村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

世の中には学校教育に恨みを持っている人がたくさんいると思います。
たとえば、授業がまったくわからなくて、窓の外を見ながらただただ退屈な時間をすごしていた人がいます。
給食で嫌いなものをむりやり食べさせられた人がいます。
足が遅いのに運動会でかけっこをさせられて、恥をかかされた人がいます。
試験の成績が悪いので、いつも親から叱られていた人がいます。
先生から嫌われていた人がいます。
学校でイジメにあった人がいます。
 
しかし、こういう人たちは大人になっても、自分の恨みをうまく表現することができません。表現しようとしても、それはわがままだとか、努力が足りないからだとかいわれて、否定されてしまいます。
つまり世の中の常識は圧倒的に学校教育を正当化する方向にあって、学校教育を否定する論理はほとんど存在しないのです。
 
ただ、その中にあって、ひとつだけ学校教育(の一部)を否定する論理があります。それは右翼の反日教組の論理です。
右翼は右翼なりの論理によって公然と日教組を攻撃します。
しかし、日教組の教師と日教組以外の教師がそんなに違うとは思えないので、あの右翼の人たちはほんとは学校教育そのものを攻撃したいのだろうと私は思っています。
 
恐そうな右翼の人たちも、子どものころは学校でつらい思いをした人たちなのだと思えば、ちょっぴり人間的な共感を覚えますね(ないか)

一時、給食費未納問題というのが騒がれました。お金があるのに給食費を払わない親がふえているということが話題になり、それに対して、実際は経済苦で払えないのだとか、そもそも未納はふえていないのだとかいう反論があり、結局うやむやになりました。
この問題に完全に決着をつけるには、学校給食はサービスなのか教育の一環なのかということをはっきりさせないといけないと思います。これをあいまいにしていれば、また問題が蒸し返されるかもしれません。
 
学校給食がサービスであれば、給食費を払わない親はサービスの対価を払わないわけですから、問題なく悪いことになります。
しかし、学校給食が教育の一環であれば、話は違います。親は教育のあり方に抗議するために、給食費不払いという実力行使をしているかもしれないのです。
 
おそらくほとんどの教育現場で給食は教育の一環と考えられ、残さず食べなさい、好き嫌いをいわず食べなさい、時間内に食べなさい、おとなしく食べなさい、正しいマナーで食べなさいという指導が行われてきたと思います。そうすると、少食な子ども、好き嫌いの多い子どもにとってはつらいことになります。中には、全部食べるまで1人だけ居残りさせられたという話もあります。給食が教育の一環と考えられたために、少なからぬ子どもが給食の時間を苦痛に感じてきたのです。
 
そうした子どもが大人になり、自分の子どもの給食費を払うとき、素直な気持ちで払えるでしょうか。このお金で給食がつくられ、自分の子どもがまたそれをむりやり食べさせられるのかと思えば、払いたくないという気持ちになってもおかしくないでしょう。
とはいっても、たいていの親は払うでしょう。給食がサービスという面を持っていることは明らかだからです。
しかし、給食に恨みを持っている親がかなり存在していることは多くの人が認めるでしょう。だからこそ、お金があるのに給食費を払わない親がいるということが一時的にせよ広く信じられたのです。
 
今後、給食費を問題なく徴収していこうとすれば、給食を教育と切り離し、あくまでサービスとして位置づけることが必要だと思います。
そして、そうすることにより給食の時間を苦痛に感じる子どもをなくすこともできるのです。
 

年寄りの決まり文句といえば、「昔はよかった」と「近ごろの若い者はなってない」のふたつです。若い者にとって困るのは、これに対するうまい反論がないことです。
年寄りは今と昔のふたつの時代を知っていますが、若い者は今しか知りません。年寄りがふたつの時代を比較して、「昔はよかった」と結論を出せば、今しか知らない若い者は反論ができないのです。
「近ごろの若い者はなってない」についても同じことがいえます。年寄りは「昔の若い者」(つまり自分たちのこと)と「今の若い者」と両方知っているのに、若者は片方しか知らないわけです。
 
しかし、「近ごろの若い者はなってない」については必殺の反撃があります。
「近ごろの若い者はなってない」といわれたら、「へえー、そうですか。じゃあ近ごろの赤ん坊はどうですか?」と聞き返すのです。
おそらくたいていの人は答えに詰まると思うのですが、まともに答えてくれる人なら、「いや、赤ん坊は今も昔も同じだよ」というでしょう。
そうすると、「じゃあ、近ごろの幼稚園児はどうですか?」というのです。もちろん、「近ごろの小学生はどうですか?」「近ごろの中学生はどうですか?」という二の矢、三の矢も用意しています。
赤ん坊は今も昔も同じなのに、今の若者はだめになったとすれば、それは若者の育った環境に問題があるということであり、その環境をつくった年寄りに問題があるということです。いやおうなしにその結論へ導かれるはずです。
「いや、環境のせいではなくて、近ごろの若者の心がけが悪いからだ」という人もいるかもしれません。その場合も、「近ごろの赤ん坊も心がけが悪いんですか?」と聞けばよいでしょう。
 
生まれたばかりの赤ん坊は今も昔も同じです。長谷川真理子という進化生物学者は、「現代人はラップトップを持った原始人だ」といっています。原始の時代から人間はほとんど変わっていないということです。
赤ん坊を基準にして人間を考えるといろんなことがわかってきます。これは「科学的倫理学」の基本でもあります。

どうでもいいことですけど、街のそこここに「警察官立寄所」と書かれた場所があります。しかし、私は一度も「警察官立寄所」に警察官が立ち寄っているのを見たことがありません。
うそつきは泥棒の始まり。
 

きわめて不人気な菅総理。どうすれば人気回復ができるでしょうか。それには小泉元総理や石原都知事のやり方に学ぶ必要があります。
小泉元総理は、構造改革に対する抵抗勢力を設定し、抵抗勢力をバッシングすることで人気を得ました。石原都知事はディーゼル車排ガスやマンガ・アニメやカラスや歌舞伎町やパチンコや自販機を敵として設定し、それらをバッシングすることで人気を得ています。
エンターテインメントの映画やドラマや小説も同じです。テロリストやギャングなどの悪役を設定し、悪役をやっつけることで観客や読者の人気を得ているのです。
 
では、菅総理はどういう悪役を設定するべきでしょうか。官僚組織でしょうか。自民党でしょうか。いや、それでは漠然としすぎて、ヒールとしては魅力不足です。
私のお勧めは、原発推進勢力です。原発推進勢力こそが今日の原発事故の惨状を招いた張本人であり、国民もバッシングしたくてたまらない相手です。
 
原発を推進してきたのは、官僚組織と電力会社と自民党のタカ派政治家です。
そもそも被爆国である日本では、核武装はもちろん原子力発電に対しても抵抗感がありました。その抵抗感を「核アレルギー」と病気呼ばわりしたのが、ほかならない石原慎太郎です。「核アレルギー」とは石原慎太郎の造語なのです。
官僚組織は石原らタカ派政治家の支援をうけやすいような原発政策を推進しました。つまり、高速増殖炉などプルトニウムを多くつくれるタイプの原発をつくり、一方で人工衛星を打ち上げるロケットを開発しました。これによって日本はいつでもその気になれば大量のICBMを保有する核大国になれるというわけです。
また、今ではほとんど忘れられた原子力船「むつ」もつくりました。原子力船は商用船としては採算に合うわけがないので、次に原子力潜水艦か原子力空母をつくるつもりだったのでしょう。少なくともそういう構えでタカ派政治家の力を借りて予算を獲得したのだと思います。
そうして原発推進派は巨大な利権集団になりました。彼らは事故が起こるたびに隠蔽し、マスコミを懐柔し、原発安全神話をつくり、そして自分たちは利益を得てきました。そうした手口をあばいてバッシングすれば、国民は快哉を叫ぶでしょう。
また、つい最近、東電役員がそろって自民党に政治献金していたというニュースもありました。こんなおいしいネタを利用しないなんて、まったく信じられません。
 
菅さんは市民運動家のときから権力と戦ってきた政治家です。その戦う姿勢で人気を得てきました。ところが、自分が権力の座についてしまったため、戦う相手を見失ってしまったのでしょう。
今こそ戦う相手を設定し、戦う姿勢を見せてほしいものです。
 
 
ところで、「菅総理やめろ」と叫んでいる人たちは、どんな総理大臣を求めているのでしょうか。安倍、福田、麻生、鳩山とだめで、また菅もだめで、次こそ「当たり」の総理大臣が転がり出てくると思っているのでしょうか。
総理大臣なんて有権者が育てていくものです。その点、権力の椅子に座り慣れていない菅総理ほど育てがいのある総理はいません。「菅総理育成シミュレーションゲーム」だと思って育てていきましょう。
 
 

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