村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

私は政権交代の果実を得るまで民主党政権を支えていくべきだと思っていますが、菅さんに首相の資質があるかというと、それはまた別問題です。
私は菅さんに会ったことがあります。会ったといっても、雑誌の1時間ほどの対談にライターとして同席しただけですが、1時間見ていれば、だいたいどんな人間かわかります。
随行の議員が「菅さんは記者のつまらない質問にもいちいち答えるので困る。無視してしまえばいいのに」とこぼしていたのを覚えています。だから、避難所を視察したときも、「無視するんですか」と声をかけられて戻ってきてしまうのです。小沢一郎は記者の質問など平気で無視していますが、あの対極のタイプです。
私は菅さんのほかにも小泉純一郎、麻生太郎、鳩山由紀夫、岡田克也、石原伸晃など多数の政治家を同様に間近に見ていますが、首相にもっとも必要な資質が危機に際して動じない精神の強さだとすれば、菅さんはそれがもっとも欠けている人間です。些事にこだわり、精神的に不安定なのです。
 
ところが、鳩山政権のあと菅政権を組織したとき、少し菅さんを見直しました。官房長官に仙谷由人、幹事長に枝野幸男を起用したところに人事の妙がありました。
鳩山さんは官房長官に、もう名前も思い出したくないへんな人間(平野博文でした)を配して、人事から失敗してしまいましたが、仙谷由人は精神的にひじょうにタフな人間で、菅さんの欠陥を補うのに向いています。仙谷がタフ担当、枝野が能弁担当というところです。
その後、曲折はありましたが、やはり仙谷と枝野が菅さんをささえる形となっています。
 
さて、菅さんは大震災のような危機対応にはもっとも向かない首相でしたが、経産省や原子力安全・保安院をまったく信じず、東電をどなりつけることで、原発事故への対応は、ほかの誰が首相であるよりもうまくやったと思います。
そして現在は、復興への道筋をつける時期になっています(水素爆発の可能性はまだあるようですが)。この時期は、誰が首相であっても務まります。たとえば、9.11のあとバカなブッシュでも務まったのと同じです。この時期に首相を替えるなんて、よけいな時間を使い、混乱を招くだけです。
 
そもそも、今首相交代をいう人は、今の政治状況がまったくわかっていないと思います。
小泉政権のあと、官邸主導の政治ができる首相でないと務まらなくなっているのです。安倍晋三と福田康夫は精神的にひ弱だったので、だめでした。麻生太郎はひ弱ではありませんでしたが、鈍感力だけの人なので、自民党政権を終わらせてしまいました。
鳩山由紀夫も官邸主導をやるには実力不足で、人事の能力もありませんでした。
 
今首相交代をいう人は誰を念頭に置いているのでしょうか。私が思うに、官邸主導ができるだけの精神的なタフさを持っているのは、今の政界には仙谷由人か小沢一郎しかいません。いや、これには異論があるかもしれませんね。しかし、安倍と福田のつまずきを見れば、よほどの人間でないと務まらないのはわかるでしょう。
 
谷垣禎一は野党の総裁は務まりますが、とても首相が務まるだけのタフさがあるとは思えません。石原伸晃のひ弱さには定評があります。
 
今の菅体制のままで行くのが当面はベストだと思います。

民主党政権は未熟だからだめだという人がいますが、未熟を否定する人は永遠に成熟を得ることができません。こんな簡単なことがわからないなんて、「どうかしてるぜ!」といいたくなります。
政権交代して、長年野党暮らしの政党が政権の座につけば、未熟なのは当たり前です。それがいけないというなら、政権交代そのものを否定しなければならなくなります。
それに、私の見るところ、菅政権は震災対策をそこそこやっています。それほど批判されるところがあるとは思えません。
もし政権交代がなくて、自民党政権下で大震災が起きていたら、自民党政府は東電のいうことを真に受けて、原発事故はもっと悲惨なことになっていた可能性が高いと思います。
それに、今の民主党政権を批判する人は、自民党の谷垣氏や石原伸晃氏やその他の古い政治家たちがもっとうまくやってくれると思ってるのでしょうか。
 
どうやら日本国民は政権交代を受け止めるには未熟すぎるのかもしれません。

愛のような基本的なことほどよくわからないのが人間の愚かなところであり、また学問の未熟なところです。しかし、「科学的倫理学」は愛をちゃんと解明しているので、その一端をお教えしましょう。
 
私は「2番目に大切なもの」というエントリーで、優先順位としては愛よりもお金が先だと書きました。
しかし、お金は目に見えますが、愛は目に見えないので、愛を得るのはお金を得るよりもむずかしいかもしれません。
 
まず、愛には2種類あります。親子愛と異性愛です。
人間は生まれてすぐ親から愛され、親を愛するという体験をします。
成長すると、異性を愛し、異性から愛されるという体験をします(誰もができるわけではありませんが)
そして、子どもができると、子どもを愛し、子どもから愛されるという体験をします(男と女では差がありますが)
つまり、子どもからの親子愛、異性愛、親からの親子愛を繰り返しながら、世代が交代していくのです(哺乳類はみな同じです)
愛することも喜びですし、愛されることも喜びです。この喜びがきわめて大きく、誰もが強く求めるからこそ、その遺伝子は存続してきたのです。
友情というのは、親子愛と異性愛という基本の愛から派生したもので、重要度がぜんぜん違います。神への愛や芸術への愛やフィギュアへの愛もやはり派生したものですが、これらはむしろ変態というべきでしょう。
 
親子愛と異性愛があるというのは多くの人が納得するでしょうが、親子愛と異性愛の性質の違いを明確に指摘できる人はほとんどいないのではないでしょうか。
親子愛と異性愛の違いは、選択と受容で説明できます。
 
異性愛は、選択から始まります。さまざまな異性の中から、よい異性、自分に合った異性を選択します。しかし、異性のほうからも選択されないと、その選択は成就しません。ですから、選択するよりいかに選択されるかが重要な問題になります。
 
親子愛は受容から始まります。選択はありません。親はどんな子どもでも愛しますし、子どもはどんな親でも愛します。
どんな子でも愛する親の姿を親バカといいますが、最近は事情が変わってきました。子を愛せない親がふえてきたのです。そのため、子は親を愛しているのに、親は子を愛していないという悲劇が発生します。これは文明の病で、きわめて深刻な問題ですが、ここではこれ以上触れません。
 
犬や猫などのペットを愛する人は、まるで自分の子どものように愛します。ところが、ペットを飼う場合、最初に選択をしなければなりません。血統や値段や毛並みや健康状態などを見て、ペットショップで選ぶのです。親子愛に選択が入るわけで、多くの人はここに抵抗を感じます。そこで、「最初に目が合った」などの理由をつけて、選択らしくない選択をしたりします。
 
異性愛は選択から始まりますが、長く続けていこうとすれば受容に変わっていかなければなりません。相手に魅力がなくなっても受容し、相手の性格が自分の望むものでなくても受容するのです。
多くの人がここでつまずきます。相手の性格を受容するべきだということを理解しないのです。そして、「性格の不一致」といって離婚します。
 
愛には選択と受容があるということを理解すれば、離婚や冷え切った夫婦関係を回避することができるはずです。

教育界におかしいことはいっぱいありますが、「個性を伸ばす」という表現もそのひとつです。「個性を伸ばす」って、根本的に間違ってるでしょう。
たとえば、無口な子の個性を伸ばすと、もっと無口な子になってしまいます。おしゃべりな子の個性を伸ばすと、もっとおしゃべりになってしまいます。さらにいうと、せっかちな子の個性を伸ばすともっとせっかちに、おっとりした子の個性を伸ばすともっとおっとりした子になってしまいます。神経質な子はもっと神経質に、大ざっぱな子はもっと大ざっぱに……きりがないですね。
個性というのは伸ばすものではないのです。
伸ばすのは才能、技能、学力、実力などです。
つまり才能や学力という言葉にはいい意味が含まれていますが、個性という言葉にはいい意味も悪い意味も含まれていません。ですから、個性を伸ばしてもいいことにはなりません。むしろ本来の個性と違うものになって、よくないことになるでしょう。
ですから、
才能を伸ばす」
「個性を尊重する」
というふうに使い分けるのが正しい日本語です。
 
教育界の日本語レベルはこんなものかとイヤミのひとつもいいたくなりますが、これは日本語能力の問題とは違って、教育界の病理の問題だと思います。
 
昔の教育界は子どもの個性を無視して、画一的な教育をしていました。それはいけないということで、個性重視、個性尊重の教育がいわれるようになりました。
ところが、「個性を尊重する」ということは、教育者は個性に関する部分では子どもに手を出さない、無作為であるということです。言い換えれば、子どものありのままを受け止めるということです。
ところが、教育者というのはこれができない。どうしても手を出してしまいたくなる。子どもをいじり回したくなるのですね。そして、
「私が教育したおかげで子どもはこんなによくなった」
という満足を味わいたいのです。
つまり、教育者は子どもの個性の部分にも手を出したいので、「個性を伸ばす」という表現を好んでするのです。
 
こうした教育界の病理を私は「過剰教育」と呼んでいます。「過剰教育」の結果、子どもは自主性や自発性が育たず、覇気のない、受身の人間になってしまいます。不登校、引きこもり、オタク、草食系も全部そこにつながっていると思います。
 
それはともかくとして、少なくとも教育界は今後、「個性を伸ばす」という表現の間違いに気づいて、「個性を尊重する」という表現に変えていただきたいと思います。
 

震災直前、新宿歌舞伎町に行ったら、以前と比べて人通りが少なく、さびれた感じに驚きました。今はもっとさびれているかもしれません。石原慎太郎の魔手がここにも及んでいたのです。
新宿歌舞伎町といえば、東京では東京ディズニーランドと並ぶ一大アミューズメントスポットです。私の世代は、山本晋也監督の風俗レポートで歌舞伎町のすばらしさを知りました。ノーパン喫茶に始まり、のぞき部屋、個室ビデオ、ノーパンしゃぶしゃぶ、ソープランド、ホテトル、ファッションヘルス、デリヘル、イメクラなど、いや、もっといろいろあると思いますが、こんな多様な性風俗文化のあるところは世界にないでしょう。
日本のアダルトビデオも多様な種類というかジャンルがあり、これもおそらく世界一ではないでしょうか。
なぜ日本にこれほど多様な性文化があるのかはよくわかりませんが、少なくとも江戸時代の遊廓や浮世絵にまでさかのぼることができると思います。
 
ところが、石原慎太郎という男は、こうした日本独自の文化を見ると攻撃したくなるようなのです。マンガ・アニメしかり、自販機、パチンコもそうです。歌舞伎座の新デザインについて「銭湯みたいで好きじゃない。オペラ座のようにしたほうがいい」とも発言しています。
石原慎太郎は、日本と日本人と日本文化を憎んでいるのでしょう。それはあの天罰発言に端的に表れています。
石原慎太郎の魔手によって、歌舞伎町はかつての輝きを失い、ほとんど飲食店だけの街にさせられてしまいました。
 
ほんとうの右翼は石原慎太郎を決して支持しません。石原慎太郎は反日日本人だからです。

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