村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年09月

イソップ童話の有名な「アリとキリギリス」の話には、実はロングバージョンがあります。こんな話です。
 
アリは暑い夏の間も一生懸命働いていました。一方、キリギリスは毎日、歌ったり踊ったりして楽しくすごし、汗水たらして働くアリをバカにしていました。しかし、やがて冬がきて、キリギリスは寒さとひもじさに耐えかねて、アリの家にやってきます。家の中は暖かくて、食べ物もいっぱいあります。キリギリスは食べ物を恵んでくださいとお願いしました。するとアリたちは、キリギリスを家の中に招き入れ、食べ物ばかりか寝る場所も提供してくれました。キリギリスは感謝して、冬中ずっと歌と踊りでアリたちを楽しませました。
次の年の夏も、アリは汗水たらして働き、キリギリスは毎日遊んでいました。そして、冬になるとまたキリギリスはアリの家にきました。アリはキリギリスを家に招き入れ、キリギリスは冬中アリたちを楽しませました。
毎年同じことが繰り返されていましたが、ある年、一匹のアリが言いました。
「キリギリスさんは夏の間ずっと遊んでいたんだから、冬になって飢え死にしたって自己責任だ。私たちが助ける必要はないよ」
ほかのアリも、前からキリギリスを助けることに釈然としないものを感じていたので、その意見に賛成しました。そのため、キリギリスは食べ物ももらえずに追い出されてしまいました。
そして、キリギリスは飢えと寒さで死んでしまいました。
次の年、冬になってもキリギリスはアリの家にきませんでした。その次の年も同じです。キリギリスの社会に、アリは助けてくれないということが知れ渡ったのです。
アリは歌も踊りもできません。働くこと以外になんの能力もないのです。
キリギリスを追い出したときから、アリはなんの楽しみもない、ただ働くだけの一生を送るようになってしまいましたとさ。
 
もちろんこれは私のつくり話です。ロングバージョンがあるというのも嘘です。
なぜこんな話をつくったかというと、ギリシャのことを考えていたからです。
 
今、ギリシャは財政危機で、ユーロ諸国の助けを受けています。助ける側の中心はドイツです。ドイツとギリシャの関係はよくアリとキリギリスにたとえられます。
ドイツの世論は圧倒的に、なぜ自分たちのお金でギリシャを救うのかと、ギリシャ救済に否定的です。ギリシャ人はろくに働かず、放漫な財政運営をしてきたのだから、破綻しても自己責任だという考えです。
こうした考えは、経済危機のたびに表面化します。
たとえば日本でバブル崩壊後、金融機関に資金注入をするべきだという議論が行われたとき、なぜ税金を使ってバブルに踊った金融機関を救済するのかと、世論は圧倒的に反対でした。そのため山一証券をつぶすというショック療法で世論を変えなければなりませんでした。アメリカでもリーマン・ブラザーズをつぶすというショック療法が行われました。
 
バブルに踊ったり、放漫なことをした者が不幸になるのは自己責任だという考え方は道徳的な考え方です。経済の世界に道徳を持ち込むと、ただ混乱を助長するだけです。そして、かえって自分が不幸になってしまいます。
 
経済の世界を見ると、道徳がろくでもないものだということがよくわかります。

中国の大連に行ってきました。ただの観光旅行です。旅順がすぐ近くなので、ロシア軍の要塞跡を見て、二百三高地にも登りました。
実は中国に行くのは初めてです。初めての中国旅行が大連だというと何人もの人に驚かれました。普通はまず北京か上海に行くのでしょうね(旅行の計画は妻主導で決まります。私はもともと引きこもり系なので、もし結婚していなかったら、海外旅行はしていなかったかもしれません)
 
驚いたのは、一般の人にぜんぜん英語が通じないこと。レストランで「ビアー」と言っても通じないのには閉口しました。結局、冷蔵庫の前まで行って指差して注文しました。白いご飯を注文しようと「ライス」と言っても、やはり通じません。「ハン」とか「パイハン」とか言っても、発音が悪いのかだめです。写真つきのメニューなので、ほかの料理は注文できるのですが、白いご飯はメニューに載っていないのです。
 
ちなみにスペインも、一般の人には英語がまったくといっていいほど通じません。そのことはあらかじめわかっていたので、「ビールをください」など必要な言葉は覚えておきましたから、たいした問題は起きませんでした(私にとってカフェでもレストランでもビールは必須です)
中国では「ニイハオ」と「シェイシェイ」だけ知っていればいいだろうというのは甘い考えでした。やはりちゃんと準備はしなければいけません。
 
これまで20カ国近くに行ってきましたが、その経験で言えるのは、あまり文明的でない、ちょっと田舎っぽい国のほうが旅行して楽しいということです。
たとえば、ヨーロッパでいちばん楽しかったのはギリシャです。もちろん遺跡など観光資源もすばらしいのですが、人間が素朴で、ふれあいがあり、こちらもリラックスできます(それにどこでも英語が通じます)
ギリシャには野良犬がいっぱいいます。それもシェパードやレトリバーのような大型犬が町中や遺跡などいたるところで昼寝しています。野良犬というと凶暴というイメージがあり、最初は警戒心を抱いてしまいますが、そのうちどの犬もおとなしいことがわかり、そうするとこちらも犬好きですから、野良犬を見かけることが楽しくなってきます。
 
私が学生のころはまだ日本にも野良犬がいました。夜中に1人で歩いていて、野良犬の群れに遭遇したときはかなりの恐怖でした。実際野良犬に人が襲われるという事件もよくありました。
当然、野良犬の態度は周りの人間の態度によって決定されます。少なくとも昔の日本人は野良犬にはきびしい態度だったのでしょう。そして、ギリシャ人は野良犬にやさしいのでしょう。ギリシャには野良犬の世話をするボランティアがいるということですが、それだけで野良犬があんなにおとなしくなるとは思えません(夜中にはギリシャの野良犬も群れて行動しているのかもしれませんが、人を襲うことはないのでしょう。もしあれば、野良犬をなんとかしろという声が出てくるはずです)
ギリシャの野良犬のやさしさは、ギリシャ人のやさしさでもあるのでしょう。
 
「その男ゾルバ」という映画があります。イギリス人の作家がギリシャでゾルバという男に出会い、その素朴な人間性や生き方に感銘を受けるというストーリーです。
 
ギリシャはヨーロッパでは田舎です。日本でもどこでも田舎の人は素朴です。文明化あるいは都市化されると、人間は素朴さを失います。つまり邪悪な心が芽生えてくるのです。
こういう考え方が「科学的倫理学」の基本です。
 
もっとも今、ギリシャは財政危機から国債のデフォルトが懸念され、国際金融危機の震源地になっています。
素朴なだけでは生きられません。これがこの文明社会のむずかしいところです。

海外旅行にいくので、5~6日ブログの更新を休みます。
 
4月初めにブログを始めて、これまで1日も休まずに更新してきたのは、われながら立派なものです。
とはいえ、書く題材を見つけるのにそれほど苦労はありませんでした。私は世の中とは別の視点でものを見ているので、世の中で騒がれていることをネタにしても、ほかの人とは別のことが書けるからです。
たとえば島田紳助さんのこともそうです。マスコミは警察側に立って書いていますが、私は島田さんや暴力団側に立って書くので、まったく別の論点の文章が書けるわけです。
マスコミはいわば、裁判において検察側の言い分だけを聞いて判決を下しているようなものです。それに対して私は、弁護側にはこういう言い分があるのではないかということを書きます。それが正しいとは断言できませんが、少なくとも両方の言い分を聞いたほうがいいのは間違いありません。
 
犯罪者、暴力団、テロリストなどの問題については、私はまず彼らの立場に立って考えます。
教育の問題なら、子どもの立場に立って考えます。
これは当たり前のことですが、できる人はほとんどいません。ですから、私の書くことには少なくとも希少価値があります。
 
文明について考えるときは、未開人や原始人の立場から考えますし、人間について考えるときは動物の側から考えます。
つまり自己中心の発想からコペルニクス的転回を遂げているわけです。
こういう発想法を身につけると、人間関係のトラブルを避けるのにも役立ちますし、創造的な仕事をするときにも役立つはずです。
 
こういう発想法のもとにあるものを私は「科学的倫理学」と名づけています。
つまり、「お前は悪い。自分は正しい」というのが今の世の中の普通の発想法で、これが「天動説的倫理学」です。ここからコペルニクス的転回をすると「科学的倫理学」になるわけです。
このブログは「科学的倫理学」の有効性を実際に見せることを主な目的にしています。
 
 
「科学的倫理学」については私のホームページも参考にしてください。
思想から科学へ」村田基のホームページ

子犬や子猫を飼った人ならわかるでしょうが、彼ら彼女らはとても遊び好きです。
子猫は、猫じゃらしのように細かく動くものが大好きです(おとなの猫も同じですが)。細かく動くものというのは、ネズミのような小動物に似ているからでしょう。子猫は猫じゃらしに飛びつくことで狩りの練習をしているわけです。複数の猫がいると、愛猫家が「夜の大運動会」といったりする、家中を走り回る遊びをします。走り回って、取っ組み合いをし、また走り回ります。これは知らないと喧嘩をしているように見えるのですが、よく見ると、追いかけたり追いかけられたりと、役割を交代しながらやっているので、遊びだとわかります。つまり、追っかけて、格闘して、組み伏せるという遊びも、狩りの練習になっているわけです。
ちなみに、私の生家の庭にはイタチがときどき姿を現して、あるときやはり追っかけっこの遊びをしているのを見ました。そのうちやめるかと思ったら、飽きずに延々と続けています。そのとき私は、「イタチごっこ」の語源はこれかと思いました。
 
犬の場合は、細かく動くものをつかまえるよりも、たとえば投げられたボールを追いかけるような、大きな動きの遊びが好きです。猫は森で狩りをしますが、犬の祖先であるオオカミは平原で狩りをします。走って追いかけることが狩りの練習になるわけです。
また、子犬はやたら物をよくかみます。油断していると、すぐ靴やスリッパなどをだめにされてしまいます。犬は猫ほど前足は器用ではなく、獲物はかみついて倒し、とどめをさすのもかむ力によってです。かむ力は生まれつきある程度備わっていますが、もちろん鍛えることもたいせつです。子犬にとって物をかむことは楽しい遊びなのですが、結果的にかむ力が鍛えられます。
 
つまり、犬や猫において、遊びの多くは狩りの練習であり、生存に直結した行為であるわけです。
 
人間においても、基本的には同じです。サルは森で採集生活をするものですが、人間だけは平原で集団で狩りをするサルです。昔から子どもの遊びでよくあるのは、鬼ごっこ、隠れんぼ、缶けりなどですが、これらの遊びには探索、追跡、捕獲という狩りの基本が入っています。
ビジネスの基本も探索、追跡、捕獲です。もうかるネタを探索して、発見すると追跡して、捕獲してもうけを手にします。つまりビジネスというのは狩りの発展形といってもいいでしょう。
 
しかし、人間の子どもは遊んでばかりいてはだめで、勉強をしなければなりません。勉強とはいったいなんでしょうか。
人間社会は複雑ですから、子どもも複雑なことを学ばなければなりません。それが勉強というわけでしょう。
しかし、それが生きるために必要なことであれば、あくまで遊びの延長上にあって、遊びと一体となっていていいはずです。
しかし今、遊びと勉強は相反するものになっています。
なぜ勉強は遊びから分離し、さらには遊びを抑圧するものになったのでしょうか。
 
私はこれを文明の病理ととらえ、その病理を「子ども差別」と呼んでいます。
 
それはともかく、子どもに勉強をさせたいと思うのであれば、勉強を正しく位置づけないといけません。
まず、勉強を遊びという土台の上に置くことです。学習ゲームなどですでに現実のものになっています。
また、その勉強が将来社会に出たときに役に立つのだと子どもを説得することです。しかし、今の学校でやっていることは、ほとんどが役に立たないことなので、この説得は不可能です。説得を可能にするには、教える内容を根本的に変えないといけません。

学校における子どもの成績のつけ方に、相対評価と絶対評価というふたつのやり方があります。相対評価というのは、クラスで成績のいい者から順に正規分布の理論で5段階の評価をつけるというものです。絶対評価というは、たとえば九九を全部覚えたら「5」、半分覚えたら「3」、ほとんど覚えなかったら「1」というように、その到達度で評価をつけるものです。絶対評価だと全員に「5」がつくということもありますし、教師の主観も入りやすくなります。
戦後の教育は、公平だということでもっぱら相対評価が行われていましたが、だんだん絶対評価の要素が取り入れられ、今では全面的に絶対評価になっています。やり方がまったく変わるというところに、教育の世界のいい加減さが現れています。
 
では、相対評価と絶対評価のどちらがいいのでしょうか。これは子どもの立場から考えてみればよくわかります。
 
子どもにとっては相対評価というのはどうでもいいことです。
たとえば、あなたが英会話教室に行ったとします。そこで、自分の成績がクラスで何番目だという評価をされたらどうでしょうか。そんなことどうでもいいと思うでしょう。英会話能力を身につけるために行っているのですから、今のレベルなら海外旅行で不自由のない会話ができるとか、もう少しやればビジネスの会話もできるとか、そういうことが知りたいはずです。つまり絶対評価のほうがいいのです。
相対評価だと、クラスの順位を上げることを目標に勉強することになってしまいかねません。勉強の目的はそういうことではないはずです。
 
では、今の学校のやり方がいいのかというと、そうとも言えません。
ほんとうにだいじなことは、自分で自分の評価ができるということなのです。
たとえばなにか楽器をやりたいと思って、ギターを始めるとします。人に習わなくても、教則本を買って1人で学ぶことができます。最初は遅々として進歩しないので、いらつくかもしれません。しかし、昨日よりも今日、今日よりも明日というように進歩が実感できるようになれば、やりがいが出てきます。
また、今やっている仕事のスキルを向上させて、その分野で一流の人間になりたいとします。その場合も、自分で自分を評価しながら、一歩ずつ自分を向上させていくしかありません。
自分で自分を評価することができれば、目標に到達する過程にやりがいを感じることができます。努力家とはそういう人のことでしょう。
 
自分で自分を評価するとき、人が自分をどう評価しているかということは参考になります。しかし、今の学校のあり方は、教師の評価の力が強すぎて、逆に自分で自分を評価することを妨げている可能性が大です。
 
たとえば、音楽の授業でリコーダーが使われますが、リコーダーの習得を通じて、日々進歩していく喜びを感じた人はどれだけいるでしょう。ほとんど皆無ではないでしょうか。そのため、授業で使わなくなると、どの家でもリコーダーは打ち捨てられてしまいます。リコーダーに教育の姿を見ることができます。

運動会の季節になりました。最近の運動会は、子どもが傷つかないようにかけっこの順位づけをしないという話があります。ゴール前で手をつないで一斉にゴールするという話もあります。こうしたことには圧倒的に反対の意見が多いようです。実社会には競争があって、負ければ傷つくのだから、学校でもそうするべきだというわけです。
しかし、私の考えは違います。実社会の競争と運動会の競走はまったく別ですから、運動会の競走にはなんの意味もないばかりか、むしろマイナスになるという考えです。
 
確かに世の中にはきびしい競争がいっぱいあります。たとえば司法試験に受かろうと思えば、めちゃめちゃ勉強しないといけません。私は小説雑誌の新人賞をきっかけに作家としてデビューしましたが、小説雑誌の新人賞はどこも千倍ぐらいの競争率です。タレントオーディションもきびしくて、国民的美少女コンテストには十万人の応募があるそうです。
しかし、このような実社会の競争は、敗者がさらしものになることはありません。小説雑誌の新人賞は一次選考通過者、二次選考通過者と名前が誌上に発表されますが、落選者の名前は発表されませんから、黙って応募していれば恥をかくことはありません。美少女コンテストも履歴書と写真で多くは落とされますが、そのことは誰にもわかりません。司法試験も、不合格者の名前と点数が発表されるということはありません。
つまりきびしい競争というのは、競争そのものがきびしいのであって、敗者がさらしものになるというきびしさは普通はありません。
運動会のかけっこは、順位づけしないといっても、遅い子の姿は誰の目にもさらされます。つまり、競争そのもののきびしさというより、敗者がさらしものになるきびしさがあるのです。
 
それに、実社会の競争には自分の意志でエントリーするわけですから、当然自分の得意な分野を選びます。勉強嫌いで、記憶力の悪い人が司法試験を目指すことはありません。競争に負ければ傷つきますが、自分が選んだことだからと、自分を納得させることができます。
運動会のかけっこは、走るのが得意な子にはいいですが、得意でない子にとっては、いやいや走らされて、恥をかかされるわけですから、大いに傷つきます。
ですから、運動会のかけっこやその他の競争は、むしろ競争嫌いの子をつくってしまう可能性があるわけです。
 
対策としては、順位づけしないことではなく、自分の得意な競技にだけ参加できるようにして、どれも得意でないという子はどれも参加しなくていいようにすることでしょう。

年齢制限というのは概して不合理なものですが、その代表例が20歳未満は喫煙禁止という法律でしょう。なぜ20歳なのかがわかりません。
一般には、若いときの喫煙はおとなの喫煙よりも体に悪いからだと言われます。しかし、その医学的根拠は不確かです。若いときからタバコを吸うと背が伸びないとも言われますが、これなどは完全に根拠のない脅しでしょう。
20歳以上は吸っていいことになっている理由も説明できません。喫煙は体に悪いに決まっているのですから、20歳未満と同様に禁止するのが当然です。
 
高校生が街中でタバコを吸っている場面を見かけたら、おとなは注意するべきだということが言われます。しかし、現実にできる人は少ないでしょう。20歳未満喫煙禁止という法律のおかしさは誰もが感じているので、自信を持って注意できないからです(健康に悪くても自己責任だという考え方もあります)
かといって、違法行為を見逃すと、自分が悪いことをしているようです。へんな法律はよけいな悩みをつくりだします。
 
ちなみにフランス、ベルギーでは年齢による喫煙禁止の法律がないので、子どもでもタバコが吸えます。中学生あたりがタバコを吸っている光景は普通に見られるそうです。
 
日本でも不合理な年齢制限は撤廃するべきでしょう。
といって、子どもでもタバコを吸えるようにするのは、明らかに逆行でしょう。国民の健康を害することになるからです。
年齢制限を撤廃するなら、全員喫煙禁止にするべきでしょう。
もっとも、すでにニコチン依存症になっている人にとってこの措置は過酷です。禁酒法時代のアメリカのように、犯罪組織が勢いづくことになりかねません。
 
そこで、便宜的措置として考えられるのが、喫煙禁止年齢を毎年上げていくというやり方です。
つまり、今年は20歳未満喫煙禁止ですが、来年は21歳未満喫煙禁止とし、その翌年は22歳未満喫煙禁止というふうにするわけです。こうすれば、現在ニコチン依存症の人は一生吸い続けられます(その代わり、現在19歳の人は一生吸えません)。こうして80年もすれば、喫煙者は死に絶えてしまい、非喫煙社会が実現しているというわけです。
 
もっとも、このやり方だとタバコの税収が年々へっていくことになります。財務省は国民の健康よりも税収がだいじですから、こうしたことはしないでしょう。
 
ところで、高校生などがタバコを吸うのは、おとなぶりたいから、あるいはワルぶりたいからです。タバコの年齢制限が逆に喫煙動機をつくりだしているわけで、その意味でも年齢制限はよくないことになります。

現代でもっとも重要な思想は人権思想です。人権思想を理解せずして社会的な発言はできません(してる人はいっぱいいますが)
ということで、今日は人権思想のお勉強をしてみましょう。
 
ロック、モンテスキュー、ルソーらの思想がもとになって人権思想が形成されるわけですが、人権思想が具体的な形となって登場したのは、アメリカの独立宣言においてです。
 
「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ」
 
ここにおいて基本的人権が明確に主張されて、人権思想が政治を動かすようになったわけです。ですから、人権思想がわからないと政治のこともわからないはずです。
この人権は天賦人権とも言われます。宣言に「創造主によって」とあるからです。
また、この人権は普遍的人権とも言われます。宣言に「すべての人間」とあるからです。
しかし、ここに大きな問題がありました。この問題を正しく把握しないと、すべてが混乱してしまうことになります(アメリカの独立宣言は1776年で、フランスの人権宣言は1789年ですが、フランスの人権宣言も同じようなものです)
 
まず、アメリカ独立宣言では先住民は人間と見なされていませんでした。当時すでにいた黒人奴隷も同じです。さらに女性、子どもにも人権は認められていませんでした。
ということは、どういうことかわかるでしょうか。
アメリカ独立宣言とはすなわち、「白人成人男性の支配宣言」であったのです。
あるいは、「先住民、黒人、女子どもに対する差別宣言」ということもできます。
「俺たち白人成人男性は創造主から権利を与えられた特別な存在なのだ」と宣言することで、先住民をどんどん虐殺し、追い払い、黒人奴隷もどんどん連れてきて、こき使い、女子どもは従属的な立場に置かれました。
もちろん独立宣言以前から先住民の虐殺は行われていましたが、独立宣言をしてからは、心おきなくというか、良心の呵責なしに虐殺ができるようになったわけです。
 
つまり人権思想とは、看板は「普遍的人権」をうたっていますが、中身はとんでもない差別思想なのです。
ほんとうは独立宣言の「すべての人間」とあるところに、「インディアン、黒人、女子どもを除く」と注釈があるとよかったのですが、わかりきったことはいちいち書きません。
 
この人権思想の看板と中身が違うという問題は、もちろん社会に大きな混乱をもたらしました。しかし、次第に中身を看板に近づけるという形で、女性に参政権が与えられ、黒人、先住民に公民権が与えられ、人権思想は内実を伴うものになってきたわけです。
人権思想がこのように欺瞞的なものであることは、すでにフェミニズムが告発していましたが、ほとんどの男性はそんなことは知りませんから、この欺瞞がまだ見抜けていない人も多いでしょう。
 
では、現在はどうでしょうか。もちろん黒人差別や性差別の問題はありますが、思想としては人権思想は内実を伴った完成されたものとなったでしょうか。
実はそうではありません。
まだ「子ども」が置き去りになったままです。子どもの人権は認められていません。
「子どもの権利条約」というのがあって、日本も批准していますが、これはまったく不十分なものです。
「子どもの権利」をいうなら、子どもにも選挙権がなければなりません。
日本では選挙権が20歳以上、被選挙権が衆議院で25歳以上、参議院で30歳以上などとなっていますが、こうした年齢制限はすべて撤廃しなければなりません。
こういうと、反対する人がいるでしょう。小さい子どもに選挙権があれば、親が自分の言う通りに投票させるので、親が2票、3票持つことになってしまうと。
確かにその可能性はありますが、だったら、知恵遅れの人や老人性認知症の人からも選挙権を奪わなければならない理屈です。
子どもにはまともな判断力がないので選挙権を与えるわけにいかないと主張する人もいるでしょうが、かつては同じ理由で黒人や女性に選挙権を与えるわけにいかないと主張する人がいました。
 
選挙権の年齢制限を撤廃し、子どもとおとなを同じ人間と見なすこと。これによって人権思想は完成されます。
現在、教育改革を論じるとき、論じるのはおとなばかりで、子どもが意見を言うことはできません。子どもを対象にした「学校に何を望むか」というアンケートすら行われません。おとな本位の教育改革が失敗の連続になるのは当然です。
 
子どもの人権を認めることで社会の混乱の多くは解決されるはずです。
また現在、人権思想に欺瞞的なものが感じられるとすれば、それは子どもの人権を認めていないからです。
 
 
「『子ども差別』の発見」というエントリーでは同じことを別の角度から書いています。
 

読売新聞が憲法改正についての世論調査(3~4日実施、面接方式)を行い、それによると、憲法を「改正する方がよい」と答えた人は43%で、「改正しない方がよい」39%をやや上回った、ということです。
 
といって、ここで改憲について論じるわけではありません。言葉づかいについてちょっと意見を言ってみます。
 
この手の世論調査でいつも思うのですが、「改正」という言葉を使って世論調査するのは問題があります。
昔、社会党、共産党、総評などは憲法九条に関して、「憲法改正反対」と主張していました。しかし、「改正」というのは正しく改めることですから、それに反対するのはへんだということで、「憲法改悪反対」と言うようになりました。確かに反対派からすれば「憲法改悪」というのが正しい言葉づかいでしょう(もしかして「改悪」という言葉はこのとき造語されたものかもしれません)
もちろん賛成派は「憲法改正」という言葉を使い続けています。
 
問題は中立であるべきマスコミです。マスコミが「憲法改悪」という言葉を使うのは明らかにへんでしょう。それは反対派の言葉づかいです。
ということで、マスコミは「憲法改正」という言葉を使い続けています。もともとそう言っていたわけですし、私たちの日常生活でも「改正」という言葉はよく使いますが、「改悪」なんていう言葉は使いません。
とくに読売新聞は憲法九条に限らず憲法改正に熱心ですから、「憲法改正」というのは当然でしょう。
ただ、世論調査で「憲法改正」という言葉を使うと、明らかに答えを誘導してしまうことになります。別の言葉にするべきです。
「改憲」という言葉を使えばいいという意見もあるでしょう。これなら「改正」「改悪」の中間のようです。
しかし、「改める」という言葉にも、よいほうに変えるという意味があります。「改憲」も完全に中立な言葉ではありません。
 
では、どうすればいいのでしょうか。
私にはいい答えがあります。なぜマスコミがこの言葉を使わないのか不思議でなりません。
それは、
「憲法変更」
という言葉です。
「変更」という言葉は、「予定変更」や「進路変更」のように、いい意味も悪い意味もない、中立の言葉です。
「あなたは憲法九条を変更することに賛成ですか・反対ですか」というアンケートなら完璧でしょう。
 
マスコミは憲法九条のように賛否が分かれる問題については、「憲法変更」という言葉を使うべきです。

呉智英さんのことはもうどうでもいいのですが、極論というのは思考のきっかけを与えてくれます。呉智英さんは極論を言うので、その点はありがたい存在です。
たとえば呉智英さんは、民主主義に否定的です。民主主義もイデオロギーだというわけです。確かにそうでしょう。しかし、「民主主義がだめなら、ほかにどんな政治体制がいいと思うんですか」と聞いてみたいですね。
呉智英さんのことですから、君子の政治とか、王道の政治とか言うのかもしれませんが、そんなものはどうやったら実現できるのでしょうか。だいたい誰が君子で、誰が小人かという判定基準もわかりません。プラトンの哲人政治というのも同じでしょう。
 
とはいえ、民主主義がイデオロギーだというのは私も同感です。多くの人は、民主主義は優れた体制なので、どの国も民主主義国になるべきだと考えているようですが、私はそうは思いません。民主主義国よりも独裁国のほうがうまくいって、国民も幸せであるということはいくらでもあるからです。
 
たとえば、日本は民主主義国ですが、一年ごとに首相が替わり、政治の停滞ははなはだしいものがあります。一方、お隣の中国は共産党独裁ながら、ちゃんと指導者を育てて、次につないでいっています。次期国家主席と目される習近平には、アメリカもしかるべき対応をしています。おそらく多くの中国人は、日本の政治よりも中国の政治のほうがよいと思っているに違いありません(官僚の腐敗や言論の自由の制限を差し引いてもです)
多くの日本人は「中国は民主化するべきだ」と考えています。それは中国のためを思ってではなく、中国の政治を日本並みに引きずりおろしたいためかもしれません。
 
中東では次々と独裁政権が倒れていますが、次に民主体制になったとして、それが前の独裁政権よりうまくいくとは限りません。
ですから、独裁政権でもある程度うまくいっていれば、わざわざ民主化する必要はないわけです。
 
 
とはいえ、これから世界はどんどん民主化が進んでいくでしょう。
それは民主制がよいからではなく、民主制は安定していて、独裁制は不安定だからです。
 
君子の政治や哲人政治はありえますが、長続きしません。君子や哲人も年を取れば衰えますし、2代目、3代目に継承されることはまずないでしょう。暴君による独裁制も、民衆の不満により不安定で、長続きしません。
日本の天皇家のように、神話の時代から継承された王権は昔はたくさんありましたが、これらは一度途絶えると復活することはないので、減少する一方です。
民主制は、一度途絶えてもいつでも復活できます。
民主制から独裁制に移行することもあります。たとえばヒットラーのドイツがそうですし、プーチン体制もそうかもしれません。しかし、これもやはり長続きはしません。結局、民主制へ戻ります。
 
結局、すべての政治体制は民主制へと流れていくのです。
これは民主制がよいということとは別です。自然法則のようなものです。
すぐれた政治体制、悪い政治体制、ユニークな政治体制は消滅していき、俗で、平均的な政治体制に収斂していく。これが歴史の必然です。マルクス主義の唯物史観は否定されても、歴史の必然は否定されません。
 
ちなみに、このエントリーのタイトル「民主主義は増大する」は熱力学の第二法則「エントロピーは増大する」をもじったものです。

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