村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年06月

社会生物学者のエドワード・O・ウィルソンは、社会科学や人文科学はやがて生物学によって統合されるだろうと述べ、猛烈な反発を買いました。現実にも生物学が社会科学や人文科学を統合するような流れにはなっていません。ウィルソンの野望はなぜ達成されないのでしょうか。
それを考えるためにも今日はこの本をとりあげました。2009年出版の本ですが、昨日のエントリーで小田亮著「利他学」をとりあげた流れです。
 
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内藤淳著「進化倫理学入門」光文社新書
 
内藤淳さんはもともと法学畑の人ですが、生物学的な観点から人間をとらえて研究を行っているということで、この本もきわめて意欲的ものといえます。
新書らしく平明な文章で書かれていて、一見わかりやすく、おもしろそうですが、実際のところはそうではありません。インターネットで本書の書評や感想を調べてみると、はっきりいって悪評サクサクです。私自身も同じ感想です。
とはいっても、倫理学の本といえばつまらないものと決まっています。図書館や大型書店で倫理学の棚を見てみると、どれもこれもつまらなさそうな本ばかりです。本書も例外ではなかったということです。
しかし、本書は進化倫理学を名乗っています。進化倫理学も普通の倫理学と同じなのかと思われると困ったことですし、その意味で本書は罪つくりでもあります。
 
もっとも、内藤淳さん自身は、進化倫理学を名乗るのは当然だと思っているでしょう。というのは、内藤さんはダーウィンの説を踏襲して本書を書いたからです。
しかし、ダーウィンの説だからといって、すべてが正しいわけではありません。そこのところを検証してみましょう。
 
ダーウィンは「種の起源」を出版した12年後に「人間の進化と性淘汰」を出版し、そこで道徳の起源について述べました。
ダーウィンによると、社会性動物には親が子の世話をしたり、仲間を助けたりという利他的性質があり、人間はその利他的性質をもとに道徳をつくりだしたということです。
人間は道徳をつくりだしたことでさらに利他的行動をするようになり、そうして人間は道徳的な存在になったというわけです。
ダーウィンの進化論は、当時の人々の人間観をくつがえす革命的なもので、そのため大きな反発を招きました。今でもアメリカには進化論を否定する人がたくさんいます。しかし、ダーウィンの道徳起源説にはなんの反発も起きませんでした。なぜなら、それは革命的なものではなく、当時の人々の価値観と基本的に同じだったからです。
ダーウィンは道徳の起源を考えるときに、世の中に妥協してしまったのです。
ですから、法学畑の内藤さんもダーウィンの道徳起源説を抵抗なく受け入れ、“進化倫理学”の本を書くことができたというわけです。そして、それは当然ながら、従来の倫理学の本と同じものになってしまいました。
 
道徳の起源については、ダーウィン説のほかにもうひとつ考えられます。
動物は基本的に利己的なものであり、人間はその利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというものです。
人間は道徳をつくりだしたことでさらに利己的になり、互いに激しく争ったり、支配したり、抑圧したりするようになったというわけです。
こちらのほうが本物の進化倫理学だと思います(内藤さんの“進化倫理学”と混同されては困るので、私は「科学的倫理学」と呼ぶようにしているのですが)
 
本書では、「嘘をついてはいけない」と子どもに教える理由について、嘘をつくと損をするからだというふうに説明されています。
道徳を損得のレベルで理解しようとするのは進化倫理学的に正しいのですが、正しいのはそこだけです。あとは全面的に間違っています。嘘をつくと得する場合はいっぱいあります。
では、正しい説明とはなんでしょうか。私はこんなふうにいいます。
「嘘をついてはいけない」と子ども教えるのは、嘘をつかれるとこちらが損をするからです。
「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるのは、こちらに迷惑をかけられると損をするからです。
「人に親切にしなさい」と教えるのは、こちらに親切にしてもらうと得をするからです。
このように考えると、道徳がすべて損得のレベルで理解できます。
これこそが本物の進化倫理学です。
 
 
ウィルソンはダーウィンの間違いを訂正していません。そのためウィルソンの野望は達成されないのです。 
内藤さんには、人間は利己的性質から道徳をつくりだしたという考えのもとに、本書を書き直していただきたいと思います。

人間はあくまで動物ですから、人間の行動の基本的な部分が生物学的に規定されるのは当然のことです。たとえば、ホッブスは人間の自然状態を「万人の万人に対する戦争」であるといいましたが、進化論からすればそんな動物はすぐに絶滅してしまうはずで、ありえないことです。これからは進化生物学と整合性を持たない思想は淘汰されていかねばなりません。
というわけで、大震災後という、ある意味よいタイミングで出版されたこの本の書評を書いてみます。
 
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小田亮著「利他学」新潮選書
 
小田亮さんはもともとサル学の人で、本書は社会生物学、進化心理学、人間行動進化学といった分野の本になります。
 
大震災後、被災者たちの互いに助け合う姿が報道されて世界の感動を呼び、また世界中の人々から被災者への援助が寄せられました。人間はなぜこのような利他行動をするのかということを、主に進化生物学を使って科学的に説明したのが本書です。「利他学」というタイトルそのままです。
つねに科学的データに基づいて書かれ、文章も平明です。科学的データから離れて著者の推測を述べる部分は、ちゃんとそれとわかるように書かれています。
 
ただ、私には決定的な不満があります。それは、本書が利他学の本であるということです。
利他学の本に利他学の本であるからけしからんなどというのはいいがかりとしか思えませんが、たとえていえば、高血圧の予防法とか、ガンになりにくい食事とか、そんなことが知りたくて「健康本」なるものを手にとってみれば、もっぱら健康のすばらしさばっかりが書かれていたみたいなことです。健康のすばらしさを知ったからといって、それがなにかプラスになるということはありません。
 
利他学はあっていいのですが、もうひとつ利己学も必要です。利他学と利己学は車の両輪のようなもので、利他学だけではほとんど意味がないのではないでしょうか(もちろん第一歩としての意味はあります)。
 
大震災で被災者はすばらしい利他行動を示しました。その一方で、原発事故を招いたのは、政府、電力会社、原子力の専門家たちの利己的なふるまいでした。彼らはみずからの利益のために“安全神話”をつくりだし、原発建設予定地にお金をばらまき、その地域の人たちも利己的な行動として原発を受け入れました。
また、戦争は人々を不幸にする最大のものですが、人類がこれまで限りなく戦争を繰り返してきたのは、互いの利己行動がぶつかりあったからでしょう。
私たちの幸不幸はほとんど利己行動によって決定されているといっても過言ではありません。お金を手にしたり恋人を得たりすることで私たちは幸福になり、他人の利己行動によって幸福を奪われ、また自分の利己行動によってみずから不幸を招いてしまいます。
こうした利己行動も当然進化してきたはずです。
 
文系の学者は社会の矛盾や問題点を見て、そこから発想するのが普通だと思いますが、理系の学者はあまり社会の矛盾を見ない傾向があると思います。大学の先生ともなれば生活の不安はないし、社会の矛盾など見なくても生きていけるのでしょうか。
 
私たちのたいていの行動は、利己的であると同時に利他的でもあります。
たとえば、贈り物という行為は、一般的に利他的な行動と見なされていますが、文化人類学で「贈与の一撃」という言葉があるように、贈り物によって相手に精神的な負債を与えて自分が優位に立つという利己的な面もあります。
また、商売というのは主に利己的な目的でするものですが、客に喜ばれるという利他的な要素を追求することで結果的に成功します。
かといって、商人が「お客様のもうけが第一、こちらのもうけは二の次です」と語る言葉をまに受けてもいけません。
つまり、利己的要素と利他的要素は複雑にからみあっており、それを解明することにこそ学問の醍醐味があるのではないでしょうか。
利他学だけでは物足りないのです。
 
 
ところで、利他学と利己学を車の両輪として考えたとき、道徳をどう位置づけるかという問題が出てきます。
ダーウィンは、人間は利他的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスも同じ考えですし、小田亮さんも同じ考えのようです。
しかし、私は人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。
常識とはまったく逆なので、私はこれを道徳観のコペルニクス的転回と呼んでいます。
そして、これによって人間のすべての行動を合理的なものとしてとらえることができ、人文・社会科学における科学革命が始まると考えています。
 
小田亮さんが今後、進化生物学による人間行動の研究を進めていかれるときには、この道徳の位置づけの問題をぜひ考慮していただきたいと思いますし、進化生物学界全体でも考慮していただきたいと思います。
 
道徳観のコペルニクス的転回については、村田基のホームページでより詳しく説明しています。
 

海外旅行をすると、その国の紙幣に描かれた人物の写真や肖像画を見て、これは誰だろうと首をひねり、いろいろ推理することも旅行の楽しみのひとつです。もちろん一目でわかる人物もいます。イギリスならエリザベス女王とダーウィン、中国は毛沢東、ベトナムはホー・チ・ミンなど。
では、日本にきた外国人観光客は日本の紙幣を見て、どう思うでしょうか。夏目漱石、樋口一葉、野口英世を知る人はまずいないでしょう。最初から外国人にアピールするための人選ではありません。
外国人にわかってもらえないといけないわけではありませんが、紙幣の人物はやはりその国を代表するような人間であるわけですし、その人間が外国人にまったく知られてないというのは情けないことです。
そこで、外国人にアピールするような紙幣の人物はいないかと考えてみました。
 
外国人に写真だけでわかってもらえる人物といえば、東條英機と昭和天皇でしょう。しかし、これは紙幣の人物にはあまりふさわしいとは思えません。
あと、世界に知られている人物といえば、黒澤明監督でしょう。写真にアルファベットの名前をつけておけば、かなりわかってもらえるのではないでしょうか。
それから、ドラマ「おしん」は多くの途上国で大人気になりましたから、「おしん」のモデルであったヤオハン創業者の和田カツの写真を説明つきで載せると、多くの人が納得してくれるでしょう。
ヨーロッパでは大相撲の好きな人が多く、ロンドンのマダム・タッソーの蝋人形館には千代の富士の人形があったので(今はないようです)、千代の富士という手もありそうです。少なくとも相撲取りというだけで外国人は納得してくれそうです。
本田宗一郎、ソニーの井深大、盛田昭夫というのも日本らしくていいような気がしますが、外国人にはそれほど知られていないでしょう。
紫式部はちゃんとした肖像画がありませんし、外国人で文学研究者以外に知る人はまずいないでしょう。
織田信長、徳川家康、坂本龍馬も外国人にはまったく知られていないと思います。
 
このように考えてくると、要するに日本には世界的な偉人がいないということになります。世界第三位の経済大国にしてはかなり情けないことです。
もっとも、将来のことを考えると、世界的な人気作家の村上春樹、ips細胞の山中伸弥教授などが候補に上がってくるかもしれません。
いや、それだけではありません。村田基も有力な候補になるでしょう。
村田基って誰?
このブログ主の村田基ですよ。
 
私は、人類がいかにして道徳をつくり出したのかについての仮説を考え出しました。
人間を含めた動物は根本的に利己的な存在であり、人間はその利己的な性質をもとに道徳をつくり出したというのがその仮説です。
一方、ダーウィンも道徳の起源についての仮説を考えていました。それは、人間は利他的な性質をもとに道徳をつくり出したというものです。
果たして村田基の仮説とダーウィンの仮説とどちらが正しいのでしょうか。
それはこれから広範囲に検討されていくはずですが、最終的に私の説が正しいと認められるのは火を見るよりも明らかです。
となると、私はコペルニクス、ダーウィン、アインシュタインと並ぶ科学史上の偉人ということになります。
となると、紙幣の人物になってもぜんぜん不思議ではありません。
今からそのための写真を撮っておかなければ。
 
村田基の道徳起源についての仮説をより詳しく知りたい方は、村田基のホームページへ。

1983年から数年間、「覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」という大規模なキャンペーンが行われました。「覚せい剤はあなたを廃人に」というCMもありました。昔はむちゃくちゃなことがまかり通っていたものです。人権後進国といわれてもしかたがありません。
ちなみにそのテレビCMはこちら。
 
「覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」のどこが悪いんだ、と思う人もいるかもしれませんね。
悪い理由はふたつあります。
ひとつは、覚せい剤中毒になって、そこから抜け出ようとがんばっている人をひどく傷つけるということです。一度覚せい剤をやったやつは人間じゃないとか、廃人だとかいわれてるわけですからね。
こんなことは、覚せい剤中毒になった人の立場に立ってみればすぐにわかることです。
 
もうひとつの理由は、これでは覚せい剤追放の効果があまり期待できないばかりか、かえってマイナスになってしまう可能性があるということです。
 
「緩慢な自殺」という言葉があります。アルコール依存症や薬物依存症になる人の心理を表現した言葉です。つまり、人生に疲れ、希望をなくしたためにアルコールにはまり、このままでは体も生活もだめになるとわかっていても、そこから抜け出す気にならない。だから、「緩慢な自殺」だというわけです。
人生がなにもかもうまくいかず、自暴自棄になっている人に対して、「人間やめますか?」などといえば、「いっそのこと覚せい剤をやって、人間をやめてやるか」と思って、逆に手を出す人がいるかもしれません。
「覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」のキャンペーンが有効だと思う人は、人間をやめたくない人で、ほかの人も自分と同じだと考えているのでしょう。しかし、世の中には人間をやめたい人もいるのです。
 
それから、覚せい剤についてなんの知識もなく、友だちからやせる薬だとか元気になる薬だとかいわれて、軽い気持ちで手を出してしまう人が多いとよくいわれます。そういう人に対しては、このキャンペーンは有効かもしれません。しかし、そういう人はほんとに多くいるのでしょうか。私は疑問に思っています。
普通の人は、医者でない人から薬を勧められたら少しは警戒します。しかも、それは注射器や“あぶり”で摂取する薬なのです。なにも知らずに軽い気持ちで手を出すなんていうことがあるでしょうか。
私の考えでは、覚せい剤に手を出す人は、「緩慢な自殺」とまではいかなくても、今の生活に大きな不満や違和感を感じている人です。たとえば、家庭でも学校でも居場所がなく、不良仲間がよりどころになっているような人は、不良仲間から勧められたら覚せい剤に手を出してしまうでしょう。
そういう人に対しては、このキャンペーンはなんの効果もないばかりか、むしろ逆効果です。なぜならこのキャンペーンには、今の生活に悩んでいる人への思いやりややさしさがまったくなく、あるのは脅しだけだからです。こんなキャンペーンが横行する一般社会よりも、「この薬をやれば元気になるよ」とやさしさを装って勧めてくる裏社会へと多くの人が傾斜していっても不思議ではありません。

私は、覚せい剤で複数の逮捕歴のある芸能人の誌上対談の原稿を担当したことがあります。そのとき、彼がなぜ覚せい剤にはまってしまったのか、そしてなぜ覚せい剤を断つことができないのかがわかった気がしました。
 
対談のテープ起こし原稿を読むと、明らかにつじつまの合わないところがいくつもありました。前にいったことと、あとでいったことが違うのです。その意味で、ロス疑惑の三浦和義さんの原稿と似ています。
(三浦和義さんについては「ロス疑惑についての一考察」で書いています)
 
私は原稿を読んで頭をかかえました。明らかに矛盾したことを書くわけにはいきません。文章のテクニックでごまかすことはできますが、あいまいなところがいっぱいある文章はつまらなくなります。
このときはまだウィキペディアも充実していなくて、ネットで調べてもわかりませんでした(ちなみにウィキペディアは芸能人の情報が多いということでよく批判されますが、メディアの仕事をしている人には確実に喜ばれていると思います。インターネットが発達する以前、なにが調べにくいかというと、芸能関係の情報なのです。わからないことは図書館に調べに行くことになりますが、芸能関係の情報は図書館にほとんどないからです)
 
私は繰り返し原稿を読み、どれが正しい事実なのかを考え、そして、ついに真実にたどりつきました。
彼が自分から先に話したことは事実なのです。しかし、対談相手がそれを誤解することがあります。
たとえば、彼が「22歳のときに大きな転機がありました」といったとします。それからほかの話題に移り、また転機の話に戻ったとき、対談相手が「転機は20歳でしたね。そのときあなたは……」といったとします。彼はそれを訂正しないのです。そのため、転機があったのは20歳のときという前提で話が続いていくので、前半と後半が違ってくることになります。
対談をしていると(対談に限りませんが)、当然誤解が生じることがあります。それは当然、そのつど訂正して対談を続けていかなければなりません。
彼は相手の話をさえぎって、「いや、そうじゃなくて、転機があったのは22歳のときです」というべきなのです。
しかし、これは“話の腰を折る”という行為です。一瞬、話の流れが断たれます。
彼は“話の腰を折る”ことができないのです。そのため、対談相手の誤解は放置され、いったん放置された以上、あとになって訂正することもできなくなります。
22歳と20歳というのは目に見えやすい誤解ですが、目に見えにくい、つまり水面下の誤解というのもあります。それも全部放置されます。そのため、対談の原稿を読むと、矛盾だらけになってしまったのです。
私は、この人は“話の腰を折る”ことができない人なのだ、相手の誤解を訂正しない人なのだという前提で原稿を読みました。そうするとすべてのことが矛盾なく、明快に解釈できたのです。
それによって、なんとか対談原稿をまとめることができました。
 
この人はなぜ“話の腰を折る”ことができなかったのでしょうか。それは、気が小さかったからです。瞬間でも、相手の不興を買うようなことができなかったのです。
私は対談原稿をいっぱい担当しましたが、こんなに気が小さい人は見たことがありません。若い女性タレントでも、自分について誤解されればすぐに訂正します。
 
この、複数の逮捕歴のある芸能人は、実はコワモテの役柄を演じることを得意とする役者でもあります。あのコワモテのイメージの人が、実際はひどく小心者であったのです。
このイメージの落差、つまり外面と内面の差をとりつくろうには、相当な精神的エネルギーがいったでしょう。それに疲れ果て、つい覚せい剤に手を出してしまう。そういうことだったのではないでしょうか。
 
芸能人に限らず、繰り返し覚せい剤に手を出す人は、意志が弱いと非難されます。
しかし、その人のことを深く知れば、そんな意志の問題ではないことがわかってきます。
覚せい剤に手を出す人は、非難されるべき人ではなく、救済されるべき人です。

人生相談を見ていると、本人の努力では解決不能ではないかと思われる相談があります。それでも、回答者はなんかの回答をしなければなりませんが、「横やり人生相談」では自由に回答できるのが強みです。次の相談も、相談者よりもむしろ家族の態度に問題のあるケースです。
 朝日新聞「悩みのるつぼ」
借金で迷惑かけた私です  
 30代半ばの既婚女性です。6歳、3歳と、男の子と女の子がひとりずついます。独身時代からの勤めを今も続けています。
 私にはどうやら浪費癖があるようで、独身時代から給料などはきれいに使い切ってしまっていました。
 ギャンブルにはまったり、他の男性に貢いだりすることこそありませんが、結婚後も、夫に使い道を報告することもないまま、買い物を続けました。そして気がついたら、数百万円も使ってしまっていました。
 カードローンやクレジットの返済は、夫の両親にお願いして払ってもらいました。
 夫はかなり怒りました。
 実家にお願いせざるを得なかったので、今後は感謝をしながら正しい人生を歩んでいかなければならないと思っています。でも、私には何ひとつ、取りえがありません。
 整理整頓も、料理も子育ても、妻としても、たいして何もできないのです。せっぱつまっても、できないのです。これだけは誰にも負けることがないというものもなければ、大好きなことも特にありません。
 このままでは親子関係も、夫婦関係もどんどん悪くなる一方です。こんな年になって、こんな悩みは恥ずかしくてしかたないのですが、自分で悩んでいても何の答えも出ません。
 何か助言をいただければ幸いです。
 
これに対して回答者の評論家岡田斗司夫さんの回答を要約してみるとこんな具合です。
問題の出発点は、「私には取り柄がない」という認識です。そのため浪費に走る。浪費の借金で評判が落ちる。評判を取り返すには取り柄が必要だ。だが、私には取り柄がない――という無限リピートに陥っています。これを脱出するには、キャラを変えることです。今まで目指した「カッコいい私」は諦めて、「おバカだけど頑張る=愛される私」を目指しましょう。そのためには、今まで浪費していたけど今は浪費していない金額を家族に報告し、夫にほめてもらいましょう。ほめられること、評価されることがあなたには必要です。もし夫がほめてくれなかったら、僕にメールしてください。僕がほめてあげますから。
 
私もだいたい同じような認識ですが、ただ、最後の部分には同意できません。夫がほめてくれたらいいのですが、まずほめてくれないでしょう。岡田斗司夫さんにメールを送ってほめてもらうというのも、現実にはありえないでしょう。とすると、この回答では問題を解決できないことになります。
 相談者は、自己評価が低く、「私には取り柄がない」という認識を持っているのはその通りでしょう(買物依存症の原因はたいていそれです)。その上、借金を夫の実家に肩代わりしてもらい、夫からは怒られ、さらに自己評価が下がってしまいました。こんな状態で、夫との関係を改善することができるとは思えません。それどころか、低い自己評価を忘れるために、また浪費に走ってしまう可能性があります。
 
おそらく誰でも、相談者が悪いからこの問題が生じたのだと考えるでしょう。そして、問題を解決する責任は相談者自身にあると考えるでしょう。
私もまた、確かに相談者が悪いからこの問題が生じたのだと考えますが、それに加えて、夫や夫の両親のやり方が悪いために、問題がさらにこじれてしまったのだと考えます。
ですから、責任はむしろ夫と夫の両親のほうが大きいくらいだと考えます。
では、夫と夫の両親のどこが悪かったのでしょうか。
 
妻に数百万円の借金があると発覚したとき、夫と夫の両親は離婚も考えたかもしれません。しかし、子どももいるし、世間体もあるし、ここはお金を出して解決しようと最終的に判断したのでしょう。
お金を出すと決めた以上、正しいお金の出し方があります。それはきっぱりと、気持ちよく出すということです。
ところが、両親はお金を出すときに、いろいろ恩着せがましいことをいったのでしょう。そのため相談者は「今後は感謝をしながら正しい人生を歩んでいかなければならないと考えています」と書いています。この文章にはぜんぜん感謝の気持ちがありません。感謝の気持ちがあれば、「夫の両親にとても感謝しています」と書くはずです。
「夫はかなり怒りました」と書いてあるから、そうなのでしょう。まずいことをしたと思っているときに怒られると、ますます落ち込みます。
つまり、夫と夫の両親は、よってたかって相談者の自己評価を下げるようなことをしているのです。これでは問題が解決しないばかりか、さらに深刻化することが予想されますし、現に相談者の自己評価は最低レベルになり、人生相談に救いを求めています。
 
では、どうすればよかったのでしょう。
両親は「ちっとも気にしなくていいよ。お互い家族じゃないか」とでもいってぽんとお金を出せばよかったのです。そして夫は、「お前の気持ちをわかってやれなかった俺も悪かった。これからはこんなに借金がふくらむ前にいってくれ」といえばよかったのです。
こうすれば、相談者は家族に感謝し、家族のために立ち直ろうという気になったでしょう。
実に単純な理屈です。
 
しかし、現実には、夫と夫の両親の対応のまずさを指摘する人はほとんどなく(私ぐらい?)、相談者を批判する人が圧倒的でしょう。
この世の価値観はあべこべなのです。
 
ところで、相談者はどうしてこんなに低い自己評価を持つにいたったのでしょうか。相談者は2人の子どもを育てながら独身時代からの勤めを続けているということですから、世間的には高く評価されてもいいはずです。なんの手がかりもありませんが、おそらくは育った家庭で評価されなかったのでしょう。
そして、夫や夫の両親も評価してくれる人ではなかったわけです。
こういう不幸から脱出するのは容易なことではありませんが、正しい認識を持つことはその第一歩です。

最近の芸能界で活躍が目立つのはマツコ・デラックスさんでしょう。あれだけ毒のあることをいって受け入れられているのはたいしたものです。
ところで、私はマツコさんを見ると、故・ナンシー関さんを思い出します。ナンシー関さんもマツコさん並みの体型で、いつも同じようにゆったりした服を着ていました。ナンシー関さんは消しゴム版画家で、コラムニストですが、有名人を批評するその文章にはかなりの毒があって、それもマツコさんに似ています。
 
私は、ナンシー関さんはこんなことばかり書いていると、相当な反論や反撃を受けるのではないかと心配しましたが、実際のところはそれほどのこともなかったようです。
なぜナンシー関さんはそれほど反論や反撃にあわなかったのかというと、やはりあの体型に理由があると思います。あそこまで太っていると、なにか人間離れした感じがしてきます。たいていの人は、人間離れした存在に対してまともに反論する気にならないのではないでしょうか。
 
それから、毒舌といえば、おすぎとピーコさんのことが思い出されます。おすぎとピーコさんもまたつねに毒舌を吐き続けて、たいした反撃を受けることもなく芸能界を渡ってきました。なぜそれが可能だったのかというと、やはり2人がオカマだったからでしょう。オカマという性の境界を越えた存在に、多くの人はどう対応したらいいのか困惑したのではないでしょうか。
 
マツコ・デラックスさんは女装家で、やはり性の境界を越えた存在です。
つまりマツコさんは、人間離れした体型と、性の越境者というふたつの強力な防御装置を持っているので、毒舌をまき散らすことが可能となっているのです。
 
私は決して毒舌家ではありませんが、世の中の常識に真っ向から逆らうことをこのブログで書き続けていますので、そのうち反撃を受けるかもしれません。
まともな反論ならいくらでも対応できますが、世の中なにがあるかわかりません。
マツコさんをうらやましく思う毎日です。
かといって、今から太って、女装するという気ももちろんありませんが。

おとなはみな大なり小なり変態であるというのが私の考えです。人間は、生まれたときは正常ですが、成長する過程で、しつけや教育やその他さまざまな力が加えられ、ゆがんでいきます。性的嗜好のゆがみがいわゆる変態性欲です。
もっとも、フロイトは変態についてまったく逆の考え方をしています。人間の赤ん坊は多形倒錯といって、あらゆる変態性を持っていて、それがしつけや教育によって型をはめられ、正常化するという説です。これは反論する気にもならないほどバカバカしい説です(チンパンジーや犬の赤ん坊も多形倒錯なのでしょうか)
 
女性に聞いてみると、干していた下着を盗まれたとか、露出狂に会ったとかいう人が驚くほどたくさんいて、変態の多さを実感させられます。もしかして、1人の下着フェチが何百枚も盗み、1人の露出狂が数百人の女性に見せているということも考えられますが。
人が変態になるのは幼児期に原因があり、しかも本人はそのことを認識できていない場合がほとんどですから、変態を治療するのはきわめて困難です。ほとんど不可能といっていいかもしれません。
ですから、世の中は変態を受け入れるしかありません。変態を迫害して、変態がストレスをためたり、欲望をためたりすると、かえってよくない結果を招きます。
そもそも、たいていの変態は無害です。SM趣味の人がお互いに楽しんでいるのはもちろん問題ありませんし、ロリコンも二次元で楽しんでいる限り問題ありません。
 
ただ、ロリコンが学校教師になると問題かもしれません。猫にマタタビというか、羊の群れに狼というか、現実にロリコン教師の犯罪はしばしば新聞紙上をにぎわせます。
そこで、私の考えですが、教員採用試験のときに、性的嗜好も検査することにすればいいのです。たとえばいろいろな画像を見せて、脳の反応を調べれば、どんな画像に興奮したかがわかるはずです。
 
こんなことをいうと、性的嗜好は個人の秘密で、そんなことを調べるのは許されないという反論があるでしょう。確かに今の世の中では許されません。なぜ許されないのかというと、変態が差別され、迫害される社会だからです。そんな社会で変態性を調査すると、差別・迫害を助長することになってしまいます。
しかし、私はそもそも変態を差別するのはよくないと主張しているのです。この主張が社会に広く認められ、変態を世の中にさらしても普通に生きていける社会になっていれば、変態性の調査はなんの問題もありません。たとえば、視力が弱くてはパイロットになれないように、「君は小さい子どもの裸に反応したから、教師はむりだよ」と普通にいえるはずです。
 
ということは、どういうことかわかるでしょうか。ロリコンなど変態を差別する社会だから、ロリコンの犯罪が防ぎにくくなっているのです。ロリコンを差別・迫害する人たちは、自分たちは子どもを守ろうとしているのだと思っているのでしょうが、実際は逆の結果を招いているのです。
 
こんなことになるのは、現在の倫理学や道徳観が根本的に間違っているからです。私はこれを天動説的倫理学と呼んで、地動説的つまり科学的倫理学への転換を主張しています。
 
教師の役割はひじょう重要です。なぜなら子どもはまだ変態になっていない存在だからです。
これまでの教師は、自分の変態を棚に上げて子どもを教育してきたので、結果的に変態の拡大再生産をしてきました。
これからの教師は、学校では自分の変態性を記した教員証を必ず胸につけることにすればいいと思います。そうすれば、変態が変態でない子どもを教育することのバカバカしさに気づき、謙虚な気持ちで子どもと接することができるようになるでしょう。

6月21日の東京は暑くて、最高29度だったようです。午後4時ごろ、パソコンが突然ダウンしました。買って2年ほどの今のノートパソコンは、このようなことが何度かあります。以前のパソコンにうんざりするほどあったシステムトラブルとはまったく違います。突然ブチッと全電源喪失して、動かなくなるのです。
最初は故障かと思ってドキドキしましたが、電源ボタンを押すとちゃんと起動します(正常に終了しなかったので云々という表示は出ますが)。考えるに、パソコンが過熱したために緊急停止する現象のようです。
今回も暑い中でパソコンを使い続けて、しかもそのときは動画を見ていました(たぶん動画だと発熱量も多いですよね)。やっぱりそういうことかと思って、今回は少しもあわてず、電源ボタンを押しました。
 
パソコンが起動するのを見ているうちに、はたと気づきました。すぐ電源ボタンを押したので、パソコンは熱いままです。これではまたすぐダウンするかもしれません。
十分にパソコンが冷めてから起動すべきだったのですが、ボタンを押してから起動を中止するわけにはいきません。
そこで私は緊急措置をとることにしました。
キーボードの左側が全体的に熱いので、ティッシュを水で濡らして、キーボードの手前、タッチパッドの左側をティッシュで拭きました。表面が濡れたら、その気化熱でパソコンは冷めるはずです。
一度濡らしてもすぐ乾いてしまいますから、何度も拭きました。そのうちその部分の温度が下がってきて、効果が確かめられました。
何度も拭くのはめんどうですから、ティッシュを四つ折りにして熱い部分に置き、それを濡らすようにしました。これなら効果が持続します。もっとも、キーボードを濡らさないように注意しないといけませんが。
ティッシュではなくハンカチのようなものでもいいでしょう。ただ、タオルみたいに厚いものだと放熱効果が少なくなってしまうはずです。
 
今後、暑い中でパソコンを使い続けなければならないときは、この方法をやってみようと思います。
 

泉谷しげるのバカヤロー人生相談(アサヒ芸能2011623)
【相談】ずっと男子校で周りに女性がいなかったのですが、4月に就職し、女性がたくさんいる現場で働いています。困っているのは「何人くらいの女性と交際したことあるの?」とか「交際した女性はどういう人?」とか同じ質問を何度もされることです。多くても少なくてもダメな気がするし、聞いてくる女性に合わせるべきでしょうか? 答えた結果によってどんな噂が立つのか、女性のネットワークが怖くて、ヒヤヒヤしています。うまくかわす方法はありますか。(愛知・23歳・会社員)
 
 
これに対する泉谷しげるさんの回答は、神秘的な存在でいたほうが得だからよけいなことをいうな、女の質問なんかどうせヒマつぶしなんだから、適当に答えてお茶を濁しておけ、というものです。
別にこの回答に異論があるわけではありません。そもそも相談内容がどうでもいいようなことだからです。
ただ、私はこのどうでもいいような相談をする男性に興味を覚えてしまいました。つまりこれは草食系男子の典型ではないかと思えたのです。
 
もちろんこの相談者は、聞かれたらありのままを答えたらいいのです。「まだ女性とつきあったことはありません。当然童貞です」と。
いや、相談者がまだ女性とつきあったことがないとは書いてありません。しかし、相談者は嘘をつくことを前提にしています。ということは、ほんとうのことが恥ずかしくていえない。つまり一度もつきあったことがないのだろうと推測できるのです。
 
そういう相談者に対して、女性たちはなぜ「何人くらいの女性と交際したことあるの?」とか「交際した女性はどういう人?」とか何度も聞いてくるのでしょうか。もしかして相談者はもてているのでしょうか。
いや、たぶんそうではないはずです。もてているのなら、「今、彼女はいるの?」とか聞いてくるはずです。
おそらく女性たちは、相談者の女性慣れしない様子を見て、すべて理解した上で、「交際した女性はどういう人?」と聞いてくるのです。そして、答えに戸惑っている相談者を見て、おもしろがっているのです。
彼が泉谷しげるさんに相談したくなったのもわかります。
 
それにしても、職場に女性がたくさんいて、そういう会話ができるというのは、きわめて恵まれた環境です。世の中には、出会いの機会がないと嘆いている人が多いのですから。
ところが、相談者はそんな恵まれた環境に逆に困惑して、自己防衛に汲々としているわけです。これこそまさに草食系です。
草食系の人は自分では、女性とそんなにつきあいたいと思わないのだといいますが、それは多分に強がりで、実際のところは、女性と接するとひどく気疲れするので、自然と女性を敬遠するようになっているだけです。
 
さて、相談者はどうするべきかということですが、「今まで3人の女性とつきあいました」などというのはだめです。嘘だというのがバレバレだからです。したがって、ほんとうのことをいうしかありません。
「今まで女性とつきあったことはありません。えっ? そんなことを聞くんですか。もちろん童貞ですよ」
最初はバカにされるかもしれませんが、それはいっときのことです。
そもそも相談者は、女性慣れしていないのに、それをなんとか隠そうとするから、女性たちがからかってくるのです。ほんとうのことをいえば、もうからかうのはやめるはずです。
では、そのあとどうなるか。確実に好感を持たれます。
相談者もいわば鎧を脱ぎ捨てたことで、女性と接しやすくなるはずです。女性とちょっとエッチな話をしてるうちに、だんだんと女性にも慣れてきます(事務的な話だけではそうはなりません)
草食系男子といっても、なにか本質的な問題があるわけではなく、単に女性に慣れていないだけですから、これで草食系を脱出できる可能性大です。
実際におつきあいするところまでいけるかどうかは、相談者の魅力次第ですが、その可能性も大でしょう。まあ、あまり派手なことをすると職場にいづらくなるので、ほどほどにしておいたほうがいいと思いますが。
 

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