村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年06月

投資の世界ではポジショントークという言葉があります。たとえば著名な投資家が「今後、金は下がる」とか「円は上がる」とかいう予想をメディアでしゃべるとき、その人は金売りのポジションや円買いのポジションを持っていて、自分の利益のために相場を動かそうとしていることがあります。それがポジショントークです。相場の参加者はそういう裏を読まなければいけません。
 
政治の世界にはポジショントークという言葉はありません。なぜないのかというと、すべての発言がポジショントークだからです。
野党議員はもっぱら政府批判ばかりを語りますし、与党議員はもっぱら政府擁護ばかりを語ります。これはジャイアンツファンやタイガースファンが互いにいい合うのとは違います。ジャイアンツファンやタイガースファンは本音でしゃべりますが、たとえば与党議員は、政府のやっていることはまずいと思っていても、その本音とは逆のことをいいます。また、嘘をついたり真実を隠したりという情報操作もします。
また、ポジションも複雑です。与党議員が政府寄りのポジションをとっているのは当然ですが、派閥のボスに聞かれることを想定してしゃべることもありますし、献金を多く受けている業界に有利な発言をすることもあります。
 
私も昔は、「朝まで生テレビ」のような番組をよく見ていましたが、最近は、とくに政治家が多く出てくる回はほとんど見ません。政治家のポジショントークを聞くのがうんざりするからです。政治家の本音が聞けることはめったにありません。
 
さらに問題なのは、政治評論家や新聞記者も野党寄りや与党寄りなどのポジションを持っていて、ポジショントークをすることです。本来なら中立的立場から政治家のポジショントークを分析して、本音や真実を明らかにするのが政治評論家や新聞記者の役割のはずですが、残念ながらそうはなっていません。
 
政治に関心のある一般人も、たいていはひいきの政党があるわけですから、ポジショントークになります。政治家のポジショントークをさらに増幅させたりするので、政治の世界は混乱するばかりです。
 
投資家は、冷静に計算してポジショントークをします。
政治家も、冷静とまではいえなくても、ある程度計算してポジショントークをしています。
問題なのは、一般人です(政治評論家や新聞記者も一般人に近いかもしれません)
彼らのポジショントークは感情のままで、計算がありません。
本人は、世のため人のために政治的な発言をするのだと思っていますが、たぶんそうではありません。自分の人生の中でたまった不満や怒りというネガティブな感情を政治の世界に放出しているというのが実際のところでしょう。
 
政治の世界が混乱するのは、政治家にも責任はありますが、政治に関心のある一般人により大きな責任があるといえます。

菅さんが辞めそうになったとたん、確実に菅さん以上だという次期首相候補がいないという現実に直面し、こんなことなら「菅降ろし」なんかするんじゃなかったと反省している方も多いことでしょう。こんなときにこれという失策もない首相を辞めさせるなんて、国際社会からなんというバカ国民かと思われますし、復興は遅れるしで、いいことなんかありません。
 
そもそも「菅降ろし」の名分は、菅内閣では復興が遅れるということなのでした。
しかし、「復興の遅れ」とはなにをもっていうのでしょうか。「復興の適正な進み方」という基準があれば、それに対して遅れていると認定することができますが、そんな基準はないのですから、みんな適当なことをいっているだけです。仮設住宅建設の遅れも、多分に地方自治体の領分です。具体的な仕事は役所が進めているわけですから、内閣を変えても、その部分は変わりません。
とにかく、現状で「復興の遅れ」があるから首相が辞めなければいけないなら、次の首相もいつでも辞めさせられることになります。
 
それから、菅首相が復興に関する会議をたくさんつくりすぎて、そのために復興が遅れているということもずいぶんいわれます。しかし、会議の数の適正数をいう人はありません。それに、会議の数が多いために具体的にどう復興が遅れているのかをいう人もありません。ただ、会議の数が多いからだめだというだけです。
未曾有の事態なのですから、会議の適正な数を考えている余裕はありません。そんなとき、とりあえず多めにつくっておくというのは正しい戦略です。少なすぎるより多すぎるほうがいいのです。よけいな会議は自然と休眠状態になり、淘汰されていくからです。
菅総理はそういう戦略的な思考ではなく、直観的な判断をしたのかもしれませんが、結果的に正しいことをやっています。
 
それから、言った言わない騒動というのもあります。これにうんざりした人も多いでしょう。しかし、そのこと自体はどうということもない話で、それによって復興が遅れるということもありません。マスコミの騒ぎすぎという面が大きいでしょう(ということは、マスコミ主導の政局なのかもしれません。やはりナベアツじゃなかったナベツネさんが動かしているのでしょうか)
 
今は、次期内閣が菅内閣と同じ道をたどらないことを願うばかりですが、それには日本国民の「首相やめさせたい病」を治すことが先決です。
 

遠藤周作の狐狸庵シリーズのエッセイに、女性にプロポーズしようとするとオナラが出てしまい、プロポーズする雰囲気にならなくて、結局ふられてしまう男性の話があります。私はこれを読んだとき、いくらおもしろエッセイとはいえ、こんないかにも嘘とわかってしまう話を書いてはいかんなあと思いました。
 
ところが、私がある女性に決定的な告白をしようと待ち合わせ場所に向かっているときです。急にひどい便意に襲われました。下痢です。私はあわてて駅の便所に戻ってことなきをえましたが、待ち合わせに遅刻し、結局その女性にはふられました(遅刻したのがふられた原因ではありませんが)。その経験から、あのエッセイはほんとのことかもしれないと思いました。
女性に告白するときは緊張します。緊張のために胃腸が変調をきたすことは十分ありうることでしょう。
文庫本の解説に、遠藤周作は自分のことを他人の話として書くことがあると書かれていたので、私はあのオナラ男は遠藤周作自身に違いないと思いました。
 
次は、いわば逆の話です。
私は学生時代は名古屋ですごしましたが、春休み、夏休み、冬休みは必ず京都の実家に帰っていました。就職してからは主に東京にいましたが、やはり正月とお盆は必ず実家に帰っていました。しかし、30歳近くになったとき、今年のお盆は実家に帰るのをやめようと思いました。要するに、もうそろそろ親離れしなければいけないと思ったのです。
そのような決意を固めたとき、便秘になりました。便秘といっても出ないのは3日間だけなのですが、お腹が突っ張って苦しくてなりません。薬局へ行って便秘薬を買いましたが、勧められたのは、飲めば翌朝出るというもの。私としては飲んですぐ出るものを期待していたのですが。それぐらい苦しかったのです。
結局、便秘は一過性のものでした。私はだいたい下痢体質で、便秘で苦しんだのはそのときだけです。
 
異性に接近しようとすると下痢になり、親から離れようとすると便秘になる。どうやら法則があるのかもしれません。
 
多くの人は中学、高校時代に男女交際を経験しますが、私はいわゆるオクテで、初めて女性と交際したのは20代後半です。元祖草食系男子というところでしょうか。
 しかし、男女交際の方法を学ぶのは、幼児が言葉を学ぶのと同じで、年齢がいくと急速にむずかしくなります。その苦闘の中で、下痢だの便秘だのを経験したわけです(私がオクテである背後には親の過保護・過干渉がありました)
つまり男女交際というのは、頭で理解することではなくて全身の神経系にかかわることなのですね。
 
今の草食系の人も私と同じような苦労を経験するのでしょうか。私は40歳すぎて結婚しました。健闘を祈ります。

小学校3年生のとき、担任の先生が休みで代わりにきた先生が、普通の授業ではなく、道徳の話をしてくれました。当時は道徳の時間というのがなかったので、その先生の特別なはからいでした。
「私たちがご飯を食べられるのは、お百姓さんがお米をつくってくれたおかげです。家に住んでいられるのは大工さんのおかげです。服を着ていられるのも服をつくってくれた人のおかげだし、このノートや鉛筆で勉強できるのも、ノートや鉛筆をつくってくれた人のおかげです。私たちはすべてのものに感謝して生きていかなければいけません」
先生は、実際はもっとたくさんの例をあげて、そんなことをいいました。
 
幼い私は、確かにすべてのものに感謝して生きなければいけないなあと素直に思いましたが、同時に自分にはできないなとも思いました。朝、歯磨きができるのは、歯ブラシや歯磨き粉をつくってくれた人のおかげで、靴がはけるのは靴をつくってくれた人のおかげで、自転車に乗れるのは自転車をつくってくれた人のおかげで、道路を歩けるのは道路をつくってくれた人のおかげと、そんなにいちいち感謝していられるはずがないからです。
そして、ひとつの疑問が芽生えました。すべてのものに感謝しなさいと教えているこの先生自身、すべてのものに感謝して生きているのだろうか。そんなことができるのだろうかと。
 
それが、私が道徳に疑問を持つようになった最初でした。
道徳を説く人は、自分も道徳的に生きているのでしょうか。
「人に迷惑をかけてはいけません」と説く人は、自分は人に迷惑をかけないよう心がけているのでしょうか。
はっきりいって、その根拠はありません。
実際に人に迷惑をかけないよう心がけている人は、「もしかして私の行動があなたの迷惑になっていませんか。もしそうならいってください」というでしょう。
それから、「あなたは誰かから迷惑をかけられて困っていませんか」というかもしれません。
 
「人に迷惑をかけてはいけません」という人は、人に迷惑をかけないよう心がけている人ではなく、目の前の人間が人に迷惑をかける人間ではないかと疑っている人です。少なくともその言葉に目の前の人間に対する思いやりはありません(第三者に対する思いやりはあるかもしれませんが)
 
このようなことを突き詰めて考えいくうちに、私は道徳とはなにかについての最終的な解答を得て、「科学的倫理学」を確立したのです
そういう意味では、すべてのものに感謝しなさいといった先生のおかげかもしれません。先生には感謝しています。

大阪府で成立した国旗国歌条例(こんな名前ではありませんが、めんどくさいので)をきっかけに、国旗国歌問題を論じてきましたが、ほんとはこういうことはあまりしたくありません。というのは、これは宗教問題でもあるからです。
 
たとえば官邸で記者会見があるとき、入室した官房長官はまず国旗におじぎをします。東京都の入学式・卒業式では、壇上に演者が現れると、まず正面に張られた国旗におじぎをします。こうした習慣の意味を海外の人にどう説明すればいいのでしょうか。いちばん手っ取り早いのは、これは「国旗崇拝教」の儀式です、ということです。
 
しかし、これは正しくありません。実は官房長官にしても、入学式・卒業式で壇上に立つ人にしても、おそらく国旗を崇拝してはいないからです。
では、どう説明すればいいのでしょう。おそらくこういうふうにいうしかないと思います。
「日本では『国旗崇拝させ教』が猛威をふるっていて、彼らの決めた儀式に従わないと攻撃されるのです」
こういえば、日本にもイスラム原理主義みたいなものがあるのかと納得してくれるかもしれません。
 
「国旗崇拝させ教」という宗教の存在は一般には認知されていませんが、日本人は神社に参拝し、仏教による葬式をあげながら自分は無宗教であると考える国民ですから、当然ではあります。
 
「国旗崇拝させ教」によって国旗崇拝の儀式を強制される人たちは、その当然の結果として、国旗嫌いになっていきます。昔、国民の祝日は旗日ともいわれるぐらいで、多くの家が国旗を掲げました。しかし、今では祝日に町を歩いてもまず国旗を見かけることはありません。逆に交番に国旗が掲げられているのを見て、今日は祝日だったのかと気づくぐらいです。また、昔はオリンピックで日の丸が揚がるのを見ると日本人としての誇りを感じるという声がよく聞かれましたが、今そういう声は聞かれません。
 
そもそも、「国旗崇拝させ教」の信徒(教祖?)である橋下徹知事や石原慎太郎知事、産経新聞や読売新聞の記者や論説委員は、素朴に国旗を崇拝するような心の持ち主とは思えません。
では、「国旗崇拝させ教」の目的とはなんでしょうか。それは、国旗崇拝を強制するといういやがらせそのものにあるのではないかと思われます。
世の中には、人の幸せを願うのではなく、人を不幸にすることで少しでも自分が浮かびあがろうとする人がいます。そういう人に支持されるのが「国旗崇拝させ教」です。
 

世の中には、学校教育に恨みを持つ人がたくさんいます。しかし、「授業がわからなくてつまらなかった」というと、「勉強しないからだ」とか「バカだからだ」と否定されてしまいますし、「規則がうるさくていやだった」というと、「規則を守るのもだいじなことだ」とやはり否定されてしまいます。
自分の子どものことを名目に学校に恨みをぶつける人もいますが、こういう人はモンスターペアレントといわれて否定されてしまいます。
宅間守のように個人で学校に切り込み攻撃をかける者もいますが、死刑にされてしまいます。
こうして学校への恨みはほとんど表面化することがありませんが、そのエネルギーは巨大なマグマのように蓄積されています。
 
橋下徹大阪府知事は学校時代、身近に不良や劣等生と接していましたから、学校教育への恨みが広範囲に存在していることを知っています。ですから、それを利用することで人気取りをはかってきました。たとえば、学力テストの成績を市町村別に公表することを要求したり、PTA解体を主張したり、府教育委員会を解散すると脅したりと、教育界のバッシングを続けてきたのです。
今回、大阪維新の会が成立させた、国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例も、その一環です。一部の教師を力で屈服させるというやり方に、過去に教師の力に屈服を余儀なくされていた人たちが快哉を叫ぶのも、いわば自然な感情でしょう。
 
石原慎太郎都知事は、主に右翼的イデオロギーから同じことをやってきました。橋下知事はむしろイデオロギーよりも、教育界バッシングそのものを目的としてやっているように思われます。
どちらも教員への職務命令という問題に絞り、生徒や保護者を切り離しているのが巧みです(右翼的イデオロギーからやるなら、生徒や保護者も起立すべしという条例になっているはずです)
 
いわゆる街宣右翼は、日教組攻撃という形で教育への恨みを晴らそうとしています。
いわゆるネット右翼は、自分たちは街宣右翼とはまったく違うといいますが、左翼教師を攻撃して教育への恨みを晴らそうとしている点では同じです。
 
石原知事や橋下知事のやり方に反対する勢力の代表的存在に朝日新聞があります。朝日新聞の記者は学歴社会の勝者であり、教育に恨みを持つ人たちからは、ただ朝日新聞の記者であるというだけで恨まれています。
朝日新聞記者に限らず、学者、評論家、エリート層は、教育への恨みが広範囲に存在することに無頓着です。ですから、街宣右翼やネット右翼の心情が理解できません。
 
私は、教育への恨みを晴らそうという思いには正当性があると考えていますが、一部教師のバッシングに走るのは間違っていると思います。それは一時的な快感にはなるかもしれませんが、ますます学校が窮屈になり、さらに教育に恨みを持つ人間をふやしてしまうことになるからです。
 
左翼教師とその他の教師にそれほど違いがあるわけではありません。
教育への恨みは、教師バッシングではなく、教育改革へとつながるものでなければいけません。
 

大阪府で国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例が成立して、また日の丸君が代が問題になってきました。この問題はさまざまなとらえ方ができるので議論が迷走しがちです。とりあえず問題を整理してみましょう。
 
まずこれは政治の問題、とりわけナショナリズムの問題としてとらえられます。ナショナリズムを強化するべきだという立場と、反ナショナリズムの立場とでは、当然賛否が別れます。
また、一般的な国旗国歌の問題としてとらえる人もいれば、過去に軍国主義に利用された日の丸君が代の問題としてとらえる人もいます。この両者が議論すれば、当然議論はかみ合わなくなってしまいます。
それからこれは教育の問題であり、とりわけ規律の問題です。学校では規律はきびしくあるべきだという立場と、学校は自由であるべきだという立場とでも、賛否が変わってきます。
そして、これは入学式・卒業式の構成演出の問題です。国歌斉唱は通常、入学式・卒業式でしか行われないからです。入学式・卒業式はどうあるべきかということと密接に結びついています。
 
というわけで、本格的に論じるのはたいへんなので、今回は入学式・卒業式の構成演出の問題から考えてみます。
 
 
入学式・卒業式は厳粛であるべきだという考えの人が多いようですが、いったい誰がそんなことを決めたのでしょう。まったくバカバカしいことです。
生徒たちは厳粛な式を望んでいるでしょうか。そんなことはありません。楽しくて、感動的な式を望んでいるのです。
実は厳粛な式を望んでいるのは、教育委員会や校長や来賓などの偉い人たちです。彼らは壇上であいさつするとき、生徒や保護者や教員がかしこまって聞いてくれることを望んでいるのです。それをつまり厳粛な雰囲気というのです。
彼らの壇上でのあいさつの内容がすばらしくて、おのずと聞き手が厳粛な雰囲気をかもしだすというのならけっこうなことですが、もちろんそんなことはありません。私は自分の人生で何度も入学式・卒業式を経験して、壇上のあいさつをたくさん聞いていますが、その内容を覚えている話はひとつもありません。まったく時間のむだだったといっても過言ではありません。おそらくこれは私だけのことではないでしょう。
 
偉い人たちの話がつまらないのはわかりきった話です。これは成人式でも同じことで、さすがに二十歳になるとこのつまらなさにつきあいきれないので、“荒れる成人式”なるものが出現することになります。
 
で、国旗国歌は、このつまらない入学式・卒業式をなんとか格好づけするために使われているというわけです。東京都教委が国旗を壇上正面に張るよう指導しているのも、偉い人たちをより偉く見せかけるためです(これらの背後には、教育とはおとなが子どもを一方的に思い通りにすることだという思想があります)
ただ、こうしたつまらない式の中でも、卒業式の送辞や答辞はしばしば感動的であることは付け加えておきたいと思います。
 
では、どんな入学式・卒業式がいいのかということになりますが、当然、偉い人が喜ぶものではなく、生徒が喜ぶものにするべきです。
生徒はどんなものを喜ぶかというのは、おとなにはなかなかわかりません。おとながやると、またおとなに都合のいいものになってしまう可能性があります。
ですから、生徒自身に式の構成演出をしてもらいます。
入学式は新入生が主人公で、卒業式は卒業生が主人公です。彼らの一生の思い出になるような素晴らしい式をつくりだすことは、つくりだす側の生徒にとってもよい経験になります。
どんな式を生徒たちが考えるかわかりませんが、私としては東京ディズニーランド精神で新入生を迎え、卒業生を送り出すようなものを想像しています。
その中に多分国旗国歌の出番はないでしょう。出番があるのはむしろ万国旗でしょうか。
どうしても国旗を張っておきたいというのなら、保護者席の後ろがいいでしょう。当然そこが正しい位置になります。
 
入学式・卒業式ひとつとっても、その人が教育をどう考えているかわかります。
おとなのための教育か、子どものための教育か。あなたはどっちですか。

菅さんの功績は、原発事故処理をそこそこうまくやったことだと思います。市民運動家出身で、反原発思想になじんでいた菅さんは、東電も保安院も最初から信用せず、それが幸いしました。もし自民党政権のままだったら、自民党は電力業界、経産省とともに原発安全神話のトライアングルを形成していたので、安全神話に縛られてしまって、なにも手を打てなかった可能性があります。
 
問題は次の総理ですが、現在の衆議院議員の中から選ぶわけですから、いわばカードがすべて表を向いている状態。意外な切り札が出てくる可能性はゼロです。
政界再編といっても、やはり同じ人間の組み合わせを変えるだけのことですから、同じことです。
小泉政権以降、総理の個人的能力への期待値がひじょうに高くなっており、それに対応できる人材がいるとは思えません。
もし今、次の総理に期待している人がいれば、考え直したほうがいいでしょう。
 
では、どうすればいいか。長期戦でいくしかありません。
まず選挙制度を変えて(昔の中選挙区制がいいと思いますが)、新しい政党、つまりベンチャー政党がどんどん出てくるようにするのです。昔、細川護煕さんの日本新党が出てきただけで政権交代が起きたのですから、これはたいせつなことです。
もし二大政党のまま固定されてしまって、ふたつの政党が談合したら、なんの改革もできなくなってしまいます。そういう事態を避けるためにも、新党が出やすい制度にしなければいけません。
そういう制度にすると、小党分立になって、強力な政権ができないという反論があると思いますが、イスラエルはずっと小政党の連立政権でやっていて、それが問題になることはありません。
 
それから、公職選挙法をかえて、誰でも立候補しやすくすることです。今の選挙は規制があまりにも複雑で、運動員にバイト代を払っただけで国会議員が失職したりします。そのため、選挙運動に慣れた建設業界や労働組合の力が実際以上に強くなっています。20代のフリーターが仲間を集めて立候補できるような、つまり素人集団でも選挙に出られるような制度であるほうがいいと思います。
 
現在の政治の惨状は、国民のレベルと同じなのです。ゆっくりと成長していくしかありません。

中学生がサッカーの練習をしていたらボールが人の家の庭に入ってしまい、それがきっかけで中学生の親が殴られて意識不明の重体になるという事件がありました。日本社会の不寛容さを象徴するような事件です。
 
私が子どものころは、野球のボールがよく人の家の庭に入ってしまい、気安くボールを取らせてくれる家もありましたが、怖くて誰も行けないという家もあり、そのときは泣く泣くボールを諦めなければなりませんでした。
この事件も、きっかけはそのようなことでしょう。ボールをけり込んだ中学生に悪意のないことは明らかなので、容疑者の男がそれを理解すればよかったのですが、目先だけを見ていると、ボールが侵入してくるわ、中学生が侵入してくるわで、許せないという気持ちになったわけです。これはなわばりを守ろうという本能からきているので、ある程度やむをえないことではあります。平手で殴ったというのは行き過ぎですが、こうしたなわばり争いは動物の世界ではよくあることです。
しかし、動物のなわばり争いは一過性のもので、あとを引くことはありません。ところが、道徳を持つ人間はそうはいきません。
「向こうが悪い。悪いことをしたら謝るべきだ」というのが道徳的思考のひとつです。
で、中学生の親は向こうに謝らせようとし、向こうもまた同じことを考えていて争いになったというわけです。
 
ここで、道徳のふたつの利用法について述べておきましょう。
トラブルが起こったとき、謝ってことを収める。これはよい道徳の使い方です。
一方、「お前が悪いから謝れ」というのは、逆にトラブルを起こしてでも自分が優位に立とうとすることで、これは道徳の悪い使い方です。
世の中にはこのふたつの区別のついていない人が多くて、たとえば小さい子どもに「ごめんなさいは?」とむりやり謝らせている母親がいますが、これは完全に間違っています。そして、こういう親に育てられた子どもは大きくなると、機会があれば人に謝らせようとします。たとえば、クレイマーといわれるような人がそれです。
そして、この事件の加害者も被害者もそうした思考法の持ち主だったのでしょう。
 
ともかくこの事件は、道徳が招いた悲劇だといえます。道徳がなければこんなことにはならなかったのですから。
この事件に関して、被害者が悪いとか、中学生が悪いという議論もあります。しかし、そうした議論もまた道徳が招いた混迷なのです。
道徳は誰かに「悪」のレッテルを張って攻撃する道具であって、道徳によって問題を根本的に解決したり、世の中をよくすることはできません(「悪」のレッテルを張った人間を黙らせることで一時的に問題が解決したように見えることはありますが)
 
ともかく、この事件を見れば、道徳がむしろ問題を引き起こすということがよくわかるでしょう。
これからは「脱道徳」の時代です。
 
【中3男子を平手打ち、抗議に来た父親に「死ね」と殴る蹴る】
  サッカーボールが自宅アパートの敷地内に入ったことに腹を立てて中学3年の男子生徒(14)を平手打ちし、抗議に訪れた生徒の父親・武田悦生さん(47)にも暴行を加えて意識不明の重体にさせたとして、千葉県警成田署は30日夜、傷害容疑で成田市の無職・川島一高容疑者(35)を現行犯逮捕した。殴る蹴るの暴行を数十回繰り返した容疑者は「(父親は)謝りに来たと思ったのに抗議で、腹が立った。殺すつもりだった」と供述している。
 成田署によると、川島容疑者は30日午後8時15分頃、自宅アパート敷地内で、同アパートの別棟に住むスポーツ店経営の武田さんに殴る蹴るの暴行を加え、重体にさせた疑いで逮捕された。武田さんは病院に搬送されたが、外傷性クモ膜下出血で意識不明。
 武田さんの長男が同日正午過ぎ、隣接する駐車場から、川島容疑者宅のある棟の高さ2メートル50ほどの壁にサッカーボールを当てるパス練習をしていた際、ボールが誤って壁を越え容疑者の自宅の敷地内に入った。それを目撃した同容疑者は、拾いに来た長男に「何やってんだ」と注意。長男は「すいません」と謝ったが、容疑者は「ニヤついてんじゃねえ」と平手で殴った。
 長男から事情を聞いた両親は午後8時頃、長男を連れて容疑者宅を訪ねた。武田さんが謝罪した上で抗議をすると、容疑者はいきなり殴打。地面に倒れた武田さんに対し「お前なんて死ねよ」などと言いながら、足の裏で背中を踏みつけるなど、殴る蹴るの暴行を数十回繰り返した。母親の「やめて下さい」という叫び声に気付いた数人の近隣住民が現場に駆け付け「それ以上やったら死んじゃうよ」と訴えても聞き入れず、武田さんに意識があることを確認すると、さらに暴行を加えた。長男が通報し、現行犯逮捕となった。
 調べに対し「謝りに来たと思ったのに、オレに謝れと言ってきたから腹が立った。殺すつもりでやった」と供述しているため、県警は傷害から殺人未遂容疑に切り替える方針。川島容疑者は190センチ近い長身でガッチリした体格。アルバイトをしても1~2日しか続かず、両親の援助を受け生活していた。
 武田さんの父・孝一さん(74)によると、武田さんは成田市サッカー協会の理事や中学校のPTA会長も務めており、人望も厚く、これまで川島容疑者を含めて他人とトラブルになったことはなかったという。

2011610602  スポーツ報知)

5月31日は世界禁煙デーだそうで、この機会に私の禁煙体験を書いてみます。
私は20代の終わりごろ、ロングホープを1日3箱吸っていました。これだけの本数になると、のどは痛いし、のべつ吸ってなくてはいけないし、うまいと思える瞬間は少ないし、いいことはなにもないので、禁煙しようと思いました。
禁煙は動機づけがたいせつです。喫煙は肺がんやその他のガン、心臓病、動脈硬化などのリスクを高めること、喫煙者の肺は真っ黒であることなどの知識を頭に叩き込み、健康のためということをメインに禁煙にチャレンジしました。
 
しかし、なかなかうまくいきません。いろいろ試行錯誤したあげく、結局禁煙に成功したのですが、なにが決め手になったかというと、動機づけの変更でした。
 
1日3箱というとかなりの金額になります。計算すると、1年間のタバコ代がほぼ1カ月分の給料に匹敵しました。当時の私はかなりの薄給であったわけですが、1カ月分の給料が煙になって消えていると思うと、実にばかばかしい。私はそんなにケチなほうではないと思いますが、この金額をつねに意識することで禁煙に成功したのです。
 
常識的には健康とか命のほうがお金よりもたいせつだということになりますが、禁煙の動機づけとしては健康とか命はだめなのです。
その理由は簡単です。「太陽と死はじっと見つめることができない」(ラ・ロシュフコー)という言葉があるように、われわれは死をいつも意識から排除しているのです。喫煙は死亡率を高めますよといわれると、そのときはそうかと思いますが、それをいつも意識していることはできないのです。
一方、タバコにかかる金額はことあるごとに意識することができます。
 
1日3箱吸ってる人はあんまりいないかもしれませんが、今はタバコ代が高くなっているので、自分の年間のタバコ代を計算し、さらに10年分のタバコ代、一生のタバコ代なども計算して、それを意識しながら禁煙にチャレンジするといいのではないでしょうか。
 
それから、禁煙は失敗しても後悔せず、何回でもやればいいものだということです。
世の中には1回でも禁煙に失敗すると、意志が弱いとか、だめじゃないかとかいう人がいます。こういう人は他人が成功するのを見たくないので、足を引っ張ろうとしているのです。こういう人は無視して、1回の禁煙は1回の成功だと思って、何回でも禁煙を繰り返して、だんだんとニコチン依存のレベルを下げていくつもりでやったほうがいいと思います。

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