村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

統一地方選での民主党の不振で、またぞろ菅下ろしの動きが強まってきました。代わりを誰にするかも考えないで菅下ろしをいっている人が相変わらず多いようです。もしいい人がいれば替えるのもありですが、そんな人がいるのでしょうか。大連立すれば別ですが、民主党内で探すとなると、なかなかむずかしいと思います。
 
これまでは次世代のエースは岡田克也だといわれてきました。しかし、このところ幹事長としての評価がきわめて低く、期待が一気にしぼんでしまいました。原理主義者といわれるだけに、大震災に対応するだけの柔軟性がなかったのでしょうか。
 
前原誠司は、外国人献金問題で外相を辞任したばかりですから、当面はむりでしょう。
 
野田佳彦は財務相を無難にこなしていますが、単に官僚の振り付けに従っているだけのような気もします。実力があるのかどうかよくわからない人ですし、国民の人気もないでしょう。
 
枝野幸男は、もしかしてあるかもしれません。しかし、まだ若いし、背が低い。国際的な場であの背の低さは……いや、それは関係ないかもしれませんが、なにか軽い印象は否めません。
 
あと、可能性があるとすれば仙谷由人でしょう。政策通ですし、タフですし、首相が務まる器です。ただ、あまり国民に人気はないし、健康面の不安もあります。
 
小沢一郎は被告人の立場ですからむりでしょう。小沢系の議員にもたいした人材はいないと思います。
 
つまり、菅さんを辞めさせるとしても、次の人の名前が出てこないというのが現状ではないでしょうか。
異論のある人はいるでしょう。そういう人は「私のイチ押しはこれだ」という人の名前を出して菅下ろしを主張してください。
 
そもそも、今の時期に菅さんを辞めさせたら、日本の政治はどうなっているのかと、国際社会があきれ返ってしまいます。
菅下ろしを主張する人は、国際社会を納得させるような説明も用意してください。
どうせむりだと思いますけど。
 
いやあ、日本の政治って、ほんとにレベルが低いですねえー(水野晴郎調)

ブログを始めて3週間になりました。毎日更新という目標をクリアしつつなんとか続けています。
思うに、このブログを書くという作業は、私にとって一種のリハビリテーションなんですね。
 
私はもともと引きこもり傾向があります。昔は引きこもりなんていう言葉はありませんから、スチューデント・アパシー(学生無気力症)と呼ばれていました。私はそれで大学を中退しました。
小さな出版社に勤めながら少しずつ社会復帰をし、小説家としてデビューしました。デビュー作である短編小説は、引きこもりの男性が主人公であるものでした(これを書くとネタバレになってしまうのですが)
自分でいうのもなんですが、私はけっこう期待された小説家だったと思います。しかし、諸々の事情から小説を書かなくなり、社会の表面から消えました。ライター稼業で食べていましたから、生活としてはそれほど変わらなかったのですが。
 
そして、今回は思想家として社会復帰を目指しています。
しかし、思想家ってなんでしょうね。すごく偉いようですが、すごくインチキくさくもあります。だから、私は「科学上の理論の広報係ですよ」というスタンスでいきたいのですが、それもなかなか理解されません。
論壇の片隅に地位を得るというような目標なら楽なのですが、そうではありません。思想の世界をすべて覆すような理論なので、この広報係を務めるのもたいへんです。
 
まあ、少しずつ前進していきたいと思います。

私は政権交代の果実を得るまで民主党政権を支えていくべきだと思っていますが、菅さんに首相の資質があるかというと、それはまた別問題です。
私は菅さんに会ったことがあります。会ったといっても、雑誌の1時間ほどの対談にライターとして同席しただけですが、1時間見ていれば、だいたいどんな人間かわかります。
随行の議員が「菅さんは記者のつまらない質問にもいちいち答えるので困る。無視してしまえばいいのに」とこぼしていたのを覚えています。だから、避難所を視察したときも、「無視するんですか」と声をかけられて戻ってきてしまうのです。小沢一郎は記者の質問など平気で無視していますが、あの対極のタイプです。
私は菅さんのほかにも小泉純一郎、麻生太郎、鳩山由紀夫、岡田克也、石原伸晃など多数の政治家を同様に間近に見ていますが、首相にもっとも必要な資質が危機に際して動じない精神の強さだとすれば、菅さんはそれがもっとも欠けている人間です。些事にこだわり、精神的に不安定なのです。
 
ところが、鳩山政権のあと菅政権を組織したとき、少し菅さんを見直しました。官房長官に仙谷由人、幹事長に枝野幸男を起用したところに人事の妙がありました。
鳩山さんは官房長官に、もう名前も思い出したくないへんな人間(平野博文でした)を配して、人事から失敗してしまいましたが、仙谷由人は精神的にひじょうにタフな人間で、菅さんの欠陥を補うのに向いています。仙谷がタフ担当、枝野が能弁担当というところです。
その後、曲折はありましたが、やはり仙谷と枝野が菅さんをささえる形となっています。
 
さて、菅さんは大震災のような危機対応にはもっとも向かない首相でしたが、経産省や原子力安全・保安院をまったく信じず、東電をどなりつけることで、原発事故への対応は、ほかの誰が首相であるよりもうまくやったと思います。
そして現在は、復興への道筋をつける時期になっています(水素爆発の可能性はまだあるようですが)。この時期は、誰が首相であっても務まります。たとえば、9.11のあとバカなブッシュでも務まったのと同じです。この時期に首相を替えるなんて、よけいな時間を使い、混乱を招くだけです。
 
そもそも、今首相交代をいう人は、今の政治状況がまったくわかっていないと思います。
小泉政権のあと、官邸主導の政治ができる首相でないと務まらなくなっているのです。安倍晋三と福田康夫は精神的にひ弱だったので、だめでした。麻生太郎はひ弱ではありませんでしたが、鈍感力だけの人なので、自民党政権を終わらせてしまいました。
鳩山由紀夫も官邸主導をやるには実力不足で、人事の能力もありませんでした。
 
今首相交代をいう人は誰を念頭に置いているのでしょうか。私が思うに、官邸主導ができるだけの精神的なタフさを持っているのは、今の政界には仙谷由人か小沢一郎しかいません。いや、これには異論があるかもしれませんね。しかし、安倍と福田のつまずきを見れば、よほどの人間でないと務まらないのはわかるでしょう。
 
谷垣禎一は野党の総裁は務まりますが、とても首相が務まるだけのタフさがあるとは思えません。石原伸晃のひ弱さには定評があります。
 
今の菅体制のままで行くのが当面はベストだと思います。

民主党政権は未熟だからだめだという人がいますが、未熟を否定する人は永遠に成熟を得ることができません。こんな簡単なことがわからないなんて、「どうかしてるぜ!」といいたくなります。
政権交代して、長年野党暮らしの政党が政権の座につけば、未熟なのは当たり前です。それがいけないというなら、政権交代そのものを否定しなければならなくなります。
それに、私の見るところ、菅政権は震災対策をそこそこやっています。それほど批判されるところがあるとは思えません。
もし政権交代がなくて、自民党政権下で大震災が起きていたら、自民党政府は東電のいうことを真に受けて、原発事故はもっと悲惨なことになっていた可能性が高いと思います。
それに、今の民主党政権を批判する人は、自民党の谷垣氏や石原伸晃氏やその他の古い政治家たちがもっとうまくやってくれると思ってるのでしょうか。
 
どうやら日本国民は政権交代を受け止めるには未熟すぎるのかもしれません。

愛のような基本的なことほどよくわからないのが人間の愚かなところであり、また学問の未熟なところです。しかし、「科学的倫理学」は愛をちゃんと解明しているので、その一端をお教えしましょう。
 
私は「2番目に大切なもの」というエントリーで、優先順位としては愛よりもお金が先だと書きました。
しかし、お金は目に見えますが、愛は目に見えないので、愛を得るのはお金を得るよりもむずかしいかもしれません。
 
まず、愛には2種類あります。親子愛と異性愛です。
人間は生まれてすぐ親から愛され、親を愛するという体験をします。
成長すると、異性を愛し、異性から愛されるという体験をします(誰もができるわけではありませんが)
そして、子どもができると、子どもを愛し、子どもから愛されるという体験をします(男と女では差がありますが)
つまり、子どもからの親子愛、異性愛、親からの親子愛を繰り返しながら、世代が交代していくのです(哺乳類はみな同じです)
愛することも喜びですし、愛されることも喜びです。この喜びがきわめて大きく、誰もが強く求めるからこそ、その遺伝子は存続してきたのです。
友情というのは、親子愛と異性愛という基本の愛から派生したもので、重要度がぜんぜん違います。神への愛や芸術への愛やフィギュアへの愛もやはり派生したものですが、これらはむしろ変態というべきでしょう。
 
親子愛と異性愛があるというのは多くの人が納得するでしょうが、親子愛と異性愛の性質の違いを明確に指摘できる人はほとんどいないのではないでしょうか。
親子愛と異性愛の違いは、選択と受容で説明できます。
 
異性愛は、選択から始まります。さまざまな異性の中から、よい異性、自分に合った異性を選択します。しかし、異性のほうからも選択されないと、その選択は成就しません。ですから、選択するよりいかに選択されるかが重要な問題になります。
 
親子愛は受容から始まります。選択はありません。親はどんな子どもでも愛しますし、子どもはどんな親でも愛します。
どんな子でも愛する親の姿を親バカといいますが、最近は事情が変わってきました。子を愛せない親がふえてきたのです。そのため、子は親を愛しているのに、親は子を愛していないという悲劇が発生します。これは文明の病で、きわめて深刻な問題ですが、ここではこれ以上触れません。
 
犬や猫などのペットを愛する人は、まるで自分の子どものように愛します。ところが、ペットを飼う場合、最初に選択をしなければなりません。血統や値段や毛並みや健康状態などを見て、ペットショップで選ぶのです。親子愛に選択が入るわけで、多くの人はここに抵抗を感じます。そこで、「最初に目が合った」などの理由をつけて、選択らしくない選択をしたりします。
 
異性愛は選択から始まりますが、長く続けていこうとすれば受容に変わっていかなければなりません。相手に魅力がなくなっても受容し、相手の性格が自分の望むものでなくても受容するのです。
多くの人がここでつまずきます。相手の性格を受容するべきだということを理解しないのです。そして、「性格の不一致」といって離婚します。
 
愛には選択と受容があるということを理解すれば、離婚や冷え切った夫婦関係を回避することができるはずです。

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