村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

7月20()の報道ステーションはおもしろかったですね。なでしこジャパンが都庁を表敬訪問したときに石原慎太郎都知事があいさつする様子を異例の長さで放映したからです。報道ステーションは時間をかけても放映する価値があると判断したのでしょう。
どういう様子だったかというと、中日スポーツの記事を引用します。
 
「中日スポーツ」2011721 紙面から
石原都知事「なんで銀座でパレードをやらないんだっ! ボケなすだよ。何もねぇんだな。バカばっかり。政府もバカ、都もバカ、JOCもバカ。メディアも何で書かねぇんだよ。パレードをやれば盛り上がってね。気が回らないバカというか。選手たちに顔向けできないよ」
 
こういう調子でなでしこジャパンの監督や選手の前でまくし立てたわけですから、これは確かにニュースバリューがあります。
どういうニュースバリューかというと、石原都知事はもうろくして、老害をふりまいているということです。今からこれでは4年間の任期が案じられます。
 
パレードをやらないのはけしからんという石原都知事の主張が正しいとしても、なでしこジャパンを祝福する場でそれを言うべきではありません。都のスタッフの問題でもあるわけですから、人のいないところでスタッフを叱ればいいわけです。そんな判断もできなくなって、感情のままに行動するというのはゆゆしき事態です。
報道ステーションにおいて都知事は「パレードなんて当然やるもんだと思ってたよ」ということも言っています。ということは、都のスタッフに指示しなかった自分にも責任があります。ひと言「パレードはやるんだろうな」と言えばよかったのです。自分の責任を棚に上げて人をののしるというのも、やはり老害のひとつの現われでしょう。
 
とはいえ、石原都知事の人気はなかなか衰えません。
この人気はイタリアのベルルスコーニ首相の人気と似ています。
ベルルスコーニ首相は、少女売春を初めスキャンダルのデパート状態で、離婚した奥さんからも罵倒され、みずからは暴言・差別発言を吐きまくっていますが、それでも長年首相を務めていられるのはやはり人気があるからです。
石原都知事とベルルスコーニ首相に共通しているのは、「わがままで偉そう」というところです。そして、「わがままで偉そう」というのは要するに父親のイメージなのです。
 
たいていの父親は会社でつらい思いをしているので、その分、家では「わがままで偉そう」にふるまいます。中にはそうでない父親もいますが、少数派です。
国家権力と国民の関係は、父親と子どもの関係に似ています。ですから、国民の多くは、石原都知事やベルルスコーニ首相のような「わがままで偉そう」な権力者を見ると、自分の父親を連想し、親しみを感じます。一方、立派な権力者を見ても親しみは感じません。
 
ということは、くだらない人間ほど政治家として成功する傾向があるということになります。
確かにそうですね。

2010年度の幼児虐待相談は前年度より約1万2000件増加し、20年連続で増加したそうです。これは相談件数ですから、実際の虐待件数が増加しているかはわかりませんが、幼児虐待というものが広く世の中に認知されてきたのは間違いないでしょう。
 
幼児虐待を初めて明るみに出したのはフロイトです。フロイトは女性ヒステリー患者の治療の経験から、幼児期に性的虐待を受けたトラウマが成人後のヒステリー発症の原因になるという説を発表しました。これはフロイトの偉大な功績ですが、実はフロイトはあとになってこの説をみずから捨ててしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な説をつくり上げるのです。
 
アメリカでは1980年代末から、幼児期に親から虐待されたとして親を訴える訴訟が急増しました。それに対して、親から虐待された記憶はセラピストによってねつ造されたものだとして、逆に親が子どもとセラピストを訴える訴訟も増え、結果として、虐待の記憶はねつ造だと主張する勢力が優勢となり、親を訴えるということはほとんどなくなったようです。
 
つまり、心理学的問題としては、幼児虐待があったとする説はなかったという説に負けるという流れがこれまではありました。
 
日本では(もちろん日本だけではありませんが)、幼児虐待が社会的に認知されつつあります。しかし、これはあくまで犯罪事件として認知されているようです。虐待する親を非難し、刑事事件として処理して終わりという扱いです。
虐待された子どもがおとなになったときに心理的問題をかかえますが、それについての認識はほとんどありません。身近な人にわかってもらおうとしても、わかってくれる人はほとんどいませんし、逆に「それは親の愛情だ」とか「いつまでも親のせいにしていてはいけない」などと否定されてしまいます。これは心理カウンセラーにおいても同じことです。幼児虐待のトラウマを扱えるカウンセラーはまだまだ少ないのが実情です。
 
今、世の中の対立軸は、たとえば右翼対左翼、フェミニズム対反フェミニズム、高福祉対低福祉、原発推進対反原発などいろいろありますが、いちばん重要な対立軸は、幼児虐待の心理的問題を認識できるか否かではないかと私は思っています。というのは、これによって身近な人間との人間関係から政治についての考え方まですべて変わってくるからです。
たとえば、石原慎太郎都知事はかつてスパルタ教育論を唱え、戸塚ヨットスクールを支援していました。こういう人は親から虐待されてトラウマを負った人の気持ちは決して理解できないでしょう。そして、そのことと彼がタカ派であることはもちろん密接に関係しています。
 
今、エディプス・コンプレックスなんてことを言うとバカにされてしまいます。フロイトの学説の見直しは必至です。
アメリカで親を訴えるというのは戦略的に間違っていて、そのため反撃にあってしまいました。なぜなら、虐待の連鎖ということを考えると、親もまた虐待の被害者であった可能性が大きく、訴えるよりむしろ連帯すべき相手であったからです。
 
幼児虐待がもたらす心理的問題は社会全般に広がっていて、これを認識できない人は社会問題も認識できないと言っても過言ではありません。
 
では、幼児虐待がもたらす心理的問題を理解するにはどうすればいいのでしょうか。それは、自分は親からどの程度愛されていたのか、もしかして虐待されていたのではないかということを考えればいいのです。
これは簡単なことのようで、けっこう困難なことではありますが。

ホラー小説やホラー映画には、恐怖の対象としていろいろなものが出てきます。超自然のものとして吸血鬼、ゾンビ、悪霊、人間として連続殺人鬼、多重人格、ストーカー、DV男。それから、自分自身への恐怖というのもあります。正確にいうと、自分自身の本当の姿を知る恐怖です。実は私がいちばん好きなホラーは、この、自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いた作品です。
 
吸血鬼や殺人鬼は、やっつけることもできますし、それから逃げることもできます。しかし、自分自身が怖いとなれば、やっつけることも逃げることもできません。まさに究極の恐怖ではないでしょうか。
 
自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いたものとして最高の小説はリチャード・マシスンの「地球最後の男」ではないでしょうか。これは最初、「吸血鬼」というタイトルで翻訳され、最近は「アイ・アム・レジェンド」というタイトルで出版されています。3回映画化され、もっとも最近の映画化はウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」です。
これは一般にはSFに分類される作品かもしれませんが、吸血鬼が出てきますし、マシスンは恐怖を描くことに本領を発揮する作家ですから、ホラーといってもさしつかえないでしょう。
この作品の衝撃は結末に訪れます。きわめて意外で、かつ発想のスケールが大きく、そして自分自身の姿をひっくり返してしまうところに強い衝撃があります。
したがって、それを説明すると、いわゆるネタバレになってしまいますので、ここではやめておきます。なお、ウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」の劇場公開版の結末はまったく別のものになっていて、なんの衝激もありません。
 
そこで、ネタバレのそしりを受けそうもないものを紹介することにします。
私が若いころに見たアメリカのテレビドラマで、ミステリー・ゾーンでもなく、アウター・リミッツでもなく、しかしそのたぐいのドラマシリーズの一本ではないかと想像されますが、単発で放映されたので、野球中継中止の穴埋めだったのかもしれません。タイトルも忘れてしまいました。
 
主人公の青年は、おじさんの形見でもらったのか、あやしい骨董屋でもらったのか忘れましたが、ひとつのメガネを手に入れます。それは実は魔法のメガネで、そのメガネをかけて人を見ると、その人が心の中で思っていることが聞こえてくるのです。つまり人の心の中が見えるメガネなのです。
青年は人と会話しているとき、そのメガネをかけてみます。そうすると、それまで調子のいいことを言っていた相手は、実は心の中では青年に敵意を持っていることがわかります。ほかの人もそのメガネで見てみますが、やはりきれいなことを言っていても、心の中はみにくいのです。青年が信頼している相手もメガネをかけて見てみると、青年を裏切るようなことを考えています。青年がひそかに思いを寄せている女性は、愛想よくしている裏で、青年のことをさげすんでいます。
青年は、周りの人間がみんなみにくい心の持ち主であることに憤り、絶望しますが、これはすべてメガネのせいであると思い、メガネを壊してしまおうとします。そのとき、青年の前に大きな鏡がありました。青年はふと思いつき、メガネをかけて、鏡に映った自分を見ます。
青年の叫び声とともにドラマは終わります。
 
周りの人間がみんなみにくい心の持ち主だとしたら、自分も例外ではありえないはずです。
しかし、世の中には政治が悪い、社会が悪い、時代が悪い、若者が悪いなどと非難ばかりしている人がいっぱいいます。こういう人はこのドラマを見て、自分も同じように悪いのではないかと反省してもらいたいものです。
 
 
もうひとつ、やはり私が若いころにテレビで見たものですが、これはドラマではなく映画だったと思います。やはりタイトルは忘れてしまいましたが、なかなかおもしろい映画なので、もしかしたら一部でカルト的な人気のある映画かもしれません。
 
主人公は若くて魅力的な女性ですが、精神病院に入れられることになります。その精神病院にはおかしな患者がいっぱいいます(当たり前ですが)。彼らは主人公の女性に性的な関心を持ち、襲ってきたりして、女性はあやうく難を逃れます。また、裏でなにやらあやしい陰謀をたくらんでいます。その陰謀には医師も加わっていて、医師もいやらしい目で女性を見てきます。ということは、女性は性的な被害妄想をいだく患者ではないかと想像されます。一方で、女性に好意を寄せるハンサムな若い医師もいます。しかし、どれが妄想で、どれが現実かわからないままストーリーは進展し、女性がいよいよ追い詰められて危機に瀕したとき、場面は転換します。
女性は医師から完全に治ったと告げられます。その女性の姿は、みすぼらしい中年女性です。つまり女性は、自分は若くて魅力的な女性だという妄想をいだいていたのです。精神病院を出た女性はとぼとぼと道路を歩いていきます。その姿を見ると、妄想をいだいていたときのほうが幸せだったのではないかという思いにとらわれます。
 
こうした物語が、自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いたものです。
ミステリーやSFやホラーでは意外性が尊ばれますが、自己像の変換というのは中でも最高のものではないでしょうか。認識のコペルニクス的転回を味わうことができるからです。
こうした発想に慣れていれば、発想の幅が広がるのはもちろん、自分勝手な人間になることも防げるのではないかと思います。

私は実はSFとホラーの作家なのですが、このブログではそれらしいところがぜんぜん出ていません。期待されながらちっとも小説を書かなかった引け目があるからでもありますが、一応作家という肩書でやってますので、それらしいところも少しずつ出していきたいと思います。
 
というわけで、「荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」(集英社新書)を読みました。ホラー映画論の本なのにけっこう売れているみたいです。私はひじょうに共感して読みました。ですから、書評は書けません。「ごもっともです」みたいなことばっかりになってしまうからです。
ただ、ちょっと関連して書きたいことがあるので、それを書いてみます。
 
宮崎勤の幼女殺し事件以降、なにか猟奇的な犯罪が起きるとホラーとの関連が取りざたされ、ホラーが悪役にされてきました。私はなんとかホラーを擁護する文章を書きたいものだと思いましたが、その当時はうまく書けませんでした。というのは、ホラーに対する思い入れが強すぎて、冷静な文章が書けなかったからです。
 
荒木飛呂彦さんは本書の冒頭のほうで、ホラー映画の効用について書いています。
「少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません」
「娯楽であり、誇張された内容ではあっても、ホラー映画が描いているのは人間にとってのもう一つの真実、キレイでないほうの真実だということです」
ひじょうにわかりやすく、的確に書かれています。
 
このようにホラー映画には効用があって、ホラー映画有害論などはもってのほかです。
有害な映画はもっとほかにあります。
 
ここからは私の考えになりますが、有害な映画はたとえば正義のヒーローが悪人を殺す映画です。
ホラー映画では、人が死ぬ場面はこれでもかとばかりに残酷に描かれます。しかし、ヒーローが悪人を殺す場面は、せいぜい血が流れるくらいで、残酷さが消され、爽快な行為、カッコいい行為として描かれます。つまり殺人が美化されているのです。
よい子が見たら、人を殺すとはこういうことかと思うかもしれません。
 
また、戦争映画もたいていは有害です。カッコよく敵兵を殺す映画がいっぱいあります。中には戦争の悲惨さや残酷さを描く映画もありますが、それは個々の場面だけであって、映画全体としては、男たちは勇気と誇りをもって戦ったとか、ひ弱な新兵がたくましい兵士に成長したとかいうように、美化して描かれます。こういう映画は、各国の為政者には見せたくないものです。
 
つまり、ホラー映画は残酷なことを残酷なこととして描いているのです(多少の誇張はありますが)。しかし、正義のヒーローが活躍する映画や戦争映画は、残酷なことを美化して描いているのです。いったいどちらが有害かはいうまでもないでしょう。

東京都が夏季オリンピック開催地に立候補することになりました。日本の復興を世界に示すという理由が挙げられていますが、それなら東京ではなくて仙台あたりで開催するべきでしょう。それでも、スポーツ関係者はこぞって賛成しています。日本は原発利権やスポーツ利権で動く国になってしまったようです。
私は日本で開催する必要はまったく感じませんが、オリンピックを見るのは好きです。しかし、昔はオリンピックを単純には楽しめませんでした。というのは、昔は東西冷戦という時代背景もあって、今よりもはるかに国威発揚の場になっていたからです。
それに加えて、アマチュアリズムというものがありました。これがひじょうに厄介なもので、オリンピックの楽しみをそいでいたのです。
 
アマチュアリズムというのは、オリンピックの出場者はアマチュアでなければいけないというものです。しかし、アマとプロというのは、もともと明快に区別できるものではありません。
まず、共産圏の選手は国から援助を受けていたのでステート・アマと呼ばれましたが、これは実質的にプロと同じだとして西側の国は批判しました。
しかし、西側の国も、たとえば日本では多くのアマチュア選手は企業か役所に属し、給料をもらいながら練習したり試合に出たりしていたので、これも実質的にプロに近いものでした。
そのため、ことあるごとにアマチュア規定に抵触するか否かが問題となり、多くの選手は窮屈な思いをしましたし、一般の人も不明瞭な線引きに納得いかない思いがしていました。
 
そして、価値観の転換が起きました。1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロ選手が参加する流れができ、1992年のバルセロナ大会でアメリカのバスケットチームは一流プロを集めてドリームチームと呼ばれ、大きな話題となりました。
今となってはアマチュアリズムは死語です。
 
アマチュアリズムをいいだしたのはオリンピック創始者のクーベルタンで、ウィキペディアによると、ブルジョアジーによる労働者階級排除を目的とする意味があったということです。
 
「オリンピック出場者はアマチュアであるべきだ」という考え方は、スポーツ界において、野球やボクシングなどプロが確立された種目を除いて、プロであることはいやしいことだという風潮を生みました。
今は、プロもアマも区別することなく、プレーするほうも見るほうもスポーツを楽しむことができています。
「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」という考え方がなくなったのはほんとうによいことでした。
 
今、「人間はこうあるべきだ」という考え方がいっぱいあって、私たちはそれに縛られています。しかし、それらは「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」とどこが違うのでしょう。
「人間はこうあるべきだ」という考え方がなくなったほうが私たちは幸せに生きられるのではないでしょうか。
 

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