村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年10月

大王製紙の前会長が総額106億円を連結子会社から借入れ、カジノのギャンプルに使っていたということが話題になっています。ギャンブルの魔力とは恐ろしいものです。
常識的には、カジノというのは遊ぶところで、勝ち続けることはできないと思うのですが、中にはカジノの稼ぎで生活するプロのギャンブラーもいます。たとえば作家の森巣博さんがそうです。
森巣さんは最近こそ作家業で稼いでいるかもしれませんが、ずっとプロのギャンブラーとして生活してきた人です。麻雀やポーカーのように技術的要素の強いゲームなら、その稼ぎで生活することが可能なことはわかりますが、森巣さんが主にやるのはバカラやパイガオといわれるもので、運の要素の強いもののようです。どうしてそれで生活することができるのでしょうか。
もっとも、森巣さんにいわせると、プロのギャンブラーというのは一時は羽振りがよくても、最終的には負けて、死屍累々だということですが。
 
100%運で決まるゲームなら、カジノにテラ銭を取られるので、長くやればやるほど負けていく理屈です。
しかし、必ずしもそうはならないと思います。というのは、「いつゲームをやめるか」というファクターがあるからです。
 
100%運で決まるゲームでも、続けて勝ったり、続けて負けたりということがあり、波があります。さらに、人間の心理として、続けて勝って調子に乗ると賭け金を多くし、続けて負けると一発逆転をねらって賭け金を多くする傾向があるので、その波はさらに大きくなります。
で、普通の人は、勝っている間は気分がいいし、もっと勝ちたいので、ゲームを続けます。そして、負けると元手がなくなってやめざるをえなくなるか、元手があっても心理的に痛手をこうむってやめます。
つまり普通の人は、勝っているときにやめることは少なく、負けているときにやめることが多いので、必然的に負けが多くなるのです。
では、その負け分はどこに行くのかというと、普通でない人のところに行きます。
普通でない人というのは、ギャンブラー体質の人です。
ギャンブラー体質の人は、負けてもやめません。勝つまでやるのです。ですから、必然的に勝ちが多くなります。
 
私がこんなことを考えるようになったのは、昔の友人A君がいたからです。
A君とはよく麻雀をしましたが、とにかくギャンブルが好きな人で、麻雀のメンバーが崩れたあとも、私にチンチロリンを挑んできました。
チンチロリンというのは、阿佐田哲也さんの小説「麻雀放浪記」にも出てくるのですが、サイコロ3個を丼に放り込んでする単純なギャンプルです。サイコロの目で勝負が決まるので、100%運で決まるゲームだといえます(もっとも、「流れ」を読んで賭け金を増減させるところに“腕”があるとされるのですが)。
A君が勝つまでやる人でした。負けが込んでくるとますます熱くなります。私はもともとそれほど乗り気ではなく、早くやめたいと思うのですが、いつまでもやめさせてくれません。そうして適当な気分でやっていると、そのうちA君に流れがきて、A君が勝ってきます。そこでようやくやめることになります。
一方、私は負けた状態が続くと、嫌気が差して、自分からやめたりします。
というわけで、たいていA君が勝った状態で終わるのです。
 
作家の畑正憲さんは麻雀が強いので有名です。もちろん腕もあるのですが、ものすごい体力があって何日でも徹夜できるそうです。畑さんも勝つまでやるタイプの人です。
 
森巣さんも実に精神的にタフな人であることは、森巣さんの小説やエッセイを読むとよくわかります。森巣さんは今どき珍しい左翼的な人で、右派や保守派に対して挑発的な文章をよく書いていますが、おそらく反論されることはあまりないのではないでしょうか。誰もがこの人とは論争したくないと思うタイプです。ギャンブルの卓でも相手は逃げ腰になってしまうのではないでしょうか。
 
おそらく森巣さんもギャンプル体質で、自分が勝ったときはスパッとやめ、負けたときはとことんねばるのでしょう。
もっとも、このやり方だと、とことん負けて死屍累々の1人になってしまう場合もあります。森巣さんはその前にやめる判断力もあるのでしょう。それによって長くプロのギャンブラーを続けてこられたのではないかと思います。
 
もっとも、「いつゲームをやめるか」というファクターで勝ち組と負け組が分かれるという私の説が論理的、数学的に成り立つかどうかについては、あまり自信がありません。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は、母親の浮気を知ってしまった女子高生の悩みですが、これは家族関係の悩みでもあります。家族関係の悩みは、いつもながら把握しにくいものです。
 
「母の浮気を知ってしまいました」相談者 高校3年生女子
   高校3年生の女子です。中学生の頃から悩んでいることがあります。母親の浮気です。

 私の家は真面目な父、弟、私、そしてパートの母の4人家族です。母は以前から年齢よりも若い服や靴を好み、美容などにも関心を持っていました。私も抵抗はなく、むしろ良いことではないかと思っていました。

 しかし、数年前に、絶対に父ではない男の人との、明らかに浮気とわかるような親密なメールを見てしまいました。とてもショックで裏切られたような気持ちでしたが、誰にも言えず、ずっと黙っていました。つい最近再び、しかも嫌悪を抱くほどもっとエスカレートしたメールを見ました。それから、私は母が信じられなくなりました。

 受験を控え、ちょっとしたことで母と口げんかをしても、「お母さん、浮気してるでしょ。私、知ってるんだからね」と、言い返しそうになります。多分、母は気付かれていないと思っているのでしょう。父と弟も知りません。

 浮気は良くないと思うので、母には男の人と別れて欲しいです。もし私が口にしたら家族は壊れてしまいます。それは嫌ですが、今後、悶々(もんもん)と「母の浮気」という暗い事実を抱えて生きていく自信もなく、いつかは爆発してしまいそうです。私は、寛容さが足りない駄目な子供なのでしょうか。どうすればいいのか教えてください。(朝日新聞「悩みのるつぼ」20111029日)
 
この相談の回答者は評論家の岡田斗司夫さんです。
岡田さんはいきなり「「まず、母の携帯電話をどこかに隠しましょう」と言います。さらに、
『他の悪い癖との比較で考えましょう。もし父がパチンコ浸りで借金まみれになったら? 「父が悪いんじゃない。パチンコが悪い」と考えますよね。もし父が酒浸りだったら? 「お酒が憎い」ですよね。父や母を憎んでもしかたない。彼らは「弱い」だけであり、誘惑する「手段」こそ、あなたの「敵」です。
 悪いのは、母に安易に浮気させ、それを3年間もこっそり続けさせた携帯電話です』
 
つまり悪いのは母の携帯電話だから、「母の携帯をへし折って、3年間の悩みを終わらせてください」というのが結論です。
 
文筆業者というのは、わかりやすく、インパクトのあることを書かないといけないので、「今回は携帯電話を悪者にして一丁書いてやろう」ということだったのでしょうか。あまり追及しないことにしますが、この回答に納得のいく人はまずいないでしょう。
ということで、私なりの回答を書いてみます。
 
 
母が浮気をしていた。それのなにが問題かといえば、まず第一に、父への裏切りであることです。ですから、この女子高生の娘としての普通の反応は、このことがわかればお父さんはどう思うだろう、あるいは母を信じているお父さんがかわいそうだ、といったことになるはずです。
ところが、この女子高生は父親のことをほとんど考えていません。「父と弟も知りません」と書いているだけです。また、父親はどういう人間かということについても、「真面目な父」という表現があるだけです。父と母の関係も書いてありませんし、女子高生と父親の関係も書いてありません。
ということは、この女子高生はなにを悩んでいるのでしょう。
それは母親との関係ではないかと思われます。
 
「もし私が口にしたら家族は壊れてしまいます」と書いています。だったら口にしなければいいのです。しかし、「いつかは爆発してしまいそうです」というのです。どういうことでしょうか。
それを読み解くヒントは、「受験を控え、ちょっとしたことで母と口げんかをしても」と書いてあることです。どうやらちょっとしたことでしょっちゅう口げんかしているようです。「もっとエスカレートしたメールを見ました。それから、私は母が信じられなくなりました」と書いてありますが、おそらくメールを見る前から母を信じていなかったのではないでしょうか。
ですから、母への怒りや憎しみが高まると、家族を壊す「浮気暴露」という最終兵器のスイッチを押したくなるのです。そして、実際に押してしまうのではないかと恐れているのです。これが女子高生の悩みの正体です。
 
もしこれが普通の家庭なら、この女子高生は、浮気が父親に発覚するといけないので、その前に浮気をやめさせようと母親を説得するでしょう。あるいは、自分さえ黙っていればいいのだと思い、なにもしないかもしれません。いずれにせよ家庭を守ろうとします。
しかし、この家庭は普通の家庭ではないので、女子高生は最終兵器のスイッチを押したくてたまらないというわけです。
 
私がこの女子高生にアドバイスするとしたら、こんなことになるでしょう。
あなたは「寛容さが足りない駄目な子供」ではありません。問題は母親とうまくいっていないことにあるのです。母親との関係を改善できれば、それがベストですが、子どもからそれをすることは通常は不可能です。ですから、早く家を出て自立することを考えなさい。母の浮気は放っておきなさい。それは母と父の問題ですから。
 
もっとも、もうひとつのアドバイスもあるかもしれません。
それは、最終兵器のスイッチを押して、母の浮気を父にバラしてしまいなさい、というものです。それによって母と父の関係が変わり、家族が再生して、万事うまくいくという可能性があります(それが女子高生の無意識の願望でしょう)。
もっとも、あまりにもリスキーですから、とてもお勧めはできませんが。

私は若いころ気が弱くて自信がなく、人に対してものを強く主張することができない人間でした(今も基本的には同じですが)。
こういう人間はいっぱいいるはずです。こういう人間が自信あるふるまいをするためにはどうすればいいでしょうか。
 
ひとつの手段として、空手などを習うというやり方があります。これはけっこう効果があるはずです。いざ喧嘩となれば負けないという自信は、ほかの場面にも生きてきます。
それから、はったりをきかすというやり方をする人もいます。実力のあるふりをする、物知りのふりをする、有名人と知り合いのふりをするということです。本当の自信は実力と実績から出てくるわけですが、それには努力と時間が必要ですから、手っ取り早いやり方として、はったりをきかすわけです。
 
私がとったのは別の方法でした。
それは、自分の主張が客観的に正しいことなら自信を持って主張できるだろうから、「客観的な正しさ」を追求しようと思ったのです。
たとえば、会社の上司に対してなにか主張するとします。もちろん自分は正しいと思って主張しているのですが、それはあくまで主観ですし、自分でもそのことがわかっていますから、自信を持って主張できません。ですから、自分の主張が正しいという客観的な根拠を求めようと考えたわけです。
発想としてはごく単純です。しかし、これは実際にはひじょうにむずかしいことでした。
 
たとえば私は、急いで道を歩いているとき、道いっぱいに広がって歩いている集団に進路を妨害されると、その集団がサラリーマンでもおばさんでも高校生でも同じですが、道を横に広がって歩くとはけしからん、非常識なやつらだと腹が立ちます。しかし、次の日、今度は急いでいないと、同じように道いっぱいに広がって歩いている集団がいても、ぜんぜん腹は立ちません。それどころか、談笑しながら歩いている人たちを見て、ほほえましく思ったりします。
私の判断力とはこの程度のものです。
この場合は、一日で自分の判断が変わってしまうので、自分でもおかしいと気づきます。しかし、一貫して間違った判断をしている場合は、一生気づかないでしょう。
また、世の中全体が間違った判断をしている場合も、永久に気づかないに違いありません。
ということで、「客観的な正しさ」を追求するのはたいへんなことであるとわかります。
 
しかし、私は諦めませんでした。まあ、そういうことを考えるのが好きなのでしょう。私は大学入試のときも社会科は倫理社会を選択しています。
 
「客観的な正しさ」は、結局自分自身の判断力の問題になってくるわけです。私は自分の判断が正しいとする根拠を探し求めました。
 
このとき、世の偉い人たちは、社会が悪い、権力者が悪い、あいつらが悪い(自分は正しい)というふうに考え、悪いものをなくそうとしていました。私はまったく逆のベクトルで進んでいったのです。
 
このやり方は、デカルトが「方法序説」でやったことと似ています。デカルトは、すべてのものの存在を疑い、そして、疑っている自分の存在は確かであるとして、そこを根拠に自分の哲学を組み立てました。
しかし、このやり方では、自分の存在は確かであるとわかるかもしれませんが、自分の判断が正しいとはわかりません。デカルトはそこをごちゃまぜにして、ごまかしています(キリスト教文化では理性や知性があることは神に近いことなので、知性や理性を疑う発想はないのです)。
 
私のやり方は、自分の判断力を問うもので、デカルトを超えているといえます。
もっとも、こんなことをいっても信用しない人が多いでしょうね。
デカルトとか西洋哲学とかの権威に目をくらまされているからです。
 
私は自分の判断力の根拠についてとことん考え、ついに「科学的倫理学」に到達しました。そのおかげで、私は気が弱いにもかかわらず、自信を持って偉そうなことが言えるようになったのです。
「科学的倫理学」は気が弱い人にはとくにお勧めです。

最近の私たち夫婦の会話はこんな具合です。
 
「あそこのあれ、明日開店だって」
「そうか。そのうち行こうか」
「そうね」
 
「あそこのあれ」というのは、商店街の中で新規開店の工事中だったレストランのことです。前に夫婦の会話で出ていたので、「あそこのあれ」というだけで通じるわけです。
 
「あれ、もうなくなるよ」
「買ってあるわよ」
 
「あれ」というのはシャンプーのことです。風呂から出てきて言ったので、妻も想像がつくわけです。
 
長年連れ添った夫婦だから、いい加減な言葉でも以心伝心でわかり合えるのだというと聞こえがいいのですが、実際のところは、年を取ったせいか適切な言葉が出てこなくて、代名詞でごまかしているわけです。
ですから、通じないこともいっぱいあります。
 
「ちょっと、あれ取ってよ」
「あれじゃわからんよ」
 
「あの人から電話があったよ」
「あの人って誰よ」
 
実際は、しょっちゅうこんな会話が交わされているわけです。あまりにもこういうことが多いので、むしろおもしろがって言っているような状態です。
 
「ちょっと、そこにあれなかった?」
「あれってなに」
「あれっていえばあれよ」
「ここのそれじゃないの?」
「それじゃなくてあれよ」
 
年中こういう会話を交わしていると、きっと人類が言葉をしゃべり始めたころはこんな感じだったに違いないと思えてきました。
つまり人類が最初に口にした名詞は代名詞だったに違いありません。
しかし、代名詞だけでは通じないことが多くあり、「あそこ」では通じないので、「山」とか「川」とか「谷」とかの言葉をつくりだしたのでしょう。これが普通名詞です。
しかし、山といってもいくつもありますから、「大山」とか「北山」とか「笹山」とか名づけて区別します。これが固有名詞です。
 
つまり、名詞の発生の順序としては、
代名詞→普通名詞→固有名詞
という順になります。
 
ですから、代名詞というネーミングは間違っていることになります。代名詞ではなく「原始名詞」とでもいうべきです。
 
最初に普通名詞ができて、次に普通名詞に代わるものとして代名詞ができたなんていう説は、とても信じられないでしょう。
代名詞を「原始名詞」と名づけると、普通名詞は「一次派生名詞」、固有名詞は「二次派生名詞」と名づけることもできるはずです。
 
言語学ではこのことについてどう考えられているのでしょうか。
人類がこれほどの言語能力を持ったのはなぜかというのはもちろん大問題で、これについてはいろいろな説があります。あまりにもいろいろな説があって、珍説奇説が横行したために、一時フランスの言語学会で言語起源説の発表が禁止されたことがあるくらいです。ですから、名詞発生の順序についても、定説はないのではないかと想像されます。
 
私の名詞発生順序仮説も特許みたいにどこかに出願しておきたいものです。

敬語はむずかしい。だからこそ、敬語をどれだけ正しく使えるかで、その人の知性とか教養とか人生体験とかがはかれたりします。
しかし、世の中には誤解している人がいて、子どもや若い人に敬語の使い方を教えればよい人間になると思っています。
現実には、敬語がちゃんと使えるからといってよい人とは限りません。敬語を使いながら悪いことをする人はいくらでもいます。敬語を使えることと人のよし悪しとは別です。
こうした誤解が生じるのは「敬語」というネーミングにあると思われます。
つまり、多くの人は敬語は尊敬する人に対して使うものだと思っているのです。ですから、敬語をよく使う人は尊敬の気持ちが多くある人で、そういう人はよい人だろうというふうに考えてしまうのでしょう。
しかし、敬語は必ずしも尊敬する人に対して使うものではありません。
 
たとえば、会社の上司にくだらない人間がいて、内心軽蔑しているとします。そうすると、「あの上司は尊敬してないから、あいつには敬語は使わない」なんていうことがあるでしょうか。あるわけないですよね。
つまり、敬語と尊敬の気持ちは関係ないのです。
誰でもいちいちあの人は尊敬する、この人は尊敬しないと判断しながら敬語を使っているなんていうことはありません。
 
では、どういう基準で敬語を使うか使わないかを判断しているかというと、自分より社会的立場が上か下かで判断しているのです。会社の役職、年齢、職業、肩書きなどが判断の基準です。
ときには相手が年上か年下か、肩書きが上か下かわからないので、どういう言葉づかいをすればよいかわからなくて困ったりします。
 
ですから、敬語は正しくは「序列語」というべきなのです。
こう表現すれば名前と実体が一致するので、誤解することもなくなります。
現実には、社会的地位が上の人間はそれなりに尊敬するべきところを持っている場合が多いので、敬語という言葉にそれほど違和感を覚えることはないでしょうが、敬語は序列語であるという認識に立つと、いろんなことが見えてきます。
 
敬語すなわち序列語がむずかしくなったのは、もちろん社会が複雑になったからです。会社の役職もいっぱいありますし、職業もいっぱいあります。医者や弁護士にはそれだけで敬語を使わなければなりません。年齢は上だが役職は下だという場合もあります。また、会社の内と外という使い分けもあります。社外の人相手には、自社の上司に対する敬語は使いません。
こうして序列語がむずかしくなったのは、社会的な損失であると思います。敬語の使い方に頭を使うために、仕事など生産的なことがおろそかになっているに違いないからです。
 
また、過剰敬語という問題もあります。たとえば、政治家がよく使うのですが、「何々させていただく」という表現があります。別にこちらがさせているわけでもないのに「させていただく」というのは少しへんでもありますし、「何々します」と比べて文字数が多い分、やはり社会的損失を招いているはずです。商店などで使われる敬語もどんどん過剰になっています。
 
ですから、これからは若い人に敬語を教える努力をするよりも、世の中で使われている敬語をへらす努力をしたほうがいいでしょう。

小さい事件であっても、その背後にいろいろなことを想像させる事件があります。たとえば、私にとってはこの新聞記事の事件もそうです。
 
<団地トラブル>騒ぐ少年に包丁、女性逮捕 福岡・早良
毎日新聞1021()1525分配信
 福岡県警早良署は20日、福岡市早良区の団地で騒いでいた少年たちを注意するため包丁を持ち出した団地に住む女性(31)を銃刀法違反容疑で現行犯逮捕した。団地は少年たちのたまり場で、いら立ちを募らせた住民の注意の仕方がエスカレートした形となった。

 逮捕容疑は、20日午後10時50分ごろ、同区星の原団地近くの路上で、包丁(刃渡り約15センチ)を所持したとしている。

 同署によると、女性は包丁を手に騒いでいた男女9人の中学生らに対して帰宅するように注意したという。中学生らの警察への通報で発覚した。女性の1歳8カ月の子供が、発熱のため眠れなかったことも背景にあるらしい。女性は容疑については認めているが「なんで私が悪いのか。悪いのは子供たちだ」と話しているという。

 星の原団地では、「少年たちが騒いでいてうるさい」などの住民からの110番が、多い時で1日5回はあるという。署員が駆けつけて少年たちを解散させ、見回りもしているが、いたちごっこの状態が続いている。【関谷俊介】
 
 
中学生が騒いでいるだけで包丁を持ち出すというのはもちろんへんですが、この団地では子どもが騒いでいるだけで1日5回も住民からの110番通報があるというのにも驚いてしまいます。そんなことで110番通報するでしょうか。
 
この団地は少年たちのたまり場になっていたということですが、まさか大声大会をやっていたわけではないでしょう。喧嘩やトラブルの声というのは気になるものですが、子どもが遊んでいる声というのは、一般的には気にならないものです。むしろ過疎地などでは子どもの遊ぶ声が聞かれなくなって寂しいということがよくいわれます。
 
とはいえ、子どもの騒ぐ声を気にする人がいるのも事実です。マンションでは、上の階で子どもの立てる音が気になるということでよくトラブルになります。この場合、おとなもそれなりに音を立てているはずなのですが、子どもの立てる音はとくに気になって、感情的に反応してしまうようです。
なぜ子どもの立てる音に感情的に反応してしまうのかというと、おそらく自分が子ども時代に音を立てると「静かにしなさい」とよく叱られていて、それがトラウマになっているからでしょう。自分ががまんして静かにしていたのに、がまんせずにやりたい放題に騒いでいる子どもがいるということで、許せなくなってしまうのです。
 
包丁を持ち出した女性も、おそらくそういうことで感情的になってしまったのでしょう(新聞記事には1歳8カ月の子どもが眠れなかったことも理由のように書いてありますが、その年齢の子どもが戸外の物音をそんなに気にするとも思えません)
 
子ども時代に騒ぐと叱られていたおとなは、自分の子どもや周りの子どもが騒ぐと叱り、叱られた子は自分がおとなになるとまた叱り、そうして“叱りの連鎖”が拡大していっているようです。
 
ところで、警察は通報があると駆けつけて少年たちを解散させ、見回りもしているということですが、これは法律的にはどうなのでしょうか。子どもには結社の自由ならぬ“たまる自由”があるはずです。
子どもはたまり場で仲間と遊んで、人間関係の能力を向上させます。たまり場をなくしてしまうと、対人能力が向上せず、引きこもりの一因になったり、友だちがつくれなくなったり、草食系になったり、会社に入ってうまくやっていけなくなったりします。
勉強偏重で遊びを軽視していることが、若い世代にさまざまな問題を生んでいると思います。

私は学校教育や学校制度に反対する思想を持っているのですが、これはもちろん私だけのことではありません。反学校教育の思想家としては、まずミシェル・フーコーが挙げられるでしょう。
フーコーの主著「監獄の誕生」は、近代以前の刑罰はムチ打ち、烙印など肉体に対して与えられるものでしたが、近代以降は犯罪者を監獄に収容し、精神を矯正するものとなったとし、そして、最小限の費用で犯罪者を監視するために一望監視施設と呼ばれる刑務所ができ、軍隊、学校、工場、病院も同じ原理で運営されているとします。刑務所と学校が同じ原理だという点で、フーコーが学校を批判的に見ていることは明らかでしょう。
 
イヴァン・イリイチはややマイナーな思想家ですが、学校は過剰な効率性を追い求めるあまり人間の自立、自律を喪失させるものであるとして批判しましまた。以下はウィキペディアからの引用です。
学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。パウロ・フレイレの革命的教育学と並んで、地下運動から国際機関まで世界中を席捲した。イリイチの論は「脱学校論」として広く知られるようになり、当時以降のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった」
 
学校や教育について真剣に考えると、フーコーやイリイチなど知らなくても、反学校の思想に傾いていくのは当然です。
とはいえ、日本で反学校、反教育を明確に主張している人は少ないようです。私が知っている中では、絵本作家の五味太郎さんがおられます。五味さんの「大人問題」(講談社文庫)を読んで、同じようなことを考えている人がいるんだなあと思いました。
図書館から五味さんの「勉強しなければだいじょうぶ」(朝日新聞出版)という本を借りてきたので、そこから学校教育への本質的な批判の部分を引用してみます。
 
 
非常に浅い子ども教育理論は、子どもというものをなぜか物的にとらえ、繰り返しやれば覚えるはずだとか、鉄は熱いうちに打てみたいな理論を平気で言います。子どもはしっかり躾けておかなきゃダメよとか、たくさん愛せばいい子になりますとか、いっぱい絵本を読むと情緒豊かな子になりますとか、そのぐらい物的で雑なことを単純に信じてしまう大人というのは、たぶん愛されなかったんだろうなとしか思いようがないわけです。もうすでにどこかが破壊されてしまっている、あるいはどこかが未発達のままのような。それが親になれば、愛するという形が自分でもよくわからないよね。ましてや、子どもに愛されていることさえわからない。
 
子どもを生物的にゆっくり見るという習慣がついていない社会なんだよ。社会の中でしかその子を見ていないのね、恐ろしいことに。それはたぶん、社会の中でしか、あるいは学校という中でしか個人個人を見ない教育を受けてきた人なんだと思う。家に帰ってきても「勉強したの」「宿題できたの」って学校基準でしか物を喋れない、そういう暮らしをしてきた親の歴史なんだと思う。そんなことはさておいて、もっと大事なことがあるだろう、ということについてはもうわからない人たち。
 
生まれつきの力をほとんど殺されて改めて再教育(している側には「再」という感覚はないだろうけれど)されて、めでたく誕生したのが勉強人、あるいは学校人。
 
その学校人は、学校的なものがすべてだから、そこの評価査定については敏感になるわけです。成績が良いのは良い。成績が悪いのは悪い。先生に怒られるのは悪い。ほめられたことは良いことだと考える。ただそれだけ。
 
今、学校に行っていないのは悪い子です。学校行かないと「きみ、どうしたの?」とみんなに言われます。補導されちゃうわけです。ま、犯罪者です。
 
学校というものをなんでこれほど重要視して、なんでいまだにあるのかというと、学校出てないと資格を与えないというシステムがあるからね。これが最後の砦。資格を取るには学校を出ているということをまず前提にしておいて、それがなければ次の試験は受けられませんよと。次はないですよと。就職もまともにはできませんよと。自衛隊にも入れませんよと。
 
 
学校教育を否定する人が少ないのは、学校教育を否定すると自分の過去を否定してしまうことになるからです。人間はやはり自分を肯定したいですから。
しかし、学校教育にかかわることは自分自身の表面的な部分です。それを否定することで自分自身の中心的な部分を肯定することができるわけです。そう考えると、学校教育を否定する気になれるのではないでしょうか。
 
学校をなくせといっているのではありません。学校は子どもが自主的、自発的に学ぶ場に変わるべきだといっているわけです。
今の学校は、お腹の空いていない子どもに、決められた食べ物をむりやり口の中に押し込んでいるようなものです。

ヱビスビールのCMで役所広司さんが「召し上がろう」と言っているのが気になります。「召し上がれ」ならいいですが、「召し上がろう」では自分も「召し上がる」ことになって、自分に敬語を使っていることになります。これはどう考えても間違った日本語でしょう。
しかし、CMをつくっているスタッフや関係者が誰もこの言葉のおかしさに気づかないとはなかなか考えにくいことです。普通の言葉づかいでは聞き流されてしまうので、印象に残るように、わざと耳ざわりの悪い言葉を使っているのでしょうか。もしそうだとしても、それは日本語の乱れにつながることですから、やめてほしいものです。
 
「日本語の乱れ」なんていう常套句を使ってしまいましたが、私はいわゆる日本語の乱れはぜんぜん気になりません。というのは、日本語の乱れというのは、主に若い世代の、草の根から生じる変化であって、それは自然なものだと思うからです。
 
そもそも「乱れ」というのはバラバラになって混乱することをいうのですが、たとえば「見れる」「食べれる」などの“ら抜き言葉”がふえているのは一方向への整然とした変化ですから、これを「乱れ」というのは、そちらのほうが日本語を乱していることになります。
 
もっとも、言葉が通じないのでは困ったことです。たとえば「空気が読めない」を「KY」というのは、知らないと通じません。しかし、若い人も相手を見て話すでしょうから、話が通じなくて困るということは現実にはほとんどないのではないでしょうか。
それに、「KY」という言葉を知ると、若い人は空気を読むということを気にしていることがわかり、少しは世の中の変化がわかることになります。
 
また、このごろの若い女性は、やたらと「かわいい」を連発します。赤ちゃんを見て「かわいい」だけではなく、服を見ても「かわいい」、アクセサリーを見ても「かわいい」、お菓子を見ても「かわいい」です。それに、「チョー」という強調の形容詞もよく使われます。ですから、なにを見ても「チョーかわいい」ということになるわけです。あまりにも単純な言葉づかいだと怒る人もいるかもしれませんが、昔はなにを見ても「いとおかし」と書いていた随筆家がいたわけで、それと同じようなものです。
自分の気持ちを表現するのに複雑な言葉が必要なのは屈折した人です。単純な言葉で間に合うのは人間がまともだということで、けっこうなことです。
 
世の中の変化をおもしろがっていると、「日本語の乱れ」という言葉は使わなくていいものだと思います。
 
もっとも、ヱビスビールのCMの「召し上がろう」は、世の中の変化によって出てきた表現ではないはずです。こういうのは「日本語の乱れ」につながるだけですから、やめてほしいものです。

人事院は9月に公務員給与0.23%の引き下げを勧告しましたが、野田政権はそれを無視し、7.8%下げる特例法案の成立を目指すことにしたそうです。これに対して人事院は「勧告無視は憲法違反」と主張しています。
 
公務員の給料はどう考えても高すぎます。なぜそんなことになっているかというと、人事院が公務員の給料を決めているからです。要するに公務員が公務員の給料を決めているわけで、こういうのを「お手盛り」と言います。
 
人事院は裁判所や会計検査院に準じる独立性を持っています。2009年、麻生内閣時代、当時の谷公士人事院総裁は公務員制度改革に反対して国家公務員制度改革推進本部の会合への出席を拒否、自民党の菅義偉選対副委員長が谷総裁に辞任を求めましたが、それも拒否して、そのまま通ってしまいました。
 
日本では戦後、公務員のストライキが禁止され、その代わりに独立性を持った人事院が公務員の給料を決めるということになったわけです。
それまで公務員の給料は民間よりもかなり安いものでしたが、人事院は民間並みを目指して段階的に公務員の給料を引き上げてきて、今では民間よりむしろ高いものになっています。地方公務員は国家公務員よりもさらに高給です。
もっとも、公務員の給料は民間よりも高くないと主張する人もいますが、その根拠となるデータは人事院や厚生労働省のものです。
 
それにしても、人事院はどういう基準で給料の水準を決めているのでしょうか。たとえば、最近も公務員宿舎が問題になっていますが、今は民間もほとんど社宅をなくしています。公務員宿舎が安い分も算入しないといけませんが、たぶんそういうことはやっていないはずです。
そもそも、公務員の給料を民間並みにするということが間違っています。公務員は身分が安定しているのですから、不安定な民間よりも安いのが当然です。
 
金融や投資の世界ではハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンというのが常識です。株式と債券を比べると、一般的に株式のほうがリターンが高いのですが、これは株式のほうが債券より価格の変動幅が大きい、つまりリスクが高いからです。
人間は不安定よりも安定を好みます。ですから、リスクの低いことはひとつの価値なのです。
シャープレシオという数字があります。たとえば、ふたつの投資信託があって、リターンはどちらも同じだったとします。しかし、一方がリスクの高い株式などに投資していた場合、シャープレシオは低くなります。ですから、シャープレシオを見ると、ローリスク・ローリターンの(普通の)投資信託とハイリスク・ローリターンの(だめな)投資信託が区別できるわけです。
 
もし公務員と民間の給料が同じだったら、公務員はローリスク・ハイリターン、民間はハイリスク・ハイリターンですから、公務員のシャープレシオは優秀な投資信託と同じに高くなります。
いや、こういうところにシャープレシオを当てはめるのは厳密には間違っているかもしれませんが、考え方としてはあってもいいでしょう。民間の給料の変動率、クビの可能性などから民間のリスクを計算できるはずです。そうすれば公務員の給料は民間よりもどれだけ安くするべきかということも明らかになります。
 
戦前と戦後しばらくの時期、「公務員は安定しているから給料が安い」というのが日本の常識でした。しかし、人事院勧告が始まるとともにこの常識が捨てられてしまったのです。
その当時は金融工学も未発達で、シャープレシオなんていう概念もなかったでしょう。そのため「公務員は安定しているから給料が安い」ということの根拠を誰も示すことができず、人事院に押し切られてしまったのだと思います。
公務員はスト権を返上したどさくさまぎれに、公務員の安定と民間並みの給料の両方を手に入れたわけです。
 
しかし、今では身分の安定した公務員が不安定な民間と同じ給料を取ることが不当であることは誰の目にも明らかでしょう。
「公務員は安定しているから給料が安い」という日本の常識を復活させないといけません。

横断歩道で信号待ちをしていたときです。信号が青に変わり、70歳すぎと思われる老人がいち早く車道に踏み出し、そこへ、信号に気づかないのか、1台のバンが減速せずに走ってきました。老人はそれに気づかず歩いていきます。その瞬間、私の脳裏に老人がパンにはねられ、ぐしゃっと体がつぶれるか、血が飛び散るか、そんなイメージが浮かび、そのあと救急車を呼んだりすることも想像され、それを避けるために老人に声をかけようと思ったのですが、「右を見ろ!」と言うか「止まれ!」と言うか迷い、結局口から出たのは「危ない!」という言葉でした。
それはおそらく0.何秒かの間のことで、頭は超高速回転していたのです。
「危ない!」という言葉はもっとも適切だったでしょう。「止まれ!」と言われても人ごとだと思う可能性がありますが、「危ない!」と言われると、誰でもとりあえず反応するはずです。
老人は立ち止まり、パンはその前を赤信号を無視して通り過ぎていき、なにごとも起こりませんでした。
 
私が声をかけたことによって、老人は交通事故を免れました。私は人を助けたことになります。客観的に見ると、私の行為は利他行為です。
しかし、そのとき私の心の中は、むしろ利己的な思いだけでした。
まず、目の前で悲惨なことが起こるのを見たくないという思いがありました。それから、老人が事故にあうと、救急車を呼んだり、警察に説明したりということをしなければならず、そうとう時間をとられそうで、そうなるのはいやだなという思いもありました(ほかにも人がいたので、ほかの人がテキパキとやってくれれば私は立ち去ってもいいでしょうが、そうなるという保証はありません)
老人の気持ちとか、老人の人生とかを考えることはまったくありませんでした。そういう意味で私はまったく利己的な動機で行動したのです。
 
とはいえ、人が傷つく悲惨な場面を見たくないという思いは、人を助ける行動に直結します。利己的な動機と利他的な行動がほとんど一体となっているのです。人間はそのように生まれついているわけです。
たとえば、へんな話、セックスのとき自分が気持ちよくなるように動くと相手も気持ちよくなります。そのように生まれついているわけです。
 
ですから、利己的な動機と利他的な動機をきびしく分ける必要もないことになります。人が悲惨な目にあうと自分もいやな気持ちになりますし、人が楽しそうだと自分も楽しくなります。人間は群れて暮らす動物ですから、生まれつきそうなっているのです。
 
しかし、現代ではかなり事情が違ってきています。
たとえば、アフリカのどこかで難民が悲惨な目にあっているという報道に接すると、私たちはそんなことはなくなってほしいと思い、ときには難民支援の行動を起こします。
しかし、中には、難民が悲惨な目にあっている報道がなくなってほしいと思い、メディアに抗議する人がいます。最近はそういう人がふえているようです。そのため、テレビから悲惨な場面はどんどん少なくなり、戦闘の場面はあっても死んだ兵士の姿が映ることはまずありません。
 
鉢呂経産相の「死の町」発言をめぐる動きもそのたぐいです。「死の町」という現実をなくすのではなく、「死の町」という言葉をなくしたいと思う人が多くいました。
 
つまり、現代では利己的な動機が利他的な行動に直結しなくなっているのです。
その結果、悲惨な現実はそのままということになりかねません。
 
 
今では、その行動が利己的な動機に基づくものか利他的な動機に基づくものか、あるいはその行動が利己的な結果につながっているか利他的な結果につながっているか、いちいち検証しなくてはいけません。この検証なしに発言すると、世の中は混乱するばかりです。

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