村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年06月

アメリカのウィナー下院議員が自分の下着姿の写真をツイッターで公開したことで辞任を表明しました。どうやら露出症の人であるようです。しかし、どうして辞任しなければならないのでしょうか。
 
ウィナー議員は6人だかの知人女性に自分の下着姿の写真を送っていたそうですが、それはおとな同士のプライベートな行為ですし、送られたほうが不愉快であれば、ちらっと見ただけで写真を削除してしまえばいいわけです。権力をかさにきたセクハラとはわけが違います。
問題は、写真をツイッターで公開してしまったことです。しかし、これはあくまでミスですし、下着姿であれば犯罪にはならないはずです(現に犯罪とする報道はありません)
変態罪はありませんし、変態公開罪もありません。
ちなみにわが国では、山崎拓衆議院議員(当時)が飲尿プレイを公開されましたが(相手の女性が実名で告白)、議員辞職はしませんでした。
 
結局、犯罪ではなくても、圧倒的に非難されたために辞職せざるをえなかったのでしょう。
しかし、非難しているのはどういう人なのでしょう。自分は変態ではないのでしょうか。
キリストは「汝らのうち罪なき者まず石もて打て」といっています。自分の変態を棚に上げて、ウィナー議員を非難している人が多いのではないでしょうか。
私の考えでは、ほとんどのおとなは変態です。レンタルビデオ店のアダルトコーナーの棚を見たらわかります。
 
変態が非難され、誰もが変態を隠して生きなければならない社会よりも、誰もが変態であることを隠さずに生きられる社会のほうがいい社会でしょう。
 
昔は同性愛も変態とされていましたが、今はそうではなく、逆に同性愛者を非難する者が差別主義者とされてしまいます。
すべての変態がそのように市民権を得ている社会に住みたいものです。
 
 
日テレNEWS24 2011617
米下院議員、下着写真送信受け辞任発表
 インターネットを通じて、自分の下着姿の写真を女性に送っていたアメリカ民主党・ウィーナー下院議員が16日、辞職を発表した。
 ウィーナー議員は、インターネットを通じて知り合った女性に自分の下着姿の写真などを送っていたが、先月、間違って簡易投稿サイト「ツイッター」で公開してしまった。写真が発覚した当初、ウィーナー議員は「ハッキングに遭った」と説明していたが、その後、ウソだと認めて謝罪、同じ民主党のオバマ大統領からも辞職を迫られていた。
 ウィーナー議員は辞職会見で「私自身の過ちによって議員続行は不可能になりました。特に妻に謝りたい」と述べた。しかし、記者からの質問を受け付けず、会見は5分足らずで終わった。
 ウィーナー議員は次のアメリカ・ニューヨーク市長の有力候補で、妻はクリントン国務長官の側近というエリート夫婦。
 大きなスキャンダルに発展した今回の騒動は、「議員辞職」という形で幕引きとなった。

広島市の松井一実市長の「黒い雨」発言が問題発言として報じられています。私がその中でとりわけおかしいと思うのはこの部分です。
 
「権利要求みたいに『くれ、くれ』じゃなく、『ありがとうございます』という気持ちを忘れないようにしてほしい」
 
この発言のどこがおかしいのか。もしかして、おかしくない、当然の発言だと思う人もいるのではないでしょうか。
そう思う人は、ちょっと考え直したほうがいいかもしれません。
 
「『ありがとうございます』という気持ちを忘れないようにしてほしい」といわれて、「ありがとうございます」という気持ちになるかというと、なるわけがありません。これは「金を出しているんだから感謝しろ」といっているわけで、こういう態度を“恩着せがましい”といいます。
 
松井市長の気持ちを推測するに、もともと被爆者援護の予算をへらしたかったのでしょう。だったら、ことの当否は別にして、恨まれるのを覚悟で予算削減をするのもひとつの手です。しかし、市長は予算削減はしないと決めた。決めた以上は、いさぎよく出さなければいけません。
しかし、市長はそういういさぎよさがなく、気持ちを引きずってしまった。そのためついいやがらせをいってしまったというわけです。
そして、その発言のせいで、せっかく予算を出しているのに感謝されないという結果を招いてしまいました。
 
さて、市長の発言は、感謝のたいせつさを説いていて、道徳的な発言という形になっています。だから、この発言は正しいと考える人がいるかもしれません。
しかし、これは所詮いやがらせの発言なのです。
 
市長の発言は、道徳とはなにかを考え直すよいきっかけを与えてくれています。

新聞や雑誌の人生相談を読むと、この回答者のいっていることは違うなあ、私のほうがもっとうまく答えられるのに、と感じることがよくあります。そこで、相談されてもいないのに、勝手に自分なりの回答を書いてみることにしました。回答者に対しては失礼になるかもしれませんが、相談者がもし読んでくれればプラスになるかもしれないということで、ご容赦ください(相談者が読んでくれる可能性はまずないでしょうが)
題して「横やり人生相談」ということで、シリーズにしていくつもりです。
 
 
読売新聞「人生案内」
小2息子 私にだけ反抗
 
 30代主婦。息子は昨年、小学校に入学しましたが、反抗期なのか、母親の私の言うことを聞きません。
 朝学校に行く時はだらだらと支度し、学校から帰っても宿題もせず、ずっとだらだら過ごしています。それを注意すると、荒っぽい言葉で言い返してきます。学校で忘れ物をしたのを私のせいにして、暴言を吐いたこともあります。
 こうした態度は私にだけで、父である夫に対しては反抗もせず、1度注意されれば素直に聞きます。荒っぽい言葉も出ません。夫からは「お前が息子にガミガミ言いすぎるから、余計言うことを聞かなくなるんだ」と注意されました。
 といって、夫の言う通りあまり怒らずに放っておくと、息子の態度はますます横暴になります。どういう接し方をすれば、素直に母親の言うことを聞き、暴言を吐かなくなるでしょうか。(東京・N子)
 「小1プロブレム」という言葉をご存じでしょうか。授業中に動き回ったり、友達や先生に乱暴な態度を取ったりする子どもが近年増えています。
 息子さんの反抗は母親のあなたに向けられているようですが、行動パターンとしては同じでしょう。慣れない小学校生活からのストレスなどが背後にあると考えられます。従来は入学後、1か月ほどで収まっていましたが、最近は1年くらい続く子どもも少なくない点も似ています。
 対策はただ怒るだけではダメです。授業に興味が持てたり先生に優しく抱きしめられたりすると、落ち着きを取り戻すことがあります。家庭と学校の連携が大切ですから、担任の先生に相談し協力を求めてください。
 もう一つ大事なことは家庭内での親の振る舞い、特に父親の態度です。ある家庭での例ですが、子どもが母親に反抗的な態度を取った時、「ママを侮辱することはパパが許さない」という夫の一言で子どもが立ち直ったと言います。息子さんを叱りすぎないようにという夫の助言にあなたが耳を傾けることも必要でしょうが、夫にも自分が批評家・傍観者的になっていないか、反省してもらう必要があるように思います。
 (大日向 雅美・大学教授)
201152  読売新聞)
 
 
このお母さんに問題がありそうなのは誰にもわかるでしょうが、どう問題なのかを指摘できる人はあまりいないのではないでしょうか。
このお母さんは、息子の行動を表現するのに、「朝学校に行く時はだらだらと支度し、学校から帰っても宿題もせず、ずっとだらだら過ごしています」と二度も「だらだら」という言葉を使っています。よほど息子の行動が腹にすえかねているのでしょう。
「だらだら」という言葉には、お母さんの感情や価値判断が入っています。この言葉を基準にものごとを考えては、この問題の解決は見えてきません。
この息子は朝学校の支度をするとき、「元気がなく、行動がゆっくり」という状態にあるのです。これが客観的な表現です。
では、なぜ「元気がなく、行動がゆっくり」なのかというと、おそらく学校に行くのがいやなのでしょう。そして、学校から帰ってきても「元気がなく、行動がゆっくり」なのは、疲れているからだし、宿題などいやなことがあるからでしょう。
 
回答者は「慣れない小学校生活からのストレスなど」と元気のない原因を指摘しています。おそらくその通りでしょう。それ以外の原因が考えられないからです。
ところが、このお母さんは、息子が「だらだら」するのは息子自身に原因があると考えています。
このお母さんはまた、「荒っぽい言葉」「暴言」「横暴」という言葉で息子の行動を表現しています。そして、それも息子自身に原因があると考えています。
 
ところが、この息子はお父さんにはまったくそういう態度をとらないというのです。
これによって、息子の問題ある態度はむしろお母さんに原因があるのではないかと誰でも推測できるでしょう。
つまり、息子の態度が「だらだら」しているとしか見えないお母さんは、息子にいら立ちをぶつけるので、息子は「荒っぽい言葉」「暴言」「横暴」で応えているというふうに推測できるのです。
 
このケースは、息子がお母さんとお父さんに対する態度がまったく違うので、問題は息子ではなくお母さんにあると誰にでも推測できましたが、もしお父さんがお母さんと同じように息子に接していたら、多くの人は息子に問題があると推測したかもしれません。そうしてなにも悪くない子が「悪い子」にされてしまう悲劇が世の中にはいっぱいあります。
 
このケースの問題の始まりは、お母さんの態度にあります。この相談の冒頭でお母さんは「反抗期なのか、母親の私の言うことを聞きません」といい、最後に「どういう接し方をすれば、素直に母親の言うことを聞き、暴言を吐かなくなるでしょうか」といっています。つまり、このお母さんの最大の望みは、息子が自分の言うことを素直に聞いてくれることなのです。
これはきわめて自己中心的な態度です。少しでも思いやりがあれば、息子が慣れない学校でつらい思いをしているのではないかという当然の推測ができたでしょう。
 
このお母さんは息子の態度を「だらだら」「荒っぽい言葉」「暴言」「横暴」と道徳的に問題のある態度ととらえています。つまり「道徳の目」で息子を見ています。
「愛情の目」がないとき代わりに出てくるのが「道徳の目」です。
自分の子どもが道徳的に問題のある態度をとっていると思えたとき、自分は「愛情の目」をなくしているのではないかと疑ってみてください。
 
 
ところで、回答者は夫にも反省してもらう必要があるといっていますが、これは問題を正しくとらえていません。母親が反省するのが先決ですし、それで問題は解決するはずです。

人間は自分の死を受け入れられないのと同様、自分の老いもなかなか受け入れられません。そこで、じたばたして、いろんなことを考え出します。
 
ひとつは、老いによって衰えることをむしろ肯定的にとらえようという考え方です。この代表的なものが、赤瀬川原平さんの言い出した「老人力」です。年をとってボケてくると、それを「老人力がついた」と表現するわけですが、これはかなりシャレのきいた表現というべきでしょう。
実際は、そんなシャレのきいていないことがよくいわれています。たとえば、「年をとると頭の回転は遅くなるが、経験値がそれを補うので、人間の能力は限りなく発展していくのだ」みたいなことです。
ある程度そういうこともいえなくはないですが、限度があります。年をとるとともに総合力も低下するというのが現実でしょう。所詮はむだな抵抗です。
 
もうひとつは、老いることそのものをなんとかしてなくそう、あるいは遅らせようという考え方です。この代表的なものが、最近よく聞く「アンチエイジング」です。たとえば、美容整形手術で顔のシワをとる、お腹の脂肪をとる、歯はインプラントにする、さらには臓器を取り替える(誰の臓器?)というようなことで老化に抵抗するわけです。最近はサーチュイン遺伝子という老化を抑制する遺伝子が注目されており、動物実験ではサーチュイン遺伝子を活性化させることで寿命が20~30パーセントも延びたということです。
しかし、これとても限界のあることは明らかです。臓器の取り替えはできたとしても、脳の取り替えはできません。これもまた、むだな抵抗です。
 
われわれは老いを受け入れるしかありません。そして、これがもっとも長生きする道でもあると思います。人は老いて死ぬ存在であることを認めてこそ、なんとかそれを遅らせようと健康に留意するようになるからです。

「愛は勝つ」(KAN作詞・作曲)という歌があります。これはひじょうに困った歌です。よい子には聞かせられません。おとなでもこの歌を聞いていると、人生を誤ってしまうおそれがあるので注意してください。
 
「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」と曲の最後に繰り返されます。これが曲のキモでしょう。
しかし、誰でもわかるはずですが、必ず愛は勝つなんていうことはありません。たとえば、2人の女性が1人の男を愛したとき、少なくとも1人の女性の愛は負けることになります。
「いや、それは一時的な負けであって、最後は勝つのだ」という反論があるかもしれません。
しかし、未婚の人や、孤独死する人が多くなっていることを見ても、最後に愛が負ける場合があることは明白でしょう。
もっとも、それに対しても、「いや、そういう人はちゃんとした愛のなかった人なのだ。愛を信じて貫けば最後は勝つのだ」という反論があるかもしれません。
孤独死する人がもともと愛のなかった人だというのはひどい話ですが、可能性としては考えられます。
しかし、愛を信じて貫いた人も、最後にその愛は負けることがあります。いや、つねに最後に愛は負けるのです。
 
なぜ最後に愛は負けるのか。これは簡単なことです。
若いときは愛が心にあふれていても、年を取ると愛はだんだんとひからびてきます。これは自然の摂理です。年を取ると体力や感性が衰えるのと同じです。
そして、人は死にます。人とともに愛も死にます。つまり愛は最後は負けるのです。
 
さらに問題があります。
ずっと愛し合っている夫婦がいるとします。年を取ると、どちらかが先に死にます。生き残ったほうは、愛する対象を失ってしまいます。愛が深ければ深いほど、この悲しみも深くなります。
これもまた、愛が負けたということではないでしょうか。
 
ですから、「愛は勝つ」の歌は根本的に間違っています。
KANさんには「必ず最後に愛は負ける」と歌っていただきたいと思います。
 
私はなにも死を持ち出すことでイヤミをいっているわけではありません。むしろ逆です。死を意識すると愛が深くなるからこそいっているのです。
若いときの恋愛は若いときだからこそです。そのことを意識すれば、ますますその恋愛が貴重なものと思えるでしょう。そして、愛する人がいつか死ぬことを意識すれば、その人のことがますます愛しくなるはずです。
 
「最後に愛は勝つ」というのは気休めです。気休めはむしろ愛を堕落させます。
「最後に愛は負ける」という真実が愛を鍛えるのです。

ナショナリズムとは利己主義の拡大したものであり、愛国心とは利己心の拡大したものです。あまりにも単純で、身も蓋もない話ですが、現実とはそんなものです。
 
たとえば、隣の家同士で敷地の境界線のことでもめていることがあります。両家は互いに相手がいかに自分勝手で理不尽であるかを主張しますが、第三者にすればどうでもいいことですし、両者の言い分を聞いても、どっちもどっちとしかいいようがありません。
「そんな争いにエネルギーを使っているより、適当なところで妥協したほうがいいんじゃないか」というのが第三者の判断です。
 
日本も隣国と尖閣諸島だの竹島だの北方領土だのでもめていますが、第三国からすればどうでもいいことですし、日本の主張と隣国の主張を聞き比べても、どっちもどっちとしかいいようがありません。
いや、こんなことをいうと日本の主張のほうが正当だという人が山ほど出てくるでしょうね。でも、それはここが日本だからです。中国や韓国やロシアでも同じことをいっているわけです。
たとえばギリシャとトルコはキプロス問題でもめていますが、私たち第三国から見たら、こっちが悪で、こっちが正義だなどということはなくて、どっちもどっちなのです。それと同じです。
 
ナショナリズムや愛国心は、たとえば中学生が政治に興味を持ちだしたときに一度は通過するものですが、いつまでもそこに固着しているのは正常ではありません。
おとなというか、普通の人間なら、利己主義やナショナリズムでは問題が解決できないことに気づき、もっと広い視野を持つようになるものです。
 
なんだかすごく当たり前のことを書いてしまった。恥ずかしい。
 
 

私はライターとして仕事をしている関係から、人とはちょっと違う角度から人間観察ができます。たとえば、ロス疑惑で有名な故・三浦和義さんの特異な性格も、そのインタビューを原稿にまとめるときに見えてきました。
 
そのとき三浦和義さんは刑期を終えていて、映画のプロデュースをしたことでメディアに登場しました。インタビューのときは、立て板に水のしゃべりで、おもしろく聞いていたのですが、いざ原稿をまとめるときに、はたと困ってしまいました。微妙に事実と違ったり、矛盾したり、あいまいであったりするところがひじょうに多いのです。
今はインターネットの検索で有名人について基本的なことは簡単に調べられます。三浦さんは石原裕次郎と親しかったこと、今は大企業となった会社と自分の会社が競っていたことなどを話しました。それは必ずしも嘘とはいえないのですが、微妙に誇張されているのです。その誇張するやり方は、関係ないことを続けてしゃべって関係があるように思わせたり、おとなになってからのことを子ども時代のことと思わせたりといったやり方で、嘘というよりは相手に誤解させるしゃべり方といったほうがいいかもしれませんが、結果的に相手をだますということでは嘘になります。
つまり、三浦和義という人は、つねに軽い嘘をついているという虚言症の人なのです。その軽い嘘というのは、人を陥れる嘘ではなくて、自分を少し大きく見せかけるという嘘です。それは大なり小なり、ほとんどの人がやっていることですが、三浦さんはつねにやっているという点で少し特異です。
そうしたことが、話し言葉を文章化するとき、おのずと見えてきたのです。
 
そういう虚言症の人が、妻が撃たれた悲劇の夫として渦中の人となりました。三浦さんは、その悲劇性を強調するようにしゃべりました。どうせロスでのことですから、なにをいってもわからないだろうと思ったでしょう。
ですが、それがロス疑惑として追及されるようになると、そのしゃべったことがひとつひとつ蒸し返され、嘘だということになります。三浦さんは嘘だといわれると、すかさず嘘ではないという理由を述べます。それは、そのときは説得力があります。しかし、それもまた嘘なのです。それが追及されると、また三浦さんはそれが嘘ではないという理由を述べるか、こんな理由でやむをえず嘘をついたのだと述べますが、それもまた嘘なのです。
 
こうした追及が可能になったのは、すべての発言がビデオで記録されるようになったからです。三浦さんはつねに軽い嘘をつきながら世の中を渡ってきましたが、言葉はその場限りのものですし、人の記憶は不確かなものですから、その嘘が追及されることはまずありませんでした。ビデオ時代にマスコミの渦中の人になったことで、三浦さんの虚言癖が誰の目にも見えることになり、人々を驚かせたのです。
 
テレビで三浦さんの言い分が放映されます。それは説得力があり、いかにも真実に思われます。しかし、テレビ局が取材した事実と照らし合わせたり、過去の発言と比較したりすると、疑問が出てきます。この過程は、そんじょそこらの推理小説よりもおもしろいものでした。
 
私たちは、人が嘘をつくのはなにか隠したい真実があるからだろうと考えます。ですから、三浦さんが嘘をつくのは真犯人だからだろうと多くの人が考えました。そうしてロス疑惑は限りなく広がっていったのです。
しかし、実際のところは、三浦さんはいつもするように、自分を大きく、カッコよく見せようとしゃべっていただけなのです。
いや、この書き方では、三浦さんが無実のようですね。実際のところ、それはわかりません。
ただ、ロス疑惑があれほど大きな騒ぎになったのは、三浦和義さんが虚言症の人だったことにあるのは間違いないと思います。
 
もし三浦和義さんがロス事件をマスコミから追及されなかったら、今ごろは成功した実業家になっていたかもしれません。
自分を大きく見せる術を心得ていることは、実業家として成功するひとつの条件ですから。

作家の柳美里さんは2010年出版の「ファミリー・シークレット」で自分自身の幼児虐待と被虐待の体験を告白しましたが、芸能界では東ちずるさんが2002年に「“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―『いい人、やめた!』母と娘の挑戦」で自分自身の被虐待の体験を告白しています。この2人ともに心理学者の長谷川博一氏がからんでいます。自身の被虐待体験に向き合うには、カウンセラーの助けが大きいということでしょう。
しかし、この2人に先だって、自力で被虐待体験を告白した芸能人がいます。それは飯島愛さんです。
飯島さんは2000年に「プラトニック・セックス」を出版し、子ども時代に両親から虐待され、中学時代から家出を繰り返した体験を告白しました。有名人で自分が親から虐待されたことを告白したのは飯島さんが最初ではないでしょうか(内田春菊さんは1993年の「ファザーファッカー」で性的虐待の体験を書いていますが、これは小説ですし、義理の父親との関係です)
 
「プラトニック・セックス」はミリオンセラーになり、社会現象になりました。しかし、共感したのは若い女性が多く、有識者からはあまり評価されませんでした。タレント本であり、しかもゴーストライターが書いたものだということも評価されない理由だったでしょう。
 
しかし、私の考えでは、そういうこととは別に、この本には致命的な問題があります。それは、本の前半部では自分を死ぬほど殴っていた父親と、本の最後の場面では、なごやかにビールを酌み交わすのです。つまり親と和解してハッピーエンドになっているのです。
これはいくらなんでもありえないだろう、というのが私の感想です。
文庫版解説の作家の大岡玲さんも、この幸せな大団円では「文学になりかけの胎児」である、つまり真の文学にはならないと苦言を呈しています。
おそらくは出版社や所属事務所の意向でこうした結末になったのでしょう。確かに2000年当時ではこうした結末でないと受け入れられないという人も多かったかもしれません。
しかし、これは飯島さん自身の思いとはかけ離れた結末だったはずです。
 
では、飯島さんの思う通りの結末とはどんなものでしょうか。
これがひじょうにむずかしい。これからも親を恨んで生きていくというのは、ある意味自然な結末ですが(AV嬢のインタビューを集めた本で、「親に復讐するためAV嬢になった」といっている人がいました)、それでは飯島さんも含めて誰も納得しないでしょう。
いちばんいいのは、飯島さんを虐待した両親も子ども時代に親から虐待を受けていたかわいそうな子どもだった、そのことを知って飯島さんは両親を許す気になる、というものです。もし長谷川博一氏がかかわっていたら、そういう結末になったはずです。
しかし、飯島さんが自力でそういう認識に到達できるはずはなく、おそらく飯島さんも結末がつけられなかったので、出版社や事務所があのような結末にしたのだと思います。
 
しかし、飯島さんはあの結末では納得がいかなかった。一世一代の告白をして、そのことによってなにかが変わるかもしれなかったのに、告白そのものが骨抜きにされてしまったのですから。
結局、飯島さんは自分を見失ってしまいました。ほんとは親との関係はなにも変わっていないし、まだ親の愛に飢えているのに、周りの人は飯島さんは親の愛を取り戻して幸せになったと思っているからです。
 
飯島さんの死は自殺ではないようですが、多くの人は限りなく自殺に近いものと受け止めているのではないでしょうか。
飯島さんをそういうところに追いやったのは、被虐待体験の告白を正面から受け止めようとしなかった出版社や事務所(それに世の中)だというのが私の考えです。
 
もっとも、世の中の価値観と違う告白が受け入れられないのはよくあることです。
たとえば、三島由紀夫は「仮面の告白」で自分が同性愛者であることを告白しましたが、当時の価値観では受け入れられず、かといって作品の文学的価値があまりにも高いために否定もできず、あくまでフィクションだということで受け入れられました。三島由紀夫はほんとうの自分を世の中に受け入れてもらえなくて、結局自殺することになってしまいました。
また、歌手の佐良直美さんはレズビアン体験を告白したために、芸能界から引退を余儀なくされました。
 
飯島愛さんはあまりにも先駆者でありすぎたのかもしれません。

結婚して2人暮らしが始まった最初の日、夕食ができあがり、料理がすべて食卓に並んでいざ食べようとしたとき、妻がまな板を洗いレンジまわりをふき始めました。2人いっしょに食べ始めたいので、しかたなく私は待ちました。
次の日も同じでした。いざ食べようとすると、妻は台所の後片付けをするのです。これではせっかくの料理が冷めてしまいます。私は「そんなのあとでいいじゃないか」といいましたが、妻はやめません。油汚れなどは早めに拭いたほうがいいという理屈があるようです。
空腹は人を怒りっぽくさせます。何日か同じことが続いたとき、私は怒りを爆発させかけましたが、かろうじて踏みとどまりました。
このときがひとつの分水嶺だったのだと思います。それからは怒ることもなく、妻にもなにもいわなくなりました。
 
そして、妻の実家に行ったときです。妻と義母が2人で料理をし、天ぷらができあがりました。天ぷらはもちろん揚げたてがおいしいです。しかし、妻と義母はほかの料理をつくっているので、待たなければなりません。料理がそろい、家族全員で食事を始めたときは天ぷらはかなり冷めていました(段取りも悪いです)
つまり、妻の実家ではずっとそういうやり方をしていたのです。ちなみに妻も義母も猫舌です。
私は熱いものは熱いときに食べたいほうです。ラーメン屋でぬるいラーメンが出てきたときはがっかりします。
思い返せば、私の実家では父親が晩酌をしました。父親は家族そろっての食事より先に晩酌を始め、料理をできたものから持ってこいと母親に口うるさくいっていました。父親はきわめてせっかちな性格です。
要するに妻にせよ私にせよ、育った家の流儀をそのまま受け継いでいたということです。
 
早く熱い料理を食べるか、時間を置いて少し冷めた料理を食べるか、これはどちらがいいとも決められる問題ではありません。
あのとき怒りを爆発させなかったのは正解でした。
あのとき怒っていれば、私はこんなふうにいっていたでしょう。
「いい加減にしろ! 何回同じことをいわせるんだ!」
そして、それでも改まらなければ、こんなふうにいっていたでしょう。
「お前はわざとやってるんだろう! 俺をバカにするのか!」
要するに、自分の怒りを正当化する理屈を考えだすわけです。「わざとやる」ということは、相手に悪意があるということで、相手に悪意があるなら、こちらの怒りは正義の怒りということになります。
これが道徳の基本的な構造です。
「相手が悪い。自分は正義だ」
家庭に道徳を持ち込まないこと。これが夫婦円満の秘訣です。
 
ところで、私の家庭では料理は妻だけがつくっているわけではありません。ご飯を炊くことと味噌汁をつくることは毎日私がやっていますし、魚をさばくことも私の役割です。妻が残業などで遅くなるとわかっているときは、私が全部つくります。
適切な役割分担ももちろん夫婦円満の秘訣です。

古川聡さんがソユーズに乗り込んでから、連日その動向がニュースになっています。日本のマスコミは、日本人宇宙飛行士が宇宙に行くときだけスペースシャトルや宇宙ステーションのことをニュースにします。人工衛星「はやぶさ」のことが騒がれたのも日本の人工衛星だったからです。宇宙時代がきても、結局のところ私たちはナショナリズムから脱却できていないようです。
 
私は子どものころ、人類が宇宙に進出するようになると、自然と人類としての一体感が生まれ、国同士の争いというのは消滅していくものだと思っていました。しかし、アポロ11号が月に着陸し、月面に星条旗を立てる生中継の映像を見たとき、私は自分の夢が無残にも砕かれたのを知りました。当時、1969年はベトナム戦争がたけなわで、とりわけ星条旗は許しがたいものでした。あの月面に突き立てられた星条旗は、日本の1人のSF少年の心にも突き刺さったのです(あとで国連旗も立てられましたが)
 
そのときから、私の宇宙への思いは変質したと思います。宇宙へ進出しても地球上の問題は解決しないのだから、宇宙へ進出することよりも、地球上の問題を解決することのほうが先決だと思うようになったのです。
 
地球上の問題の中でも最大のものは、ナショナリズムの問題でしょう。国単位でものごとを考えるから戦争が起きるのです。
 
日本は「お国のために」といってあまりにもバカな戦争をやったために、世界でも珍しいほどナショナリズムに嫌悪感を持つ国になりました。しかし、ときがたつとともに、水が低きに流れるように、人の心がやすきにつくように、ナショナリズムはしだいにはびこってきました。ナショナリズムは国単位の利己主義ですから、利己主義的な人間はどうしてもそこにはまってしまいます。
 
このブログは、利己主義とナショナリズムを克服する方向性をもって書かれていますので、今後も読み続けていただきたいと思います。
もちろん利己主義とナショナリズムを克服したところには愛があります。

このページのトップヘ