村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

小学校3年生のとき、担任の先生が休みで代わりにきた先生が、普通の授業ではなく、道徳の話をしてくれました。当時は道徳の時間というのがなかったので、その先生の特別なはからいでした。
「私たちがご飯を食べられるのは、お百姓さんがお米をつくってくれたおかげです。家に住んでいられるのは大工さんのおかげです。服を着ていられるのも服をつくってくれた人のおかげだし、このノートや鉛筆で勉強できるのも、ノートや鉛筆をつくってくれた人のおかげです。私たちはすべてのものに感謝して生きていかなければいけません」
先生は、実際はもっとたくさんの例をあげて、そんなことをいいました。
 
幼い私は、確かにすべてのものに感謝して生きなければいけないなあと素直に思いましたが、同時に自分にはできないなとも思いました。朝、歯磨きができるのは、歯ブラシや歯磨き粉をつくってくれた人のおかげで、靴がはけるのは靴をつくってくれた人のおかげで、自転車に乗れるのは自転車をつくってくれた人のおかげで、道路を歩けるのは道路をつくってくれた人のおかげと、そんなにいちいち感謝していられるはずがないからです。
そして、ひとつの疑問が芽生えました。すべてのものに感謝しなさいと教えているこの先生自身、すべてのものに感謝して生きているのだろうか。そんなことができるのだろうかと。
 
それが、私が道徳に疑問を持つようになった最初でした。
道徳を説く人は、自分も道徳的に生きているのでしょうか。
「人に迷惑をかけてはいけません」と説く人は、自分は人に迷惑をかけないよう心がけているのでしょうか。
はっきりいって、その根拠はありません。
実際に人に迷惑をかけないよう心がけている人は、「もしかして私の行動があなたの迷惑になっていませんか。もしそうならいってください」というでしょう。
それから、「あなたは誰かから迷惑をかけられて困っていませんか」というかもしれません。
 
「人に迷惑をかけてはいけません」という人は、人に迷惑をかけないよう心がけている人ではなく、目の前の人間が人に迷惑をかける人間ではないかと疑っている人です。少なくともその言葉に目の前の人間に対する思いやりはありません(第三者に対する思いやりはあるかもしれませんが)
 
このようなことを突き詰めて考えいくうちに、私は道徳とはなにかについての最終的な解答を得て、「科学的倫理学」を確立したのです
そういう意味では、すべてのものに感謝しなさいといった先生のおかげかもしれません。先生には感謝しています。

大阪府で成立した国旗国歌条例(こんな名前ではありませんが、めんどくさいので)をきっかけに、国旗国歌問題を論じてきましたが、ほんとはこういうことはあまりしたくありません。というのは、これは宗教問題でもあるからです。
 
たとえば官邸で記者会見があるとき、入室した官房長官はまず国旗におじぎをします。東京都の入学式・卒業式では、壇上に演者が現れると、まず正面に張られた国旗におじぎをします。こうした習慣の意味を海外の人にどう説明すればいいのでしょうか。いちばん手っ取り早いのは、これは「国旗崇拝教」の儀式です、ということです。
 
しかし、これは正しくありません。実は官房長官にしても、入学式・卒業式で壇上に立つ人にしても、おそらく国旗を崇拝してはいないからです。
では、どう説明すればいいのでしょう。おそらくこういうふうにいうしかないと思います。
「日本では『国旗崇拝させ教』が猛威をふるっていて、彼らの決めた儀式に従わないと攻撃されるのです」
こういえば、日本にもイスラム原理主義みたいなものがあるのかと納得してくれるかもしれません。
 
「国旗崇拝させ教」という宗教の存在は一般には認知されていませんが、日本人は神社に参拝し、仏教による葬式をあげながら自分は無宗教であると考える国民ですから、当然ではあります。
 
「国旗崇拝させ教」によって国旗崇拝の儀式を強制される人たちは、その当然の結果として、国旗嫌いになっていきます。昔、国民の祝日は旗日ともいわれるぐらいで、多くの家が国旗を掲げました。しかし、今では祝日に町を歩いてもまず国旗を見かけることはありません。逆に交番に国旗が掲げられているのを見て、今日は祝日だったのかと気づくぐらいです。また、昔はオリンピックで日の丸が揚がるのを見ると日本人としての誇りを感じるという声がよく聞かれましたが、今そういう声は聞かれません。
 
そもそも、「国旗崇拝させ教」の信徒(教祖?)である橋下徹知事や石原慎太郎知事、産経新聞や読売新聞の記者や論説委員は、素朴に国旗を崇拝するような心の持ち主とは思えません。
では、「国旗崇拝させ教」の目的とはなんでしょうか。それは、国旗崇拝を強制するといういやがらせそのものにあるのではないかと思われます。
世の中には、人の幸せを願うのではなく、人を不幸にすることで少しでも自分が浮かびあがろうとする人がいます。そういう人に支持されるのが「国旗崇拝させ教」です。
 

世の中には、学校教育に恨みを持つ人がたくさんいます。しかし、「授業がわからなくてつまらなかった」というと、「勉強しないからだ」とか「バカだからだ」と否定されてしまいますし、「規則がうるさくていやだった」というと、「規則を守るのもだいじなことだ」とやはり否定されてしまいます。
自分の子どものことを名目に学校に恨みをぶつける人もいますが、こういう人はモンスターペアレントといわれて否定されてしまいます。
宅間守のように個人で学校に切り込み攻撃をかける者もいますが、死刑にされてしまいます。
こうして学校への恨みはほとんど表面化することがありませんが、そのエネルギーは巨大なマグマのように蓄積されています。
 
橋下徹大阪府知事は学校時代、身近に不良や劣等生と接していましたから、学校教育への恨みが広範囲に存在していることを知っています。ですから、それを利用することで人気取りをはかってきました。たとえば、学力テストの成績を市町村別に公表することを要求したり、PTA解体を主張したり、府教育委員会を解散すると脅したりと、教育界のバッシングを続けてきたのです。
今回、大阪維新の会が成立させた、国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例も、その一環です。一部の教師を力で屈服させるというやり方に、過去に教師の力に屈服を余儀なくされていた人たちが快哉を叫ぶのも、いわば自然な感情でしょう。
 
石原慎太郎都知事は、主に右翼的イデオロギーから同じことをやってきました。橋下知事はむしろイデオロギーよりも、教育界バッシングそのものを目的としてやっているように思われます。
どちらも教員への職務命令という問題に絞り、生徒や保護者を切り離しているのが巧みです(右翼的イデオロギーからやるなら、生徒や保護者も起立すべしという条例になっているはずです)
 
いわゆる街宣右翼は、日教組攻撃という形で教育への恨みを晴らそうとしています。
いわゆるネット右翼は、自分たちは街宣右翼とはまったく違うといいますが、左翼教師を攻撃して教育への恨みを晴らそうとしている点では同じです。
 
石原知事や橋下知事のやり方に反対する勢力の代表的存在に朝日新聞があります。朝日新聞の記者は学歴社会の勝者であり、教育に恨みを持つ人たちからは、ただ朝日新聞の記者であるというだけで恨まれています。
朝日新聞記者に限らず、学者、評論家、エリート層は、教育への恨みが広範囲に存在することに無頓着です。ですから、街宣右翼やネット右翼の心情が理解できません。
 
私は、教育への恨みを晴らそうという思いには正当性があると考えていますが、一部教師のバッシングに走るのは間違っていると思います。それは一時的な快感にはなるかもしれませんが、ますます学校が窮屈になり、さらに教育に恨みを持つ人間をふやしてしまうことになるからです。
 
左翼教師とその他の教師にそれほど違いがあるわけではありません。
教育への恨みは、教師バッシングではなく、教育改革へとつながるものでなければいけません。
 

大阪府で国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例が成立して、また日の丸君が代が問題になってきました。この問題はさまざまなとらえ方ができるので議論が迷走しがちです。とりあえず問題を整理してみましょう。
 
まずこれは政治の問題、とりわけナショナリズムの問題としてとらえられます。ナショナリズムを強化するべきだという立場と、反ナショナリズムの立場とでは、当然賛否が別れます。
また、一般的な国旗国歌の問題としてとらえる人もいれば、過去に軍国主義に利用された日の丸君が代の問題としてとらえる人もいます。この両者が議論すれば、当然議論はかみ合わなくなってしまいます。
それからこれは教育の問題であり、とりわけ規律の問題です。学校では規律はきびしくあるべきだという立場と、学校は自由であるべきだという立場とでも、賛否が変わってきます。
そして、これは入学式・卒業式の構成演出の問題です。国歌斉唱は通常、入学式・卒業式でしか行われないからです。入学式・卒業式はどうあるべきかということと密接に結びついています。
 
というわけで、本格的に論じるのはたいへんなので、今回は入学式・卒業式の構成演出の問題から考えてみます。
 
 
入学式・卒業式は厳粛であるべきだという考えの人が多いようですが、いったい誰がそんなことを決めたのでしょう。まったくバカバカしいことです。
生徒たちは厳粛な式を望んでいるでしょうか。そんなことはありません。楽しくて、感動的な式を望んでいるのです。
実は厳粛な式を望んでいるのは、教育委員会や校長や来賓などの偉い人たちです。彼らは壇上であいさつするとき、生徒や保護者や教員がかしこまって聞いてくれることを望んでいるのです。それをつまり厳粛な雰囲気というのです。
彼らの壇上でのあいさつの内容がすばらしくて、おのずと聞き手が厳粛な雰囲気をかもしだすというのならけっこうなことですが、もちろんそんなことはありません。私は自分の人生で何度も入学式・卒業式を経験して、壇上のあいさつをたくさん聞いていますが、その内容を覚えている話はひとつもありません。まったく時間のむだだったといっても過言ではありません。おそらくこれは私だけのことではないでしょう。
 
偉い人たちの話がつまらないのはわかりきった話です。これは成人式でも同じことで、さすがに二十歳になるとこのつまらなさにつきあいきれないので、“荒れる成人式”なるものが出現することになります。
 
で、国旗国歌は、このつまらない入学式・卒業式をなんとか格好づけするために使われているというわけです。東京都教委が国旗を壇上正面に張るよう指導しているのも、偉い人たちをより偉く見せかけるためです(これらの背後には、教育とはおとなが子どもを一方的に思い通りにすることだという思想があります)
ただ、こうしたつまらない式の中でも、卒業式の送辞や答辞はしばしば感動的であることは付け加えておきたいと思います。
 
では、どんな入学式・卒業式がいいのかということになりますが、当然、偉い人が喜ぶものではなく、生徒が喜ぶものにするべきです。
生徒はどんなものを喜ぶかというのは、おとなにはなかなかわかりません。おとながやると、またおとなに都合のいいものになってしまう可能性があります。
ですから、生徒自身に式の構成演出をしてもらいます。
入学式は新入生が主人公で、卒業式は卒業生が主人公です。彼らの一生の思い出になるような素晴らしい式をつくりだすことは、つくりだす側の生徒にとってもよい経験になります。
どんな式を生徒たちが考えるかわかりませんが、私としては東京ディズニーランド精神で新入生を迎え、卒業生を送り出すようなものを想像しています。
その中に多分国旗国歌の出番はないでしょう。出番があるのはむしろ万国旗でしょうか。
どうしても国旗を張っておきたいというのなら、保護者席の後ろがいいでしょう。当然そこが正しい位置になります。
 
入学式・卒業式ひとつとっても、その人が教育をどう考えているかわかります。
おとなのための教育か、子どものための教育か。あなたはどっちですか。

菅さんの功績は、原発事故処理をそこそこうまくやったことだと思います。市民運動家出身で、反原発思想になじんでいた菅さんは、東電も保安院も最初から信用せず、それが幸いしました。もし自民党政権のままだったら、自民党は電力業界、経産省とともに原発安全神話のトライアングルを形成していたので、安全神話に縛られてしまって、なにも手を打てなかった可能性があります。
 
問題は次の総理ですが、現在の衆議院議員の中から選ぶわけですから、いわばカードがすべて表を向いている状態。意外な切り札が出てくる可能性はゼロです。
政界再編といっても、やはり同じ人間の組み合わせを変えるだけのことですから、同じことです。
小泉政権以降、総理の個人的能力への期待値がひじょうに高くなっており、それに対応できる人材がいるとは思えません。
もし今、次の総理に期待している人がいれば、考え直したほうがいいでしょう。
 
では、どうすればいいか。長期戦でいくしかありません。
まず選挙制度を変えて(昔の中選挙区制がいいと思いますが)、新しい政党、つまりベンチャー政党がどんどん出てくるようにするのです。昔、細川護煕さんの日本新党が出てきただけで政権交代が起きたのですから、これはたいせつなことです。
もし二大政党のまま固定されてしまって、ふたつの政党が談合したら、なんの改革もできなくなってしまいます。そういう事態を避けるためにも、新党が出やすい制度にしなければいけません。
そういう制度にすると、小党分立になって、強力な政権ができないという反論があると思いますが、イスラエルはずっと小政党の連立政権でやっていて、それが問題になることはありません。
 
それから、公職選挙法をかえて、誰でも立候補しやすくすることです。今の選挙は規制があまりにも複雑で、運動員にバイト代を払っただけで国会議員が失職したりします。そのため、選挙運動に慣れた建設業界や労働組合の力が実際以上に強くなっています。20代のフリーターが仲間を集めて立候補できるような、つまり素人集団でも選挙に出られるような制度であるほうがいいと思います。
 
現在の政治の惨状は、国民のレベルと同じなのです。ゆっくりと成長していくしかありません。

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