村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年04月

教育界におかしいことはいっぱいありますが、「個性を伸ばす」という表現もそのひとつです。「個性を伸ばす」って、根本的に間違ってるでしょう。
たとえば、無口な子の個性を伸ばすと、もっと無口な子になってしまいます。おしゃべりな子の個性を伸ばすと、もっとおしゃべりになってしまいます。さらにいうと、せっかちな子の個性を伸ばすともっとせっかちに、おっとりした子の個性を伸ばすともっとおっとりした子になってしまいます。神経質な子はもっと神経質に、大ざっぱな子はもっと大ざっぱに……きりがないですね。
個性というのは伸ばすものではないのです。
伸ばすのは才能、技能、学力、実力などです。
つまり才能や学力という言葉にはいい意味が含まれていますが、個性という言葉にはいい意味も悪い意味も含まれていません。ですから、個性を伸ばしてもいいことにはなりません。むしろ本来の個性と違うものになって、よくないことになるでしょう。
ですから、
才能を伸ばす」
「個性を尊重する」
というふうに使い分けるのが正しい日本語です。
 
教育界の日本語レベルはこんなものかとイヤミのひとつもいいたくなりますが、これは日本語能力の問題とは違って、教育界の病理の問題だと思います。
 
昔の教育界は子どもの個性を無視して、画一的な教育をしていました。それはいけないということで、個性重視、個性尊重の教育がいわれるようになりました。
ところが、「個性を尊重する」ということは、教育者は個性に関する部分では子どもに手を出さない、無作為であるということです。言い換えれば、子どものありのままを受け止めるということです。
ところが、教育者というのはこれができない。どうしても手を出してしまいたくなる。子どもをいじり回したくなるのですね。そして、
「私が教育したおかげで子どもはこんなによくなった」
という満足を味わいたいのです。
つまり、教育者は子どもの個性の部分にも手を出したいので、「個性を伸ばす」という表現を好んでするのです。
 
こうした教育界の病理を私は「過剰教育」と呼んでいます。「過剰教育」の結果、子どもは自主性や自発性が育たず、覇気のない、受身の人間になってしまいます。不登校、引きこもり、オタク、草食系も全部そこにつながっていると思います。
 
それはともかくとして、少なくとも教育界は今後、「個性を伸ばす」という表現の間違いに気づいて、「個性を尊重する」という表現に変えていただきたいと思います。
 

震災直前、新宿歌舞伎町に行ったら、以前と比べて人通りが少なく、さびれた感じに驚きました。今はもっとさびれているかもしれません。石原慎太郎の魔手がここにも及んでいたのです。
新宿歌舞伎町といえば、東京では東京ディズニーランドと並ぶ一大アミューズメントスポットです。私の世代は、山本晋也監督の風俗レポートで歌舞伎町のすばらしさを知りました。ノーパン喫茶に始まり、のぞき部屋、個室ビデオ、ノーパンしゃぶしゃぶ、ソープランド、ホテトル、ファッションヘルス、デリヘル、イメクラなど、いや、もっといろいろあると思いますが、こんな多様な性風俗文化のあるところは世界にないでしょう。
日本のアダルトビデオも多様な種類というかジャンルがあり、これもおそらく世界一ではないでしょうか。
なぜ日本にこれほど多様な性文化があるのかはよくわかりませんが、少なくとも江戸時代の遊廓や浮世絵にまでさかのぼることができると思います。
 
ところが、石原慎太郎という男は、こうした日本独自の文化を見ると攻撃したくなるようなのです。マンガ・アニメしかり、自販機、パチンコもそうです。歌舞伎座の新デザインについて「銭湯みたいで好きじゃない。オペラ座のようにしたほうがいい」とも発言しています。
石原慎太郎は、日本と日本人と日本文化を憎んでいるのでしょう。それはあの天罰発言に端的に表れています。
石原慎太郎の魔手によって、歌舞伎町はかつての輝きを失い、ほとんど飲食店だけの街にさせられてしまいました。
 
ほんとうの右翼は石原慎太郎を決して支持しません。石原慎太郎は反日日本人だからです。

昨日、「原発作業員のヒロイックな仕事ぶり」というエントリーで、海外メディアは原発作業員のヒロイックな仕事ぶりを報じたがっているに違いないから、政府や東電はそれに対応することで原発事故の実態を海外に正しく知らせるようにするべきだと書きました。
しかし、政府や東電はきっとそれをしないでしょう。その理由はふたつあると思います。
ひとつは、日本人の基本的な考え方として、ヒーローをつくりたがらないというところがあると思います。たとえばチリの鉱山落盤事故のとき、世界のメディアはやたらヒーロー中心の報道をしましたが、多くの日本人は違和感を覚えたのではないでしょうか。日本人の感覚としては、みんなが団結してがんばったから救出されたのだというふうに考えますし、日本のメディアが報道したとすれば、むしろ目立たない「縁の下の力持ち」に焦点を当てた報道が行われたのではないかと思います。
私は、これはこれで日本人の美質だと思います。
 
もうひとつの理由は、現場の作業員がメディアに直接しゃべるようになると、とくに東電上層部について不都合なことがいっぱい出てくる可能性があることです。
たとえば、福島原発では津波で多くの線量計が失われたために、ひとつの作業班に1個の線量計で作業していたということが報じられました。線量計が足りないなら、すぐにほかの原発から回せばよいことです。もちろんそれは現場にできることではなく、東電本店がするべきことで、上層部の無能ぶりを示しています。もし作業員にインタビューしていたら、そうした不満が噴出するかもしれません。
だから、東電上層部は作業員に語らせることはしないでしょう。
その結果、海外のメディアは不満をつのらせ、海外の人たちは日本の原発事故の実態をよく知らないまま、日本への旅行をとりやめ、日本製品を敬遠することをしばらく続けることになるでしょう。

放射能の恐怖で外国人観光客がへったり、外国で日本製品が拒否されたり。まさに国際的な風評被害ですね。
政府は広報活動を積極的にやるべきだという声がありますが、政府広報なんてたいして効果はないでしょう。それよりも、向こうが求める情報を発信するべきです。
では、向こうが求める情報とはなんでしょうか。それは、「フクシマ50」という言葉に表されるように、原発作業員のヒロイックな活動です。作業員の生の声、作業する姿の映像、作業員の家族の声などを海外メディアは知りたがっていると思います。
そして、そうした報道の中で放射能汚染の実態もおのずと明らかになっていくでしょう。
東電や政府は個々の作業員に焦点を当てた報道ができるように配慮するべきだと思います。

「詰め込み教育」はだめということで「ゆとり教育」が始まったわけですが、今はまた「ゆとり教育」が否定され、「学力重視」に変わっています。
でも、「学力重視」って、「詰め込み教育」の看板を変えただけですよね。
教育界ってこういうものなんですか。
 

石原慎太郎氏の発言が問題になっています。「テレビなんかにも同性愛者が平気で出てるでしょ。日本は野放図になりすぎている」という発言なんですが、これを同性愛者に対する差別ととらえて批判する人が多いようです。
確かに石原氏は同性愛者を差別する人間でしょう。しかし、この発言をそうとらえるのは違う気がします。
石原氏は厳密には、同性愛者を批判しているのではなく、同性愛者を平気でテレビに出す日本を批判しているのです。
 
確かに日本のテレビには、おすぎとピーコ、はるな愛、マツコ・デラックス、楽しんご、ミッツ・マングローブなど、どう表現していいのかわからない人たちがいっぱい出ています。これは日本がそうした人たちに寛容な、差別のない国であることを意味しています。
欧米ではあまりそうした国はないと思います。アメリカはとくに同性愛者に対する差別が強烈で、軍隊ではつい最近まで同性愛者は排除されていました(差別が強烈だからこそ反差別運動も盛んです)。タイでははるな愛さんがニューハーフのコンテストで優勝するなど、アジアの国は比較的寛容なのかもしれません。
 
同性愛者がどんどんテレビに出る日本はすばらしい国だと思います。その日本を批判する石原氏を、私は反日日本人と認定しています。

今度は自販機をやり玉に挙げる石原慎太郎。反日日本人の面目躍如ですね。自販機で多くの電力を消費していることについて、石原氏は「こんなバカな国は日本以外ない」といって否定したのです。
確かにこんなに自販機が街に並んでいる国は日本以外にありません。日本にきた外国人も驚きます。なぜ外国にないかというと、すぐに壊されてお金や商品を盗まれるか、自販機ごと盗まれてしまうからです。だから、建物の中や施設の中にはあります。
日本の自販機文化は日本の治安のよさを示すもので、世界に誇るべきものです。
日本独自のすばらしい文化を否定するとは、石原氏はまさに反日日本人ですね。

あるサイト名のリストを見ていたら、「2番目に大切なもの」という名前のサイトがあり、妙に気になりました。人生で2番目に大切なものってなんだろうかと考え、それは人生でいちばん大切なものがわからなくてもわかるのだろうかなどと、いろんなことを考えてしまいました(ちなみにこれはアダルトサイトの名前なのですが、深く追及しないように)
 
「人生にはお金よりも大切なものがある」ということをよくいいます。ということは、2番目に大切なものとはお金でしょうか。
しかし、「人生にはお金よりも大切なものがある」といういい方はなんかへんですね。お金は具体的にいっているのに、それより大切なものを具体的にいわないなんて。
やっぱりこれは、人生でいちばん大切なものはなにかということをはっきりさせないといけないようです。
そう、ここで「人生でいちばん大切なものはなにか」という人間にとって最大の問題に、私がズバリ答えを出しましょう。
 
人生でいちばん大切なものはなにか。それはです。
いや、ごめんなさい。これは違います。「人生で」という前提があるのだから、命があるのは当たり前で、これは答えになりません。
しかし、ものごとには順番があります。人間にとって命がいちばん大切なものであることをまず押さえておいてください。
 
では、命の次に大切なものはなんでしょうか。
それは空気(酸素)です。
いや、ふざけているのではありません。順番に考えているのです。
空気がないと人間はたちまち死んでしまうので、命の次に大切なものは空気です。
もっとも、空気はあって当たり前ですから、これも答えにはなりません。
それでも、落盤事故で坑道に閉じ込められた人に、あなたにとっていちばん大切なものはなんですかと聞いたら、「空気」と答えるでしょう。このことも押さえておきましょう。
 
では、空気の次に大切なのはなんでしょうか。
それはです。
人間は食べ物がないより水がないほうが早く死ぬそうです。
水もあって当たり前で、たいていタダで手に入ります。それでも、砂漠の遭難者に、あなたにとっていちばん……いや、やめましょう。しつこいですね。
 
水の次に大切なものはなんでしょうか。
先に答えをいってしまいました。それは食べ物です。
さあ、重要なポイントにさしかかりました。食べ物はタダでは手に入りません。お金がいるのです。
そして、お金を手に入れるのはそう簡単なことではありません。
ホームレスはお金がなくても生きているじゃないかといわれそうですが、ホームレスだって生きていくのにお金は必要で、空き缶や雑誌の回収などで多少のお金は稼いでいるのです。
お金があれば食べ物だけでなく、「快適な生活」が手に入ります。
ということで、答えが出たようですね。
 
「人生でいちばん大切なものはお金です」
 
納得いかないという人もいるようですね。でも、「人生にはお金よりも大切なものがある」というのはだめです。具体的にいってください。
 
「人生でいちばん大切なものは愛です」
 
ああ、いってしまいましたね。確かにお金に対抗できるものがあるとすれば、それは愛しかありません。
しかし、お金があって生きていけてこその愛ですからね。
自殺原因のトップは「病気・健康問題」、その次は「経済・生活問題」です。
お金がなくなったために自殺する人はいっぱいいますが、愛がなくなったからといって自殺する人はめったにいません。
愛のあるカップルも、どちらかに多額の借金があることが発覚したとたん、たいてい愛は終わってしまいます。
ということで、
「人生でいちばん大切なものはお金、2番目に大切なものは愛」
ということでガッテンしていただけましたでしょうか。
(ガッテン! ガッテン! ガッテン!)
 
もっとも、これは一般論ですから、落盤事故にあった鉱夫や、砂漠の遭難者や、資産家や、十分な年金を得ている年金生活者などには当てはまりません。
しかし、これから人生設計をしていこうという若い人などは、当然この考え方でいくべきです。まず職業人としての自分を確立することに最大の力を注ぎ、次に恋人や配偶者を得ることに力を注ぐというのが、幸福な人生を送るための最善の方法です。
 
もっとも、「人生でいちばん大切なものはお金、2番目に大切なものは愛」ということをいう人はほとんどいません。逆に「人生にはお金よりも大切なものがある」という人はいっぱいいます。これはどういうことでしょう。
 
この答えも簡単です。「人生でいちばん大切なものはお金だ」といってしまうと、周りの人に警戒されてしまって、かえってお金が稼げないのです。「人生にはお金よりも大切なものがある」といっていると、周りの人は警戒心をゆるめてくれるので、お金が稼ぎやすくなります。だから、商売人は「利益よりもお客様に喜んでいただくことが第一」といい、企業家は「利益よりも社会に貢献することが第一」というのです。
人類の長い歴史の中で、こういう文化が形成されました。ホリエモンこと堀江貴文さんは「お金で買えないものはない」「愛もお金で買える」などといって、この歴史に反逆し、塀の向こうに落とされそうになっています。
 
私は若い人に忠告したいと思います。
「人生でいちばん大切なものはお金だ」ということを認識しなさい。しかし、口では「人生にはお金より大切なものがある」といいなさい。
これが最善の戦略です。

大震災の前、政治の世界で問題になっていたのは、「政治とカネ」、問責決議、外国人献金などでした。今、そんなことを問題にする人は誰もいません。問責決議で内閣を追われた仙谷由人は震災後さっさと内閣に復帰しています(実力者ですから当然です)。あんなくだらないことで騒いでいたのはなんだったのでしょう。今は民主党政権や菅内閣を批判する人が多いですが、私は政治の世界全体が敗北したのだと思っています。
 
そして、官僚組織も敗北しました。これまで、日本の官僚は優秀だ、政治家は官僚を使いこなすべきだといわれてきましたが、原発問題で経産省、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、半官営企業である東京電力はあまりにも無力でした。
 
そして、意外な勝者がアメリカでした。最初の海水注入から、真水への切り替え、窒素注入まで、まるでアメリカが日本を手取り足取り教えているようです。しかし、原子力技術において日米にそれほどの格差があるとは思えません。東芝、日立は世界的な原発企業です。おそらく政治や官僚組織の問題なのでしょう。
 
また、公共広告機構の嵐のようなCMは、免許制のテレビ局もまたダメ組織となっていることを示しました。CM枠をへらすとか、自社の番組宣伝をするとか、公共広告機構にしても過去につくった傑作CMを復活させるとか(著作権のことなど理由になりません)、いろいろ方法があるはずです。同じCMを際限なく繰り返すあの異常さは、テレビ業界の異常さを示していると思います。
 
そして、最大の勝者は被災者の人々でしょう。恐るべき苦難の中で助け合い、悲しみを受け止め、礼節をもって行動する姿は世界中の人々を感動させました。
 
ただ私は、これは日本人のすばらしさだというふうには考えません。
「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(レベッカ・ソルニット著)という本には、世界各地の大災害において人々は互いに助け合うという事実が書かれています。テレビは商店が襲撃され、人々が商品を略奪していくシーンをよく報じますが、実際はごく一部のことなのです(欧米のマスコミはホッブス的な思想と貧困層やマイノリティへの差別からそういうシーンを好んで放送するようです)
 
被災者が助け合うのは、人間であるがゆえに助け合うのです。
社会の上部は腐っていても、人間そのものはすばらしい。
今回の大震災は、そのことを改めて教えてくれました。
 

ある新婚夫婦の話ですが、妻が初めておでんをつくったら、夫はなぜ豆腐が入ってないんだと怒り、妻はおでんに豆腐は入れないものだといい返して、それが初めての夫婦げんかだったそうです。
 
吉野家のCMで、仲村トオル部長が部下に「飯っていうのはそういうものだ」と説教しているのを見て、思い出してしまいました。人間はいろいろな思い込みを持って生きていますが、とりわけ食への思い込みは強固で厄介です。夫婦げんかの原因になるのもわかります。
ちなみに、おでんに豆腐を入れることはありますが、高温で長く煮ると固くなってしまいますし、やわらかい豆腐だと崩れることもあるので、豆腐を入れないことも多いようです。
 
昔、大根がとんでもない高値になったときがありました。ある奥さんは、サンマの塩焼きの献立にするとき、大根があまりに高いので、大根おろしなしで食卓に出したそうです。すると夫がサンマの塩焼きに大根おろしがないとはなにごとだと激怒し、やはり夫婦げんかになったそうです。
 
また、定年退職したある男性は、奥さんから勧められて料理を覚えようとしたのですが、レシピに「塩少々」と書いてあるのを見て、「少々とはどれぐらいだ」といって怒ったそうです。
 
 
今取り上げた男性3人はみんな食のことで怒ったのですが、この怒りは正当なのかどうかについて考えてみます。
つまりここからは食というよりも人間関係がテーマになります(もともとそういうブログなので)
 
「塩少々」に怒るのは、どう見てもおかしいですよね。その表現は料理業界の習慣なのですし、そもそもレシピを書いた人はそこにいないのですから、誰に怒っているんだということになります。
まあ、この男性は几帳面な性格で、技術系の仕事をしていた人なのかもしれません。会社でもささいなことで部下を怒っていたのではないでしょうか。はた迷惑な人です。
 
では、サンマの塩焼きに大根おろしがないと怒った人はどうでしょうか。
この人は大根がとんでもない高値になっていることを知らなかったのかもしれないので、それは割り引くことにすると、けっこう共感する人も多いのではないでしょうか。サンマの塩焼きに大根おろしがなかったら俺も怒るぞという人、多そうですね。
 
ここが問題です。なぜそこで怒るのでしょうか。よく考えてください。
あると期待したものがなかったら、そのとき生じる感情は、とまどいや喪失感や悲しみではないでしょうか。
だから,この夫は「エーン、大根おろしがないよー」と泣いてもよかったのです。
 
ただ、この献立をしたのは妻です。つまり、ここには妻の人為が加わっています。
この夫は妻に対して怒っているのです。
なぜ怒るかというと、妻は自分に対して不当な仕打ちをしたと思っているのです。そう思わなければ怒りは発生しません。
つまりここには妻に対する不信感があります。
妻を十分に信頼していれば、なんか事情があって大根おろしをつけられなかったのだろうと考えます。そのときは、「えっ、なんで大根おろしがないの?」というふうに反応します。少なくともいきなり怒るということはありません。
 
以上をまとめるとこのようになります。
 
「大根おろしがない」
  ↓  ↓  ↓
「喪失感・悲しみ」
 
これが普通の反応です。怒る人の場合はもうひとつのファクターが加わります。
 
「大根おろしがない」
↓  ↓  ↓
(妻が自分に不当な仕打ちをしたという邪推)
↓  ↓  ↓
「怒り・敵意」
 
おでんに豆腐がないと怒った夫も同じです。
「えー、豆腐の入ってないおでんなんておでんじゃないよ」と嘆けばよかったのです。
そこから夫婦でおでん談議をして、さらに絆が深まったかもしれません。
 
いうまでもなく、怒りは愛情の対極にあるものです。
よく怒る人は自分自身をよく振り返ってください。
世界中の食卓から怒りがなくなりますように。
 

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