村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2011年10月

子育てに際して、子どもの「わがまま」に悩んでいる親は多いことと思いますが、そもそも「わがまま」とはなんでしょうか。視点を変えてみるとわかってくることもあるはずです。今回取り上げるのは介護にまつわる相談です。
 
「わがままな母に閉口」相談者 50歳女性
脳梗塞の後遺症でまひがある母を自宅で介護していました。しかし、あまりのわがままに家族がお手上げ状態となり、ホーム入居に踏み切りました。入居してからも母は文句ばかりで、2回ホームを移りました。もう家族がみるしかないのでしょうか。(「定年時代」平成2310月下旬号)
 
回答者は介護相談の専門家である中村寿美子さんです。中村さんはこう回答しています。
 
思うように動けない、気持ちがうまく伝わらないといったお母さまのもどかしい思いが、わがままとなって周囲を困らせているのでしょう。
ダメージを受けた脳の部位によって、運動機能に障害(まひ)が出たり感情のコントロールが難しくなるなど、症状はさまざまです。「手に負えないわがままは病気のせい」と理解できませんか。
 
相談の文章では運動機能のまひしか書いてありませんが、高次脳機能障害では感情のコントロールができにくくなる場合があります。だとしたら「わがまま」はまさに「病気の症状」ということになります。
「病気の症状」と認識したら、周りの人の対応も変わってくるはずです。お母さんの態度を叱責したり矯正しようとしたりすることもなくなるでしょう。
 
 
では、子どもの「わがまま」はどうでしょうか。
これは「病気の症状」ではありません。
では、なにかというと、「人間本来の姿」です。
ですから、叱責したり矯正しようとしたりしても、なかなかうまくいくものではありません。
そして、考えなければならないのは、親にも「人間本来の姿」があるはずだということです。
 
「人間本来の姿」というのはそれほどすばらしいものではありません。少しの「わがまま」が含まれています。
ですから、人間はつねにぶつかり合います。これは家族内でも国際社会でも同じです。
対等の人間であれば、勝ったり負けたりするうちに、ぶつかり合いを回避する知恵を身につけます。しかし、強者と弱者であれば、つねに強者が「わがまま」を通すことになります。
親と子の関係がそうです。親は子に対して圧倒的に強者ですから、自分の「わがまま」を通します。そして、子どもは自分が親になると、親のやり方を学習した上にさらに自分の「わがまま」をつけ加えます。それを何世代も繰り返しているうちに、親の「わがまま」がどんどん肥大してきたのです。「しつけ」や「教育」もその中で生まれました。
子どもを親にとって都合のいい存在にしようとすることが「しつけ」や「教育」なのです。
 
自分の子どもが「わがまま」に見えたときは、自分はもっと「わがまま」なのではないかとわが身を振り返ったほうがいいでしょう。
自分は「わがまま」でないけど生まれた子どもは「わがまま」だったというのは、理屈としてもおかしいですから。

「ゲーム理論による社会科学の統合」(ハーバート・ギンタス著)という本が今年7月に出版されました。内容はタイトルの通り、ゲーム理論によってさまざまな社会科学はひとつに統合されるべきだというもののようです。
「ようです」と言ったのは、書評を読んだだけで、中身はまだ読んでいないからですが、読まなくてもわかります。ゲーム理論によって社会科学を統合できる可能性はありますが、現状では不可能です。なぜなら道徳が正しく位置づけられていないからです。利己的な人間が「人に迷惑をかけてはいけない」「人のために尽くしなさい」という利他的な言葉を発する矛盾を解明しない限り、ゲーム理論は限定的にしか使えません。
 
私は、人間の行動を決定する三要素として愛情、権力、道徳(宗教、思想などを含む)があると考えています。愛情、権力は客観的に把握しにくく、科学の俎上にのせにくいものですが、それでも私たちはだいたいのことはわかっています。しかし、道徳のことはまったくわかっていません。
私たちが利益を求めて行動しているのはわかりきった話です。問題は愛情、権力、道徳が行動にどう影響しているかです。この点に関してゲーム理論は今のところまったく無力です。
 
例を挙げてみましょう。
「囚人のジレンマ」というゲームがあります。一時は盛んに研究されて、ゲーム理論の本には必ずといっていいほど載っていましたから、ご存じの方も多いでしょう。
 
2人組の泥棒が逮捕され、別々に取り調べを受けています。警察は、2人組は過去にもっと大きな犯罪をしたに違いないと考え、こう持ちかけます。
「今のままだと1年の刑だが、過去の犯行を自白すれば、相棒を3年の刑にして、お前を無罪にしてやる。ただし、2人とも自白すれば2年の刑だ」
 
自白するのが有利か、自白しないのが有利かという問題です。もちろん2人の泥棒はもっぱら利己的にふるまうという前提です。このゲームでは、利己的な人間が利他的な行動をする場合があり、それが多くの研究者の心をとらえたのでしょう。
しかし、私にとってはまったくつまらないゲームです。このゲームで扱っていないことこそたいせつだと思うからです。それが愛情、権力、道徳です。
この三要素抜きの研究など意味がないと思えるほどです。それを具体的に見てみましょう。
 
まず、この2人組の泥棒が恋人同士という場合があります。男同士であっても、友情で結ばれている場合があります。その場合、利己的にふるまうだけでなく、利他的にふるまう可能性があって、当然ゲームの結果が違ってきます。
また、2人の泥棒は対等の関係とは限りません。むしろ親分子分、兄貴分と弟分というように上下関係がある場合のほうが多いでしょう。出所してから顔を合わしたときのことを考えると、上下関係によっても当然泥棒のふるまいは変わってきます。
そして、泥棒という無法者の世界にも道徳があります。道徳という言葉が適切でなければ掟といってもいいでしょう。仲間を裏切れば、良心の呵責や罪悪感が生じます。それももちろん行動に影響します。
 
三要素のたいせつさを示すために、もうひとつ例を挙げてみます。
戦場で兵士は「突撃!」の命令を聞いたら、敵の銃弾が飛び交う中、塹壕を飛び出していきます。この行動はなにによって説明できるでしょうか。
 
まず権力があります。軍隊で上官の命令は絶対で、命令違反は重罰ですし、敵前逃亡は銃殺です。こういう権力関係の中にいるから兵士は塹壕を飛び出すのです。
そして、愛国心、祖国愛があります。また、戦争に負けて国が占領されると家族がつらい目にあうということも想像されます。国や家族への愛という理由で兵士は塹壕を飛び出すのです。
国民は国家のために身を捧げるべしという道徳もあります。臆病、卑怯、裏切りは非道徳的な行為です。また、革命などなんらかの大義のためという理由でも兵士は塹壕を飛び出します。
 
戦場での兵士の行動は、もっぱら権力、愛情、道徳によって説明するしかありません。ゲーム理論はどこまで有効でしょうか。
いや、もしかして権力や愛情はゲーム理論でも扱えるのかもしれません。しかし、利己的な人間が利他的な内容の言葉(道徳)を語ることは矛盾ですから、それは扱えないでしょう。
ですから、ゲーム理論で社会科学を統合することは不可能なのです。
 
もっとも、道徳が解明できれば話は別です。ゲーム理論の適用範囲は飛躍的に広がることになり、社会科学の統合も不可能ではないかもしれません。
 
このブログを読んでいれば、道徳とはなにかがおのずとわかってきます。

このところ週刊誌をにぎわしているのは「黒い交際」です。見出しから少し名前を拾っただけでも古関美保、TUBE前田亘輝、沢尻エリカ、松方弘樹、和田アキ子、中居正広など。「黒い交際」なんていう言葉を使うと、もうそれだけでいけないことのようです。しかし、人と人がつきあって悪いはずがありません。悪いのは、暴力団が犯罪をするのを助長するようなつきあい方です。
 
「黒い交際」がいけないというのは、カタギがヤクザとつきあうと、カタギが黒く染まってしまうからということでしょう。しかし、これは負け犬の発想です。こんな考え方で暴力団排除ができるはずありません。
むしろカタギはどんどんヤクザとつきあって、ヤクザをカタギの世界に引き込んでいくという発想でなければ、暴力団をなくすことはできません。
カタギがヤクザと友だちになって、「お前、そんなヤクザな稼業はやめて、まともな仕事をしないか。俺が働き口を紹介してやるよ」とか「俺の会社で働かないか」とか言うようになると、暴力団は消滅していくと思われます。
公共広告機構で「あいさつするたび友だちふえるね」というCMがありましたが、あいさつの対象をヤクザにして、「あいさつするたびヤクザがへるね」というCMもつくってほしいものです。
 
もっとも、現実にはこんなことはないでしょう。カタギというのはだいたいが小心者で、自分さえよければと思って生きているわけですから、ヤクザと対等の口を利くこともむずかしいわけです。
ヤクザというのは、修羅場を何度もくぐり抜けてきて、きびしい組織の掟にも従って生きています。鍛え方がカタギとはぜんぜん違うのです。ですから、たくさんのヤクザ映画がつくられてきたことを見てもわかる通り、昔からカタギはヤクザの生き方に憧れてきました。そして、ヤクザとつきあうことはむしろ自分のステータスを上げることでもあるのです。
警察はカタギの力を使って暴力団排除をしようと思っているようですが、それはそもそもむりな話です。
 
1013日の「朝日新聞」夕刊に、警察庁は暴対法の改正を目指しているという記事が出ていましたが、その解説記事では、「暴対法は施行から19年が経ち、これまでに4回改正したが、暴力団勢力はさほど減っていない」とあります。つまり暴力団対策は完全に失敗しているのです。そして、失敗の理由もちゃんと書いてあります。
「暴対法は、構成員の暴力団からの離脱と就職の支援もするとしているが順調ではない。毎年600人前後が離脱するのに、就職できた人は減少傾向で昨年は7人だった」
 
離脱しても食べていけないのなら、離脱するわけがありません。警察は就職支援のほうにむしろ力を入れるべきです。
そして、私はいいことを思いつきました。ほんとうは警察は自分たちの天下りの指定席を全部離脱者に譲ってやれと言いたいところですが、警察はそんことはしないでしょう。もうちょっと現実的な方法があります。
今、駐車違反の取り締まりは民間委託されていますが、この駐車監視員に離脱者を雇えばいいのです。警察が委託する民間業者を指導すれば簡単にできます。
 
そして、これが警察とヤクザの本来の姿なのです。江戸時代、町奉行所は博徒や的屋を目明し、岡っ引きとして使っていたのですから。

「猿の惑星/創世記(ジェネシス)」を観ました。平日の昼間ということもありますが、観客の平均年齢がかなり高め。やはり猿惑世代が観にきているのでしょうか。
 
「猿の惑星」第1作目を観たとき、あのラストには驚かされました。ほんとは映画の前半でその可能性は考えていたのですが、途中で忘れてしまったのです。人間が猿に支配される事態はどこか別の世界のことであってほしいという思いがあったからでしょうか。
 
この映画は、最初こそ人間が主人公としてストーリーが進みます。製薬会社の研究員がアルツハイマー治療薬の研究をしていて、それが猿の知能を飛躍的に向上させるのですが、この研究員の父親がアルツハイマーで、その父親との関係、もうけ主義の経営者との軋轢、獣医の女性との恋愛などが描かれます。しかし、そのうち主人公はチンパンジーのシーザーになっていきます。映画全編を通じても、シーザーが出ている場面のほうが長いに違いありません。
最初のうちは猿に完全に感情移入することができず、少し違和感があります。しかし、猿と人間の対決が高まっていくにつれ、どんどん人間よりも猿に感情移入するようになります。
これは今までにない体験です。「アバター」では、人間よりも異星人の側に感情移入しましたが、あくまで主人公は形は異星人でも中身は人間でした。
サーカスにいたオランウータン、力の強いゴリラなどにも友情や仲間意識を感じてしまいます。一方、猿収容所の従業員はまったく共感することのできない最悪の人間です。
 
結末はちゃんと「猿の惑星」第1作目につながるようになっていて、なかなかうまく考えてあります。火星行きロケットが行方不明になるというニュースも挿入されますが、第1作に出てきたのは明らかに恒星間飛行の宇宙船ですから、このへんはいい加減です。
 
全体としてはなかなか楽しめました。
 
 
猿が善であるとか、正義であるとかは言えませんが、人間の側には猿にない悪があることは間違いありません。この映画にはそれがうまく描かれています。
動物よりも人間が悪。
同様に、未開人や原始人よりも文明人が悪。だから、文明人は黒人を奴隷にしたり、植民地をつくったりします。
同様に、子どもよりもおとなが悪。その極端な形が幼児虐待です。
 
ですから、文明人のおとなが子どもに道徳教育をしようとしても、絶対にうまくいくわけがありません。
また、文明人のおとなが自分を省みることなしに善悪や正義を論じても、絶対にうまくいくわけがありません。
ですから、「倫理学」という看板はありますが、中身はデタラメが詰まっているだけです。
倫理学がデタラメですから、人文科学、社会科学もその根底は全部デタラメです。
 
この映画は、そういうことを考えるきっかけにもなると思います。

教育問題について考えるのがむずかしいのは、その背後に親子関係の問題が隠れていることが多いからです。この人生相談はその典型的なものといえます。
 
 
「中学受験の失敗が尾を引いて」相談者 中学三年生女子
 中学3年の女子です。

 中学に入ってからというもの、何をやってもうまくいきません。運動部に入ったものの、ついて行けず退部、一生懸命勉強してもちっとも成績はあがりません。そもそもの原因は中学受験だと思うのです。

 私は小学生時代、ある難関校A校に入るよう、親に言われて必死で勉強しました。でも、私にはひそかに憧れていたB校という学校がありました。

 しかし、その学校は親の反対にあって、しかたなくあきらめました。B校への未練を残しながらも、A校に入ってほめられたい一心で勉強したのですが、不合格になりました。

 そしてギリギリの前日に出願してようやく決まったのが今の学校です。A校ほどではありませんが、なかなかの進学校だったので、両親はとても喜びました。けれど私には未練があり、捨てきれない思いがありました。

 もしあのとき、B校に行きたいともっとちゃんと言って、受けていたら……。もしそれで落ちたとしても、まだ納得できたと思うのです。

 それからというもの、私は何をやってもうまくいきません。未練を残したままがんばったって、しょせんはダメだと思ってしまうのです。どうしたら私は心の底から前向きになり、中高生活を一生懸命送ることができるのでしょうか。(朝日新聞「悩みのるつぼ」20111015)
 
 
この相談の回答者は、作家の車谷長吉さんです。車谷さんは壮絶な人生を生きてこられた方で、人生相談の回答もいつも人生を達観した境地から書かれているかのようで、感心させられます。しかし、今回の回答は、自分自身の体験をいろいろ語ったあと、こうまとめておられます。
挫折をすることは大いに結構です。挫折しなさい、と勧めてもいいくらいです。勝利者街道まっしぐらの人の得意顔より、挫折を知って、苦しむ人の気持ちがわかる、すこし憂い顔の人のほうが人間として味があります。味のある大人になってください」
 
これは相談者の悩みの核心をつかんでいない回答のような気がします。
では、相談者の悩みの核心とはなんでしょうか。それを書いてみます。
 
 
まず誰でも疑問に思うのは、相談者は中学3年生になっているにもかかわらず、中学入学時のことにいまだにこだわっているのはなぜかということでしょう。中学1年生ならまだやり直すという道もあったかもしれませんが、今となってはどうしようもないですし、高校進学について考えたほうがいい時期です。
しかし、相談者にはそれなりの論理があるはずです。
私が思うに、相談者は高校入学に際しても親に難関校への進学を強いられ、自分の希望する学校へは行かせてもらえないのではないかという心配があるのでしょう。現にそういう話になっているかもしれません。
中学入学のとき娘の希望を聞き入れなかった親ですから、高校入学のときも当然同じ態度をとるでしょう。
ただ、ここで相談者の悩みが生きてきます。
中学入学のときは、相談者は自分の希望を訴えても、その言葉にはあまり説得力がなかったでしょう。しかし、高校入試のときは、中学3年間の経験を踏まえて言えることがあります。
「私は自分の希望するB校を受験させてもらえなかったから、ずっとその未練があって、中学3年間、何をやってもうまくいかず、楽しくなかった。高校は自分の希望する学校を受験させてほしい」
こう言えば、親の心を動かせるかもしれません。
 
ですから、私がこの人生相談に答えるとすれば、「中学受験のときの失敗を繰り返さないためにも、あなたは今どんなにつまらない中学生活を送っているかを親に訴えて、高校受験では自分の希望を聞いてもらうようにしなさい。高校生活がうまくいけば、今の悩みはどうでもいいことになりますよ」といったことになります。
 
もっとも、親が希望を聞いてくれるかどうかはわかりません。
進学という人生の重大事に子どもの希望を聞かない親はいっぱいいます。しかも、それが問題だとはほとんど認識されていません。だから、車谷さんもその問題をスルーしてしまったのでしょう。
子どもの希望を聞かない親というのは、子どもを一方的にかわいがるだけの対象と見ていて、自分の意志を持った存在とは見ていないのでしょう。あるいは、競走馬の馬主のように、子どもを人生レースに出走させて、勝利する喜びを味わいたいと思っているのかもしれません。
世の中にはいろいろな問題がありますが、こうした親子関係のあり方は最大級の問題だと思います。

1015日、格差社会に反対するデモが世界規模で行われました。
格差社会とはなんでしょうか。格差社会はどうして生まれたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
 
人間は生まれながらに能力差があります。頭のよい人と悪い人がいますし、体力のある人とない人がいます。もちろん頭も体も鍛えれば能力は向上しますが、生まれつきの差があることは動かせない事実です。
では、どれくらいの能力差があるのでしょうか。
障害を持って生まれた人もいます。これももちろん生まれつきの能力差ということになりますが、ここでは一応健常者について考えてみることにします。
 
100メートル走の場合、速い人が約10秒ということになります。高校生男子の平均は14秒ぐらい、遅い人でも17秒ぐらいのようです。約10秒の人は相当鍛えた人ですが、それでも遅い人の2倍まではいかないわけです。
持久走の場合は、鍛えた人と鍛えてない人では大きな差が出ますが、鍛えた人同士、あるいは鍛えてない人同士を比べると、やはり2倍まではいかないのではないでしょうか。
 
頭のよさについても同じようなものではないかと思われます。
もっとも、頭のよさというのはいろんな要素から成っています。言語能力、数学的能力、記憶力、頭の回転の速さなど、数えていけばいくらでもあるでしょう。知能検査で測れるのは、その知能検査で測れる頭のよさですが、頭のよさの目安としては知能検査に頼るしかないでしょう。
IQは、95%の人が70から130の間に収まるとされますから、やはり頭のよさが2倍以上になることはまずないのではないかと思われます。
 
要するに、人間の能力は生まれつき違いがありますが、それほど大きくは違わないということです。
たとえば畑を耕すとき、たくさん耕す人とあまり耕せない人がいることになりますが、2倍まで耕せることはまずないということです。
ということは、農耕社会においては、能力によって貧富の差が生じるとしても、2倍まで豊かになる人はまずいない……と言いたいところですが、そんなことはありません。
たとえば、飢饉になったとき、収穫の少ない人は飢え死にしそうになりますが、収穫の多い人はそうではありません。となると、収穫の少ない人は収穫の多い人に食べ物を譲ってもらわなければなりませんが、圧倒的に不利な立場なので、来年の収穫時に2倍にして返せとか、土地の一部をよこせとか言われても、受け入れるしかありません。そうしたことが繰り返されるうちに、地主と小作人に分かれることになり、貧富の差が拡大します。
もっとも、小作人が死ぬと地主も利益を失うため、地主は小作人を死なない程度の貧乏にとどめておきます。
 
さて、現在の資本主義社会ではどうでしょうか。
カジノ資本主義という言葉があるように、ここではマネーゲームが行われています。テーブルを囲んでゲームを行っていると、実力の差はわずかであっても、実力のある者の前にはチップが山と積まれ、実力のない者はすっからかんになって、借金の証文を書き、土地家屋の権利書を渡し、娘を売るというはめに陥ります。
この社会では、マーケットが世界規模で広がっているために、小作人に死なれると困る地主とは違って、富裕層は貧困層が何人死のうと平気です。
そのため貧富の差は、数千倍、数万倍になっていると思われます。
 
農耕社会以前の狩猟採集社会というのは、どういうものであったのかちょっと想像しにくいのですが、おそらくそこでは能力の差が貧富の差だったのではないでしょうか。
能力の差が貧富の差であるような社会が、人間性にかなった本来の社会ではないかと私は考えています。
 
ところで、マルクス主義は生産力が向上して豊かになるとともに貧富の差が生まれ、原始共産制から奴隷制へと移行したと説明しますが、なぜ貧富の差が生まれたのかは明瞭ではありません。私の説明のほうがよほど明瞭ではないでしょうか。
人間は生まれつき能力の差があるということは、人間と社会について考えるときの大前提です。
 
 
次のエントリーも参考にしてください。
「生まれつきの不平等」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6522093.html
 

1014日、牛丼チェーンのすき家などを展開するゼンショーの株価が4.5%の急落をしました。その前からも株価は下がり続けていて、この1週間で12%近く下がったことになります。
原因は強盗、あるいは警察の指導にあるようです。
 
警察庁によると、今年1月から9月までに起きた牛丼店での強盗事件が71件あり、うち63件がすき家で起き、これに次ぐ吉野家の6件をぶっちぎったということです。
警察庁はゼンショーに対して防犯体制の強化を指導しましたが、読売新聞の報道によると、ゼンショー側は「経営を度外視してまで防犯に取り組む必要があるのか」と発言したということで、ゼンショーに対する批判が巻き起こりました。しかし、ゼンショーはツイッターの公式アカウントで「このようなコメントはいっさい出しておりません」と否定し、読売新聞に抗議するということです。
結局、ゼンショーは深夜の1人勤務体制をなくしていくという方針を発表しました。そのため、人件費がかさんで利益がへるということで株価が急落したというわけです。
深夜1人勤務体制をしていたということも驚きです。すき家のメニューはけっこうバラエティがあります。
 
「経営を度外視してまで防犯に取り組む必要があるのか」という発言があったのかなかったのかはわかりませんが、防犯に取り組むことが経営にマイナスになったのは事実です。
 
もし「経営を度外視してまで防犯に取り組む必要があるのか」という発言があったとしても、それはそれほど悪いことでしょうか。私はちょっとその発言の味方をしてみたいと思います。
 
まず、ゼンショーは強盗の被害者です。
いちばん悪いのはもちろん強盗です。その次に悪いのは、強盗を防げなかった警察です。被害者のゼンショーが批判されるのは筋違いではないでしょうか。
むしろゼンショーは警察を批判してもいい立場です。
 
もしゼンショーが警察の指導に従わず、深夜1人勤務体制を続けたらどうなったでしょうか。おそらく株価は下がらなかったはずです。63件の強盗事件による被害総額は約660万円です。経営判断としては妥当でしょう。
もっとも、今後も強盗事件が起こり続けることになります。しかし、被害者がいいと言っているのですから、それでいいではありませんか。
まさにこれは自己責任です。誰にも迷惑をかけないのですから、批判されることはないはずです。
いや、それどころか、これまでコンビニを狙っていた強盗がすき家を狙うようになれば、コンビニの被害がへります。ゼンショーはみずから犠牲にになって、ほかを助けていることになります。
むしろほめられていいのではないでしょうか。
 
いや、これはあくまでそういう考え方もできるということで書いているわけです。
実はほかに迷惑をかける可能性があります。そうすると話は違ってきます。
今までコンビニを狙っていた強盗が狙いをすき家に変えるだけならいいのですが、今まで強盗をやったことのない人間が、すき家は強盗しやすいということを知って強盗をし、一度強盗をしたことで度胸がついてコンビニなどにも強盗に入るようになると、ほかに迷惑をかけることになります。
もっとも、そういうことが実際に起こるかどうかはわかりません。あくまで可能性があるというだけです。
 
ゼンショーは警察庁の指導に従って、深夜1人勤務体制から複数勤務体制に変えるわけですが、これによる人件費の負担はかなりのものでしょう。もともと防犯は警察の役割で、そのためにもゼンショーは税金を払っているわけです。警察から防犯のための出費を求められるのは納得がいかないとゼンショーが考えたとしてもむりはありません。

「機会の平等」か「結果の平等」かという問題があります。格差社会を論じるときにも避けて通れない問題です。しかし、この問題はいくら議論しても結論は出ません。なぜなら肝心のことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは、「生まれつきの不平等」ということです。
 
人間は生まれたときからそれぞれ違います。それが個性ですが、能力もまた個性です。頭のよさもそれぞれ違いますし、体力、運動能力も違います。
これは当たり前のことで、否定する人がいるとも思えないのですが、現実には、これは言ってはいけないことになっています。つまり現代のタブーです。
 
なぜこれがタブーになっているかというと、このことを言うと差別を助長するとされるからです。
たとえば、人間も動物ですから、生物学によって人間を研究することはあっていいはずです。しかし、人間を生物学的にとらえることで、過去に社会ダーウィン主義や優生学といった差別思想が生まれたことも事実です。また、エドワード・O・ウィルソンという生物学者が社会生物学と称して、人間を生物学の新しい理論でとらえることを提唱しましたが、この人がひどい差別主義者であったために、寄ってたかってボコボコにされるということもありました(社会生物学論争といいます)
こうして生物学による人間研究は限定的なものになり、人間は生まれによって決まるのか環境によって決まるのかということがいまだに論争の種になっています。
 
なぜ人間を生物学でとらえると差別主義につながるのでしょうか。差別主義というのは偏見によるものであって、正しい認識はむしろ差別主義を消滅させるはずです。
もし生物学が差別主義を助長するとすれば、それは生物学が間違っているからです。私はその間違いに気づきました。
ですから、私が人間を生物学でとらえたり、人間は生まれつき能力に違いがあるといったりしても、それによって差別主義を助長することはありません。
 
ともかく、人間は生まれつき能力に違いがあります。しかも、家庭環境によってもその能力の発達が違ってきます。たとえば、知的で文化的な会話が交わされている家庭で育つのと、アル中の父親が暴力をふるっている家庭で育つのとでは、ぜんぜん違います。
 
「機会の平等」は「スタートラインの平等」ともいわれますが、ほんとうにスタートラインの平等を実現しようと思えば、生まれと家庭環境の違いを踏まえないといけません。
しかし、今そんな議論はほとんど行われていません。
「結果の平等」についても、人間が生まれながらに違うとすれば、「結果の平等」を追求するのはおかしいことになります。
 
人間は生まれながらに能力の差があるということは、すべての社会科学の基礎になるべき重要な認識です。

2、3年前、アメリカでは犯罪がふえ続け、「成人の100人に1人が刑務所の中にいる」というニュースがありました。そのとき私は、「このまま犯罪がふえ続ければ、アメリカ人は受刑者と看守の2種類の人間しかいなくなるだろう」というギャグを思いつきました。
 
アメリカの裁判は、被告が起訴事実を認めるとすぐに判決が下されますし、スリーストライク法(3度目の有罪で終身刑になる)みたいに厳罰化が進んでいるようです。それにしても、100人に1人が受刑者というのはかなり異常で、街の中にも元受刑者がいっぱいいるということになります。
 
犯罪対策として、ゲーティッド・シティー(ゲーティッド・コミュニティ)というのがつくられています。ゲーティッド・シティーというのは、塀で囲まれた町で、出入りがチェックされ、厳重な防犯体制がとられているところです。もちろん住むのは富裕層です。
リーマン・ショック以来の不況によって、最近はゲーティッド・シティーの建設は進んでいないかもしれません。しかし、アメリカでこのところ連日行われている経済格差に反対するデモが11日、マンハッタンの高級住宅地にまで及んだということです。これがきっかけになってまたゲーティッド・シティーに住みたいと思う人がふえるかもしれません。
 
アメリカ人が受刑者と看守だけになってしまうということはありませんが、アメリカ人は刑務所の塀の中に住む人と、ゲーティッド・シティーの塀の中に住む人と、その中間地帯に住む人の3種類に分かれ、刑務所とゲーティッド・シティーの人口がどんどんふえていき、中間地帯の人口はどんどん減少していくということになりそうです。
 
それにしても、ゲーティッド・シティーに住む人は、そこが安全だと思って住んでいるわけです。つまり彼らは、犯罪が起こる理由を知っているのです。
ゲーティッド・シティーに住む人はみんな豊かです。豊かな人は少々のものを盗んでもあまり意味がありませんし、盗みがバレたときに失うものが多いので、まず盗みをすることはありません。一方、貧しい人は、少しのお金でも大きな価値があり、盗みがバレて刑務所に入ることになってもそれまでの劣悪な生活とそれほど違いがないので、容易に盗みに走ってしまいます。
ですから、豊かな人ばかりのゲーティッド・シティーでは、窃盗や強盗はまずないと想像できるのです(愛憎のもつれなどによる犯罪は普通にあるでしょうが)
 
貧困が犯罪の大きな原因であることはまぎれもない事実です。ですから、昔の社会主義者は貧困をなくし、十分な福祉を行えば、犯罪はなくなると考えていました。完全になくなると考えるのは間違いですが、それでも9割ぐらいの犯罪は貧困対策と福祉の充実でなくすことができるのではないでしょうか。
 
しかし、社会主義思想が消滅するととともに、こうした犯罪についての考え方も消滅してしまったようです。
今では、犯罪の原因は犯罪者の心の問題に帰結するとされ、犯罪対策といえば“割れ窓理論”(小さな犯罪を徹底的に取り締まることで犯罪全般をへらせるという理論)ぐらいしかないのが実情です。暴力団対策というのは、対策の名にも値しないものです。
 
警察司法関係者は頭こそいいはずですが、犯罪対策についてはまったく無能です。

人間の究極の価値はみな同じというのが人権思想です。
売上の多いセールスマンと売上の少ないセールスマンは、セールスマンとしての価値は違いますが、人間としての価値は同じです。
また、人間は悪人として生まれたり、善人として生まれたりすることはありません。育つ過程で悪人になったり善人になったりするわけです。ボーボワール風に言えば、「人は悪人に生まれるのではない。悪人になるのだ」ということです。
 
こういう立場から現在の暴力団対策を見ると、「ヤクザ差別」という言葉で表現するのが適切です。
今は暴力団対策法と暴力団排除条例があるので、差別行為が合法ということになっていますが、法律自体が差別的ですから、合法であっても差別行為は差別行為です。
 
たとえば東京都の暴力団排除条例では、暴力団関係者を公共工事の入札に参加させないなど都の公共事業から排除することになっています。これはおかしな規定です。暴力団関係者が安くてよい仕事をする場合、それを排除すると税金のむだ使いをすることになります。また、暴力団関係者が正業をすることができなくなると、覚せい剤など非合法な稼業に向かわざるをえなくなります。
また、事業契約において、相手が暴力団関係者と判明した場合一方的に契約を解除できる特約を入れるよう努めなければならないという規定もあるのですが、これも正業をやりにくくさせます。
非合法な稼業を徹底的に取り締まり、正業をする場合はむしろ奨励するというのがヤクザを正しい方向に導くやり方ですが、今は非合法な稼業の取り締まりは中途半端なままで、正業を禁止するという逆のやり方になっています。
 
警察の基本方針は、一般市民に暴力団や暴力団関係者と交際させないというものですが、これは暴力団や暴力団関係者を不可触賤民と見なしているようなもので、差別というしかありません。
警察のするべきことは、暴力団の犯罪行為を取り締まることであって、それ以外にはありません。
 
これは法律とは関係ないことですが、サウナや公衆浴場などで、「刺青の人はお断り」としているところがありますが、これももちろん差別です。暴力団員は確かに刺青を見せて脅迫するということがありますが、だからといって刺青が悪いわけではありません。世界的に見ても、刺青の人を迫害しているのは日本だけです。
 
「ヤクザ差別」という言葉を使うと、今の暴力団対策の間違いがよりはっきりと見えてくるでしょう。

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