村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年07月

2010年度の幼児虐待相談は前年度より約1万2000件増加し、20年連続で増加したそうです。これは相談件数ですから、実際の虐待件数が増加しているかはわかりませんが、幼児虐待というものが広く世の中に認知されてきたのは間違いないでしょう。
 
幼児虐待を初めて明るみに出したのはフロイトです。フロイトは女性ヒステリー患者の治療の経験から、幼児期に性的虐待を受けたトラウマが成人後のヒステリー発症の原因になるという説を発表しました。これはフロイトの偉大な功績ですが、実はフロイトはあとになってこの説をみずから捨ててしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な説をつくり上げるのです。
 
アメリカでは1980年代末から、幼児期に親から虐待されたとして親を訴える訴訟が急増しました。それに対して、親から虐待された記憶はセラピストによってねつ造されたものだとして、逆に親が子どもとセラピストを訴える訴訟も増え、結果として、虐待の記憶はねつ造だと主張する勢力が優勢となり、親を訴えるということはほとんどなくなったようです。
 
つまり、心理学的問題としては、幼児虐待があったとする説はなかったという説に負けるという流れがこれまではありました。
 
日本では(もちろん日本だけではありませんが)、幼児虐待が社会的に認知されつつあります。しかし、これはあくまで犯罪事件として認知されているようです。虐待する親を非難し、刑事事件として処理して終わりという扱いです。
虐待された子どもがおとなになったときに心理的問題をかかえますが、それについての認識はほとんどありません。身近な人にわかってもらおうとしても、わかってくれる人はほとんどいませんし、逆に「それは親の愛情だ」とか「いつまでも親のせいにしていてはいけない」などと否定されてしまいます。これは心理カウンセラーにおいても同じことです。幼児虐待のトラウマを扱えるカウンセラーはまだまだ少ないのが実情です。
 
今、世の中の対立軸は、たとえば右翼対左翼、フェミニズム対反フェミニズム、高福祉対低福祉、原発推進対反原発などいろいろありますが、いちばん重要な対立軸は、幼児虐待の心理的問題を認識できるか否かではないかと私は思っています。というのは、これによって身近な人間との人間関係から政治についての考え方まですべて変わってくるからです。
たとえば、石原慎太郎都知事はかつてスパルタ教育論を唱え、戸塚ヨットスクールを支援していました。こういう人は親から虐待されてトラウマを負った人の気持ちは決して理解できないでしょう。そして、そのことと彼がタカ派であることはもちろん密接に関係しています。
 
今、エディプス・コンプレックスなんてことを言うとバカにされてしまいます。フロイトの学説の見直しは必至です。
アメリカで親を訴えるというのは戦略的に間違っていて、そのため反撃にあってしまいました。なぜなら、虐待の連鎖ということを考えると、親もまた虐待の被害者であった可能性が大きく、訴えるよりむしろ連帯すべき相手であったからです。
 
幼児虐待がもたらす心理的問題は社会全般に広がっていて、これを認識できない人は社会問題も認識できないと言っても過言ではありません。
 
では、幼児虐待がもたらす心理的問題を理解するにはどうすればいいのでしょうか。それは、自分は親からどの程度愛されていたのか、もしかして虐待されていたのではないかということを考えればいいのです。
これは簡単なことのようで、けっこう困難なことではありますが。

ホラー小説やホラー映画には、恐怖の対象としていろいろなものが出てきます。超自然のものとして吸血鬼、ゾンビ、悪霊、人間として連続殺人鬼、多重人格、ストーカー、DV男。それから、自分自身への恐怖というのもあります。正確にいうと、自分自身の本当の姿を知る恐怖です。実は私がいちばん好きなホラーは、この、自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いた作品です。
 
吸血鬼や殺人鬼は、やっつけることもできますし、それから逃げることもできます。しかし、自分自身が怖いとなれば、やっつけることも逃げることもできません。まさに究極の恐怖ではないでしょうか。
 
自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いたものとして最高の小説はリチャード・マシスンの「地球最後の男」ではないでしょうか。これは最初、「吸血鬼」というタイトルで翻訳され、最近は「アイ・アム・レジェンド」というタイトルで出版されています。3回映画化され、もっとも最近の映画化はウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」です。
これは一般にはSFに分類される作品かもしれませんが、吸血鬼が出てきますし、マシスンは恐怖を描くことに本領を発揮する作家ですから、ホラーといってもさしつかえないでしょう。
この作品の衝撃は結末に訪れます。きわめて意外で、かつ発想のスケールが大きく、そして自分自身の姿をひっくり返してしまうところに強い衝撃があります。
したがって、それを説明すると、いわゆるネタバレになってしまいますので、ここではやめておきます。なお、ウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」の劇場公開版の結末はまったく別のものになっていて、なんの衝激もありません。
 
そこで、ネタバレのそしりを受けそうもないものを紹介することにします。
私が若いころに見たアメリカのテレビドラマで、ミステリー・ゾーンでもなく、アウター・リミッツでもなく、しかしそのたぐいのドラマシリーズの一本ではないかと想像されますが、単発で放映されたので、野球中継中止の穴埋めだったのかもしれません。タイトルも忘れてしまいました。
 
主人公の青年は、おじさんの形見でもらったのか、あやしい骨董屋でもらったのか忘れましたが、ひとつのメガネを手に入れます。それは実は魔法のメガネで、そのメガネをかけて人を見ると、その人が心の中で思っていることが聞こえてくるのです。つまり人の心の中が見えるメガネなのです。
青年は人と会話しているとき、そのメガネをかけてみます。そうすると、それまで調子のいいことを言っていた相手は、実は心の中では青年に敵意を持っていることがわかります。ほかの人もそのメガネで見てみますが、やはりきれいなことを言っていても、心の中はみにくいのです。青年が信頼している相手もメガネをかけて見てみると、青年を裏切るようなことを考えています。青年がひそかに思いを寄せている女性は、愛想よくしている裏で、青年のことをさげすんでいます。
青年は、周りの人間がみんなみにくい心の持ち主であることに憤り、絶望しますが、これはすべてメガネのせいであると思い、メガネを壊してしまおうとします。そのとき、青年の前に大きな鏡がありました。青年はふと思いつき、メガネをかけて、鏡に映った自分を見ます。
青年の叫び声とともにドラマは終わります。
 
周りの人間がみんなみにくい心の持ち主だとしたら、自分も例外ではありえないはずです。
しかし、世の中には政治が悪い、社会が悪い、時代が悪い、若者が悪いなどと非難ばかりしている人がいっぱいいます。こういう人はこのドラマを見て、自分も同じように悪いのではないかと反省してもらいたいものです。
 
 
もうひとつ、やはり私が若いころにテレビで見たものですが、これはドラマではなく映画だったと思います。やはりタイトルは忘れてしまいましたが、なかなかおもしろい映画なので、もしかしたら一部でカルト的な人気のある映画かもしれません。
 
主人公は若くて魅力的な女性ですが、精神病院に入れられることになります。その精神病院にはおかしな患者がいっぱいいます(当たり前ですが)。彼らは主人公の女性に性的な関心を持ち、襲ってきたりして、女性はあやうく難を逃れます。また、裏でなにやらあやしい陰謀をたくらんでいます。その陰謀には医師も加わっていて、医師もいやらしい目で女性を見てきます。ということは、女性は性的な被害妄想をいだく患者ではないかと想像されます。一方で、女性に好意を寄せるハンサムな若い医師もいます。しかし、どれが妄想で、どれが現実かわからないままストーリーは進展し、女性がいよいよ追い詰められて危機に瀕したとき、場面は転換します。
女性は医師から完全に治ったと告げられます。その女性の姿は、みすぼらしい中年女性です。つまり女性は、自分は若くて魅力的な女性だという妄想をいだいていたのです。精神病院を出た女性はとぼとぼと道路を歩いていきます。その姿を見ると、妄想をいだいていたときのほうが幸せだったのではないかという思いにとらわれます。
 
こうした物語が、自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いたものです。
ミステリーやSFやホラーでは意外性が尊ばれますが、自己像の変換というのは中でも最高のものではないでしょうか。認識のコペルニクス的転回を味わうことができるからです。
こうした発想に慣れていれば、発想の幅が広がるのはもちろん、自分勝手な人間になることも防げるのではないかと思います。

私は実はSFとホラーの作家なのですが、このブログではそれらしいところがぜんぜん出ていません。期待されながらちっとも小説を書かなかった引け目があるからでもありますが、一応作家という肩書でやってますので、それらしいところも少しずつ出していきたいと思います。
 
というわけで、「荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」(集英社新書)を読みました。ホラー映画論の本なのにけっこう売れているみたいです。私はひじょうに共感して読みました。ですから、書評は書けません。「ごもっともです」みたいなことばっかりになってしまうからです。
ただ、ちょっと関連して書きたいことがあるので、それを書いてみます。
 
宮崎勤の幼女殺し事件以降、なにか猟奇的な犯罪が起きるとホラーとの関連が取りざたされ、ホラーが悪役にされてきました。私はなんとかホラーを擁護する文章を書きたいものだと思いましたが、その当時はうまく書けませんでした。というのは、ホラーに対する思い入れが強すぎて、冷静な文章が書けなかったからです。
 
荒木飛呂彦さんは本書の冒頭のほうで、ホラー映画の効用について書いています。
「少年少女が人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません」
「娯楽であり、誇張された内容ではあっても、ホラー映画が描いているのは人間にとってのもう一つの真実、キレイでないほうの真実だということです」
ひじょうにわかりやすく、的確に書かれています。
 
このようにホラー映画には効用があって、ホラー映画有害論などはもってのほかです。
有害な映画はもっとほかにあります。
 
ここからは私の考えになりますが、有害な映画はたとえば正義のヒーローが悪人を殺す映画です。
ホラー映画では、人が死ぬ場面はこれでもかとばかりに残酷に描かれます。しかし、ヒーローが悪人を殺す場面は、せいぜい血が流れるくらいで、残酷さが消され、爽快な行為、カッコいい行為として描かれます。つまり殺人が美化されているのです。
よい子が見たら、人を殺すとはこういうことかと思うかもしれません。
 
また、戦争映画もたいていは有害です。カッコよく敵兵を殺す映画がいっぱいあります。中には戦争の悲惨さや残酷さを描く映画もありますが、それは個々の場面だけであって、映画全体としては、男たちは勇気と誇りをもって戦ったとか、ひ弱な新兵がたくましい兵士に成長したとかいうように、美化して描かれます。こういう映画は、各国の為政者には見せたくないものです。
 
つまり、ホラー映画は残酷なことを残酷なこととして描いているのです(多少の誇張はありますが)。しかし、正義のヒーローが活躍する映画や戦争映画は、残酷なことを美化して描いているのです。いったいどちらが有害かはいうまでもないでしょう。

東京都が夏季オリンピック開催地に立候補することになりました。日本の復興を世界に示すという理由が挙げられていますが、それなら東京ではなくて仙台あたりで開催するべきでしょう。それでも、スポーツ関係者はこぞって賛成しています。日本は原発利権やスポーツ利権で動く国になってしまったようです。
私は日本で開催する必要はまったく感じませんが、オリンピックを見るのは好きです。しかし、昔はオリンピックを単純には楽しめませんでした。というのは、昔は東西冷戦という時代背景もあって、今よりもはるかに国威発揚の場になっていたからです。
それに加えて、アマチュアリズムというものがありました。これがひじょうに厄介なもので、オリンピックの楽しみをそいでいたのです。
 
アマチュアリズムというのは、オリンピックの出場者はアマチュアでなければいけないというものです。しかし、アマとプロというのは、もともと明快に区別できるものではありません。
まず、共産圏の選手は国から援助を受けていたのでステート・アマと呼ばれましたが、これは実質的にプロと同じだとして西側の国は批判しました。
しかし、西側の国も、たとえば日本では多くのアマチュア選手は企業か役所に属し、給料をもらいながら練習したり試合に出たりしていたので、これも実質的にプロに近いものでした。
そのため、ことあるごとにアマチュア規定に抵触するか否かが問題となり、多くの選手は窮屈な思いをしましたし、一般の人も不明瞭な線引きに納得いかない思いがしていました。
 
そして、価値観の転換が起きました。1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロ選手が参加する流れができ、1992年のバルセロナ大会でアメリカのバスケットチームは一流プロを集めてドリームチームと呼ばれ、大きな話題となりました。
今となってはアマチュアリズムは死語です。
 
アマチュアリズムをいいだしたのはオリンピック創始者のクーベルタンで、ウィキペディアによると、ブルジョアジーによる労働者階級排除を目的とする意味があったということです。
 
「オリンピック出場者はアマチュアであるべきだ」という考え方は、スポーツ界において、野球やボクシングなどプロが確立された種目を除いて、プロであることはいやしいことだという風潮を生みました。
今は、プロもアマも区別することなく、プレーするほうも見るほうもスポーツを楽しむことができています。
「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」という考え方がなくなったのはほんとうによいことでした。
 
今、「人間はこうあるべきだ」という考え方がいっぱいあって、私たちはそれに縛られています。しかし、それらは「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」とどこが違うのでしょう。
「人間はこうあるべきだ」という考え方がなくなったほうが私たちは幸せに生きられるのではないでしょうか。
 

植村花菜の「トイレの神様」は困った歌です。これを愛の歌といってもいいのでしょうか。道徳の副読本に載せられてしまいそうなあやうさがあります。
 
ひじょうに長い歌詞なので、全部読みたい方は次のサイトで読んでください。
 
この歌の主人公はおそらく植村花菜さん自身なのでしょうが、なぜだか実家の隣でおばあちゃんといっしょに暮らすようになり、毎日お手伝いをし、2人で五目並べをし、買物に出かけて鴨なんばを食べ、おばあちゃんに新喜劇の録画を頼んだりしています。楽しそうな生活ですが、ひとつおばあちゃんに嘘をつかれます。それは、トイレにはきれいな神様がいるので、トイレを毎日きれいにしたら、「女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで」というものです。
歌の主人公はなぜだかその嘘を信じて、べっぴんさんになりたくてトイレを毎日磨くようになります。
 
しかし、その後、「少し大人になった私」は、おばあちゃんとぶつかって、家族ともうまくやれなくて、居場所がなくなります。しかし、その理由は書いてありません。「どうしてだろう?人は人を傷付け、大切なものをなくしてく」と一般論に逃げています。
 
そして、おばあちゃんが死に、歌の主人公は愛惜の思いとともに繰り返し思い出すのは、トイレの神様の話です。なぜ五目並べをしたことや鴨なんばを食べたことなどの楽しい思い出ではないのでしょう。
 
おばあちゃんといい関係だったのは小さいときだけで、そのあとはうまくいかなくなります。また、実家の両親のことはいっさい書かれていませんが、当然よい関係ではなかったのでしょう。なぜ隣の実家で暮らせなかったのでしょう。もしかして親から捨てられていたのでしょうか。
 
私はジョン・レノンのことを思い出します。
ジョン・レノンは生まれてすぐ両親から捨てられ、おば夫婦のもとで育ちます。父親が引き取りにきて、父親と数週間いっしょに暮らしますが、今度は母親が引き取りにきます。しかし、また母親に捨てられ、結局またおば夫婦のもとに戻ります。つまりジョン・レノンは親から二度捨てられたのです。その一方的な関係をジョン・レノンは「マザー」という歌で表現しています。
Mother,you had Me  I never had you (母さん、僕はあなたのものだったが、あなたは僕のものじゃなかった)
これが第一行目です。そして、最後はGoodbyeです。
 
ジョン・レノンは自分と親との関係を正しく把握し、愛と愛でないものをきっちりと区別しました。だから、真の愛を歌うことができたのです。
 
私が思うに、植村花菜さんは愛と愛でないものが区別できていません。いわばクソもミソもいっしょにしています。いや、クソをむりやりミソに見立てようとしています。「トイレの神様」は約10分という異例の長さですが、紅白で歌詞を省略することなく歌うことが認められました。なぜ認められたかというと、クソをミソに見立てるという困難な作業は、一部でもカットするとできなくなるおそれがあるからでしょう。
 
「トイレの神様」の主人公は、親との関係から逃げ、おばあちゃんとうまくいかなかったときから逃げています。病院に見舞いに行ったときも、「ちょっと話しただけだったのに『もう帰りー。』って病室を出された」わけですから。
 
それにしても、おばあちゃんの思い出の中でいちばんたいせつな思い出がなぜトイレの神様の話なのでしょうか。
 
ジョン・レノンは「イマジン」でこうも歌っています。
Imagine there’s no heaven(想像してごらん天国はないと)
()
And no religion too(宗教もない)
 
「トイレの神様」の主人公は今日もせっせとトイレをピカピカにします。べっぴんさんになれるはずもないのに。
ジョン・レノンが見ていたらなんというでしょうか。

なにが善で、なにが悪かを判定するのは容易なことではありません。現在の倫理学はまったくのデタラメですから、なんの役にも立ちません。ですから、みんな適当なやり方で判定しているわけです。そのため世の中に争いや混乱が絶えません。
そこで、私が簡単に善悪を判定する方法をお教えしましょう。
 
たとえば、5、6人の男たちが1人の男を取り囲んでボコボコにしている。そこにあなたが通りかかって、あなたがブルース・リーばりの格闘技の達人であれば、当然そこに割って入り、1人の男を助けるでしょう。放っておくと、大ケガをするか、下手をすると死んでしまうかもしれません。
つまり、強いほうが弱いほうを一方的に攻撃していたら、強いほうが悪、弱いほうが善と判定すればいいわけです。
これが善悪簡易判定法です。
「弱気を助け、強きをくじく」という言葉の通りです。
ちなみにこの言葉は、落語や講談によく出てくる言葉で、江戸っ子やヤクザが自分たちの行動原理をいったものだそうです。
 
とりあえず1人の男を助ければ、そこで問題は終わりです。5、6人の男をボコボコにする必要はありません。「強きをくじく」程度でいいわけです。
 
もっとも、そのあと5、6人の男たちがあなたに対して自分たちの主張をぶつけてくるかもしれません。たとえば、この男は仲間の金を奪ったやつだとか、俺の妹をレイプしたやつだとか主張し、それに対して1人の男は口ごもって、まともな反論ができない。どうやら5、6人の男たちの主張が正しそうだということになったとします。
とすると、善悪の判定を入れ替えないといけないのでしょうか。
いや、そんなことはありません。言葉なんていうものは無視してしまえばいいのです。
つまり言葉に基づいて善悪を判定しようとすると、ほとんどの場合間違うのです。
 
たとえば学校で1人の子どもが数人の子どもにいじめられているとき、いじめっ子に聞けば、いじめる理由をいっぱい並べ立てます。きたない、だらしない、のろい、先生のいいつけを聞かない、約束を守らない、嘘をつく。また、ユダヤ人を差別する人間に、なぜそういうことをするのかと聞けば、ユダヤ人がこれまでいかに邪悪であったかということを滔々と述べるでしょう。また、軍国主義の日本で非国民とされた人は、山ほどの非難の言葉を浴びせられます。
つまり言葉のレベルの善悪は、強い者につごうよくなっているのです。「弱きを助け、強きをくじく」という原理でいくなら、言葉のレベルの善悪は無視しないといけません。
 
この原理でたいていのことは判定できます。
たとえば、会社で上司が部下を叱っているとします。部下が悪いことをしたから上司が叱っているのだろうと考え、部下が悪で上司が善と判定してはいけません。上司が強く、部下が弱いわけですから、上司をなだめ、部下をかばえばよいわけです。実際のところ、上司が部下を叱るのはたいてい理不尽な理由で叱っているのであり、よい上司はめったに部下を叱りません。
 
親が子を叱っているきも同じです。親をなだめて、子をかばえばいいわけです。子どもがなにをしたかというのは問題ではありません。
 
現在、「弱きを助け、強きをくじく」という言葉は死語に近くなっています。
多くの人が強い者に従っているからです。
たとえば、アメリカは世界で唯一のスーパーパワーで、テロリストはそれと比べると圧倒的に弱い存在です。そのため、言葉のレベルではテロリストが悪ということになっています。しかし、「弱きを助け、強きをくじく」という原理からすれば、そんな言葉は無視して、テロリストを助けなければいけません。
しかし、今の日本はアメリカに従っているので、「弱きを助け、強きをくじく」という原理のほうを無視しているわけです。
 
もっとも、「弱きを助け、強きをくじく」というのはあくまで善悪簡易判定法です。
本格的な判定法は、言葉のレベルの善悪を解明したときに明らかになります。
 

私は何人かの大相撲の力士にインタビューしたことがあります。ほとんどつねに、意外とシャイでナイーブな人だなあという印象を受けます。これは私の偏見の問題ではないと思います。実際、相撲取りというのは、シャイでナイーブなのです。いや、より正確にいうと、シャイでナイーブであることを隠そうとしないのです。
私は相撲取りのそうした姿を見るたびに、自分を含めた一般的な男の生き方を反省してしまいます。
 
相撲取りというのは一般社会の誰からも強い男と見られていますので、自分を強く見せようとする必要がないのでしょう。むしろ少し弱く見せるぐらいのほうが、対人関係がうまくいくのかもしれません。
また、相撲取り同士ではハッタリで強く見せかけても、一度対戦するとすぐ実力がバレてしまいます。いや、そもそも相撲界には番付というのがありますから、最初からハッタリの意味がないのかもしれません。
ハッタリで強く見せかけるよりも、稽古をして実力をつけなければいけないという社会です。
 
一方、私たちが生きている一般社会には番付がありません。ですから、たとえばビジネスマンが仕事で初対面の人に会えば、お互いに相手はどのレベルの男なのかを必死でさぐろうとします。そんなとき、ハッタリはかなり有効です。
というわけで、私たちはハッタリをかますのが当たり前になっています。5の実力を6か7に見せかけることを無意識にやっています。誰もがやっているので、誰もそれがおかしいと思いません。
 
しかし、私は相撲取りと会うたびに、私たち一般の男のおかしさを意識してしまうのです。
シャイでナイーブというのは、女性においては魅力ですが、男性においては弱さとされますので、私たちはどうしても隠そうとします。しかし、相撲取りは隠そうとしません。自然体なのです。
 
自分の弱さを出して生きていけるのはうらやましいことです。

プロ野球中継を見ていると、解説者が勝負の「流れ」を解説することがあります。たとえば、送りバントを失敗し、そのイニングに点が取れなかったとき、解説者は「こういうことをしてると『流れ』が相手チームにいってしまいますよ。次のイニングは要注意ですね」などといいます。で、実際に次のイニングで相手チームが点を入れ、それで相手チームが勝ったりすると、解説者は「あの場面の送りバントの失敗がすべてでしたね。あれで『流れ』が変わってしまいました」などといいます。
こちら側のバント失敗と、次のイニングでの相手側の得点とどういう関係があるのかといえば、なにもないはずです。拙攻の繰り返しで、残塁の山を築いたとしても勝つことはあります。野球は「筋書きのないドラマ」という通り、次になにが起こるかわからないからこそ、観客も引きつけられるのです。
 
とはいえ、その野球解説者がいうような「流れ」が絶対ないかというと、そうともいいきれません。野球にはメンタルな要素もあるからです。
ノーアウトでランナーが出て、ピッチャーは味方が点を取ってくれるのではないかと期待していたら、送りバントを失敗し、結局点は入らなかった。それでがっかりしながらマウンドに上がったら、ピッチングにも勢いがなくなっているかもしれません。
また逆に、味方の野手がファインプレーでピンチを救ってくれた。そうするとピッチャーもそのファインプレーに応えようと、おのずとピッチングに力が入るでしょう。そういうプラスの相乗効果のようなものは確かにあると思われます。
ですから、野球の場合は、一見非論理的に見えても、一概には否定できないところがあります。
 
しかし、麻雀でも同じような「流れ」を解説する人がいます。この場合は明らかにおかしいものがあります。
私が加入しているケーブルテレビでCSの「MONDO TV」が見られるのですが、このチャンネルでは麻雀番組を放送しています。プロ同士の対局をプロが解説するものですが、その解説を聞いていると、たとえばある雀士が巧みな打ち方で上がった場合、解説者が「こういう上がり方をすると、運を引き寄せて、手がよくなってきますよ」ということがあります。また、反対に、なにか失敗をした場合、「あんなミスをすると、手が落ちてくるものです」ということがあります。
この場合、手がよくなるとか手が落ちるとかは、配牌やツモがよくなる、配牌やツモが悪くなるという意味です。
しかし、配牌やツモは、自動卓では機械がかき混ぜて決定されますので、前局の結果が反映されるということは決してありません(完全伏せ牌なら手でかき混ぜて積んでも同じことです)。まったく非論理的、非科学的な考えです。
これは、トランプを完全にシャッフルして配っているのに、その配られたカードに前の勝負の結果が反映されているという考えと同じで、それが間違っていることは明らかでしょう。
 
もっとも、こうした考えが生じたのはそれなりの理由があります。1度いい上がり方をすると、気分がよくなり、そうすると平均的な配牌がきてもよい配牌に見えるものです。だから、「上がれば手がよくなる」「ミスをすると手が悪くなる」ということは主観的にはありますし、勝負に没入しているとすっかりそう思ってしまってもしかたがありません。
しかし、冷静になって、牌の積み方が毎回まったくランダムなものであることに思い至ると、その考え方の間違っていることはすぐにわかるはずです。
 
問題は、プロの雀士までがそうした間違ったことを考え、解説でしゃべっていることです。プロ麻雀界のレベルの低さがわかってしまいます。
もっとも、そうしたことをいうのはベテラン雀士に多く、最近の若い人は合理的に考える人が多いようです。非合理的な考え方をオカルト派といい、合理的な考え方はデジタル派というようです(デジタルというネーミングはちょっと違う気がしますが)。
 
囲碁や将棋の5番勝負や7番勝負でも、勝負の「流れ」をいうことがよくあります。たとえば、「第3局の大逆転で勝負の流れが変わり、挑戦者がタイトルを奪取しました」などといいますが、これは大逆転で勝ったほうは気持ちに余裕ができ、負けたほうは後悔を引きずるというようなメンタル面をもっぱらいっているわけで、オカルト派とはまったく違います。

私は10年ほど前、賞金王にもなったことのある人気プロゴルファーに会ったことがあります。私はプロゴルファーに会うのはその人が初めてでした。会ったあとで思ったのは、まったくスポーツ選手らしいところがなかったなあということです。が、そのとき私は、「スポーツ選手らしさ」ってなんだろうと思い直しました。
私の思う「スポーツ選手らしさ」というのは、中学高校大学の運動部などの、いわゆる体育会系のイメージで、それも野球、サッカーなどの団体競技を念頭に置いています。しかし、ゴルフはもちろん個人競技ですし、そのプロゴルファーは小さいときから英才教育を受けてきました。私の考える「スポーツ選手らしさ」がないのは当然です。
いわゆる体育会系では、個人競技であっても、柔軟体操やランニングなどのトレーニングは集団でやりますし、先輩後輩の厳格な関係を教え込まれます。それによって独特の集団主義的な雰囲気をみんな身につけます。私はそれを勝手に「スポーツ選手らしさ」と思い込んでいたのです。
 
私はまた、ホームラン王になったことのある野球選手に会ったことがあります。その選手は日本人選手には数少ない、長打力のある典型的なホームランバッターです。そのときも、この人はホームランバッターらしくないなあと思い、やはりまた、自分の偏見に思い至りました。
その人はちょうど引退するときで、これから野球解説者になる予定だったこともあり、野球理論についてなかなか内容のあることを語りました。それが私にはホームランバッターらしくないと思えたのです。
私はホームランバッターというのは、大ざっぱな性格で、あんまり頭もよくないだろうと思っていました。いや、たいへん失礼な偏見で、申し訳ありません。
 
しかし、こうした偏見は私だけではないのではないでしょうか。野球のスイングについて、少なくとも日本の野球界では、「コンパクト」「シャープ」ということが推奨され、「大振り」というのはいけないこととされます。また、バントやヒットエンドランなどが巧みな、いわゆる小技の利く選手が高く評価され、大柄で大振りタイプの選手は低く見られがちです。そうした価値観からホームランバッターは頭が悪そうに見られるのではないかと思います。
逆に、イチローのようなタイプは、頭がよく見られがちです。しかし、彼の発言をよく聞いてみると、とくに頭がよさそうでもありません(これも失礼な表現でごめんなさい)
いしいひさいちのマンガ「がんばれ!!タブチくん!!」はそうした偏見にまるまる乗っかって書かれた作品です。実際の田淵幸一さんは監督や数々のコーチを務められているので、頭が悪いはずはありません。
 
私は実際に人に会うことによって、自分の偏見を訂正してきました。偏見を訂正すると、世界が正しく見えます。しかし、世の中には自分の偏見を訂正しない人がいます。そういう人は、たとえばこんなふうにいいます。
「あのプロゴルファーはちょっと成績がいいと思って天狗になってるな。そのうちダメになるぜ」
「あの野球選手はむりして理屈っぽいことをいってるな。あれじゃ続かないぞ 」
 
つまり偏見に固執する人というのは、相手を低く見て、その分自分が偉くなるのです。その人の言葉だけ聞いて判断すると、世界があべこべに見えてしまいます。
 
で、世界には偏見に固執する人がいっぱいいるのです。

嘘つき村で嫌われるのは、正直者です。正直者は嘘つき文化を共有しない異端者だからです。
たとえば、嘘でも反省の態度を示せば刑が軽くなる可能性があるのに反省の態度を示さない被告。こういう正直者はマスコミからバッシングされます。
それから、子どもも嘘つき文化を共有していません。訪問客が子どものためになにかプレゼントを持ってきたとき、子どもは正直なことをいうかもしれないので、その前に「ありがとうは?」と、嘘でも感謝の言葉をいわせます。
子どものような純粋さを持ったおとなも当然同じことです。
 
たとえば女優の沢尻エリカさんは、なにか不愉快なことがあったので、舞台あいさつのとき、インタビュアーに「別に」と答えたら、大バッシングにあってしまいました。
確かに「別に」と木で鼻をくくったような応対をするのは、インタビュアーも観客も不愉快にさせますが、エリカさんはもっと不愉快なのですから、しかたがありません。
もっとも嘘つき村では、自分の不愉快な気持ちを隠して、にこやかに応対するのがオキテなので、エリカさんはオキテ破りをしてしまったわけです。
 
嘘つき村の芸能界というのは恐ろしいところで、大物芸能人は不愉快なことがあっても、人前ではにこやかにふるまっていますが、裏でスタッフに当たっています。しかし、これは嘘つき村では普通のことなので、決してバッシングされることはありません。
嘘つき村ではエリカさんのような正直者がバッシングされるのです。
 
エリカさんは女優です。女優というのは(男優も同じですが)、人間的な魅力を感じさせなければいけません。正直とか純粋とかは魅力の大きな要素です。愛想よく言葉巧みに世の中を渡っていけるような人は、女優には向きません。
しかし、ここは嘘つき村です。嘘のつけない、魅力的な女優さんに限ってバッシングされる傾向があります。たとえば広末涼子さん、葉月里緒菜さん、藤谷美和子さん。松たか子さんも一時はバッシングされました。
 
愛想笑いというのは所詮は嘘です。私はそんなものに魅力は感じません。つまらなければつまらない顔をし、楽しければ楽しい顔をする。そういう人の笑顔が見たいものです。
 

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