村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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いじめ防止対策推進法が施行されて9月28日で10周年となりました。
法律をつくった効果はあったのでしょうか。

2021年度の小中高におけるいじめの認知件数は61万5351件と過去最多となりました。
認知件数は、学校が隠蔽をやめてまじめに報告しても増えますが、自殺などの「重大事態」も705件と前回調査から37%増えています。
いじめ防止法の効果はほとんどなかったといえるでしょう。

いじめは複雑な問題です。
法律をつくったらいじめが解決した――なんていううまい話があるわけありません。

いじめ防止法で唯一評価できるのは、いじめの定義がされたことです。
「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」により「対象生徒が心身の苦痛を感じているもの」がいじめであるとされました。
つまりいじめ被害者の「苦痛を感じている」という主観でよくなったのです。
いじめる側の「これはいじめじゃなくてイジリだ」というような言い分は通用しなくなりました。

しかし、マイナスの面もあります。
いじめを児童生徒と児童生徒の間に起こることと狭く定義したのです。
つまり教師の行為は不問とされたのです。
実際は、教師が生徒に体罰をしたり暴言を吐いたりということが行われています。この行為はいじめと同じか、いじめよりも深刻です。教師の体罰・暴言を受けた生徒がストレス発散のためにほかの生徒をいじめるということもありえます。
教える力や指導力のない教師が、思い通りにならない生徒にいら立ちをぶつけてクラスの空気が悪くなり、それがいじめを生むということもありえます。

親から虐待されている生徒もいます。
いつも親から殴られている生徒がほかの生徒を殴るということもあるでしょう。
親から虐待されているために自己評価が低く、そのためほかの生徒からいじめられるということもあるでしょう。

つまりいじめというのは、学校や家庭のあり方が影響し、さらには社会のあり方も影響しますから、きわめて複雑なのです。
それをいじめ防止法は、生徒間の問題に限定してしまったわけで、これではいじめの原因も把握できないし、いじめ防止の方法もわかりません。
いじめ防止法ができてもいじめがへらないのは当然です。

どうしてこういう無意味な法律ができたのでしょうか。
それは、法律が制定された当時、社会がいじめに関して異常な心理状態にあったからです。


2011年10月、大津市で中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺をするという事件がありました。
学校は自殺原因究明のために全校生徒を対象にアンケートを行い、その中に「自殺の練習をさせられていた」という記述があったことがマスコミに報じられると、世の中は騒然としました。
「自殺の練習をさせられていた」というのは確かにショッキングです。そんないじめをされたら、自殺の原因になってもおかしくありません。

私はこのことをブログで取り上げよう思って、いくつかのニュースを詳しく読んでみました。すると、「自殺の練習をさせられていた」というのはあくまで無記名のアンケートに書かれていただけで、具体的な証言も証拠もありませんでした。
私はこんな不確実なことを書くわけにはいかないと思って、ブログで取り上げるのは見合わせました。
ところが、それからもどんどん報道は加熱して、いつの間にか「自殺の練習」はあったことにされ、いじめ加害者とされる中学生はネットで名前をさらされ、猛烈なバッシングを受けました。

私は「自殺の練習」を疑っていたこともあって、事態を冷静に眺めることができました。
そうすると、男子中学生の自殺の主な原因は、父親による虐待だったのではないかと思えました。

自殺した生徒は「家族にきびしく叱られる」などと担任に何度か相談していました。当時、母親は家を出て、生徒は父親と暮らしていました。ですから、担任は生徒の自殺の原因は父親との関係だろうと判断し、そのことは学校や教育委員会にも伝えられていました。
しかし、父親は自分が自殺の原因だとは思いたくないので、同級生のいじめが原因だと思い、いじめの被害届を警察に出しますが、3度にわたって警察に被害届の受け取りを拒否されます。
のちにこの警察の態度は非難されますが、警察はいじめはほとんどなかったと判断していたのでしょう。
学校や教育委員会の態度も、いじめの調査に積極的でないことから「いじめを隠蔽している」として非難されましたが、基本的に自殺の原因は父親にあると思っていたわけです。
大津市の越直美市長は「自殺少年は父親からDVを受けていた」と語りましたし、澤村憲次教育長は「学校からは亡くなったお子さんの家庭環境に問題があると聞いている」と語りました。
もっとも、こうした認識は世間から「責任逃れ」と受け止められ、よりいっそうの非難を招きました。

冷静に考えて、自殺の原因として、同級生のいじめと父親の虐待の両方があったでしょう。
問題はその割合がどれくらいだったかです。

結局、「自殺の練習」については、県警によって有力な目撃情報はなかったと結論づけられました。
また、自殺少年の親はいじめ加害者の少年3人に対して約3850万円の損害賠償請求の訴えを起こし、第一審では約3750万円の支払いが命じられましたが、控訴審では父親が自殺少年に暴力をふるうなどしていたことによる「過失相殺」を認めて、約400万円に減額し、最高裁で約400万円の判決が確定しました。
第一審は世間の熱狂に引きずられた判決でしたが、控訴審では冷静な判決になったと思われます。

判決で「過失相殺」という言葉が使われるぐらいですから、父親の虐待と同級生のいじめの両方が自殺の原因だったということでしょう。


中学生ぐらいの子どもは、家庭と学校が生活圏のほとんどすべてです。もし自殺すれば、家庭と学校の両面で原因を探さなければなりません。
家庭と学校とどちらが子どもにとって重要かといえば、もちろん家庭です。
もし学校でひどいいじめにあっていたとしても、家庭生活が幸せなら自殺しないでしょう。
それに、まともな親なら、子どもの様子から問題を察知して、子どもが自殺する前に対処するはずです。
ですから、もし子どもが自殺すれば、とりあえず家庭に問題があっただろうと想像できます。
自殺の原因は複合的なのが普通ですが、第一の原因は家庭にあって、学校でのいじめがあったとしても、それは第二の原因でしょう。


大津市で中学2年生の男子生徒が自殺したというときも、私は家庭環境はどうなっていたのだろうかと考えました。
ところが、「自殺の練習」ということもあって、報道はいじめのことばかりです。自殺生徒の家庭のことはまったく報道されないので、家族構成すらわかりません。父親は盛んにメディアに出てきますが、母親はまったく姿が見えないので、どうなっているのかと思っていました。両親は不仲で、母親は家を出ていたというのは、かなりあとになってからわかりました。

学校でのいじめのことばかり報道して、自殺少年の家庭環境のことはまったくといっていいほど報道しないというところに、社会のいちばん深い病理が表れています。
中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り自殺をしたら、家庭に問題があったのだろうと推測されます。親から虐待されていた可能性が大です。しかし、その問題はまったく追及されません。
しかし、少年が学校でいじめにあっていたかもしれないとなると、嵐のように報道されます。

これはどういうことかというと、いじめが原因で自殺したということになれば、家庭内で虐待はなかったということになります。
現に越直美市長の「自殺少年は父親からDVを受けていた」という言葉はかき消されてしまいました。

ほとんどの親は子どもをガミガミと叱り、勉強に追い立て、ときに体罰をしています。
子どもが自殺したというニュースに接すると、こうした親は不安になります。
しかし、自殺の原因が学校でいじめであったということになれば、安心できます。
つまり「幸せな家族」幻想が守られるわけです。

このときは、メディアだけでなくおとな社会全体が家庭内の虐待を隠蔽し、その代わりに学校でのいじめに自殺の責任を押しつけました。
しかも、それがきわめて熱狂的でした。
その熱狂が「いじめ防止法」をつくらせたのです。
酒鬼薔薇事件のときの熱狂が少年法改正を生んだのと同じです。

ですから、いじめ防止法は不純な動機でつくられました。
その隠れた目的は、家庭内の虐待の隠蔽です。
そのため、いじめは子どもの間の出来事とされ、いじめの加害者も被害者も家庭環境の影響を受けているという当然のことが無視されました。
こんな法律になんの効果もないのは当然です。
子どもは家庭で親から、学校で教師からの影響を受けるということを前提に、法律をつくり直さなければなりません。


なお、幼児虐待を隠蔽して、「幸せな家族」幻想を維持しようとすることは今も行われています。
そのため、子どもが死ぬか大ケガをする事態になってやっと幼児虐待が表面化するということが少なくありません。


大津市の中学2年生の自殺事件については、私は十本余りのブログ記事を書いて、「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめています。
世の中の100%近い人がいじめと学校や教育委員会の対応を糾弾していたときに、少年の自殺の主な原因は家庭内のことにあると主張したので大炎上しましたが、結果的に私の主張が正しかったわけです。

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ジャニーズ事務所の名前を変えるべきか否かが議論になっています。
この名前のままではジャニー喜多川氏による性加害が想起され、被害者が傷つくというのです。
しかし、ジャニーズ事務所はジャニー氏がつくったもので、所属タレントもほとんどはジャニー氏が採用して育成したわけですから、全体がジャニー氏の色に染まっています。名前だけ変えてもたいした意味はありません。

世の中には、ツイッター(現X)で「#ジャニーズ事務所を応援します」というハッシュタグが一時トレンド入りするなど、ジャニーズ事務所やその所属タレントを応援する人がたくさんいます。
一方、ジャニー氏の性加害を告発した被害者を誹謗中傷する人もいて、応援する人との区別がつきにくくなっています。
ジャニー氏のしたことをすべて否定するから、こうした混乱が生じるのです。
ジャニー氏のしたことを、よいことと悪いことに区別しないといけません。

ジャニー氏の性加害はもちろん悪いことです。芸能事務所の社長という圧倒的な権力を背景に、12,3歳という若い子も含まれる少年たちを自身の欲望の犠牲にしたわけで、少年の心に深い傷を残したのは確実です。
しかし、その一方で多数の男性アイドルを育てて、「ジャニーズ帝国」と言われるほどの一大勢力を築き上げました。
このように多数の男性アイドルを育てたのはジャニー氏の功績として評価するべきでしょう。

ジャニー氏が巧みだったのは、フォーリーブスを皮切りに、シブがき隊、少年隊などのようにグループとして売り出したことです。
このグループ戦略は、モーニング娘。やAKB48、さらには韓国アイドルにも広がりました。
おそらく芸能界を一人で生き抜いているアイドルは、若いファンには身近に思えないのでしょう。グループ活動をしているアイドルなら、中学生や高校生にとって親しみがあります。

それから、歌と踊りだけでなく、しゃべりの技術を向上させて、バラエティ番組に進出させたのも成功しました。今ではバラエティ番組はジャニーズのタレントだらけです。

そのような売り出し方もだいじですが、やはりいちばんだいじなのはそのアイドル自身の魅力です。
ほとんどはジャニー氏が選んだのでしょうから、その目利きがすごいといえます。

ジャニーズのアイドルはそれぞれ個性的で、多様な人間が集まっていますが、全体として一定の傾向があります。
学校のクラスでいえば、優等生タイプはいません。あまりイケメンでない、ひょうきん者はいます。不良っぽいのもいますが、ほんとうの不良みたいなのはいません。
そしてなによりも、体の大きい筋肉質の男、つまりマッチョはいません。これがなによりの特徴です。
つまり「男くさい」のはいなくて、全員が「少年っぽい」のです。
これはEXILEと比べてみれば歴然とします。EXILEは全員マッチョで、「男くさい」のがそろっています。ジャニーズと好対照です。
なお、不思議なことにジャニーズのアイドルは何歳になっても「少年っぽい」ままで、「貫禄」がつきません。

こうした特徴は、おそらくジャニー氏の好みによるのでしょう。
ジャニー氏は、好みの少年を事務所に入れて、ハーレムを形成しました。ハーレムからその日の気分に合わせて少年を選び出して、夜の相手をさせていたわけです。
ジャニー氏の性癖は、同性愛でかつ小児性愛ということになるでしょう。
同性愛自体は問題ではありませんが、小児性愛は、その欲望を実行に移すと犯罪になってしまいますから、めったに満たされることはありません。
ところが、ジャニー氏は自由にその欲望を満たしていたわけです。
世界広しといえども、現代にこのように欲望を満たしていた人間はほかにいなかったのではないでしょうか。


ジャニーズ事務所のアイドルが芸能界を席巻したことで、世の中の価値観が変わりました。
ジャニーズのアイドルのような「少年っぽい」男がいい男、もてる男ということになりました。
「男くさい」男、マッチョな男は人気がなくなりました。
若い男性は女性にもてるために、ジャニーズのアイドルのような男を目指したので、日本の若い男性全体がジャニー氏のハーレムの方向にシフトしたことになります。

ジャニーズ事務所の社名を変えるより前に、日本はジャニー氏によって変えられていたのです。

もっとも、「男くさい」男から「少年っぽい」男へのシフトは、平和な時代が長く続いたことが主な原因です。ただ、ジャニー氏がその変化を加速したということはいえるでしょう。
この変化がよいか悪いかといえば、私自身はよいと思っています。軟弱な男が増えたということで、それだけ戦争しにくくなるからです。


なお、秋元康氏プロデュースのAKBグループ、坂道グループのアイドルにも一定の傾向があります。
学校のクラスでいえば、不良、ギャル、ヤンキーっぽいのはまったくいなくて、優等生っぽいのばかりです。
おそらくこれは秋元氏の好みなのでしょう。
日本のアイドル文化は、2人の男の個人的な好みによって決定されているのです。

そして、このアイドル文化は日本社会のあり方にも影響を与えているに違いありません。

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京アニ放火殺人の青葉真司被告は、京アニに自分の小説を盗用されたということを理由に京アニに放火しました。
「京アニに盗用された」というのは妄想というしかありません。
ということは、青葉被告は自分と無関係な、なんの罪もない人間を殺したことになり、通り魔事件と同じようなものです。

青葉被告もそのことは意識していました。
というのは、青葉被告は9月14日の被告人質問において、秋葉原通り魔事件の加藤智大(死刑執行ずみ)について「そういう事件を起こしたことについて、共感というか、類似点じゃないが、他人事には思えなかった」と語ったからです。また、加藤智大が包丁6本を持っていたことを参考に自分も包丁6本を購入して準備したということです。

秋葉原通り魔事件にしても京アニ放火殺人事件にしても、なんの落ち度もない人間が殺されたわけで、被害者遺族が加害者に対して憤りを覚えるのは当然です。

では、殺される側に落ち度のある殺人だったらどうなのでしょうか。
強者が弱者を一方的に虐待し続けて、弱者がついに怒りを爆発させて立ち上がり強者を倒す――というのはエンターテインメントの物語の定番です。
昔は任侠映画で高倉健が最後に悪いヤクザのところに斬り込むシーンでは、観客が拍手喝采したものですし、今でも半沢直樹が「やられたらやり返す。倍返しだ!」と叫ぶシーンでは、視聴者は心の中で拍手喝采しているはずです。

もちろん今は、悪いやつに個人で復讐することは禁じられていて、法の裁きに任せることになっていますが、法が裁いてくれるとは限りません。


今年3月、佐賀県鳥栖市で19歳の大学生が両親を殺害するという事件があり、9月15日、佐賀地裁は19歳の大学生に懲役24年の判決を言い渡しました。
2人殺して懲役24年なら、量刑としては普通か、むしろ軽いと思われるかもしれませんが、必ずしもそうとはいえません。
というのは、このような親族間の殺人は、長年しいたげられていた者ががまんの限界に達し、「正義の怒り」が爆発して犯行に及ぶというケースが多いからです。

この事件はどういうものだったのか、朝日新聞の『両親殺害の背景にあった「教育虐待」 大学進学後も暴力、正座、罵倒』という記事からまとめてみます。

殺された両親の長男である被告は、小学校のころから成績が悪いと父親に胸ぐらをつかまれ、蹴られてアザができたこともあります。1時間以上、正座をさせられ、説教され、「失敗作」や「人間として下の下」などとののしられ、長男は「心が壊れそうになった」と公判で述べました。
父親が決めた中学受験の勉強が始まると、さらに暴言や暴力はエスカレートしたといいます。高校は佐賀県トップの公立進学校に入り、大学は九州大学に入りましたが、それでも虐待はやみませんでした。
父親自身は大学受験に失敗し、自分の学歴を「九州大学を中退した」と周りの人に偽っていました。
出廷した心理学の専門家は、父親の行為を「教育虐待」であるとし、父親に学歴コンプレックスがあったと証言しました。
岡崎忠之裁判長は「父親による身体的、心理的、教育虐待と、それらによる精神的支配のもとで育った」と指摘し、「心理的、身体的虐待を受けるなどしたことが、殺害を決意したことに大きく影響している」と犯行の背景事情を認定しました。

ところが、判決は懲役24年でした。
これは裁判員裁判だったので、裁判長よりも裁判員の意向が大きかったのかもしれません。

被告は父親に虐待されたのに母親も殺したことについて、読売新聞の『元九州大生の19歳は「養育環境に問題あり」…鳥栖市の両親殺害事件公判で専門家』という記事によると、父親を刺したとき母親が止めに入ったために排除するために刺したと説明し、「味方でいてくれたのに、恩を仇で返すことになって申し訳ない」と述べたということです。

母親を殺した説明は説得力がありませんが、父親を殺したことについてはかなり同情できます。
長男は公判において「父親にいつか仕返ししてやると思うようになり、高校生になって殺してやると考えました」「仕返しをすることをずっと支えに生きてきて、それを放棄すれば、これまで生きてきた意味がなくなるので、放棄はできませんでした」などと語りました。
長年の虐待で思考がゆがんでいることがわかりますが、その思考のゆがみは長男のせいではなく父親のせいです。

冷静に判断しても、父親が長男を虐待した罪と、長男が父親を殺した罪は、かなり相殺されるはずです。

1968年、29歳の女性が父親を絞殺するという事件がありました。この女性は14歳のころに父親に犯され、それからずっと関係を持って、父親との子どもを5人出産しました。この関係は周囲の人間はみな知っていましたが、誰もなにもできませんでした。女性に好きな男性ができ、結婚の約束をすると、父親は激怒します。そして、女性は父親が眠っている間に首を絞めたのです。
当時は尊属殺人は特別に重罪にする規定がありましたが、最高裁は尊属殺の規定は違憲であるとし、女性に執行猶予つきの判決を下しました。

こういう例があるのですから、性的虐待と教育虐待の違いはありますが、この事件についても、もし父親殺しだけなら執行猶予つきの判決になってもおかしくありません。

それに、殺人事件の場合は被害者遺族の感情が重視され、それが重罰の根拠とされますが、この事件の場合は、加害者が被害者遺族でもあるわけです。
いや、ほかにも親族はいます。その親族は弁護士を通して書面で判決について「到底受け入れられるような内容ではなかった。長年父親からの虐待に苦しんだ末の思い詰めた結果だということを、もっと重視してもらいたかった」と述べました。


京アニ放火殺人事件の青葉真司被告や秋葉原通り魔事件の加藤智大も親からひどい虐待を受けていましたが、犯行の矛先は親ではなく罪のない他人に向けられました。
しかし、この事件は正しく親に向けられたわけで、「やられたらやり返す」を地でいく犯行でした。

おそらく控訴審があるでしょうから、そのときは虐待した父親の罪を正しく評価した判決を期待したいものです。

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京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判が9月5日から始まりましたが、マスコミが今までと違って、青葉真司被告の生い立ちを詳しく報道しています。
検察も冒頭陳述で青葉被告の生い立ちにかなり言及しました。
少しずつ世の中の価値観も変わってきているようです。

だいたいこうした合理的な動機のない凶悪事件の場合、犯人はほぼ確実に幼児期に親や親代わりの人間から虐待を受けています。「非人間的な環境で育ったことが原因で非人間的な人間になった」という因果関係があるだけです。
ところが、2008年の秋葉原通り魔事件の場合、犯人の加藤智大が派遣切りにあったこと、携帯電話向けの電子掲示板に依存していたところなりすましの被害にあったことなどが犯行の引き金になったという報道ばかりでした。
ただ、週刊文春と週刊新潮だけが加藤が母親に虐待されていたことを報じました。
このころから少しずつマスコミが凶悪事件の犯人の生い立ちを報じるようになったと思います。

青葉被告の生い立ちはどうだったのでしょうか。
青葉被告は1978年生まれ、埼玉県さいたま市出身で、両親と兄と妹の五人家族でしたが、小学校3年生のときに両親が離婚して母親は家を出ていきました。父親はトラック運転手、タクシー運転手をしていましたが、交通事故を起こして解雇され、それから貧困生活になります。青葉被告は父親からひどい虐待を受けます。家はゴミ屋敷になり、彼は日常的に万引きをするようになります。母親に会いにいったこともありますが、母親には会えず、母方の祖母に「離婚しているのでうちの子ではない」と言われて追い返されたそうです。女性の下着を盗んで逮捕され、コンビニ強盗をしたときは懲役3年6か月の実刑判決を受けました。父親は1999年にアパートで自殺し、その後、兄、妹も自殺しています。なんともすさまじい家庭だったようです(兄と妹の自殺は週刊文春が報じていますが、裁判には兄と妹の調書が提出されています。自殺していないのか自殺前の調書かは不明)。
ただ、彼は中学は不登校になりますが、定時制高校は皆勤だったそうで、同じコンビニに8年間勤務したこともあります。


青葉被告が父親からどのような虐待を受けたかは公判で明らかになっています。
『「体育祭なんか行くんじゃねぇ」傍聴から見えた青葉真司被告の"壮絶"家庭環境 ズボンをアイロンで乾かし父親が激高「逆らえない」絶対的服従に近い父親への忠誠心【京アニ裁判】』という記事から3か所を引用します。


ところが離婚してしばらくすると、父親は徐々に、青葉被告や兄を虐対するようになったという。


青葉被告「父から正座をさせられたり、ほうきの柄で叩かれたりしていた」
弁護人「父にベランダの外に立たされたことは?」
青葉被告「『素っ裸で立ってろ』と言われた記憶がある」
弁護人「酷い言葉をかけられたことは?」
青葉被告「日常茶飯事すぎて、わからない」


さらに、青葉被告が父親に対して、「絶対的服従」に近い忠誠心を持っていたと思える経緯が明かされた。

中学時代、青葉被告は体育祭で履くズボンをアイロンで乾かしていたところ、突然、父親に怒られたと話した。



青葉被告「中学1年生の時に体育祭でズボンをアイロンで乾かしていた。すると、『何で乾燥機を使わないんだ』と怒られた。そして『体育祭に行くんじゃねぇ』と言われ、体育祭に行けなかった」

弁護人「実際に行けなかった?」

青葉被告「そう言われたら、逆らえなかった」

弁護人「アイロンで乾かしてもいいと思うが、父から理由は言われた?」

青葉被告「理由というか、もう意味もなく理不尽にやる、そこに理由はない」


さらに、青葉被告が柔道の大会で準優勝した際、贈呈された盾を「燃やせ」と父親から言われ、「1人で燃やした」というエピソードを話した。



弁護人「父親からは、どうしてこいと言われた?」


青葉被告「燃やしてこいと言われた」


弁護人「燃やす理由は?」


青葉被告「そこに理解を求める人間ではない。ああしろ、こうしろと、それだけ。上意下達みたいな感じ。燃やすしか方法はない」


弁護人「実際に燃やした?」


青葉被告「自分で燃やした」

子どもを虐待する親にまともな論理などありません。子どもはただ不条理な世界に置かれるだけです。
彼がまともな人間に育たなかったのは当然です。
うまく人間関係がつくれないので、ひとつところに長く勤めても、信頼を得て責任ある仕事を任されるということにはなりません。
小説家になるという夢を追いかけたのは、むしろよくやったといえるでしょう。
しかし、普通の人間なら、夢が破れても平凡な人生に意味を見いだして生きていけますが、彼の場合は、夢が破れたら、悲惨な人生の延長線上を生きていくしかないわけです。


このような人間の犯罪はどう裁けばいいのでしょうか。
ここで注意しなければいけないのは、私たちは日ごろ「死ね」などという言葉は使わないようにしていますが、このような事件のときは「死刑にしろ」ということを公然と言えるので、日ごろ抑圧している処罰感情が噴き出して、過剰に罰してしまう傾向があるということです。

この事件は36人が死亡、32人が重軽傷を負うという大きな被害を出しました。
しかし、青葉被告はそういう大量殺人を意図したとは思えません。結果がそうなっただけです。
カントは、罪というのは結果ではなく動機で裁くべきだと言っています。36人死亡という結果で裁くのはカントの思想に反します。
もっとも、刑事司法の世界では、カントの説など無視して結果で裁くということが普通に行われていますが。

こういう事件の犯人に死刑も意味がありません。犯行が「拡大自殺」と同じようなものだからです。
死刑にすると、抑止力になるどころか、逆に「死刑になりたい」という動機の犯行を生みかねません。

刑事司法の論理では、こうした犯罪は犯人の「自由意志」が引き起こしたととらえます。つまり人間は自分の心を自由にコントロールすることができるので、心の中に「悪意」や「犯意」が生じれば、それは本人が悪いということになります。
「犯行をやめようと思えばやめられたのにやめなかった」という判決文の決まり文句がそれをよく表しています。

もっとも、今は文系の学者でも大っぴらに「人間には自由意志がある」と言う人はいないでしょう。
自由意志があることを前提にしているのは刑事司法の世界ぐらいです。


しかし、今回の裁判では検察の考えが少し変わったかもしれません。
検察側の冒頭陳述は、「犯意」ではなく「パーソナリティー」を強調したものになりました。
『冒頭陳述詳報(上)「京アニ監督と恋愛関係」と妄想、過度な自尊心と指摘』という記事から、「パーソナリティー」という言葉が使われたセンテンスだけ抜き出してみます。


「京アニ大賞に応募した渾身(こんしん)の力作を落選とされ、小説のアイデアまで京アニや同社所属のアニメーターである女性監督に盗用されたと一方的に思い込み、京アニ社員も連帯責任で恨んだという、被告の自己愛的で他責的なパーソナリティーから責任を転嫁して起こした事件」
「親子の適切なコミュニケーションが取れていなかったため、独りよがりで疑り深いパーソナリティーがみられる」
「うまくいかないことを人のせいにするパーソナリティーが認められる」
「不満をため込んで攻撃的になるパーソナリティーが認められる」
「ここでも不満をため込んで攻撃的になるパーソナリティーがみられる」
「こうした妄想も疑り深いパーソナリティーがみられる」

しかし、犯行を被告のパーソナリティーのせいにしても、被告がそのパーソナリティーになったのは被告のせいではありません。
人間は生まれ持った性質と育った環境というふたつの要素によってパーソナリティーを形成しますが、そのどちらも本人は選べません。ある程度成長すると環境は選べますが、子どもにはできません。
青葉被告も生まれたときはまともな人間だったでしょう。しかし、父親のひどい虐待で傷ついてしまいました。
たとえていえば、新車として納品されたときはまともだったのに、ボコボコにされてポンコツ車になったみたいなものです。青葉被告はもの心ついて自分で車を運転しようとしたときには、真っ直ぐ進もうとしても車は右や左にぶれて、ブレーキやアクセルもうまく機能せず、あちこちぶつけてばかりという人生になりました。
青葉被告は自分がポンコツ車に乗っているとは思わないので、ぶつかるのは向こうが悪いからだと思います。それを人から見ると、「逆恨みする攻撃的なパーソナリティー」となるわけです。

この「パーソナリティー」は「脳」とつながっています。
厚生労働省は「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを展開していて、そこにおいて幼児期に虐待された人は脳が委縮・変形するということを強調しています。

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厚生労働省のホームページより

脳が委縮・変形した人を一般人と同じように裁いていいのでしょうか。

心理的な面から見ると、幼児期にひどい虐待を受けた人は複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症することが多いものです。
複雑性PTSDは適切な治療を受ければ治癒します。
ということは、虐待によって委縮・変形した脳も本来の形に戻る可能性があるということでしょう。

青葉被告のような凶悪犯には、マスコミや被害者遺族は「謝罪しろ」「反省しろ」と迫りますが、虐待によって脳やパーソナリティがゆがんでいれば、反省するわけがありません。
適切な治療で青葉被告の心を癒し、青葉被告が“真人間”になれば、自分の罪に向かい合って、反省や謝罪の言葉を口にするようになるでしょう。

こんな凶悪犯が真人間になるのかと疑問に思うかもしれませんが、周りの人間の対応次第で可能です。
青葉被告の治療にあたった医師団と青葉被告はこんな会話をしていました。『「“死に逃げ”させない」ぶれなかった主治医 “予測死亡率97.45%”だった青葉被告 4カ月の治療を記した手記 京アニ放火殺人』という記事から3か所を引用します。


上田教授の手記より:
スピーチカニューレを入れ替えすると、声が出たことに驚いていた。「こ、声が出る」「もう二度と声を出せないと思っていた」そういいながら泣き始めた


鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:
で、そのあともずっとその日は泣いていたので、夕方にまた「なんで泣くんだ」って話を聞いたら、自分とまったく縁がないというか、メリットがない自分にここまで治療に関わる人間、ナースも含めて、いるっていうことに関して、そういう人間がいるんだという感じでずっと泣いていました



(Q.青葉被告と会話を交わす機会もあったと思うが?)

医療チームの一員 福田隆人医師:

何回かしゃべる機会はあったんですけど、一番心に残っているというか、克明に覚えているのは、「まわりに味方がいなかった」っていうのが一番言葉で残ってて



医療チームの一員 福田隆人医師:

どこかで彼の人生を変えるところはあったんじゃないかなっていうのを、その言葉を聞いて思って。僕たちって治療を始めたときから転院したときのことまでしか知らないですけど、40年以上の人生があって、どこかで支えとなる人がいたら、現実はもうちょっと変わったんじゃないかなっていうのは、そのとき思いました



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


自分も全身熱傷になったことは予想外?



青葉真司被告:


全く予想していなかったです。目覚めたときは夢と現実を行ったり来たりしているのかと思いました。僕なんか、底辺の中の“低”の人間で、生きる価値がないんです。死んでも誰も悲しまないし、だからどうなってもいいやという思いでした



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


俺らが治療して考えに変化があった?



青葉真司被告:


今までのことを考え直さないといけないと思っています



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


もう自暴自棄になったらあかんで



青葉真司被告:


はい、分かりました。すみませんでした


私の考えでは、青葉被告のような人間を罰するのは間違っています。

今の司法制度では、心神喪失と心神耗弱の人間には刑事責任能力があまり問えないことになっていて、場合によっては無罪もあります。
心神耗弱は、精神障害や薬物・アルコールの摂取などの原因によって判断能力が低下した状態とされますが、その原因に幼児虐待によってパーソナリティーや脳にゆがみが生じたことも付け加えればいいわけです。

被虐待者である犯人の責任を問わない代わりに、虐待した親の責任を問えばいいわけです。
今は犯人にすべての責任を負わせているので、虐待した親は無罪放免になります(実際は水面下で周囲の人から陰湿な迫害があるでしょう。はっきり責任を問えばそういうこともなくなります)。
今の時代、幼児虐待の防止が大きな課題になっているので、子どもを虐待した親の責任を問う制度をつくることには大きな意味があります。

なお、「虐待されても犯罪者にならない人もいる」と言って、虐待と犯罪の関係を否定する人がいますが、虐待といっても千差万別ですから、虐待されても犯罪者にならない者がいるのは当たり前です。
少なくとも世の中から幼児虐待がなくなれば青葉被告のような犯罪者もいなくなることは確かです。


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ジャニー喜多川氏の性加害問題に関する「外部専門家による再発防止特別チーム」が8月29日、調査報告書を公表し、ジャニー氏の性加害について「長期間にわたって広範に未成年者に対して性加害を繰り返していた事実が認められた」としてかなり具体的に記述し、さらに藤島ジュリー社長の辞任を求めました。
この「特別チーム」はジャニーズ事務所が設置したものなので、ジャニーズ事務所に対して甘い内容の報告書になるのではないかと見られていましたが、意外なきびしさでした。

ジャニー氏の性加害問題は、1999年に「週刊文春」が本格的に追及し、ジャニーズ事務所が「週刊文春」を名誉棄損で訴えますが、「その重要な部分について真実」とする判決が2004年に確定しました。
ところが、新聞もテレビ局もこの問題をほとんど報じず、ジャニーズファンや国民も関心を示さないので、まるで問題がないようなことになっていました。
ジャニーズ事務所の力が圧倒的に強いのでテレビ局は批判などできず、ファンもアイドルのイメージを傷つけたくなかったのでしょう。

ところが今回、イギリスのBBCの報道をきっかけに少しずつ日本のメディアも報道するようになり、さらに国連人権理事会の調査チームが来日して国際問題化し、世論も関心を高めていました。
そうした流れがあったので、「特別チーム」の報告書もきびしいものになったのでしょう。

こうした流れを形成するのに力があったのは、ジャニー氏による性加害の被害者が次々と顔出しして被害を訴えたことです。
こうなるとニュース番組も報道しないではいられません。
ジャニーズ事務所としては「性加害はなかった」あるいは「性加害のことはわからない」としたいところでしたが、被害者が出てきたのではそうもいきません。


セクハラ被害者が顔出しして被害を訴えたということでは、自衛隊員の五ノ井里奈さんがそうでした。
五ノ井さんは訓練中に男性隊員からセクハラ被害にあったことを自衛隊に訴えますが、黙殺されたので、やむなく顔と実名を出してマスコミに訴えました。たった一人で自衛隊を相手に戦ったのですが、昨年12月に加害者の隊員5人が懲戒免職になるなどの処分が発表され、戦った成果がありました。

こうしたことの元祖は、ジャーナリストの山口敬之氏にレイプされたと訴えた伊藤詩織さんです。
伊藤さんは就活中の学生時代に山口氏にレイプされましたが、山口氏は安倍首相のお友だちであったため警察が逮捕状を執行せず、顔出しして被害を訴えました。警察と検察を動かすことはできませんでしたが、民事訴訟では最高裁まで行ってほぼ完勝に近い結果でした。


今の時代、「被害者の感情」というものがひじょうに重視されます。

もともと悪を罰するのは「正義」の論理によっていました。
ところが、今は「正義」の価値がはなはだしく下落しています。なにかを主張するとき「正義」を名目にすると、絶対反論されるはずです。
法務省が死刑制度を正当化するときも、アンケートで死刑賛成が多数であるという「国民感情」を理由にします。
なにか凶悪な殺人事件が起こったときも、決まって被害者遺族がテレビのインタビューで「死刑を望みます」と語る場面が流されます。
テレビのコメンテーターなども、事件や迷惑行為や不倫などについてなにか主張するときは最終的に「被害者の感情」に結びつけます。

今や「被害者(遺族)の感情」が「正義」に代わって社会を動かす原理になっています。

「被害者の感情」を世の中に訴える場合、被害者の顔が見えるのと見えないのとでは大違いです。
それに、被害者本人がいると、間違った主張にすぐに反論できます。

韓国の人気女性DJであるDJ SODAさんが8月13日、大阪の音楽フェスティバルで複数の人間から胸を触られるという痴漢被害にあい、X(旧ツイッター)で公表しました。
その中に「公演中にこんなことをされたことは人生で初めてです」とあり、これは日本人批判だということで反発が強まりました。
そして、海外の公演で体に触られている動画とともに「海外でも痴漢にあっている。DJ SODAは嘘つきだ」という主張が拡散しました。しかし、これにはDJ SODAさんがすぐに「その触っている人物は私のボディガードです」と反論して、収まりました。
また、「露出の多い服装をしているから痴漢にあうのだ」という批判も山ほど発生しましたが、DJ SODAさんは「服装と性犯罪の被害は絶対に関係がない」「原因はセクシーな服装ではなく、加害者」と反論しました。


伊藤詩織さん、五ノ井里奈さん、ジャニー氏の性加害の被害者たちが勇気ある告発をしたことで、世の中の空気も変わってきましたが、これらの人たちは猛烈な誹謗中傷にさらされました。
伊藤さんは日本にいられずイギリスに移住しましたし、五ノ井さんはあまりの誹謗中傷に昨年10月、ツイッターに「人を中傷する人生なんて何が楽しいのか分からない。誰かの悪い所10個探すより人の良いところを10個探した方が楽しい。早く笑って過ごしたい。もう耐えるのも疲れてきた」と心情を吐露したことがあります。
ジャニー氏の性加害の被害者たちも「売名行為だ」「カネ目的だ」と批判され、「『死ね』っていうメールが毎日来た」(橋田康氏)というぐあいです。


顔を出してセクハラなどを告発する人間がなぜこれほどに誹謗中傷にさらされるのでしょうか。
それはセクハラなどの被害者が顔を出して告発することがきわめて効果的だからです。
しかも、これまでの告発は性的な問題にとどまらず、安倍政権、自衛隊、大手芸能事務所という権力構造を標的にするものでした(実は権力構造がセクハラの温床だったわけです)。
ですから、保守的な人たちは「小娘や若僧が権力の根幹を揺るがしている」といういら立ち覚えて、誹謗中傷を浴びせているのでしょう。

今後も勇気ある告発をした被害者は、こうした誹謗中傷にさらされるでしょうが、セクハラ、性加害、レイプが悪いという認識の広がりを止められるはずがありません。

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