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日本経済を停滞から救い出すためには、即効性のある方法としては、防衛費を大幅に削減してその分を文教科学振興費に回すしかなく、長期的な戦略としては、教育改革をして学校に自由、人権、民主主義をもたらすことだと述べてきました。
しかし、最善の方策をとっても、もはや日本はたいして経済成長しないかもしれませんし、地球環境のために日本のような先進国は経済成長するべきではないという考えもあります。
経済成長しなくても幸せになる方法も考えなければなりません。


私が子どものころ、「狭いながらも楽しい我が家」ということがよく言われました。
この言葉は、当時エノケンこと榎本健一が歌ってヒットした「私の青空」という歌の一節です。
大きな家に住む金持ちは、見かけは幸せそうでも、虚栄心が強くて愛情の少ない家庭かもしれない。貧しくても愛情豊かな家庭が幸せなのだということを、「狭いながらも楽しい我が家」という言葉を使って言ったのです。

金持ちでも愛情豊かという家庭もありますから、貧乏人の負け惜しみと言われてもしかたありません。
しかし、「貧しくとも愛情ある家庭があれば幸せ」というのは、そんなに間違っていないでしょう。
もちろんお金も愛情もあればいいわけですが、お金がなければ愛情だけでもほしいものです。

経済大国がだめなら「愛情大国」というわけです。

ブータンはGDPでなくGNH(国民総幸福量)を目指す国として注目されましたが、それと同じようなものです。

もっとも、愛情や愛というのは、小説、映画、音楽の中には氾濫していますが、政治や社会を論じるときに語られることはありません。
政治の世界で愛が語られたのは、鳩山由紀夫首相の「友愛」ぐらいではないでしょうか。

なぜ愛が語られないかというと、「愛のムチ」などという言葉があって、愛と暴力の区別もつかない人がいるからです。
「愛国心」という言葉もあります。愛国心というのは、外国への敵愾心をあおって国内の結束を固めるために使われる言葉で、愛とは無縁です。郷土愛や人類愛と比べると、愛国心が異質であることがわかります。
しかし、愛国心と愛の区別がつかない人がいるので、政治の世界で愛は語れませんでした。

しかし、今は孤独担当大臣が存在しています(イギリスのパクリですが)。孤独は愛情の欠如した状態と見ることもできるので、すでに政治は愛情に関わってきています。
ですから、孤独担当相を愛情担当相に変えればいいだけのことで、これはすぐにでもできます。


愛情は家庭の中で再生産されます。
仲のよい夫婦のもとで愛情を受けて育った子どもは、おとなになると仲のよい夫婦になり、愛情を持って子どもを育てます。つまり愛情の連鎖です。
DVの夫婦のもとで虐待されて育った子どもは、おとなになるとやはりDVの夫婦になり、子どもを虐待して育てます。つまり暴力の連鎖です。
ですから、暴力のある家庭を愛情のある家庭に変換していけばいいわけです。

どうすればいいかというと、とりあえず愛情も暴力も世代連鎖するという知識を世の中に広めることです。
それだけで自分がなぜ暴力をふるうかということがわかり、みずから改める人もいるでしょうし、相手の暴力の原因がわかり、適切に対処できるようになる人もいるでしょう。
カウンセリングを奨励し、その窓口をふやすことも必要です。

これに対して、「国家が家庭の中に介入するのか」という反対意見があるかもしれません。
しかし、厚労省はすでに子育てのやり方で家庭の中に介入しています。

厚労省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」と称して、子どもへの体罰や暴言は脳の萎縮・変形を招くとして体罰や暴言を禁止するキャンペーンを展開しています。
厚労省が公式にキャンペーンをしている影響は大きくて、最近は体罰肯定論はまったく聞かなくなりました。また、私の印象ですが、以前はスーパーなどで子どもを大声で叱っている母親がよくいたものですが、最近はまったくといっていいほど見かけません。
ですから、同様に夫婦間の暴力・暴言の禁止キャンペーンをやれば、かなり効果があるはずです。

暴力・暴言がなくなったとしても、それだけで愛情のある家庭になるわけではありませんが、近づいたとはいえます。


今は愛情と暴力の世代連鎖について述べたわけですが、世代連鎖のほかに「社会連鎖」というのもあります。
「社会連鎖」というのは私の造語ですが、内容はありふれたことです。
たとえば、父親が会社で上司から理不尽な怒られ方をして、内心不満をかかえたまま帰宅したとき、その不満を解消するため、妻や子どもに向かって理不尽な怒りをぶつけるといったことです。
あるいは、母親がママ友からバカにされ、劣等感を味わったとき、家に帰って子どもをバカにして劣等感を味わわせるというのもあります。
つまり「当たる」とか「八つ当たり」という行為です。関係ない人間に当たるのはおかしいといっても、この心理は誰にでもあります。プロ野球の監督は選手が失策したときなどベンチやロッカーを蹴って当たっています。
強い者が弱い者をいじめ、弱い者はさらに弱い者をいじめるというのが「社会連鎖」です。

幼児虐待は、自分の子ども以外にいじめる者がいないという社会連鎖の最下層において発生しがちです。
そして、一度発生すると、世代連鎖し、夫婦間DVも派生します。
単純化して言いましたが、原理はそういうことです。


ですから、社会格差が拡大すると虐待も発生しやすくなります。

どんな家庭で虐待事件が起こるかということを「全国児童相談所における家庭支援への取り組み状況調査」が明らかにしています。

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「経済的な困難」「不安定な就労」「劣悪な住環境」はどれも貧困を意味するといってもいいでしょう。
つまり貧困家庭は虐待が起こりやすいのです。
世の中を騒がせた虐待事件を振り返ると、虐待した親のほとんどは無職か不安定な雇用形態です。

貧困も、今と昔ではとらえ方が違います。
昔の貧乏人は「狭いながらも楽しい我が家」といって自分を慰めていましたし、「金持ちはどうせあくどいことをやって儲けたんだろう。自分たちは清貧だ」といったプライドもありました。
しかし、今は新自由主義的価値観が広がって、「金持ちは勝ち組、貧乏人は負け組」ということになり、さらに「貧乏人は能力がないだけでなく、努力しない怠け者だ」という考え方も強まって、貧乏人にはまったく救いがありません。

さらに、こうした競争社会では、親は子どもを負け組にしないために教育に力を入れ、「勉強しなさい」などと圧力をかけることになりますが、これは愛情ある親子関係に亀裂を生じさせます。


このような虐待や暴力の発生と連鎖のメカニズムがわかれば、虐待や暴力をなくし、愛情ある家庭をつくる方法もわかります。
暴力禁止キャンペーン、カウンセリングの充実、貧困対策、競争社会の見直しなどによって「愛情大国」への道が開かれます。

根本的なことを言えば、親子や家族が愛情のあるつながりを持つのは本能的なものです。そのことは未開社会を見たり、哺乳類の親子や群れを見たりすればわかります。
家族関係がゆがむのは、競争社会のような文明のゆがみが家族に影響を与えるからで、そのような影響を排除すれば愛情ある家族が実現できます。
この原理さえわかっていれば、具体的な方策を見いだすのは簡単です。


こうしたことは当然、政治の課題です。
政府は2023年度に「子ども家庭庁」を創設することを閣議決定しているので、子ども家庭庁がその役割を担うことになるのでしょう。

ところで、「子ども家庭庁」は一時「子ども庁」という名前が予定されていましたが、最終的に「子ども家庭庁」という名前になりました。
これには自民党の右派議員の働きかけがあったとされます。そして、右派議員が拠りどころとするのが「親学」という思想です。

「親学」とはなにかというと、親学推進協会のホームページを見ると、「親が変われば、子どもも変わる」と大きく書かれています。
「親が変われば、子どもも変わる」というのは、たとえば子どもが反抗的で困っているという親に対しては有効なアドバイスになりえますが、そのような特定の親に対してではなく、すべての親に対して言っているようです。
つまり親も子も根こそぎ変えようというのが「親学」の考え方なのです。
どのように変えるかというと、要するに戦後の親子関係を否定して、戦前の親子関係に戻そうということです。

そもそも自民党は、夫婦別姓反対を見てもわかるように、家父長制を理想としています。「親学」も同じです。
家父長制は、男が女を支配し、おとなが子どもを支配するというのもので、暴力や虐待の温床です。
愛情ある家庭と真逆です。

日本が「愛情大国」になるには、家庭を巡る思想闘争を経なければなりません。