村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年11月

沖縄防衛局の田中聡局長が「これから犯す前に犯しますよと言いますか」などと発言したことで更迭されました。女性と沖縄の両方への差別的な発言と見なされたのです。
田中聡局長はこういう経歴の人だそうです。
「田中氏は大阪大卒。1984年に旧防衛施設庁に入り、防衛省の広報課長や地方協力企画課長を経て、8月15日付で沖縄防衛局長に就いた。(共同)」
  
一般には、教養のない人が差別主義に陥りがちで、高学歴者は差別主義的でないと思われているかもしれませんが、私は逆に、高学歴者こそが差別主義的だと考えています。高級官僚というのは、高学歴の上に社会的地位の高い職業なので、それに輪をかけて差別主義的です(あくまで一般論ですが)。田中局長はそのいい例でしょう。
 
警察官僚というのも犯罪者に対して差別的で、そのために犯罪対策がうまくいきません。というか、犯罪対策そのものが犯罪者差別となっているのです。
「犯罪者差別」という言葉はもしかして私の造語かもしれませんが、「犯罪者差別」という言葉を使うと現実が見えてきます。今の警察司法は犯罪者を救済するという観点がないからだめなのです。
 
沖縄の基地問題の解決はなかなかうまくいきません。それはこの問題を実質的に担当している外務官僚と防衛官僚が沖縄に差別的であるからでしょう。
また、マスコミの記者も高学歴者ですから、沖縄への差別意識が抜けないのではないかと思われます。
たとえば、田中局長の発言ですが、もともとは居酒屋でのオフレコ発言です。琉球新報がそれを報じたことで問題になりました。琉球新報は、これはオフレコにはしておけないと判断したのでしょう。本土のマスコミはそうした判断はできなかったのです。
 
本土のマスコミがいかに沖縄に差別的であるか、私は1995年の沖縄米兵少女暴行事件のときに思い知りました。
沖縄米兵少女暴行事件というのは、3人の米兵が12歳の女子小学生を集団強姦した事件で、沖縄では大規模な県民総決起集会が行われるなど、大騒ぎになりました。ところが、東京にいる私は沖縄で起こっている騒ぎがなにごとかまったくわからないのです。もとの少女暴行事件が本土では、まったく報じられないか、ごく小さな記事でしか報じられなかったためです。
少女の集団暴行事件を報道するのに沖縄とか本土とかの区別はないはずですが、本土のマスコミはそうではなかったのです。
 
今でも本土のマスコミは沖縄への差別的態度を改めようとしません。
たとえば「沖縄県民の反対する辺野古移設」という表現が常套句のようによく出てきます。しかし、辺野古移設に反対しているのは沖縄県民だけではありません。沖縄県民以外にも反対している人はいっぱいいます。それに、沖縄県民も日本国民なのですから、「沖縄県民の反対する辺野古移設」という表現は明らかに間違っていて、「(多くの)日本国民の反対する辺野古移設」と表現するべきでしょう。
ちなみに辺野古移設を強行しようとすると、かつての成田空港建設反対闘争のような事態になるのではないかといわれていますが、成田空港建設反対闘争は全国的規模で行われて、「千葉県民の反対する成田空港建設」などという表現のあるはずはありませんでした。
 
また、「沖縄県民の怒り」という表現もマスコミの得意とするところですが、沖縄県民以外が怒っていないということはないのですから、これも「日本国民の怒り」と表現するべきではないでしょうか。
 
官僚もマスコミも差別主義に冒されているため、日本国民の基地負担軽減がなかなか実現されません。

まだ11月だというのに、街にはすでにクリスマスムードが漂っています。クリスマスとはなにかというのを今のうちに確認しておきましょう。
 
クリスマスがキリストの誕生日だということになんの根拠もないということは今や常識でしょう。キリスト教以前からクリスマスはあったのです(クリスマスという名前ではありませんが)
もともとクリスマスとは冬至のお祭り、あるいは冬至明けのお祭りでした。
冬至はだいたい1222日ごろです。どんどん日が短くなり、寒さが募ってきて、とくに北の国では生活がきびしくなってきます。そんなとき、冬至がすぎると、また日が長くなりだします。まだ寒さはきびしくなりますが、また春がくることの確実な予兆です。
ですから、冬至がすぎたときを「太陽復活の日」として祝ったわけです。
そして、「太陽復活の日」は1年の区切りの日ともなりました。1年の区切りの日をどこかに設けるとしたら、当然冬至か夏至しかありません。冬至か夏至かといったら、やはり太陽が復活する冬至でしょう。
 
ですから、冬至明けのお祭りは、キリスト教以前から広く行われていて、これは1年でも最大の行事であったわけです。
しかし、キリスト教の立場にすれば、キリスト教と関係のない行事が盛大に行われているのは具合が悪い。かといって、やめさせることもできない。そこで、この日をキリストの誕生日だということにして、キリスト教の中に取り込んだというわけです。
 
1年の区切りの日といえば、日本においては正月がそうです。正月もまた冬至のすぐあとです。ですから、クリスマスも正月も同じようなものなのです。
欧米のクリスマスも日本の正月も、普段は離れて暮らしている家族が一堂に会し、御馳走を食べ、敬虔な気持ちになって、しみじみとした時間をすごします。これも同じです。
 
クリスマスや正月に家族が一堂に会し、しみじみとした時間をすごすのはなぜでしょうか。これについては私なりの考えがあります。
 
クリスマスや正月は1年の区切りの日ですから、そのときにひとつ年を取ったことを自覚します。言い換えれば、ひとつ死に近づいたことになります。
私たちは普段、死を意識せずに生きています。しかし、クリスマスや正月には意識せざるを得ないのです。そのとき、私たちは自分の遺伝子や自分の思いが次の世代に伝わっていくことを確かめることで少し死の恐怖を軽減することができます。ですから、家族が集まって、思いをひとつにするのです。
自分の個体としての死の恐怖を、家族や次世代への愛で乗り越えるとでもいいましょうか。
ですから、クリスマス(とくにクリスマスイブ)や正月(とくに大晦日)には敬虔な気持ちになり、生や死や愛についてしみじみと思いを馳せるわけです。
 
ちなみに誕生日にも私たちは年を取ったことを自覚しますが、このときは周りの人と思いをひとつにすることはできませんから、クリスマスや正月とはまったく違います。
 
欧米人がクリスマスを迎えたときの思いと、日本人が正月を迎えたときの思いはほとんどいっしょです。
となると、日本人はクリスマスをどうすごせばいいのでしょうか。
昔の日本人は、クリスマスはドンチャン騒ぎをしていました。しかし、欧米人にとっては敬虔な日であるクリスマスにドンチャン騒ぎをするのは不謹慎であるという考えが強まってきて、今では日本人もクリスマスをけっこう敬虔な気持ちですごすようになっています。つまりプチ正月みたいになっているのです。
しかし、クリスマスも正月も同じような気持ちですごすというのはへんです。これでは正月の敬虔な気持ちが分散してしまいます。
 
欧米人はクリスマスを敬虔な気持ちですごし、対照的に正月にドンチャン騒ぎをします。これが自然な姿でしょう。
ですから、日本人としては、クリスマスにドンチャン騒ぎをして、正月を敬虔な気持ちですごすというのが自然な姿なのです。昔のやり方が正しかったのです。そもそもクリスマスは忘年会の時期です。
 
日本人はクリスマスにドンチャン騒ぎをするという正しい習慣を取り戻したいものです。

大阪のダブル選挙で橋下氏と松井氏が当選し、大阪維新の会が勝利しました。もし松井氏が落選していたら、今まで橋下氏のやってきたことがすべてむだになりかねなかったので、まあよしと考えるべきでしょうか。
私は東京に住んでいることもあって、大阪都構想のことはよくわかりません。ただ、公務員給料の引き下げなどの橋下氏の手腕は大いに評価します。
橋下氏がリーダーシップのある政治家であることは間違いないでしょう。
 
日ごろマスコミや識者は、政治家はもっとリーダーシップを発揮しろといいます。となれば、マスコミや識者は橋下氏を絶賛するかというと、そんなことはありません。橋下氏のリーダーシップが確立されてくるに従って、マスコミや識者は反橋下になっていったように思えます。
 
もともと日本人はリーダーシップのある指導者は好きではありません。トップに立つ人間は、切れ味の鋭くない、むしろ暗愚とも見えるぐらいの人間で、その下の人間が働きやすければよしとしてきたのです。
島国ですし、平和な時期が長かったので、そのほうがよかったのでしょう。戦国時代や維新のころは例外的な時代です。
 
さて、現在はリーダーシップのある指導者が求められる時代かというと、私は必ずしもそうではないと思います。
もともと国際政治において、日本がリーダーシップを発揮するべきことはたいしてありません。冷戦が終わり、中国は資本主義化して、大きな問題はないからです(だから、竹島だの尖閣だの普天間だのという小さなことが問題になります)
国際経済はたいへんなことになっています。しかし、日本がここで大きな役割を果たせるということはないと思います。
 
問題は国内経済です。国内経済をなんとかよくしてほしいというのが多くの人の願いでしょう。
しかし、経済の専門家もその処方箋を出せません。処方箋がなければ、いくらリーダーシップのある政治家でもなにもできない理屈です。
小泉改革のとき、日本は一応好景気ということになっていましたが、国民の給与はふえず、むしろ格差社会になってしまいました。
「デフレの正体」(藻谷浩介著)という本によると、働き手の人口が減少する社会では経済成長は期待できないということになります。
 
ですから、今リーダーシップのある政治家に求められるのは、財政再建であり、そのための出費の抑制と増税です。
しかし、増税は国民の反発を買います。小泉政権も消費税増税は封印していました。
出費の抑制はそれに関わる国民の反発を買いますし、公務員給与の引き下げはもちろん公務員の反発を買います。
ですから、橋下氏が国政に進出して総理大臣になって、出費の抑制と増税を行おうとすると、その瞬間に橋下氏はリーダーシップの源泉たる国民の支持を失うということになります。
現在、野田政権も増税の方針を出したために国民の支持を失いつつあります。
 
こうした状況下で、将来の橋下総理にできることはなにかというと、小泉劇場にならって、抵抗勢力とバトルを演じて、人気を維持することです。
小泉政権のときは、抵抗勢力はあくまで政治家で、官僚や公務員ではありませんでした。
しかし、将来の橋下政権では、抵抗勢力は全官僚と全公務員です。これを敵にしてバトルを演じなければなりません。
橋下氏は大阪府知事時代は大阪府の公務員を抵抗勢力として、これに勝利しました。しかし、自治体の公務員と中央官庁の官僚とでは、あらゆる意味でレベルが違います。
 
橋下氏が今後国政に出ていくとすれば、全官僚と全公務員を相手にバトルを演じる覚悟が必要です。 

25日深夜の「朝まで生テレビ」のテーマは「激論!暴力団排除条例と社会の安全」でした。このブログで何度も暴力団について書いたこともあって、ついつい最後まで見てしまいました。
パネリストは以下の人たちです。
 
平沢勝栄(自民党・衆議院議員、元警察官僚)
青木理(ジャーナリスト)
石原伸司(作家、通称「夜回り組長」)
江川紹子(ジャーナリスト)
小沢遼子(評論家)
小野義雄(元産経新聞警視庁・警察庁担当記者)
木村三浩(一水会代表)
古賀一馬(元警視庁刑事、調査会社副代表)
原田宏二(元北海道警察警視長)
三井義廣(弁護士、元日弁連民暴委員会委員長)
宮崎学(作家)
 
 
番組は警察庁からの出席も求めたのですが、断られたそうです。警察にとっては広報のいい機会のはずなのに、情けない話です。
そういうこともあってか、番組全体の流れが警察批判に傾きがちで、司会の田原総一朗さんがなんとか暴力団批判の方向へと流れを変えようとする場面が何度も見られました。
 
私はもともと暴力団について詳しいわけでなく、島田紳助さんのことがあってから、にわか検索で得た知識をもとに暴力団について書いてきましたが、私の書いてきたことが基本的に正しかったことが今回の「朝生」で確認できました。暴力団や暴排条例について詳しい人たちが同じようなことを語っていたからです(もちろんそれに反対の意見の人もいます)。むしろ私のほうが歯切れがいいぐらいです。
たとえば、こうしたことが語られていました。
 
・条例で「交際」を禁止するのは異常だ。「交際」自体は悪くない。
・警察の暴力団対策は、頂上作戦以来ずっとうまくいっていない。
・島田紳助さんは警察に助けてもらえない。
・社会から落ちこぼれる人間がいるのが問題だ。
・暴力団は落ちこぼれの受け皿になっている。暴力団をなくすともっとひどくなる。
・暴力団員は離脱すると生活できない。
・警察は離脱支援や就職支援をしていない。
 
覚せい剤犯罪における暴力団関係者の比率は半分ぐらいで、あとの半分は暴力団関係者以外によるものだとか、警察の逮捕率は戦後しばらくのころよりはるかに低下しているとか、最近の警察は情報を金で買わないので情報収集力がほとんどないとか、興味ある事実も語られていました。
 
私は、暴力団事務所を追放しようという住民運動があるが、これは地域エゴだ、マスコミはなぜ批判しないのだろうということを「暴力団追放運動の不思議」というエントリーで書きました。
その住民運動に関して、ジャーナリストの青木理さんが語っていました。地元(浜松市)の商店街の会長さんだかに取材すると、地元は暴力団と祭りのときも協力するなどうまくやっていたのだが、警察に言われて訴えたのだ、ほんとうはやりたくなかったのだということです。この話を聞いて納得しました。暴力団事務所の追放運動など単なるいやがらせで、なんの解決にもならないことは誰の目にも明らかだからです。
 
暴力団対策がうまくいかないのは警察のやり方が間違っているからで、警察がやり方を改めない限りこれからもうまくいきません。
 
私は暴力団のことも警察の暴力団対策のことも詳しく知りませんでしたが、それでも大筋は正しく考えることができます。それは倫理の根本を知っているからです。
私は「暴力団員も私たちと同じ人間だ」ということを出発点にして考えていきます。しかし、多くの人は「暴力団は悪い、警察は正しい」ということを出発点にして考えていくので、どこまで行ってもデタラメな世界から抜け出られません。
マスコミも「暴力団は悪い、警察は正しい」という前提で報道するので、まったく現実をとらえることができません。
 
暴力団員が私たちと同じ人間なら、なぜあのような悪いことができる人間になるのかという疑問が生じます。この疑問を追究することで善や悪や正義というものがわかってきます。それを私は「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」の発想を身につければ、世の中の善、悪、正義に関わる問題のほとんどが明快にわかるようになります。

【肥田美佐子のNYリポート】反ウォール街デモ・ロビー案発覚―賞与シーズンを前に「怒れるポピュリズム」爆発を恐れて2011年 11月 25日 15:34 JST
 
犯罪歴や個人破産歴を調べ、運動の信用失堕をねらえ
 
 「『敵対陣営調査』について――。『ウォール街を占拠せよ(OWS)』デモの後援者の身元をつかみ、その動機が、政敵(民主党)同様の冷笑的なものであることを示せれば、OWSの信用は大いに傷つく。運動の指導者たちの犯罪・租税情報、訴訟・個人破産歴などの調査を提案する。しめて85万ドル(約6550万円)なり」
 
 先日、ワシントンDCの有力ロビー会社、クラーク・ライトル・ゲダルディグ・アンド・クランフォード(CLGC)が、クライアントの米国銀行協会(ABA)に、上記の内容を含む反OWSロビー計画案を送ったことが判明した。
 
 「提案――『ウォール街を占拠せよ』への対応」と題された文書は、1124日付だが、19日、米メディアのスクープで、ABAがすでに文書を受け取ったことが明らかになった。15日未明には、ニューヨーク市警(NYPD)が、デモの拠点であるズコッティ公園からテントを撤去するなど、運動への締め付け強化が目立つ。
 
 15日午前2時過ぎ、筆者も現場に駆けつけたが、周辺道路は閉鎖され、地下鉄も運休。記者や議員も含めた200人が逮捕され、青い蛍光色で「NYPD」と車体に大書きされた大型バスが、何台も目の前を走り抜けた。運動開始2カ月目の17日には、大規模デモが行われ、デモ隊と警官の間で流血事件も発生している。
 
 上記文書について、ABAの広報担当者は、一方的に送りつけられたものであり、採用するつもりはないと米メディアに語った。だが、当局の対応強化に加え、米金融界寄りとされる有名ロビー会社がこうした提案をしたことで、長期化し、拡大するデモ活動に危機感を募らせる権力層が増えていることが分かる。
 
 文書によれば、民主党の主要ストラテジストは、OWS支援が大統領選のメリットとなる可能性を検討し始めているという。つまり、ウォール街にとって、デモは単なる「短期間の政治的不快感」にとどまらず、金融機関に長期的な政治・財政上の影響を及ぼしかねないというのだ。 (後略)
 
 
 
やっぱり頭のいいやつはこうやって世の中を操作しているんだろうなと思わせる記事です。要するに政敵をつぶしたい場合、正面から議論するのではなくて、相手のスキャンダル探しをやるわけです。アメリカの大統領選挙のときは、水面下でこうしたことが大いに行われているのでしょう。
日本の政界でも基本的には同じです。政策論争よりも、たとえば外国人や不正企業から政治献金を受けていたとか、女性関係とか、失言とかを追及するわけです。
いささか古い話ですが、沖縄返還の密約をあばいた毎日新聞記者が機密漏洩で起訴されたとき、起訴状に「ひそかに情を通じ」と外務省女性職員との関係を書かれ、世の中の関心は全面的に密約よりも男女関係と機密漏洩のほうにいってしまったということがありました。
 
本筋よりも脇道のスキャンダルのほうに関心がいってしまうのは人間の本能みたいなものです。誰でも政策や外交のことよりも、男女関係やカネのほうが身近ですし、興味があります。
こうした人間の性質を知り尽くした頭のいい連中は、犬に餌を与えるように大衆にスキャンダルを与え、大衆は食いついてしまうわけです。
 
こうした頭のいい連中の罠にはまらないようにするには、まずこういう罠が仕掛けられているのだということを理解する必要があります。
そしてもうひとつ、道徳というものを頭から追い出す必要があります。
 
政治家の男女関係やカネや失言を追及する人というのは、自分が正しいことをしていると思っているのです。そのため、本筋から離れた方向に突っ走ってしまいます。
要するに「正義」に酔っているのです。
「自分が正しいことをしている」という意識がなければ、なにが本筋かを見極めようとするはずです。
頭のいい人から操られないようにするには、「脱道徳」ということも心がけねばなりません。

中学時代、「四ちゃん」というあだ名の国語の女性教師がいました。あだ名の由来は、八頭身美人という言葉がありますが、その女性教師は背が低く、頭が大きいので、四頭身だということでした。
年齢は40歳ぐらいだったでしょうか。独身でしたから、当時の言葉でいえばオールドミスです。ハイミスという言葉ができたのはそのあとです(今はそんなことをいうこと自体が失礼ですが)
四ちゃんは背も低いのですが、気も小さくて、生徒に対する威圧感がまったくありませんでした。そして、泣き虫でもありました。ですから、生徒たちはなにかきっかけを見つけては騒いで授業を妨害し、そのうち四ちゃんが泣き出すのを楽しみにするようになりました。どこそこのクラスが四ちゃんを泣かしたという情報はすぐに学年中に広がり、今度は自分のクラスで泣かそうと競い合うような感じでした。
 
当時の四ちゃんの心境を思うと、今でもつらくなります。毎日生徒にバカにされて、教師をやめたかったでしょうが、当時女性がほかに職を見つけるのは容易なことではなく、やめるにやめられなかったのでしょう。
 
四ちゃんをイジメるのはよくないという生徒もいましたが、多くは喜んでイジメていました。私もそんなに悪いことをしているという感覚はなかったように思います。
 
中学生というのは残酷なものだということになるかもしれませんが、残酷になるにはそれなりの理由があると思います。
四ちゃん以外のほとんどの教師は、生徒に対して威圧的で、体罰も日常的でした(体罰ではなく教師暴力というべきですが)。つまり生徒は教師につねに圧迫されており、いわば包囲網の中にいるようなものですが、唯一四ちゃんが包囲網の弱点であったわけです。圧迫された分、その弱点に反発力が集中することになります。
つまり、イジメる側にもそれなりの理由があるわけです。
いや、イジメだけではなく、すべてのことには理由があります。
ですから、ほかの教師が生徒を威圧するのも理由があります。それが教師の役割だと信じているのでしょうし、教師にそう信じさせるのが学校制度というものであり、そして学校制度もそれなりの理由があって生まれてきたわけです。
 
大げさにいうと、ビッグバン以来、すべての物事は原因と結果の連鎖の中で変化し、生成してきたわけで、人間の行動もその連鎖の中にあります。
いうまでもなく、原因なくして結果はありません。
 
ところが、イジメについて考えるとき、人はまずイジメる人間は悪いと考えます。それに対して、イジメられる人間も悪いところがあるという考えもあります。このふたつのどちらが正しいかでもう結論が出ませんし、自分なりに結論を出す人も、そこで思考停止してしまって、たとえばイジメる人間が悪いとして、その人間はなぜ悪くなったのかということを考えません。
 
これが道徳的思考というものです。善か悪かという問題に直面すると、そこで思考停止してしまうのです。
イジメる人間が悪と決まると、その周りの人間は自動的に免罪されます。
たとえば裁判で被告に有罪の判決が下ると、その被告の周りの人間への責任追及も終わるので、みんな安心できます。これが刑事裁判の最大の効用です。
 
善や悪といった道徳を頭から追い出して現実を見ると、人間は原因と結果の連鎖の中で生きていることがわかります。この連鎖は広範にわたっており、いわゆる複雑系となっています。この複雑系を研究することが人間を科学的に研究するということであり、これからの人文科学・社会科学のあるべき姿です。

最近、子どもにおかしな名前をつける親がふえているそうで、問題になっています。
たとえばどんな名前か、いくつかのサイトから拾ってみると、こんな具合です。
 
楽気   らっきー
騎士   ないと
美俺   びおれ
乃絵瑠  のえる
緒茶女  おちゃめ
亜菜瑠  あなる
稀星   きら
笑心楽  しょこら
愛人   らびっと
音恋   おとこ
芹安奴  せりあんぬ
ハム太郎 はむたろう
 
一応、読み方として理解できるものだけを選んでいます。そんな読み方はできないだろうという名前もいっぱいあります。
 
読みにくい名前をつけられると、子どもが困ります。いちいち人に読み方を聞かれますし、間違った読み方をされると訂正しなければなりません。
また、名前を呼ばれたとき、笑われたり注目されたりするのも困ります。
へんな名前をつける親は、ヤンキーや暴走族など行動化する不良に多いとされているようです。
 
へんな名前をつける親も、一応子どものためを考えてはいるのでしょうが、子どものためよりも自己満足の比重が高くなってしまっている気がします。子どもがペット感覚になっているといってもいいかもしれません。
以前、子どもに「悪魔」という名前をつけようとした親が役所に受付を拒否され、けっこうマスコミでも騒がれる事態がありました。
こうなると、自己満足を越えて幼児虐待に近くなっているかもしれません。
 
よい親も悪い親もいるのが現実です。となると、親が一方的に命名権を持っているのは問題です。親の命名権を制限し、子ども自身が自分で自分の名前をつけられるようにするべきです。
昔の日本はそういう制度でした。親が幼名をつけ、15、6歳で元服したときに名前をつけ直します。このときは主に子ども本人の意思で命名していたはずです。
ですから、親が命名するのはあくまで幼名で、ある程度の年齢になったら子どもが自分の意思で名前をつけ直すというふうにすればいいわけです(もちろん幼名のままでもかまいません)。今の制度では改名には「正当な事由」が必要です。みんながある年齢でいっせいに変えれば混乱もありません。
納得のいかない名前のまま生きていかなければならないのはつらいことです。この制度にすれば、そうした不幸はなくなりますし、いちばん気に入った名前をつけられるのですから、喜びも大きいでしょう。
私は世の中に幼名復活を訴えたいと思います。

オウム真理教事件の刑事裁判がすべて終結しました。あの事件から16年たったわけです。事件の年は阪神大震災の年でもあり、個人的には母親が亡くなった年でもありました。母の葬儀で会った旧友たちとオウム事件の話をして盛り上がったのを覚えています。これほど人々の関心を呼んだ犯罪はなかったでしょう。当時、週刊誌は記録的に売上を伸ばしたそうです。
当時は、なぜ高学歴者がオウムにはまってあんな犯罪をしたのかということがよく論じられましたが、最近はただ一方的に被告が断罪されるだけのようです。被害者側に焦点を当てた報道が多いので、自然とそうなります。
しかし、私はオウム事件の犯罪者たちをそれほど一方的に批判する気にはなりません。いや、批判はするのですが、同じようなことはほかにもあって、そっちは批判されていないではないかという気持ちがあるのです。
 
オウム真理教は省庁制という組織になっていて、大蔵省、外務省、文部省、科学技術省などがあり、各省に大臣がいて、松本智津夫は神聖法皇と呼ばれていました。つまり、国家と同じ体制なのです。
もしこれが本当の国家なら、オウムの犯罪者たちの暗殺や地下鉄サリン事件などの行為は、英雄的、愛国的行為ということになるわけです。国家においては暗殺もスパイ行為も戦争もなんでもありですから。
もちろんオウム真理教がつくったのはニセ国家です。しかし、それを本物と思ってしまったのが松本智津夫の弟子たちです。開運の壷だと信じて高価な壷を買わされ、それを拝んでいる人に似ています。もちろん開運の壷を買った人は、詐欺商法の被害者です。ですから、松本智津夫の弟子たちも詐欺の被害者なのです。
詐欺の被害者を責めるのはもちろん間違っています。
いったんニセ国家詐欺にひっかかってしまうと、松本智津夫に命じられて人を殺すのはよいことになってしまいます。現在の自衛隊員が有事に際して人を殺すのと同じことだからです。
 
詐欺にひっかかるのがよくないという論法もあるかもしれませんが、そんなことをいうと振り込め詐欺の被害者も批判しなければいけないことになります。
 
いや、もちろん私はオウムの犯罪者たちを批判します。その点は明快です。むしろほかの人たちはほんとうに批判しているのかという問題があります。
多くの人たちは、オウムの犯罪者たちが人を殺したことは批判しますが、有事に自衛隊員が人を殺すことは称賛し、死刑で人を殺すことも容認します。
同じ殺人行為を、こっちはよい、こっちは悪いと分類しているわけです。この分類をするためにはめんどくさい理屈をこねなければなりません。
松本智津夫みたいな人間にひっかかると、この分類を間違って、自分も犯罪者になってしまうかもしれません。「オウムの犯罪者なんか死刑になって当然だ」と主張している人は、「あいつは悪いやつだからポアしろ」と命じられたとき、さして抵抗なくできるでしょう。
 
私の頭の中では、オウムの犯罪者が人を殺したことも、自衛隊員が有事に人を殺すことも、死刑で人を殺すことも、みな同じ殺人行為です。単純明快です。なんの理屈もいりません。
 
もちろん、正当防衛の殺人は許されますから、自衛隊員が人を殺すのはよい場合もあります。しかし、死刑で人を殺すのは正当防衛のはずはありませんから、つねに悪いことです。
 
もっとも、自衛隊がPKOで武器を携えて外国に行って人を殺した場合はややこしくなります。そのPKOでどれだけ人を救えたか、救える可能性があったかということと天秤にかけなければいけませんし、現地の人から見れば武器を持って外国軍が来たということですから、向こうに正当防衛権が生じている可能性もあります。
 
ともかく、オウム真理教事件はニセ国家を通して国家の恐ろしさというものを教えてくれた事件です。

「脱ゆとり教育」が本年度から小学校で始まりました(中学校では2012年度から、高校では2013年度から)。国の教育方針の大きな転換です。
いうまでもなく国あるいは文部科学省は「ゆとり教育」は間違っていたという認識のもとにこの転換を行ったはずです。となれば、これまでの教育が間違っていたと謝罪しなければなりません。
しかし、そんな謝罪は誰も行っていません。
うやむやのうちに転換してしまおうという了見のようです。
 
私のような世代にとっては、ある意味どうでもいいことですが、いわゆる「ゆとり世代」の人にとっては切実なはずです。自分たちの受けた教育が間違っていたとされているのですから。
そのため「ゆとり世代」という言葉は明らかに蔑称となっています。
もちろんつねに若い世代は上の世代からバカにされてきたわけですが、それは根拠なくバカにされてきたわけです。しかし、「ゆとり世代」に関しては、バカにされる根拠があることになります。
「ゆとり世代」は学力がないということになっているからです(これは必ずしも明確な根拠があることではないようですが、少なくとも文部科学省は学力がないと判断して「ゆとり教育」から転換したはずです)
「ゆとり世代」は、自分たちがバカにされるのは文部科学省のせいだとして抗議するべきです。文部科学省がそれを無視するなら、賠償金や慰謝料を求めて訴訟するべきです。
薬害被害者は厚生労働省を訴えています。「ゆとり教育」被害者も文部科学省を訴える資格があるはずですから、教育被害者の会を結成して訴えるべきです。
 
教育はもちろんたいせつなことです。それは教育が人間のあり方を決め、国のあり方を決めるからです。
文部科学省が勝手に教育方針をくるくる変えて(詰め込み教育→ゆとり教育→脱ゆとり教育)、その結果に責任を取らないでいいということになると、これからもいい加減な教育が行われることになります。それを阻止するためにも、「ゆとり世代」は文部科学省に抗議しなければなりません。
あるいは、今教育を受けている世代が「脱ゆとり教育」よりも「ゆとり教育」を受けたいといって抗議するのも当然ありでしょう。
 
現在、いい加減な教育が行われているのは、どうやら文部科学省の権威にひれ伏している人が多いからではないかと思われます。たとえば、日教組に抗議する人はけっこういますが、日教組の組織率はとっくに30%以下になっていますし、日教組が教育を支配しているわけではありません。日教組よりも文部科学省に抗議するべきでしょう。
現在、大阪で行われている大阪府知事選と大阪市長選のダブル選挙で大阪府の教育基本条例が争点のひとつになっていますが、この基本条例も文部科学省の方針の枠内のものですから、教育改革といってもたかが知れています。
 
文部科学省に教育に対する責任感を持たせるためにも、これまで教育を受けてきた人や現在教育を受けている人は、どんどん文部科学省の責任を追及していくべきです。

文部科学省が「復興教育」に取り組む方針だそうです。
「復興教育」ってなんだと思いますが、記事を読んでもよくわかりません。だいたい今の子どもがおとなになるころには復興も終わっているはずですし。
『非常時にも自ら判断し行動できる「生き抜く力」を育むこと』というくだりがあります。やはりこれがだいじなことでしょう。とすると、「防災教育」あるいは「災害対応教育」に主眼があるのだと解釈しておきます。
 
『一人ひとりが迷わず高台に逃げる「津波てんでんこ」の教えをもとに防災教育に取り組んでいた学校は、助かった子が多かった』という指摘があります。
これはだいじな指摘です。逆にいうと、「津波てんでんこ」の教えをもとに防災教育に取り組んでいなかった学校では、助からなかった子が多かったわけです。
つまり文部科学省の防災教育の不備が津波の犠牲を大きくしたということになります。
今回の大震災では、原発事故を起こした経産省、東電の責任が大きく問われましたが、防災教育をおろそかにしていた文部科学省の責任も当然問われるべきです。
 
もっとも、ほとんどの人にとって、「津波てんでんこ」ということを知ったのは震災後のことでしょう。これは民間伝承で、ほとんど忘れられていたからです。
自分の命を救うためのノウハウがほとんど忘れられてしまうということは、今の世の中のあり方に根本的な間違いがあることを示唆しています。
 
「津波てんでんこ」ということは、とりあえず自分が助かりなさい、そうしたほうが結果的に多くの人が助かる、ということでしょう。切迫した状況で人を助けようとしてはいけないということでもあります。
いわば利己的行動の勧めです。
 
今の世の中、利己的行動を勧める人はほとんどいません。逆に利他的行動や自己犠牲を勧める人はいっぱいいます。
それはみんなが利己的だからです。みんなは他人が利他的行動や自己犠牲をしてくれれば自分の利益になると考えているので、他人に利他的行動や自己犠牲を勧めるのです。
文部科学省が進めてきた道徳教育も同じです。ですから、「津波てんでんこ」の教えが道徳教育に取り入れられることもなかったのです。
 
しかし、これからの文部科学省は防災教育に力を入れるそうなので、「津波てんでんこ」も取り入れることでしょう。そうでなければ困ります。
 
ところで、話は変わるようですが、津波がくるとき、宮城県南三陸町の防災放送担当の24歳の女性が最後まで庁舎に残って住民に避難を呼び掛け、自身が犠牲になるという出来事がありました。この女性は秋に結婚式を控えていたそうで、よけい人々の涙を誘いました。
 
従来の道徳の副読本では、この手の話が好まれました。しかし、この話は防災教育には役立ちません。防災放送担当という特殊な立場の人の話だからです。一般の人はなにも考えずに逃げなければいけません。
 
文部科学省は防災教育において、こうした自己犠牲の話を取り入れたい欲望にかられるでしょう。しかし、それをすると災害時に犠牲をふやすことになります。
文部科学省は、これまでの道徳教育の間違いを認め、利己的行動を勧める方向に転換しなければなりません。

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