昨日のエントリーに関連して2ちゃんねるを見ていると、相変わらず体罰を肯定する人が多いですね。体罰を肯定する人というのはトラウマをかかえている人ですから、トラウマが解消されないと、なかなか考え方も変わりません。
体罰を肯定する人というのは、当然自分が子どもに対した場合、体罰を行うことになります。度がすぎると幼児虐待ということで事件になります。幼児虐待で逮捕された親が決まって言うのが「しつけのためにやった」です。「食べ物をこぼしたから」「言いつけを守らなかったから」などと言って、自分の行為を正当化します。逮捕されてもなお考えを変えることができないのです。おそらく裁判で有罪判決を受けてもまだ反省できないでしょう。
「体罰」という言葉を使うのも問題です。親の体罰は「ドメスティック・バイオレンス」、教師の体罰は「教師暴力」というべきです。
ただ、ここでは習慣に従って「体罰」という言葉を使いますが、体罰肯定派と体罰否定派が議論しても、お互いに考えを変えるということがありません。さっきもいったようにトラウマの問題があるからです。
しかし、肯定派と否定派が議論してもお互いに考えを変えることがないという問題は、政治的な問題を含めて世の中に山ほどあります。ということは、これらの問題にもトラウマがかかわっているのではないでしょうか。
たとえば、石原慎太郎都知事は右翼でタカ派の政治家ですが、かつてスパルタ教育論の本を書き、戸塚ヨットスクールの支援者でもありました。つまり、彼の中で体罰肯定論とタカ派的政治思想は明らかにつながっていると想像されます。
現在、政治の世界で右翼と左翼という対立軸は、明らかに時代遅れになっています。かといって、それに代わる対立軸はなかなか提示されません。
しかし、体罰肯定派対体罰否定派を中心にして考えていくと、ひとつの明快な対立軸が見えてきます。
体罰肯定 体罰否定
管理教育主義 自由放任主義
厳罰主義 寛容主義
死刑賛成 死刑反対
軍拡賛成 軍縮賛成
国家主義賛成 国家主義反対
高福祉反対 高福祉賛成
格差容認 格差反対
性悪説 性善説
体罰肯定派はだいたい左側の項目に共感するはずで、体罰否定派はだいたい右側の項目に共感するはずです。
もちろん、体罰肯定だが死刑には反対だとか、体罰否定だが高福祉には反対だとか、人によって細かな違いはあるでしょう。
あるいは、体罰は否定だが、そのあとの項目は全部左側だという人もいるかもしれませんが、そういう人は体罰についての考えだけがちょっと変わっているわけです。
この対立軸は結局、人間は信じるに足るものであるか否かということが軸になっています。
人間は信じるに足るものであると考える人は、親から愛され、体罰もほとんど受けずに育ってきた人です。
人間は信じるに足りないと考える人は、親からあまり愛されず、代わりに力で支配され、当然体罰も受けてきた人です。
しかし、人間は親からあまり愛されなかったという事実はなかなか受け入れられないので、「愛するから殴るのだ」とか、いろいろとややこしい理屈を考え出します。また、国際政治は力の論理が支配するところですから、国際政治のあり方に共感します。
ということは、この対立軸を解消するには、体罰肯定派がみんな自分のトラウマを解決するか、すべての家庭が体罰のない、愛情のある家庭にならなければならないということです。気の長い話のようですが、そこに向かって進んでいくと着実に世の中がよくなっていきます。