村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年08月

野田新首相は代表選の演説で相田みつをの言葉を引用しました。
「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよな」
自分をどじょうにたとえたわけです。新幹事長に決まった輿石東氏に教えられた言葉だということですが、演説に引用するぐらいですから、野田氏が相田みつをを好きであることは間違いないでしょう。
一国の指導者が相田みつをを好きだというのはどうなのでしょうか。
 
相田みつをについては、評価する人とそうでない人と極端に別れる傾向があります。
私は相田みつをの詩を読むと、ほとんどの場合、「プッ」と軽く吹き出してしまいます。
いや、私は相田みつをの詩を読むのは好きですし、おもしろいと思いますし、考えさせられます。そういう意味ではすばらしいと思うのですが、それでも読んだ瞬間に「プッ」と吹き出してしまうのです。
みつをファンの方もたくさんおられますから、あんまりへたなことは書けないのですが、自分なりに吹き出す理由を分析してみますと、ひとつは、「お前はどうなんだ」ということを思うからです。つまり、「立派なことを言ってるけども自分は実践できているのか」ということです。
もっとも、書くことと実践を一致させなければならないという理屈はどこにもありません。文芸評論家は自分は小説を書けなくても人の小説を批判しています。
ただ、相田みつをの詩は人間の生き方に関するものですから、こちらが「お前はどうなんだ」と思ってしまっても、ある程度しかたがないでしょう。
 
私が吹き出すもうひとつの理由は、「その程度か?」と思うからです。
相田みつをの詩は、表現は工夫されていておもしろいのですが、思想はそれほど深くありません。たとえば、「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよな」というのは、要するに「分相応の生き方をしなさい」とか「背伸びはやめなさい」ということを言っているだけです。ただ、表現によって読ませているのです。
 
思想が深くないというと、ファンの人から怒られそうですから、多少客観的な証拠を挙げましょう。
私はたまたま見ていたのですが、TBSの「タイノッチ」という番組で相田みつをの詩が取り上げられました。お笑い芸人の千原ジュニアがどこかに泊まったとき、相田みつをの詩集が何冊も置いてあって、それを読んでいるうちに頭の中がすっかり相田みつをになってしまって、自分も相田みつを風の詩がつくれると思って、つくってみたそうです。そして、その番組で、「千原ジュニア作相田みつを風の詩」と「本物の相田みつをの詩」を並べて、どちらが本物かを当てるクイズをやったわけです。このクイズは3問か4問あったのですが、「千原ジュニア作相田みつを風の詩」を本物と答える人のほうが多かったのです。
これは千原ジュニアがひじょう才能のある芸人だということでもありますが、相田みつをの詩は千原ジュニアに真似されてしまう程度のものだということでもあります。
ちなみに「タイノッチ」という番組では、のちに歌手の矢沢永吉を取り上げ、「千原ジュニア作矢沢永吉風の名言」と「本物の矢沢永吉の名言」を並べて、本物を当てるというクイズもやりましたが(これもたまたま見ていたのです)、これは偽物が見破られてしまいました。矢沢永吉のような個性的な人の真似をすることは千原ジュニアにもむずかしかったようです。
 
相田みつをの思想が深くないといっても、相田みつをはそもそも思想家ではないわけで、詩人で書家ですから、筋違いの批判ということでご容赦ください。
 
 
問題は、一国の指導者が相田みつをを好きだということです。これはどうなのでしょうか。
私は、これはよいことだと思います。
よく「政治家には哲学が必要だ」ということを言いますが、これはまったくの嘘です。
鳩山由紀夫氏は「友愛」というすばらしい哲学を持っていました。
菅直人氏は「最少不幸社会」というよく考え抜かれた哲学を持っていました。
しかし、こういう哲学は役に立たないばかりか、むしろ足を引っ張った可能性があります。
 
石原慎太郎氏は、ただのタカ派思想しかありません。
小泉純一郎氏は、「郵政改革は構造改革の本丸」という個人的な思い込みだけの人でした。
しかし、そのために状況に応じた行動ができ、それが国民の支持につながったのです。
 
相田みつをが好きな野田氏も、哲学がないことで国民の支持を得る可能性があります。
 

野田佳彦さんが民主党新代表に決まりました。もし海江田さんが勝っていたら、ことあるごとにマスコミから、小沢支配だ、二重権力だという批判を受けて足を引っ張られていたでしょうし、前原さんは直情径行なところがあって危なっかしいので、まあ妥当な結果でしょうか。
民主党政権にはいろいろ批判があると思いますが、自民党政権に戻っていいことがあるとは思えないので、私は当分、民主党政権を支持していくつもりです。
 
少なくとも政権交代があってよかったと思えることがひとつあります。それは、原発事故処理をやったのが自民党政権でなく民主党政権だったということです。自民党は経産省、電力会社とともに原発安全神話をつくってきた張本人ですから、東電や保安院に引きずられて、機敏に対応できなかった可能性が大きいと思います。菅政権は、避難区域を10キロからすぐに20キロに拡大し、海水注入、ベントの指示をするなど、初動は適切でした。
菅首相は福島第一を視察に行ったことで、それがベントの遅れにつながったのではないかとずいぶん批判されましたが、これはあくまでベントの遅れにつながった「可能性がある」と批判されたのです(もちろん政府、東電は否定)。つまり菅政権を批判したい者は、「可能性」しか批判の対象を見つけられなかったということでしょう。
まあ、情報の開示が適切でなかったということはありますが、このへんはほとんど東電や経産省、保安院が仕切っているので、自民党政権の負の遺産の要素もあります。
 
とはいえ、菅首相はきわめて不人気でした。これは、菅首相はもともと市民派で、反権力の人ですから、権力の椅子が似合わないというか、権力者然としたふるまいができなかったことが大きいと思います。やはり石原慎太郎都知事のように、いかにも権力者らしいふるまいをする人のほうが人気があります。
とはいえ、私は菅首相のようなタイプの権力者は嫌いではありません。こういう人でも首相が務まる世の中になってほしいものだと思います。
 
それにしても、相変わらずリーダーシップのある政治家を望む声が強いようです。一般国民が言うのならわかりますが、政治学者や政治評論家のような人までが言うのはどうでしょうか。
リーダーシップのある政治家は、よいことをしてくれるとは限りません。リーダーシップは悪い方向にも発揮されます。というか、確立されたリーダーシップは暴走しがちです。近代でいちばんリーダーシップのあった政治家は、間違いなくヒットラーでしょう。スターリン、毛沢東もリーダーシップがありました。チャーチルもそうですが、チャーチルのイメージがいいのは、敵役にヒットラーがいたからです。
 
政治家にリーダーシップを求める心理は、親に対する子どもの心理と同じです。立派な政治学者が「リーダーシップのある政治家が必要だ」などと言っているのは異様な光景です。正しい政治学者なら国民に向かって、「リーダーシップを求めるのは人間が未熟だからです。そういう未熟な国民がよい政治家に恵まれることはありません。早く成熟した国民になってください」と言うでしょう。

今日、民主党代表が決まるわけですが、誰が代表になっても、親小沢か反小沢かということがずっと論争されていくんでしょうね。どうしてこんなおかしなことになってしまったのでしょうか。
 
マスコミは圧倒的に反小沢です。新政権が少しでも親小沢的なことをすると批判するでしょう。しかし、マスコミが主張するように脱小沢を徹底したとしても、それで震災復興が進んだり、経済がよくなったりするわけではありません。今、親小沢か反小沢かを論じている場合ではないでしょう。いや、今に限らず、親小沢か反小沢かというのはどうでもいいことではないでしょうか。
マスコミが反小沢なのは、小沢氏が起訴されて被告人という立場にあることと、その政治手法が古くてダーティで強引だということからでしょう。単純にいえば、「小沢氏は悪で、悪を排除すれば政治はよくなる」という理屈です。
しかし、これは道徳という枠内の理屈にすぎません。
「悪を排除すれば世界はよくなる」というのは、映画やドラマの中であるだけです。
現実の社会では、悪を排除するための戦いにエネルギーを費やすだけで、ほとんどの場合、悪を排除することはできません。暴力団排除や「テロとの戦い」を見てみればわかるでしょう。かりに悪の排除に成功したとしても、今度は別のものが悪として立ち現われてくるだけです。そんなことを続けていると、どんどん住みにくい社会になっていきます。
 
道徳というのは、人を非難して自分が優位に立とうとするときにひじょうに役に立つ道具です。ですから、野党が小沢氏を批判するのはわかります。しかし、マスコミが小沢氏批判に力を入れるのはどうなのでしょうか。そんなに政治の世界を混乱させたいのかと思ってしまいます。
 
私は「家庭に道徳を持ち込むな」と主張していますが、実際は、道徳を持ち込んでいけないのはどんな世界も同じです。
 
では、道徳を持ち込まないとすると、どんな基準で物事を判断すればいいのでしょうか。それは、「誰がどれだけ幸せになるか」ということです。あるいは、単純に損得、利害ということでもかまいません。善悪、正義という概念を頭から排除すると、必然的に物事を合理的に考えられるようになります。
 
私は別に小沢氏を支持しているわけではありません。ただ、検察の判断に追随するだけのマスコミの反小沢の論調を批判しているだけです。
小沢氏についてはさまざまな批判があるでしょう。たとえば、「マニフェストにこだわる小沢氏のやり方では財政がさらに悪化する」とか「小沢氏の防衛観や親中国の姿勢では対米関係がうまくいかない」とか「官僚にきびしい姿勢は間違っている」とか。こうした批判なら論争を通して建設的なものが出てくる可能性があります。
しかし、今の小沢批判は「小沢は悪だ」という批判であって、ここからはなにも出てきません。
これからは「脱道徳」の発想があらゆる分野で必要になってきます。

島田紳助さんが芸能界引退表明をしたことをきっかけに、3回連続で暴力団に関して書いてしまいましたが、私は特に暴力団に詳しいわけではありません。ただ、暴力団に対する見方が普通の人とは違うので、普通の人に書けないことが書けるとは思っています。
 
普通の人は、「暴力団は悪い」という前提から考えます。ですから、暴力団とつきあうのは悪いし、島田紳助さんは悪いし、暴力団の取り締まりを強化するのはよい、という考えになります。
私は、「暴力団が悪いわけがない」という前提から考えます。ですから、どうして暴力団は悪いとされてしまったのだろうかと考え、その歴史を調べます。その中で裁判によらずに懲役刑が科せるという「賭博犯処分規則」という法律があったことなどがわかりましたし、そうしたことから誰が「暴力団は悪い」という考え方を広めたのかを推測しました。
 
私が「暴力団が悪いわけがない」と考えるのは、人間はみな同じだと考えるからです。これはごく当たり前のことですが、今の世の中はこの当たり前のことがわからなくなっています。
確かに今の世の中を見ると、悪い人間やよい人間がいるように見えます。しかし、それはもとは同じ人間であったのが、なんらかの原因で悪い人間やよい人間になったわけです。ですから、過去にさかのぼって調べていけば、悪い人間になった原因がわかり、原因がわかれば、悪い人間を直す方法もわかるはずです。
 
私はこうした考え方を「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」によると、たとえば暴力団の問題はこのように説明できます。
 
学校のクラスで大勢が一人をイジメているとします。その大勢にイジメる理由を聞けば、あいつは汚い、臭い、のろまだ、バカだ、乱暴だ、ずるいなどというでしょう。その言葉だけ聞くと、まるでイジメられる子どもが悪いようです。
暴力団も、警察や一般人からイジメられています。警察や一般人にイジメる理由を聞けば、いろいろな理由を言うでしょう。その言葉だけ聞くと、まるで暴力団が悪いようです。
つまり暴力団は、クラスでイジメられる子どもと同じようなものです。
そして、現在の暴力団対策は、徹底的にイジメて無力化するか、クラスから追い出してしまおうというやり方です。こんなやり方のうまくいくはずがありません。
正しいやり方は、イジメをやめて、みんな仲良くすることです。
 
なんかすごく当たり前のことですね。
しかし、それでもイジメをやめたくない人もいるでしょう。そういう人は、「イジメるのはあいつが悪いからだ。あいつが改心すればイジメはやめる」というはずです。
改心するべきは自分なんですけどね。

「ボタンのかけ違い」という言葉がありますが、暴力団対策はまさにボタンのかけ違いで、最初が間違っているので、どこまでいっても成功するということがありません。
 
暴力団というのは戦後できた呼称で、その源流をたどれば博徒、的屋、火消し、ヤクザ、侠客、渡世人などになりますが、ここでは単純化して博徒ということにしておきます。
江戸時代、博徒は日蔭者ではありましたが、社会に一定の居場所を持っていました。清水次郎長、新門辰五郎などは社会的に尊敬される存在でもありました。明治になって、刑法で博打が禁止されましたが、そのとき失業する博徒に対してなんらかの補償が行われたかというと、そんなことはありません。むしろ逆に迫害されたのです。
その典型が1884年に制定された「賭博犯処分規則」という法律です。これは刑法の賭博罪に代わるもので、裁判によらずに(行政処分で)懲役刑を科すことができるというものです。この法律によって博徒は大弾圧を受けたのです。
ところで、博徒には自由民権運動に参加する者が多く、この法律は自由民権運動を弾圧する目的もあったとされています。
この法律は帝国憲法と整合性がないということで1889年に廃止されますが、司法当局は博徒の取り締まりは違憲であっても許されると考えていたのでしょう。つまり、取り締まるほうが不当なやり方をしていたのです。
 
1991年制定の暴力団対策法も、結社の自由を制限して違憲であると、故・遠藤誠弁護士らが訴訟を起こしました。確かに、ある特定の集団だけを準犯罪者扱いにするという妙な法律です。
 
「罪を憎んで人を憎まず」といいますが、博徒、ヤクザ、暴力団に関しては、警察司法当局は「罪よりも人・組織を憎む」という方針で取り締まっています。
取り締まり方が不当だから、暴力団対策はうまくいかないのです。
 
博徒は親分子分、兄弟分という強い絆で結ばれ、独自の掟を持ち、暴力的でもある集団で、近代社会においてこういう集団が存在するのは確かに不都合です。しかし、ある集団をなくそうとすれば、それなりのやり方があります。たとえば、日本の繊維産業が途上国に追い上げられて危機に瀕したとき、構造不況業種に指定するというやり方で中小企業に対する転業支援が行われました。博徒に対しても転職支援をすればよかったのです。
しかし、警察司法当局にそういう発想はありませんでした。なぜなら彼らは学歴エリートで、もっとも差別意識の強い人間ですから、博徒にも差別意識で対してしまったのです。
 
学歴エリートがもっとも差別意識の強い人間だというのは私の考えで、もしかして社会常識と違うかもしれませんが、誰でも素直な気持ちになれば理解できるはずです。
 
マスコミの人間も学歴エリートという点で警察司法当局の人間と共通しています。また、学者や評論家などもたいていは同じです。そのため、警察のやり方が不当なのだということを認識できません。
 
警察の不当な取り締まりによって、博徒も変質しました。虐待された子どもの性格がひねくれるのと同じです。昔は講談にうたわれた森石松のように、博徒は愛される存在でもありましたが、今はそういう人間も少ないでしょう。暴力団と呼んでいるうちに実質も暴力団になってきているかもしれません。
しかし、ボタンのかけ違いをしたのは警察司法当局なのですし、暴力団対策を成功させようとすれば、そこまでさかのぼって考え直すしかありません。

島田紳助さんの引退に関して朝日新聞が「どう見てもアウトだ」というタイトルで社説を書いていましたが(8月25日朝刊)、なんともひどいものです。完全に思考停止状態というか、パブロフの犬状態というか、「暴力団」という言葉に反射的に反応しているだけです。
「アウトだ」というとき、その基準は誰が決めたのでしょう。朝日新聞でしょうか。警察でしょうか。
一部を引用します。
 
 
芸能界と暴力団とのつながりは、深くて、広い。山口組が昭和の時代、浪曲の興行に進出したのが始まりとされる。
 芸能の主舞台がテレビに移っても、タニマチになったり、争いごとに介入したりと、いろんな場面で見え隠れしてきた。多少のヤンチャは芸の肥やし、とみる向きもあった。
 だが、もはやそんな時代ではないことは、誰でもわかっているはずだ。
 暴力団対策法が施行されてから、すでに19年。けれど構成員・準構成員の数は8万人前後で、大きな変化はない。かたぎを装う「共生者」とともに市民生活や企業活動に巧みに入り込み、稼ぎ続けているのだ。
 そこで、ここ数年、暴力団に利益を与えた側を罰する条例があちこちにでき、各業界は暴力団排除の約款作りに乗り出している。大相撲も野球賭博事件を機に、関係断絶を迫られた。
 暴力団に対して、より厳しい態度で臨もうという意識が社会全体に強まっている。それだけに、この一件は看過できない。
 
さすがに朝日新聞は現状を正しくとらえています。
「暴力団対策法が施行されてから、すでに19年。けれど構成員・準構成員の数は8万人前後で、大きな変化はない」
まさにその通りです。警察の暴力団対策はなんの結果も出していないのです。
いったいなんのために暴力団対策法をつくったのでしょう。暴力団対策法をつくってから、警察はなにをしていたのでしょう。
これは明らかに警察の怠慢か失敗です。朝日新聞はなぜこれを追及しないのでしょう。
これに比べたら、島田紳助さんのことなどあまりにも小さいことです。
これまで警察は暴力団対策でなにをやってきて、どれだけ経費をかけて、その成果はどんなものであったかをきっちりと検証しないといけません。
もちろん成果といえるものはなにもないはずです。
現在、地方自治体で暴力団排除条例の制定が進められていますが、それによっていかなる効果があるのかも示されていません。
つまり、警察がやっている暴力団対策はまったくのデタラメで、時間と経費のむだなのです。
ところが、朝日新聞に限らずマスコミは警察を追及せず、逆に島田紳助さんや大相撲などを悪者に仕立て上げようとしています。
 
ヤクザを暴力団と名づけて排除することは、戦後警察が始めたことです。
官僚の常として、自分の間違いを認めようとしません。一度始めたことは、明らかに間違いとわかっても、なかなかやめません。支那事変を始めた軍部は、戦いに勝てないことが明らかになっても、戦いをやめることができず、太平洋戦争にまで突っ走ってしまいました。今、警察がやっている暴力団対策も同じようなものです。
 
ヤクザというのは、確かに近代社会では奇妙な存在です。しかし、それは大相撲が奇妙な存在であるのと同じようなものです。大相撲を排除せず、これまで共存してきたのですから、ヤクザと共存できない理屈はありません。
ヤクザを排除するという作戦がうまくいけばそれでよかったかもしれませんが、今はうまくいかないことが誰の目にも明らかになっています。
新聞記者は警察庁の記者会見などで、「暴力団対策はいつ成功するのですか」と声を上げてください。
もし警察が暴力団対策に成功していれば、島田紳助さんも芸能界を引退する事態にはならなかったのですから。

島田紳助さんが芸能界引退を表明した理由は、暴力団との交際だということです。一般常識として、暴力団と交際するのはよくないことですし、芸能人の場合はとくによくないこととされています。しかし、よく考えるとおかしいですよね。暴力団と交際して犯罪を共謀するというのならいけませんが、ただ交際するだけのことがなぜいけないのでしょう。
 
見ただけで暴力団員とわかる人ばかりではありません。近所に住んでいて、知らずにつきあってしまう場合もあるでしょう。暴力団員とわかった瞬間につきあいをやめるというのは相手に失礼ですし、それに近所づきあいとして最低限のことはしないわけにいきません。
また、暴力団員とわかっていても、人間同士ですから、それなりの対応をしなければなりません。たとえば、暴漢に襲われたとき、暴力団員が助けてくれたとします(紳助さんの場合もこれに近いものがあります)。その場合も、恩人としての対応をしてはいけないのでしょうか。
つまり、暴力団員も同じ社会に人間として生きているのですから、どうしてもつきあわざるをえない場合もあるのです。
ですから、暴力団と絶対つきあうなというルールのほうがおかしいのです。
 
では、どうしてこんなおかしなルールができたのでしょうか。それは、警察に責任があります。
 
もともとヤクザは少なくとも江戸時代から存在し、社会で一定の位置を占めていましたが、戦後、警察はこれを暴力団と呼んで排除するということを始めました。最初は頂上作戦といって幹部を逮捕する作戦を、第一次、第二次、第三次とやり、それから資金源を断つという作戦をやり、さらに、いわゆる暴対法をつくり、最近は地方自治体で暴力団排除条例の制定を進めています。その結果どうなったかというと、暴力団構成員の数が少しへったぐらいの成果しか上がっていません。つまり、警察は暴力団を排除することに完全に失敗したのです。
東京電力は原発事故処理の工程表を発表し、冷温停止の時期を示していますが、警察は暴力団排除の“工程表”を発表したことはなく、いつ排除に成功するかの時期も示していません。おそらく国民のほとんどは、警察は暴力団の排除に永久に成功しないだろうと考えています。
しかし、警察は失敗を認めようとせず、もちろん謝罪もしていませんし、誰も責任を取っていません。
むしろ警察は、みずからの非を国民に押しつけようとしています。そのためにつくったのが、暴力団とつきあってはいけないというルールです。
さっきも言ったように、そこに人間がいるのにつきあうなというのはむりなのです。そこに人間(暴力団員)がいるのは、警察が失敗したせいです。しかし、警察は逆に、暴力団とつきあう国民が悪いというイメージをつくりあげて、自分の失敗をごまかそうとしています。
 
警察は、暴力団排除の“工程表”を発表して、暴力団排除に成功する時期を示さなければいけませんし、それができないなら、暴力団排除の作戦を中止しないといけません。
今は勝ち目のない戦いに戦力を投入し続ける“ガダルカナル状態”で、その損失をこうむるのは国民です。
警察・司法・法務の官僚はみずからの間違いを認めて、作戦を中止するべきです。
 
 
作戦を中止したとき、暴力団対策はどうすればいいかは、次のエントリーを参考にしてください。
「暴力団追放運動の不思議」
 

今さらですが、なでしこジャパン・ブームはすごいですね。確かにワールドカップ優勝はすばらしいことですし、選手一人一人がきびしい環境でがんばっているのも感動的です。しかし、なでしこジャパン自体は優勝前も優勝後も変わるわけではないのに、人々の変わりようには驚いてしまいます。
みんなそんなに「世界一」が好きなのでしょうか。そういえば、野球のWBCで日本が優勝したときも大騒ぎでした。
 
それにしても、蓮舫さんもとんだとばっちりでした。ツイッターに「優勝おめでとう」と書き込んだばかりに、「スポーツ振興費を仕分けした人に言ってほしくない」とか「一位じゃだめなんでしょう」などの書き込みが殺到し、炎上してしまったということです。
また、蓮舫さんは「はやぶさ」に関連する宇宙開発関連予算を仕分けしたということでも批判されました(本人はその仕分けにはかかわっていないと弁明しています)。「はやぶさ」も世界初の偉業でした。
スーパーコンピュータが世界一の記録を出したときも、蓮舫さんが批判されました。スーパーコンピュータの予算を削減しようというときに、蓮舫さんが「二位じゃだめなんでしょうか」の名言を言ったのでした。
 
事業仕分けで削減した額が少ないといって批判されるならわかりますが、削減したことを批判されるのはどうなのでしょうか。
そもそも「はやぶさ」やスパコンなどの科学技術の分野では、人類としての達成だと考えるべきであって、日本が一位だとか二位だとかいうのはどうでもいいことです。日本が一位になることで多少国益に資することがあるかもしれませんが、一位になるために予算をつけるというのは、どう考えても間違っています。あくまで費用対効果で考えるべきです。
 
こうした事業仕分けを批判しているようでは、今後むだな予算の削減はますます困難になります。国民も、「世界一」に目をくらまされることなく、むだ遣い削減、財政健全化という大きな目標を見失わないようにしないといけません。
 
ところで、なでしこジャパンの次の挑戦はロンドン・オリンピックということになりますが、優勝は容易なことではありません。明らかにアメリカのほうが実力は上ですし、実力伯仲の国はいくつもあります。なでしこジャパンが二位以下になったとき、今まで熱狂していた人々はどういう態度をとるのでしょうか。
もし二位になって、今まで熱狂していた人たちが潮が引くように離れていったとき、蓮舫さんは声を大にして「二位じゃだめなんでしょうか」と言ってもらいたいものです。

テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」を観てきました。この映画の映画評をいくつか読んでいましたが、煮え切らないものばかりです。自分がちゃんとした映画評を書いてやろうという意気込みで観たのですが、うーん、やっぱりむずかしいです。
 
父と息子の関係を軸にした映画です。映像は素晴らしいです。啓示的で、神秘的です。昔のアメリカの田舎町の、子ども目線からの生活もきっちりと描かれています。私は観ていて一瞬たりとも退屈しませんでした。ですから、かなりいい映画だと思います。
とはいえ、観ていて退屈した人も多かったかもしれません。ヤフー映画の投稿レビューも概して低評価です。
 
ブラッド・ピット扮する父親と息子の関係がストーリーの軸になるのですが、この父親は細かいことに口うるさく、笑顔ひとつ見せませんし、子どもにとって怖くもあります。しかし、子どもにいろんなことを教えますし、それほど悪い父親とも見えません。少なくとも、飲んだくれの、バイオレンス親父ではありません。つまり、この父親と息子の関係が今ひとつよくわからないのです。
ありがちなストーリーとしては、きびしいだけの父親だと思っていたら、なにかの拍子で実は息子を愛していたことがわかり、息子は父親の愛に涙する、みたいなのがありますが、この映画はそういうものではありません。
かといって、息子が冷酷な父親と決別し、自分の人生を歩んでいくというものでもありません。
では、いったいなにかというと、父と息子の関係を把握できないまま“哲学に逃げた”映画といえるでしょう。テレンス・マリックはフランスの大学で哲学を教えたりもしている人です。
テレンス・マリックほどの知性ある人でも、親と子の関係は正しくとらえられないのです。
 
この映画の脚本はテレンス・マリックが書いていますので、ここに描かれた父子関係はマリック自身のものと重なっているのではないかと思われます。
私が思うに、マリックの父親は愛のない人だったのでしょう。しかし、どんな子どもも親に愛がないとは認識したくありません。マリックも例外ではなく、そのため“哲学に逃げた”のだと思います。
 
「親に愛されない子どもの悲劇」をきっちりと受け止められる人はほとんどいません。これは知性とはまた別の問題です。
 
私の知る範囲では、「親に愛されない子どもの悲劇」をきっちりと描いた映画は、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「サンタ・サングレ」ぐらいしかありません。しかし、この作品は同じ監督の「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」ほど評価されていないようです。
ちなみに、ホドロフスキー監督に資金援助をした中心人物がジョン・レノンです。ジョン・レノンもまた「親に愛されない子どもの悲劇」をきっちりと認識した人です。だからこそ愛の歌がつくれたのです。
日本では、園子温監督が「紀子の食卓」などで鋭く「親に愛されない子どもの悲劇」に迫っていると思います。
 
結局のところ、「ツリー・オブ・ライフ」は、「親に愛されない子どもの悲劇」を描こうとして描ききれなかった映画ということになるでしょうか。

東京都杉並区で3歳の女の子が死亡した事件がちょっとした話題になっています。容疑者である43歳の女性が声優という職業だったことと、この女性が死亡した女の子の里親だったことが関心を呼んだのでしょう。これまで実の親や義理の親が子どもを虐待死させるという事件はよくありましたが、里親が里子を殺すというのは珍しいことです(今はまだ容疑の段階ですが)
この事件に関連して「試し行動」についての新聞記事がありました。「試し行動」というのは、おそらくまだ知らない人が多いのではないかと思われますが、人間性の根幹にかかわることで、誰もが知っておくべき重要なことです。
 
里親が里子を預かったとき、愛情さえあればうまくいくかというと、そうではありません。里子はたいてい「試し行動」をするからです。
里子は新しい親をすぐには信用しません。果たして信用できるかどうかを試す行動が「試し行動」です。具体的には、親が困るようなことをします。逆らったり、大声を出したり、暴れたり、物を壊したり、やり方はさまざまです。新しい親がそれらを全部許して受け入れると、里子は新しい親を信用し、信頼関係が築かれます。
里子は実の親やその他の人に虐待されていた場合もあって、その場合は「試し行動」もより激しくなります。
 
里親になる人は研修でこのことを必ず教えられます。この知識がないと、里子の「試し行動」に触れたとき、親に対して悪意を持っているのではないか、「悪い子」を里子にしたのではないかと思ってしまいかねません。
 
「試し行動」は里子にだけ見られることかというと、そうではありません。実の親子関係でもあります。
たとえば、このカウンセラーのホームページにも書いてあります。

「子供の試しに応えよう」
 
完璧な親はいませんから、子どもは親の愛を確かめようと「試し行動」をすることがあるわけです。
「よい親」であれば、子どもが親を困らすようなことをしても、許して受け入れますから、すぐに「試し行動」はなくなります。
しかし、「悪い親」であれば、子どもを「悪い子」と見なし、矯正しようとして叱ったり罰したりするので、子どもはさらに「試し行動」をエスカレートさせます。そうして負のスパイラルになって、不幸の坂道を地獄まで転がり落ちていく親子も多いことと思われます。
 
また、「試し行動」は恋愛関係でも見られることがあります。わざと相手を困らせるようなことをして、相手の愛を確かめるのです。これをやったために関係が壊れてしまうことも当然あって、やった本人は後悔しますが、いわば本能レベルの行動なので、やめようとしてもやめられるものではありません。ですから、「試し行動」を受け止める側の態度がたいせつになってきます。
多くの恋愛は、むしろ相互に「試し行動」をし合うようなものかもしれません。
 
「試し行動」を知ると知らないとで人生は大きく変わってきます。



≪追記≫
「試し行動」について専門家が語るインタビューが朝日新聞に載っていたので、紹介しています。

専門家が語る「試し行動」

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