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「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。