村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年09月

呉智英さんの思想的探求が壁にぶつかり、失速してしまった理由は、呉智英さんが教育というものをうまくとらえられなかったことにあると思います。教育を正しくとらえないと人間も正しくとらえられませんし、学校制度がわからないと近代という時代もわかりません。
「健全なる精神」(双葉社)所収の「ゆとり教育はエリートの教育」にこんな文章があります。
 
教育に、ゆとりものびのびもありはしない。個性を伸ばすも創造力をつけるもへったくれもない。教育は、つめこみ以外の何ものでもない。型を押しつける以外に教育があろうはずがない。
詩人高村光太郎の父である彫刻家高村光雲の自伝『幕末維新懐古』(岩波文庫)によれば、その頃、江戸の庶民の子供は、12歳になればみな奉公に出た。手に職をつけるのである。むろん、体力のなさそうな子が大工の道を選ぶことはないし、内気で口下手な子が商家に奉公はしない。それでも、行く道の種類は限られている。のびのびも、自己実現も、カケラさえない。それで何の問題もないのである。光雲のような突出した才能も、そこから出現している。
 
これはあきれた文章です。なにがあきれたかというと、教育の話をしているのに奉公を持ち出しているからです。奉公とは言うまでもなく労働です。江戸の庶民の子供は、幕末ならほとんど寺子屋に行きました。武士の子なら藩校に行きます。教育の話をするなら、寺子屋や藩校を持ち出さなくてはなりません(12歳というのは今でいえば中学入学の年齢ですから、当然その前に寺子屋に行っているはずです)
呉智英さんはなぜこんなバカバカしい間違いをしたのでしょうか。無意識になにかから逃げているのでしょうか。
 
江戸時代の寺子屋は当然今の学校と大きく違います。
「寺子屋について」http://www.tanken.com/terakoya.html
というサイトからコピーします。
 
手本は師匠が自分で手書きして生徒に与えたから、職工の家の子供には「商売往来」ではなく「番匠往来」、百姓の子供には「百姓往来」を与えるのが普通で、まさに個人教育だったといえる。
 いわゆる山の手の武家が多い地域では、士風養成のため「千字文」「唐詩」を課すことが多く、日本橋や京橋といった下町では商家相手だから「八算(はっさん・29の割り算)」「見一(けんいち・割り算の概算)」「相場割」など牙籌(がちゅう・象牙のそろばん)のことを併せて教えた。

 これ以外には、男の希望者に「実語教(じつごきょう・道徳の教科書)」「童子教(どうじきょう・道徳の教科書)」「古状揃」「三字経」「四書五経」、ひいては「文選(もんぜん)」なども教えたが、後藤点・道春点(いずれも漢文の読解法)などに従ってただ素読するだけで、読解はいっさいしなかった。女子も同様で、「百人一首」「女今川(教訓書)」「女大学」
「女庭訓往来」などを課したが、やはり素読のみであった。
 結局のところ、寺子屋は実用本位の科目を優先的に教えるところなのであった。
 
つまり寺子屋では11人教科書が違い、さらに進み具合も違いますから、11人が別々のことをやっているのです。寺子屋を描いた絵を見ると、みんな好き勝手な姿勢をしていますし、2人で話をしたりもしています。
呉智英さんは、詰め込みや型を押しつけることが教育だと言いますが、それは近代の教育なのです。近代の学校では、みんな椅子に座り、前を向いて、体を動かすことも私語をすることも許されません。6歳の子どもにこれを強要するのは残酷であるだけでなく、発達上も問題があると思います。生理学者や発達ナントカ学の学者はちゃんと告発してほしいものです。
 
呉智英さんは封建主義者を名乗るなら、学校を寺子屋式にして、11人の個性に合った教育、のびのびとした教育をしようと主張するべきではないでしょうか。
 
ちなみに藩校は義務教育であり、武芸という軍事教練もあったので、近代学校にかなり近いものだったと言えます。
 
孔子は多くの弟子を育てましたから、教育者だったとも言えます。しかし、弟子はみな志願して弟子になった者です。ですから、教えるのは簡単だったでしょうし、やる気のない者がいれば破門すればよかったわけです。
しかし、近代学校ではやる気のない子どもにもむりやり教えなければなりません(義務教育はもちろん高校も似たようなものです)。孔子とは大違いで、先生はたいへんです。心の病で休職する先生が多いというのも当然です。
寺子屋式にすれば、先生も救われます。寺子屋はもちろん義務ではなく、行きたい子どもだけが行くのです。人間は生まれながらに好奇心も学習意欲もありますから、それで問題のあるはずがありません。
 
呉智英さんには「封建主義的教育論」の本を書いていただきたいと思います。
 
 
ところで、呉智英さんはパソコンもインターネットもやっていないということで(少なくとも数年前のエッセイではそうだった)、この文章も目にふれることがないかもしれませんが、私はもちろん呉智英さんに読まれてもいいつもりで書いています。
 

図書館でたまたま呉智英さんの「健全なる精神」(双葉社)を見つけたので、借りてきて読みました。呉智英さんの本を読むのは久しぶりです。
以前、私は呉智英さんを大いに尊敬していました。日本の思想家の中で、一時は最先端をいっていたと思います。封建主義の立場から近代主義的価値観を批判するやり方で、固定観念を大いに揺さぶられました。圧倒的に博識ですし、つねに常識にとらわれない発想のできる人です。「バカにつける薬」というベストセラーもありました。評論家の宮崎哲弥さんや「ニセ学生マニュアル」などの著書がある浅羽通明さんも呉智英さんを尊敬して私淑しています。
 
しかし、呉智英さんはどこかで壁にぶつかって、失速してしまいました。時期としては、「論語」を若い人に講義する私塾を始めたころではないかと思います。「論語」を講義するということは、自分は孔子を越えないというふうに自己規定したのでしょう。全面的に越えなくても、どこか一点でも突破してやろうという気構えがなければ、思想家としては終わりかもしれません。
 
呉智英さんはもともとサブカルチャー側に立っていた人ですが、文芸春秋や産経からお座敷がかかって、いつのまにかただの保守親父になってしまいました。
 
「健全なる精神」はおもしろく読んだのですが、呉智英さんはそこで人権主義者が差別を糾弾するのを批判しています(これは以前からです)。実際、人権主義者の多くは知的に怠慢で、人権屋とでも呼ぶべき人も多いでしょう。しかし、呉智英さんは人権屋を批判して、真の人権思想に目覚めよといっているわけではありません。人権思想そのものを否定しているのです。
これはある意味、呉智英さんの思想のラジカルなところですが、では、人権思想に代わるものはなにかというと、なにもないのです。
呉智英さんは「差別は正しい」と言い、「目指すべきは『差別もある明るい社会』である」と言っています。しかし、「差別もある明るい社会」なんてあるのでしょうか。ただの言葉の遊びとしか思えません。「明るいカースト制社会」とか「明るい奴隷制社会」とか、見てみたいものです。
いや、それどころか、呉智英さんは人権思想を否定しているのですから、現代に奴隷制復活を主張する人が現れたら、どのようにして反対するのでしょうか。経済合理性を挙げて反対することはできますが、思想的に反対できないのではないでしょうか。
 
とはいえ、呉智英さんに「差別は正しい」なんて言われると、うまく反論できない人が多いのではないかと思います。それは誰も差別主義というものを正しくとらえていないからです。
いや、私は別です。私はもしかして世界で1人かもしれませんが、差別を正しくとらえています。
私の考えでは、家庭や学校で「よい子」と「悪い子」を分け、「悪い子」を迫害することが差別の始まりです。「悪い子」を差別している限り、社会の差別をなくすこともできません(だから、へんてこな糾弾しかすることがなくなってしまうのでしょう)。
ですから、「差別もある明るい社会」を目指すのではなく、「差別も道徳もない明るい社会」を目指すべきなのです。
 
私の差別主義についての考え方は「これからの『差別』の話をしよう」というエントリーを参照してください。
 
 
「健全なる精神」には、暴力団のことも出てきます。20064月、山口組の歴代組長の法要が比叡山で行われ、新聞各紙は全部が非難めいた調子で報道したそうで、呉智英さんは山口組が法要をしてはなぜいけないのかと、その報道姿勢を批判しています。こういうところは呉智英さんもただの保守親父ではありません。
もっとも、呉智英さんが山口組の法要を擁護するのは、宗教上死者の霊は同価値だという理屈からです。これは無宗教の人には通用しない理屈です。
私なら、山口組だって人間だから、普通の人間と同じように法要していいはずだと主張します。つまり人権思想です。これは誰も否定できないはずです。

鉢呂経産相が失言で辞任しました。組閣のたびにこうしたことが起こるのはなんとかならないものでしょうか。
私は旧態依然の自民党に政権を戻すべきでないという考えから民主党政権支持なので、ちょっと鉢呂さんのことも弁護してみます。
 
「死の町」発言ですが、記者会見の様子を見ると、鉢呂さんは一瞬間を置いて、言葉を選んでから発言しています。人っ子ひとりいない避難地域に入り、きびしい現実を目の当たりにした鉢呂さんは、そのありさまを国民に伝える言葉を探したのでしょう。「ゴーストタウン」という言葉も浮かんだかもしれません。しかし、「死の町」のほうがきびしい現実によりふさわしいと思ったのでしょう。これは、国民に伝える言葉としてはよくても、そこに帰りたいと思っている人にはショックです。だから、批判されたのは当然ですが、一方で国民には現実をよく伝えているので、差し引きすれば帳消しになってもいいはずです。
 
記者に対して「放射能をつけちゃうぞ」と言って、防災服をすりつけるようなしぐさをしたという問題もあります。このときの言葉は報道によって違い、「放射能をつけたぞ」とか「放射能を分けてやる」とか「ほら、放射能」と言ったというのもあります。
いずれにしても放射能で冗談を言うというのは国民感情とかけ離れています。そういう意味で、ほとんどの人が批判したのは当然です(オフレコ発言云々という問題はここではふれません)。
私は、もしかして自分が中学生ならこんなことを言うかもしれないなと思いました。まさにそういうレベルの発言です。新聞が「緊張感が足りない」「もっと気を引き締めよ」と書くのも当然です。
 
しかし、私はそこで考えました。どうして立派な大人が中学生か小学生レベルの発言をするのだろうと。
 
閣僚が就任した早々に失言で辞任するのは自民党政権時代にもよくありました。そのころは「あの戦争は侵略戦争ではなかった」とか「植民地支配ではなかった」とかの発言が多く、それはその人のかねてからの持論だったのでしょう。しかし、自分の大臣としての職務に関係のないことを、就任直後の注目されているときになぜ言うのでしょう。持論であっても、大臣になったのだから封印しておけばいいのです。
私は気づきました。就任直後の大臣というのは異常な心理状態にあるのだと。
 
“大臣病”という言葉があります。当選を重ねた国会議員がかかる病です。鉢呂さんは当選7回で、民主党の副代表や国対委員長もやりましたが、大臣は初めてです。大臣就任直後は、やっとゴールインして表彰台に立ったマラソンランナーのような心境でしょう。そんな人に「緊張感が足りない」とか「もっと気を引き締めよ」と言ってもむだです。
私の記憶ですが、自民党政権で失言で辞職した大臣も、何度も大臣を経験した人ではなく、待ちかねてやっと大臣になれたような人がほとんどだった気がします。
鉢呂さんも頭の中は1人お祭り状態だったのでしょう。視察から議員宿舎に帰ってきたら、何人もの記者が話を聞くために集まってきた。一国会議員であったときにはありえないことです。得意の絶頂だから、「放射能をつけちゃうぞ」という発言も出たのです。
 
ほんどの国会議員は大臣になることを大きな目標にしています。目標を達成したとき、有頂天になるのは当然です。
そこで、私は提案するのですが、大臣就任1週間か2週間はモラトリアム期間として、多少の失言はとがめないことにしてはどうでしょうか。
有頂天になった大臣も1週間か2週間もすれば、気持ちも平静に戻り、まともに職務に取り組むことができるはずです。
こうすれば、就任直後の大臣が辞任して混乱するということもなくなります。
 
それにしても、マスコミや有識者は被災者の気持ちを引き合いに出して鉢呂さんを批判しますが、そういう自分は一度として鉢呂さんの気持ちになって考えたことがないのではないでしょうか。
自己中心の発想から抜けられないマスコミや有識者のほうにより大きな問題があると思います。

9月11日、ニューヨークでオバマ大統領とブッシュ前大統領が出席して9.11テロ犠牲者の追悼式が行われ、犠牲者2977人全員の名前が遺族らによって読み上げられました。9.11テロの犠牲者はあつく追悼されます。一方、イラクやアフガンでの犠牲者はどうでしょうか。
アメリカ軍はしばしば誤爆して、民間人を殺傷しています。最近は、誤爆と認めたときは謝罪や補償をしているようですが、誤爆をなくそうという気はなさそうです。「誤爆は戦争につきもの」ぐらいに思っているのでしょう。
しかし、たとえばアメリカのどこかの田舎町に凶悪なテロリストが潜伏しているという情報があり、ピンポイントの爆撃をしたものの、情報が間違いで、普通の市民が多数犠牲になったとしたらどうでしょう。アメリカ国民は対テロ戦争だからしかたがないと思うでしょうか。
たぶんそうは思わないと思います。犠牲者を悼むとともに、誤爆を非難する声が巻き起こるのではないでしょうか。
現在、アフガンで誤爆が繰り返されるのは、アメリカ人がアフガン人の命を軽視しているからです。アメリカ国内で同じことはできないはずです。
 
アメリカ人は「敵の命」をきわめて軽視し、一方「アメリカ人の命」を極端に重視する傾向があるのではないかと私は思っています。
たとえば、アメリカは無人機を使っての攻撃をさかんに行っていますし、また、多様なロボット兵器も開発しています。これらはコストはかかりますが、アメリカ人の犠牲を少なくできるなら当然の出費と考えられているのでしょう。
ちなみに、ガダルカナルの戦いのときから、アメリカはジャングルに多数のマイクロフォンを仕掛け、日本兵の声が聞こえたらそこを砲爆撃するというシステムを用いていました。これも自軍の損害を極力へらしたいという発想でしょう(日本軍は自軍の命を極端に軽視するという点で対照的です)
 
日本の時代劇には「飛び道具とは卑怯なり」という言葉が出てきますが、「無人機攻撃とは卑怯なり」といいたいところです。
日本やヨーロッパでは長い戦争の歴史があり、そこから武士道や騎士道などの戦争倫理が形成されたので、無人機攻撃という発想はなかなか生まれないのではないかと思います。
しかし、アメリカは先住民との一方的な戦争によって形成された国で、当時、先住民は人間と見なされていなかったので、そのときの戦争観が今も続いているのではないかと思われます。少なくとも、アメリカもドイツと戦ったときはそれなりの戦争倫理に従いましたが、日本やイスラム国を相手にしたときは、どこか人間でないと思って戦っているのではないでしょうか。
 
アメリカ人はテロと戦うばかりでなく、人間の命に軽重はないのだということに気づかなければなりません。
 
それにしても、国連のどこかの部会で、無人機攻撃は卑怯か否かということを取り上げてもいいのではないでしょうか。

9.11テロから10年たちましたが、いまだ「テロとの戦争」に勝利の展望はありません。これは当然、戦略が間違っているからです。
テロというのは、正面から戦っても勝てない者が取る手段のひとつです。それを正面からの戦い、つまり正規軍の力で制圧しようというのは根本的に間違っています。
 
9.11テロにあったとき、ブッシュ大統領の脳裏に浮かんだのは、多くのアメリカ国民と同様に、日本軍による真珠湾攻撃だったでしょう。このときは正規軍による攻撃でしたから、アメリカも正規軍で応戦し、ミズーリ艦上の降伏調印式によって戦争は終結し、今にいたるも日本はアメリカに従属する国になっています。ブッシュ大統領は、この成功体験に引きずられ、アフガン戦争、イラク戦争へと突き進みました。このころ、ブッシュ大統領は演説で再三、日本を引き合いに出し、日本は今は価値観を共有する国になっていると述べ、アフガン戦争、イラク戦争の正当化をはかりました。
小泉首相は、ブッシュ大統領が演説で日本を引き合いに出すことを容認しました。もしこのとき小泉首相が、真珠湾攻撃と9.11テロは根本的に違うと主張していたら、ブッシュ大統領も考えを変え、世界の歴史も変わっていたかもしれません(小泉首相にできるはずないですけど)
 
ブッシュ大統領は、テロ対策をイギリスに学ぶべきでした。当時、イギリスはテロ対策を成功させつつあったからです。
 
イギリスは長年、北アイルランド紛争をかかえ、IRA(アイルランド共和国軍)のテロに苦しんでいました(北アイルランド紛争は要約して紹介することもむずかしいほど複雑なので、知りたい人は自分で調べてください)1972年、平和的な公民権運動のデモに英国軍が発砲して14人が死亡する「血の日曜日事件」が起こり、ここからテロが激化。サッチャー首相はそれに対し、IRA撲滅を宣言して強硬策を取りましたが、毎年100人から200人が死亡する事態になりました。しかし、次のメージャー首相は融和政策を取り、ブレア首相はさらにそれを推し進め、「血の日曜日事件」の再調査を約束して話し合いをし、1998年にベルファスト合意にこぎつけます。そのあともいろいろあるのですが、現在は北アイルランド政府と議会ができ、テロはほぼ鎮静化しています。
 
ここで、ブレア首相の態度が問題になります。
ブレア首相はブッシュ大統領の対テロ戦争を支持し、イラク戦争も支持しました(ドイツとフランスは反対)。もしブレア首相がイラク戦争に反対していたら、ブッシュ大統領もイラク戦争に踏み切れなかったかもしれず、世界の歴史は変わっていたでしょう。
いや、その前に、ブレア首相が対テロ戦争を支持したことが不思議です。みずからはテロ組織であるIRAを含めた勢力と話し合い、ほぼテロを収束させることに成功していたのですから、なぜそのやり方をプッシュ大統領に勧めなかったのでしょう。
ブレア首相はきわめて優秀な政治家でしたから、このときの態度について多くの人が疑問をいだいています。やはりイスラムに対する差別意識があったのか、イスラエル建国にかかわるイギリスの二枚舌、三枚舌外交を糊塗したかったのか、想像するしかありませんが。
 
ともかく、テロを終わらせるか否かはアメリカの政策次第です。
 
ところで、世の中にはテロ対策の専門家と称する人がたくさんいますが、こういう人が正しいテロ対策を打ち出すことは決してありません。正しいテロ対策でテロがなくなってしまえば、自分が失業してしまうからです。

法務大臣が変わったことがきっかけに、死刑制度についての議論が起きていますが、私は死刑制度については人とはかなり違う考え方をしています。どう違うか説明してみましょう。
私は死刑制度について意見を求められたとすると、こんなふうに答えます。
「死刑制度? それよりも、あなたは動物裁判をご存じですか。中世では人を殺したり傷つけたりした動物を裁判にかけていたことがあったのですよ。動物裁判はやめたのに、なぜ人間裁判はやめないのですか」(動物裁判についてはたとえば講談社現代新書「動物裁判」池上俊一著に詳しい)
なにバカなことをいってるんだ、裁判をやめられるわけがないじゃないか、という反応が返ってくるでしょう。そうすると、私はさらにこんなふうに言います。
「バスティーユ監獄が襲撃され、政治犯が解放されたことから近代という新しい時代が始まったのですよ。近代の次の時代は、ニューヨーク州立刑務所が襲撃され、凶悪犯が解放されたときから始まると考えられませんか」
これが私の基本的な考えです。表現はちょっと挑発的ですが。
 
死刑制度から話がずれてきてるじゃないかと文句をいわれるかもしれませんが、死刑というのは刑罰の一種にすぎず、それだけ取り上げて是非を論じても答えは出ません。人を罰するとはどういうことか、人を裁くとはどういうことかから論じなければならないのは当然のことです。
私は人が人を裁くのは間違っているという考えです。
 
もっとも、私は人間裁判のすべてをやめろと主張しているのではありません。民事裁判はもちろんのこと、刑事裁判でもインサイダー取引や贈収賄などを罰する裁判は、社会システムをうまく機能させるために必要なものです。しかし、現実に行われている刑事裁判の多くは、犯罪の原因をもっぱら犯罪者の心に求め、犯罪者の罪を問うことを主眼とするもので、これはバカバカしいと主張しているわけです。
犯罪の原因をもっぱら犯罪者の心に求めるというのは、人間を自由意志を持つ特別な存在と見なし、犯意や殺意や悪意や自己中心的な欲望などは外部と無関係に人の心の中にわいてくるものだという考え方に基づいています。
中世の人は、ウジ虫やボウフラは文字通り“わく”ものだと考えていましたが、それと同じようなものです。
人間に自由意志があるという考え方は、今どき文系の学者でもおおっぴらにいうのははばかれるような恥ずかしいものですが、刑事司法の世界はそんな恥ずかしい考え方の上に成立しているのです。
 
死刑制度は、人が人を裁くことの矛盾を目に見える形で示してくれます。
死刑制度について考えると、人が人を裁くことのおかしさが見えてきます。
 

平岡秀夫法務大臣は就任会見で、死刑の執行について「ヨーロッパ諸国などの廃止の流れや国民感情を検討して考える」と述べた上で、当面は執行しないとの考えを示しました。これに対しては当然反論が寄せられています。法務大臣が変わるたびに同じようなことが繰り返されます。なんとかならないのでしょうか。
 
先進国で死刑制度があるのは日本とアメリカぐらいで、とくに日本では死刑賛成派が圧倒的です。これは世界的にはかなり奇妙な光景です。
死刑賛成派が論拠とするのは、もっぱら「国民感情」と「被害者感情」です。
「死刑制度がないと凶悪犯罪がふえる」という主張もありますが、根拠となるデータがありません。「人の命を奪った者は自分の命で償うべきだ」という主張もありますが、これはつまるところ「正義」の主張です。しかし、正義というのは説明不能の概念なので、説得力がありません。そのため、もっぱら「国民感情」と「被害者感情」が持ち出されることになります。
 
「被害者感情」についてはいずれ取り上げるとして、今回は「国民感情」について書いてみます。
 
日本国民は圧倒的に死刑制度に賛成だというのがつまり「国民感情」ですが、その根拠は内閣府の死刑制度に関する世論調査の結果です。最新の調査は2009年に行われ、結果は次のようになりました。
 
「死刑廃止に賛成」5.7%
「死刑廃止に反対」85.6%
「わからない」8.6%
 
これを見ると圧倒的に死刑賛成派が多いことになります。賛成派の数は過去最高となりました。
しかし、このアンケート調査がくせ者なのです。
新聞報道でも「死刑廃止に賛成」「死刑廃止に反対」といった書き方がされているので、実際のアンケートもその表現で行われたと思う人がほとんどでしょうが、実際のアンケートの項目は違います。
実際はこのような表現になっています(1994年から4回連続で同じ表現)
 
死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。
「場合によっては死刑もやむを得ない」
「どんな場合も死刑は廃止すべきである」
「わからない・一概に言えない」
 
これはどう考えてもインチキのアンケート調査でしょう。「場合によっては」と「どんな場合も」と並べれば、どうしても多くの人は「場合によっては」のほうを選択します。「どんな場合も」を選択するには、瞬時に頭の中であらゆる場合をサーチしなければならないからです。
また、「やむを得ない」と「すべきである」を並べるのもどうかしています。こんなアンケートがあっていいのでしょうか。
また、この書き方では、「死刑制度」についての調査ではなくて、「死刑制度に関する意見」についての調査になってしまいます。調査の目的が変わってしまっています。
 
正しい調査は当然次のようなものでしょう。
 
あなたは死刑制度についてどう思いますか。
「賛成」
「反対」
「わからない・一概に言えない」
 
あるいは、「存続させたほうがよい」「廃止したほうがよい」のほうが意味が明快かもしれません。
次からはまともなアンケートをやってほしいものです。
 
 
では、なぜこうしたインチキのアンケート調査が行われてきたかというと、当然「国民は死刑制度に賛成だ」という結果を導きたかったからでしょう。
アンケートは内閣府が行っていますが、死刑制度は法務省の管轄です。法務官僚はなぜ死刑制度を存続させたいのでしょうか。
ひとつは、アメリカが死刑大国なので、アメリカへの追随ということがあるかもしれません。アメリカ追随は日本の官僚の習性みたいなものです。
なにか利権がからんでいるというのも官僚の習性から考えられますが、死刑制度の利権といってもたいしたものはなさそうです。もともと法務省は利権の少ない役所です。
 
私の考えでは、法務官僚は死刑制度があったほうが自分たちの権威が高まると思っていて、それで死刑制度を廃止したくないのです。
007シリーズのジェームズ・ボンドは「殺しのライセンス」を持っています。これを持っているのといないのとでは、ボンドの格好よさがぜんぜん違います。
法務官僚も死刑制度という「殺しのライセンス」を持って格好よくいたいのです。
 
マスコミにおいては、凶悪犯罪の報道は優良コンテンツです。死刑制度のあったほうが犯罪報道は白熱します。その点で法務官僚とマスコミは利益共同体です。
そうでなくても、マスコミは正義の判断は検察に完全に依存しています。
 
「殺しのライセンス」を持っていたい法務官僚と、それと一体化したマスコミによって日本はへんな国になってしまいました。
大震災により困難の中で助け合う日本人のすばらしさが世界に知れ渡りましたが、その同じ日本人が死刑制度を圧倒的に支持しているというのは異様な姿です。
 
今後、内閣府のアンケートをもとに「国民の多数は死刑を支持している」と主張する人がいたら、「あなたはアンケートの文面を読んだことがありますか」と質問してみましょう。そして、「あれは死刑制度についてのアンケートではなくて、死刑制度に関する意見についてのアンケートですよ」と言ってやりましょう。
これから日本人はだんだんと“死刑離れ”していかなければなりません。

遅まきながら宮崎吾朗監督の「コクリコ坂」を観ました。予想通りというか、予想の範囲内のおもしろさでした。
ジブリ作品は絵の水準が高いので、安心して観られます。映画の「クレヨンしんちゃん」がおもしろいという評判を聞いて、観ようとしても、絵が雑なのでとても観る気になりません。
ただ、この作品は、絵のすばらしさはイマイチな気がしました。それは駿監督でなくて吾朗監督のゆえなのか、あるいはファンタジーでなくて現実を背景にした物語のせいなのかよくわかりませんが。
 
主人公は私より少し上の世代です。東京オリンピックの前年という時代背景はよく描かれています(ただ、ガスコンロにお釜を乗せてご飯を炊いていましたが、このころは電気炊飯器がかなり普及しています)
当時新橋にあった徳間書店の入口と受付が出てきます。これが私の知る本物とまったく同じで、個人的にはとても懐かしかった。駆け出しのSF作家は徳間書店と早川書房には何度も足を運んだものです。
考えてみれば、ジブリは長く徳間書店傘下でしたから、このへんの描写に手抜かりのあるはずがありません。
 
物語は、高校の由緒ある建物の取り壊し反対運動を軸に、高校生同士の恋がからんでくるというもの。
この由緒ある建物は、文化部の部室になっていて、それが生徒の管理に任されています。というと、どんなことになるか想像できるでしょう。想像通りのことになっています。
この建物における生徒の描き方が、もしかして若い世代の反発を買うかもしれません。これは明らかに旧制高校の文化で、その背後にはエリート意識があります。脚本を書いた駿さんは、そのへんは無条件に礼賛しているようです。
 
これは学園ものですが、教師は実質的に出てきません(姿としては出てきますが)。熱血教師の活躍する学園ものとは根本的に違います。
この映画をひと言で表現すれば、“生徒自治”の映画です。生徒が反対運動をし、学園内の世論を変え、最後は理事長に直訴して解決します。すべて生徒がやって、手助けする教師はいません。
私がこの映画にしみじみと感動したのはそこにあると思います。生徒たちが自分で考え、自分で行動している姿に感動したのです。
「戦後民主主義」という言葉は否定的に使われることが多いのですが、これはまさに戦後民主主義が生きていた時代の映画です(戦前であれ戦後であれ民主主義という言葉を否定的に使うのはどうかしています)
いや、現実にはほとんどの高校が教師によって支配され、生徒会の活動も表面的なものだったかもしれません。しかし、そうした中でも生徒が教師に反抗的であるのは当たり前のことでした。そうした反抗的な若者が全共闘運動の高揚もつくりだしたのです。
 
現在、教師に反抗する生徒がいれば、生徒のほうが否定されてしまう風潮があります。これには高校入試に内申書が重視されることになり、大学入試も推薦枠が拡大したことが大きいのではないかと私は考えています。「内申書に書くぞ」という教師の無言の脅しの前に生徒が屈しているのです。
そうして教師に屈した生徒は、なかなか自分が自分の人生の主人公であるという感覚を取り戻すことができません。最近の若者に元気がないのは、少子化のせいばかりではないと思います。
 
そうしたことを考えさせられた点でも、なかなかいい映画だったと思います。

野田首相の後見人は細川護煕元首相だといわれます。細川元首相は4日のテレビ朝日の番組で、みずからの立ち会いのもとで小沢一郎氏と野田氏の極秘会談を実現させたことを明かしました。細川元首相は日本新党時代から野田氏を秘蔵っ子としてかわいがっていたそうです。
政局のど真ん中に細川元首相の名前が出てきたことも意外でしたが、野田首相が日本新党で初当選したということにも改めて気づきました。考えてみれば日本新党が出現したことで自民党の長期政権を一度は崩したわけで、細川元首相と日本新党の存在はあなどれません。
そう思って、日本新党が1993年、初めての衆院選で当選させた35人の名前を見てみると、多士済々です。主な人の名前を列記してみます(ウィキペディア「日本新党」の項目より)
 
細川護煕
野田佳彦
前原誠司
海江田万里
枝野幸男
樽床伸二
小沢鋭仁
藤村修
小池百合子
石井紘基
河村たかし
中田宏
 
今回の民主党代表選のキーマンが何人もいます。今の政局の中心にいるのは日本新党初当選組といっても過言ではなさそうです。とすると、細川元首相が出てきてもなんの不思議もありません。
 
日本新党がこれほど人材を輩出したということは、逆にいえばほかの政党はろくな人材を出していないということです。今の自民党、民主党の立てる候補者は、議員の二世、三世、官僚出身、労組出身、タレントがほとんどです。これでは秋元康氏の口ぐせである「予定調和」の世界にしかなりません。
 
経済の世界が進歩するにはベンチャー企業が輩出しなければならないように、政治の世界が進歩するにはベンチャー政党が輩出しなければなりません。
「政界再編」という言葉がよく使われますが、これは同じ人間の組み合わせを変えるだけですから、たいした意味はありません。やはり新しい発想を持った有能な人間がどんどん政治の世界に入ってこないと、政治の世界はよくなりません。
 
ベンチャー政党が出るには、今の小選挙区制ではむりです。昔のような中選挙区制に戻したほうがいいでしょう。私は中選挙区制は日本的ないい制度だと思っています。
また、公職選挙法を改正して、選挙運動を大幅に自由化する必要があります。今は選挙活動が極端に制限されていて、そのため現職が有利になって新人が出にくくなっています。
このようにすると、小党分立になって政権が不安定化するという定説がありました。しかし、二大政党制で政権交代が起こると、経験のない者ばかりで政権を担うという大きなマイナスのあることがわかったと思います。多党制で連立の組み替えをすることで少しずつ進歩していくほうがいいでしょう。
 
とりあえず今、日本新党初当選組に期待したいと思います。

安藤隆春警察庁長官は9月1日、記者会見で島田紳助さんの問題に関連して、「社会全体が一体となり暴力団排除への取り組みを推進している中、テレビなどを通じて社会的に影響力の大きい芸能人が暴力団と交際していたことは大変残念だ」「芸能界においても暴力団排除に向けて本格的な取り組みがなされることを期待したい」と述べました。
この人はどういう神経をしてこんなことを言うのでしょう。芸能界が暴力団排除に本格的に取り組んだところで、暴力団が打撃を受けるということはありません。ちょっとしたいやがらせになる程度です。
安藤長官は年頭記者会見で「今年は暴力団対策が最重要課題だ」と述べています。で、なにをやっているかというと、山口組幹部の逮捕に力を入れ、一方で都道府県での暴力団排除条例の制定を進めるという作戦のようですが、これは今までやってきたことと基本的に同じで、そんなことでうまくいくわけがありません。
で、うまくいかなかったからといって、安藤長官はこれまでの歴代長官と同じく、責任をとるわけでもなく、謝罪するわけでもないでしょう。失敗してもなんのおとがめもないとは、なんとも気楽な商売です。
いや、もしかして責任を追及されるかもしれません。そうした場合、芸能界が暴力団排除に熱心でなかったからなどと言い訳する用意を今からしているのでは……というのはさすがにうがちすぎですね。要はなにも考えていないのでしょう。
 
「一般市民は善人、暴力団は悪人、警察は正義」というのが警察の基本認識でしょう。「善、悪、正義」というのは道徳の鉄のトライアングルというべきもので、ここにはまり込んだらなかなか抜けられません。
 
というわけで、今日も「暴力団イコール悪」という固定観念をゆさぶることにしましょう。
 
「暴力団は最高の倫理団体だ」というと暴論に聞こえるでしょうか。しかし、暴力団つまりヤクザは、「任侠」や「仁義」をうたっています。「仁」というのは儒教で「仁、義、礼、智、信」とある倫理段階の中で最高のものです。さらに彼らは、親分の命令は絶対で、親分にあいつを殺せと言われたら、10年以上の刑期も覚悟して命令に従う者もいます。つまり「忠」と「孝」という倫理もあるのです。警察も軍隊並みに上下関係のきびしい組織ですが、ここまで上司に忠誠を尽くす部下はいません。
 
一般市民には「仁」という最高段階の倫理など想像もつきません。理解できるのはせいぜい「礼」までです。学校でも家庭でも、道徳教育といえば「礼」を教えることです。
では、「礼」については一般市民のほうが暴力団より上かといったら、そんなことはありません。暴力団ほど「礼」にきびしい組織はありません。
股旅ものの映画でよくあるように、渡世人は旅先でヤクザ一家に世話になるとき、「お控えなすって」から「手前生国と発しますは」で始まる長いあいさつを滔々と述べなければなりません。このあいさつができなければ一人前とは認められないのです。そして、世話になれば一宿一飯の「恩」が生じるので、場合によっては出入りの助っ人もしなければなりません。
現在の暴力団でも、親分や兄貴分へ「礼」を欠くことは許されません。これは一般社会の比ではないでしょう。また、冠婚葬祭は盛大に行われ、このときは暴力団同士も互いに「礼」を尽くします。おそらく今の日本でいちばん冠婚葬祭に力を入れているのは暴力団ではないでしょうか。
 
このように暴力団とはきわめて倫理的な集団なのです。
 
それに比べて、一般市民のあり方はひどいものです。
そもそも暴力団員は一般市民から排除されたり差別されたりした者なのです。
自分たちが排除したり差別したりしたためにやむをえず暴力団になった者を、今また警察と一体となって抹殺しようとしている。これが一般市民の姿です。これほど邪悪な人間がいるでしょうか。
 
いや、これは誇張した表現ですが、こういう考え方もできるということです。
実際のところ、暴力団員は一般市民よりも悪い人間でしょう。しかし、親鸞は「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」と言っています。暴力団員のほうが一般市民よりも往生するに違いありません。

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