村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年07月

俳優の高岡蒼甫さんが韓流ブームやフジテレビを批判し、所属事務所を解雇されたことで話題になっていましたが、本人がブログを開設して、自分自身の状況を説明しました。これを読むと、韓流ブーム・フジテレビ批判という政治的発言と彼自身の状況の落差に驚かされます。
 
 
高岡蒼甫「自殺図った」ブログで衝激告白 「中日スポーツ」2011730 紙面から
ツイッターで韓国ドラマを放送するフジテレビや韓流ブームを批判し、所属事務所との契約を解消した俳優高岡蒼甫(29)が29日、「本人ブログ」を開設。自殺未遂やパニック障害など、衝撃的な過去を激白した。
 「事実に基づく真相」というタイトルで、書き出しから「この際だからはじめて話します。パッチギを撮り終えた暫(しばら)く後に自分は自殺を図った。その後半年間仕事を休む」と告白。事実に反することを報道され「マスコミ嫌い」になり「うつ状態」だったこと、昨年6月の映画の舞台あいさつ中に倒れたのはパニック障害が原因だったことも明かした。
 今年1月に三島由紀夫原作の舞台作品「金閣寺」に出演したことで「何年かぶりに前向きになれた」というが、東日本大震災後の「放射能の事から目を背けさせたり」する報道などに失望し、「日本を引っ張っていってる人間たちに対する抗議」としてツイッターで発言した、と経緯を説明した。
 
 
自殺企図、うつ状態、パニック障害とはまさに“不幸のどん底”です(夫婦関係も気になります)。こんな状況にありながら、政治的社会的発言をする心理とはどんなものでしょうか。
まず考えられるのは、現実逃避ということです。自分自身の状況があまりに悲惨なので、社会問題に逃げたというわけです。
それから、フジテレビや世相という“大きなもの”を批判することで、自分もまた大きな人間になったという錯覚を得たかったのかもしれません。
 
世の中には政治的発言があふれ返っています。ネットの匿名の書き込みから、学者、政治評論家、論説委員まで、どれもが一応は、世のため人のために発言しているのだというスタンスですが、高岡さんの例を見ると、こうした現実逃避や自己肥大化のための発言も多いのではないかと思われます。
 
私が思うに、まともな政治的発言というのは2種類しかありません。
ひとつは、自分が幸せなので、不幸な人をなんとかしてあげたいという動機からの発言です。たとえば、「ホームレスに対して行政はもっと手を差し伸べるべきだ」という発言などがそれです。
もうひとつは、自分が不幸なので、自分の不幸をなんとかしたいという動機からの発言です。たとえば、「自分は正社員になれない低賃金のフリーターだが、企業は正社員の採用をふやせ、賃金を上げろ」という発言などがそれです。
こうした発言は、不幸な人をなんとかしたい、不幸な自分をなんとかしたいという動機が明快で、ごまかしがないだけに、実際に世の中をよくする可能性が大いにあります。
 
問題は、高岡さんのように、自分が不幸なのにそれを棚に上げて、政治的な発言をする場合です。これは動機が不純なだけに、かえって世の中を悪くする可能性があります。
そして、さらに問題なのは、たとえば「大震災の被災者に対して政治や行政はもっとちゃんとやれ」という発言は、いったいどういう動機から発せられているかわからないということです。被災者のためを思っての発言のように見えますが、単に政治や行政を非難することで満足を得たいがための発言なのかもしれません。
 
ネットの掲示板では、その発言者がどういう状況にあるかぜんぜんわかりません。高名な政治評論家も、幸福とは限りません。あまりに感情的な発言は、本人が不幸である可能性を暗示しています。
 
高岡さんの場合は、本人が有名人で、ブログで自分の状況を語ったことで、たまたまどんな状況にあるかわかりました。自分が不幸なので、逆に世のため人のための発言をするという典型的な例です。
政治的発言にはつねにそういう可能性があることを理解しておく必要があります。
 
私自身は、自分が幸福だから、人にも幸福になってもらいたいと思っていろいろな発言をしているので、信じていただいて大丈夫です。

私の中では、SFは未来に対する恐怖を描くもの、ホラーは過去に対する恐怖を描くものという分類があります。これでは両方ともホラーになってしまいますから、私だけの分類法です。私は基本的にホラーが好きで、スペースオペラみたいな冒険活劇ものは苦手です。
しかし、この分類はSFとホラーの重要な違いをとらえていると思います。
 
SFはアインシュタイン・ショックとスプートニク・ショックによって急速に力を得たジャンルです。
アインシュタイン・ショックというのは、早い話がヒロシマ、ナガサキの原爆の威力を見て、世界中の人が驚いたことです。その背後にやたらむずかしい相対性理論があるということも人々を驚かせました。
そして、1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げたことでアメリカなど西側諸国は衝激を受けました。これがスプートニク・ショックです。さらに1961年に宇宙飛行に成功したガガーリンは「地球は青かった」と語り、人々を驚かせました。
 
この時代、科学技術の革命的な進歩に人々は未来はどうなるのかという不安と恐怖をいだきました。そうしたとき、未来を描くSFが人気を得たのは当然のことでしょう。
しかし、最近は宇宙開発の停滞が明らかになり、目立って人々を驚かせるような科学技術の進歩もなく、その分SFの人気が低下してきたのはしたかのないところでしょう。
もっとも、遺伝子工学の急速な発展は人々に不安をいだかせています。人が能力や外見を自由に選択できるようになったらどうなるのかということは大きなテーマですが、これはもろに生命倫理の問題ですから、どうしても重くなってしまいます。エンターテインメントにはなりにくいのではないかというが私の考えです。
 
 
ホラーは基本的に過去への恐怖を描くものです。未来は未知ですが、過去は不可知であり、そこに恐怖が生まれます。
たとえばホラーの道具立ては、うっそうとした森、古い屋敷、きしむドア、昔の人の肖像画、墓場、古井戸、伝説、言い伝えなど、要するに過去を感じさせるものが基本になっています。近代的なマンションを舞台にしたホラーもありますが、古い屋敷を舞台にしたものにはやはり負けます。
古いものは死を連想させるので、恐怖をより増大させるのでしょう。
 
現在の自分は過去に規定されています。現在の自分が不幸なら、その原因は過去にさかのぼって探らねばなりません。高度成長期なら、未来に進むことで現在の不幸を克服できるかもしれませんが、今のような停滞の時代には、関心が過去に向きがちです。
そして、過去にはしばしば忌まわしいものが隠されています。
「幼児虐待の心理的問題」というエントリーで少しふれたことですが、アメリカでは子ども時代に親に虐待されたとして親を訴える訴訟が急増し、それに対して、親に虐待されたという記憶はセラピストにねつ造されたものだとして逆に親が子とセラピストを訴えるという訴訟も急増するということがありました。こうしたことの真相を探るにもホラーは適しています。
 
というわけで、当面はSFよりもホラー優位の展開が続くのではないでしょうか。
私は当面、小説を書くつもりはないので、関係ないことですけど。

小松左京さんが亡くなられました。前からあまり体調はよくない様子で、こういう日がくることはある程度覚悟していましたが、やはりショックです。
日本SF界は星新一、小松左京、筒井康隆という偉大な才能に恵まれ、私の読書人生においても中学高校という時期にこの三人と出会えたのは大きな幸運です。
小松左京さんのすばらしさは、世界、宇宙、文明というスケールの大きな発想にあります。もっともSF作家らしいSF作家といえるかもしれません。
こうした特長が長編において発揮されるのはもちろんですが、短編にもスケールの大きな発想でおもしろいものがあります。「新都市建設」は短編というよりショートショートといっていい短さですが、私のひじょうに好きな作品なので、ネタバレながら紹介したいと思います。
 
老人の家の近くで大規模な建設工事が行われ、老人は毎日その騒音と振動に悩まされています。ある日、孫娘が訪ねてきて、工事現場を見に行こうと誘います。老人は気が進まないものの孫娘に連れられ、工事現場を見ます。そこには完成間近の、ケバケバしい色の醜悪な形の建造物がありました。老人はこう嘆きます。
「なんということだ! この国の為政者達は、外国の新奇さに眼がくらみ、この国の魂を忘れてしまったのか」(手元に本がないので、あるサイトからの引用です)
老人の眼の前に広がっているのは、平城京の建設現場なのでした。
 
私はこれを読んだとき、大きな衝激を受けました。
この作品が書かれ、そして私が読んだとき、世は高度成長のさなかで、いたるところで建設工事が行われ、世の中の変化についていけない老人たちは「昔はよかった」を合言葉のようにしていました。ですから、この作品を読んでいると、“今”のこととしか思えないのです。
また、奈良の枕詞が「あをによし」であるように、平城京の建物は青と朱に塗られていましたし、もちろん中国を真似てつくられた都市ですから、その点ではなんの偽りもありません。
時代とともに価値観が変わることをみごとに表した作品です。
 
日本の保守や右翼の方々は、明治の日本を伝統的な日本として尊びますが、どう考えても、明治の日本はそれまでの伝統を捨てて、西洋近代を必死に真似した国家ですから、「この国の魂を忘れてしまったのか」と言われてもしかたがない代物です。小松左京さんから学んでほしいものです。
 
私は小松左京さんからこうしたスケールの大きな発想を学び、そのおかげできわめて重要なことを思いつくことができました。改めて感謝したいと思います。

昨日の「フェミニズム再生のために」というエントリーで、フェミニズムは「子ども差別」という概念を導入するべきだということを書きましたが、昔、「現代思想」という雑誌に同じことを書いたのを思い出し、雑誌を引っ張り出してみました。「現代思想」19899月号の「セックスの政治学」という特集に「『子ども差別』の発見」というタイトルで書いています。昔なのにわれながらちゃんとした文章を書いていると思いましたが、フェミニズム陣営からの反応はまったくありませんでした。当時はフェミニズム陣営も性差別の問題で手いっぱいで、そこに「子ども差別」を持ち出しても、問題の拡散かすり替えになると思われたのかもしれません。
 
しかし、私の思想も当時よりは深まり、「子ども差別」を進化生物学と結びつけるところまでいきました。だから、フェミニズムが現在苦境に陥っているのは、(生物学的要素である)セックスとジェンダーの関係が不明確なためだという指摘もできたのです。
これからも人間の行動と心理についての科学的研究はどんどん進んでいきますから、セックスとジェンダーの関係の理論構築なしにフェミニズムの未来はないといっても過言ではないと思います。
 
ところで、私は「子ども差別」という概念によって、おとなと子ども、親と子どもの関係に支配、差別、抑圧があるということを理解していましたから、男と女の関係に支配、差別、抑圧があるというフェミニズムの主張は当たり前のこととしてすぐに理解できました。
しかし、たいていの男はいまだに性差別の問題を正しく理解していません。これは奴隷農場の主人が奴隷解放に反対するのと同じで、たいていの男は女性解放は自分の不利益だと思っているからです。
もちろん、男女の平等な関係は男にとっても幸せなことであるという考え方もあり、それが人間として本来の姿だと思いますが、本来の姿でない男も多いのです。
つまり多くの男にとって性差別というのは人ごとなのです。
 
しかし、「子ども差別」は男にとって人ごとではありません。自分自身の問題です。子ども時代の自分と現在の自分を統合することは、自分の幸せにとっても必要なことです。
したがって、男の場合、まず「子ども差別」に取り組むのがいいのではないでしょうか。「子ども差別」を理解すれば、性差別はたいして苦労せずに理解できます。
ですから、フェミニズム陣営が「子ども差別」の概念を取り込むことは、男にフェミニズムを理解させる上でもプラスです。
 
もちろん幼児虐待、非行、不登校、引きこもりなどに対処するためにも「子ども差別」の理解は欠かせません。

東大を退職した上野千鶴子さんの特別講義が79日、東大で行われ、最後はこの言葉で締めくくられたそうです。
「私はフェミニズムの評判がどんなに悪くなっても、この看板は下ろさない。語る言葉を持たなかった女たちが、言葉をつくるために悪戦苦闘してきた。その先輩たちのおかげで私はいる」(「朝日新聞726日夕刊)
(講義のネット配信はhttp://wan.or.jp/)
 
私がこれを読んで思ったのは、やっぱりフェミニズムの評判は悪くなっているのだなということです。それは感じてはいたのですが、当事者が言うとまた重みが違います。
どうしてフェミニズムは評判が悪くなったのでしょうか。私はフェミニズム理論を参考にして「フェミニズムの帝国」という近未来SF小説を書き、これが私の唯一ともいえる評判作なので、人ごとではありません。私なりの考えを書いてみます。
 
日本では、女子差別撤廃条約批准に伴い男女雇用機会均等法が制定されたことでフェミニズムは一気に勢いを増し、マルクス主義なきあとは思想界で一人勝ち状態になりましたが、最近は確かに逆風にさらされています。その理由は、フェミニズムが科学の分野に足を突っ込んだことにあると私は考えています。
フェミニズムでは、生物学的性差をセックス、社会的・文化的性差をジェンダーといい、セックスは肯定しますが、ジェンダーは差別的だとして否定します。つまりフェミニズムはセックスという人間の生物学的要素を視野に入れた点で画期的な思想であるといえます。
しかし、そこに問題がありました。セックスとジェンダーが無関係であるはずはありません。セックスを土台にしてジェンダーが生まれたと考えるのが普通でしょう。そうすると、非差別的なものから差別的なものが生まれた、よいものから悪いものが生まれたという理屈になります。
つまりセックスとジェンダーの関係が不明確なのです。これがフェミニズムの理論的欠陥です。
 
もっとも、どんな思想にも欠陥はあります。むしろ思想とは欠陥の塊だといってもいいくらいです。しかし、フェミニズムの場合は生物学的要素という科学の分野に踏み込んでいるところに違いがあります。
 
おそらく初期のフェミニズムでは、マーガレット・ミードの著作などの影響から、性差においてはセックスの要素はきわめて小さく、ほとんどがジェンダーだと考えられていたのでしょう。ですから、セックスとジェンダーの関係はたいして問題にならなかったのです。
そもそも社会科学、人文科学においては、人間の生物学的要素などというものはまったく無視されていました。フェミニズムは無視しないだけまだましなほうです。
 
ところが近年、進化生物学や脳科学の進歩により、セックスの要素が意外に大きいことがわかってきました。セックスについての科学的知見が次々と付け加えられていくとともに、これまでフェミニズムに抑えられてきた男どもが反撃するようになり、フェミニズムは退却戦を余儀なくされているというわけです。
 
したがって、この事態を打開するには、セックスとジェンダーの関係を理論構築しなければなりません。
これは動物と人間、自然と文明の関係を理論構築するのと同じことですから、たいへんスケールの大きい問題になってきます。
それについては、私のホームページで重要なヒントになることを書いていますので、参考にしていただけたらと思います。
 
「思想から科学へ」村田基(作家)のホームページ
(現在このホームページは休止中です)
 
 
フェミニズム再生のための具体的なプランも書いてみます。
それは「子ども差別」という概念を導入することです。
おとなと子ども、親と子どもの関係は、強者と弱者の関係です。そこに支配、差別、抑圧が生じるのは、フェミニストなら普通に理解できることでしょう。
おとなが子どもを差別し、差別された子どもは自分がおとなになるとまた子どもを差別する。これが無限に世代連鎖していくのが子ども差別です。
人種差別や性差別では、たとえば黒人や女性は永遠に差別される立場なので、不公平であることは明らかです。しかし、子ども差別においては、差別された者が次は差別する側に回るので、不公平とはいえません。たとえば、先輩が後輩を一発殴る。殴られた後輩は自分の後輩を殴る。こうしてどんどん後輩を殴っていけば、1人の人間は一発殴られて一発殴っているので、不公平ではないというわけです。
そのため子ども差別はこれまであまり認識されてきませんでした。
しかし、殴り殴られる関係がよいはずはありません。これを差別と認識して、正しい人間関係に戻すべきなのは当然でしょう。
 
年齢差別(ageism)という言葉がありますが、これは主に高齢者差別という意味で使われているので、私は「子ども差別」という言葉を使っています。
 
ひとつの家庭には、男が女を差別する性差別があり、同時に親が子どもを差別する子ども差別があり、ふたつの差別がクロスしています。このように認識してこそ、すべての人間関係が正しく把握されることになります。
 
マルクス主義は、持てる者と持たざる者の関係を問題にしました。フェミニズムは男と女の関係を問題にしました。そして今、おとなと子どもの関係を問題にすることで、すべての人間関係を視野に入れた思想が誕生することになります。
そこにフェミニズムの完成もあるのではないでしょうか。

ノルウェーのテロ事件で逮捕されたアンネシュ・ブレイビク容疑者の拘留延長を判断する審理がオスロの裁判所で開かれ、容疑者は「欧州をイスラムの支配から救うためだった」などと政治的な主張を述べました。容疑者はネット上に1500ページにものぼる声明を発表しており、ここでも政治的主張を述べています。当面、こうした主張に注目した報道がなされるかもしれませんが、私は昨日の「政治的人間の心理」というエントリーでも述べたように、そうした政治的主張よりも、容疑者の幼児期からの親子関係に真の原因があると考えています。
 
では、容疑者の親子関係はどういうものかというと、ほとんど報道がありません。その中でようやく見つけたのがこれです。
 
 
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版」2011 7 25 9:03 JST
『最近までオスロ西部で母親と暮らしていた同容疑者はイスラム過激派とはかけ離れたところにおり、しばしばネット上で、欧州におけるあまりに融和的な多文化主義と「イスラム植民地化」に反対する主張を展開していた』
『また、自分自身とのインタビューでは、自分は中流の「普通のリベラルな」家庭で育った平均的なノルウェー人だとし、その保守的な考え方は、同国の右翼政党「進歩党」の青年部に所属していた十代の間に固まったとしている』
 
 
本人が「普通のリベラルな」家庭で育ったと言っても、必ずしも信用できません。また、父親のことが書かれていないのも気になります。
家庭というのは密室ですから、外部からはほとんどわかりません。報道がないのはそれも理由でしょう。
また、犯罪者の成育歴や家庭環境が報道され、親の責任が追及されるようになることは、世の親たちにとってあまりうれしい事態ではありません。それも報道が少ない理由でしょう。
それに、もしこの事件が日本で起こっていたら、今ごろ日本は犯人に対する怒りで沸き立っていたでしょう。そこに犯人の親のことが報道されたら、親にも怒りが向けられます。今のノルウェーもそういう状態なので、親や家庭についての報道が少ないのかもしれません。
 
ですから、容疑者の成育歴を追究するような報道は今後も望み薄かもしれません。これは一種のタブーなのです。
しかし、このような異常な事件の犯人は、異常な人格の持ち主です。異常な人格は異常な環境で形成されます。異常な環境があるとすれば、それは家庭以外に考えられません(地域社会や学校がそれほど異常なはずはないので)
異常な家庭環境というのは、要するに子どもが虐待されていた家庭ということです。
 
ノルウェーは移民や難民に寛容な政策をとってきました。このテロ事件をきっかけに寛容な政策の見直しが議論されるかもしれません。しかし、それは方向が逆です。家庭における不寛容が事件の原因なのです。寛容をより徹底する方向に行かねばなりません。

オスロの爆発及び銃乱射事件で逮捕された容疑者は、右翼思想を持つキリスト教原理主義者だということです。移民排斥という主張を持っていたようですが、それが目的だとすると、爆発及び銃乱射という手段との整合性がありません。いや、どんな目的があったとしても、現時点で90人以上とされる死者を出すような事件を起こすことと整合性のあるはずがありません。この事件の動機は、日本でよく使われる「心の闇」という言葉で説明したほうがいいでしょう。
 
イスラエル兵に肉親を殺されたパレスチナ人がテロリストになるというのは、動機の面ではある程度納得がいきます。しかし、たとえば911テロの犯人の多くは、比較的恵まれた家庭で育ったインテリです。彼らの動機もまた「心の闇」で説明したほうがいいでしょう。
 
そもそも、政治的な主張のもとにある動機のほとんどは「心の闇」と言っても過言ではありません。たとえば「菅降ろし」でもいいのですが、「菅降ろし」を主張する人はひじょうに強力に、感情的に主張しますが、首相を変えたところで日本の政治がそれほど変わるわけがないことを考えると、これも整合性がありません。したがって、「心の闇」と言ってもいいものです。
また、右翼と左翼もひじょうに感情的に対立します。ネットではウヨだのサヨだの、ネトウヨだのブサヨだのとやり合っています。なぜそれほど感情的になるのでしょうか。それだけのエネルギーがあれば、自分の人生のために使ったほうがいいはずですが、本人としてはそれができません。自分の人生よりも政治的主張のほうがたいせつという心理に陥っているのです。これもまた「心の闇」です。
 
こうした政治的人間の心理と行動は、一般の人から見たらまったく不可解なものです。なぜそんなに熱くなれるのかと思っています。しかし、それを本人に言ってもろくな結果にならないことがわかっているので黙っています。そのため政治的人間はなかなか自分のおかしさに気づくことができません。
 
政治的人間はなぜこのような不合理な感情にとらわれるのでしょうか。私は、それは親子関係に問題があるからだと考えています。
国家権力と1人の国民の関係は、親と子の関係に似ています。子から見たら親は強大な権力だからです。
 
文明社会では、親は子どのしつけと教育をします。しつけには強制がともない、たいてい罰もともないます。当然、子どもは苦痛と不快を感じます。通常、自分に苦痛と不快を与えてくる人間は敵ということになりますが、それが親であるために敵と認識することができません。そのため、苦痛と不快を晴らすことができず、心の中に蓄積されていきます。しかし、本人はそのことに気づきませんし、それを解消することもできません。
文明人はみな心の中に苦痛と不快を蓄積させていることになります。それが人によっては、たとえばドメスティック・バイオレンスという形で現れますし、また人によってはサディズム、マゾヒズムという形で現れますし、またレイプ衝動や殺人衝動という形で現れます。
 
政治的人間というのは、その蓄積された苦痛と不快を政治的主張や政治的行動で表しているわけです。これが過激になるとテロ行為まで行くことになります。
 
こうした動機はすべて自分の幼児期に由来しているので、現在の政治状況が自分の望むものに変わっても、一時的にうれしいだけで、またすぐ政治状況に不満を感じ、政治的主張や政治的行動に力を注ぐことになります。これは、レイプ犯がレイプをして一時的な快楽を感じても、またすぐレイプ衝動に駆られるのと同じです。
 
政治的人間であれ、レイプ犯であれ、猟奇殺人犯であれ、「心の闇」を解明するには、それぞれの幼児期にさかのぼって心理的問題を解決しなければなりません。

尖閣諸島沖で中国漁船が巡視船に衝突した事件で、7月21日、那覇検察審議会の議決があり、中国人船長は強制起訴されることになりました。これに関連して朝日新聞が最近の中国人船長の様子を報告していますが、ちょっとかわいそうです。
 
「朝日新聞」7月22日朝刊より
「船長はいま、地元政府や公安当局の厳しい管理のもとで生活している模様だ。中国政府も神経をとがらせているようで、自由な発言や移動が制限されている」
「船長の母親(62)21日、朝日新聞の取材に対し『息子はほぼ毎日、家にいる。政府関係者が毎日のように見回りに来る』と語った」
「船長は(中略)政府が本音では外出を望んでいないと感じているようで、『私が再び海に出て面倒なことを起こすのを恐れているようだ』と話した」
 
中国政府は日本に配慮しているようですが、愛国者である船長を迫害するのは筋が通りません。
船長が愛国者であることに異論のある人はいないでしょう。中国政府は尖閣諸島は中国に帰属するという立場ですから、船長がそれを信じているのは当然です。それ以外の情報はないのですから。そして、日本の巡視船の停船命令を拒否し、自分の船よりはるかに大きい巡視船に衝突し、日本当局の取り調べに対しても屈しなかった態度はまさに愛国者の鑑です。
日本の愛国者は船長のことをどう考えているのでしょうか。おそらく内心では、敵ながらあっぱれと思っているに違いありません(別に敵ではありませんが)。中国政府によってつらい立場に立たされているとなれば、日本の愛国者からなんらかの支援やエールを送るなどの行為があってもいいのではないでしょうか。
愛国者は国旗への礼儀をたいせつにします。もちろん外国旗に対しても同じです。しかし、外国旗に対して礼儀を尽くすよりも、外国人に礼儀を尽くすことのほうが大切です。当たり前のことですが。
 
もしかして日本の愛国者は自国さえよければ外国はどうでもいいと考えているのでしょうか。もしそうなら、外国からの尊敬を得ることはできません。
現在、愛国者同士の国際交流を行っているのは一水会ぐらいしかありません。それもヨーロッパが中心で、近くの国との交流はほとんど行われていないようです。
 
尖閣諸島の帰属については立場を異にしても、日中の愛国者が互いに尊敬し合い、親交を深める――そうした光景を見たいものです。

私はSFから世界全体をとらえる発想を学び、ホラーから人の心の奥底を見ることを学びました。このどちらが欠けても、私は「科学的倫理学」に想到できなかったでしょう。
 
人の心の奥深いところはなかなかわからないものです。フロイトは「無意識」があるといい、最近は「心の闇」という言葉がよく使われます。しかし、自分で自分の心の中を掘り下げていくことはできます。私はその作業をねばり強く続けているうちに、あるとき「ここが底だな」というところに到達しました。もうそれ以上掘り下げることのできない硬い岩盤のようなところがあるのです。
心の隅々までわかったわけではありませんが、底に到達したことで、私はそこを立脚点にしてものを考えることができるようになりました。これはものを考える上で圧倒的に有利です。世の中には私などより頭がよくて知識の豊富な人が山ほどいますが、確かな立脚点を持っている人はいないのではないでしょうか。
 
たとえば、私は「虐待の連鎖」について考えました。幼児虐待をする親は自分も子ども時代に虐待されていたことが多く、これを「虐待の連鎖」あるいは「虐待の世代連鎖」といいます。この「虐待の連鎖」をどんどんさかのぼっていけば、「人類最初の虐待親」にたどり着くはずです。もちろん「虐待の連鎖」は実際にはそんな正確に続くものではなく、あくまで思考実験として考えたのです。
「人類最初の虐待親」はいかにして誕生したのか。これはパズル感覚で考えても楽しいでしょう。こういう発想はSFから学んだものです。幼児虐待について研究している人はなかなかこういう発想は持てないかもしれません。
 
これを考えるためには、人間以外の動物に幼児虐待に当たるものがあるのかどうかを調べないといけません。哺乳類においては、ライオンの子殺しのようなことがありますし、育児放棄もありますし、生まれたばかりの自分の子どもを食べてしまうこともありますが、人間の幼児虐待はそれらとは異質なものだと私は考えました。
 
そして、幼児虐待をする親は、「しつけのためにやった」とよく言います。行儀が悪い、わるさをした、言いつけを聞かないなど、子どもが「悪」だと考えています。しかし、実際は虐待する親のほうが「悪」なのです。
自分が「悪」だから、相手が「悪」に見える――ここにすべての秘密を解く鍵があります。
これを徹底的に考えていくと、善と悪についての認識のコペルニクス的転回が起き、「科学的倫理学」に到達することができます。
 
私はいち早く「科学的倫理学」に到達しました。後続の人たちを待っている状態です。
「人類最初の虐待親」はいかにして誕生したかというパズルを解いてください。

7月20()の報道ステーションはおもしろかったですね。なでしこジャパンが都庁を表敬訪問したときに石原慎太郎都知事があいさつする様子を異例の長さで放映したからです。報道ステーションは時間をかけても放映する価値があると判断したのでしょう。
どういう様子だったかというと、中日スポーツの記事を引用します。
 
「中日スポーツ」2011721 紙面から
石原都知事「なんで銀座でパレードをやらないんだっ! ボケなすだよ。何もねぇんだな。バカばっかり。政府もバカ、都もバカ、JOCもバカ。メディアも何で書かねぇんだよ。パレードをやれば盛り上がってね。気が回らないバカというか。選手たちに顔向けできないよ」
 
こういう調子でなでしこジャパンの監督や選手の前でまくし立てたわけですから、これは確かにニュースバリューがあります。
どういうニュースバリューかというと、石原都知事はもうろくして、老害をふりまいているということです。今からこれでは4年間の任期が案じられます。
 
パレードをやらないのはけしからんという石原都知事の主張が正しいとしても、なでしこジャパンを祝福する場でそれを言うべきではありません。都のスタッフの問題でもあるわけですから、人のいないところでスタッフを叱ればいいわけです。そんな判断もできなくなって、感情のままに行動するというのはゆゆしき事態です。
報道ステーションにおいて都知事は「パレードなんて当然やるもんだと思ってたよ」ということも言っています。ということは、都のスタッフに指示しなかった自分にも責任があります。ひと言「パレードはやるんだろうな」と言えばよかったのです。自分の責任を棚に上げて人をののしるというのも、やはり老害のひとつの現われでしょう。
 
とはいえ、石原都知事の人気はなかなか衰えません。
この人気はイタリアのベルルスコーニ首相の人気と似ています。
ベルルスコーニ首相は、少女売春を初めスキャンダルのデパート状態で、離婚した奥さんからも罵倒され、みずからは暴言・差別発言を吐きまくっていますが、それでも長年首相を務めていられるのはやはり人気があるからです。
石原都知事とベルルスコーニ首相に共通しているのは、「わがままで偉そう」というところです。そして、「わがままで偉そう」というのは要するに父親のイメージなのです。
 
たいていの父親は会社でつらい思いをしているので、その分、家では「わがままで偉そう」にふるまいます。中にはそうでない父親もいますが、少数派です。
国家権力と国民の関係は、父親と子どもの関係に似ています。ですから、国民の多くは、石原都知事やベルルスコーニ首相のような「わがままで偉そう」な権力者を見ると、自分の父親を連想し、親しみを感じます。一方、立派な権力者を見ても親しみは感じません。
 
ということは、くだらない人間ほど政治家として成功する傾向があるということになります。
確かにそうですね。

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