村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2011年12月

野田首相と李大統領の日韓首脳会談で従軍慰安婦問題に多くの時間が割かれたということで、従軍慰安婦問題についての議論がまた起こっています。
私はこの問題にはあんまり詳しくないのですが、当時首相だった安倍晋三氏が「狭義の強制性を裏付ける証拠はなかった」と述べたのにはあきれました。強制性を狭義と広義に分類するというのは詭弁そのものです。こんなことをいっていたのでは国際社会では理解されません。
 
これぐらいのことは語れますが、この程度のことを語ってもたいした意味はありません。
では、ちゃんと勉強して語ればいいではないかということになりますが、日本にいてはちゃんとした勉強ができるかどうか疑問です。日本においては、日本に都合のよい情報ばかりが流通し、日本に都合の悪い情報はカットされてしまっている可能性があるからです。
 
尖閣諸島、竹島、北方領土の帰属問題も同じです。日本では「日本固有の領土だ」ということになっていますが、中国、韓国、ロシアではまったく違う論議がされているに違いありません。正確なことを知るには、日本の主張と相手国の主張と両方を知る必要がありますが、日本にいては相手国の主張を知ることは困難です。
 
夫婦喧嘩の仲裁をするときは、両方の言い分を聞くのが常識です。片方の言い分だけ聞いて裁定するのは愚かなことです。ところが、日本と他国との紛争に関しては、両方の言い分を平等に聞くのはほとんど不可能です。
ですから、日本にいてはまともな勉強ができないに違いないと思って、今のところやっていないのです。
 
両方の言い分を聞いて判断するというのは、あらゆることにおいて原則としなければいけません。
私は一応、なにかについて発言するときは、あくまで両方の言い分を聞くか、少なくとも両方の言い分がわかったと思ったときだけ発言するように心がけています。
たとえば、暴力団対策については、暴力団にはこのような言い分があるだろうと理解してから発言しますし、凶悪犯罪については、凶悪犯にはこのような事情があっただろうと理解してから発言します。
 
しかし、たとえば警察は暴力団のことをまったく理解せずに暴力団対策を行っているようですし、マスコミも暴力団のことを理解せずに警察に同調しているようです。また、なにか凶悪犯罪が起こると、識者は凶悪犯の心理は“心の闇”といって理解していないのに、厳罰を下すべきだと主張します。
 
日本と他国の紛争を日本の言い分しか知らずに判断するのはまったく愚かなことですが、日本ではほとんどの人が愚かなことをしているので、誰もそれをとがめる人がいません(日本だけのことではありませんが)
世の中では、相手の言い分を聞かずに自分の主張ばっかりを言う人は、周りから自分勝手だといって批判されます。しかし、これが国家レベルのことになると、国内では誰からも自分勝手だと批判されることがありません。
たとえば、最初に挙げた、安倍当時首相の「狭義の強制性を裏付ける証拠はなかった」という発言ですが、これはたとえば暴力男が「狭義の暴力性はなかった」とか、犯罪者が「狭義の犯罪性はなかった」とかいって自己正当化をはかろうとしているのと同じことです。しかし、しかし、安倍発言は日本国内ではそれほど批判されませんでした。
 
私たちはみな利己的です。しかし、個人の利己的な言動は周りから批判されますから、自然と抑制されます。
しかし、国家についての利己的な言動は、国内ではほとんど批判されないばかりか、互いに称賛し合ってどんどん増幅されていく傾向があります。
従軍慰安婦問題や領土問題を論議するときは、そうしたことを念頭においてしなければなりません。

シリーズ「横やり人生相談」です。世の中には自慢話ばかりする人がいます。職場でこういう人といっしょになったとき、どう対処すればいいかという相談です。
 
 
「勤務中 同僚が自慢話ばかり」 読売新聞「人生案内」(20111215日 )
 
 20代会社員女性。職場の同僚である50代女性についての相談です。
 
 私の勤める会社は、社長以外の社員が私とこの女性だけという小さなところです。彼女は、私と2人きりの時に必ずといっていいほど自慢話をします。例えば、自分の子どもがいかに高学歴でいい会社に就職したかとか、友人の収入がいかに高いかとかです。
 
 ほかにも、学歴や出身地域などで人を差別するような発言も頻繁にしてきます。しかも彼女は一度話を始めたら、30分は絶対に止まりません。最近は、何度も同じ話をするようになっています。
 
 私はそんな話を聞きたくないので、いつもつまらなそうな態度をとりますが、彼女の話は一向に止まりません。勤務時間中ずっとそんな感じなので、彼女の仕事はミスだらけ。その尻ぬぐいを私がやらなければならないこともしばしばです。
 
 彼女の相手をすることにほとほと疲れています。一体どうすれば、ストレスをためずにこのような人とうまくやっていくことができますか。(京都・K美)
 
 
この相談の回答者は、弁護士の土肥幸代さんです。土肥さんは「彼女の仕事中の自慢話や世間話は適当に聞き流し、取り合わないことです」と言い、同僚の仕事のミスをフォローするのも給料のうちだから、ストレス発散に工夫しなさいとアドバイスします。
 
私がこの回答に納得いかないのは、「彼女の仕事中の自慢話や世間話は適当に聞き流し、取り合わないことです」という部分です。
確かにその通りなのですが、相談者はそれができないから悩んで相談しているわけですから、どうすれば聞き流して、取り合わないでいられるかというところまでアドバイスしなければならないと思うのです。
というわけで、私なりの回答をしてみます。
 
私は相談者に、まず同僚である50代女性のことをよく観察しなさいとアドバイスします。
その女性は、誰彼かまわず自慢話をしているのではないはずです。たとえば、その会社にはもう1人社長がいるわけですが、社長に対してはそんなに自慢話はしないでしょう。一度はしても、二度三度はしないはずです。また、その女性に何人か友だちがいるとすれば、自慢話をする人としない人がいるはずです。
つまり自慢話をする人というのは、自慢話をするとうらやましがってくれる人に対してするわけです。
 
普通の人は、一度聞いたときはうらやましく思うかもしれませんが、何度も同じ話を聞かされると、もううらやましいという感情はわかず、馬耳東風とかカエルの面にションペンとかいう感じになりますし、さらには何度も同じ話をする人間を軽蔑するようになります。そうすると、自慢話をする人も、自慢話をする意味がなくなるので、しなくなります。
 
ということは、この相談者は何度も同じ話を聞かされているのに、そのたびにうらやましいという反応をしているのではないかと想像されます。相談者は「私はそんな話を聞きたくないので、いつもつまらなそうな態度をとりますが」と書いていますが、「態度をとります」ということは演技をしているということで、それを見抜かれているのです。
また、この同僚女性は差別発言を頻繁にするということですから、うらやましがらせるだけでなく、いやがらせも目的になっているのでしょう。そして、相談者は「彼女の相手をすることにほとほと疲れています」と書いているように、毎回いやがるので、いやがらせの格好のターゲットになっているわけです。
 
 
以上のことを理解すれば、対策もおのずと出てくるでしょう。
相談者は、子どもの学歴や会社の話や、友人の収入の話を聞いて毎回うらやましがるような人間で、ということはもし自分に自慢のタネがあったら人に何度も自慢しかねないのです。つまり、相談者は同僚女性と同じレベルかもっと下のレベルの人間なのです。
自分は自分が忌み嫌っている人間と同じレベルの人間であるというのは、考えるだけでいやなことですから、人間はそう認識した瞬間にそのレベルから抜け出すことができます。
つまり相談者は、同僚女性と同じようなレベルの人間なのに、自分はもっとましな人間だと思っていて、自己認識が間違っています。そのため自己をレベルアップさせることができないでいるのです。
 
また、「勤務時間中ずっとそんな感じなので、彼女の仕事はミスだらけ」といいますが、話をするからミスをするとは限らないでしょう。尻ぬぐいをするのもいやのようですが、そういうことは社長も見てくれているはずですし、仕事のためなのですから、いやがることではありません。「同僚女性の仕事はミスだらけで、自分が尻ぬぐいをしている」という認識もあやしいものです。
 
要するに相談者は、自分が同僚女性と同じようなレベルの人間だということに早く気づくことです。そうして自己認識を正しくすれば、おのずとそのレベルを脱することができます。
そうすれば、同僚女性からなにをいわれても気にならなくなります。

大阪で起こった橋下旋風は国政にも影響を与えています。橋下流の政治はどうしてこれほど人気なのでしょうか。
 
まず現在の国の政治状況は、官僚とマスコミが既得権益を守る勢力として存在し、民主党政権はそこに切り込もうとしましたが、官僚とマスコミの反撃にあって後退しています。
橋下氏は大阪府において、公務員制度を初めとする既得権益構造を徹底改革し、次は大阪市の既得権益に切り込もうとしています。この動きが圧倒的な支持を受けているわけです。
大阪府の教育基本条例も、いろいろな問題はありますが、今まで聖域であった教育界に切り込んだという点では改革的です。
しかし、マスコミを含む既得権益勢力は、橋下人気に脅威を感じて、先の選挙を「独裁か反独裁か」という図式で描き、また週刊誌は橋下氏の出自を重点的に報道しました。橋下氏の過去の情報は官僚組織から提供されたものと想像できます。
ですから、今後橋下氏が国政に出そうな状況になればなるほど、反橋下の動きが強くなり、橋下人気が失速する可能性があります。
 
普通、官僚組織が改革派を攻撃するときは、検察がその先頭に立ちます。小沢一郎氏、堀江貴文氏などがその攻撃にさらされました。人権派の安田好弘弁護士も露骨な攻撃を受けたことは「オウム真理教と検察」というエントリーに書きました。
 
ですから、検察が橋下氏の弁護士としての仕事の中から犯罪に仕立て上げられそうなことを摘発するということは大いに考えられるのですが、今は橋下氏に勢いがあるので、それをやると検察が逆にバッシングを受けてしまうでしょう。安田弁護士のようにはいきません。
 
橋下氏の人気をささえているのは若い世代です。やはり年輩者は既得権益者であることが多いですし、性急な改革にもついていけません。その点、若い世代は橋下氏の荒っぽい手法にむしろ快哉を叫んでいると思われます。
ですから、「独裁か反独裁か」という図式は的外れですが、「若い世代対年寄り世代」という図式はかなり当たっています。若い世代が改革派であるのは当たり前です。
 
小泉改革のときも若い世代が圧倒的に支持しました。ただ、小泉改革は官僚の既得権益を冒すようなことはしませんでした(郵政民営化や道路公団民営化はむしろ官僚の利権を拡大する意味がありました)。しかし、橋下改革は主に官僚組織を改革の対象にしています。これから官僚とマスコミの反撃はさらに激しくなるでしょう。
 
ですから、今後たいせつになるのは、若い世代の力を結集することです。
インターネットによる選挙運動の自由化などは当然実現しなければなりません。
それに加えて選挙権年齢の引き下げもだいじです。
今、18歳に引き下げることが議論されていますが、これは引き下げれば引き下げるほど日本は改革的な国になることになります。日本は老人国家になって、非改革的な国になっていますから、それを打ち破るためにも引き下げなければなりません。
どこまで引き下げるのがいいかというと、年齢制限を撤廃して、何歳でも選挙ができるようにするのがいいのです。
選挙権の年齢制限がなければ、小学生でも投票することができます。小学生の投票は純粋に国の将来を考えたものになるでしょう。
選挙権の年齢制限撤廃は、日本再生の切り札になるはずです。
 
選挙権の年齢制限撤廃については「人権思想の欺瞞について」というエントリーでも書きました。これはなかなか理解されにくいことですが、きわめて重要なことで、教育改革にも直結しています。
 
「人権思想の欺瞞について」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6125341.html

214日、「報道ステーション」に橋下徹新大阪市長が出演して、そこで語ったことが気になりました。YouTubeで確認しましたが、確かにこう語っています。
「競争というものを外して僕は成長はないと思っています。生物である以上はやっぱり競争というものは原則になっている」
 
これは完全に社会ダーウィン主義です。
橋下氏はこの前後に「競争」という言葉を連発しています。よっぽど競争が好きなようです。
 
通常、こういう社会ダーウィン主義的発言は批判されますが、橋下氏は勢いがあるので、スルーされているようです。
社会ダーウィン主義はいうまでもなく間違っています。改めて批判しておきましょう。
 
「自然界に競争がある。だから人間社会にも競争があるべきだ」
これが社会ダーウィン主義の基本的な考え方です。
「自然界に競争がある」というのは事実に関する記述です。
一方、「人間社会にも競争があるべきだ」というのは価値観に関する記述です。
事実と価値観はまったく違う概念です。事実から価値観を導くのは間違いで、倫理学者のG・E・ムーアはこれを「自然主義の誤謬」と名づけました(「自然界に競争がある。だから、自然界の一部である人間社会にも競争がある」というのであれば一応論理的な記述です)
 
ですから、「自然界に競争がある。だから人間社会にも競争があるべきだ」というのは論理的に成立しない間違った考え方なのですが、これはダーウィンの進化論を踏まえているので、科学的な考え方のように見えます。そのため一時は猛威をふるいました。自称“科学的社会主義”のマルクス主義が猛威をふるったのと同じです。
 
もっとも、橋下氏自身は社会ダーウィン主義にこだわりがあるわけではないでしょう。おそらく単純な競争主義者(あるいは新自由主義者)なのです。ですから、「自然界に競争があるからといって、人間も競争するべきだということはいえないのですよ」と指摘すると、「そうですか。じゃあ自然界と関係なく人間は競争するべきだと主張します」というでしょう(それでも、指摘してあげたほうがいいと思いますが)
  
 
ただ、自然界と人間社会はまったくの別物ではありません。人間はあまりにも自然を逸脱した生き方をしていては幸せなれないでしょう。だからこそ、ルソーは「自然に帰れ」といったわけです。
ルソーの時代は、なにが自然かというのはよくわかりませんでした。しかし、今は自然科学が発達したので、かなりよくわかるようになっています。動物の生態についてもそうです。
「競争」について動物と人間を比較すると、人間の競争の仕方はあまりにも自然から逸脱しています。
たとえば、親や教師が子どもを競争させるなどということは動物の世界には絶対にありません。
学力テストで子ども全員の順位をつけたり、運動会で走らせたりというのはまったくばかばかしいことです。これは「競争している」のではなく「競争させられている」のです。
競争というのは、子どもたちが自由の中でしていけばいいのです。
 
橋下氏も教育改革をいうのなら、こういうところから改革していかないといけません。
 

経済学の入門書を読むと、たいてい「一物一価の法則」というのが書いてありますが、果たしてこれは「法則」というほどのことでしょうか。これは「当たり前」というべきです。初歩の段階で「一物一価の法則」を学んでしまうと、そのあとのことが頭に入りにくくなってしまいます。
経済学でだいじなのはむしろ「価格変動の法則」でしょう。同じ物でも場所と時間で価格が変動するということを理解すれば、「一物一価の当たり前」はどうでもよくなります。
 
価格変動といえば、需要と供給の法則ということになりますが、需要にせよ供給にせよ抽象的な概念です。そもそも需要とはどうして発生するのでしょうか。こういうことは具体的なことから説明してほしいものです。
 
人間が生きていくにはまず空気が必要ですが、空気はどこにでもあります。水もそれほど苦労せずに手に入ります。問題は食糧です。食糧がないと生きていけませんが、食糧を手に入れるのは簡単なことではありません。
これはどんな動物でも同じです。動物の最大の関心事は食糧を得ることです(次に子孫を残すことです)。食糧を得られないために死んでいく個体はつねに少なからずいます。
 
ですから、人間もつねに食糧を得るために必死であるわけですが、もともと人間は自分の食べるものを自分で得ていて、つまり自給自足の生活をしていたわけで、そうすると市場もありませんし、需要と供給も、価格変動もありません。
しかし、あるとき物々交換が始まりました。こうして市場ができ、経済学が存在する理由ができたわけですが、物々交換はどうして始まったのでしょうか。
物々交換は、双方ともに得だと思うことで成立するのですが、どうして物を交換することで双方が得をするのでしょうか。
これは人間の生理的欲求の性質によります。この生理的欲求は生物学的に規定されています。
 
山の民は主に獣の肉を食べて暮らし、海の民は主に魚を食べて暮らしていますが、いつも同じものを食べていると飽きてきて、別のものを食べたくなります。別のものを食べるとおいしく感じます。これは人間の生まれついての性質で、生物学的に規定されています。そうしてさまざまな栄養素を取り込むことができるわけです。
つまり、山の民はたまに魚を食べると獣の肉よりもおいしく感じ、海の民はたまに獣の肉を食べると魚よりもおいしく感じます。双方がまずいものをおいしいものと交換したと思うから、物々交換が成立するのです。
 
これはあくまで人間が生物学的存在だからです。このことを無視して物々交換の発生を説明することはできないと思います。
 
しかし、経済学の本には、人間の生理的欲求だとか、本能だとか、生物学的要素だとかはめったに書かれていません。たいていは、いきなり市場における価格決定のことから書かれています。
 
経済学の入門書は、人間がほかの動物と同じように暮らしていたところから書き出すと、とてもわかりやすくなると思います。
 

経済学に「限界効用理論」というのがあります。私はこれがどういうことかわかりませんでした。経済学の入門書を読んでもわからないし、経済学部の友人に聞いてもわからない。あるとき、NHK教育テレビでアニメを使って説明しているのをたまたま見る機会があり、今度こそわかるかと思って集中して見ましたが、やはりわかりませんでした。
 
私は、モノの価値というものを経済学はどう説明しているのかが知りたかったのです。マルクス主義経済学では労働価値説というのがあり、これが正しいかどうかは別として、考え方としてはわかります。それに対して、近代経済学では効用価値説というのがあるのですが、この「効用」というのがよくわからないのです。「効用」を理解するには「限界効用」を理解しなければならないのかと思ったのですが、結局「限界効用」もわからないということになってしまいました。
 
もっとも、こういうことはわからなくても困りません。今は市場というものが成立しているので、市場においてモノの価値が決定されるからです。そういう意味では、労働価値説でも効用価値説でもどっちでもいいということになります。
しかし、市場が成立する以前にもモノの価値はあったわけですから、私はそれが知りたかったわけです。
いろいろやってもわからないというのは、私の頭が悪いからだと思って諦めていましたが、やはり納得いかない思いが残ります。
 
ということで、今回ちょいと思いついて検索してみると、「限界効用」も「効用」もわかりました。そして、今までなぜわからなかったかもわかりました。私の問題意識が経済学とずれていたのです。
「限界効用」とはこのようなもののようです。
 
消費者が財を消費するときに得る欲望満足の度合いを効用という。しかし同じ1枚のパンの効用も、1枚目と2枚目とではその大きさは異なるであろう。通常は、1枚目のパンの効用よりも2枚目のそれのほうが小さく、さらに3枚目はもっと小さくなる傾向がある。このように、財の消費量が増加していくときの追加1単位当りの効用を限界効用といい、財の消費量の増加とともに限界効用がしだいに減少することを「限界効用逓減(ていげん)の法則」(または「ゴッセンの第一法則」)という。
(Yahoo!百科事典「限界効用」より)
 
 
なるほど、一枚目のパンより二枚目のパンの価値が小さいというのはよくわかりますし、それが法則化されているというのもわかりました。
しかし、私が知りたかったのは、一枚目のパンの価値はどうして決まるのかということなのです。そういう問題意識で経済学の入門書などを読んでいたので、ぜんぜんわからなかったのです。
 
一枚目のパンの価値について、経済学者はちゃんと論じているでしょうか。論じていないのではないかと思います。
文系の学問がだめなのはここです。いちばん根底のところをないがしろにしているのです。
 
一枚目のパンの価値を論じようとすると、人間はパンなしでは生きていけない存在、つまりただの動物であることを認めなければなりません。これは当たり前のことですが、とくに欧米の学者は認めたくないようです。そのため、経済学の根本のところがいい加減になってしまうのです。
 
たとえば、「水とダイヤモンドのパラドックス」といわれるものがあります。これも人間が動物であることをごまかしているので、よくわからない説明しかできていません。
 
価格の表す希少性は、効用とは区別すべき概念である[1]。伝統的には水とダイヤモンドを例として価値と価格のパラドックスを問題にしたアダム・スミスがいる。水はそれなしで人間が生きていけない程効用の大きなものであるが、豊富に供給されているためその限界効用(後述)は小さくなっており、市場価格は非常に安いものとなっている。一方、ダイヤモンドは単なる装身具であり、水に比べて効用は小さいが非常に希少であるため限界効用が大きく市場では高い価格で取引される。これが水のない砂漠であれば、人は容易に一杯の水のためにダイヤモンドを手放すであろう。水に希少性が出てきたのでダイヤモンドの限界効用を上回ってしまうためである。
(ウィキペディア「効用」より)
 
ウィキペディアにかみついてもしょうがないのですが、ウィキペディアがいちばんわかりやすく説明していたので、取り上げました。
 
砂漠の遭難者がコップ一杯の水のためにダイヤモンドを手放すというのはよくわかります。しかし、それは水に希少性があるからだけではありません。砂漠で希少性があるのは、ガソリンにしてもお米にしても同じです。しかし、ガソリンやお米のためにダイヤモンドを手放すことはありません(つけ加えれば、砂漠ではダイヤモンドの希少性も高まります。近くに宝石店がないので)
なぜ水のためにダイヤモンドを手放すのかといえば、水がなければ人間は生きていけないからです(ウィキペディアにも一応そのことは触れられていますが、市場価値を中心に論じているので、わかりにくい)。
 
つまり、モノの価値の根本には、「人間が生きていくために必要である」ということがあるのです。
ですから、空気、水、食べ物、衣服、住まいなどに価値があります。それらが満たされたときにダイヤモンドなどにも価値が出てくるのです。
ところが、経済学者は市場価値を基準に考えているようで、そのため私とかみ合わなかったのです。
 
これから経済学が真に科学といえる学問になるには、人間が生物であるという前提から組み立てていってもらわなければなりません。

金相場がずっと高値圏にあります。金融危機など世界経済の先行き不透明感から、資金が安全資産とされる金に逃避しているのだと説明されています。
といって、ここで金相場について語ろうというわけではありません。そもそもどうして金にそんなに価値があるのかということについて考えてみます。
 
金に高い価値があるのは、普通こういうふうに説明されます。
 
・産出量が少ない(これまでに産出された総量はオリンピックプール3杯分だそうです)
・工業用に需要がある(コンピュータのCPUなど)
・装飾用に需要がある。
 
ほかにも、化学的に安定していて加工しやすいといった特徴も挙げられますが、要するに工業用や装飾用に需要があるのに、産出量が少なく、その需給によって価値が決まっているわけです(その価値ゆえに資産や貨幣用の需要も出てきます)
問題は、金が装飾用に強い需要があるのはなぜかということです。
それは金の色と光沢が美しいからです。
では、なぜ金は美しいのでしょうか。
言い換えれば、なぜ人は金を美しいと思うのでしょうか。
実は、ここのところについて、はっきり語られることはまずありません。たとえばウィキペディアの「金」の項目を見ても、装飾用の価値について書かれているのはこれぐらいです。
 
「金は多くの時代と地域で貴金属としての価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため装飾品として人類に利用された最古の金属である」
「金は有史以前から貴重な金属として知られていた」
「金とその他の金属の合金は、その見栄えの良さや化学的特性を利用して指輪などの装飾品として、また美術工芸品や宗教用具等の材料として利用されてきた」
 
「見栄えの良さ」という言葉はありますが、どうして見栄えが良いのかは書いてありません。
こういう根本的なことをごまかしているのが、これまでの学問なのです。
 
なぜ人間は金を美しいと思うのでしょうか。
その答えは簡単です。人間は金を美しいと思う性質を生まれながらに持っているからです。
そんなことは当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、これまでその当たり前のことをごまかしていたのです。
 
人間は、甘いものを好み、苦いものを嫌うという性質を生まれながらに持っています。これは進化論からも説明できるので、否定する人はまずいないでしょう。
人間が金を美しいと思う性質を生まれながらに持っていることを進化論から説明するのはちょっとむずかしいかもしれませんが、説明はできなくても、そういう事実があることは明白です。どの時代、どの地域でも、金は価値あるものだったからです。
 
ちなみにカラスはビー玉などの光るものを集めることがあります。光るものを好む性質を持っているのでしょう。人間にも同じ性質があっても不思議ではありません。都会の夜景、花火、星空などは誰でも美しいと思います。
 
人間は金を美しいと思う性質を生まれながらに持っているという考え方は、人間は生物学的存在であって、その性質や能力は生まれながらに決定されているという考え方でもあります。これは人文・社会科学の世界ではタブーとされてきました。
しかし、ものごとを根本から考えようとすれば、人間が生物学的存在であることを無視することはできません。
 
もし人間に金を美しいと思う生まれながらの性質がないとすれば、金の価値は時代の価値観によって変化することになり、資産としての価値に重大な疑義が生じることになりますが、現在の金相場の動きを見れば、誰もが金の資産価値は絶対だと思っているようです。

「今年の漢字」が「絆」に決まり、清水寺の森清範貫主が恒例の揮毫をしました。
もちろん大震災で人と人との絆のたいせつさが認識されたということから決められたのでしょうが、災害があってもなくても絆のたいせつさは変わらないだろうという気がしないでもありません。
それに、絆をたいせつにするといっても、具体的にどうすればいいのかよくわからないでしょう。友だちをつくろうとしても、簡単に友だちがつくれないのと同じです。
 
大震災以前から、「孤独死」「無縁社会」「孤族」といった言葉で、絆が失われた現状に注目が集まっていました。つまり、これまでもみんな絆をたいせつにしようとしてきたのですが、にもかかわらず絆はどんどん失われてきたのです。
どうしてそんなことになるのでしょうか。
それは、絆には「よい絆」と「悪い絆」があるということがはっきりと認識されていないからです。
つまり、クソもミソもいっしょにして「絆」といっているので、多くの人はこれが絆なら絆なんかいらないと思って、どんどん人間関係から逃げ出しているのです。
 
たとえば、学校のクラス内でのイジメを考えてみます。多くの場合、イジメられっ子はイジメっ子との関係を断てないためにイジメられ続けます。そのため、ほかの人が見ると、友人関係のように見えたりします。ですから、イジメる・イジメられるという関係もひとつの絆、つまり「悪い絆」であるわけです。
また、夫や恋人から暴力をふるわれていても関係を断てない女性がいます。これも「悪い絆」です。
嫁と姑の関係もしばしば「悪い絆」になっています。
 
もちろん「よい絆」と「悪い絆」は単純に分けられるものではなく、ひとつの人間関係の中に「よい絆」と「悪い絆」が共存しているのが普通です。
たとえば、親が子どもを食べさせ、学費を出し、病気になれば看病する一方で、いつも子どもを叱って、子どもを傷つけるような言葉を吐いているというのは、ありふれた親子関係ですが、これも「よい絆」と「悪い絆」が共存している例です。
また、父親が普段はやさしいが、会社でいやなことがあると子どもに当たるとか、アルコールが入ると子どもに暴力をふるうとかも同じです。
 
このように「よい絆」と「悪い絆」は複雑に入り組んでいるので、これをきっちりと区別し、「悪い絆」を排し、「よい絆」をふやすようにしなければなりません。これは私たちの幸福に直結する重大事です。
しかし、世の中の学者、思想家、知識人のほとんどは、こうした問題に取り組もうとしません。問題意識すらないようです。
「今年の漢字」が「絆」に決まったことをきっかけに、「絆」についての考察を発表する知識人がどれだけいるか注目したいものですが、おそらくほとんどいないでしょう。これが学問や思想の世界の問題点です。

「毒親」という言葉があることを最近知りました。スーザン・フォワード著「毒になる親 一生苦しむ子供」(講談社プラスアルファ文庫)という本からきた言葉のようです。
これは便利な言葉です。日本では親を批判するのがタブーに近いので、たとえば私みたいに「親を軽蔑することで、親の影響を受けないようにしなさい」とか「親より少しでもましな人間になることが人類の進歩です」とか書いていると、それだけで拒絶反応を示す人がいそうです。「毒親」という言葉を使えば、そういう事態は回避できるかもしれません。
 
もっとも、便利な言葉にはマイナスの面もあります。「毒親」という言葉を使うと、「毒親」でない親はみんなまともな親のようです。しかし、現実には毒の比率が90%の親もいれば、5%の親もいるというように、程度問題にすぎません。
また、「毒親」という言葉を使うと、その親を切り捨ててしまうような感じがあります。しかし、「毒親」は子どもには毒になりますが、世間ではいい人で通っていて、実際よいことをしている場合もあります。また、「毒親」の親もたいてい「毒親」で、毒が連鎖しているものですが、そういうことも見えなくなる恐れがあります。
 
つまり「毒親」という言葉を使うと、レッテル張りになって、思考停止してしまう恐れがあるわけです。
もっとも、これまで「子どものことを思わない親はいない」というような逆のレッテル張りが行われてきたので、「毒親」のレッテルに価値はあるでしょう。とくに「毒親」という言葉を知るだけで、今まで認識できなかったことが認識できるようになる人もいると思われます。
 
「毒親」について検索していると、「毒親の典型」とされるものがひっかかってきました。「YOMIURI ONLINE」の「発言小町」という掲示板では「毒親」についての書き込みが多いらしく、その中のひとつです。
 
 
約束を甘く考えている娘が許せない」怒りの父
 アラフォー男性です。高校生の娘が一人います。妻とは娘が小学校低学年の時に離婚し、その原因が向こうにあったため親権は私が取りました。
 
先月のことです。娘が進学の相談をしてきました。東京の大学に進学したいから許してほしいと言うのです。もちろん反対しました。都会で一人暮らしなど心配でさせられません。いくら新幹線で僅か2時間位と言っても、親元から離れて暮らすことに違いはありません。それでもしつこく言ってくるので、私は娘が小5の時に書いた誓約書を突き付けてやりました。
 
抜粋して書くと、
.一生懸命勉強し、最低でも最高学府まで進学します。またその際には、自宅から通える学校を選択し、一人暮らし(下宿・寮含む)はしません。
 
2.将来結婚するときはお父さんと一緒に暮らし、老後の面倒を見ます。
 
この段階で眉を顰めておられる方もいらっしゃるでしょうが、ちゃんとした理由があるのです。
 
娘が小5のとき、私に再婚話が持ち上がりました。私は当時30代で、今一度人生のパートナーが欲しかったというのが再婚を考えた最大の理由ですが、娘に母親が必要だと思ったことも嘘ではありません。
でも娘は強硬に反対しました。半年以上かけて説得を試みましたが駄目でした。結局私は再婚を断念することになるのですが、最後の説得の時「お前がお嫁に行ったらお父さん一人ぼっちになっちゃうよ」と言った私に対し、「私がずっと面倒見てあげる」と娘が答えたので、言葉だけでは心許ないと思い文章にして本人に署名と拇印をさせました。それが誓約書です。ちなみに不履行による罰則規定も設けてあります。
 
これを見た娘は「わあ、懐かしい。でもこんな昔のこと」と言ったので怒鳴りつけてやりました。あくまでも約束は守らせます。妥協する気は一切ありません。
 
約束を簡単に反故にしようとする娘を、皆さんはどう思われますか。
 
 
なるほどこれは「毒親の典型」かもしれません。「毒親」といっても、中にはわかりにくいのもありますが、これは誓約書をつきつけるという具体的な行為があるので、誰でも判断できると思います。
この掲示板は、ひとつの質問・相談に対していろんな人が返答をするという形式ですが、まず、子どもの書いた誓約書になんの効力もないという指摘から始まって、みなさん圧倒的に「怒りの父」さんに批判的です。
読みたい人はこちら。
 
 
もちろんこの父親はひどい親です。いろいろ指摘することはありますが、中でもひどいのは、結婚するときはお父さんと暮らすと約束させていることです。こんな条件を受け入れてくれる結婚相手はめったにいません。娘が幸せな結婚をすることより、自分が幸せになることを優先させているのです。
 
こんなひどい親ですが、みなさん、ひとつ疑問を感じるのではないでしょうか。
それは、再婚話が持ち上がったとき、再婚に反対する娘の意志を尊重していることです。
親が再婚しようとするとき、小さな子どもが反対するのは普通にあることです。ほとんどの親は子どもの反対を無視して再婚します。しかし、この親は、半年以上かけて説得を試み、結局再婚を諦めます。ここまで子どもの意志を尊重する親はきわめてまれでしょう。
それでいてこの親は、娘が東京の大学に行きたいという意志はまったく無視するのです。
この矛盾はどう説明すればいいでしょうか。
私なりに考えたことを書いてみます。
 
この親は再婚話に関して、娘の意志は尊重する一方で、再婚相手は半年以上も引っ張り、結局断ってしまいます。再婚相手に対してはひどい仕打ちです。
やはりこの親は、自分勝手な人と判断せざるをえません。
となると、そもそも再婚話が娘に誓約書を書かせるための手段ではなかったかと疑われます。
再婚相手がまともな女性なら、いずれ娘もなつくだろうと判断して結婚するのが普通です。なにしろ小5の娘ですから。
この親は、再婚話が持ち上がったとき、再婚するより娘とずっといるほうが幸せだと判断して、再婚話を利用して娘をずっと手元に置いておこうとしたのでしょう。
もっとも、そのやり方が誓約書だったというのがお粗末です。
そのため掲示板でも大バッシングになってしまいました。
 
一般的な「毒親」はもっと巧妙です。日常の中でことあるごとに娘に恩を着せ、娘が自立して親から離れることに罪悪感をいだかせます。こうして親から自立できなくなり、不幸になっている人がいっぱいいます。こういう人は「毒親」という言葉を知ることで自立のきっかけをつかめるかもしれません。
 
ところで、誓約書をつきつけたこの親は、「約束を守るべきだ」という道徳を利用しています。愛情のない親がよりどころにするのが道徳です。道徳をよく口にする親は「毒親」でないかと疑ってみる必要があります。
 

安田好弘弁護士といえば、光市母子殺人事件の被告である元少年やオウム真理教の松本智津夫の主任弁護人を務めるなどした有名な人権派弁護士です。それが突然逮捕され、起訴されるということがありました。その事件が最高裁で最終的に有罪になったというニュースです。
安田弁護士はこのようなコメントを出しています。
 
安田弁護士「私は無実」 強制執行妨害ほう助罪確定でコメント
「日本経済新聞」2011/12/9 11:35
  強制執行妨害ほう助罪で罰金50万円の有罪が確定する弁護士、安田好弘被告(64)は9日までに「私は無実です」とのコメントを公表した。「いかなる法律にも違反していない。上告を棄却した(最高裁の)多数意見は明らかに事実を見誤っている。検察のメンツを立てつつ、弁護士資格も失われない罰金刑で一件落着という壮大な妥協判決だ」と批判した。
 
 
私に有罪・無罪を判断する能力はありませんが、有名弁護士を逮捕し、約10カ月間も勾留した挙句、最高裁までいって罰金50万円では、検察はむりやり逮捕・起訴したといわれてもしかたないでしょう。
 
それにしても検察はなぜ人権派弁護士を攻撃するのでしょうか。
人権派弁護士への攻撃といえば、坂本堤弁護士一家を殺害したオウム真理教を思い出します。
オウム真理教は内部に大蔵省、外務省、文部省などをつくって、国家と同じ組織体制にしていました。もちろんこれはニセ国家です。
安田弁護士を攻撃した検察はもちろん本物の国家の組織です。
しかし、手口は違うとはいえ、やっていることの方向性は同じです。
 
検察の考えていることには、どこか根本的な間違いがあると思えてなりません。
小沢一郎、堀江貴文、村上世彰(元村上ファンド代表)、鈴木宗男、佐藤栄佐久(前福島県知事)などの人々がいわゆる国策捜査の槍玉にあげられてきました。個々の事件がどれだけ犯罪性があったのかよくわかりませんが、これらの人の逮捕・起訴によって日本の活力がそがれてしまったのは間違いありません。
とりわけ堀江貴文氏の逮捕・起訴によって、若い世代にオピニオンリーダーといわれる人が出なくなってしまいました。
 
安田弁護士は死刑廃止派です。検察はそれが気に入らないのでしょう。司法官僚たちは日本を死刑大国にしたいのです。
しかし、これは明らかに間違った方向です。日本は治安がよく、安全な国です。これは世界に誇るべきことです(食の安全も誇るべきことだったのですが、原発事故でそれはできなくなりました)
しかし、死刑大国になってしまえば、日本は犯罪の少ない安全な国であると世界にアピールすることができません。死刑大国になると、アメリカや中国のような犯罪大国だと思われてしまいます。
 
マスコミも明らかに検察に追随して、死刑賛成の立場に立っています。
検察による安田弁護士の逮捕・起訴は、オウムによる坂本弁護士の拉致・殺害と同じではないかと、骨のある検察批判を展開するマスコミが出てきてほしいものです。

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