村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年05月

日本は徴兵制をやめたのだから、義務教育もやめてしまえというのが私の考えですが、改めて義務教育について考えてみます。
 
比較的知られたことですが、義務教育というのは、子どもに学校に行く義務があるのではなく、親に子どもを学校に行かせる義務があるということです。憲法の条文を示しておきます。
 
日本国憲法第26条2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 
 
子どもに学校に行く義務はないといっても、子どもは自分が学校に行かないと、親に憲法違反を犯させることになってしまいます。子どもに親を思う気持ちがあるのは当たり前で、実際には子どもも半ば義務を負っているようなものです。
 
親の場合、この義務はもちろん重大です。子どもが学校に行かないと、どうしても行かせなければならないからです。不登校の子どもが泣き叫びながら必死で柱にしがみつくのを力ずくで引き離すなどという修羅場が演じられたりします。
子どもが不登校になったとき、当然学校に問題のある場合があります。たとえばクラスにイジメがあるとか、教師がえこひいきや体罰をするとかです。しかし、親が子どもを登校させる義務を負っていると、そうした問題を追及することはきわめて困難です。義務を果たすことが先決とされてしまうからです。
 
ここで冷静に考えてみると、なぜ親だけに子どもを登校させる義務が負わされているのか不思議に思えてくるでしょう。国が子どもにほんとうに教育を受けさせたいと思うなら、親と教師が共同で義務を負うという形にしたほうがいいはずです。たとえば、教師は担当地域の子どもを学校にこさせる義務があるというように。
いや、教師にそういう義務を負わせるべきだといっているわけではありません。親に義務を負わすのはへんだということがいいたいのです。
 
人間は基本的に、自分の行動に責任を負うものであって、他人の行動に責任を負うものではありません。自分の子どもであっても、それは別人格ですから、自分の子どもの行動に責任を負わせられる憲法の規定はおかしいといえます。
 
親子は強い愛情で結ばれています。日本国憲法はそこに法的な義務を持ち込みました。これは愛情による結びつきを破壊する行為です。
たとえば、子どもが学校に行きたくないといえば、親がその思いを尊重するのは当然のことです。ところが、おかしな憲法があるために親はその当然のことがわからなくなっており、修羅場を演じることになるのです。
親子の愛情による結びつきは、国のもっとも根幹をなす部分でしょう。いわば木の幹のいちばん太い部分です。憲法の義務教育規定は、その太い部分に斧の一撃を加えてしまったのです。
その結果、家庭内暴力、引きこもり、非婚、孤独死、無縁社会などの問題が出てきています。
国の発展のための義務教育規定が国の衰亡を招くという皮肉な結果になっています。

日本PTA全国協議会は「子どもに見せたくない番組」のアンケート結果で、「ロンドンハーツ」が8年連続で1位になったと発表しました。まだこんなくだらないことをやっているのかと思い、ウィキペディアを見てみると、なんと「子どもに読んで欲しくない本」「子どもに読ませたくない雑誌」「子どもに遊ばせたくないゲーム」のアンケート調査も行っているそうです。
PTAはマンガ・アニメの規制を含む東京都の青少年健全育成条例改正案の成立も推進しています。
いったいPTAとはなんでしょうか。子どものための組織なのでしょうか。それとも、子どもと敵対する組織なのでしょうか。
それを考えるためにも、とりあえず学校の歴史を振り返ってみましょう。
 
明治初年、学制が施行されたとき、広範囲に学制反対一揆が起きました。これは歴史学の通説として、学費負担と、働き手でもあった子どもを取られることに対する反対であったとされていますが、そんな経済的理由だけであるはずがありません。それぞれの家で家庭教育や職業教育をしてきたのに、学校に勝手な教育されてはたまらないということが根底にあったと思います。つまり、教育権をめぐる親と国(学校)の戦いだったのです。
しかし、この戦いは国の勝利に終わり、国は子どもの教育権のみならず所有権をも占有することになり、「子どもは国の宝」という勝利宣言が行われました。そして、親は子どもに勉強を強い、子どもを兵隊に取られ、戦死しても、それを名誉なこととして喜ばなければならなくなったのです。
 
戦後は、教育権は親にあり、国は親の付託を受けて教育を行うのだという考え方が出てきました。たとえば故・小室直樹などはそういう考えです。常識的に考えても、民主国家で多数の親の考えに反した教育を国が行うことは許されないでしょう。
とすると、親は学校や教師が正しい教育を行っているかどうかつねに監視し、ときには要望や抗議をしなければなりません。たとえていえば、家庭教師を雇ったとき、その家庭教師がちゃんと子どもを教えているか監視するようなものです。
 
しかし、PTAはそのような組織ではありません。PTAはGHQの指導でつくられたものですが、日本PTA全国協議会の綱領や基本方針を見ても、親と教師の関係を規定するくだりはいっさいありません。ということは、結局のところ、PTA活動を主導するのは教師、学校、国であり、親は従属せざるをえません。つまりPTAとは、親を学校の下請けとするものなのです。
ですから、積極的にPTA活動をする親はあまり多くありません。PTA役員を選ぶときも、ほとんどみんな義務感からいやいや役員になるのです。
ですから、たとえばPTAのアンケートに一般的な親の意見が反映されているとは考えられません。国や学校の下請けに甘んじられる親の意見が反映されていると考えるべきでしょう。
ですから、PTAのアンケート結果はへんてこなものになり、表現の自由にとって大きな脅威となるマンガ・アニメ規制の意見も出てくることになります。
 
親が学校に関わることは重要ですが、それは決して下請けのような形であってはなりません。有権者が政治を監視し、納税者が税金の使い道を監視するのと同様な形で学校を監視するものでなくてはならないと思います。
ですから、PTAは親だけの組織に改編し(当然名前も変わります)、会社における労働組合のように学校に対して団体交渉を行い、学校を子どもにとってよりよいものに変えていく役割を担うものにするのがいいと思います。 

またしても牛丼屋の値下げ合戦が始まりました。
松屋は16~23日、牛めし()320円から240円。
すき屋は16~23日、牛丼(並盛)280円から250円。
吉野家は17~23日、東日本の店舗限定で牛丼(並盛)380円から270円。
 
いずれも期間限定ですが、その期間はどの店もにぎわいます。ということはどういうことでしょうか。
一般には牛丼屋同士が競争していると見られますが、実は牛丼屋が低価格の飲食店、つまり定食屋、そば屋、うどん屋の客を奪っているのです。また、これらの店はハンバーガー店からも挟撃される格好です。
定食屋、そば屋、うどん屋は個人営業の店が多く、こうした店のことは経済紙もほとんど触れることがありません。しかし、個人営業の飲食店は確実に衰退していっています。
 
その結果、ここでも人と人との触れ合いが失われることになりました。定食屋のおばちゃんとは人情味のある会話がありえますが、牛丼屋の店員との触れ合いなんてまったくありません。
 
それからもうひとつの問題は、学歴がなくても人生の成功者になるルートが狭まってしまったことです。
実は私は若いころ、中小企業や商店向けの経営雑誌の編集に携わっていたことがあります。当時の中小企業や商店の経営者の多くは、中卒や高卒で就職し、手に職をつけ、そして独立開業して、成功した人たちでした。飲食店に就職した人は、ほとんど徒弟制度に近い状態で、最初は下働きばかりで、暴言を浴びたり殴られたりし、誰も仕事を教えてくれないので先輩の仕事ぶりを盗み見て覚え、何度か転職していろいろな店のやり方を覚え、最初は小さな店で開業し(ときに屋台を引いて資金をつくり)、店を大きくしていくというパターンでした。地方から出てきた人は、「一国一城の主になる」という表現で都会に家を持つことを成功の象徴と考え、実際そうして成功した人が少なからずいました。
今は、手に職をつけようと下積みからがんばる人は少なくなり、アルバイトや派遣で手っ取り早くお金を稼げるので、そちらに流れる人が多いでしょう。独立開業もフランチャイズ店という形が多くなりましたが、これはマニュアルに縛られるので、半分サラリーマンのような感覚ではないでしょうか。
 
学校嫌い、勉強嫌いなので手に職をつけようという人は多くいます。しかし、理美容業界は高卒の資格がないと国家試験を受けられなくしてしまいました。
 
多様な生き方ができる社会がいいと思いますが、現実は逆の方向に進んでいるようです。

盗みで生計を立てている泥棒家族があったとします。小さな子どもは見張りなどをして親の盗みを助けていて、親からは「よい子だ」とほめられていました。しかし、その子どもはある日、「盗みはよくないことだよ。もう手伝わない」といい、親から「悪い子だ」と叱られてしまいました。
ヤクザの世界では、カタギを脅してでも親分に多くの金を上納するのがよいヤクザで、カタギを脅すのはいやだというのは悪いヤクザです。
ナチス支配下においては、ユダヤ人を強制収容所送りにすることがよいことで、ユダヤ人をかくまうことが悪いことです。
つまり、悪人の世界においては、悪が善で、善が悪だということです。
 
では、私たちの住んでる社会は、どうなのでしょう。私たちは善人の世界に住んでいると思っていますが、ほんとうなのでしょうか。
SFでは、枢軸国が連合国に勝利した世界というのが古典的なネタとしてあります。その世界では当然、英米などの価値観は退廃的な悪い文化とされています。
連合国が勝利した世界と、枢軸国が勝利した世界と、どちらが善人の世界なのでしょう。私たちは連合国が勝利した世界が善人の世界だと信じていますが、その根拠はあるでしょうか。もともとは英米が先行した帝国主義国で、ドイツや日本は遅れた帝国主義国でした。
 
はっきりいうと、私たちの世界が善人の世界だという根拠はありません。
もし私たちの世界が悪人の世界なら、私たちが善と思うことは実は悪であり、悪と思うことは実は善だということになります。
それなのに、学者、知識人を含む多くの人たちが、「あれが善で、これが悪だ」と善悪の判断をしています。まったく愚かなことです。
 
私たちの世界では、戦争、テロ、犯罪が絶えません。娯楽映画の多くは実は大量殺人を描く映画です。ビンラディンが殺害されたときは、多くの人が歓声を上げました。これはむしろ悪人の世界に似ていないでしょうか。
ちなみに、山口組と住吉会が抗争したとき、善と悪が戦っていると考える人はまずいないでしょう。ほとんどの人は悪と悪が戦っていると思うはずです。連合国と枢軸国の抗争も同じようなものでしょう。
 
私たちの住む世界は悪人の世界ではないか。そこを出発点にすると、あなたの思想はどんどん深化していくはずです。

515日午後9時からNHKで「虐待カウンセリング~作家柳美里・500日の記録」というドキュメンタリー番組がありました。幼児虐待という問題がメジャーなテレビ番組で取り上げられるのは珍しいことです。
番組には、柳美里さんを子ども時代に虐待した両親も登場します。父親は紳士といえる雰囲気の人、母親もごく普通の人にしか見えません。これがなかなか怖いところです。私たちの周りのごく普通の人も、過去に子どもを虐待していたか、今虐待している人かもしれないからです。
 
世の中には、たとえばヒロシマ・ナガサキ、アウシュビッツなど、あまりにも悲惨で認識しにくいことがいろいろありますが、中でももっとも認識しにくいのが幼児虐待でしょう。ごく幼い時期から親から虐待され続けた子どもの心情というのは、共感するのがむずかしいほど悲惨なものです。
 
そして、ここで注目しなければいけないのは、親(親の代理人も含めて)から虐待されている子どもは、ほぼ100パーセント、親を告発することがないということです。アザのある子どもにアザの原因を聞いても、子どもは親から殴られたとは決していいません。どうやら人間は親からの虐待を虐待と認識することができないようなのです。
そして、さらに注目しなければいけないのは、虐待された子どもは虐待を虐待と認識できないままおとなになるということです。番組では、柳美里さんも最初は自分が虐待された子どもであったことを認識していませんでした。
 
ということは、どういうことかわかるでしょうか。
あなたは自分は子ども時代に虐待されたことはないと思っているかもしれませんが、もしかして虐待されていたかもしれないのです。
人間は自分のことはなかなかわからないものですが、そのいちばん大きな問題がこの幼児虐待です。
子どもを虐待する親は、子どもが悪いことをするので、子どもを罰することは正義だと考えています。
あなたがもし被虐待児で、しかもそのことに気づいていないとしたら、あなたの善悪、正義の判断はどうなるでしょうか。
いや、あなただけのことではなく、世の中に自分が被虐待児であることに気づかない人がたくさんいれば、世の中の善悪、正義の判断はどうなるのでしょうか(私はこの問題を突き詰めて考えて、「科学的倫理学」に到達しました)
 
番組で虐待カウンセラーとして出てくる長谷川博一という人は、タレントの東ちづるさんのカウンセリングもした人です。また、池田小事件を起こした宅間守死刑囚に面会して、宅間守には被虐待児の特徴があったという報告もしています。
最近では、秋葉原通り魔事件の加藤智大被告への第一審判決で、加藤被告は幼児期に親から虐待されていた事実を認定していながら、死刑の判断が下されました。
死刑とは、虐待された子どもへの仕上げの虐待なのでしょうか。
 
幼児虐待の問題は、考えれば考えるほど人間についての認識を深めさせてくれます。

官僚主導から政治主導に転換できないのはマスコミにも大いに責任があって、たとえば514日の朝日新聞朝刊の星浩編集委員の記事などはその典型でしょう。
 
「官僚が独自の判断で仕事を進めると、政治家に『余計なことをするな!』と怒鳴られる。それなら出過ぎたことをせず、静かにしているのが無難――というのが多くの官僚の本音だろう。旧建設省(現国土交通省)出身の増田氏の見立てである」
 
これは、増田寛也元総務相が被災地を回った際、「国の対応が遅い」と感じ、その原因についての見立てということですが、当然星浩氏も同感なのでしょう。
 
しかし、私にはどうしてこういう文章が書けるのか理解できません。
この文章を読むと、政治家に「余計なことをするな!」と怒鳴られた官僚は、そのまま引き下がってしまうような印象を受けます。そんなはずはないですよね。「余計なことじゃありません。かくかくしかじかの理由で必要なことです。これをやらないと国の対応が遅れますよ」と反論するはずです。優秀な官僚のことですから、それが実際に正しいことなら、条理を尽くして政治家を説得しているでしょう。
いや、わからず屋の政治家なのかもしれません。ありがちなことです。だとすると、官僚は「うちの政務官は困る。いくら説得しても聞く耳を持たない」という不満を口にするはずです。でも、官僚は「出過ぎたことをせず、静かにしている」わけですね。それも、被災地の人たちが困っているのを横目に見ながらです。どうなっているのでしょうか。
 
また、「官僚たちが政治家の『指示待ち』になっている」とも書かれています。
最近の若い社員は「指示待ち族」だなどとよくいわれます。これは当然よくないことです。指示される前にみずから動く積極性がビジネスマンには求められます。
では、官僚の「指示待ち」はどうなのでしょう。同じくよくないことですね。でも、星浩さんは官僚に積極性を求めることはしません。政治家が悪いから「指示待ち」でもしかたがないと考えているようです。
 
そして、「政治は大事な決定を担って官僚を使いこなす」というくだりもあります。「官僚を使いこなす」という言葉は、政治主導を論じるときにひんぱんに出てきますが、この言葉を目にするたびに私は、官僚を使いこなすのはそんなにむずかしいことなのかと思ってしまいます。まるでロデオで暴れ馬を乗りこなすようなことでしょうか。
中学や高校では問題のクラスというのがあって、「あのクラスの担任になるとたいへんだよ」ということがあります。生徒はいやいや学校にきているのである程度しかたありません。
しかし、会社で「営業三課の課長になるとたいへんだよ。なかなか部下を使いこなせない」などということがあるでしょうか。もしかしてあるかもしれませんが、そうならその組織は会社のガンですから、早期になんとかしなければなりません。会社では給料をもらっているのですから、学校とはわけが違います。
 
日本の官僚組織も使いこなすのがたいへんです。民主党にできないなら、みんなの党にもできないでしょう(自民党は最初からやろうとしないでしょう)。この組織はガンではないのでしょうか。
政治家の能力を向上させればうまくいくと星浩さんは考えているようですが、そんな急に人間の能力は向上しません。
問題は明らかに官僚組織のほうにあります。
国の対応が遅れ、被災地の人たちが困っているのを横目に「指示待ち」を決め込んでいる官僚たち(星浩さんの記事ではそうなっています)おそらく彼らは、被災者のためになにかをすることより、飾りものの大臣をいただいて自分たちが好きなようにやっていた時代に返ることのほうを望んでいるのでしょう。こうした官僚たちをなんとかしなければいけないのです。
 
星浩さんには、今度は次のような記事を書いていただきたいものです。
「『指示待ち』の官僚は給料泥棒も同然だ。指示がないならみずから提案しろ。そして、政治家を説得しろ。被災者を心から思っての提案であれば、政治家とて人の子、わかってくれないはずはない。官僚の奮起を望む」
こうした記事はきっと被災地の人々の共感も呼ぶでしょう。

ダーウィンは、社会性動物には親が子の世話をしたり仲間を助けたりする利他的性質があり、人間はその利他的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。これがダーウィンのつまずきでした。進化論を人間に適用するのに決定的な失敗をしてしまったのです。
人間など社会性動物に利他的性質があるのは事実ですが、利己的性質のほうが利他的性質よりも強いのは明らかでしょう。そうでないと生存競争を勝ち抜けないからです。
人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えるのが当然の発想です。そのように考えてこそ、人間の行動と動物の行動を比較することが可能になるのです。
 
ダーウィンのつまずきは、その後も訂正されることがありませんでした。「利己的な遺伝子」という概念を世の中に広めたリチャード・ドーキンスもダーウィン説を踏襲しています。そのため、せっかくの「利己的な遺伝子」もほとんど人間性や人間社会を解明する道具になっていません。
社会生物学、進化心理学はまったくマイナーな学問になっています。これもダーウィン説を訂正していないからです。進化ゲーム理論も道徳の位置づけを間違っていては、人間社会の限られた場面にしか適用できません。
 
私は、人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたという説を提唱し、これを「科学的倫理学」と名づけています。「科学的」というのは「生物学的根拠がある」というぐらいの意味です。
社会生物学や進化心理学や進化ゲーム理論において「科学的倫理学」が採用されれば、これらの学問は爆発的に発展すると考えています。
当然、「科学的倫理学」を世に広めることが私の使命だと思っていますが、私は生物学者でもなく、浅学非才の身ですし、なかなか説得力を持たせられません。天動説が支配する世の中で地動説を唱えるのに似た困難もあります。
ということで、今はブログやホームページを通して世の中の反応を見ている段階ですが、いずれ「科学的倫理学」は世の中を激変させることになるでしょう。
 
より詳しい説明はホームページで。
 
「思想から科学へ」村田基(作家)のホームページ
(現在このホームページは休止中です)

団鬼六さんが56日に亡くなられました。16日に葬儀があるそうです。訃報を伝える新聞記事が小さかったので悲しいです。業績を考えれば大作家なのですが。
 
好きな作家が亡くなると悲しいのは当然ですが、私の場合、とても悲しいときとあまり悲しくないときがあります。
たとえば安部公房は高校生のときからすごく好きな作家ですが、亡くなったときはほとんど悲しくありませんでした。自分でも不思議に思ったほどです。
なぜかと考えてみると、安倍公房は純文学作家として高い評価を得ていますし、戯曲や演出でも活躍してますし、海外でも評価されてノーベル文学賞もうわさされていました。高く評価されていたからあまり悲しくなかったようです。
三島由紀夫が亡くなったときも同じです。ああいう特殊な死に方を割り引くと、ほとんど感慨がありませんでした。文学的に高く評価されていたからでしょう。
 
反対に、今までで亡くなっていちばん悲しかった作家はフレドリック・ブラウンです。SFとミステリーで、ただおもしろいだけの作品をたくさん書いた作家です。「ただおもしろいだけ」というのはなかなかできることではありません。たいていの作家は文学的だとか思想的だとか社会的だとかで深さも出したいと思うものだからです(「火星人ゴー・ホーム」は社会批評的な作品と評価されていますが、私の考えではたまたまそう見えるだけです。ちなみに日本の全学連などが「ヤンキーゴーホーム」と叫んでいることから発想された作品だそうです)
たとえばおじさんが死んだとき、おじさんの思い出はただ私をおもしろがらせてくれたことだけだった。フレドリック・ブラウンが死んだときの思いはそんな感じだったでしょうか。
ところで、ブラウンの死後何年かして「フレドリック・ブラウンは二度死ぬ」というマンガが出版されました。ブラウン原作の三作品をマンガ化したものですが、こういうタイトルの本が出るということは、ブラウンの死に深い感慨をいだいた人がほかにもいたのだなと、私は勝手に解釈しています。
 
星新一さんが亡くなったときも、深い悲しみがありました。星新一さんもやはりただおもしろいだけの作品をたくさん書いた人で、その点ではもちろん高く評価されていましたが、文学賞とはあまり縁がありませんでした。
 
つまり文学的に高く評価された作家の死はあまり悲しくなく、エンターテインメントに徹した作家の死は悲しいという基準が、私の場合はあるようです。
 
私はエンターテインメントに徹した作家を目指していたのですが、たまたま思想上ないしは科学上の重大な発見をしてしまったため、別の方向に行かざるをえませんでした。これもなんだか悲しいことです。
 
ところで、団鬼六さんはエンターテインメントに徹した作家で、文学的にはほとんど評価されないのですが、私はそれほど悲しくないのですね。
というのは、団鬼六さんのエッセイを読むと、交友関係が広く、実に波瀾万丈の人生で、大いに金をもうけ(借金も背負った)、女優さんともいい思いをいっぱいしているのです。これだけおもしろい人生を送った人には、悲しみというより、うらやましいという思いが先立ちます。
とはいえ、偉大な作家の死には違いありません。合掌。

哲学者のG・E・ムーアは善は定義できないと主張しました。もしそれが正しいなら、哲学や倫理学は最大の目標を失ってしまうことになります。ほんとうに善は定義できないのでしょうか。
ちなみに、哲学辞典や倫理学辞典で「悪」の項目を引くと、たいていは「善の欠如体」と説明されています。ですから、善が定義できないと悪も定義できないことになります。
 
ムーアが善は定義できないとした理由は、定義とは複雑な概念をより単純な概念に分割して説明することで、そうすると善はもっとも単純な概念なので、それ以上分割できないからというものでした。たとえば、緑色は青色の絵の具と黄色の絵の具を混ぜ合わせた色だと定義することができますが、青色や黄色は原色ですから、そうしたやり方では定義できません。それと同じだということです。
 
なんだかあやしい説ですね。なにがあやしいかを説明してみましょう。
まず定義とは複雑な概念をより単純な概念に分割して説明することだということですが、それは定義のひとつの方法にすぎません。ほかの方法もあるはずです。定義の方法が全部でいくつあるかは知りませんが、少なくとも、ほかのものとの関係性で定義するという方法があります。
つまり青色は、黄色と赤色とともに三原色を構成する色だというふうに定義できます(これはもちろん絵の具の三原色の話です)
ですから、善はほかのものとの関係で定義すればいいわけです。
 
というわけで、ムーアの善は定義できないという説は一応打ち破ることができたと思います。
もっとも、今度は善をなにとの関係で定義するかが問題になります。
まずひとつ考えられるのが、悪との関係です。これが善悪二元論です。しかし、善悪二元論は定義にはなりません。悪が「善の欠如体」で、善が「悪の欠如体」みたいなことだからです。
では、どうすればいいのか。これがわかれば世界一の思想家になれるはずです。
で、実は私はわかっているのですね。
別に信じなくてもいいですけど。
ヒントをいうと、善、悪、正義の三元論で定義するとうまくいくのです。
善と悪は対立概念です。正義と悪も対立概念です。しかし、善イコール正義ではありません。善と正義はどこが違うのか。そこを手がかりに考えていけば解けるはずです。
 
このブログを読み続けていてもそのうちわかるはずです。

 
このところ「菅おろし」は下火になってきたようです。震災後のたいへんな時期に首相を替えようというのがもともと無茶な話ですから、落ち着くところへ落ち着いた格好でしょう。
 
私の見るところ、菅首相よりもはっきりとましだと思える次期首相候補はいません。もしいるなら、その人の名前を前面に出して「菅おろし」が行われているはずです。また、自民党が民主党よりうまくやるとも思えません。いや、もしかしてうまくやるかもしれませんが、そうすると二度と政権交代のない国になってしまいそうで、長期的にはもっと悪くなることになります。
 
それにしても、ろくな次期首相候補もいないのに「菅おろし」があれほど叫ばれたのはどうしてなのでしょう。自分なりに考えてみました。
 
まず大震災の被害があまりにも大きいので、その現実を受け止められない人がたくさんいたのでしょう。そういう人は誰かのせいにしたい。天災を誰かのせいにするというのはもちろん間違っているのですが、多少は人災の面もあるので、その面を拡大解釈する。そして、権力の椅子に座り慣れていない菅直人という男がちょうど目の前にいたので、人災の面は全部菅直人のせいだと解釈して、菅直人をバッシングする。そういう心理だったのではないでしょうか。
ですから、次期首相候補も決まらないのに「菅おろし」だけが叫ばれたのですし、原発事故が多少落ち着き、少しずつ復興の歩みが始まるとともに、「菅おろし」の叫びも沈静化してきたというわけです。
 
まあ、心理分析というのは正しいと証明することはできませんが、こう解釈するとつじつまが合うのは事実ですので、書いてみました。
 
ところで、自民党など野党が次期首相候補もいないのに「菅おろし」を叫ぶのは、立場的には正しいことです。そうしてどんどん首相のレベルを低下させていけば、政権交代に結びつくからです(自民党政権の末期がそうでした)。しかし、大震災後の今それをやるのはどうかと思われます。

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