村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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宮崎駿監督のアニメ「君たちはどう生きるか」を観ました。

宮崎監督が引退を撤回して10年ぶりに発表した新作です。
事前の宣伝をまったくしないという異例の手法がとられたので、いろいろと推測してしまいました。
あまりにも駄作なので、鈴木敏夫プロデューサーは宣伝する気を失ったのかとも考えました。
若者に対して説教くさい内容ならそういうこともありえます。
いいほうに推測すると、観る人によってさまざまな解釈が可能なので、宣伝によってひとつの観方を押しつけることを嫌ったのかとも考えました。

いざふたを開けると、公開4日間で興行収入21.4億円を突破し、これは2001年公開の「千と千尋の神隠し」を超える記録だということです。
宣伝なしという異例の手法が成功したことになりますが、これはひとえに宮崎駿ブランドの力でしょう。

私は映画のレビューなどもほとんど見ず、「異世界冒険ファンタジー」であるという情報だけ仕入れて映画館に行きました。
宣伝をしないというジブリの方針に敬意を表して、あまりストーリーに触れないようにして感想を書いてみます。


『君たちはどう生きるか』という吉野源三郎の小説があり、このアニメはそのタイトルを借りていますが、「宮崎駿原作・脚本・監督」となっていて、オリジナルのストーリーです。

物語は、東京が空襲にあうシーンから始まります。第二次世界大戦も末期です。
主人公の少年は母方の実家に疎開します。そこは金持ちの家で、庭には大きな池があり、庭の奥の森には謎めいた建物があります。
庭には怪しいアオサギがいて、人語をしゃべり、主人公を異世界へと導いていきます。
日常世界と異世界が微妙に重なり合っているのが宮崎ファンタジーの常道です。

前半は、ちょっと物語のテンポが遅いなと感じることがあります。物語がどう展開するかまったく読めないことも影響しています。
登場人物が微妙に重なり合っていて、死んでしまった大叔父から現在までの時間軸も長く、よく理解できないところがあります。「何度も観たい」という感想がある一方で、まったくつまらないという感想があるのもうなずけます。


この前、日テレで「となりのトトロ」をやっているのをたまたま観て、完全に子ども向きの物語だなと思いました。昔初めて観たときは、アニミズムとか自然との共生とかの“意味”を見ていたのですが、物語は、母親が入院して、初めての土地にやってきた子どもが不安の中でさまざまな経験をして、最後に母親が元気になって幸せになるというもので、要するに子どもの目に映った世界が描かれていたのです。
「魔女の宅急便」は、少女の成長物語です。
これらの作品と比べると、「君たちはどう生きるか」は一筋縄ではいかない作品で、「これがテーマだ」ということが単純にいえません。観る人によっていろいろな解釈ができます。
鈴木プロデューサーも宣伝のやりようがなかったということかもしれません。


私自身はというと、観終わって感動しました。
私は宮崎監督のアニメをずっと観てきて、宮崎監督が引退を撤回してまで撮ったのはなぜかと考え、「これがテーマだ」ということを自分なりに推測しました。その推測に基づいて感動したわけです。

その推測を書いてみますが、あくまで私の推測ですから、そういう解釈もあるのかと思って読んでいただければ幸いです。
影響されやすい人にとってはネタバレと同じことになるので、映画を観てから読んだほうがいいかもしれません。
ただ、私の推測を頭に置いて観たほうがおもしろく観れるのではないかとも思っています。



宮崎監督の「君たちはどう生きるか」はオリジナルのストーリーですが、宮崎監督は吉野源三郎の小説を読んで感動して、そのタイトルを借りたということなので、小説の影響はあるはずです。いや、ストーリーは違ってもテーマは同じと見ることができます。

吉野源三郎の小説が書かれた1937年は盧溝橋事件で日中戦争が本格化した年です。そういう時代にあらがうために科学や学問を学ぶことの重要性を説いた小説ということができます。ちなみに主人公の少年のあだ名は「コペル君」で、もちろんコペルニクスからきています。
宮崎監督のアニメも戦争を背景にしています。もうすぐ原爆を落とされて敗戦になるという時期ですから、観客は「戦争」を強く意識せざるを得ません。

宮崎監督は「戦争」を強く意識する作品をいくつもつくってきました。
アニメの「風の谷のナウシカ」は、最後にナウシカが奇跡を起こして戦争を止めます。マンガ版の「ナウシカ」とはまったく違う物語になっていて、宮崎監督はこのハッピーエンドが気にいらなかったそうです。それは当然で、奇跡によってしか戦争を止められないなら、現実の戦争を止めるすべはないことになります。
「紅の豚」は、戦争を止めることは諦めて、豚になって戦争から逃避している男の物語です。
「風立ちぬ」は、ゼロ戦を設計することでむしろ戦争に協力した男の物語です。

宮崎監督はもちろん反戦の立場です。
しかし、最後まで戦争を止める道を示すことはできませんでした。
それが心残りで、引退を撤回して「君たちはどう生きるか」を撮ったのではないかと思いました。

吉野源三郎の小説が書かれた時代は、科学の力や優れた知性によって戦争が止められるという期待が高まっていました。
1932年、国際連盟はアインシュタインに対して、「誰でも好きな人を選び、今の文明でもっともたいせつと思われる問題についてその人と意見を交換してほしい」と依頼しました。アインシュタインはフロイトを指名して、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマについて意見交換をしました(この内容は『人はなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫)で読めます)。

フロイトはアインシュタインとともに当代最高の知性と目されていました。
フロイトの代表作『精神分析入門』はわが国では1926年に翻訳出版されましたが、その中でフロイトは「人類は素朴な自己愛が三度侮辱を受けた」と書いています。一度目はコペルニクスの地動説によって地球は宇宙の中心ではないと知ったとき、二度目はダーウィンの進化論によって人間は特別に創造されたものではないと知ったとき、三度目はみずからの心理学による無意識の発見によって自我は自分自身の主人ではないと知ったときであるというのです。
フロイトは自分の心理学を天文学や生物学と同じ科学と見なしていたのです。

『精神分析入門』を翻訳した安田徳太郎は、1952年の改訳版の「訳者よりはじめに」でこのように書いています。

この『精神分析入門』は日本における最初のフロイト本の紹介であった。私の翻訳をとおして、日本でもフロイトの名前はいっぱんに有名になったが、日本の医学者はフロイトの原文を一ページも読まないくせに、さっそくフロイト征伐に乗り出し、私もそのまきぞえで、マルクスとフロイトがたたって、とうとう七年目に官学からたたき出された。ゲンコツが私へのほうびであった。それほどマルクスとフロイトの名前は日本の官学のお気にめさなかったのである。いっぽうフロイトはアインシュタインといっしょにドイツで反戦運動をやったために、ヒトラーからこれもゲンコツをくらって、イギリスに亡命し、そのごまもなく八十三歳の高齢で死んでしまった。こういうように、どこの国でも学問の道はじつにけわしかった。
(中略)
おわりに、今や歴史的名著になったこの本が十九世紀の偉大な学問的成果としてのダーウィンの『種の起源』とマルクスの『資本論』とともに、日本の青年男女のあいだにもひろく読まれて、人間の心理行動にたいして科学的な興味が高まることを希望してやまない。

この文章から吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が書かれた時代背景がわかるでしょう。
科学や学問や知性によって戦争や貧富の差などの社会問題はやがて解決されるということが信じられていたのです。
宮崎監督は『君たちはどう生きるか』を読んだときに、その点に共感し、希望を持ったのでしょう。

しかし、現実はそうなりませんでした。
マルクス主義もフロイト心理学も過去の遺物になり、世界平和の実現は夢物語と化しました。
なぜそうなったかというと、ダーウィンが『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』において、人間に進化論を適用するのに失敗したからです。
それ以降、進化論には社会ダーウィン主義、優生思想、人種差別がついて回るようになり、人間に進化論を適用して論じることはタブーとなりました(ダーウィンがなにを間違ったのかについては「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています)。

進化論から見れば、人間の戦争は動物の生存闘争の延長線上に位置づけられます。生存のために戦争をするのに、戦争によって生存が脅かされるという矛盾した事態が生じています。これは戦争の目的を「正義」や「自由」や「民主主義」で粉飾しているからです。
したがって、ダーウィンの間違いを正し、戦争を生存闘争の一環と見なせば、戦争を止めることは十分に可能です。


宮崎監督の前作の「風立ちぬ」は、東日本大震災の2年後の公開でしたが、関東大震災のシーンから始まります。ストーリーは前からできていたので偶然の一致ですが、まるで震災を予見していたようだと話題になりました。
「君たちはどう生きるか」はウクライナ戦争のさ中に公開になりました。
これも偶然の一致ですが、戦争について危機感を持っていた宮崎監督の判断が正しかったといえるかもしれません。

宮崎監督が「君たちはどう生きるか」で訴えたかったのは、人間の知性によって戦争を止めることは可能だということです。
もっとも、その実現は次の世代に託されました。
ですから、これは「君たちはどう戦争を止めるか」という宮崎監督の問いかけでもあります。

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6月29日に18歳の女子大生冨永紗菜さんが殺された事件で、逮捕された22歳の伊藤龍稀容疑者と紗菜さんは最終的に交際していたと警察が見なしたため、ストーカー規制法の対象にはなりませんでした。私もこれはデートDVであるとして前回の記事を書きました。
しかし、二人の間には何度も別れ話が出て、伊藤容疑者は紗菜さんに「別れるなら殺す」と脅していました。そして、犯行の少し前に紗菜さんから別れを告げられ、「よりを戻したかったが、説得できなかった」という理由で紗菜さんを包丁で刺して殺害しました。
伊藤容疑者は
別れを告げられても紗菜さんにつきまとったのですから、これはストーカー事件でもあります。
そこで今回は、ストーカー事件という角度から書いてみます。

それにしても、相手を殺してしまえばもういっしょになることはできませんし、自分は最低でも十数年の刑期を食らうことになるのですから、まったく不合理な殺人です。
こういうストーカーの心理はどうなっているのでしょうか。


昔、「ストーカー」という言葉がないころは「恋愛妄想」などと言われていました。コミュニケーション能力に欠けた人間が、自分は相手と恋愛関係にあるという妄想を勝手にふくらませるというイメージです。今もこれに近いものが多いでしょう。

しかし、伊藤容疑者はそんなにコミュニケーション能力がないわけではありません。
集英社オンラインの【横浜・女子大生刺殺】「女にフラれると『自殺する』とLINEに」…親友が語った伊藤龍稀容疑者(22)の素顔と複雑な家庭環境「親に冷たくされ家出、仕事を転々として蒲田の飲食店で出会ったのが紗菜ちゃんでした」という記事から引用します。

偏執的な犯行に及んだ伊藤容疑者とは、どんな人物なのか。横浜市内の中学校で同級生だった男性は、こう当時を振り返った。

「龍稀は中学2年の初めくらいに転校してきました。栃木県の方から引っ越してきたはずです。部活動は複数掛け持ちしていたような気がするけど、サッカーに本腰を入れていました。運動神経はかなりよくてサッカーも上手で、ポジションはキーパーだったと思います。
外交的で誰とでも仲よくなるタイプで、少年院に入っちゃうような子とも仲がよかったんですよ。本人は全く悪いことはしてなくて、いいヤツすぎるぐらいだったんですけどね。だから校内では結構な人気者でした。マジックに凝ってるときもあって、何かの集まりで校長先生たちにマジックを披露して大盛り上がりしたこともありました」

しかし、伊藤容疑者は高校を中退し、いつのまにか「ヤンチャ」になっていたといいます。

「横浜でたまたま見かけたんですよ。黒服の格好して夜のお店のキャッチをしてました。髪型も横を刈り上げて前髪は上げて、ヒゲも生やしてて、中学時代と見た目が全然違うから、『あー、グレちゃったんだ』って思いました。そこにきて今回の事件、犯人がまさか龍稀だとは思わなかったんで、正直鳥肌が立ちました。どこでそんなに人が変わっちゃったんですかね」

伊藤容疑者は風俗店などの夜の世界に入ったようですが、一人で妄想をふくらませるタイプとは思えません。


私はストーカー規制法が制定されるきっかけとなった1999年の桶川ストーカー殺人事件を連想しました。
これは大学2年の猪野詩織さんが交際相手の兄や仲間に殺された事件で、猪野さんは交際中に殺される恐怖を感じて何度も警察に相談しましたが、警察はまともな対応をしませんでした。猪野さんが殺されたあとは、猪野さんは風俗嬢だったという誤った情報をマスコミに流すなどし、警察において3人の懲戒免職を含む15人の処分者を出すことになりました。
猪野さんの交際相手の男は6、7店の風俗店を経営するというやり手で、兄や仲間が猪野さん殺しを実行したことからもわかるように(本人は手を下さず)、仲間と強い絆を持っていたようです。

伊藤容疑者も桶川事件の交際相手も、コミュニケーション能力のない妄想型のストーカーではありません。妄想型は警察が介入すれば妄想から覚めて、多くは犯罪には至らないのではないでしょうか。


伊藤容疑者も桶川事件の交際相手も、強い男、男らしい男です。
男らしさを誇示することをマチズモといいますが、裏社会で生き抜いていくにはマチズモが有効なのでしょう。

こうした男は「強い」と見えますが、人間の強さには二種類あるので、区別しないといけません。
わかりやすくいうと、ひとつは「人当たりの強さ」で、もうひとつは「芯の強さ」です。
「人当たりの強さ」は文字通りそういうことですが、「芯の強さ」とは危機に瀕したときに心が持ちこたえる強さです。
このふたつは別物なので、両方ある人、両方ない人、片方だけある人とさまざまですが、「人当たりの強さ」がある人は「芯の強さ」もあるように誤解しがちなので、そこは注意が必要です。


伊藤容疑者は紗菜さんとつきあいました。男らしさを誇示し、コミュニケーション能力を駆使したのかと思われますが、やがて振られそうになります。
好きな相手から振られるのは誰でもつらいもので、ここで「芯の強さ」が試されます。

振られそうになると、普通は下手に出て、「悪いところは改めるから、別れないでくれ」などと頼むところですが、マチズモの男は女に弱みを見せられないので、逆に相手を脅かすようです。
もちろん脅かして愛を取り戻すことはできません。

相手の気持ちが変わらないとわかれば、現実を受け入れるしかありません。
ところが、伊藤容疑者はどうしても現実を受け入れることができなかったようです。
紗菜さんに振られることは、人生のすべてを失うのと同じと思えたのでしょう。
そのため紗菜さんを殺して、自分は殺人犯になりました。

ちなみに桶川ストーカー事件で猪野さんとつきあっていた男は、仲間に猪野さんを殺害するよう指示して、自分は自殺しています。

これらの男には、表面的な強さと、一人の女に振られるのに耐えられない心の弱さが同居していたのです。


少し気になる異性をデートに誘って断られると、それだけでけっこう傷つきます。
強く惚れた相手に振られると、もっと傷つきます。
しかし、普通の人はそれを乗り越えていきます。
乗り越えていけない人の心理はどうなっているのでしょうか。


失恋した人は中島みゆきさんの歌を聞くといやされるといいます。
失恋から立ち直る心理を、中島みゆきさんの歌詞から探ってみます。

「途(みち)に倒れてだれかの名を呼び続けたことがありますか」で始まる「わかれうた」は、恋人に振られた心情をこのように歌っています。
恋の終わりは いつもいつも
立ち去る者だけが うつくしい
残されて 戸惑う者たちは
追いかけて 焦がれて 泣き狂う

これは主に相手を失うことの苦しみをいっています。
失恋の苦しみはもうひとつあって、それは自分は愛される価値のない人間ではないかという苦しみです。「化粧」の中でこう歌われています。

バカだね バカだね バカだね あたし
愛してほしいと 思ってたなんて
バカだね バカだね バカのくせに
愛してもらえるつもりでいたなんて

自分は愛される価値のない人間ではないかという認識は、人生で最大級の苦しみです。もしそれが正しいなら自分は一生愛されないからです。
おそらく伊藤容疑者はこの壁を越えられなかったのでしょう。

普通は次の段階へと進みます。そのときの心情は「あばよ」ではこう歌われます。
明日も今日も留守なんて
みえすく手口使われるほど
嫌われたならしょうがない
笑ってあばよと気取ってみるさ
泣かないで泣かないであたしの恋心
あの人はあの人はおまえに似合わない
自分が愛されなかったのは、自分に愛される価値がないからではなく、単に相性が悪かったからだという認識になっています。
そして、相手への執着が薄れるとともに、自己肯定になります。「かもめはかもめ」でこう歌われます。

あきらめました あなたのことは
もう 電話も かけない
あなたの側に 誰がいても
うらやむだけ かなしい

かもめはかもめ
孔雀や鳩や
ましてや 女には なれない
あなたの望む 素直な女には
はじめから なれない

青空を 渡るよりも
見たい夢は あるけれど
かもめはかもめ ひとりで空を
ゆくのがお似合い

自己肯定というのは、決して「自分はすごい」という認識ではありません。自分がすごいかすごくないかは関係ないことです。

自己肯定感というのはどうすれば持てるのでしょうか。
何人かの異性に愛されれば持てるでしょうが、一人目で振られたらどうすればいいのでしょう。
そのヒントも中島みゆきさんの歌の中にあります。
次は「ホームにて」の冒頭です。

ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
走りだせば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる

ふるさとは幸せのイメージで描かれています。

淋しい死に方をしたらしいエレーンという異国の女性を歌った「エレーン」には、こういう歌詞があります。
みんなおまえを忘れて忘れようとして幾月流れて
突然なにも知らぬ子供が
ひき出しの裏からなにかを見つける

それはおまえの生まれた国の金に替えたわずかなあぶく銭
その時 口をきかぬおまえの淋しさが
突然私にも聞こえる
淋しいエレーンも、ふるさとをよりどころにしていたのかもしれませんが、ふるさととのつながりがあまりにもかすかなので、いっそう淋しさが際立ちます。
(歌詞はいずれもUta-Netより引用)

多くの人は、ふるさとの記憶をよりどころにします。ふるさとではたいてい幸せだったからです。そして、その幸せのかなりの部分は親に愛されていたことによっています。
つまりたいていの人間は、親に愛されて自己肯定感を持っているので、異性に振られても一時的に落ち込むだけで、やがて立ち直ります。
逆にいうと、親に愛されなかった人間は、異性に振られるとなかなか立ち直れません。

伊藤容疑者は果たして親から愛されていたでしょうか。
集英社オンラインの記事にはこう書かれています。

伊藤容疑者は複雑な家庭環境で育ったようだ。親友が続ける。

「ハルキの家は中学のころから母子家庭でした。宇都宮の方から引っ越してきた時にはもう母親だけで、妹と弟のほかに一時期不良っぽい感じの義理の父親という人もいました。
ハルキは中学時代から『家にいたくない』『親といたくない』という理由で週に2〜3回は家を飛び出しては近くの公園に寝泊まりしてました。それで警察沙汰になり、余計に母親から冷たくされていたんです」

お調子者だが暴力的ではなく、友達同士でケンカになるとビビって謝る。また、プチ家出を繰り返して騒ぎになることもあった。高校に進学後もこうした状況は変わらなかったという。

「あいつは17歳で高校を中退したんですけど、ちょうどそのくらいの時期に母親が山形に引っ越すことになったんです。弟と妹は連れられていきましたが、あいつは置いていかれました。母親は再婚していたので、その関係かもしれませんが、詳しい理由はわかりません。あいつはそれから一度、山形に行って、『母親に冷たくされた』と帰ってきたことがありました。親から愛されてない感じはしましたね」

高校を中退し、ひとり取り残された伊藤容疑者は夜の街に生計を立てる術を見出した。
この記事を見る限り、ほとんど親から愛されていなかったようです。
高校を中退して夜の街に入ったのも、親からネグレクトされたからと思われます。

紗菜さんとつきあって、愛されていると感じたときは有頂天になったでしょう。
それだけに、その愛を失いそうになったときの絶望も深かったと思われます。

昨年1年間に警察がストーカー規制法違反で摘発した件数は1028件で、過去最多を更新しました。
しかし、ストーカーの動機はほとんど解明されていません。
ネットで「ストーカーの心理」を検索しても、表面的にストーカーのタイプを分類しているようなものが目につくだけです。

ストーキングは愛の病です。
犯罪対策をするには愛の理解が不可欠です。

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横浜市鶴見区で6月29日、18歳の女子大学生冨永紗菜さんが包丁で刺されて死亡し、自首してきた22歳の自称会社員伊藤龍稀容疑者が逮捕されました。

富永さんと伊藤容疑者は交際歴があり、交際期間中に4度も警察に通報がありました。富永さんは警察官に「別れ話で首を絞められた」とか「別れるなら殺すと言われた」と言ったということです。
しかし、富永さんは「仲直りしたから大丈夫」と言ったので、警察はストーカー規制法に基づく禁止命令を出すなどの対応はとりませんでした。

この事件は最初、「ストーカーに殺された」といった報道もありましたが、二人は最終的に交際していたようなのでストーカーではないとされ、ストーカー規制法を適用することはできません。
ストーカー事案でなければなにかというと、デートDV(恋人間暴力)です。

2001年に配偶者暴力防止法(DV防止法)が制定されましたが、この法律はあくまで夫婦関係に適用されるものですから、デートDVには適用されません。
これでは不十分だということで、2013年に法律が改正され、「同居中またはかつて同居していた交際相手」にも適用されることになりました。
しかし、富永さんと伊藤容疑者は同居していたことはないようですから、やはりDV防止法は適用されません。

せっかくストーカー規制法とDV防止法をつくったのに、穴が空いていました。
法律の制定に問題があります。

警察の対応も問題です。
首を絞められたとか馬乗りになって顔面を殴られたとかの暴力があり、「別れるなら殺す」という脅迫もありましたから、普通の刑法で対応できそうなものです。
とりわけ「別れるなら殺す」と脅されている人間が「仲直りした」と言った場合、それは脅しに屈したのではないかと疑うのが普通です。
警察は被害者よりもDV男寄りです。

警察だけでなく司法組織全体にその傾向があります。
日本では刑事事件の有罪率は99.9%などといわれますが、性暴力に限ってはよく無罪判決が出ます。
判決理由は「許容していると誤認した」とか「わかる形で抵抗していない」とか「拒絶不能と認めるには疑いが残る」といったものです。
つまりレイプを犯罪として処罰するには、被害者側が「同意していないこと」と「暴行や脅迫によって抵抗できない状態だったこと」を立証しなければならないのです。
現実には恐怖で抵抗できないことがよくあり、そういう場合は男が誤認したのもやむをえないということで無罪になってしまいます。
裁判所の論理はレイプ男の身勝手な理屈と同じです。

法律をつくる人間も警察司法組織の人間もほとんど男なので、こういうことになってしまいます。


それから、「自立した個人」神話ともいうべきものがあります。
人間は成人すれば誰でも自立するものだという考え方です。
これは男の論理とはいえませんが、強者の論理なので、似たようなものです。

自立した人間なら、自分より強い人間に暴力をふるわれた場合、逃げ出すなり警察に助けを求めるなりの、なんらかの対応をするはずです。もしなにもせずに暴力をふるわれていたら、それは暴力を受け入れているということです。
こういう理屈でDV(家庭内暴力)は容認されてきました。
これが「自立した個人」神話です。

実際には成人しても自立していない人はいっぱいいます。
ひとつは、自分の力では生活費を稼げない女性、つまり経済的に自立していない女性です。
そういう女性は夫から暴力をふるわれても受け入れるしかありません。
DV防止法が制定された背景には、経済的自立のできていない女性の存在が認識されてきたということがありました。

しかし、人間の自立は「経済的自立」ばかりではありません。
「心理的自立」もあります。
心理的自立ができていない人は、恋人に依存して、暴力をふるわれても逃げられないことがあります。
こうしたことの理解はまだまだです。
そのためデートDVが法律の網から抜け落ちてしまいました。


ただ、「心理的自立」というのは理解しにくいかもしれません。
それは「自立」を中心に考えるからです。「依存」を中心に考えればよくわかります。

生まれたばかりの赤ん坊は、親に全面的に依存しています。
成長するとともに依存の対象が友だちや幼稚園や学校などに広がっていきます。
就職して自分の生活費を稼げるようになると「経済的自立」を達成したとされ、親からも自立したと見なされますが、実際は会社という新しい依存先ができたわけです。

社会性動物の人間はつねに周りの人間に依存しています。どこまでいっても「自立」はしません。
ただ、同じ依存するにしても、よい依存のしかたと悪い依存のしかたがあります。
いちばん悪いのは、絶対的な依存先を持つことです。そうすると、そこからどんな仕打ちをされても受け入れるしかなくなります。
その会社をクビになると生活していけないという人は、上司からひどいパワハラをされても受け入れるしかありません。
これは夫からひどいDVをされても受け入れる妻と同じです。
その会社をクビになってもたいして困らないとか、配偶者と別れてもやっていけるという人は、つねに心に余裕がありますし、ひどい目にあわされることもありません。
依存先は多くあるほど有利です。

「自立」を人生の目標にしても、雲をつかむような話です。
「適切な依存先を持つ」を目標にすれば、具体的に進んでいけるのではないでしょうか。


ただ、ひとつ困ったことがあります。
幼児期は親に絶対的に依存しているので、親から虐待されても受け入れるしかないことです。
幼児虐待の体験はトラウマとなって、のちの人生に影響します。
虐待された人間は、親に十分に依存できなかったので、なにか代わるものに依存しがちです。アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存などです。
恋愛相手に依存することもあります。恋愛相手に依存すると、相手から暴力をふるわれてもなかなか別れられません。そうしてデートDVが起こります。


では、DV男はどういう心理でDVをするのでしょうか。
この理由は単純です。自分が幼児期に親から暴力をふるわれていたからです。
親から虐待された子どもは自分が親になると子どもを虐待することがあり、「虐待の連鎖」と呼ばれますが、自分の子どもだけでなく、恋人や配偶者にも暴力をふるうのです。
いわば「虐待の連鎖の寄り道」です。

親子関係は人間関係の基本なので、恋愛関係にも影響を与えるのは当然です。
愛する相手についついモラハラや束縛など相手のいやがることをしてしまうという人は、自分の親子関係を振り返るといいかもしれません。


「自立した個人」という幻想を捨てて、人間は誰もが依存して生きているということを認識すれば、幼児虐待、配偶者間DV、デートDVなどの厄介な問題もはっきりととらえられるようになります。

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自転車に乗った女性が前を歩いていた歩行者にベルを鳴らしたところ、歩行者の男性が激怒し、女性と言い争いになりました。
女性がその様子を動画に撮ってツイッターにアップすると、どちらが悪いかと大論争になりました。

出来事のいきさつを「SNSで論争 中高年男性がブチ切れ!自転車ベル問題 精神科医がトラブル回避策指南」という記事から引用します。

SNSで拡散されている動画の内容はこうだ。女性が自転車で2歳の子供を病院に連れていく路上で、注意喚起のため歩行者の中高年とみられる男性にベルを鳴らした。すると、男性は自転車を止めさせ、「通りますって言えばいいじゃん。声出して! 違うんか、おいー」と怒鳴り、自転車のカゴにつかみかかり、子供が号泣してしまったのだ。
 女性は「通りますよってことで(ベルを1度)鳴らしただけじゃないですか」と言い、男性はさらに激怒。女性は「(子供が)泣いちゃったじゃないですか」と言い返し、男性は「警察呼べよ」と大声で叫ぶなど修羅場となっていた。

 この動画にツイッターユーザーは「ベルを鳴らすのはよくない」「男性の顔をさらすのはよくない」「子供を守るなら、受け流して去った方がいい」などの意見もある。

ツイッターの動画は削除されていますが、YouTubeにアップされたものはあります。



男性は自転車のカゴをつかんで動けないようにして、女性をどなりつけています。
それに対して女性は「恫喝ですか。脅しですよね」「どうしてくれるんですか。(子どもが)泣いちゃったじゃないですか」と激しく言い返しています。


まずひとついえるのは、歩行者に対してベルを鳴らしてはいけないということです。道路交通法第54条の「警音器の使用」にも、そのような鳴らし方は認められていません。

自転車と歩行者では歩行者優先ですから、歩行者が自転車の通行の妨げになっても、自転車は歩行者のあとをついていき、機会を見て追い越すしかありません。
「すみません」と歩行者に声をかけて追い越せばいいという意見もありますが、これも歩行者優先に反するので、好ましくありません。

ということで、ベルを鳴らした女性が悪いということがいえます。
しかし、鳴らされた男性の態度もよくありません。自転車のカゴをつかんで動けないようにして怒鳴るのは、かなり悪質です。普通の女性なら恐怖で身がすくむでしょう。

そういうことから、「どちらも悪い」ということもいえますが、双方の悪さはレベルが違います。

ベルを鳴らしたことが原因だから「女性のほうが悪い」という意見もありますが、歩行者にベルを鳴らしたのは交通ルールや交通マナーを知らないからです。そこに悪意はありません(30年ぐらい前は自転車がベルを鳴らしながら歩行者を押しのけて走るのは普通の光景でした)。
一方、男性が怒鳴るのは、女性を傷つけてやろうという悪意があります。
男性は女性の交通ルール違反をとがめるという「正義」を名目にしているので、これはモラハラということになります。
もしこの男性が会社の上司で、その立場を利用していればパワハラということになります。
こういうモラハラ男、パワハラ男が自分の家庭や会社にいればどうかと考えてみればわかります。


モラハラ、パワハラというのは、強者と弱者の関係で成立します。
弱者は抵抗できません。
しかし、この女性は腕力では勝てないので、モラハラの証拠を撮って、SNSに上げるという手段に出ました。
弱者の対抗手段としては、これしかないというやり方です。
会社でパワハラにあったときも、弱者はその場では反撃できませんから、会話を録音するなどして証拠を残しておくことがたいせつです。
モラハラ、パワハラを退治するには、客観的な証拠を公にさらすというやり方いちばんです。
男性の顔をさらしたのはよくないという声がありますが、男性は正義の主張をしているつもりですから、顔をさらされても文句はないはずです。


ところが、モラハラの客観的な証拠があるにも関わらず、女性のほうに非難が集中しました。
これは日本ならではの現象というしかありません。

世界経済フォーラムが発表した2023年版のジェンダーギャップ指数において、日本は146カ国中125位でした。
ジェンダーギャップ後進国の日本では、男性が女性にモラハラをするというのは日常ですが、「女性が男性に反撃する」というのはめったにないことです。
このような反撃が次々に起こると男性優位が崩れますから、男性は集中的にこの女性を攻撃して反撃の芽をつんだわけです。
その結果、女性はツイッターのアカウントを消して“逃亡”しました。

もしこの女性が弱くて、怒鳴られて泣き出していたら、女性に同情が集まり、男性に非難が集中するという展開がありえたでしょう。
しかし、それでは世の中は変わりません。
男性と対等にやり合う女性が世の中を変えるのです。


交通ルールを知らなくてベルを鳴らしたことと、自転車を動けなくして女性を大声でどなり続けるモラハラ行為と、どちらが悪いかは明白です。

中には女性に対して「子どもに危害が及ぶかもしれないから、こういう場合は早く謝って逃げたほうがいい」と助言する人もいますが、これは女性に痴漢対策を助言するのと同じです。
こうした助言では痴漢もモラハラ男も野放しです。
モラハラ男とは戦わねばなりません。

女性がSNSにモラハラの証拠動画を上げたのに、女性が負けてモラハラ男が勝ったのでは「石が流れて木の葉が沈む」と同じです。
これが前例になってはいけません。

モラハラ、パワハラを退治するために、証拠の動画や音声をSNSに上げるというやり方がどんどん行われるべきです。

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岐阜県銃乱射の18歳自衛官候補生、長野県立てこもり4人殺害の青木政憲容疑者、安倍元首相暗殺の山上徹也被告、この3人をつなぐ一本の糸は「自衛隊入隊経験」です。

現役の自衛隊員が射撃訓練中に小銃を乱射するというのはショッキングな出来事ですが、それにしても、テレビのコメンテーターが「自衛隊は人の命を救う仕事なのにこんなことが起こって残念」と言っていたのにはあきれました。
自衛隊は災害時などに人命救助活動をしますが、これは“副業”です。“本業”はあくまで戦争で人を殺すことです。
まともな人間はなんの恨みもない人間を殺すことはできません。ですから、軍隊の訓練は兵隊をまともでない人間にすることです。
そのためどこの国の軍隊も、新兵訓練にはパワハラ、暴力が横行するものです。自衛隊が例外であるはずはありません。

自衛隊の非人間的な訓練が18歳自衛官候補生に銃乱射事件を起こさせた――というのはわかりやすい説明ですが、実際には今年の4月に入隊してわずか2か月ほどしか訓練を受けていないので、この説明にはむりがあります。

長野県立てこもり4人射殺事件の青木政憲容疑者は、大学中退後、父親に半ばむりやり自衛隊に入隊させられたようです。しかし、2、3か月後に除隊しているので、これも自衛隊の訓練の影響はほとんどなさそうです。

安倍元首相暗殺の山上徹也被告は1999年に高校卒業後、専門学校に入学するも中退、2002年に海上自衛隊に入隊し、3年間勤務します。
二十歳そこそこの若者にとって3年間勤務の影響は小さくないと思われますが、事件を起こすのは20年近くたってからですから、やはり自衛隊勤務と事件を結びつけるのはむりがあります。
ただ、自衛隊で銃器を扱った経験が手製銃づくりを思いつかせたということはあるでしょう。


これらの事件と自衛隊入隊は直接結びつきません。
しかし、自衛隊に入隊しようとした動機と事件は関係あるかもしれません。

長野県の青木政憲容疑者は父親から半ばむりやり自衛隊に入隊させられたというので、本人に入隊の動機はないことになりますが、安倍元首相暗殺の山上徹也被告の動機はかなり明白です。
山上被告の母親は統一教会に入信して多額の寄付を行ったことで家庭崩壊し、父親と兄は自殺しています。
山上被告は崩壊家庭から逃げ出すために自衛隊に入ったのです。

近所の会社に就職したのでは家庭から逃げ出したことになりませんが、自衛隊員になれば一般社会から切り離されます。
それに、自衛隊員の生活は駐屯地の隊舎や艦内などでの共同生活なので、山上被告はそこに家庭の代わりを求めたのかもしれません。

銃乱射の18歳自衛官は、幼くして児童養護施設に預けられ、幼稚園と小学校は施設から通いました。その後、親元で生活するようになりますが、中学の後半は児童心理養育施設に入ります。高校に進学してからは、複数の里親のもとを転々としたということです。
つまり彼は親からネグレクトされて、まともな家庭生活というものをほとんど知らないのです。
高校卒業後、すぐに自衛隊に入ったのも、そこに家庭の代わりを求めたのではないでしょうか。


私がこうしたことを考えるようになったきっかけは、池田小事件の宅間守元死刑囚(死刑執行ずみ)の生い立ちを知ったことです。
宅間守は父親からひどい虐待を受け、母親は家事、育児が苦手で、ほとんどネグレクトされ、母親は結果的に精神を病んで長く精神病院で暮らし、兄は40代後半のころに自殺しています。
宅間守は小学生のころから自衛隊に強い関心を持っていて、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたこともあり、高校生になると同級生に「俺は自衛隊に入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったそうです。
そして高校退学後、18歳で航空自衛隊に入隊しますが、1年余りで除隊させられます。「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたということです。
宅間守の場合、自衛隊は明らかに崩壊家庭からの脱出先です。
自衛隊で自分を鍛えて強くなりたいという思いもあったでしょう。
池田小事件を起こしたのは47歳のときなので、30年近くも前の自衛隊入隊の経歴は誰も問題にしませんでしたが、私は崩壊家庭からの脱出先に自衛隊が選ばれるケースがあるということで印象に残りました。

山上徹也被告の経歴を見たとき、宅間守と同じだと思いました。
銃乱射の18歳自衛官候補生もまったく同じです。

自衛隊入隊と凶悪犯罪が結びつくわけではありません。
家庭崩壊と凶悪犯罪が結びつき、その間に自衛隊入隊がはさまる場合があるということです。

崩壊家庭で育ったからといって凶悪犯罪をするわけではありませんが、凶悪犯罪をする人間はほとんどの場合、崩壊家庭で育って、親から虐待されています。
とりわけ動機不明の犯罪、不可解な動機の犯罪はすべて崩壊家庭とつながっているといっても過言ではありません。


崩壊家庭の子どもは家庭から逃げ出して、不良になったり、援助交際をしたりします。
最近話題の「トー横キッズ」もそうした子どもたちです(名古屋には「ドン横キッズ」、大阪には「グリ下キッズ」がいます)。
こうした子どもたちについては、犯罪をしたり犯罪に巻き込まれたりということばかりが話題になりますが、そのもとに崩壊家庭があるということはまったく無視されています。

凶悪犯罪についても同じです。
根本的な原因は崩壊家庭、幼児虐待にあります。


崩壊家庭の問題が認識されるのは、子どもが虐待されて死ぬか大けがをした場合だけです。
その前に子どもを助けなければならないのですが、誰もが見て見ぬふりをするので、なかなか助けられません。

崩壊家庭を本来の健全な家庭にすることは最大の社会改革です。

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