村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

島田紳助さんが芸能界引退表明をしたことをきっかけに、3回連続で暴力団に関して書いてしまいましたが、私は特に暴力団に詳しいわけではありません。ただ、暴力団に対する見方が普通の人とは違うので、普通の人に書けないことが書けるとは思っています。
 
普通の人は、「暴力団は悪い」という前提から考えます。ですから、暴力団とつきあうのは悪いし、島田紳助さんは悪いし、暴力団の取り締まりを強化するのはよい、という考えになります。
私は、「暴力団が悪いわけがない」という前提から考えます。ですから、どうして暴力団は悪いとされてしまったのだろうかと考え、その歴史を調べます。その中で裁判によらずに懲役刑が科せるという「賭博犯処分規則」という法律があったことなどがわかりましたし、そうしたことから誰が「暴力団は悪い」という考え方を広めたのかを推測しました。
 
私が「暴力団が悪いわけがない」と考えるのは、人間はみな同じだと考えるからです。これはごく当たり前のことですが、今の世の中はこの当たり前のことがわからなくなっています。
確かに今の世の中を見ると、悪い人間やよい人間がいるように見えます。しかし、それはもとは同じ人間であったのが、なんらかの原因で悪い人間やよい人間になったわけです。ですから、過去にさかのぼって調べていけば、悪い人間になった原因がわかり、原因がわかれば、悪い人間を直す方法もわかるはずです。
 
私はこうした考え方を「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」によると、たとえば暴力団の問題はこのように説明できます。
 
学校のクラスで大勢が一人をイジメているとします。その大勢にイジメる理由を聞けば、あいつは汚い、臭い、のろまだ、バカだ、乱暴だ、ずるいなどというでしょう。その言葉だけ聞くと、まるでイジメられる子どもが悪いようです。
暴力団も、警察や一般人からイジメられています。警察や一般人にイジメる理由を聞けば、いろいろな理由を言うでしょう。その言葉だけ聞くと、まるで暴力団が悪いようです。
つまり暴力団は、クラスでイジメられる子どもと同じようなものです。
そして、現在の暴力団対策は、徹底的にイジメて無力化するか、クラスから追い出してしまおうというやり方です。こんなやり方のうまくいくはずがありません。
正しいやり方は、イジメをやめて、みんな仲良くすることです。
 
なんかすごく当たり前のことですね。
しかし、それでもイジメをやめたくない人もいるでしょう。そういう人は、「イジメるのはあいつが悪いからだ。あいつが改心すればイジメはやめる」というはずです。
改心するべきは自分なんですけどね。

「ボタンのかけ違い」という言葉がありますが、暴力団対策はまさにボタンのかけ違いで、最初が間違っているので、どこまでいっても成功するということがありません。
 
暴力団というのは戦後できた呼称で、その源流をたどれば博徒、的屋、火消し、ヤクザ、侠客、渡世人などになりますが、ここでは単純化して博徒ということにしておきます。
江戸時代、博徒は日蔭者ではありましたが、社会に一定の居場所を持っていました。清水次郎長、新門辰五郎などは社会的に尊敬される存在でもありました。明治になって、刑法で博打が禁止されましたが、そのとき失業する博徒に対してなんらかの補償が行われたかというと、そんなことはありません。むしろ逆に迫害されたのです。
その典型が1884年に制定された「賭博犯処分規則」という法律です。これは刑法の賭博罪に代わるもので、裁判によらずに(行政処分で)懲役刑を科すことができるというものです。この法律によって博徒は大弾圧を受けたのです。
ところで、博徒には自由民権運動に参加する者が多く、この法律は自由民権運動を弾圧する目的もあったとされています。
この法律は帝国憲法と整合性がないということで1889年に廃止されますが、司法当局は博徒の取り締まりは違憲であっても許されると考えていたのでしょう。つまり、取り締まるほうが不当なやり方をしていたのです。
 
1991年制定の暴力団対策法も、結社の自由を制限して違憲であると、故・遠藤誠弁護士らが訴訟を起こしました。確かに、ある特定の集団だけを準犯罪者扱いにするという妙な法律です。
 
「罪を憎んで人を憎まず」といいますが、博徒、ヤクザ、暴力団に関しては、警察司法当局は「罪よりも人・組織を憎む」という方針で取り締まっています。
取り締まり方が不当だから、暴力団対策はうまくいかないのです。
 
博徒は親分子分、兄弟分という強い絆で結ばれ、独自の掟を持ち、暴力的でもある集団で、近代社会においてこういう集団が存在するのは確かに不都合です。しかし、ある集団をなくそうとすれば、それなりのやり方があります。たとえば、日本の繊維産業が途上国に追い上げられて危機に瀕したとき、構造不況業種に指定するというやり方で中小企業に対する転業支援が行われました。博徒に対しても転職支援をすればよかったのです。
しかし、警察司法当局にそういう発想はありませんでした。なぜなら彼らは学歴エリートで、もっとも差別意識の強い人間ですから、博徒にも差別意識で対してしまったのです。
 
学歴エリートがもっとも差別意識の強い人間だというのは私の考えで、もしかして社会常識と違うかもしれませんが、誰でも素直な気持ちになれば理解できるはずです。
 
マスコミの人間も学歴エリートという点で警察司法当局の人間と共通しています。また、学者や評論家などもたいていは同じです。そのため、警察のやり方が不当なのだということを認識できません。
 
警察の不当な取り締まりによって、博徒も変質しました。虐待された子どもの性格がひねくれるのと同じです。昔は講談にうたわれた森石松のように、博徒は愛される存在でもありましたが、今はそういう人間も少ないでしょう。暴力団と呼んでいるうちに実質も暴力団になってきているかもしれません。
しかし、ボタンのかけ違いをしたのは警察司法当局なのですし、暴力団対策を成功させようとすれば、そこまでさかのぼって考え直すしかありません。

島田紳助さんの引退に関して朝日新聞が「どう見てもアウトだ」というタイトルで社説を書いていましたが(8月25日朝刊)、なんともひどいものです。完全に思考停止状態というか、パブロフの犬状態というか、「暴力団」という言葉に反射的に反応しているだけです。
「アウトだ」というとき、その基準は誰が決めたのでしょう。朝日新聞でしょうか。警察でしょうか。
一部を引用します。
 
 
芸能界と暴力団とのつながりは、深くて、広い。山口組が昭和の時代、浪曲の興行に進出したのが始まりとされる。
 芸能の主舞台がテレビに移っても、タニマチになったり、争いごとに介入したりと、いろんな場面で見え隠れしてきた。多少のヤンチャは芸の肥やし、とみる向きもあった。
 だが、もはやそんな時代ではないことは、誰でもわかっているはずだ。
 暴力団対策法が施行されてから、すでに19年。けれど構成員・準構成員の数は8万人前後で、大きな変化はない。かたぎを装う「共生者」とともに市民生活や企業活動に巧みに入り込み、稼ぎ続けているのだ。
 そこで、ここ数年、暴力団に利益を与えた側を罰する条例があちこちにでき、各業界は暴力団排除の約款作りに乗り出している。大相撲も野球賭博事件を機に、関係断絶を迫られた。
 暴力団に対して、より厳しい態度で臨もうという意識が社会全体に強まっている。それだけに、この一件は看過できない。
 
さすがに朝日新聞は現状を正しくとらえています。
「暴力団対策法が施行されてから、すでに19年。けれど構成員・準構成員の数は8万人前後で、大きな変化はない」
まさにその通りです。警察の暴力団対策はなんの結果も出していないのです。
いったいなんのために暴力団対策法をつくったのでしょう。暴力団対策法をつくってから、警察はなにをしていたのでしょう。
これは明らかに警察の怠慢か失敗です。朝日新聞はなぜこれを追及しないのでしょう。
これに比べたら、島田紳助さんのことなどあまりにも小さいことです。
これまで警察は暴力団対策でなにをやってきて、どれだけ経費をかけて、その成果はどんなものであったかをきっちりと検証しないといけません。
もちろん成果といえるものはなにもないはずです。
現在、地方自治体で暴力団排除条例の制定が進められていますが、それによっていかなる効果があるのかも示されていません。
つまり、警察がやっている暴力団対策はまったくのデタラメで、時間と経費のむだなのです。
ところが、朝日新聞に限らずマスコミは警察を追及せず、逆に島田紳助さんや大相撲などを悪者に仕立て上げようとしています。
 
ヤクザを暴力団と名づけて排除することは、戦後警察が始めたことです。
官僚の常として、自分の間違いを認めようとしません。一度始めたことは、明らかに間違いとわかっても、なかなかやめません。支那事変を始めた軍部は、戦いに勝てないことが明らかになっても、戦いをやめることができず、太平洋戦争にまで突っ走ってしまいました。今、警察がやっている暴力団対策も同じようなものです。
 
ヤクザというのは、確かに近代社会では奇妙な存在です。しかし、それは大相撲が奇妙な存在であるのと同じようなものです。大相撲を排除せず、これまで共存してきたのですから、ヤクザと共存できない理屈はありません。
ヤクザを排除するという作戦がうまくいけばそれでよかったかもしれませんが、今はうまくいかないことが誰の目にも明らかになっています。
新聞記者は警察庁の記者会見などで、「暴力団対策はいつ成功するのですか」と声を上げてください。
もし警察が暴力団対策に成功していれば、島田紳助さんも芸能界を引退する事態にはならなかったのですから。

島田紳助さんが芸能界引退を表明した理由は、暴力団との交際だということです。一般常識として、暴力団と交際するのはよくないことですし、芸能人の場合はとくによくないこととされています。しかし、よく考えるとおかしいですよね。暴力団と交際して犯罪を共謀するというのならいけませんが、ただ交際するだけのことがなぜいけないのでしょう。
 
見ただけで暴力団員とわかる人ばかりではありません。近所に住んでいて、知らずにつきあってしまう場合もあるでしょう。暴力団員とわかった瞬間につきあいをやめるというのは相手に失礼ですし、それに近所づきあいとして最低限のことはしないわけにいきません。
また、暴力団員とわかっていても、人間同士ですから、それなりの対応をしなければなりません。たとえば、暴漢に襲われたとき、暴力団員が助けてくれたとします(紳助さんの場合もこれに近いものがあります)。その場合も、恩人としての対応をしてはいけないのでしょうか。
つまり、暴力団員も同じ社会に人間として生きているのですから、どうしてもつきあわざるをえない場合もあるのです。
ですから、暴力団と絶対つきあうなというルールのほうがおかしいのです。
 
では、どうしてこんなおかしなルールができたのでしょうか。それは、警察に責任があります。
 
もともとヤクザは少なくとも江戸時代から存在し、社会で一定の位置を占めていましたが、戦後、警察はこれを暴力団と呼んで排除するということを始めました。最初は頂上作戦といって幹部を逮捕する作戦を、第一次、第二次、第三次とやり、それから資金源を断つという作戦をやり、さらに、いわゆる暴対法をつくり、最近は地方自治体で暴力団排除条例の制定を進めています。その結果どうなったかというと、暴力団構成員の数が少しへったぐらいの成果しか上がっていません。つまり、警察は暴力団を排除することに完全に失敗したのです。
東京電力は原発事故処理の工程表を発表し、冷温停止の時期を示していますが、警察は暴力団排除の“工程表”を発表したことはなく、いつ排除に成功するかの時期も示していません。おそらく国民のほとんどは、警察は暴力団の排除に永久に成功しないだろうと考えています。
しかし、警察は失敗を認めようとせず、もちろん謝罪もしていませんし、誰も責任を取っていません。
むしろ警察は、みずからの非を国民に押しつけようとしています。そのためにつくったのが、暴力団とつきあってはいけないというルールです。
さっきも言ったように、そこに人間がいるのにつきあうなというのはむりなのです。そこに人間(暴力団員)がいるのは、警察が失敗したせいです。しかし、警察は逆に、暴力団とつきあう国民が悪いというイメージをつくりあげて、自分の失敗をごまかそうとしています。
 
警察は、暴力団排除の“工程表”を発表して、暴力団排除に成功する時期を示さなければいけませんし、それができないなら、暴力団排除の作戦を中止しないといけません。
今は勝ち目のない戦いに戦力を投入し続ける“ガダルカナル状態”で、その損失をこうむるのは国民です。
警察・司法・法務の官僚はみずからの間違いを認めて、作戦を中止するべきです。
 
 
作戦を中止したとき、暴力団対策はどうすればいいかは、次のエントリーを参考にしてください。
「暴力団追放運動の不思議」
 

今さらですが、なでしこジャパン・ブームはすごいですね。確かにワールドカップ優勝はすばらしいことですし、選手一人一人がきびしい環境でがんばっているのも感動的です。しかし、なでしこジャパン自体は優勝前も優勝後も変わるわけではないのに、人々の変わりようには驚いてしまいます。
みんなそんなに「世界一」が好きなのでしょうか。そういえば、野球のWBCで日本が優勝したときも大騒ぎでした。
 
それにしても、蓮舫さんもとんだとばっちりでした。ツイッターに「優勝おめでとう」と書き込んだばかりに、「スポーツ振興費を仕分けした人に言ってほしくない」とか「一位じゃだめなんでしょう」などの書き込みが殺到し、炎上してしまったということです。
また、蓮舫さんは「はやぶさ」に関連する宇宙開発関連予算を仕分けしたということでも批判されました(本人はその仕分けにはかかわっていないと弁明しています)。「はやぶさ」も世界初の偉業でした。
スーパーコンピュータが世界一の記録を出したときも、蓮舫さんが批判されました。スーパーコンピュータの予算を削減しようというときに、蓮舫さんが「二位じゃだめなんでしょうか」の名言を言ったのでした。
 
事業仕分けで削減した額が少ないといって批判されるならわかりますが、削減したことを批判されるのはどうなのでしょうか。
そもそも「はやぶさ」やスパコンなどの科学技術の分野では、人類としての達成だと考えるべきであって、日本が一位だとか二位だとかいうのはどうでもいいことです。日本が一位になることで多少国益に資することがあるかもしれませんが、一位になるために予算をつけるというのは、どう考えても間違っています。あくまで費用対効果で考えるべきです。
 
こうした事業仕分けを批判しているようでは、今後むだな予算の削減はますます困難になります。国民も、「世界一」に目をくらまされることなく、むだ遣い削減、財政健全化という大きな目標を見失わないようにしないといけません。
 
ところで、なでしこジャパンの次の挑戦はロンドン・オリンピックということになりますが、優勝は容易なことではありません。明らかにアメリカのほうが実力は上ですし、実力伯仲の国はいくつもあります。なでしこジャパンが二位以下になったとき、今まで熱狂していた人々はどういう態度をとるのでしょうか。
もし二位になって、今まで熱狂していた人たちが潮が引くように離れていったとき、蓮舫さんは声を大にして「二位じゃだめなんでしょうか」と言ってもらいたいものです。

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