村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』やユヴァル・ノア・ハラリ 著『サピエンス全史』など、新しい視点で書かれた人類史の本が評価されていますが、そこに新たな一冊が加わりました。ルトガー・ブレグマン著『Humankind 希望の歴史』(上下巻)です。

著者のブレグマンはオランダ出身、歴史家であると同時にジャーナリストでもあるという強みがあって、本書でもどんどん現場に取材に行って、具体的に記述しているので、ノンフィクションを読んでいるようなおもしろさがあります。

ブレグマンは西洋思想には根深い性悪説があるといいます。人間の道徳性は薄いベニヤ板みたいなもので、なにか非常事態が起こると人間はパニックになり、攻撃的で利己的な本性をむき出しにするという思想です。そして、こうした偏見に合わない情報は排除され、偏見に合わせてゆがめられた情報で歴史的“事実”が構成されてきたというのです。
ブレグマンは有名な歴史的“事実”とされていることを次々とくつがえしていきます。すべて具体的な話なので読みやすく、目からうろこのことがいっぱいあります。
その具体的な話の中からいくつかを紹介します。


ノーベル文学賞作家のウイリアム・ゴールディングの代表作である『蠅の王』は、二度も映画化された有名な小説です。飛行機事故により少年たちだけが生き残り、漂着した無人島で生活することになります。最初はルールをつくって仲良く暮らしていた少年たちですが、次第に争うようになり、まるで野蛮人のようなふるまいをし、最後は殺し合いまでするという物語です。人間、とくに子どもには“悪”があるということを描いています。
これは無人島で少年たちが助け合って生き抜くジュール・ヴェルヌ著『十五少年漂流記』のアンチとして書かれたものではないかと思います。『十五少年漂流記』は完全に子ども向きの物語となって、まったく顧みられませんが、対照的に『蠅の王』は文学作品として高く評価されています。これも西洋の性悪説思想の表れでしょう。

ブレグマンは『蠅の王』について、最近の科学的研究からこういうことはありえないだろうという記事を書きました。しかし、その科学的研究というのは、家にいる子ども、学校にいる子ども、サマーキャンプに参加している子どもに関するものでした。子どもたちだけが無人島に取り残された場合は違うのではないかと、その記事は批判されました。
そこでブレグマンは、実際に『蠅の王』のようなことがあったのではないかと探し始めました。すると、ある無名の人のブログに「1977年のある日、6人の少年がトンガから釣り旅行に出かけたが、大きな嵐にあい、船が難破して、少年たちは無人島にたどりついた」と書かれていたのを見つけます。調べると、あるイタリアの政治家が国際的な委員会かなにかに提出する報告書に書かれていた話だということがわかります。しかし、その話が事実かどうかはわかりません。その政治家はすでに亡くなっていました。
もしこれが事実なら、1977年の新聞記事に載っているだろうと探してみましたが、なにも見つかりません。ある日、新聞のアーカイブを調べていて年代の数字を間違えて打ち込み、1960年代に迷い込みました。そうすると、そこに探していたものがあったのです。1977年というのはタイプミスだったのです。
1966年10月6日付のオーストラリアの新聞に「トンガの漂流者に関する日曜番組」という見出しの記事がありました。無人島で1年以上孤立していた6人の少年がオーストラリア人のピーター・ワーナー船長に助けられたということの再現番組がつくられたという記事です。
ブレグマンは船長の名前を頼りにオーストラリアまで会いに行き、元少年の1人にも会います。さらに、ある映画製作者が少年たちの物語はもっと注目されるべきだと考えてドキュメンタリーを制作していました。それは放送されなかったのですが、映画製作者は未編集のインタビューフィルムを見せてくれ、さらに彼はオーストラリアのテレビ局が制作した番組のコピーも持っていたので、それも見せてくれました。
ブレグマンの執念の取材でリアル『蠅の王』の実際が明らかになりました。

少年たちは16歳から13歳までの、厳格なカトリックの寄宿学校の生徒でした。
少年たちが発見されたのは船が難破してから1年3か月後でした。
ワーナー船長は回顧録にこう書いています。
「わたしたちが上陸した時、少年たちは小さなコミュニティを作っていた。そこには菜園と、雨水をためるための、くりぬいた木の幹と、変わったダンベルのあるジムと、バドミントンのコートと、鶏舎があり、いつも火がたかれていた。すべて古いナイフを使って手作業で作ったもので、強い決意の賜物だった」
少年たちは2チームに分かれて働くことにし、庭仕事、食事のしたく、見張りのための当番表をつくっていました。ときには喧嘩も起きましたが、時間を置くことで解決しました。
彼らの1日は歌と祈りで始まり、歌と祈りで終わりました。一人の少年が流木と半分に割ったココナッツの殻と、壊れた自分たちの船から取ってきた6本の鋼線を使ってギターをつくり、それを弾いて仲間を励ましました。
救出後、医師が彼らを診察すると、健康状態はこれ以上ないほどよいものでした。

ワーナー船長は、少年たちの物語はハリウッド的な映画に最適だと思い、手始めに地元のテレビ局に売り込みました。しかし、30分のテレビ番組はつくられましたが、それ以上には進みませんでした。
結果、少年たちが無人島で助け合って生き延びた物語は忘れられ、少年たちが互いに争って野蛮人のようになってしまうという物語(フィクションですが)は広く知られるようになったのです。


1971年、アメリカのスタンフォード大学において、監獄に見立てた地下室で普通の学生が囚人役と看守役を演じる心理学実験が行われました。「スタンフォード監獄実験」と呼ばれるものです。
実験開始から2日目、囚人たちは反乱を企て、看守たちは鎮圧しました。それから数日間、看守たちは囚人を服従させるためのあらゆる戦術を考案しました。夜中に2回点呼を行って囚人たちを睡眠不足にさせ、裸で立たせたり、腕立て伏せをさせたり、懲罰房に入れたりしました。囚人たちから離脱者が相次ぎ、残った者も異常な心理状態にあったので、2週間予定されていた実験期間は6日で打ち切りとなりました。

実験の主宰者であるフィリップ・ジンバルド教授は、看守役になにも指示していない、彼らは自発的にサディストになったのだと繰り返し主張しました。「『看守』の制服を着たことの『当然の』結果」とも書いてます。
つまり看守役の学生がサディストになったのは、彼らの性質が悪かったからではなく、悪い状況に置かれたからだというのです。

この実験は評判になり、マスコミに繰り返し取り上げられ、心理学の教科書にも載り、ジンバルドはアメリカ心理学会の会長にもなりました。

しかし、実験の実際は違っていました。
ジンバルドは看守役にさまざまな指示を与えていました。というのは、実験の本来の目的は、囚人役にストレスを与えたときどういう反応をするかを明らかにすることだったからです。
ジンバルドは実験が始まる前から、自分と看守がひとつのチームであるかのように「われわれ」と呼び、囚人を「彼ら」と呼んでいました。そして、自分は看守長の役割を演じ、囚人をもっときびしく扱うように看守に圧力をかけ、きびしさの足りない看守を叱責していたのです。

2001年、BBC(英国放送協会)は2人の心理学者の協力を得て、同じような実験を行いました。ただし、看守と囚人にとくに指示は与えませんでした。
これは4時間の番組として放送され、多くの人がテレビの前に釘付けになりましたが、そこではほとんどなにも起こりませんでした。ブレグマンは「最後まで見るのはたいへんだった。なぜなら、見たこともないほど退屈でつまらなかったからだ」と書いています。
囚人と看守が食堂でタバコを吸ってくつろいでいる場面が多くなりました。数人の看守がもとの体制に戻るように説得しましたが、説得は功を奏しませんでした。

しかし、このBBCの監獄実験は忘れられ、スタンフォード監獄実験は今でもあちこちで引用されています。


「ミルグラムの電気ショック実験」も有名です。これは「アイヒマン実験」ともいわれます。
1961年、イエール大学の助教だったスタンレー・ミルグラムは、さまざまな職業の一般人を集めて心理学実験を行いました。被験者は2人1組となり、1人は先生役、1人は生徒役になります。先生は電気ショック発生装置の前に座らされ、生徒は隣の部屋で椅子に縛られており、声だけが先生に聞こえるようになっています。記憶テストが始まり、生徒が間違えると、スタッフが先生に電気ショックを与えるように命じます。電気ショックは15ボルトという弱い電圧から始まりますが、生徒が間違えるたびにスタッフは電圧を上げるように命じます。
実は電気ショック発生装置は少しもショックを与えないもので、生徒役は研究チームのメンバーで、演技をしているのでした。
隣室の生徒が金切り声の悲鳴を上げても、スタッフは電圧を上げるように命令し、先生はスイッチの表示が「危険――苛烈な衝撃」と書かれた域に達しても電圧を上げ続け、最高の450ボルトまで上げる者もいました。
結果、被験者の65%が最高の 450ボルトまで上げました。感電死させてもかまわないと思ったのです。

この実験結果は衝撃的でした。ブレグマンは「若き心理学者ミルグラムは、たちまち有名人になった。新聞とラジオとテレビのほぼすべてが、彼の実験を取り上げた」と書いています。
ニューヨーク・タイムズ紙は「何百万という人々をガス室に送ることができるのは、いったいどんな人間だろう。ミルグラムの実験結果から判断すると答えは明らかだ。わたしたち全員である」と書きました。

ブレグマンはこの実験結果を疑い、調べました。
そうすると、被験者全員へのアンケートで「この状況をどれだけ信じられると思いましたか?」という質問があって、生徒がほんとうに苦しんでいると思っていたのは被験者の56%にすぎないことがわかりました。さらに、あるスタッフの分析によると、電気ショックを本物と思った人の大半はスイッチを押すのをやめていたのです。
つまり実験結果はかなり誇張されたものでした。
もっとも、それでも最後までスイッチを押し続けた人も少なからずいました。
ブレグマンはそれについても権威にしたがったのか、命令に従ったのかなど考察しています。

ともかく、「科学的」とされることでも性悪説方向にバイアスがかかっているのです。


本書は歴史書でもあるので、歴史のこともいろいろ書かれています。
戦争の歴史などは今の時代とくに興味深く読めるでしょう。
また、イースタ島についても書かれています。イースタ島の今の住民は、モアイ像にまったく興味を持っていません。つまりモアイ像をつくった文明はほろびてしまったようなのです。
これについてはいろいろな説がありますが、有力なのは、モアイ像を運ぶには木の幹が必要で、そのため島の木を切りすぎて土壌が荒れ、農業生産が減少し、飢えた人々は互いに殺し合って、文明から野蛮に後退してしまったという説です。つまりここでも『蠅の王』みたいなことが起こったというわけです。
ブレグマンはこれにも疑問を持ち、徹底的に調べて、別の結論を導きます。


ノルウェーの、鉄格子も監房もない、看守の姿も見えないリゾートホテルのような刑務所が紹介されます。
オランダの、教室もクラス分けもない、宿題も成績もない学校が紹介されます(生徒は自分で学習計画を立てます)。
この学校にはいじめがないそうです。

子どもにいじめはつきものと考えられていますが、そうではないとブレグマンはいいます。
社会学ではいじめの蔓延する場所を「トータル・インスティテューション(全制的施設)」といい、その特徴は次のようなものです。

・全員が同じ場所に住み、ただ一つの権威の支配下にある。
・すべての活動が共同で行われ、全員が同じタスクに取り組む。
・活動のスケジュールは、多くの場合、一時間ごとに厳格に決められている。
・権威者に課される、明確で形式張ったルールのシステムがある。

この典型は刑務所です。そこではいじめがはびこっています。
学校も全制的施設です。
日本でのいじめ防止の議論は、まったく的外れといわねばなりません。

ブレグマンは徹底的に性悪説を否定し、性善説を肯定します。ここまで振り切っているのはみごとです。




私はブレグマンの考え方に8割方賛成です。
全面的に賛成するわけにはいきません。性善説だけでは社会は維持できないと思うからです。

性善説か性悪説かという問題のとらえ方が間違っているのです。
人間には利己心と利他心があります。これは動物にも共通するものです。
利他心が前面に出れば人はよいことをし、利己心が前面に出れば人は悪いことをします。
つまり善と悪ではなく、利他と利己としてとらえるとうまくいきます。
このことは近く書きたいと思います。

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教育の世界では、子どもの主体性が無視されています。
たとえば、子どもが強制されていやいや勉強しているのと、自分から積極的に勉強しているのとではまったく違いますが、それが区別されていません。
親や教師はつねに子どもに勉強を強制しているので、子どもが勉強しているか否かという表面しか見ていないからです。

「子どもにがまんさせることがたいせつ」ということもよく言われます。
しかし、がまんばかりさせられていると、元気も意欲もない子どもになってしまいます。

人生でがまんすることはたいせつですが、それはみずからするがまんです。人にさせられるがまんではありません。
ここでも子どもが「する」と「されられる」の区別がありません。

では、人はどんな場合にがまんするかというと、大きな欲望がある場合に小さな欲望を抑えるというときです。
たとえば若い女性がやせて男にもてたいという欲望を達成するために、ケーキを食べたいという欲望をがまんするというとき、それから、子どもがいい学校に入りたいためにゲームをしたいという欲望をがまんして勉強するというときなどです。
欲望のない人間はいませんから、人は欲望を達成するために自然とがまんすることを覚えます(もっとも、目先の欲望に負けて後悔するということを繰り返しながらですが)。
「子どもにがまんさせることがたいせつ」と言う人は、子どもに目的のないがまんをさせるのでしょう。


子どもの「する」と「させられる」の区別がないのは、「青少年健全育成」を名目にして、性的表現や暴力的表現の図書や映像を子どもに見せるのはよくないという議論のときも同じです。
この場合、「子どもに見せる」という表現ばかりです。
「子どもが見る」という表現を見たことがありません。
もちろんこの両者はまったく違います。

たとえば残酷シーンのあるホラー映画を、親が子どもに「さあ、見なさい」と言って見せるのはよくありません。子どもがその残酷シーンにショックを受けた場合、親が「見なさい」と言っているのですから、すぐ見るのをやめるわけにいかないでしょう。子どもはそのシーンにショックを受け、親からそれを見させられたということにも傷つきます。

子どもがいくつもある映画の中から自分でそのホラー映画を選んで見た場合はどうでしょうか。残酷シーンにショックを受けてもすぐに見るのをやめるので、たいして傷つきません。映画の選択を間違ったなと思うだけです。
もし残酷シーンがあっても最後まで見続けたとしたらどうでしょうか。この場合、本人の意志でそうしているのですから、傷つくことはないでしょう。もしどんどんホラー映画にはまっていったとしたら、それがその子どもの個性なのです。将来はホラー作家になるかもしれません。

残酷シーンにせよ暴力シーンにせよ、「子どもに見せる」という表現をすると、むりやり見せているイメージになるので、害があるかもしれないと思えます。
しかし、「子どもが見る」という表現にすれば、「本人が好きで見ているならいいじゃないか」ということになるでしょう。

今の不健全図書などの規制の議論は、すべて「子どもに見せる・見せない」という表現で行われています。
これを「子どもが見る・見ない」という表現にすれば、つまり子どもの主体性を認めれば、議論のあり方も変わってくるはずです。


なお、性的表現については問題が別です。

子どもが正常な性的発達を遂げると、12,3歳で身体的に性交可能となり、15,6歳でカップルとなり、子どもをつくる可能性が高くなります。子どもをつくったカップルは学校に行くのが困難となり、そういうカップルが増えると教育水準が下がってしまいます。それに、親はできるだけ長く子どもに親もとにいてほしいと思うものです。
そのため文明社会は子どもの性的発達を遅らせようとしてきました。性的表現を子どもに見せず、性欲はスポーツや芸術で“昇華”させることが奨励され、簡単に性交をする人間は見下されました。

今は性的表現を子どもに見せると有害だとされていますが、有害であるという根拠はまったくありません。
あくまで子どもの性的発達を遅らせるためにやっていることです。
子どもの性的発達を遅らせるというのは、文明社会では広く行われていることなので、不自然ではありますが、必然性があるのでしょう。
なお、性的表現の規制は「子どもの性的発達を遅らせる」ということが目的なのですから、その表現が健全が不健全かということは関係ありません。


「する」と「されられる」の区別がつかないというのは、子どもの主体性や意志というものを無視しているということです。
これは日本全体に蔓延していると思われます。

東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、批判されたために謝罪しましたが、発言の撤回はしませんでした。
謝罪したといっても、「フリースクールの関係者、保護者の皆さま」に謝罪しただけです。
不登校の子どもに対しては謝罪していません。
そして、そのことはまったく問題にされません。「子どもに対して謝罪しろ」という声は聞こえてきませんでした。


ともかく、子どもの行為については「する」と「されられる」、「している」と「させられている」の区別をすることがたいせつです。
子どもが社会奉仕活動のような立派なことをしていても、「されられている」のであれば、少なくとも子どもにとってはほとんど意味がありません。
たとえつまらないことでも、子どもがみずから「している」のであれば、それは子どもにとっては意味があります。
水泳やらピアノやらの習い事でも、子どもが「している」のと「させられている」のとでは大違いです。

親や教育者は「する」と「させられる」の区別をつけることが先決です。

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東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、波紋を広げています。

子どもが不登校になるのは、いじめが原因の場合もあるでしょうし、教師の態度が原因の場合もあるでしょう。そもそも学校がその子どもに合わないということもあります。
それなのに親にばかり責任を負わせる発言が反発を招くのは当然です。

では、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」という発言はどうでしょうか。
これについては、本人がMBSNEWSのインタビューでこう説明しています。
(小椋市長)「大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさそうとしているんです。」

「無理して無理して学校に行っている子に対してですね、『じゃあフリースクールがあるならそっちの方に僕も行きたい』という雪崩現象が起こるんじゃないか。」

「フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っているんです。」

小椋市長は、学校とは無理して行くところだと思っているのです。ですから、学校以外の道ができれば、みんなそっちに行ってしまって、学校制度が崩壊し、ひいては国家の根幹が崩壊するというわけです。

極端な考え方です。
ひとついえるのは、フリースクールは有料なので(文科省の調査によると平均月3万3000円)、みんながそっちに行くということにはなりません。

「子どもは無理して学校に行っている」「大半の親は嫌がる子どもを無理して学校に行かせている」という認識はどうでしょうか。
嫌がらずに学校に行っている子どももいますから、正しい認識とはいえませんが、ある程度こういう現実があるということはいえるでしょう。

昔は子どもが不登校になったり登校をしぶったりすると、親はむりやりでも学校に行かせようとしました。
不登校は子どもの「わがまま」や「甘え」と見なされて、親は子どもを殴ってでも、引きずってでも学校に行かせるべきだと考えられていたのです。
小椋市長はその時代の考えのままです。不登校の子どもは親が甘やかしているからだと思っているので、「不登校になる責任の大半は親にある」という言葉が出てきます。

しかし、実際のところは、むりやり登校させようとしてもうまくいきません。泣き叫ぶ子どもをむりやり学校に連れていくことになり、次の日も同じことが繰り返されるので、実質的に不可能です。それに、これをやると親子の信頼関係が壊れて、自殺、家庭内暴力、引きこもりにつながるとされます。
ですから、子どもを強制的に登校させるのはよくないという認識が関係者の間で広まりました。

文科省はこの認識を受けて、それまでの「学校に戻す」という原則を捨てて、1992年からフリースクールですごした日数を小中学校の出席日数として算入可能とし、卒業要件にすることも可能としました(2009年からは高校も可能に)。
さらに文科省は、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでも起こりうる」ことだとしました。

どうやら文科省は不登校を容認する方向に転じたようです。
なにしろ不登校は増え続けているので、そうせざるをえなかったのでしょう。

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2022年度の不登校は29万9048人と過去最多を更新し、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅増となりました。


不登校の子どもを放っておくわけにはいきません。
フリースクールといってもいろいろありますが、不登校の子どももフリースクールなら通える場合が多いのです。
あるいは、普通の学校は通えなくても通信制の学校なら通えるという場合もあって、そのために通信制高校が増えてきました(私立通信制高校は2000年度は44校でしたが2022年度は195校)。

つまり文科省は「学校がいやな子どもはフリースクールか通信制に行ってくれ」という方針のようなのです。


小椋市長はここにかみついたわけです。「僕は文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに、がく然としているんですよ」と語っています。
小椋市長は、学校とフリースクールは根本的に違うものだと見ていて、みんなが学校でなくフリースクールに行くようになると「国家の根幹を崩す」ことになると考えているわけです。

学校とフリースクールの違いとはなんでしょうか。そこに「国家の根幹を崩す」ようなものがあるのでしょうか。


フリースクールに通う子は学力が低いという根拠はありません。小椋市長も学力のことを言っているのではないと思われます。

むしろ逆のことも起こっています。
『「学校の授業は退屈…塾だけ行きたい」中学受験で“変わってしまった”息子 不登校は許していい?【お笑い芸人→教師経験者がアドバイス】』という記事にこんなことが書かれていました。

小学校3年生の息子が塾に通い始めたところ、担任の先生から「最近、息子さんは授業中ぼーっと外を見ていたり、集中力の低下が見られます」という指摘を受けます。息子に聞いてみると、「塾の先生の話はおもしろくて、わかりやすい。学校の授業はつまらない」と言います。ついには「学校に行かずに塾だけ行きたい」と言い出したので、親としてどうすればいいだろうという問題です。

塾の先生が優秀で、学校の先生が優秀でないなら、こういうこともありえます。学校で退屈な授業を受けるのは、時間のむだです。
最近は教育系のYouTubeで勉強したほうがいいということもあるようです。
学力に関しては学校の優位はほとんどありません。

学校に行くべきという人は、「集団生活に慣れることができる」とか「友だちができる」ということを学校の利点に挙げますが、そういうことはフリースクールや塾でもできます。
学校でしかできないとされることは、「規律を身につける」ということです。

「規律」は厄介な言葉です。たいていは「規則を守る・守らせられる」という意味で使われますが、「規範に従って自分を律する」という意味もあります。
つまり「他律」と「自律」のふたつの意味があるのです。
しかし、学校における「規律」はつねに「他律」の意味です。子どもは学校の規則を守らされるだけです。

戦前の学校では規律が重視されました。軍隊に入れば規則・命令は絶対だからで、学校からその準備をしていたわけです。
戦後の学校は当然変わらねばなりませんでしたが、実際はほとんど変わりませんでした。軍隊式の整列や行進が今も行われ、子どもは無意味な校則でがんじがらめになっています。
しかし、今の時代は規則や命令に従うだけの人間には価値がありません。ロボットやAIに置き換えられるだけです。
小椋市長が「国家の根幹」と言ったのは、戦前の価値観のままなのでしょう。


フリースクールは、一人一人に合わせた教育をするので、規律はありません。
ここが学校とフリースクールの決定的な違いです。

ということは、不登校の原因も見えてきます。
子どもたちは規律のある学校が嫌いなので、不登校になるのです。
他律はいくらやっても自律に転化することはありません。自律は自由の中からしか芽生えません。
他律ばかりの学校を子どもが本能的に拒否するのは当然です。
不登校が増えるのは、規律のある学校が時代に合わなくなっているからです。

学校はタダで幅広いことを教えてくれる便利な施設です。しかし、子どもが学校へ行くと、独禁法で禁じられている抱き合わせ販売のようにして、学校は「学習」といっしょに「規律」も押しつけてくるのです。
そのため子どもは自律心も自発性も創造性も失ってしまいます。

文科省はフリースクールを容認したのですから、フリースクールのよさを学校に取り入れる方向で教育改革をしなければなりません。

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ハマスが10月7日にイスラエルを攻撃したことについて、松野官房長官は12日、「残虐な無差別攻撃である点を踏まえ、本事案を『テロ攻撃』と呼称することとした」と語りました。
ということは、これまで日本政府は「テロ」という言葉を使っていなかったのです。

岸田首相は8日にXに次の文章を投稿しました。
岸田文雄 @kishida230 10月8日
多くの方々が誘拐されたと報じられており、これを強く非難するとともに、早期解放を強く求めます。
また、ガザ地区においても多数の死傷者が出ていることを深刻に憂慮しており、全ての当事者に最大限の自制を求めます。
ハマスの行動を非難する一方で、イスラエルによるガザ空爆を憂慮して、バランスをとっています。

ところが、バイデン大統領は違います。
東京新聞の記事はこう伝えています。
【ワシントン=吉田通夫】バイデン米大統領は10日に演説し、イスラム組織ハマスの攻撃を「悪の所業」と断じ、イスラエルは「悪質な攻撃に対応する権利と責務がある」と一定の報復措置を容認した。
 また中東情勢のさらなる混乱を防ぐため、最新鋭の原子力空母ジェラルド・フォードを配置して抑止力を強化したと説明し「テロの憎悪と暴力に反対する」と強調した。空母打撃群は10日、東地中海に到着した。
(後略)

バイデン大統領はイスラエルの報復を支持し、空母打撃群を派遣することでイスラエルに加勢しようとしています。
つまり多数のパレスチナ人を殺すことを容認ないし奨励しているのです。

もちろんパレスチナ人を一方的に殺すことはできず、イスラエル軍にも損害は出ますし、長期的には報復が報復を呼び、パレスチナ問題はさらに泥沼化します。
いや、他国を巻き込んで戦火が拡大する恐れもあります。

世界には心情的にイスラエルを支持する人とパレスチナを支持する人がいて、国家指導者も同じですが、こういうときはその心情を抑えて、戦いをやめるように呼びかけるべきです。
岸田首相が「全ての当事者に最大限の自制を求めます」と呼びかけたのは適切な対応でした。
ところが、バイデン大統領は戦争をけしかけるようなことをしているのです。

岸田首相はバイデン大統領をいさめるべきです。
それが平和日本の外交です。

ところが、岸田首相はバイデン大統領を説得する気持ちがないばかりか、逆に迎合しようとしています。
ハマスの行為を「テロ攻撃」と呼称変更したのは、バイデン大統領がハマスの行為を「悪の所業」「テロ」と呼んだのに合わせたからに違いありません。
イスラエルの軍事行動を容認する準備です。
いつものこととはいえ対米追従外交は情けない限りです。


トランプ前大統領は今回の出来事についてどういう認識なのでしょうか。
「トランプ氏、ネタニヤフ氏を痛烈批判 ハマスによる攻撃巡る諜報の落ち度で」という記事にはこう書かれています。

ワシントン(CNN) 米国のトランプ前大統領は13日までに、イスラエルのネタニヤフ首相を厳しく批判した。パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスの攻撃に対し、同首相が不意を突かれたとの見解を示した。一方でレバノンの武装組織ヒズボラを「非常に賢い」と称賛した。
(中略)
自身が大統領ならハマスによる攻撃は起きていなかったとも示唆。支持者らに対し、「大統領選で不正がなければ、誰だろうとイスラエルに侵入するなど考えもしなかっただろう」と語った。

ヒズボラを「非常に賢い」と称賛したのは、プーチン大統領や金正恩委員長と友だちになるトランプ氏らしいところです。
ネタニヤフ首相を批判したのは、ネタニヤフ首相はトランプ氏と親しくしていたのに、大統領選でバイデン氏の勝利を認めたので、それからトランプ氏は敵意を抱くようになったからだと解説されています。
要するにトランプ氏はすべてを自己中心に考えているということです。
それでも「平和志向」というものが感じられなくはありません。

バイデン大統領に「平和志向」は感じられません。
ウクライナに対しても、まったく戦争を止めようとせず、軍事援助ばかりしています。戦争をけしかけているも同然です。


従来、イスラエル対アラブの戦争について国際世論はイスラエル寄りでした。西欧が世界の支配勢力だったからです。
しかし、最近は世界の勢力図が変化しています。
昔はアラブ世界の情報を伝えるメディアはアルジャジーラぐらいしかありませんでしたが、今ではガザ地区からの情報発信はイスラエルからの情報発信と同じくらいあります。

それに加えてウクライナ戦争の影響もあります。
ロシアがウクライナに攻め込んだのは「侵略」であり「力による現状変更」であるとして批判されているときに、イスラエル軍がパレスチナ自治政府の支配地域に攻め込めば、まったく同じ批判が起こるに違いありません。
日本政府がイスラエルの軍事行動を容認するような態度を示せば、日本も批判されることになります。

日本は対米追従外交を脱却するチャンスです。

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ジャニーズ事務所は10月2日、性加害問題への対応について2回目の記者会見を行いましたが、NG記者リストの存在が明らかとなって、事態は反転しました。

記者会見直後は、指名されないことに不満を言う記者や、指名されないのに発言する記者がいるなど記者のマナーの悪さが指摘され、井ノ原快彦副社長が「落ち着きましょうよ。子どもたちも見ています」などと言って記者たちをいさめたときには会場から拍手が起きるなど、「一部の記者が悪、ジャニーズ事務所が正義」みたいな図式でした。
ところが、NG記者リストがあるとなると、指名されなくて不満を言った記者のほうが正義ということになり、オセロゲームのようにすべてがひっくり返りました。
さらに、ジャニーズ事務所は指名OKの記者リストをつくっていたことも判明しました。
つまりジャニーズ事務所に批判的な記者は指名しない一方、ジャニーズ事務所に都合のいいことを言いそうな記者を指名して、記者会見をしゃんしゃん大会ならぬ“しゃんしゃん記者会見”にするつもりだったようなのです。

おそらく官房長官や首相の記者会見で指名される記者も質問内容も最初から決まっているのを見て、真似したのでしょう。


私は念のためにYouTubeで約2時間の記者会見をすべて見てみました。

司会者は記者を指名するとき、決まって20秒から30秒ぐらい時間をかけます。勢いよく手を挙げた、いちばん目立つ記者を指名すれば時間はかからないはずです。NGリストとOKリストの顔写真と、手を挙げている記者の顔を脳内で照合しているから、指名するのに時間がかかるのでしょう。

それから、井ノ原副社長が「落ち着きましょうよ。子どもも見ています」と言った場面をニュース番組で見て、会場が騒然としたから、それを収めるために井ノ原副社長がそう言ったのかと思っていましたが、実際は多少騒然としたときがあって、それが収まったタイミングで言っていました。
つまり必ずしも言う必要はない場面でした。
実は井ノ原副社長は質疑応答が始まって25分ほどしたところでも、「落ち着きましょう。落ち着きましょう」と言っていました。
どうやら井ノ原副社長はそういう役回りをすると最初から決まっていたようです。

最初はNG記者を指名しないことでしゃんしゃん会見にするつもりだったかもしれませんが、指名されない記者が騒ぐに違いないと思い直して、「騒ぐ記者対冷静なジャニーズ経営陣」という図式を描く作戦にしたのでしょう。

NG記者リストに入っていた鈴木エイト氏がX(旧ツイッター)に次のような投稿をして、その手口の一端をあばいています。

鈴木エイト ジャーナリスト/作家
ジャニーズ事務所会見当日、私が抱いた最も大きな違和感は”客席”上手側の後ろの方に座っていた男性の存在とその言動だ。大柄なこの男性は質疑応答の際も手を挙げることなく、NGリストの記者が質問者指名選別に異論を唱えていた時、被せるように「捌けよ、司会がぁ!」「司会がちゃんと回せよ!」などと罵声を浴びせていた。私の直感だが、この男性はメディア関係者ではない。各報道において「指名されない記者からの不満の声が~」「加熱する記者に~」というイントロダクションでこの怒号が流れるのは当日の会見場で起こっていたこととは反する。本日の日本テレビの報道では『ジャニーズがコンサル会社に相談「会見が荒れないように手立てを考えて」』とあった。敢えて主催者側が場を荒れさせ、それを“回収”していた疑惑も浮上する。この男性の人物特定が“謎”解明のポイントになるのではないか

ジャニーズ事務所は「騒ぐ記者」まで仕込んでいたようです。
これはかなり悪質です。
これが事実と認定されれば、ジャニーズ事務所の名誉回復は困難です。


ジャニーズ事務所がちゃんと反省していれば、記者会見でなにを質問されても対応できるはずです。
NG記者リストをつくるのは、なにかやましいところがあるからです。

記者会見を聞いていると、いろいろお粗末なところがありました。たとえば被害者への補償のやり方が具体的にはまったく決まっていないようでした。質問したのがきびしい記者でなくて幸いでした。
しかし、その程度のことなら、批判されても低姿勢で切り抜けられるでしょう。

ジャニーズ事務所がいちばん追及されたくないことはなにかと考えると、ジャニー喜多川氏の性加害を東山紀之社長以下の新しい経営陣が知らなかったはずはないだろうということです。このことはこれまで一応否定されてきましたが、あいまいでした。

ジャニーズ事務所の「外部専門家による再発防止特別チーム」の調査報告書によると、「ジャニー氏の性加害は、1950年代から2010年代半ばまでの間にほぼ万遍なく認められた」とされ、その間の被害者の数は「少なく見積もっても数百人がいるという複数の証言が得られた」ということです。

被害者が多数であれば、そのことは隠しようがないはずです。
文春オンラインの記事がその状況を描いています。

 ジュニア時代は豊川誕やJOHNNY'S ジュニア・スペシャルなどのバックダンサーを務めていたという杉浦氏。朝早い番組収録がある日には、麻布十番にあったジャニー氏の自宅兼合宿所のマンション「ドミ麻布」に泊まりに行っていた。150平米ほどの広さで、デビューしたタレントの部屋に加えて、大勢のジュニアが雑魚寝する部屋があった。

 杉浦氏はそこで被害に遭った。

「(雑魚寝部屋で寝ていると)大好きな麻雀を終えたジャニーさんが夜中に帰ってくる。そしてみんなが寝ている場所にやってくる。まず真ん中に入ってきて、そこから右に行くか、左に行くかはわからない。真ん中は基本的に(何も知らない)新しい奴。俺は(被害に遭わないように)端っこで壁にへばりついていました。それでも普通に(パンツの中に)手をいれてくる」(杉浦氏)
(中略)
「『トイレ行ってきます』と言って、朝まで出てこない奴もいました。ジャニーさんがいるから怖くて戻って来られない。そいつはその後すぐ辞めていました」(同前)

 ジュニアたちは皆、ジャニー氏の性加害を怖れていた。しかし、我慢してやり過ごしていたという。

「ジャニーさんに嫌われたら、その先がない。そう考えたら、もうそれしかないわけです。ジャニーさんのやりたいようにやらせるしかない。だって、みんなデビューして名を馳せたいんです。だから逆らえない。一切逆らえない。実力社会じゃなく、やっぱりそこはおかしいよね」(同前)

ジュニアのほとんどは性被害にあっていたようです。

このあたりのことは東京新聞がいくつもの記事を「【ジャニーズ性加害問題まとめ】元Jr.ら、次々と勇気ある告白…社名変更、廃業へ」というサイトでまとめています。

性被害にあわなかった人でも、仲間が性被害にあっていたことはわからないはずはありません。
そうすると、今活躍しているジャニーズ事務所のほとんどのタレントは、ジャニー氏による性加害の被害者か、そうでなくてもジャニー氏による性加害が事務所内で広く行われていたことを知っている人です。

もちろん東山社長や井ノ原副社長も例外ではありません。
そのことをはっきりさせなければ再出発もないはずです。

記者会見でそのことをずばり質問した記者がいました。
NG記者リストに入っていた佐藤章氏です。どうやら司会者が間違って指名してしまったようです。
佐藤氏は、東山社長はジャニー氏の性加害を知っていたのではないか、カウアン・オカモト氏が当時合宿所にいた100人から200人のほぼ全員が被害にあったと証言しているので知らないはずはない、知っていて防止策を講じなかったなら児童福祉法違反の共犯や幇助犯になるのではないかと追及しました。
東山社長は知らなかったと言いましたが、「当時は16,7歳だったので、性加害について理解するのがむずかしかった」とも言ったので、かなり微妙です。
なお、木目田裕弁護士は、東山社長が性加害をかりに知っていたとしても共犯や幇助犯にはならないと言いました。

こういう本質をつく質問をする記者がいるので、ジャニーズ事務所はNG記者リストをつくったのでしょう。


東山社長は社長という立場なのでこのような追及を受けましたが、本来は被害者なので(被害を受けていればですが)、同情されていいはずです。
問題は、経営には関わらない多数の所属タレントたちです。
再発防止特別チームの報告書や被害者の証言からすると、タレントのほとんどは性被害を受けているはずです(本人は被害を受けていなくても、DVを身近に目撃するだけで面前DVとされるように、身近な人間が性被害を受けているのを知っただけで被害者と見なすことができます)。

つまり東山社長以下、多数の所属タレントが性加害の被害者であるにもかかわらずそのことをごまかしていることこそ、ジャニーズ事務所がかかえる最大の問題です。


おそらくファンたちも、自分の“推し”が被害者かもしれないと思って、もやもやした気持ちをかかえているはずです。
日本全国で大量のタレントとファンの関係がおかしなことになっているのです。
この関係を正常化することが、被害者補償の次になされるべきことです。

まず東山社長、井ノ原副社長が自分自身の性被害を告白するべきです。もし自分が被害にあっていなければ、周りの人たちの被害について語るべきです。
それから元SMAPのメンバーあたりが告白すれば、若い人たちも告白しやすくなるでしょう(森且行氏がSMAPを抜けたのもジャニー氏の性加害が関係しているに違いありません)。
芸能活動を続けるにはジャニー氏の性加害を受け入れるしかなかったので、そのことは決して批判されることではありません。
告白すればトラウマの解消にも役立ちます。


みんなが告白すれば、ジャニー氏がとんでもない異常性癖を持った人間だということが明らかになり、ジャニーズ事務所についての見方も変わるでしょう。
ジャニーズ帝国が解体して消滅すれば、それは好ましいことです。

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