村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

人類はあらゆる分野で進歩を遂げてきました。経済、科学技術、芸術、文化などですが、もうひとつ進歩してきたものがあります。それは「悪」です。
なぜ悪が進歩してきたかというと、善人と悪人が戦うと悪人が勝つからです。つまり生存競争において善人は淘汰され、悪人は生き残り、その結果、世の中は悪人ばかりがはびこることになりました。
 
善人と悪人が戦うと悪人が勝つというのは理解できるでしょう。悪人はだまし討ちも平気ですし、善人にはできない残酷な手口を使うこともできます。善人が勝つときもあるでしょうが、善人は相手を徹底的にやっつけることはしません。しかし、悪人が勝つと、相手を徹底的にやっつけ、さらに奴隷にしたり、手下にしたりします。
 
ですから、善人は負けたくなければ、自分も悪人になるしかありません。
たとえば、江戸時代の日本は平和で、庶民は幸福でした。ペリーがきたときも、追い払ってしまいたかった。しかし、列強と戦うと負けることが明らかになりました。そのため日本は列強と同じ悪い国になる道を選択したのです。
軍事技術を学ぶだけで戦争の強い国になれるわけではありません。人殺しのできる人間が大量に必要です。そのため庶民は学校と軍隊で非人間的な訓練を受けることになり、日本は平和でも幸福でもない国になりました。
しかし、悪人は自分と他人をだます悪知恵を持っています。日本は近代化したよい国になったとされました。
 
白人と黒人が奴隷海岸で出会ったとき、なぜ白人が黒人を奴隷にし、その逆ではなかったのでしょうか。
それは文明化した白人のほうが黒人よりも悪人だったからです。黒人はあまりにも善良だったので、白人と戦うことすらせず奴隷にされてしまいました。
そして、白人は、黒人は人間ではなく動物である、野蛮である、愚昧である、犯罪的であるなどと理由をつけて自分を正当化しました。ここでも悪知恵を働かせたのです。
 
以上述べたことは、現在の倫理学の常識とは正反対だと思います。
つまり倫理学のコペルニクス的転回です。
この新しい倫理学を私は「科学的倫理学」と呼んでいます。
 
「科学的倫理学」によると、われわれ現代人は史上最悪の悪人だということになります。
自分が悪人であるということはなかなか認めたくないものです。そのため今まで、倫理学はまったくでたらめな学問となっていたのです。
自分が悪人であると認めた人には真実の扉が開かれます。

日本は徴兵制をやめたのだから、義務教育もやめてしまえというのが私の考えですが、改めて義務教育について考えてみます。
 
比較的知られたことですが、義務教育というのは、子どもに学校に行く義務があるのではなく、親に子どもを学校に行かせる義務があるということです。憲法の条文を示しておきます。
 
日本国憲法第26条2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 
 
子どもに学校に行く義務はないといっても、子どもは自分が学校に行かないと、親に憲法違反を犯させることになってしまいます。子どもに親を思う気持ちがあるのは当たり前で、実際には子どもも半ば義務を負っているようなものです。
 
親の場合、この義務はもちろん重大です。子どもが学校に行かないと、どうしても行かせなければならないからです。不登校の子どもが泣き叫びながら必死で柱にしがみつくのを力ずくで引き離すなどという修羅場が演じられたりします。
子どもが不登校になったとき、当然学校に問題のある場合があります。たとえばクラスにイジメがあるとか、教師がえこひいきや体罰をするとかです。しかし、親が子どもを登校させる義務を負っていると、そうした問題を追及することはきわめて困難です。義務を果たすことが先決とされてしまうからです。
 
ここで冷静に考えてみると、なぜ親だけに子どもを登校させる義務が負わされているのか不思議に思えてくるでしょう。国が子どもにほんとうに教育を受けさせたいと思うなら、親と教師が共同で義務を負うという形にしたほうがいいはずです。たとえば、教師は担当地域の子どもを学校にこさせる義務があるというように。
いや、教師にそういう義務を負わせるべきだといっているわけではありません。親に義務を負わすのはへんだということがいいたいのです。
 
人間は基本的に、自分の行動に責任を負うものであって、他人の行動に責任を負うものではありません。自分の子どもであっても、それは別人格ですから、自分の子どもの行動に責任を負わせられる憲法の規定はおかしいといえます。
 
親子は強い愛情で結ばれています。日本国憲法はそこに法的な義務を持ち込みました。これは愛情による結びつきを破壊する行為です。
たとえば、子どもが学校に行きたくないといえば、親がその思いを尊重するのは当然のことです。ところが、おかしな憲法があるために親はその当然のことがわからなくなっており、修羅場を演じることになるのです。
親子の愛情による結びつきは、国のもっとも根幹をなす部分でしょう。いわば木の幹のいちばん太い部分です。憲法の義務教育規定は、その太い部分に斧の一撃を加えてしまったのです。
その結果、家庭内暴力、引きこもり、非婚、孤独死、無縁社会などの問題が出てきています。
国の発展のための義務教育規定が国の衰亡を招くという皮肉な結果になっています。

日本PTA全国協議会は「子どもに見せたくない番組」のアンケート結果で、「ロンドンハーツ」が8年連続で1位になったと発表しました。まだこんなくだらないことをやっているのかと思い、ウィキペディアを見てみると、なんと「子どもに読んで欲しくない本」「子どもに読ませたくない雑誌」「子どもに遊ばせたくないゲーム」のアンケート調査も行っているそうです。
PTAはマンガ・アニメの規制を含む東京都の青少年健全育成条例改正案の成立も推進しています。
いったいPTAとはなんでしょうか。子どものための組織なのでしょうか。それとも、子どもと敵対する組織なのでしょうか。
それを考えるためにも、とりあえず学校の歴史を振り返ってみましょう。
 
明治初年、学制が施行されたとき、広範囲に学制反対一揆が起きました。これは歴史学の通説として、学費負担と、働き手でもあった子どもを取られることに対する反対であったとされていますが、そんな経済的理由だけであるはずがありません。それぞれの家で家庭教育や職業教育をしてきたのに、学校に勝手な教育されてはたまらないということが根底にあったと思います。つまり、教育権をめぐる親と国(学校)の戦いだったのです。
しかし、この戦いは国の勝利に終わり、国は子どもの教育権のみならず所有権をも占有することになり、「子どもは国の宝」という勝利宣言が行われました。そして、親は子どもに勉強を強い、子どもを兵隊に取られ、戦死しても、それを名誉なこととして喜ばなければならなくなったのです。
 
戦後は、教育権は親にあり、国は親の付託を受けて教育を行うのだという考え方が出てきました。たとえば故・小室直樹などはそういう考えです。常識的に考えても、民主国家で多数の親の考えに反した教育を国が行うことは許されないでしょう。
とすると、親は学校や教師が正しい教育を行っているかどうかつねに監視し、ときには要望や抗議をしなければなりません。たとえていえば、家庭教師を雇ったとき、その家庭教師がちゃんと子どもを教えているか監視するようなものです。
 
しかし、PTAはそのような組織ではありません。PTAはGHQの指導でつくられたものですが、日本PTA全国協議会の綱領や基本方針を見ても、親と教師の関係を規定するくだりはいっさいありません。ということは、結局のところ、PTA活動を主導するのは教師、学校、国であり、親は従属せざるをえません。つまりPTAとは、親を学校の下請けとするものなのです。
ですから、積極的にPTA活動をする親はあまり多くありません。PTA役員を選ぶときも、ほとんどみんな義務感からいやいや役員になるのです。
ですから、たとえばPTAのアンケートに一般的な親の意見が反映されているとは考えられません。国や学校の下請けに甘んじられる親の意見が反映されていると考えるべきでしょう。
ですから、PTAのアンケート結果はへんてこなものになり、表現の自由にとって大きな脅威となるマンガ・アニメ規制の意見も出てくることになります。
 
親が学校に関わることは重要ですが、それは決して下請けのような形であってはなりません。有権者が政治を監視し、納税者が税金の使い道を監視するのと同様な形で学校を監視するものでなくてはならないと思います。
ですから、PTAは親だけの組織に改編し(当然名前も変わります)、会社における労働組合のように学校に対して団体交渉を行い、学校を子どもにとってよりよいものに変えていく役割を担うものにするのがいいと思います。 

またしても牛丼屋の値下げ合戦が始まりました。
松屋は16~23日、牛めし()320円から240円。
すき屋は16~23日、牛丼(並盛)280円から250円。
吉野家は17~23日、東日本の店舗限定で牛丼(並盛)380円から270円。
 
いずれも期間限定ですが、その期間はどの店もにぎわいます。ということはどういうことでしょうか。
一般には牛丼屋同士が競争していると見られますが、実は牛丼屋が低価格の飲食店、つまり定食屋、そば屋、うどん屋の客を奪っているのです。また、これらの店はハンバーガー店からも挟撃される格好です。
定食屋、そば屋、うどん屋は個人営業の店が多く、こうした店のことは経済紙もほとんど触れることがありません。しかし、個人営業の飲食店は確実に衰退していっています。
 
その結果、ここでも人と人との触れ合いが失われることになりました。定食屋のおばちゃんとは人情味のある会話がありえますが、牛丼屋の店員との触れ合いなんてまったくありません。
 
それからもうひとつの問題は、学歴がなくても人生の成功者になるルートが狭まってしまったことです。
実は私は若いころ、中小企業や商店向けの経営雑誌の編集に携わっていたことがあります。当時の中小企業や商店の経営者の多くは、中卒や高卒で就職し、手に職をつけ、そして独立開業して、成功した人たちでした。飲食店に就職した人は、ほとんど徒弟制度に近い状態で、最初は下働きばかりで、暴言を浴びたり殴られたりし、誰も仕事を教えてくれないので先輩の仕事ぶりを盗み見て覚え、何度か転職していろいろな店のやり方を覚え、最初は小さな店で開業し(ときに屋台を引いて資金をつくり)、店を大きくしていくというパターンでした。地方から出てきた人は、「一国一城の主になる」という表現で都会に家を持つことを成功の象徴と考え、実際そうして成功した人が少なからずいました。
今は、手に職をつけようと下積みからがんばる人は少なくなり、アルバイトや派遣で手っ取り早くお金を稼げるので、そちらに流れる人が多いでしょう。独立開業もフランチャイズ店という形が多くなりましたが、これはマニュアルに縛られるので、半分サラリーマンのような感覚ではないでしょうか。
 
学校嫌い、勉強嫌いなので手に職をつけようという人は多くいます。しかし、理美容業界は高卒の資格がないと国家試験を受けられなくしてしまいました。
 
多様な生き方ができる社会がいいと思いますが、現実は逆の方向に進んでいるようです。

盗みで生計を立てている泥棒家族があったとします。小さな子どもは見張りなどをして親の盗みを助けていて、親からは「よい子だ」とほめられていました。しかし、その子どもはある日、「盗みはよくないことだよ。もう手伝わない」といい、親から「悪い子だ」と叱られてしまいました。
ヤクザの世界では、カタギを脅してでも親分に多くの金を上納するのがよいヤクザで、カタギを脅すのはいやだというのは悪いヤクザです。
ナチス支配下においては、ユダヤ人を強制収容所送りにすることがよいことで、ユダヤ人をかくまうことが悪いことです。
つまり、悪人の世界においては、悪が善で、善が悪だということです。
 
では、私たちの住んでる社会は、どうなのでしょう。私たちは善人の世界に住んでいると思っていますが、ほんとうなのでしょうか。
SFでは、枢軸国が連合国に勝利した世界というのが古典的なネタとしてあります。その世界では当然、英米などの価値観は退廃的な悪い文化とされています。
連合国が勝利した世界と、枢軸国が勝利した世界と、どちらが善人の世界なのでしょう。私たちは連合国が勝利した世界が善人の世界だと信じていますが、その根拠はあるでしょうか。もともとは英米が先行した帝国主義国で、ドイツや日本は遅れた帝国主義国でした。
 
はっきりいうと、私たちの世界が善人の世界だという根拠はありません。
もし私たちの世界が悪人の世界なら、私たちが善と思うことは実は悪であり、悪と思うことは実は善だということになります。
それなのに、学者、知識人を含む多くの人たちが、「あれが善で、これが悪だ」と善悪の判断をしています。まったく愚かなことです。
 
私たちの世界では、戦争、テロ、犯罪が絶えません。娯楽映画の多くは実は大量殺人を描く映画です。ビンラディンが殺害されたときは、多くの人が歓声を上げました。これはむしろ悪人の世界に似ていないでしょうか。
ちなみに、山口組と住吉会が抗争したとき、善と悪が戦っていると考える人はまずいないでしょう。ほとんどの人は悪と悪が戦っていると思うはずです。連合国と枢軸国の抗争も同じようなものでしょう。
 
私たちの住む世界は悪人の世界ではないか。そこを出発点にすると、あなたの思想はどんどん深化していくはずです。

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