村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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経済学は自己の利益の最大化を目指す「合理的経済人」という人間観を土台にした学問だとされます。
私はそのことを知ったとき、「『人はパンのみにて生くるにあらず』というのに、パンのことだけか」と思ったのを覚えています。
パン以外の、幸福とか生きがいとかは眼中にないのかと思いましたし、なによりも利益追求は人間性の一部でしかないだろうと思いました。

このことには経済学者も引け目を感じているようで、利益以外の面、具体的には倫理や道徳をなんとかして経済学と結びつけようとしてきました。
その代表的なものがマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。プロテスタントの禁欲的精神が勤勉や貯蓄となって資本主義の発展につながったという逆説的なことを述べた本で、まさに経済と倫理を直結させています。

渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いていて、新一万円札の顔になるということから、改めて注目されています。『論語』の精神を経営に生かすということを述べているので経営学の本というべきですが、「道徳と経済の合一説」ということも主張しています。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの『経済学と倫理学』という本も、タイトルそのままに経済学と倫理学の関連を論じています。

しかし、このような経済学に倫理学を結びつけようとする試みはうまくいっていません。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にしても、プロテスタントの国でなくても経済発展する国はいくらでもあることがわかって、最近はあまり評価されていません。


そこで、最近注目されているのがアダム・スミスです。
アダム・スミスは最初に『道徳感情論』という倫理学の本を書いて高く評価され、その次に『国富論』という経済学の本を書きました。
今ではアダム・スミスといえば『国富論』で知られ、“経済学の父”とされますが、『道徳感情論』のほうはすっかり忘れられています。

スミスは生涯にこの二冊しか本を書いていません。どちらの本もスミスは死ぬまでに何度も改訂していました。
スミスの中で経済学と倫理学は結合していたはずです。





スミスは『道徳感情論』で、道徳の根拠として人間の感情を挙げました。
人間には他者に共感する性質があり、他者の喜び、悲しみ、怒りなどの感情を自分のことのように感じることができるといいます。しかし、人間はすべての感情に共感するわけではありません。ささいなことで激しく怒っている人を見れば、共感することはありません。つまり他人の感情に是か非かという評価を下しています。
ということは、自分もまた他人から評価されているわけです。人間は誰でも他人からよく評価されたいので、そのようにふるまおうとします。しかし、こちらの人によく評価されると、あちらの人から悪く評価されるということもあります。そのような経験を積むうちに、自分と他人を公平に判断する裁判官のような第三者を胸中につくることができるとスミスは言います。この「公平な観察者」によって人間は公平な判断が下せるというわけです。
つまり人間は公平な判断ができ、それによって公平な法律をつくり、秩序ある社会をつくってきたということです。


スミスの思想はイギリス経験論に分類されます。
スミスと同じスコットランド出身のデイヴィッド・ヒュームは、人間の本性(human nature)に道徳の根拠があるとしました。
スミスはより具体的に人間の感情(sentiments)に道徳の根拠があるとし、しかもかなり論理的に説明したので、これが世の中から評価されました(この説はチャールズ・ダーウィンにも影響を与えました。感情は人間と動物に共通しているので、進化論にとって好都合だったからです)。



スミスは次に『国富論』を書きましたが、このときもまったく同じ人間観でした。つまり公平な判断ができる人間を前提としています。
同じ人間観なのに、『国富論』は歴史的名著となり、『道徳感情論』はほとんど忘れられてしまったのはどうしてでしょうか。

まずひとつ言えることは、「公平な人間」観は間違っていたということです。
たとえば日本は韓国と竹島の領有権を巡って争い、中国とは尖閣諸島の領有権を巡って争っています。これらにおいて、日本人はつねに日本に有利な主張をし、韓国人も中国人も自国に有利な主張をしています。誰も「公平な判断」はしません。
人類は数えきれないほど戦争をしてきましたし、愛し合って結婚した夫婦も数えきれないほど夫婦喧嘩をします。「公平な判断」ができないからです。

人間は利己的です。しばしば公平の基準を越えて不当に利己的にふるまい、争いを引き起こします。
スミスは人間性を買いかぶりました。
もっとも、それはスミスだけではありません。西洋の倫理学はすべてそうです。
プラトンは「善のイデア」ということをいい、アリストテレスは「最高善」ということをいい、ソクラテスは「徳」をいいました。カントも「最高善」といっています。
人間は努力して「最高善」を目指すべきであるというのが倫理学の基本です。
しかし今、倫理学は見向きもされない学問です。図書館や大型書店の倫理学の棚の前にはいつも人けがありません。
ですから、『道徳感情論』が忘れられてしまったのは当然です。

むしろ問題は、間違った人間観をもとにしている『国富論』がなぜ成功したかです。
これは対象を経済活動に限定したことに理由があります。

人間は不当に利己的にふるまう傾向があるといっても、公平の客観的な基準がある場合は別です。不公平なふるまいをすれば周りから非難されます。
経済活動はだいたい客観的な基準に基づいて行われます。物々交換の時代にも、物の個数や重さを互いに確認して取引したはずです。貨幣ができてからは、物だけでなくサービスの価値も客観化できるようになりました。
そして、株式市場や競り市のような公開の場で取引が行われれば、公平にふるまわざるをえません。

スミスは、人間が公平にふるまうので「見えざる手」がうまく機能すると考えていました。
しかし、株式市場のような場でも、人間は隙あらばインサイダー取引や不正な相場操縦行為をしようとしますし、あらゆる経済活動の場で詐欺や不正が行われる可能性があります。
そのため警察、証券取引等監視委員会、国民生活センターなどの「見える手」がつねに不正を排除することで経済を回しているのが現実です。

スミスの説は「夜警国家論」ともいわれます。
しかし、現実には社会にはさまざまな問題が生じて、警察だけでなく行政も肥大化しています。人間は公平でないからです。

ただ、ルールが決まっていて、衆人環視のもとで経済活動が行われれば、人間は公平にふるまいます。
そして、公平な市場において価格が決定されれば、価格メカニズムにより商品、資本、労働、土地が適切に配置されます。
この価格メカニズムについての理論がすばらしかったので、人間観が間違っていたにも関わらず『国富論』は高く評価されたのです。


ただ、スミスの「公平な人間」観は間違いだと言い切ってしまうのも違うかもしれません。
前回の「『性善説対性悪説』を終わらせる」という記事に書いたことですが、人間には善人の面と悪人の面の両面があります。
人間は血縁者と親しい人間には利他行動をします。したがって、共同体の中では公平な人間としてふるまうといえます。
ですから、親密な人間を相手にして単価の安い商品を扱うなら、性善説を前提としたビジネスが可能です。
しかし、今の資本主義社会では、ビジネスで扱う金額が大きく、広範囲な人間を取引相手とするので、不正をする可能性がきわめて高くなります。
人間を公平にふるまわせるには監視と罰則が必要です。


これまでのことをまとめます。
従来の倫理学はまったく価値のないものです(私は「天動説的倫理学」と呼んでいます)。
スミスの『道徳感情論』もそれと同じで、「公平な人間」というありえない人間観を提起したので、今ではほとんど忘れ去られました。
『国富論』も同じ人間観ですが、経済活動は監視しやすいために人間観の間違いはあまり問題にならず、価格メカニズムに関する経済理論が優れていたために歴史的名著となりました。

なお、経済学と倫理学を結びつけようという試みがすべてうまくいかないのは、倫理学が根本的に間違っているからです。
これまで経済学が人文・社会科学の中で比較的成功した学問であったのは、倫理学を完全に切り離していたからです。
経済学と倫理学を結合したければ、倫理学を根本的に変革しなければなりません。

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世の中に性善説と性悪説があることは、孟子と荀子の説として中学か高校で習いましたが、こんな単純なことがわからないのかと思ったのを覚えています。
このことがわからないために、さまざまな混乱が生じています。

たとえば新型コロナに対する緊急経済対策として持続化給付金制度が実施されましたが、給付のスピードを優先して簡単に申請できる仕組みにしたことで不正が横行し、2022年6月1日時点で持続化給付金詐欺事件で摘発されたのは3655人、被害総額約31億8000万円となっています。ほかにも新型コロナワクチン接種事業における過大請求や無料PCR検査事業における検査数の水増しなども発覚しています。
こうしたことから「性善説を前提とした制度はだめだ」という声が高まりました。
しかし、性悪説に立って厳密な審査を行うと給付が遅くなります。単純に性悪説がよいとはいえません。世の中はある程度人を信用することで回っています。

現実には、人はみな場面によって性善説と性悪説を使い分けています。
ひろゆき氏はYouTubeで「個人は性善説、組織は性悪説」という説を述べていました(たぶん思いつきです)。
私が見るところ、多くの人は「他人は性悪説、自分は性善説」という説を採用して、自分のことを棚に上げて他人を批判しています。
要するに性善説か性悪説かという問題には、正解がないのをいいことにみんな適当なことを言っているのです。


このように混乱するのは、善か悪か、白か黒かという二分法に陥っているからです。
人間性に完全な善や完全な悪があるわけありません。その中間のはずです。
問題はどの程度善で、どの程度悪かです。
私の考えでは、人間性はおおむね善で、少し悪が入っているというところです。かなり白に近い灰色というイメージです。
別の言い方をすれば、人間性の根底は善で、表層に悪があります。
これは客観的に観察することができます。


私は20代の終わりごろ、東京都練馬区に引っ越しました。
周りにはけっこう畑があり、無人野菜販売所もありました。
私はそのとき初めて無人野菜販売所を見たので、衝撃を受けました。
何種類かの野菜が置かれていて、100円か150円かを箱に入れて好きな野菜を持っていくというシステムです。お金を入れなくても野菜を持っていくことができます。人の目はありませんし、監視カメラもありません。
私は自分が試されている気がしました。お金を入れずに野菜を持っていくのが“合理的”かもしれません。少なくともお金を入れる理由を考えなければなりませんでした(私はそのころから道徳を疑っていたので、道徳は行動の基準にしませんでした)。

私は「自分が信頼されている」と感じました。そうすると「信頼に応えなければ」という思いが生じました。
厳密には無人販売所の設置者は私という人間を信頼しているわけではありませんが、人を信頼することで成り立つ業態であるのは確かです。

それから私が考えたのは、私がお金を払わずに野菜を持っていって、ほかにも同じことをする人間が何人もいたら、この販売所はつぶれるだろうということです。
ここの野菜は、明らかに新鮮で、割安です。タダで少しの野菜を手にいれても、この販売所がなくなったのでは、トータルで自分の損になるだろうと判断し、お金を払うことにしました。

ともかく、無人販売所が成り立っているのは、多くの人が誰も見ていないのにちゃんとお金を払っているからです。そういう意味では性善説が正しそうです。
ただし、全員が払っているわけではありません。「無人野菜販売所 盗み」で検索すると、そういう事例が多数あることもわかります。
最近はコインを入れると野菜が取り出せるシステムになっているところもよく見かけますから、やはりある程度盗まれているのです。
このことからも「人間性はおおむね善で、少し悪が入っている」ということがいえると思います。


善と悪の比率については、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの共著)に出てくるベーグル売りの話が参考になります。

ワシントンでアメリカ海軍のために兵器購入費を分析する職についていたポール・フェルドマンは、ベーグルをつくるのが得意で、いい成績を上げた部下に自家製のベーグルをプレゼントしていました。すると、噂を聞きつけたほかの部署の社員もベーグルをくれとやってきたので、彼が持ってくるベーグルは週に15ダースにもなりました。コストを回収するために、代金入れのカゴと希望価格を書いた札を置きました。回収率は95%くらいでした。
研究所の経営陣が変わったのを機に、フェルドマンは退職してベーグルを売って暮らすことにしました。オフィス街を車で売り込みに回りました。彼のビジネスシステムは、彼が朝早くベーグルと代金入れを会社のカフェテリアに届け、ランチタイムの前にまたやってきて代金と売れ残りを回収するというものです。それがうまくいって、数年で配達するベーグルは週に8400個、客は140社になり、勤めていたとき以上の収入を得るようになりました。
フェルドマンは最初から商売の詳しいデータをとっていたので、どんな会社でどんな人間がどれぐらいベーグルを盗んでいるのかが明らかになりました。
彼が勤めていたときの職場での回収率は95%でしたが、これはみな顔見知りの人間だったからのようです。だいたいの会社は回収率が80%から90%でした。90%以上の会社は「正直者の会社」だと思いました。いつも80%を下回っているような会社には警告文のメモを張りました。
全体の回収率は87%でしたが、9.11テロが起こると2%はね上がりました。
小規模のオフィスのほうが大規模なオフィスよりも正直な傾向がありました。これは都会よりも田舎のほうが人口当たりの犯罪件数が少ないのと似ています。
会社で地位の高い人のほうが低い人よりもごまかす傾向がありました。フロアが三つあって、いちばん上が役員のフロア、下二つが営業、サービス、管理などに携わる従業員のフロアとなっている会社では、上のフロアのほうが盗みが多かったのです。
金持ちや権力者ほど悪いことをする傾向は、ほかの科学的研究でも明らかになっていて、「お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究」という記事にも書かれています。

つまり性善説を前提にしたビジネスが成り立ったのです。
もっとも、これはワシントンのオフィス街のまともな会社が舞台です。
そのへんのストリートの一角にベーグルと代金入れを置いたら、たちまちベーグルもお金も盗まれてしまうに違いありません。

なお、フェルドマンは最初、カゴに代金を入れるようにしていましたが、代金を盗まれることがけっこうありました。そこで木箱の上に細い穴を空けたものを代金入れとしました。そうすると木箱が盗まれるのは年間一個ぐらいでした。カゴからお金は盗めても、木箱まるごとは盗みにくいようです。

もっとも、木箱の中に大金が入っていれば別です。
ベーグルも野菜も単価が安いので成り立つ商売です。宝石の無人販売所はありえません。


それから、フェルドマンはベーグルの配達と代金の回収と一日に二回会社を訪問していますから、そこの会社の人間ともある程度関係ができているでしょう。顔を合わさなくとも「ベーグルを持ってくる人」と認識されているはずです。
人間は親しい関係の人間に損を与えるのは心理的抵抗があります。いわゆる“良心の呵責”です。

これは進化生物学で説明がつきます。
血縁者への利他行動は包括適応度として、血縁のない者への利他行動は互恵的利他行動として理論化されています。
血縁者へ利他行動をするのは当たり前ですが、互恵的利他行動というのは、そのときは損でも、相手がお返しをしてくれることで双方が得をするような行動です。
ただし、互恵的利他行動が成り立つのは、ある程度持続的な関係のある場合です。行きずりの関係では「旅の恥はかき捨て」のようなことになります(もっとも行きずりの他人でも人間的な親しみを感じると無償の利他行動をすることもあります)。

無人野菜販売所も狭いコミュニティの中で存在しています。多くの人が通るようなところではできないでしょう。
スーパーマーケットではよく万引きが起きます。万引きしても被害者の顔が想像できないので、良心の呵責がほとんどないからです。
個人経営の商店から万引きするのは、被害者の顔がわかっているので、良心の呵責があります。

脱税は立派な犯罪ですが、これも被害者の顔が見えない犯罪なので、良心の呵責はほぼありません。もし税務署に絶対見つからない脱税方法があるとすれば、脱税の誘惑から逃れられる人はほとんどいないでしょう。


狩猟採集生活をしていたころの人類は、多くて150人程度の集団で暮らしていたと思われます。つまりみんな親族か親密な仲間で、完全な共同体です。
そういう社会では性善説が通用していました。
しかし、経済が発達し、扱う富が増え、人との交流も増えると、不正をして利益を得たくなる機会も多くなります。
今でも田舎では昼間家に鍵をかけないことが多いのではないでしょうか。都会では怪しいセールスや宗教の勧誘などが多いのでほとんどの家は鍵をかけています。
つまり親密な人間関係の中では人間は善人として生きていけるので、性善説が通用しますが、文明化と都市化が進むとともに性悪説を採用せざるをえなくなります。


そういうことを考えると、持続化給付金制度は中小企業に200万円、個人事業主には100万円を給付するという制度で、金額が大きく、しかも不正給付を受けたときの被害者は国なので、良心の呵責もないので、不正したくなる条件がそろっています。
ですから、この制度を始めるときに、給付のスピードを重視して審査を甘くしたのはいいとしても、不正が起きやすいことを見越して、「のちほど厳密な審査をして不正は必ず発見して厳罰に処する」という広報もするべきでした。そうすればある程度不正は防げたでしょう。


ここまで「性善説対性悪説」というテーマを論じてきましたが、実は論じてきたのはもっぱら損か得かでした。
善か悪かというのは、どうやっても論理的に論じることはできません。
ですから、善か悪かは、損か得か、利他か利己かに置き換えて論じるのが賢明なやり方です。
損か得かなら、話し合いで解決できますし、第三者の視点を入れるということもできます。
善か悪かとしてしまうと、話し合いで解決することはできないので、最終的に戦争になったり夫婦喧嘩になったりします。


「善と悪」は「損と得」とつながっていて、関係式で結ばれています。
このことは「究極の思想」であるところの「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればわかります。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。

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私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっていて、そちらの内容を大幅にリニューアルしたので、お知らせします。

「道徳観のコペルニクス的転回」というブログでは「究極の思想」について書いています。
「究極の思想」とはなにかというと、すべての思想を科学の次元に解体する思想です。

人文・社会科学の世界では、思想と名のつくものは数えきれないほどありますが、確かなものはひとつもありません。新しい思想はつねに前の思想を批判する形で現れ、やがてまた新しい思想に批判されるか忘れられて消えていきます。まるで賽の河原の石積みです。自然科学の世界で確かな成果が着実に積み上がっているのと対照的です。

近代哲学の基礎を築いたとされるデカルトは、自分の存在を疑い抜いて、疑っている自分の存在は疑いえないという論理でもって自己の存在を証明したとされます。しかし、自分の考えが正しいということは証明していません。
世の思想家や知識人は、自分の考えが正しいという根拠もないのに、あれやこれやの思想を提示し、意見を述べて、世の中を混乱させています。


私は若いころ、自分の考えが正しいということを客観的に証明することはできないだろうかと考えました。
なぜそんなことを考えたかというと、私は性格的に気が弱く、なかなか自己主張できなかったからです。自分の考えが客観的に正しいとわかれば、自信を持って主張できると考えたわけです。
そうしてあれやこれやと考えているうちに、私の頭の中で認識のコペルニクス的転回が起きました。その瞬間のことは今もよく覚えています。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。
私は人類史上画期的な発見をしたと確信しました。

これまでは誰もが自分は世界の中心にいると思って思考していたのです(デカルトも同じです)。私は「自分」を世界の中に正しく位置づけました。これによって自己中心的な考えを脱却することができたのです。

私は自分の発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
コペルニクスの地動説から科学革命が始まったように、「道徳観のコペルニクス的転回」から人文・社会科学における科学革命が始まってもおかしくありません。


そうしたことを「道徳観のコペルニクス的転回」というブログに書いたわけですが、あまり読まれませんでした。
ひじょうにスケールの大きなことを書くので、自分の実力が及ばないということがありました。
それから、私は最初の長編小説を出版するときのトラブルでトラウマを負って(詳しくは「作家デビューのときのトラウマ」参照)、そのために「自分の書きたいものは理解されない」という思い込みがあって、回りくどい書き方をしてしまうということもありました。

それらからくる欠点を修正して、今回、大幅に書き直したものをアップしたわけです。
書き出しは全面的に変更しました。
前は、「人が貧乏になるのは努力しないからだ」という新自由主義的な考えを取り上げて、人間に「自由意志」はあるのかという問題を、「決定論」や「唯物論」とからめて論じました。つまりもっぱら哲学に寄せて書いたわけです。
しかし、哲学上の問題はあまり興味を持たれないでしょう。
そこで今回の書き出しは、「文明に戦争、奴隷制、植民地支配、人種差別がつきものなのはなぜか」という疑問を、ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』と比較しながら論じました。戦争や人種差別は今も誰にとっても重要なテーマです。
前に読んで挫折した人にも今回は読んでもらえるのではないかと思っています。


ここ数年、世界はどんどん戦争へと傾斜していっているようです。
誰もが戦争を望まないのに戦争が起こるという悲劇が繰り返されそうです。
誰もが自己中心的な発想から抜けられないからです(ナショナリズムや愛国心は自己中心的発想の典型です)。
多くの人が「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればこの悲劇は防げます。
また、「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すれば、それだけで夫婦関係や親子関係が改善されるという効用もあります。


最終的には書籍として出版しなければいけませんが、私は長く“書かない作家”であったので、最近は出版社とのつきあいもほとんどありません。
それに、トラウマの影響で「道徳観のコペルニクス的転回」の価値を理解してくれる編集者がいないのではないかという懸念があり、自分からの働きかけをためらってしまいます。
ですから、「道徳観のコペルニクス的転回」がある程度世の中に広まって、理解のある編集者が出てくることを期待しています。

「道徳観のコペルニクス的転回」


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衆議院の東京15区、島根1区、長崎3区の三つの補欠選挙が4月16日に公示されましたが、東京15区には9人が立候補し、自民党が独自候補の擁立を見送ったために、野党同士のにぎやかな戦いになりました。
やはり候補者(政党)が多いという多様性はたいせつです。それだけで盛り上がります。

自民党は裏金問題などで支持率が下がっていますが、かといって野党にも期待できないという声があります。
では、野党はどうすればいいのかということを、この選挙を通して考えました。

東京15区補選の候補者は以下の通りです(届け出順)。
・諸派「NHKから国民を守る党」新人の弁護士福永活也氏(43)
・無所属新人でファーストの会副代表の乙武洋匡氏(48)=国民民主、ファーストの会推薦
・参政党新人の看護師吉川里奈氏(36)
・無所属元職の元環境副大臣秋元司氏(52)
・日本維新の会新人の元江崎グリコ社員金沢結衣氏(33)=教育無償化を実現する会推薦
・諸派「つばさの党」新人でIT会社経営の根本良輔氏(29)
・立憲民主党新人で共産、社民党の支援を受ける元江東区議の酒井菜摘氏(37)
・諸派「日本保守党」新人で麗沢大客員教授の飯山陽氏(48)
・無所属新人の元総合格闘家須藤元気氏(46)

序盤の世論調査では、立憲民主党の酒井菜摘候補がリードしているようです。
立民党は野党第一党のために反自民票の受け皿になりやすく、酒井候補は昨年12月の江東区長選に立候補して惜敗したので、地元有権者への知名度もあります。
しかし、16日に行われた候補者のネット討論会には、酒井候補だけ出席しませんでした。リードしている立場としての選挙戦術なのでしょうが、政策面などで訴えることがあれば出席してもよかったはずです。
野党第一党というポジションにあぐらをかいている感じがします。


都民ファーストの会は乙武洋匡氏を擁立しました。著名人だけに有利ではないかと思われましたが、いろいろと逆風が吹いています。
自民党が推薦するという話がありましたが、結局自民党の推薦はなくなり、都民ファーストの会と国民民主党の推薦となりました。
小池百合子都知事の学歴詐称問題が蒸し返されたのもマイナスです。
そして、なによりも乙武候補の過去の女性問題が蒸し返されています。

2016年、自民党が参院選に乙武氏を擁立しようとしましたが、週刊新潮が乙武氏は過去に5人の女性と不倫していたと報じて、結局選挙出馬はなくなりました。このときは、奥さんに介助してもらいながら不倫するとはけしからんというのが世論の大勢でした。
2022年7月の参院選に乙武氏は無所属で立候補し、落選しましたが、このときは不倫はほとんど問題にされませんでした。
そして今回の立候補では、また昔の不倫が蒸し返されています。2022年には問題にならなかったのに、どうして今回は問題になるのでしょうか。

2022年の参院選は無所属での立候補でしたから、あまり当選の可能性はないと見られていました。しかし、今回は都民ファーストの会の推薦で、ほかに有力候補もいないことから当選の可能性は高そうでした。
多くの人は身体障害者に同情的ですが、それは自分より下の人間と見ているからです。身体障害者が自分と対等の人間として自己主張してくるのは許せません。私はこのことを、車椅子の人が映画館の一般席で鑑賞しようとしたためにトラブルになったことを「車椅子ユーザーはなぜ炎上するのか」という記事に書いたときに感じました。
乙武候補の女性問題が取り上げられる背景には障害者への差別意識があるのではないでしょうか。

日本維新の会は金沢結衣候補を立てました。
維新の馬場伸幸代表は応援演説において「立憲の国会議員を何人増やしても一緒、立憲には投票しないで」と語りました。また、国会での記者会見では「立憲民主党は、叩き潰す必要がやっぱりある」と語りました。
馬場代表は昨年7月のネット番組で、自民党と維新の関係について「第一自民党と第二自民党でいい」
と語っています。
今回の選挙に自民党の候補がいないから立憲民主党を攻撃しているわけではなくて、もともと自民党よりも立憲民主党を主要な敵と見ているわけです。

馬場代表はまた、「共産党はなくなったらいい」とも言っていて、反共主義です。
国民民主党もまた反共主義です。玉木雄一郎代表は「立民が共産と組むなら候補者調整や選挙協力はできない」と言っています。
与野党対決よりも野党同士の対決のほうが優先されています。これでは自民党を追い詰めることはできません。

日本保守党は飯山陽候補を擁立しました。
日本保守党は、自分では第二自民党とは言っていませんが、実態は第二自民党です。安倍首相を支持していた保守層が自民党に愛想を尽かしてつくった政党です。
ですから、野党共闘などは最初から考えていないでしょう。
世論調査によると急速に支持を伸ばしているそうです。
代表の百田尚樹氏は68歳で、つい最近も腎臓ガンの手術をしたばかりです。今のところ個人政党みたいなものですから、全国的な政党に育てていく気力と体力があるかが問題です。
もし飯山候補が当選はむりでも、次点ぐらいになったら、次の総選挙で自民党から立候補しようと考えていた人たちが保守党の看板のもとに集まってきて、自民党票を食って、自民党が大幅に議席をへらすという展開も考えられます。
案外これが政権交代の近道かもしれません。


野党がまったくまとまらないのは、政権を獲ってやろうという気概がないからです。野党の立場に安住しています。55年体制の社会党みたいなものです。
立民の泉健太代表は昨年11月に「5年で政権交代を考えている」と言ったことがあります(批判されて、のちに「次の衆院選で政権交代」と言いましたが)。
野党は野党の立場に安住し、与党は与党の立場に安住する中で、日本は長く停滞し、挙句には裏金問題などが起こってきました。

野党の中ではれいわ新選組だけが、小党ではありますが、政権をねらう迫力を感じさせますが、この補選には関わっていません。


今回の選挙では政策論議も低調です。
各政党の政策を比較する「Japan・choice」というサイトを参考にすると、各政党にそれほどの対立点がありません。
各党が力を入れて主張しているのは、国民への保障や給付を増やし、負担は少なくという当たり前のことです。あえて対立点を探すと、一律給付か所得制限付き給付かということぐらです。
消費税についても、与党は現状維持ですが、野党はすべて引き下げないし廃止です。
改憲問題については各党で意見が違います。しかし、選挙ではほとんど議論になっていません。有権者の関心がないのでしょう。敵基地攻撃能力を保有することになったので、改憲してもしなくてもいっしょということもあります。
外交問題についての議論も低調です。日本の国力が低下して、国民も各政党も外交力に自信を失っているからでしょうか。


与野党対決の選挙においては、野党は与党の政策の間違いを攻撃し、正しい政策を提示することです。それしかありません。
ところが、今はそういう対立点がない状況です。
与党が理想的な政治を行っていれば別ですが、対立点がないはずがありません。
対立点がないのは、野党の腰が引けているからです。

たとえば普天間基地の辺野古移設については、与党は移設続行ですが、野党はすべて再交渉ないし移設中止です。
日米地位協定についても、与党は現状維持ですが、野党はすべて見直しないし改定です。
つまり与野党の対立点が明白です。
ところが、野党はこの対立点をアピールすることはしません。
日米地位協定について与党が現状維持なのは、アメリカが改定に応じないことがわかっているからです。
立民党も鳩山政権のときに経験して、ある程度わかっています。つまり立民党が公約に「日米地位協定の改定」を掲げているのは見せかけで、本気ではないのです。

「ドイツやイタリアはアメリカとの地位協定を改定して不利な点を改善しているのに、日本はなぜできないのか」と言われますが、別に日本政府が怠慢なわけではなくて、それがアメリカ政府の方針なのでしょう。
おそらくアメリカ政府はドイツ人やイタリア人よりも日本人を差別しているのでしょう(リメンバー・パールハーバーという感情もあるでしょう)。
ですから、政権交代しても同じことです。

もっとも、地位協定改定がまったく不可能なわけではありません。
日本政府が日米同盟離脱カードを用意して交渉すればいいのです。
それには中国やロシアとの外交も関係しますし、なによりも日本国民の心理的な対米依存を克服しなければなりません。
野党は国民意識を変えると考えただけで腰が引けるのでしょう。
しかし、それをやらないと日本再生はありません。
日米関係は経済の問題でもあります。これまで日本は日米自動車摩擦や日米半導体戦争などで負け続けて経済大国の地位を失ってきたのです。
国民も日本外交があまりにも対米従属的であることは感じているはずです。
対米依存を続けてもなにもいいことはないと国民を説得することは不可能ではありません。


それから、野党は教育改革を争点にするべきでしょう。
日本の学校教育は悪化の一途をたどっています。
小中高校と特別支援学校における2022年度のいじめの認知件数は、前年度から1割増の68万1948件に上り、過去最多となりました。
小中学校における2022年度の不登校児童生徒数は29万9048人となり、前年度から22.1%増加しました。
文部科学省の調査によると、小中高校における2022年度の自殺者は計411人で、21年度の368人から43人増加しました(過去最多は20年度の415人)。
ほかにブラック校則の問題もあります。ブラック校則はほとんど改善されないか、むしろ悪化している感じすらあります。

誰がどう見ても、日本の学校教育は大失敗です。
野党がここを追及しないのは不思議です。
子どもには選挙権がないですし、おとなには体罰賛成、管理教育賛成という人も多いので、追及しても得はないと思っているのでしょうか。
しかし、「日本をよくする」ということを考えれば、教育をよくすることは欠かせません。


あと、家族の問題もあります。
自民党は夫婦別姓に反対する理由に「家族の絆が壊れる」ということを挙げています。
ですから、家族の問題も政治の争点になりえます。
もっとも、「政治が家庭に介入する」ということを嫌う人もいるので、それなりの理論構築をしなければなりません。
野党はもっと自民党の家族観を追及するべきです。

対米関係、学校教育、家族関係を与野党の争点にすると、政治は盛り上がるはずです。


なお、つばさの党の根本良輔候補は、自分の選挙活動そっちのけでほかの候補の選挙活動を妨害して、数々のトラブルを起こしています。立候補者に警察は手を出しにくいということを利用した悪質な行為です。こうした行為には対策が講じられるべきです。

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川口駅東口駅前

「川口市クルド人問題」というのがあります。
埼玉県川口市という狭いエリアで、少数のクルド人に関する問題ですが、ヘイトスピーチをしたい人たちが騒いでいます。

きっかけは昨年7月、川口市でクルド人同士の喧嘩があり、クルド人約100人が市立医療センター周辺に集まり、機動隊が出動する騒ぎがあったことです。このときにトルコ国籍の男2人が暴行と公務執行妨害の疑いで逮捕されました。
この事件では計7人が殺人未遂の疑いで逮捕されましたが、全員が不起訴処分となりました。

これ以降、とくに産経新聞が熱心に川口市のクルド人問題を取り上げました。
産経新聞のつくった出来事のリストがあります。

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産経新聞としては、こんなにいろいろなことが起こっているのに、ほかのメディアがほとんど取り上げないのはけしからんと言いたいのでしょう。
しかし、よく見ると、事件らしい事件といえるのは次のことぐらいです。

・大型商業施設で煙幕を出す花火を投げつけた中学生を逮捕。
・ジャーナリストを「殺す」などと脅したクルド人を逮捕(のち不起訴処分)。
・デモの際、日本クルド文化協会関係者が「日本人死ね」とも聞こえかねない発言をしたと指摘され、同協会が釈明、謝罪。
・コンビニ駐車場で女子中学生に性的暴行をしたとしてクルド人を逮捕。

病院周辺で100人が集まって騒いだというのは大きな事件ですが、川口市のクルド人はグループに分かれて対立しているということが背景にあったようです。

「殺す」などと脅されたのはフリージャーナリストの石井孝明氏です。石井氏は川口市クルド問題に取り組んでいたようですが、差別的な投稿で名誉を傷つけられたとしてクルド人などから慰謝料500万円を求めて訴えられています。


もともと川口市は外国人居住者の多い街で、外国人の多さでは東京都新宿区と1位、2位を争ってきました。
川口市のホームページによると、川口市の外国人住民は約4万人で、市人口の約6.7%だということです。
中でも芝園団地という巨大団地は、住民約4500人のうち半分以上が外国人で、その大半が中国人です。
外国人とのトラブルが起こっているのではないかという懸念からか、テレビのニュース番組が何度か取材していましたが、たいしたトラブルはなかったので、そのうちマスコミから無視されるようになりました。
西川口駅周辺は中国人経営の中華料理店が多く、チャイナタウンと呼ばれているというのが少し話題になったぐらいです。

川口市の隣の蕨市にも外国人が多く、市の人口の約10%が外国人です。
川口市と蕨市にクルド人が約3000人住んでいるとされますが、数としては少ないので、メディアが注目しないのは当然です。

クルド人といっても、ほとんどはトルコ国籍で、トルコのパスポートを持っていますから、「トルコ人」と見なすのが普通です。わざわざ「クルド人」とするところになにかの意図があります。


クルド人というのはトルコ、イラク北部、イラン北西部、シリア北東部などに住む民族で、国を持たない最大の民族といわれます。
トルコにおいては、差別されたクルド人が独立運動を起こし、クルド労働者党はトルコ政府からテロ組織認定をされています。
そのため、トルコから日本にきたクルド人の多くは難民申請をしていますが、認められたのは一人だけです。

したがって、クルド人についてはふたつの見方があると思われます。
テロリストのように危険な人間という見方と、中国でいえばウイグル族のように政府から人権侵害されている気の毒な人たちという見方です。
クルド人にヘイトスピーチをしている人間は、クルド人はテロリストかテロリストに準じる人間と見ているのかもしれません。

クルド人は国を持たない民族なので、どうしても差別されがちです。
しかし、日本人はそもそもクルド人とほとんど縁がなく、クルド人に対する差別意識もありませんでした。
なぜ急にクルド人に対するヘイトスピーチが行われるようになったのでしょうか。


今、ヨーロッパでは極右政党が勢力を伸ばしています。6月初めに行われる欧州議会では、現在127議席の極右勢力が184議席になるという予測があります。
極右が支持される主な理由は、移民排斥の主張が共感を呼んでいるからです。
アメリカでも、トランプ氏の移民排斥の主張にバイデン大統領も引きずられています。

日本の右翼保守勢力も、欧米にならって移民排斥を訴えて支持を伸ばしたいところです。
ところが、なかなかうまくいきません。
国民の反移民感情が高まるのは移民による犯罪が目立つからです。
ところが、日本では外国人の数は増えているのに、外国人の犯罪は減少しています。

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つまり日本では外国人との共生がうまくいっているのです。

問題は欧米のほうにありそうです。
欧米で移民との共生がうまくいかないのは、白人至上主義者が移民を差別してるからです。外国人を労働力として入れるものの、仕事は低賃金の汚れ仕事で、住む場所も劣悪な環境に固まって住むことを余儀なくされます。差別されているので犯罪も起きます。

日本人は白人みたいな人種差別意識がないので、うまくいっているのです。

ちなみに欧米の経済の専門家に日本経済復活の処方箋を求めると、ほぼ例外なく日本は移民を入れるべきだとアドバイスします。彼らはローマ帝国が奴隷労働で発展したことが頭にしみついているのです。


移民(外国人)との共生がうまくいっている日本で、移民排斥の主張は共感を呼びません。
ただ、あえて主張するならベトナム人を対象にすればいいかもしれません。
「外国人摘発、ベトナムが最多3400人…9年前の3倍・来日後の生活苦要因」という記事から一部を引用します。
 警察庁によると、昨年の来日外国人の摘発は1万4662件で、前年比1231件減少。摘発人数も同1129人減だった。国籍別ではベトナムが最多の3432人で、次いで中国が2006人だった。
 9年前の2013年は、来日外国人全体の摘発人数が9884人で、うちベトナム人は1118人だった。全体の摘発人数が減る中、ベトナム人の摘発は約3倍に増えていた。

外国人犯罪がへる中で、ベトナム人の犯罪だけが増えているのですから、ヘイトスピーチの対象としてはこれしかありません。
しかし、たとえば産経新聞がベトナム人排斥のキャンペーンをすれば、ベトナム人労働者に頼っている日本企業から反発が起きますし、なによりもベトナム政府やベトナム国民からも反発が起きます。

その点、クルド人を排斥の対象にすれば、トルコ政府は文句を言わないでしょう。
それに、せいぜい3000人と数が少ないので、あまり影響もありません。
そこで産経新聞や保守派は「クルド人差別」をあおるキャンペーンを展開しているというわけです。

ともかく、日本人は意外と外国人との共生をうまくやっているということは認識しておく必要があります。

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