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戦場の兵士は「英雄」と称えられます。
ゼレンスキー大統領はアゾフスターリ製鉄所に立てこもった兵士たちを「英雄」と呼びましたし、演説の最後を「ウクライナに栄光あれ。英雄たちに栄光あれ」と締めくくったりします。
プーチン大統領も病院に負傷兵を見舞ったとき、「彼らは英雄だ」と言いました。

戦争には「英雄」が必要ですが、人間は「英雄」としては生まれてこないので、人間を「英雄」あるいは「一人前の兵士」に仕立てなければなりません。
そのために利用されるのが「道徳」です。

「国家のために尽くすべし」ということを教えるほかに、勇敢さや自己犠牲が重要な徳目とされ、乱暴、喧嘩っ早さ、命知らずなども「男らしさ」という徳目としてプラス評価されました。
しかし、戦争がどんどん苛酷になってくると、それでは追いつきません。

第一次世界大戦は4年間に800万人以上が戦死するという大規模かつ長期なもので、兵士たちは塹壕の中で激しい砲撃にさらされ、戦友が近くで命を失うのを目撃するという状況に長時間置かれました。そうするうちに、多くの兵士が女性のヒステリー症状そっくりの行為をするようになります。金切り声を上げたり、すすり泣いたり、金縛りのように動けなくなって、無言、無反応になり、記憶を失ったり、感じる力を失ったり。ある推定によれば、英国の傷病兵の40%がこのような“精神崩壊”だったということです。
当初、精神崩壊は身体に原因があるものと考えられました。
イギリスの心理学者であるチャールズ・マイヤーズは砲弾の爆発が脳震盪を起こすのが原因だとして「シェル(砲弾)ショック」と名づけました。この名前はたちまち広がって、今でも戦争神経症のことをシェルショックと言うことがあります。
しかし、実際には爆発の衝撃を受けなかった兵士にもこの症状が見られたので、次第に心理的なものと見なされるようになりました。長時間死の恐怖にさらされるストレスは、男性にヒステリーに酷似した神経症の症状を起こさせるのです。

そうして戦争神経症の存在が認められたのですが、それでもまだ医学界は患者のモラルの問題と見る傾向がありました。正常な兵士は恐怖に屈することなどない、戦争神経症を発症する兵士は軍人としての資質の劣った人間であり、臆病者、さらには詐病者であると見なされたのです。当時の医学文献には「道徳的廃兵」と書かれていました。
ですから、戦争が終わると、モラルのない、役に立たない人間のことなど忘れられていきました。

第二次世界大戦が始まると、戦争神経症が再び注目されました。
今度は医学界は戦争神経症の効果的な治療法を求めて科学的な研究を行い、「精神科的傷病兵の発生は戦闘の苛烈さに正比例し、したがって銃創や弾片創と同じく避けることができない」として、道徳と切り離しました。そして、戦友との絆が治療に有効なことがわかり、早期に部隊に復帰させるという対策がとられました。ただし、それはあくまで短期的な対策でした。

例によって戦争が終わると、戦争神経症のことは忘れられていきました。
そして、ベトナム戦争とともにまた戦争神経症のことが思い出されました。
その中心になったのはベトナム帰還兵でした。彼らは「正しい戦争」という国の主張を否定して反戦運動をする一方、戦争の心的外傷体験を話し合う自助グループをつくり、そこに精神科医を招いて、戦場から離れて時間がたっても心的外傷の後遺症があることを認めさせました。
このような運動には反発もあって、「われわれの父も祖父も戦争に行って、義務を果たし、帰ってきてからもなんとかやっていた。どうして君たちは不平ばかり言うのだ」と批判されました。
ともかく、こうして「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」がアメリカ精神医学会の公式な診断基準になりました。


しかし、今も戦争神経症やPTSDのことは忘れられています。
世の中はつねに「弱い兵士」ではなく「勇敢な兵士」や「英雄」が見たいのです。

ついこの前、アメリカはウクライナに長距離りゅう弾砲を提供しましたが、ゼレンスキー大統領はロシアの多連装ロケット砲に対抗するために多連装ロケット砲も必要だと語りました。
どうやら戦況は双方が大砲とロケット砲を撃ち合う形になっているようです。
これが長期化すると、死傷者だけでなく大量の戦争神経症患者も出現することになります。

マスコミはときどき両軍の死傷者の数を推定値として報道しますが、そこに戦争神経症患者やPTSD患者の数も加算する必要があります。


つけ加えておくと、「人を殺してはいけない」という道徳があるにもかかわらず、道徳は戦争遂行の強力な道具になっていて、そればかりか、科学の妨げにすらなっています。
道徳を正しくとらえることは、平和実現の第一歩です。