記者会見でも「新年度以降もちゃんと説明しながら使いたい」と語り、批判には取り合わない態度です。
松井市長は「道徳」という言葉は使わなかったかもしれませんが、教育勅語が道徳そのものです。

戦後、政治家が教育勅語を肯定する発言をすると、そのたびに批判されますが、それでもこの手の発言は繰り返されてきました。
教育勅語が道徳なので、反省しないのです。

政治の世界ばかりではありません。
最近のネットニュースにあったのですが、大阪のアメリカ村にあるたこ焼き店「しばいたろか!!」はレジのところに《タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます。スタッフは奴隷でもなければ友達でもありません》と書かれた紙を張り出していて、これがXに投稿されると炎上しました。
たこ焼き店の社長は取材に対して「決してお客様に対して喧嘩を売ってるわけではありません。ただ、人として普通のことを言ってるだけなんです」と、やはり反省の態度は示しませんでした。自分の行為は道徳的だと思っているからでしょう。


こうしたことは海外でも見られます。
国連は、世界各地の武力紛争がもたらす子どもへの影響を調査し、子どもの権利を著しく侵害した国をリストにして公表していますが、このたび新たにイスラエルをリストに加えたと6月7日に発表しました。
これにイスラエルは猛反発し、ネタニヤフ首相は声明で「国連は殺人者であるハマスを支持しみずからを歴史のブラックリストに加えた。イスラエル軍は世界で最も道徳的な軍隊だ」と述べました。
「道徳的」という言葉を使ったので、イスラエルは絶対反省しないでしょう。


「道徳」を持ち出すと、誰もが思考停止になってしまいます。
これは批判する側も同じです。批判するほうも思考停止して決め手を欠くので、批判される側はぜんぜんこたえません。

そもそも道徳とはなにかということがよくわかっていないのです。
国語辞典では「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体」などと説明されていますが、これではなんのことかわかりません。

道徳はわけがわからないものなので、当然役にも立ちません。そのことを河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」という言葉を例に示してみます。

戦争に行って祖国のために命を捨てるというのは、国家にとっては道徳的行為かもしれませんが、親にとっては「親に先立つ不孝」というきわめて不道徳な行為です。河村市長は実は親不孝という不道徳な行為を勧めていることになります。
それに、「戦争に行く=命を捨てる」というのはおかしな発想で、太平洋戦争でボロ負けした日本特有のものでしょう。
戦争に行く本来の目的は、自分たちが生き延びるために敵を殺すことです。敵兵を殺すのは果たして道徳的行為でしょうか。

つまり道徳には普遍性がないので、見る角度によっては真逆になってしまいます。
教育勅語は「汝臣民」に向けたものなので、あくまで「日本国民の生き方」であって、決して「普遍的な人間の生き方」を示したものではありません。
教育勅語には「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省現代語訳)とあります。河村市長も「一身を捧げて」という言葉を受けて「祖国のために命を捨てる」と言ったのでしょう。
しかし、これを外国から見れば「偏狭なナショナリスト」や「狂信的なテロリスト」育成の教えとしか思えません(実際、自爆攻撃につながりました)。

「人のものを盗んではいけない」というのは普遍的な教えのように見えます。しかし、盗まれるものをなにも持たない貧乏人にも大金持ちにも等しく適用されるので、実は金持ちに有利な教えです。
「人に迷惑をかけてはいけない」というのもよくいわれますが、これは身体障害者や病人の存在を無視した考え方です。身体障害者や病人が人に迷惑をかけるといけないみたいです。また、自分が人に助けを求めることもしにくくなります。
日本では「人に迷惑をかけてはいけない」というのは道徳の筆頭に上げられますが、外国ではほとんどいわれることがないそうです。日本人に助け合いの心が少ないことの表れかもしれません。


道徳には根拠もありません。そのため、宗教と結びつく形で存在しています。
欧米では道徳はキリスト教と結びついていて、日曜学校で教えられるのが道徳です。
日本でも教育勅語は現人神である天皇と結びついています。
道徳は宗教の中に閉じ込めておくか、倫理学者の難解な本の中に閉じ込めておくのが賢明です。
道徳を世の中に持ち出すとろくなことになりません。


ところが、保守派はやたらと道徳を公の場に持ち出します。
アメリカの保守派が主張する中絶禁止や同性婚禁止は要するにキリスト教道徳です。
日本でも、保守派が主張する夫婦別姓反対は「家族は同じ姓のもとにまとまるべき」という道徳です。
日本のジェンダーギャップ指数が低位なのも保守派の道徳のせいです。

こういう道徳はみな時代遅れです。
というか、そもそも道徳は時代遅れなものです。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』において「道徳は常に古着である」といっています。
さらに「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」ともいっています。

芥川龍之介はちゃんと道徳を否定しています。
しかし、今の世の中は、河村市長の発言や水田議員の発言や教育勅語などを表面的に批判するだけで、道徳そのものを批判しないので、中途半端です。そのために保守派の持ち出す道徳で世の中の進歩が妨げられています。

道徳そのものを批判する視点を持っていたのはマルクス主義です。
マルクス主義では、生産関係である下部構造が上部構造を規定するとされ、道徳も上部構造であるイデオロギーのひとつです。ですから、道徳は資本家階級が労働者階級を支配するのに都合よくつくられているとされます。
しかし、どんなに過激なマルクス主義者でも「人を殺してはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかの道徳までは否定しないでしょう。その意味では中途半端です。

フェミニズムは「男尊女卑」や「良妻賢母」などの男女関係の道徳を否定しましたが、道徳全般を否定しているわけではないので、やはり中途半端です。


道徳全般を否定する新たな視点が必要です。
道徳、善悪、価値観などをすべて否定すると、つまり「道徳メガネ」や「価値観メガネ」を外すと、現実がありのままに見えるようになります。
私はそういう視点からこの文章を書きました。

道徳全般を否定する視点を身につけるには別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

cowboy-7881640_1280

トランプ前大統領の口止め料を巡る裁判で有罪評決が下りましたが、トランプ氏は控訴を表明し、「不正な裁判だ」「判事は暴君だ」などと述べました。
トランプ支持者も有罪評決でめげることはなく、逆に気勢を上げているようです。トランプ陣営は有罪評決後の24時間で約82億円の寄付が集まり、うち3割は新規の寄付者だったと発表しました。
アメリカの有権者の35%が4年前の大統領選は不正だったと思っているそうです。

「法の支配」は社会の基本ですが、トランプ氏とその支持者は「法の支配」など平然と無視しています。
これはトランプ氏のカリスマ性のゆえかと思っていました。
しかし、それだけでは説明しきれません。
私は、アメリカ人はもともと「法の支配」なんか尊重していないのだということに気づきました。

私の世代は若いころに映画とテレビドラマで西部劇をいっぱい観ました。
西部劇には保安官や騎兵隊も出てきますが、基本は無法の世界で、男が腰の拳銃を頼りに生きていく様を描いています。
今、アメリカで銃規制ができないのはその時代を引きずっているからです。

銃規制反対派は市民が権力に抵抗するために銃が必要なのだと主張しますが、アメリカの歴史で市民が銃で国家権力に抵抗したのは独立戦争のときだけです。
では、銃はなんのために使われていたかというと、ほとんどが先住民と戦うためと黒人奴隷を支配するためです。
それと、支配者としての象徴でしょう。
日本の侍が腰に刀を差しているのと同じ感覚で西部の男は腰に拳銃を吊るして、先住民、黒人奴隷、女子どもに対する支配者としてふるまっていたのです。
ですから、「刀は武士の魂」であるように「銃はアメリカ男子の魂」なので、銃規制などあってはならないことです。

西部開拓の時代は終わり、表面的には「法の支配」が確立されましたが、今もアメリカ人は「法の支配」を軽視しています。
たとえば白人至上主義者は平気で黒人をリンチしてきました。
『黒人リンチで4000人犠牲、米南部の「蛮行」 新調査で明らかに』という記事によると、米南部では1877年から1950年までの間に4000人近い黒人が私刑(リンチ)によって殺されていたということです。

同記事には『私刑のうち20%は、驚くことに、選挙で選ばれた役人を含む数百人、または数千人の白人が見守る「公開行事」だった。「観衆」はピクニックをし、レモネードやウイスキーを飲みながら、犠牲者が拷問され、体の一部を切断されるのを眺め、遺体の各部が「手土産」として配られることもあった』と書かれています。ナチスの強制収容所を連想します。人種差別主義者は似ているのでしょう。

リンチの犯人がかりに裁判にかけられることがあっても、陪審員は白人ばかりなので有罪になることはありません。
最近でも似たようなものです。警官が黒人を殺す場面が動画に撮られて大きな騒ぎになった事件でも、警官は裁判にかけられても無罪か軽い罪で、恩赦になることもあります。

そういうことから、白人至上主義者にとってトランプ氏の裁判で有罪の評決が出たのは「不当判決」なので、平然と無視できるのでしょう。


「法の支配」を軽視するのはアメリカ人全体の傾向です。
それは国際政治の世界にも表れています。
国際刑事裁判所(ICC)は5月20日、ガザ地区での戦闘をめぐる戦争犯罪容疑でイスラエルのネタニヤフ首相らとハマスの指導者らの逮捕状を請求したと発表しました。
これに対してバイデン大統領は「言語道断だ。イスラエルに対する国際刑事裁判所の逮捕状請求を拒否する。これらの令状が何を意味するものであれ、イスラエルとハマスは同等ではない」などの声明を発表しました。
「法の支配」をまったく無視した態度です。

バイデン大統領はトランプ氏への有罪評決に関して「評決が気に入らないからといって『不正だ』と言うのは向こう見ずで、危険で、無責任だ」「法を超越する存在はないという米国の原則が再確認された」などと語っていました。
評決が気にいらないからといって「不正だ」と言うのはバイデン大統領も同じです。
なお、アメリカは国際刑事裁判所(ICC)に加盟していませんが、加盟していないということがすでに「法の支配」を軽視しています(ロシア、中国も加盟していませんが、アメリカの態度が影響しているともいえます)。


国際司法裁判所(ICJ)は24日、イスラエルに対しガザ地区南部ラファでの軍事攻撃を即時停止するよう命じましたが、イスラエル首相府はこれを真っ向から否定しました。
アメリカもこれを容認しています。
国際司法裁判所(ICJ)は国連の機関なので、各国は法的に拘束されますが(執行力はない)、ここでもアメリカは法を無視しています。


トランプ氏が「アメリカファースト」を言うのは、もちろんアメリカは他国よりも優先されるという意味ですが、結果的にアメリカは法の上にあることになります。
バイデン大統領もこの点ではトランプ氏と変わらないようです。


アメリカもいつも無法者のようにふるまうわけではなく、表向きは「法の支配」を尊重していますが、いつ無法者に変身するかわかりません。
そうなるとアメリカの世界最強の軍事力がものをいいます。
当然、世界のどの国もそのことを意識せざるをえません。

日本も例外ではありません。
日本はアメリカと繊維、自動車、半導体などさまざまな分野で通商摩擦を演じてきましたが、どれも最終的に日本が譲歩しています。
日本がとことん強硬に主張し続けると、アメリカはテーブルをひっくり返して腰の拳銃を抜くかもしれないからです。
軍事行動に出なくても、貿易や金融などで不当な仕打ちをしてくるということはありえます。WTOに提訴するぐらいでは防げません。
なにかの理由をつけて経済制裁をしてくるということも考えられます。イランやキューバは今ではなんの理由だかわからなくなっても制裁され続けています。

どの国もアメリカと二国間交渉で対等な交渉はできません。
アメリカがGDP比3.45%もの巨額の軍事費を支出しているのも、それによって経済的な利益が得られるからに違いありません。



世界が平和にならないのは、アメリカが「法の支配」を無視ないし軽視して「力の支配」を信奉する国だからです。
世界を平和にするには、国際社会とアメリカ国内の両面からアメリカを変えていかなければなりません。

devil-963136_1280

保守とリベラルの対立は世界的に大きな問題になっていますが、教育や子育てに関しても保守とリベラルは対立しています。
たとえばブラック校則を問題にするのはもっぱらリベラルで、保守派はまったく無関心です。
保守派は管理教育賛成で、リベラルは管理教育反対です。
昔、体罰賛成か反対かで世論が割れていたころ、保守派はほとんどが体罰賛成でした。戸塚ヨットスクールが問題になったとき、戸塚ヨットスクール支援者として名を連ねたのは保守派ばかりでした。
性教育に反対しているのはもっぱら保守派です。
家庭で虐待された少女を救う活動をしているColaboをバッシングしたのは保守派で、Colaboを支援したのはリベラルでした。

子育てや教育については科学的な研究が進んでいます。
ですから、保守とリベラルの対立についても科学が結論を出す日も近いでしょう。
すでに「しつけ」については科学的な結論が出ています。


これまで社会は親に対して、子どもをしつけるようにと強く要請してきました。
たとえばレストランなどで子どもが騒いでいると、「親が子どもを静かにさせるべきだ」ということと同時に「親が子どもをちゃんとしつけるべきだ」という声が上がります。
子どもをしつけることは親の義務とされているのです。

親が子どもを虐待して死亡させるような事件が起こると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
それに対してコメンテーターなどがなにか言うのを聞いたことがありません。
「しつけ」はよいこととされているので、言いようがないのです。
あえて言うとすれば、「しつけをするのはいいが、やりすぎはよくない」ということでしょうか。しかし、これでは「しつけは殺さない程度にやりなさい」と言っているみたいです。
「あれはしつけではない」と言うのはありそうです。しかし、そう言うと、「では、ほんとうのしつけはどこが違うのか」というふうに話が発展して、これに答えるのは困難です。


「しつけ」というのはもともと武士階級で子どもに礼儀作法などを教えることをいいました。
「躾」というのは日本でつくられた漢字です。この漢字をもとにして「躾というのは身を美しくすることだ」ということもよくいわれます。
「身を美しくする」ということは、逆にいえば心を美しくすることではないわけで、うわべだけということです。

子どもが騒がずに静かにしていれば「しつけができている」とされます。
しかし、子どもが騒いだり動き回ったりするのは自然なことで、発達に必要なことです。子どもをむりに静かにさせると、心身の発達に悪影響があります。
つまりしつけというのは、子どもの発達を無視して、うわべだけおとなの都合のいいようにすることです。

よく公共の場で子どもが騒いではいけないといわれますが、公共の場には子どもも老人も身体障害者もいる権利があり、肩身の狭い思いをする必要はありません。公共の場で子どもに騒ぐなと要求するおとなは、共生社会も子どもの発達も理解しない、ただのわがままなおとなです。子どものいない静かな環境はプライベートの場で求めるべきで、公共の場で求めるべきではありません。


ともかく、親は社会の要請に応えて子どもをしつけようとしますが、子どもの発達に反したことをしようとしているのですからうまくいきません。うまくいかないと親は子どもを叱ります。
そのため、親の子育ての悩み相談でよく見かけるのは「子どもが言うことを聞かない」という悩みと「毎日子どもを叱ってばかりいる。こんなに子どもを叱っていいのだろうか」という悩みです。

「子どもをしつけるべき」という社会の要請が親子関係を破壊していることがよくわかります。


「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。

「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。

ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。


今や一人前になり、以前よりは力も強く、頭も働くようになって、なぜ、今突然に、彼は束縛を受け、拘束されねばならぬのでしょうか。七歳、十四歳、二十歳になって、いままで両親が甘やかして、大幅に許されていた特権を、なぜ彼は失わねばならぬのでしょうか。同じことを犬や、馬やあるいは他の動物にやってみて、その動物が若い間に習った、悪い、手に負えぬ癖が、引き締めたからといって、容易に改められるかご覧なさい。


ジグムント・フロイトの患者にシュレーバーという者がいましたが、その父親は何冊もの本を書いた高名な教育学者でした。シュレーバーの父親は子どもの教育はできるだけ早く、生後五か月には始めなければならないと主張していました。言葉もわからない子どもにどう教育するかというと、たとえば泣きわめいている赤ん坊をよく観察し、窮屈だとか痛い思いをしているわけではなく、病気でもないとなったら、泣きわめいているのは「わがままの最初の現れ」であることがはっきりするといいます。


「こうなったらもはやはじめのようにじっと待っていたりしてはならないので、なんらかの積極的な行動に出る必要がある。速やかに子どもの気を別のものに向けさせたり、厳しく言ってきかせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そういうことでは効き目がない場合には――もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感ずる形で警告を発し続けるのがよい……」(アリス・ミラー著『魂の殺人』より引用)


これはどう見ても幼児虐待の勧めです。フロイトの時代に神経症患者の研究が進んだのにはこうした背景があったからかもしれません。
ともかく、赤ん坊に「わがまま」があるという考えは「子ども性悪説」そのものです。

なお、中世には「教育」というのは金持ちが家庭教師を雇ってすることで、庶民には無縁のことでした。
「子ども」という概念もなく、子どもは「小さなおとな」と見なされていたとされます。
近代になって庶民も教育やしつけをするようになって、ロックやカントの教育論が出てきたのです。

日本でも江戸時代にしつけをしていたのは武士階級だけです。
幕末から明治の初めに欧米から日本にきた人たちはみな、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、明治政府は富国強兵のために欧米式のしつけを日本に広めました(たとえば国定教科書に乃木希典大将の幼年時代のエピソードを掲載したことなどです。詳しくはこちら)。

西洋式のしつけは、子どもを動物のように調教するというもので、体罰を使うのは当たり前です。
もっとも、日本では子どもを動物と見なすような考え方はないので、しつけをする親はつねに葛藤していたと思われます。

このような時代の流れによって、「しつけのためにやった」と言う幼児虐待の加害者が出現するようになったのです。


しかし、「科学」がこうした子育てのあり方を変えました。
その具体的な始まりは1946年出版のベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』だったでしょう。この本は世界的ベストセラーになって、1997年版の「編集後記」によると、39か国に翻訳され、世界で4000万部発行されたということです。聖書の次に売れた本という説もあります。

この本の基本的な姿勢を示す部分を引用します。

過去五十年のあいだ、教育者、精神分析学者、小児精神科医、児童心理学者、小児科医などが、いろいろとこどもの心理について研究してきました。その結果が、新聞や雑誌に発表されるたびに、世の親たちは熱心にそれを読んだものです。こうして私たちは、だんだんにいろいろなことを学んできました。

たとえば、こどもは、親の愛情を、なによりも必要とするということ、また、けっこう自分から、大人のように責任をもって、ものごとをしようと努力するものだということ、よく問題をおこす子は、罰が足りないのではなくて、愛情が足りないのが原因だということ、また、年齢に応じた教材を、理解のある先生に教えられさえすれば、すすんで勉強するものだということ、自分の兄弟姉妹に対して、多少やきもちをやいたり、たまには親に腹をたてたりするのも、ごく自然な感情であって、これをいちいちとがめだてする必要はどこにもないということ、生命の真実を知ろうと、こどもなりに興味を持ち、性への関心が出てくるのは、ごく自然なことだということ、闘争心とか、性への興味を、あまり強くおさえつけると、こどもをノイローゼにしてしまうこともあるということ、親がしらずしらずにやっていることも、こどもにとっては、親がそうしようと思ってやっていることとおなじように大きい影響を与えるものだということ、こどもは、めいめい独立した人間だから、そのように扱ってやらなければならないということ、などです。

こういった考え方は、今でこそ、もうあたり前のことになっていますが、発表された当時は、驚くべきことだったのです。というのは、それまで何百年ものあいだ、みんなが考えていたこととは、まるで正反対だったからで、そのために、こどもの本性はどういうものか、とかこどもにはどんなことをしてやらなければならないか、ということで、頭の切りかえができず、とまどってしまった親もたくさんありました。

これは「子ども性悪説」の否定であり、子どもをおとなと同じ人間と見ています。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。

このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。

基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。


科学的に否定されたといえば、体罰肯定論もそうです。
厚生労働省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っていて、そこにおいて「厳しい体罰により、前頭前野(社会生活に極めて重要な脳部位)の容積が19.1%減少」「言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳部位)が変形」といった科学的研究を示し、「体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします」と明言しています。
これによって少なくとも社会の表面から体罰肯定論はなくなりました。

ここでは体罰とともに暴言も挙がっていますから、当然子どもをきびしく叱ることも脳にダメージを与えます。
「叱らない教育」への転換が求められます。


しつけ、体罰、叱責は子育てから排除されなければなりません。
そうすると家族のあり方も変わります。
保守派は家父長制、つまり父親が威厳をもって家族を支配するという家族を理想としていますが、父親の威厳はしつけ、体罰、叱責と不可分です。
父親が妻や子どもと対等の人間になれば保守思想は崩壊するといっても過言ではありません。


なお、「子どもを愛すること」と「子どもを甘やかすこと」の違いとか、子どもが悪いことをしたときに叱らなくていいのかといった疑問については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

bride-5519805_1280

結婚式のスピーチにはいくつかの定番ネタがあります。
たとえば「三つの袋」という話は、結婚したら月給袋、堪忍袋、お袋という「三つの袋」をたいせつにしなさいというものです。かなり時代遅れ感が強いですが、いまだに使われているようです。
「愛する─―それは互いに見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」というサン・テグジュペリの言葉もよく使われ、味わい深いものがあります。

私がいちばん役に立つのではないかと思うのが「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」という言葉です。
これは トーマス・フラーというイギリスの歴史家・聖職者の言葉であるそうです。
結婚前は相手をよく見きわめ、結婚したあとは相手の欠点に目をつむれという意味でしょう。

これを実践することができれば、かなり夫婦円満が期待できます。
しかし、実践する人は少ないでしょう。
片目を閉じろということは、自分で自分の判断力を信用するなということです。
たいていの人は自分を疑うということはしないものです。


人間は決して完全な存在ではありません。
私はそのことをここ2回連続で書いてきました。

「『性善説対性悪説』を終わらせる」
「アダム・スミスの倫理学と経済学」

人間性には善と悪の両面があり、人間は場面によって善人モードと悪人モードを使い分けています。
別の言葉でいえば、利他心モードと利己心モード、あるいは協調モードと闘争(競争)モードを使い分けているということです。

親族や共同体の親しい人間に対しては、人間は善人モードや協調モードで対応して仲良く暮らしています。
しかし、文明が発達し、遠くの人との交流が増え、扱う富が増えると、悪人モードになることが多くなり、不正をしてでも利益を得ようとします。
そうして文明社会では争いや不正が絶えないわけです。

ビジネスの世界では、ライバルに対して優位に立つために、機会あるごとにライバルの欠点や失敗を指摘し、また自分の実力を大きく見せて優位に立とうという闘争モードになっています。
家庭内では協調モードでなければなりませんが、多くの人はモードの切り替えができず、結婚生活に闘争モードを持ち込みます。


結婚して二人がいっしょに暮らすようになると、どうでもいい細かいことが気になるものです。
スルーすればいいのに、つい口にしてしまいます。
「電気消し忘れてたよ」
「ドア開けっ放しじゃないか」
失敗ともいえない“うっかりミス”といった程度のことです。
こうしたうっかりミスは、指摘されたからといって直ることはまずありません。
ですから、たいてい指摘してもむだなことに気づいて、そのうち指摘しなくなります。
しかし、中には指摘し続けて、「何度言ったらわかるんだ。電気代がもったいないじゃないか。地球環境のことも考えろ」のようにエスカレートしていく人もいます。そうすると当然、夫婦仲が悪くなります。
そうしたことを避けるために「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスはきわめて有効です。


食事中や洗い物をしているときに食器が割れることがあります。高価な食器やたいせつにしていた食器だと、つい割った人間を非難してしまいます。
「また割ったのか。いい加減にしろよ」
足を踏まれて痛いと、腹が立ちます。
「痛ッ。謝りなさいよ」
故意に食器を割るわけではありませんし、わざと足を踏むわけでもありません。
ですから、相手を非難しても改善されるわけではありません。

カントは、行為は結果ではなく動機で評価するべきだといっています。つまり高価な食器が割れたという結果で評価してはいけないというのです。
しかし、世の中では、まったく悪気はないのに過失によって重大な結果が生じると、罪に問われたり損害賠償を求められたりします。つまりカントの教えに反して、動機ではなく結果で評価するということが社会のルールになっています。
そのため、家庭内にもそのルールを持ち込んでしまうのでしょう。
しかし、そうすると、悪意のない相手を非難することになり、非難されたほうは納得がいかないので、そこから夫婦喧嘩に発展することもあります。
ここでも「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスが有効です。


ここで気づくべきは、社会のルールと家庭のルールは違うということです。

社会では、うっかりミスや悪意のない失敗を非難することが普通に行われています。
会社の部下が失敗したとき、上司は部下を非難することで自分の優位を確認します。部下も失敗した引け目があるので、非難されても受け入れるしかありません。
取引先の失敗や不備も、見つけたらすかさず指摘します。そうすれば取引を有利に運ぶことができます。
ビジネスの世界では、うわべはビジネスマナーなどを駆使して友好的に見せかけていますが、水面下では激しい闘争が行われているわけです。
このやり方が当たり前だと思うと、家庭内でも同じことをやって、夫婦関係を壊してしまいます。

「こんなことも知らないのか」「こんなこともできないのか」と言って、相手の能力がないことを非難することもよく行われます。
そうする一方で、自分の知識や能力を誇示します。
これも相手をおとしめて自分が優位に立とうとする闘争モードです。
家庭内でこれをやるのはたいてい男です。夫婦間に上下関係をつくろうとするのです。
これはモラハラ、パワハラにつながって、かなり悪質ですが、もとをたどれば社会のルールと家庭のルールが違うことを理解していないだけかもしれません。

なお、「男は敷居をまたげば七人の敵あり」という言葉があります。
これも競争社会の苛酷さをいっているようですが、この言葉が使われるのは「男は外で苦労しているのだから、家庭ではわがままにふるまっても許されるべきだ」という意味の場合がほとんどなので、社会の闘争原理を家庭内に持ち込んでいるのと変わりません。


社会の闘争原理を家庭に持ち込んでしまうのは、そこに道徳がからんでいるからでもあります。
つまり相手を非難するのは道徳的行為だという粉飾がなされているのです。
道徳的行為なら家庭内でもやっていいということになります。

こういう道徳のとらえ方は常識と逆なので、とまどう人が多いかもしれません。
道徳は「人のよい生き方を示す指針」というのが普通のとらえ方です。
しかし、道徳の実際の使われ方は「お前はよい生き方の指針に反する悪いやつだ」というように人を攻撃する道具として使われます。道徳の規準に反すると「だらしない」「怠けている」「無責任だ」「自分勝手だ」など攻撃されます。
インターネット空間にはこうした人を攻撃する言葉があふれています。それらの言葉は道徳が生み出しているのです。

人を道徳で攻撃してもなかなか世の中はよくなりません。むしろ悪くなります。
ただ、道徳は便利な道具ではあるので、手離すことはできません。警察や検察が手を出さない悪徳政治家を攻撃するときは道徳や倫理を使うしかありません。

私たちは人を道徳的に評価することに慣れているので、つい配偶者も道徳的に評価してしまいがちです。
道徳的評価というのは、よいところと悪いところを分けるわけです。
よいも悪いもなく相手のすべてを受け入れるのが愛です。愛と道徳は根本的に違います。
相手が失敗してもバカなことをしても、すべて許して、むしろ笑いのネタにしていれば、結婚生活は幸せです。


ところで、私は熱いものは熱々で食べたいタイプです。
ところが、妻は猫舌ということもあって、結婚当初、熱い料理を出す気があまりないようでした。私がその料理はすぐに食べるべきだと言ってもあまり取り合ってくれません。料理ができてからまな板を洗ったりして、料理が冷めることに平気です。
妻の実家に行ったとき、妻が母(私の義母)といっしょに料理をして、大量の天ぷらを揚げました(家族が多いので)。当然最初のほうに揚げた天ぷらは冷めていて、全部が大皿で出てきます。「こちらが揚げたてですよ」ということもありません。
要するに熱い料理を出すということにこだわりのない家なのでした(義母も猫舌です)。
私は自分の要求が無視されることに不満を持っていましたが、妻は生家のやり方を踏襲しているだけだったのです。
ちなみに私の生家では、父が晩酌することもあって、料理ができたらすぐ持ってこいと母に要求していました。私はそれに影響されていたようです。

また、私は妻の言葉づかいに気になることがありました。その言葉を聞くと、なにかバカにされているような気がするのです。ただ、妻に私をバカにする様子はまったくないので、気にしないようにしていましたが、その言葉を聞くたびにもやもやしていました。
妻の実家に行くと、義父がまったく同じ言葉づかいをしていました。妻は義父の真似をしていただけで、私に対してなにか思っていたわけではないのでした。
ほかにも妻の言動の理解しがたいところが、妻の実家を観察することで理解できるということが多々ありました。

人間のかなりの部分は生まれた家庭環境によって決定され、それはすぐには変わりません(時間がたてば変わります。妻も今では熱い料理を出します)。
配偶者の言動に納得いかないところがあり、それがなかなか変わらないと、自分に対するいやがらせではないかと邪推しがちですが、そうした納得いかないところは配偶者の実家に行くとかなりの程度解明されます。
結婚してから閉じた片目は、配偶者の実家を観察するのに見開いて使うのが賢明です。

このページのトップヘ