村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年05月

右や左の労働者諸君! 今日も元気で政治をやってるか!(寅さん風)
 
最近の政界のトピックで大笑いだったのは、海水注入中断をめぐるドタバタ劇でしょう。もともと55分の中断自体がどうでもいいような話で、それをむりやり大ごとにもっていったら、中断そのものがなかったという事実が発覚。いったいなにを騒いでいたのだろうということになってしまいました。
どちらにせよ、被災者支援や被災地復興とは関係のない話で、こんなことにエネルギーや時間を費やすのは愚の骨頂です。
もちろんこれは政界だけのことではありません。政治に関心のある一般の人も同じように騒いでいたわけです。
 
政治的人間というのは、自分は政治に関心のない人間よりも上等な人間だと思っています。しかし、テロ、革命、戦争はすべて政治的人間が引き起こすのです。震災後の今も、復興より政局に血道をあげています。政治的人間はむしろ世の中を悪くしている張本人なのです。
 
しかも、政治的人間というのは年中怒ったり憂えたりしているわけで、怒っているときは血圧だって上がるでしょうし、憂えているときは内臓の働きが悪くなるに違いありません。つまり、不健康な人間なのです。
周りの人間にとっても迷惑です。政治的人間に政治談議をふっかけられたとき、異論をとなえると怒りの火に油を注ぐことになるので、適当に話を合わせなければなりません。
 
つまり、政治的人間というのは、本人も不幸だし、周りにも迷惑だし、世の中にも悪いという最悪の人間です。
 
政治的人間は国をよくしようと必死ですが、がんばればがんばるほど逆に国は悪くなっていきます。なぜなら国を悪くしているのは自分自身だからです。

昔、新聞の投書欄で、夫を亡くした奥さんの悲しみを訴える文章を読み、今も印象に残っています。その夫は病院食を食べながら、「これ、おいしいからお前もお食べ」といってくれたそうです。
夫の思い出として書いてあるのはそれだけで、どんな職業かどんな性格の人かもわかりません。しかし、そのひと言ですべてがわかるような気がします。
私の勝手な想像ですが、その夫は会社ではあまり出世しなかったのではないでしょうか(会社員だとしてですが)。「おいしいからお前もお食べ」というような人は、人を押しのけるようなことはしなさそうだからです。周りの人から信頼され、必要とされながら、そこそこの地位で終わった人のような気がします。
 
「おいしいからお前もお食べ」ということがいえる人はめったにいないでしょう。私は昔つきあっていた女性から、正反対の父親の話を聞きました。
彼女が子どものころ、父親はいただきもののおいしいお菓子を、彼女と弟がうらやましい思いで見つめているのに、1人で全部食べてしまったそうです。食い物の恨みは恐ろしいといいますが、彼女はいまだに根にもっていました。
もちろんその父親は、つねにそういうふるまいをする人でした。
 
愛情があるかないかは、日々のひとつひとつの行動に表れます。
映画やドラマでは、テロリストやギャングに人質にされた子どもを父親が命がけで救出し、それが愛の証であるかのように描かれますが、ばかばかしいことです。テロリストやギャングと戦うのはならず者にもできます。愛があるなら毎日の食卓のふるまいに表れます。
 
「おいしいからお前もお食べ」というような人は社会の隅に追いやられ、自分のことばかりを考える人が幅を利かす世の中です。このことは「悪人は善人を駆逐する」というエントリー(http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/3886993.html)でも書きました。
 
こうした世の中を逆転させるのが私の野望です。

公共広告機構(AC)のCMは日本中の人をうんざりさせました。放映回数が多いからうんざりしたのはもちろんですが、それだけではありません。内容にも問題があったからです。
 
たとえば、ぽぽぽぽ~んの「あいさつの魔法」は、アニメも音楽も楽しいので、よくできたCMだと思います。しかし、「あいさつするたび友だちふえるね」というのは間違っています。そんなことで友だちがふえれば、友だちがいなくて悩んでいる人はいなくなります。
あいさつは、言葉さえ覚えれば誰でもできます。また、人間関係の無用な摩擦を避ける効能があります。しかし、あいさつで友だちはできません。あいさつのあと、自分の気持ちを込めた言葉が出せるかどうかが友だちづくりの決め手です。
「あいさつの魔法」のCMは、子どもたちにあいさつさせようという意図のCMでしょう。しかし、あいさつさせるために、「あいさつするたび友だちふえるね」というのは明らかに誇大広告、嘘の広告です。JAROに通報したい。
 
金子みすゞの「こだま」のCMも評判がいいですね。これはもう金子みすゞの詩の力というしかありません。
しかし、そのすばらしい詩のあとに、「やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれる」という一行が付け足されています。これはもう芸術に対する冒涜です。たぶん著作権者の了解を得てやっているはずなので犯罪にはなりませんが、本来やってはいけないことです。とくに「やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれる」というのは、詩が読者に伝えようとしていることを直接言葉にしてしまっているので、最悪というしかありません。
 
評判のいいこのふたつのCMにもこのような問題があるのですから、評判の悪いCMはどういうことになるでしょうか。
私にとってのワーストワンのCMは、『「心」は見えないけれど、「心づかい」はだれにでも見える』というやつです。これがテレビで流れるとうんざりしてしまいます。
その次に、手が妙な動きをする「こどもに、あなたの手当てを」というCMも相当うんざりします。
なぜうんざりするのか。その説明はけっこう困難です。あえていえば、道徳そのものがうんざりするものだから、ということでしょうか。
これはもう少し考えを詰めてから書いてみたいと思います。

体罰を正当化する論理に「口でいってわからないときは体でわからせるしかない」というのがあります。たいていの人は、こういう論理を見ると冷静さを失い、思考停止に陥ってしまいます。
なぜ冷静さを失うかというと、自分が体罰を受けたか、身近で体罰を見たかの経験があるからです。体罰は想像以上に心に傷を残し、その傷はおとなになっても癒えません。
 
「科学的倫理学」を武器にする私は、こうした問題にも冷静に対処できるので、ここでこの論理を解剖してみたいと思います。
 
まず、「口でいってもわからない」という状況ですが、これはいわれている子どもの理解力に原因のある場合もありますが、いっているおとなが理不尽なことをいっている場合もあります。おとなの能力をもってしても理解させられないということは、後者の可能性のほうが高いかもしれません。
 
もちろん子どもの理解力に原因のある場合もあります。その場合、殴れば理解できるようになるでしょうか。
たとえば三角関数をいくら教えても理解できない生徒がいて、その生徒を殴れば理解できるようになるとすれば、人類史上の大発見です。どんどん殴り続けていけば、相対性理論だって理解できるようになるかもしれません。
いや、だから、そんなことは絶対ないわけです。「殴ってわからせる」などということはありません。
あるのは、「殴って従わせる」ということだけです。つまり、「従わせる」ことを「わからせる」といっているわけで、ここにごまかしがあります。
「殴って従わせる」というのは、誰が考えても一方的で不当なやり方ですから、ごまかしているのでしょう。
 
子どもの理解力が足りなくてわからない場合、殴ってもわからせられません。では、どうすればいいのでしょう。
答えは簡単です。理解力がつくまで待てばいいのです。何年かかろうと待つのです。
というか、それしか方法はありません。
今すぐわからせたいというのは、おとなのわがままです。
体罰をするおとなは、わがままなおとななのです。
 
今後、「口でいってもわからないときは体でわからせるしかない」というおとながいたら、こう反論しましょう。
「殴れば理解力がアップするんですか」
「わからせたいんじゃなくて、従わせたいんでしょう」
 
体罰をするおとなは自分も体罰を受けてきたトラウマがあるので、その方面からのアプローチが正攻法ですが、今日はとりあえず論理的な面だけを述べてみました。

「しつけ」は漢字で「躾」と書きます。身体を美しくするという意味になりますから、この漢字を根拠にしつけはよいことだという主張がときどき見られます。しかし、これは逆でしょう。つまり、しつけとは見た目をよくすることで、しつけされる子どもの心のことは考えていないということだからです。
 
しつけは犬や猫などのペットに対しても行われます。ペットをしつけるのは、人間にとって都合のよい存在にするためです。ペットのためにしつけるのではありません。
 
つまり、子どものしつけとは、あくまでおとなのために行われることなのです。
ですから、子どもの発達段階のことはまったく考慮されていません。子どもは概して活発なものですが、おとなはおとなしい子どものほうが都合がよいので、おとなしくしなさいといってしつけをします。これは当然、子どもの発達にマイナスで、人格形成になんらかの問題が生じます。
 
電車の中で騒いでいる子どもがいるとします。周りのほとんどのおとなは迷惑顔です(本来おとなというものは、元気な子どもを見るのはうれしいものですが)
そこで、子どもを「おとなしくしろ!」とどなりつけるおとなが出てきます。また、その子の親に対して、「ちゃんとしつけをしろ!」と文句をいうおとなもいるかもしれません。
しかし、これはまったく間違った態度なのです。子どもにおとなしくしてほしいなら、「ぼく、ちょっとおとなしくしてくれるかな」とやんわりと頼むべきなのです。これが礼儀正しい態度です。
そうすれば子どもも、そうした礼儀正しい態度を学ぶでしょう。
 
ということは、子どもに「おとなしくしろ!」とどなりつけるおとなは、自分も子ども時代そうしてどなられていたのでしょう。
しつけが人格形成に問題を生じさせるというのは、たとえばこのようなことなのです。
 
世の中がギスギスして、住みにくい。多くの人がそう感じているでしょう。世の中がそうなってしまった大きな原因は、おとなが子どもをしつけることにあります。子どものしつけとは、おとなの身勝手な行為だからです。
しつけは昔から行われてきましたが、昔の子どもはほとんどの時間をおとなの監視の目のないところで自由に遊んでいました。今の子どもは徹底的にしつけされるようになっています。
子どもをしつけようとするおとなは、自分の態度を省みる必要があります。自分が鬼のような顔になっていないでしょうか。
それは幼児虐待そのものなのです。

岡山県で、16歳の長女を裸にし、手足を縛って風呂場に約5時間にわたって立たせ、低体温症で死亡させるという事件があり、37歳の母親が逮捕されました。母親は「しつけをするために縛って立たせた」と説明したそうです。
幼児虐待事件が起こると、決まって「しつけのためにやった」という弁明が聞かれます。そして、それに対する識者やコメンテーターの反論や批判の言葉はほとんど聞かれません。
これはどういうことでしょう。これでは「しつけのため」の虐待事件が今後も起こるのを防げないのではないでしょうか。
 
識者やコメンテーターの気持ちを推測してみると、子どもを殺すとかケガさせるとかは問題なく悪いが、子どもを叱ったり、罰したり、ときには体罰を加えるのは悪くない、ということではないでしょうか。ですから、あえてコメントすれば、「これはやりすぎだ」ということになるでしょう。これはコメントとしてはおもしろくありませんし、それに、「どの程度ならやりすぎでないのか」と突っ込まれると、うまく答えられないでしょうから、なにもコメントしないということになっているのではないかと思います。
 
識者やコメンテーターに限らず世の中一般の考え方として、しつけのために叱ったり罰したりするのは悪くないとされています。ですから、新聞ネタになるような虐待と普通のしつけの間に明確な区別はありません。あくまで程度問題なのです。
たとえば、体罰はしなくても、しょっちゅうきびしい声で子どもを叱っている母親がいます。ときには何時間も叱り続けています。こういのは心理的虐待に分類されるはずのものですが、世の中ではけっこうありふれた光景です。
つまり、しつけと虐待の間に区別のないことが、世の中から虐待事件がなくならない大きな理由なのです。
 
では、どうすればいいのでしょう。
この答えは簡単です。しつけと虐待の区別をつけず、すべて虐待であるとしてしまえばいいのです。これしか方法はありません。
「正しいしつけがある」「許されるしつけがある」という考え方は、根本的に矛盾しており、混乱を招くだけです。
 
しつけをする親は、子どもが悪いことをしたから叱ったり罰したりするのだと考えています。
最初に挙げた岡山県の事件では、長女が「ごめんなさい」と何度も手書きした反省文が自宅から見つかったと報じられています。この母親は娘が悪いことをしたと思ったからこそ反省文を書かせたのでしょう。そして、娘を罰することは正しいことだと考えていたのでしょう(この長女は知的障害があって高等支援学校に通っていました。理解の遅さを母親は悪と認識したのでしょうか)
 
しつけの論理の根底には、子どもの中から悪が生まれてくるという思想があります。
そして、悪い子どもを罰するのは正しいことだという思想もあります。
これを単純化していえば、「子どもは悪い、親は正しい」ということです。
これはすなわち、「正しい親から悪い子どもが生まれてきた」ということです。
これはどう考えてもデタラメな論理です(私はこれを「非科学的倫理学」あるいは「天動説的倫理学」と呼んでいます)
 
しかし、このデタラメな論理が世の中にまかり通っています。世の中を正しくしようと思ったら、まずここから手をつけなければなりません。
 
 
多くの人は幼児虐待について考えるのが苦手でしょう。しかし、幼児虐待について考えるのは「精神の筋トレ」みたいなものです。幼児虐待について考えれば考えるほど、強靭な精神を獲得することができます。とくに若い人にとっては有益なことだと思います。

「超訳ニーチェの言葉」が100万部を越えたそうで、ニーチェブームがいわれています。ニーチェといえば、「神は死んだ」という言葉が有名ですが、私は初めてこの言葉を聞いたとき、ニーチェはなんといやなやつだろうと思いました。
 
「神は死んだ」ということは、死ぬまでは生きていたということになります。だったら、「死体はどこにあるんだ」とツッコミたくなります。
おそらくニーチェの真意としては、昔の人間は神を信じていたが、現代のわれわれは、あるいは自分のようなすばらしい人間(超人?)は、神など必要としないのだということがいいたかったのでしょう。しかし、それを「神は死んだ」と表現するのは正確ではありません。
なぜニーチェは「神は死んだ」と表現したのか。それは、「自分は神に死亡宣告をするほどすごい人間だ」ということをアピールしたかったからではないでしょうか。少なくとも私はそういう尊大な自意識を感じて、いやなやつだと思ったのです。
 
もっとも、ニーチェはキリスト教道徳を奴隷道徳と見なすなど、当時の一般的な人々の神経を逆なでするような思想を発表しており、これぐらい尊大な自意識がなければ思想家としてはやっていけないのかもしれません。
 
キリスト教道徳に限らず、道徳には奴隷道徳という一面があります。しかし、それは見方を変えれば、支配道徳でもあります。
たとえば、欧米の映画を見ていると、一家で食卓を囲んだとき、父親が聖書の祈りの言葉を唱え、家族は頭を垂れてそれを聞き、それから食事を始めるというシーンがよくあります。ここでは聖書の教えが家父長の権威づけに利用されていることがわかります。
また、グーテンベルク以前は、教会が聖書の言葉を独占していましたから、教会の支配力は圧倒的でした。キリスト教道徳は、教会にとっては支配の道具であり、民衆にとっては抑圧の装置です。
 
ニーチェは、奴隷道徳と、貴族的精神を持った人間のための君主道徳を対置させました。つまり、ふたつの道徳があるという考え方です。しかし、私の考え方では、ひとつの道徳が見方によって支配道徳にも奴隷道徳にもなるということです(こうした考え方を「科学的倫理学」と呼んでいます)
ニーチェは道徳のマイナス面を指摘した点で偉大な思想家といえますが、「科学的倫理学」が登場した今では、過去の思想家になりました。
 
というわけで、私は「ニーチェは死んだ」と宣言します。

幼児虐待をする親には、刑務所に入れるのではなく、過去にさかのぼっての心理的カウンセリングと、現在の生活上の問題を解決するための援助をするべきだと、昨日の「幼児虐待にいかに対処するか」というエントリーで書きました。これはもう当たり前のことだと私は思うのですが、多くの人は犯罪者を見ると反射的に罰したいという衝動に駆られるので、こうした当たり前の発想ができなくなっているのではないかと思います。
 
幼児虐待をする親は、自分も子ども時代に虐待されていたことが多いので、カウンセリングによってその心理的な問題を解決しなければなりません。また、その家庭で夫が妻に暴力をふるうなどの問題が幼児虐待の原因になっていることもあるので、そうした問題も解決しなければなりません。
もっとも、ここでひとつの問題が生じます。そのような援助をすると、今度は自分もそのような援助を受けたいので、あえて自分の子どもを虐待する親が出てくるのではないかという問題です。たとえば、わざと子どもを殴ってアザをつけ、病院に行って虐待の通報をしてもらうというようなことです。そうすると、虐待をなくすための努力が逆に虐待をふやしてしまうという妙なことになります。
もちろん普通の親なら、お金を上げるから自分の子どもを殴りなさいといわれても、殴りません。ただ、虐待予備軍のような親なら、そういうこともしかねないでしょう。
ですから、虐待予備軍のような親がいることを考慮して、実際に虐待しなくても、救助を求めるメッセージを発信すれば援助が受けられる体制にして、そのことを周知させておく必要があります。
もっとも、そのような体制は、相当高度な福祉国家でなければできないことですから、今の日本では当分むりかもしれません。しかし、犯罪というのは、ただ罰すればいいというものではなく、逆に援助によって解決できることもあるということは理解していただきたいと思います。
 
経済合理的な犯罪というのがあります。たとえばインサイダー取引とか贈収賄などです。こういう犯罪は、厳罰化によってある程度抑止できる理屈です。
一方、不合理な犯罪というか、トラウマやストレスによる心理的原因の犯罪というものもあります。幼児虐待や通り魔事件などがその代表例です。こうした犯罪は厳罰化しても抑止効果はほとんどない理屈です。
ところが、今の世の中は、こうした不合理な犯罪に厳罰を与えよという声が圧倒的に優勢です。
私たちはあべこべの価値観の世界に住んでいるようです。

「道徳とは、人間が生存競争のためにつくりだした道具である」というのが「科学的倫理学」の考え方です。ですから、道徳は人を攻撃するのには向いていますが、人助けをするのには向いていません。それは幼児虐待を例にとるとよくわかるでしょう。
 
幼児虐待の多くは実の親によって行われます。親が自分の子どもを愛せないという深刻な事態に、私たちはどのように対処しているでしょうか。
幼児虐待事件が報道されると、私たちはまず加害者である親を非難します。それから、なぜそれまで通報や対処がされなかったのかと、近所の人、医療機関、警察、児童相談所などを非難します。
なにか事件や、自分にとって都合の悪いことが起きたとき、私たちは反射的に誰かを非難します。凶悪犯罪が起きた、原発事故が起こった、景気が悪くなった、妻の料理がまずかった、子どもの成績が下がったなどで、私たちは容疑者や政治家や妻や子どもを非難します。幼児虐待にもそれと同じ反応をしてしまうのです。
しかし、幼児虐待は親が子どもを愛せないことで起こります。親を非難すれば、親は子どもを愛せるようになるでしょうか。
もちろんそんなことはありません。逆に自己防衛に走り、自分を正当化する方向に行くでしょう。
 
加害者である親は裁判にかけられ、実刑判決を受けるでしょう。そうすると私たちは、当然の報いを受けたと考えます。
しかし、虐待された子どもが死んでいない場合、たいてい児童養護施設に入れられることになります。そこで施設の職員が親に代わって愛情を注いでくれればいいのですが、もしかして愛情のない職員や周りの子にいじめられるかもしれません。養護施設の中がどうなっているか、マスコミが報じることはほとんどありません。
また、刑務所に入った親が何年かして出てきたとき、愛情のある親に変身しているという保証はありません。いや、ほとんどその可能性はないでしょう。刑務所とはそのようなところではないのです。
 
幼児虐待は、親に愛情がないことで起こりますから、この問題の根本的解決は、親に愛情を取り戻させることです。しかし、私たちは親を非難し、刑務所に入れるだけです。
 
なぜこんなことになるのか。それは、私たちが道徳原理で行動しているからです。
 
親に愛情を取り戻させるには、その親は子ども時代に虐待を受けていた可能性が高いので、カウンセリングによって自分の子ども時代を振り返らせ、かつ現在の生活環境にある問題を解決するように助けることです。
つまり、私たちは子どもを虐待した親を非難するのではなく、逆に愛情を注がなければいけないのです。
 
道徳原理から愛情原理への転換こそ、今私たちが果たすべき最大の課題です。

人類はあらゆる分野で進歩を遂げてきました。経済、科学技術、芸術、文化などですが、もうひとつ進歩してきたものがあります。それは「悪」です。
なぜ悪が進歩してきたかというと、善人と悪人が戦うと悪人が勝つからです。つまり生存競争において善人は淘汰され、悪人は生き残り、その結果、世の中は悪人ばかりがはびこることになりました。
 
善人と悪人が戦うと悪人が勝つというのは理解できるでしょう。悪人はだまし討ちも平気ですし、善人にはできない残酷な手口を使うこともできます。善人が勝つときもあるでしょうが、善人は相手を徹底的にやっつけることはしません。しかし、悪人が勝つと、相手を徹底的にやっつけ、さらに奴隷にしたり、手下にしたりします。
 
ですから、善人は負けたくなければ、自分も悪人になるしかありません。
たとえば、江戸時代の日本は平和で、庶民は幸福でした。ペリーがきたときも、追い払ってしまいたかった。しかし、列強と戦うと負けることが明らかになりました。そのため日本は列強と同じ悪い国になる道を選択したのです。
軍事技術を学ぶだけで戦争の強い国になれるわけではありません。人殺しのできる人間が大量に必要です。そのため庶民は学校と軍隊で非人間的な訓練を受けることになり、日本は平和でも幸福でもない国になりました。
しかし、悪人は自分と他人をだます悪知恵を持っています。日本は近代化したよい国になったとされました。
 
白人と黒人が奴隷海岸で出会ったとき、なぜ白人が黒人を奴隷にし、その逆ではなかったのでしょうか。
それは文明化した白人のほうが黒人よりも悪人だったからです。黒人はあまりにも善良だったので、白人と戦うことすらせず奴隷にされてしまいました。
そして、白人は、黒人は人間ではなく動物である、野蛮である、愚昧である、犯罪的であるなどと理由をつけて自分を正当化しました。ここでも悪知恵を働かせたのです。
 
以上述べたことは、現在の倫理学の常識とは正反対だと思います。
つまり倫理学のコペルニクス的転回です。
この新しい倫理学を私は「科学的倫理学」と呼んでいます。
 
「科学的倫理学」によると、われわれ現代人は史上最悪の悪人だということになります。
自分が悪人であるということはなかなか認めたくないものです。そのため今まで、倫理学はまったくでたらめな学問となっていたのです。
自分が悪人であると認めた人には真実の扉が開かれます。

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