村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

教育界におかしいことはいっぱいありますが、「個性を伸ばす」という表現もそのひとつです。「個性を伸ばす」って、根本的に間違ってるでしょう。
たとえば、無口な子の個性を伸ばすと、もっと無口な子になってしまいます。おしゃべりな子の個性を伸ばすと、もっとおしゃべりになってしまいます。さらにいうと、せっかちな子の個性を伸ばすともっとせっかちに、おっとりした子の個性を伸ばすともっとおっとりした子になってしまいます。神経質な子はもっと神経質に、大ざっぱな子はもっと大ざっぱに……きりがないですね。
個性というのは伸ばすものではないのです。
伸ばすのは才能、技能、学力、実力などです。
つまり才能や学力という言葉にはいい意味が含まれていますが、個性という言葉にはいい意味も悪い意味も含まれていません。ですから、個性を伸ばしてもいいことにはなりません。むしろ本来の個性と違うものになって、よくないことになるでしょう。
ですから、
才能を伸ばす」
「個性を尊重する」
というふうに使い分けるのが正しい日本語です。
 
教育界の日本語レベルはこんなものかとイヤミのひとつもいいたくなりますが、これは日本語能力の問題とは違って、教育界の病理の問題だと思います。
 
昔の教育界は子どもの個性を無視して、画一的な教育をしていました。それはいけないということで、個性重視、個性尊重の教育がいわれるようになりました。
ところが、「個性を尊重する」ということは、教育者は個性に関する部分では子どもに手を出さない、無作為であるということです。言い換えれば、子どものありのままを受け止めるということです。
ところが、教育者というのはこれができない。どうしても手を出してしまいたくなる。子どもをいじり回したくなるのですね。そして、
「私が教育したおかげで子どもはこんなによくなった」
という満足を味わいたいのです。
つまり、教育者は子どもの個性の部分にも手を出したいので、「個性を伸ばす」という表現を好んでするのです。
 
こうした教育界の病理を私は「過剰教育」と呼んでいます。「過剰教育」の結果、子どもは自主性や自発性が育たず、覇気のない、受身の人間になってしまいます。不登校、引きこもり、オタク、草食系も全部そこにつながっていると思います。
 
それはともかくとして、少なくとも教育界は今後、「個性を伸ばす」という表現の間違いに気づいて、「個性を尊重する」という表現に変えていただきたいと思います。
 

震災直前、新宿歌舞伎町に行ったら、以前と比べて人通りが少なく、さびれた感じに驚きました。今はもっとさびれているかもしれません。石原慎太郎の魔手がここにも及んでいたのです。
新宿歌舞伎町といえば、東京では東京ディズニーランドと並ぶ一大アミューズメントスポットです。私の世代は、山本晋也監督の風俗レポートで歌舞伎町のすばらしさを知りました。ノーパン喫茶に始まり、のぞき部屋、個室ビデオ、ノーパンしゃぶしゃぶ、ソープランド、ホテトル、ファッションヘルス、デリヘル、イメクラなど、いや、もっといろいろあると思いますが、こんな多様な性風俗文化のあるところは世界にないでしょう。
日本のアダルトビデオも多様な種類というかジャンルがあり、これもおそらく世界一ではないでしょうか。
なぜ日本にこれほど多様な性文化があるのかはよくわかりませんが、少なくとも江戸時代の遊廓や浮世絵にまでさかのぼることができると思います。
 
ところが、石原慎太郎という男は、こうした日本独自の文化を見ると攻撃したくなるようなのです。マンガ・アニメしかり、自販機、パチンコもそうです。歌舞伎座の新デザインについて「銭湯みたいで好きじゃない。オペラ座のようにしたほうがいい」とも発言しています。
石原慎太郎は、日本と日本人と日本文化を憎んでいるのでしょう。それはあの天罰発言に端的に表れています。
石原慎太郎の魔手によって、歌舞伎町はかつての輝きを失い、ほとんど飲食店だけの街にさせられてしまいました。
 
ほんとうの右翼は石原慎太郎を決して支持しません。石原慎太郎は反日日本人だからです。

昨日、「原発作業員のヒロイックな仕事ぶり」というエントリーで、海外メディアは原発作業員のヒロイックな仕事ぶりを報じたがっているに違いないから、政府や東電はそれに対応することで原発事故の実態を海外に正しく知らせるようにするべきだと書きました。
しかし、政府や東電はきっとそれをしないでしょう。その理由はふたつあると思います。
ひとつは、日本人の基本的な考え方として、ヒーローをつくりたがらないというところがあると思います。たとえばチリの鉱山落盤事故のとき、世界のメディアはやたらヒーロー中心の報道をしましたが、多くの日本人は違和感を覚えたのではないでしょうか。日本人の感覚としては、みんなが団結してがんばったから救出されたのだというふうに考えますし、日本のメディアが報道したとすれば、むしろ目立たない「縁の下の力持ち」に焦点を当てた報道が行われたのではないかと思います。
私は、これはこれで日本人の美質だと思います。
 
もうひとつの理由は、現場の作業員がメディアに直接しゃべるようになると、とくに東電上層部について不都合なことがいっぱい出てくる可能性があることです。
たとえば、福島原発では津波で多くの線量計が失われたために、ひとつの作業班に1個の線量計で作業していたということが報じられました。線量計が足りないなら、すぐにほかの原発から回せばよいことです。もちろんそれは現場にできることではなく、東電本店がするべきことで、上層部の無能ぶりを示しています。もし作業員にインタビューしていたら、そうした不満が噴出するかもしれません。
だから、東電上層部は作業員に語らせることはしないでしょう。
その結果、海外のメディアは不満をつのらせ、海外の人たちは日本の原発事故の実態をよく知らないまま、日本への旅行をとりやめ、日本製品を敬遠することをしばらく続けることになるでしょう。

放射能の恐怖で外国人観光客がへったり、外国で日本製品が拒否されたり。まさに国際的な風評被害ですね。
政府は広報活動を積極的にやるべきだという声がありますが、政府広報なんてたいして効果はないでしょう。それよりも、向こうが求める情報を発信するべきです。
では、向こうが求める情報とはなんでしょうか。それは、「フクシマ50」という言葉に表されるように、原発作業員のヒロイックな活動です。作業員の生の声、作業する姿の映像、作業員の家族の声などを海外メディアは知りたがっていると思います。
そして、そうした報道の中で放射能汚染の実態もおのずと明らかになっていくでしょう。
東電や政府は個々の作業員に焦点を当てた報道ができるように配慮するべきだと思います。

「詰め込み教育」はだめということで「ゆとり教育」が始まったわけですが、今はまた「ゆとり教育」が否定され、「学力重視」に変わっています。
でも、「学力重視」って、「詰め込み教育」の看板を変えただけですよね。
教育界ってこういうものなんですか。
 

このページのトップヘ