村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

沖縄防衛局の田中聡局長が差別発言で更迭された件について、2ちゃんねるを見ていたら、沖縄に対する差別的書き込みが多いのにあきれました。韓国や在日への差別的書き込みの場合は、多少は国士気取りでできるかもしれませんが、沖縄への差別についてはなんの名分もありません。
私は昨日の「マスコミの沖縄差別」というエントリーで、高学歴者のほうが差別的だということを書きました。そのこと自体は間違っているとは思わないのですが、差別にはふたつの形があるという観点から少し補足しておくことにします。
 
高学歴者の差別意識というのは、世の中のあり方と通じ合っています。つまり世の中に差別的な構造があり、それを肯定するような差別意識なのです。ですから、本人はなかなか自分が差別主義者だとは気づきません。「木は森の中に隠せ」という言葉がありますが、森という差別社会の中に差別意識がまぎれてしまっているからです。
また、こういう人は差別的な発言もとくにしません。する必要がないからです。
これをとりあえず「余裕の差別」と名づけておきます。
 
それに対して、「必死の差別」というのがあります。2ちゃんねるの書き込みみたいなものです。
こうした書き込みをするのはたいてい低学歴者だと言うと言いすぎですが、少なくとも高級官僚などは書き込んでいないでしょう。書き込みをする動機がないからです。
 
そもそも2ちゃんねるに差別的書き込みをしても世の中が変わることはほとんどありません。外国人参政権に対する反対運動などは多少効果を上げて、書き込みをする人は達成感を得るということがあるかもしれませんが、せいぜいその程度です。外国人参政権があってもなくても、世の中の基本的な構造が変わるわけではありません。
 
それでも差別的な書き込みをするのは、まさに必死な思いがあるからです(2ちゃんねるでは力を込めてなにかを主張すると「必死だな」と揶揄されることがよくありますが、そういう意味の必死です)
 
今の社会では、学校の成績が悪く、学歴が低いと、それだけでバカにされます(公然とバカにするのは品のない行為ですが、隠然とバカにされます)。これは普通は差別とはいいませんが、実は差別です。頭のよし悪しはある程度生まれつきだからです。しかし、今の社会を支配する高学歴者たちは、成績が悪いのは本人の努力が足りないからで、それをバカにするのは差別ではないということにしています。
 
成績の悪い人、低学歴の人はつねにバカにされているので、機会があれば反撃しようと思っています。2ちゃんねるはその格好の機会を提供してくれるので、そこに「必死の差別」の書き込みが集中するというわけです。
そうした書き込みは、本人の心理的満足が目的なので、現実にはほとんど影響を与えることはありません。
もっとも、欧米では「必死の差別」が極右政党という形になって一定の勢力を持ち、現実の政治に影響を与えそうになっていますが。
 
「余裕の差別」と「必死の差別」は言い換えれば、「体制側の差別」と「体制に受け入れられない者たちの差別」ということになります。
「体制に受け入れられない者たちの差別」は声高で目立ちますが、実際にはそれほど効力はありません。
 
問題は「体制側の差別」のほうです。
たとえば、普天間基地移設の日米合意は、沖縄に対する差別意識を持った官僚たち(と利権政治家)がつくったもので、世の中に大きな害悪をもたらしています(アメリカに期待だけ持たせて、決して実現できないので)
この差別意識はあまり世の中に認識されていませんが、たまに今回の沖縄防衛局の田中聡前局長のような発言があると表面化します。
こうした「体制側の差別」こそが問題だということを認識しておかなければなりません。

沖縄防衛局の田中聡局長が「これから犯す前に犯しますよと言いますか」などと発言したことで更迭されました。女性と沖縄の両方への差別的な発言と見なされたのです。
田中聡局長はこういう経歴の人だそうです。
「田中氏は大阪大卒。1984年に旧防衛施設庁に入り、防衛省の広報課長や地方協力企画課長を経て、8月15日付で沖縄防衛局長に就いた。(共同)」
  
一般には、教養のない人が差別主義に陥りがちで、高学歴者は差別主義的でないと思われているかもしれませんが、私は逆に、高学歴者こそが差別主義的だと考えています。高級官僚というのは、高学歴の上に社会的地位の高い職業なので、それに輪をかけて差別主義的です(あくまで一般論ですが)。田中局長はそのいい例でしょう。
 
警察官僚というのも犯罪者に対して差別的で、そのために犯罪対策がうまくいきません。というか、犯罪対策そのものが犯罪者差別となっているのです。
「犯罪者差別」という言葉はもしかして私の造語かもしれませんが、「犯罪者差別」という言葉を使うと現実が見えてきます。今の警察司法は犯罪者を救済するという観点がないからだめなのです。
 
沖縄の基地問題の解決はなかなかうまくいきません。それはこの問題を実質的に担当している外務官僚と防衛官僚が沖縄に差別的であるからでしょう。
また、マスコミの記者も高学歴者ですから、沖縄への差別意識が抜けないのではないかと思われます。
たとえば、田中局長の発言ですが、もともとは居酒屋でのオフレコ発言です。琉球新報がそれを報じたことで問題になりました。琉球新報は、これはオフレコにはしておけないと判断したのでしょう。本土のマスコミはそうした判断はできなかったのです。
 
本土のマスコミがいかに沖縄に差別的であるか、私は1995年の沖縄米兵少女暴行事件のときに思い知りました。
沖縄米兵少女暴行事件というのは、3人の米兵が12歳の女子小学生を集団強姦した事件で、沖縄では大規模な県民総決起集会が行われるなど、大騒ぎになりました。ところが、東京にいる私は沖縄で起こっている騒ぎがなにごとかまったくわからないのです。もとの少女暴行事件が本土では、まったく報じられないか、ごく小さな記事でしか報じられなかったためです。
少女の集団暴行事件を報道するのに沖縄とか本土とかの区別はないはずですが、本土のマスコミはそうではなかったのです。
 
今でも本土のマスコミは沖縄への差別的態度を改めようとしません。
たとえば「沖縄県民の反対する辺野古移設」という表現が常套句のようによく出てきます。しかし、辺野古移設に反対しているのは沖縄県民だけではありません。沖縄県民以外にも反対している人はいっぱいいます。それに、沖縄県民も日本国民なのですから、「沖縄県民の反対する辺野古移設」という表現は明らかに間違っていて、「(多くの)日本国民の反対する辺野古移設」と表現するべきでしょう。
ちなみに辺野古移設を強行しようとすると、かつての成田空港建設反対闘争のような事態になるのではないかといわれていますが、成田空港建設反対闘争は全国的規模で行われて、「千葉県民の反対する成田空港建設」などという表現のあるはずはありませんでした。
 
また、「沖縄県民の怒り」という表現もマスコミの得意とするところですが、沖縄県民以外が怒っていないということはないのですから、これも「日本国民の怒り」と表現するべきではないでしょうか。
 
官僚もマスコミも差別主義に冒されているため、日本国民の基地負担軽減がなかなか実現されません。

まだ11月だというのに、街にはすでにクリスマスムードが漂っています。クリスマスとはなにかというのを今のうちに確認しておきましょう。
 
クリスマスがキリストの誕生日だということになんの根拠もないということは今や常識でしょう。キリスト教以前からクリスマスはあったのです(クリスマスという名前ではありませんが)
もともとクリスマスとは冬至のお祭り、あるいは冬至明けのお祭りでした。
冬至はだいたい1222日ごろです。どんどん日が短くなり、寒さが募ってきて、とくに北の国では生活がきびしくなってきます。そんなとき、冬至がすぎると、また日が長くなりだします。まだ寒さはきびしくなりますが、また春がくることの確実な予兆です。
ですから、冬至がすぎたときを「太陽復活の日」として祝ったわけです。
そして、「太陽復活の日」は1年の区切りの日ともなりました。1年の区切りの日をどこかに設けるとしたら、当然冬至か夏至しかありません。冬至か夏至かといったら、やはり太陽が復活する冬至でしょう。
 
ですから、冬至明けのお祭りは、キリスト教以前から広く行われていて、これは1年でも最大の行事であったわけです。
しかし、キリスト教の立場にすれば、キリスト教と関係のない行事が盛大に行われているのは具合が悪い。かといって、やめさせることもできない。そこで、この日をキリストの誕生日だということにして、キリスト教の中に取り込んだというわけです。
 
1年の区切りの日といえば、日本においては正月がそうです。正月もまた冬至のすぐあとです。ですから、クリスマスも正月も同じようなものなのです。
欧米のクリスマスも日本の正月も、普段は離れて暮らしている家族が一堂に会し、御馳走を食べ、敬虔な気持ちになって、しみじみとした時間をすごします。これも同じです。
 
クリスマスや正月に家族が一堂に会し、しみじみとした時間をすごすのはなぜでしょうか。これについては私なりの考えがあります。
 
クリスマスや正月は1年の区切りの日ですから、そのときにひとつ年を取ったことを自覚します。言い換えれば、ひとつ死に近づいたことになります。
私たちは普段、死を意識せずに生きています。しかし、クリスマスや正月には意識せざるを得ないのです。そのとき、私たちは自分の遺伝子や自分の思いが次の世代に伝わっていくことを確かめることで少し死の恐怖を軽減することができます。ですから、家族が集まって、思いをひとつにするのです。
自分の個体としての死の恐怖を、家族や次世代への愛で乗り越えるとでもいいましょうか。
ですから、クリスマス(とくにクリスマスイブ)や正月(とくに大晦日)には敬虔な気持ちになり、生や死や愛についてしみじみと思いを馳せるわけです。
 
ちなみに誕生日にも私たちは年を取ったことを自覚しますが、このときは周りの人と思いをひとつにすることはできませんから、クリスマスや正月とはまったく違います。
 
欧米人がクリスマスを迎えたときの思いと、日本人が正月を迎えたときの思いはほとんどいっしょです。
となると、日本人はクリスマスをどうすごせばいいのでしょうか。
昔の日本人は、クリスマスはドンチャン騒ぎをしていました。しかし、欧米人にとっては敬虔な日であるクリスマスにドンチャン騒ぎをするのは不謹慎であるという考えが強まってきて、今では日本人もクリスマスをけっこう敬虔な気持ちですごすようになっています。つまりプチ正月みたいになっているのです。
しかし、クリスマスも正月も同じような気持ちですごすというのはへんです。これでは正月の敬虔な気持ちが分散してしまいます。
 
欧米人はクリスマスを敬虔な気持ちですごし、対照的に正月にドンチャン騒ぎをします。これが自然な姿でしょう。
ですから、日本人としては、クリスマスにドンチャン騒ぎをして、正月を敬虔な気持ちですごすというのが自然な姿なのです。昔のやり方が正しかったのです。そもそもクリスマスは忘年会の時期です。
 
日本人はクリスマスにドンチャン騒ぎをするという正しい習慣を取り戻したいものです。

大阪のダブル選挙で橋下氏と松井氏が当選し、大阪維新の会が勝利しました。もし松井氏が落選していたら、今まで橋下氏のやってきたことがすべてむだになりかねなかったので、まあよしと考えるべきでしょうか。
私は東京に住んでいることもあって、大阪都構想のことはよくわかりません。ただ、公務員給料の引き下げなどの橋下氏の手腕は大いに評価します。
橋下氏がリーダーシップのある政治家であることは間違いないでしょう。
 
日ごろマスコミや識者は、政治家はもっとリーダーシップを発揮しろといいます。となれば、マスコミや識者は橋下氏を絶賛するかというと、そんなことはありません。橋下氏のリーダーシップが確立されてくるに従って、マスコミや識者は反橋下になっていったように思えます。
 
もともと日本人はリーダーシップのある指導者は好きではありません。トップに立つ人間は、切れ味の鋭くない、むしろ暗愚とも見えるぐらいの人間で、その下の人間が働きやすければよしとしてきたのです。
島国ですし、平和な時期が長かったので、そのほうがよかったのでしょう。戦国時代や維新のころは例外的な時代です。
 
さて、現在はリーダーシップのある指導者が求められる時代かというと、私は必ずしもそうではないと思います。
もともと国際政治において、日本がリーダーシップを発揮するべきことはたいしてありません。冷戦が終わり、中国は資本主義化して、大きな問題はないからです(だから、竹島だの尖閣だの普天間だのという小さなことが問題になります)
国際経済はたいへんなことになっています。しかし、日本がここで大きな役割を果たせるということはないと思います。
 
問題は国内経済です。国内経済をなんとかよくしてほしいというのが多くの人の願いでしょう。
しかし、経済の専門家もその処方箋を出せません。処方箋がなければ、いくらリーダーシップのある政治家でもなにもできない理屈です。
小泉改革のとき、日本は一応好景気ということになっていましたが、国民の給与はふえず、むしろ格差社会になってしまいました。
「デフレの正体」(藻谷浩介著)という本によると、働き手の人口が減少する社会では経済成長は期待できないということになります。
 
ですから、今リーダーシップのある政治家に求められるのは、財政再建であり、そのための出費の抑制と増税です。
しかし、増税は国民の反発を買います。小泉政権も消費税増税は封印していました。
出費の抑制はそれに関わる国民の反発を買いますし、公務員給与の引き下げはもちろん公務員の反発を買います。
ですから、橋下氏が国政に進出して総理大臣になって、出費の抑制と増税を行おうとすると、その瞬間に橋下氏はリーダーシップの源泉たる国民の支持を失うということになります。
現在、野田政権も増税の方針を出したために国民の支持を失いつつあります。
 
こうした状況下で、将来の橋下総理にできることはなにかというと、小泉劇場にならって、抵抗勢力とバトルを演じて、人気を維持することです。
小泉政権のときは、抵抗勢力はあくまで政治家で、官僚や公務員ではありませんでした。
しかし、将来の橋下政権では、抵抗勢力は全官僚と全公務員です。これを敵にしてバトルを演じなければなりません。
橋下氏は大阪府知事時代は大阪府の公務員を抵抗勢力として、これに勝利しました。しかし、自治体の公務員と中央官庁の官僚とでは、あらゆる意味でレベルが違います。
 
橋下氏が今後国政に出ていくとすれば、全官僚と全公務員を相手にバトルを演じる覚悟が必要です。 

25日深夜の「朝まで生テレビ」のテーマは「激論!暴力団排除条例と社会の安全」でした。このブログで何度も暴力団について書いたこともあって、ついつい最後まで見てしまいました。
パネリストは以下の人たちです。
 
平沢勝栄(自民党・衆議院議員、元警察官僚)
青木理(ジャーナリスト)
石原伸司(作家、通称「夜回り組長」)
江川紹子(ジャーナリスト)
小沢遼子(評論家)
小野義雄(元産経新聞警視庁・警察庁担当記者)
木村三浩(一水会代表)
古賀一馬(元警視庁刑事、調査会社副代表)
原田宏二(元北海道警察警視長)
三井義廣(弁護士、元日弁連民暴委員会委員長)
宮崎学(作家)
 
 
番組は警察庁からの出席も求めたのですが、断られたそうです。警察にとっては広報のいい機会のはずなのに、情けない話です。
そういうこともあってか、番組全体の流れが警察批判に傾きがちで、司会の田原総一朗さんがなんとか暴力団批判の方向へと流れを変えようとする場面が何度も見られました。
 
私はもともと暴力団について詳しいわけでなく、島田紳助さんのことがあってから、にわか検索で得た知識をもとに暴力団について書いてきましたが、私の書いてきたことが基本的に正しかったことが今回の「朝生」で確認できました。暴力団や暴排条例について詳しい人たちが同じようなことを語っていたからです(もちろんそれに反対の意見の人もいます)。むしろ私のほうが歯切れがいいぐらいです。
たとえば、こうしたことが語られていました。
 
・条例で「交際」を禁止するのは異常だ。「交際」自体は悪くない。
・警察の暴力団対策は、頂上作戦以来ずっとうまくいっていない。
・島田紳助さんは警察に助けてもらえない。
・社会から落ちこぼれる人間がいるのが問題だ。
・暴力団は落ちこぼれの受け皿になっている。暴力団をなくすともっとひどくなる。
・暴力団員は離脱すると生活できない。
・警察は離脱支援や就職支援をしていない。
 
覚せい剤犯罪における暴力団関係者の比率は半分ぐらいで、あとの半分は暴力団関係者以外によるものだとか、警察の逮捕率は戦後しばらくのころよりはるかに低下しているとか、最近の警察は情報を金で買わないので情報収集力がほとんどないとか、興味ある事実も語られていました。
 
私は、暴力団事務所を追放しようという住民運動があるが、これは地域エゴだ、マスコミはなぜ批判しないのだろうということを「暴力団追放運動の不思議」というエントリーで書きました。
その住民運動に関して、ジャーナリストの青木理さんが語っていました。地元(浜松市)の商店街の会長さんだかに取材すると、地元は暴力団と祭りのときも協力するなどうまくやっていたのだが、警察に言われて訴えたのだ、ほんとうはやりたくなかったのだということです。この話を聞いて納得しました。暴力団事務所の追放運動など単なるいやがらせで、なんの解決にもならないことは誰の目にも明らかだからです。
 
暴力団対策がうまくいかないのは警察のやり方が間違っているからで、警察がやり方を改めない限りこれからもうまくいきません。
 
私は暴力団のことも警察の暴力団対策のことも詳しく知りませんでしたが、それでも大筋は正しく考えることができます。それは倫理の根本を知っているからです。
私は「暴力団員も私たちと同じ人間だ」ということを出発点にして考えていきます。しかし、多くの人は「暴力団は悪い、警察は正しい」ということを出発点にして考えていくので、どこまで行ってもデタラメな世界から抜け出られません。
マスコミも「暴力団は悪い、警察は正しい」という前提で報道するので、まったく現実をとらえることができません。
 
暴力団員が私たちと同じ人間なら、なぜあのような悪いことができる人間になるのかという疑問が生じます。この疑問を追究することで善や悪や正義というものがわかってきます。それを私は「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」の発想を身につければ、世の中の善、悪、正義に関わる問題のほとんどが明快にわかるようになります。

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