村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2012年01月

日本の教育の迷走ぶりはひどいものです。今は「ゆとり教育」から転換して、「学力重視教育」になっていますが、一般社会がそれほど学力を求めているとは思えません。学力が重要視されるのは学校の中だけです。一般社会は「やる気」や「創造性」を求めているのではないでしょうか。
「やる気」をはかるひとつのバロメーターに、海外へ留学する学生の数があるのではないかと思いますが、これは最近へる一方です。昨日の朝日新聞にも記事が出ていたので、貼り付けておきます。
 
海外留学生の数がへる理由はいろいろあるでしょうが、日本人全体が自信を失っているということが大きいのではないかと思います。
かつての日本人は経済力を誇り、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言っていた時代がありましたが、バブル後の長い経済停滞の中で、その誇りは失われました。そのため日本人はなにか誇りのタネを見つけようと必死です。
たとえば東京スカイツリー、はやぶさ、スーパーコンピュータ、なでしこジャパンが異様なほどにもてはやされるのも、そういう心理からでしょう。イチロー、本田、長友、香川などの活躍が注目されるのも同じでしょう。
マンガ、アニメなどを“クール・ジャパン”として世界に誇ろうという動きも同類だと思いますが、マンガ、アニメ自体が多様な表現媒体の中の一部にすぎないので、そんなにたいして誇れるものではありません。
 
2006年の教育基本法改正で「教育の目標」として「我が国と郷土を愛する」という文言がつけ加えられ、おおっぴらに「愛国教育」が行われるようになったのも同じ流れでしょう。
つまり日本に誇るべきものがあまりなく、このままでは愛国心がなくなってしまうのではないかという危機感が愛国教育を行わせるわけです。
もっとも、愛国教育といっても、なにか内実のあることができるわけではありません。そこで、もっぱら国旗国歌の崇拝(の強制)ということが行われるわけですが、所詮はむなしい行為で、すればするほど日本には誇るべきものがないという思いを強めてしまいます。
つまり、日本人の海外留学生の数がへってきたのは、愛国教育もひとつの原因になっていると思われるのです。
 
日本の若者に国際性を身につけさせようとすれば、愛国教育の逆をやらなければなりません。つまり、人格と国を切り離すのです。そうすれば、いくら日本に誇るものがなくても自分は関係ないわけで、自分自身に誇るものがあればいいということになります。
バブルのころ、OLは海外旅行ばかり行くといって揶揄されていましたが、概して女性のほうが海外旅行に積極的です。海外留学についてもそうでしょう。女性は国家意識が希薄な分、海外でものびのびとできるのです。
 
「日本人の誇り」を植え付けることで海外で活躍できる人間をつくろうという路線もありそうですが、かりに「日本人の誇り」を持った日本人をつくることができても、そういう日本人はいやみな存在なので、歓迎されません(もちろん「アメリカ人の誇り」を持ったアメリカ人、「中国人の誇り」を持った中国人も同じです)。これは植民地主義時代の発想でしょう。
 
国際化の時代、日本は愛国教育から国際教育に転換しないといけません。
 
 
内向き日本、海外留学尻込み 04→08年、2割減
 海外留学する日本人学生が減っている。不況や就職難などが相まって「内向き」志向が進んでいる。一方、海外展開に軸足を移す国内企業は、海外で通用する人材を求める姿勢を強めている。国や自治体などは、新たな対策に乗り出した。
■企業は世界採用を強化
 ピーク時の45%。かつて世界一だった米国への日本人留学生数は激減した。
 米国際教育研究所によると、2010年度の日本人留学生は2万1290人で前年度より3552人(14%)の減。最多の1997年度より約2万6千人も少ない。最も多かった中国の14%しかなく、国別順位では、サウジアラビアにも抜かれて7位に転落した。
 トップレベルの大学の例をみても、減少傾向は顕著だ。ベネッセコーポレーションの調査によると、米ハーバード大に入学した日本人学生は、10年度は100人で、00年度より58人(37%)減った。同じ期間に、中国、インド、シンガポールは倍増している。同じ先進国でも、ドイツは7割近く増えている。
 減少傾向は米国に限らない。文部科学省の直近の調べでは、米国も含む海外大学への日本人留学生数は6万6833人(08年)。ピークだった04年より2割減った。
 昨今の円高で回復の兆しもある。留学支援会社の留学ジャーナル(東京)が昨年、全国で相談を受けた大学生は前年より14%増えた。「厳しい就職事情の中、企業へのアピール材料として留学を目指す学生が増えた」と担当者。だが、その多くは1カ月程度の短期留学だという。
 若者にとって、海外へのハードルは何か。産業能率大が10年に全国の新入社員400人に尋ねたところ、「海外勤務を希望しない」が49%。01年より20ポイントも増えた。理由は、リスクが高い(56%)、能力に自信がない(55%)など。「海外勤務に積極的になる」と思う対策を尋ねると、語学研修(58%)が最多で、言葉の壁にぶつかっている様子がうかがえる。
 民間シンクタンク・大和総研の原田泰顧問はこう指摘する。「今の生活水準に満足し、国内で働ける技量さえ身につければいいという考えが広まっている。しかし、企業側は、人口減少で市場が縮む日本から海外へ軸足を移している」
 パナソニックは今春、グループ全体の新規採用1450人のうち8割近くを海外の現地採用とする。「海外展開をさらに進めるという方針に沿う形」と広報担当者は話す。ローソンは日本で学んだ外国人留学生の採用を08年から始め、全体の2~3割を占める。「社員の多様化が狙い。海外出店でも役立つ」という。
■国、奨学金で後押し
 こうした中、国や自治体は、海外留学の後押しに力を入れようとしている。
 文科省は新年度予算案で、海外留学する大学生に支給する奨学金の総額を今年度の1.6倍となる約31億円に増やし、対象人数も1.2倍にした。外国語による会話や論文作成の力をつける大学教育の充実などのため、新たに50億円の予算も盛り込んだ。
 高校のうちから海外に目を向けさせる施策も目立つ。高校生300人の留学経費を支援するため、約1億2千万円を計上。対象人数を今年度の6倍に増やした。同省によると、3カ月以上の海外留学をする高校生は、04年度の約4400人から08年度は約3200人に減っている。
 東京都教育委員会も都立高校の生徒150人を留学させるため、新年度予算案に約1億9千万円を計上した。経費の一部を公費で負担する計画だ。20年までに延べ3千人の留学を目指している。
 京都府教委も新年度、府立高校生が1カ月ほど留学する経費の一部を補助する制度を始める方針だ。担当者は「就職活動に追われて留学に目が向かない大学生が多いと聞く。高校で動機付けをする経験が必要だ」と話している。(岡雄一郎)
「朝日新聞デジタル」20121290300
 

海外旅行をして、改めて日本のよさを認識して、愛国心に目覚めたという人がいます。会ったことはありません。よくそういう文章を読みます。
そういう人もいるのかと、これまでスル―していましたが、よくよく考えるとへんです。日本は豊かで、治安がよくて、細かいところまで心遣いが行き届いた国ですが、そんなことは海外旅行をしなくてもわかっているはずです。
 
もちろん行って初めてわかることもあります。たとえばこの前、フジテレビの「世界行ってみたらホントはこんなトコだった」でベトナムでの道路の渡り方というのをやっていましたが、ベトナムは信号や横断歩道が少ないので、バイクと車が大河のように流れる道路を歩いて渡らなければならず、文字通り命がけです。ベトナムは極端としても、たいていの国は交通マナーが悪いです。赤信号でも歩行者はどんどん歩いていきます。また、その国の独特の交通ルールがあるので、それが飲み込めないうちは、かなり危険な思いをします。
ですから、交通マナーや交通ルールひとつとっても、日本のよさを再認識するということはありえます。
しかし、私は“日本のよさ”を再認識するよりも、その国の日本と違うあり方を認識することに夢中になってしまいます。
たとえば、ベトナムでの道路横断にしても、慣れてくるとコツがわかってきます。いくらバイクや車が走ってきても、ゆっくりと一定のスピードで歩いていけば、バイクや車のほうがよけてくれるのです。こちらが車をよけようとすると、逆に危険なことになります。それがわかると、けっこう平気で渡れるようになりました。
こうした経験ができることも海外旅行のおもしろさです。
そのおもしろさを味わっていれば、“日本のよさ”について思考をめぐらせるということはありません。
 
私が思うに、海外旅行にいって改めて日本のよさを認識したという人は、海外に行ったものの現地になじめず、心を閉ざして、なにも学ばなかった人なのではないでしょうか。
たとえばベトナムに行った人が「ベトナムはどうでしたか」と聞かれて、悪口しか言えないのでは格好が悪いですから、「ベトナムに行ったおかげで日本のよさを再認識しました」と言うわけです。
 
そもそもベトナムと日本とどちらがよいかなどという発想自体つまらないことです。
文化人類学者は未開社会を研究するとき、近代西洋文明とどちらがよいかという発想を排除します。これを文化相対主義といいます。そうでなければ対象を正しく研究できないからです。
海外旅行にいく人も、日本とその国とどちらがよいかなどという発想は排除して、その国のありのままの姿を見てきたいものです。
 
 
ところで、海外留学に行って外国で何年か生活した人でも、その国になじめない人がいます。これは日本人にありがちな欧米コンプレックスのせいと思われますが、こういう人も外国生活によって日本のよさを再認識し、愛国心に目覚めたりします。
このことは「ナショナリズムの克服」(姜尚中・森巣博共著)の中で森巣博氏が語っています。
たとえば江藤淳、西尾幹二、藤岡信勝、藤原正彦といった人たちです。この人たちが異様に“日本”にこだわるのも、留学生活で外国になじめなかったからでしょうか。
そうだとすると、この人たちの思想も薄っぺらなものだということになります。
 
私は、外国に行ったら誰もが外国になじむべきだと主張しているわけではありません。外国になじめない人がいてもしかたありません。“国際人”になれるのは日本人でもごく一部の人でしょう。
ただ、外国に行って、その国になじめなかったのを、「日本のよさを再認識した」などと言ってごまかすのはよくないことだと言いたいわけです。

ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結したとき、新聞のインタビュー記事に右翼団体代表が登場し、今後右翼は目標を失うのではないかと質問されて、いや、今後は「道徳国家の建設」が目標になると答えていました。
どうして右翼が「道徳国家の建設」と言ったのか不思議に思いましたが、満州国の建国の理念が「五族協和の王道楽土」だったので、それを踏まえたのか、あるいは教育勅語の復活みたいなことを考えていたのでしょうか。
 
私は「道徳国家の建設」などありえないことだと思いましたが、今になってみると、この右翼の発言はなかなか鋭いところをついていたかもしれません。
つまり、冷戦が終結して、右翼と左翼という対立図式が無意味になったとき(まだそう思っていない人がたくさんいますが)、道徳についてどう考えるかということが新しい対立図式として浮上してきたと思えるからです。
 
「道徳国家の建設」が目標だということは、道徳によってよい国をつくることができ、道徳教育でよい人間をつくることができると思っているのでしょう。こう思う人はもちろんいます。というか、この考え方は世の中のタテマエとして存在しています。
その一方で、道徳ではよい国をつくることはできないし、道徳教育でよい人間をつくることはできないと思う人もいます。こちらのほうが多数かもしれませんが、これはタテマエに反するホンネなので、声高に主張されることはありません。
このタテマエとホンネの対立が表面化してきた――と言いたいところですが、まだそこまでにはなっていません。ただ、タテマエの暴走が始まったのは確かです。
私はこれを道徳原理主義と呼んでいます。
 
たとえば、ツイッターやブログでカンニングをしたとか万引きをしたとか書いた人がいると、それに対する猛烈なバッシングが起きます。過去にはテレビで万引きを告白したタレントや、イタリアの大聖堂に自分の名前を落書きした女子大生が大バッシングを受けました。犯罪や悪事の動かぬ証拠があると、安心して人を非難できるということで、大勢の人が集まってくるのです。こうした人は、自分は道徳的な行為をしているのだと思っています。
 
また、法務大臣が死刑執行を行わないと、バッシングが起きます。これも冷戦終結後に顕著になった傾向です。それに、少年法が厳罰化へと改正され、刑事事件の時効が廃止・延長されたりしました。こうした厳罰化を求める世論が高まったのも道徳原理主義だといえます。
ちなみに、死刑によって犯罪が減少するという根拠があるわけではなく、時効の廃止・延長にしても功利主義的には疑問でがありますが、道徳原理主義なのですから、そういうことはどうでもいいわけです。
 
小泉首相は、抵抗勢力という悪役をつくり上げてバッシングするという手法で人気を博し、郵政解散による総選挙のときは普段投票に行かないような人たちも投票所に足を運びました。現在の橋下徹大阪市長も、公務員などを悪役にしてバッシングすることで人気を博しています。
 
9.11以降、アメリカが「テロとの戦い」に突っ走っていったのも、テロリストが悪で、それをやっつけるアメリカは正義だという認識によるもので、これも道徳原理主義だといえるでしょう。
 
 
どうしてこうなったかというと、ひとつにはやはりマルクス主義の破産ということがあると思われます。マルクス主義では道徳はイデオロギーのひとつとして批判的にとらえられていましたが、今では道徳を総体として批判する思想はなくなってしまいました(ニーチェ思想はそれに近いところがあるかもしれません)。
それに加えて、インターネットの掲示板やテレビの討論番組で善悪や正義をめぐる議論が活発化したということがあるでしょう。そうするとどうしても議論が極端に走ることになります。
 
実際のところ、道徳はできたときからの欠陥車のようなものです。スピードを出すと悲惨な事故を起こすことになりますから、これまで人類はだましだまし、それでもあちこちぶつけながら、道徳という欠陥車を運転してきたのです。
その中で人類は、正義を徹底して追求してはいけないとか、悪を徹底して排除してはいけないということを学んできました。ただ、なぜそうなのかを根拠づけることができないので、これは“おとなの知恵”とか“生活の知恵”みたいなものです。
しかし、インターネットなどのメディアが発達し、激しい議論が行われるようになると、こうした論拠のない“おとなの知恵”とか“生活の知恵”は無視されがちになり、道徳原理主義に走るようになったのです。
 
ですから、これからの思想的課題は、道徳の欠陥を理論的に解明して、道徳原理主義を止めることといえます(もっとも私はそれについてさんざん書いてきているのですが)。

橋下徹大阪市長の強みは、なんといってもテレビで鍛えた論争術でしょう。
東京に住んでいる人は、橋下氏のテレビ出演といえば「行列のできる法律相談所」しか思い浮かばないかもしれませんが、関西にはトーク番組がいっぱいあり、中でもやしきたかじん氏の番組では時事問題についてきびしいやり取りが行われ、橋下氏はそうした場で経験を積んでいたわけです。ですから、当意即妙の反論などはお手のもので、学者も橋下市長を相手にするとなかなか論争に勝てません。
 
テレビ番組における論争というのは、とりあえずその場で説得力を持たせるというのがたいせつですが、最終的にその論争の勝ち負けを決めるのは視聴者、つまり一般大衆です。
ですから、むずかしいことを言ってはいけませんし、正しいことを言ったほうが勝つわけでもありません(もちろん間違いを指摘されたら負けますが)
では、なにを言えば勝つのかというと、一般大衆を喜ばせることを言えばいいわけです。
一般大衆はなにを喜ぶのかというと、それはエンターテインメント映画を見ればわかります。
エンターテインメント映画は基本的に、最後は悪人を大々的にやっつけて正義のヒーローが勝利するという構造になっています。正義のヒーローが戦う理由はさまざまで、たとえば誘拐犯から人質を救出しようとする場合、こっそり救出しても目的は達するわけですが、そんなエンターテインメント映画はありません。実は人質救出は名目にすぎず、誘拐犯を徹底的にやっつける快感を味わうことを観客は求めているからです。
 
「人助けは名目で、悪人をやっつける快感が目的」というのは、テレビ討論においても同じです。
たとえば、貧困層のためにセーフティネットを手厚くしないといけないと主張する人と、生活保護の不正受給者にきびしく対処しないといけないと主張する人がいた場合、どうしても後者が一般受けすることになります(この両者の主張はどちらも間違っていなくて、論争としてはかみ合っていないのですが)
死刑賛成派と死刑反対派が論争した場合も、どうしても賛成派が有利になります。橋下氏はもちろん死刑賛成派ですが、単に凶悪犯を死刑にしろと主張するだけでなく、死刑反対の弁護団に対する懲戒請求を行うよう一般に呼びかけるというところまで踏み込みます。これには弁護団に逆に訴えられるなど反発の動きも大きかったのですが、橋下氏は自分の主張が大衆に支持されているという自信があるので、訴えられても動じません。
 
政治家となってからの橋下氏は、次々と“悪いやつ”をやっつけることで人気を博してきましたが、このやり方はテレビ出演の中で学んだという面も大きいでしょう。
問題は、“悪いやつ”がほんとうに悪いやつかどうかですが、この点の橋下氏の判断力はまったく信用できません。というか、今の時代に正しい判断力を持った人はまずいません。
というのは、橋下氏であれ誰であれ、道徳に基づいて誰が“悪いやつ”かを判断するわけですが、今の道徳は根本的に間違っているので、この判断は必然的に間違ってしまうのです(今の道徳のなにが間違っているかというと、道徳の中に愛情や思いやりがないのです。「愛情や思いやりがない」と非難することはありますが)
このことは誰でも体験的に知っています。正義を徹底して追求し、“悪いやつ”をどこまでもやっつけていくと、より悪い事態を招くことになるのです。ですから、正義の追求はほどほどにしようという“おとなの知恵”があるわけです。
 
しかし、エンターテインメント映画にそんなものはありません。橋下氏の今までの言動を見ていても、そんなものはないようです。正義のヒーロー路線を突っ走っています。
今のところ、既得権益者をたたくということがメインになっているので、マイナスよりはプラスのほうが大きいと思いますし、これから中央省庁の官僚をたたいてくれればいいなと私は思っているのですが、果たしてその方向に行ってくれるかどうかわかりません。
かりにすべてうまくいっても、そのあとは“虐殺しないポル・ポト”みたいなことになっていくでしょうから、それもおそろしいことです。
 
橋下氏に「正義の追求はほどほどに」ということを理解させることができるでしょうか。たぶんできないと思います。“おとなの知恵”を身につけた橋下氏は人気を失ってしまうからです。
 
どこかで壁にぶつかって止まるのを待つしかありません。
 
 

世の中にはいろいろな対立関係がありますが、その中でもっとも重要で、かつ意外と認識されていないのが世代間対立です。世の中の混乱は、世代間対立ということに焦点を当てて見てみると、意外と簡明に理解できたりします。
 
たとえば、私は全共闘世代ですが、あの全共闘運動も世代間闘争だったのだと考えるとよくわかります。
全共闘運動というのは、表面的には左翼思想で動いていたし、中心にいたのは過激な左翼党派だったわけですが、左翼思想だけであんなに盛り上がるわけがありません。左翼思想はむしろ若者の反抗を理由づけるのに利用されただけです。
 
若い世代が年寄り世代に反抗するというのはいつの時代にもありますが、戦後30年ぐらいの期間は、核兵器の登場、人工衛星打ち上げ、冷戦激化、高度経済成長、ベビーブーマー世代の登場など、人類の歴史上でもっとも変化の激しかった時代でしょう。年寄り世代はこうした変化についていけないので、若い世代からすれば古くさく見え、必然的に対立が激化します。たとえばビートルズひとつとっても、若い世代は圧倒的に支持していましたが、古い世代のほとんどは「あんなものは音楽ではなく騒音だ」などと言っていました。そうしたところにアメリカで若者によるベトナム反戦運動が激化し、それが世界に報道されます。また日本では日大闘争などさまざまな大学闘争が起こり、それも世界に報道され、ヨーロッパでも若者の反乱が起こり、中国では共産党内の政治闘争から生まれた紅衛兵がおとなをつるし上げます。それらは互いに影響し合って「アラブの春」ならぬ「若者の春」といえる状況をつくりだしたのです。
 
その背景にあったのは、いつの時代にもある、おとな世代による若者世代の抑圧です。おとなは既得権益者で、若者は新規参入者です。社会においても学校においても、若者はおとなの基準に合わせることが求められます。
 
しかし、おとなに反抗した若者もいずれおとなになり、今度はおとなとして若者を抑圧する側となります。人類の歴史において、ずっと同じことが繰り返されてきたわけです。
 
全共闘世代が社会の中心的存在となったとき、団塊ジュニア世代が親世代への反抗を理由づけるのに利用したのが右翼思想です。親の世代が左翼思想なので、必然的に自分たちは右翼思想で対抗することになります。もちろん共産圏の崩壊という背景があり、そこに小林よしのり氏の「戦争論」が出版されるというきっかけもありました。
 
もちろん左翼と右翼は世代と関係なく対立している部分がありますが、世代間対立のほうがより大きな対立として存在し、それに左翼思想や右翼思想が利用されているという部分があることも忘れてはなりません。
 
 
現在、政治の焦点となっているのが橋下流の政治手法をどう評価するかということですが、これについても世代間対立が大きな要素になっていることを見逃してはいけません。
橋下氏の政策や方針は単純にひとつの思想としてまとめることはできません。競争至上主義、新自由主義、劇場型政治などという面もありますが、一方で反原発、反電力会社ですし、情報公開も徹底してやっていますし、国の出先機関の廃止では国にかみついています。
これをあえてひとつのカテゴリーにおさめるとしたら、「既得権益者との戦い」ということになるでしょうか。
自治労や教育委員会も既得権益者と見ると、橋下氏のやっていることが明白になります。
そして、若い世代が橋下氏を支持し、年寄り世代が反橋下になっているのも理解できるでしょう。右翼であれ左翼であれ、年寄り世代は既得権益者であるからです。
 
たとえば、内田樹氏は左翼といってもいい人でしょうが、反橋下の立場を表明しています。しかし、その主張はちょっとへんです。
 
 
橋下さん(徹・大阪市長)は何もできない、それでも投票する有権者――内田樹・思想家
行政機構の非効率とか二重行政についても、同じ機能を持つ施設や機構が複数あることで、災害とか事故のときにシステムクラッシュを避けるリスクヘッジができる。「大阪の危機」を唱える人たちが、リスクマネジメントを考えないのは不思議だ。
 
 
いくら反橋下を訴えたいにしても、行政機構の非効率や二重行政を肯定するような主張をしてはだめでしょう。
内田樹ともあろう人がなぜこんなおかしな主張をしてしまうのかというと、よほど感情的になっているからと思われます。
なぜ感情的になってしまうかというと、結局のところ世代間対立に巻き込まれて、しかもそのことに無自覚だからでしょう。
 
私も年寄り世代ですから、橋下氏の矢継ぎ早に問題提起をするやり方にはついていけない感じがありますが、これは世代間の対立だと思っているので、若者世代の立場に立って考えるようにして、自分の感覚を修正しています。
 
思想対立より世代間対立のほうがより重大であるという観点から世の中を見ると、いろんなことがよく見えてきます。

146回芥川賞の発表があり、円城塔さんと田中慎弥さんが受賞しましたが、田中慎弥さんは高校卒業後一度も働いたことがないということで、“ニートの星”と言われているそうです。また、その記者会見の様子が不機嫌そうで物議をかもしています。
 
田中さんの記者会見のやりとりの全文はこちら。
 
ネットの掲示板では「中二病」ではないかなどと言われているそうですが、その批判は的外れでしょう。おかしなことは言っていません。やや傲慢と思われることは言っていますが、田中さんはすでに川端康成文学賞と三島由紀夫賞を受賞している実績があり、芥川賞は5回目の候補作での受賞です。「もっと早くよこせよ」という気持ちがあって不思議ではありません。
記者会見においてはある程度のサービス精神を発揮することが期待されますが、田中さんとしては出たくて出ているわけではないので、サービス精神がないといって批判するのも筋違いです。
 
ともかく、学校時代イジメにあい、高校卒業後は引きこもり生活になって、ひたすら小説を書いて、なんとか世の中の表舞台に出てきたというのは、今の時代のひとつの典型のような人です。
ちなみに第144回芥川賞を受賞した西村賢太さんは中卒フリーターということで話題になりました。キャラが立っているので、最近はテレビのバラエティ番組で見かけたりします。
こうしたニートやフリーターに光が当たり、その人たちの生活と意見を世の中に知らしめる役割を文学が果たしているというのは、文学の存在価値のひとつとはいえるでしょう。
 
もっとも、私は田中さんや西村さんの作品を読んではいません。受賞が決まるまで名前も知りませんでした。昔は芥川賞と直木賞は、候補作が決まったという小さな新聞記事に必ず目を通して、歴代受賞者もすべて頭に入っていましたが、最近は突然芥川賞・直木賞の発表をテレビで知ります。また、ここ数年の受賞者の名前もほとんど頭に入っていません。
これは自分が年を取ったからというしかありません。昔の作家は知っていますが、最近出てきた作家のことは知らないのです。
 
20代のころは、毎週の流行歌のヒットチャートは頭に入っていました。今はどんな曲がヒットしているのかぜんぜんわかりません。年を取るとはこういうことです。
 
ですから、小説のように感性の要素の強いものは、年寄りが若い人の作品を評価するときは慎重でなければなりません。
 
そこへ石原慎太郎氏が芥川賞選考委員を辞任するというニュースが飛び込んできました。石原氏もさすがにおのれを知ったかと思ったら、辞任の理由がなんだか違うようです。
 
 
石原知事、芥川賞選考委員を辞任の意向 「刺激がない」
東京都の石原慎太郎知事は18日、自身が務めている芥川賞の選考委員について「もう辞める。全然刺激にならないから」と記者団に語った。今回限りで辞任する考えだという。
 
 理由については「若い人に期待してきたけど、もうちょっと自分の人生、文学にとって刺激を受けたい。若い人に足をさらわれるな、と緊張感を覚えさせてくれている作品がない」などと述べた。石原知事は6日の記者会見でも、今の若い作家に欠けているものを問われ、「自分の人生を反映したリアリティーがない。馬鹿みたいな作品ばっかりだよ、今度は」などと話していた。
 
 芥川賞を主催する日本文学振興会によると、石原知事は1995年下半期から選考委員を務めてきた。同振興会は「選考会の中で辞意ともとれる発言があり、近日中に話し合いましょうということになった」としている。(asahi.com 20121181849)
 
 
自分の感性が鈍化したことを棚に上げて、言いたい放題です。
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていたそうですが、この言葉も石原氏には薬にもなりません。
 
とはいえ、あらゆるジャンルにおいて、老人が自分の感性を棚に上げて、新しい作品を否定するということは行われています。小説の世界においては、最終的に読者の支持を得る、本が売れるということで評価が決まりますから、老害といってもそれほど実害がないのは幸いです。
 
石原氏の「(若い作家の作品は)馬鹿みたいな作品ばっかりだよ」という発言を聞いて喜ぶ老人も世の中には多いと思われます。正しく年を取るのはむずかしいものです。

病院の待合室にいたら、南欧の港町にいるさまざまな猫を映した環境ビデオが流れていて、その中に路上で猫と犬が並んで寝ているシーンがありました。そういえば、私もトルコで寝ている犬の横に猫がいるのを見たことがあります。日本でも、犬が散歩しているすぐ近くで猫がのんびりとしている光景が見られます。
 
しかし、もともと猫と犬は仲が悪いと決まったものです。仲が悪いことのたとえを日本語では「犬猿の仲」といいますが、英語では「犬猿」ではなく「cats and dogs」といいます。
 
父親が犬好きだったので、私が子どものころ家にはシェパードやコリーやブルドッグがいました。小学生がシェパードやコリーのような大型犬を散歩させるのはたいへんです。引っ張られると力負けします(犬は自分のほうが私より位が上だと思っていたのでしょう)
とくに困ったのが、散歩中に猫と出くわすことです。猫はシェパードと喧嘩しても勝てるわけがないと思うのですが、しばしば塀の上から毛を逆立てて威嚇してきます。当然、シェパードは吠えかかるので、猛烈に引っ張られます。
当時の猫も犬も気性が荒く、そのため文字通り「cats and dogs」の仲だったのです。
 
当時は、キャットフードというのがありませんから、飼い猫はご飯にカツオ節をまぶした猫まんまなどを食べさせられていました。ということは、猫は自分でネズミなどを捕って栄養補給をしていたのです。ですから、当然気性が荒くなります。
犬も、室内飼いされるのは小型犬だけで、普通は番犬として戸外で飼われていました。不審な人間には吠えかかることが期待されていましたから、気性が荒いのも当然です。
 
しかし、現在は猫と犬がいがみ合う場面はほとんど見られません。猫も犬もおとなしくなったからです。猫同士も、昔は毛を逆立て背中を丸めてうなり声を上げて威嚇し合うというシーンがよく見られましたが、今の猫はほとんど毛を逆立てることがありません。
動物というのは本能に従って生きているのだから、いつも同じ生き方をしているはずだと思う人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。四、五十年で大きく変わってしまうのです。
 
猫がおとなしくなった理由のひとつは、完全栄養食のキャットフードが普及したことです。そのため猫はほとんどネズミなどを捕らなくなりました。
私は今、猫を一匹飼っていますが、この猫は若いころはネズミやセミやスズメなどをよく捕ってきました。しかし、捕ってくるだけで食べることはありませんでしたし、ネズミにとどめをさすことができませんでした(ネズミは私が逃がしてやりました)。本能だけではネズミにとどめをさすことはできないようです。最近は年をとってきたせいか、めったになにかを捕ってくることはありません。
昔、猫を飼う目的のひとつはネズミを捕らせることでした。しかし、今そんな目的で猫を飼う人はまずいないでしょう。ほとんどが愛玩目的ですし、その分猫をたいせつにしますから、猫の気性もやさしくなるはずです。
また、キャットフードで生きているので、縄張り争いも真剣にする必要がなくなります。それも猫の気性が変わった理由でしょう。
 
犬の場合は、昔はなかった犬種がふえましたし、同じ犬種でも品種改良によって性格がおとなしくなっている傾向がありますから、戸外で勝手に繁殖している猫とは事情が違います。それでも、やはり室内飼いが多くなり、飼い主からいつもかわいがられているために、昔より気性がおだやかになったということはいえるでしょう。
 
そのため、今は猫と犬が出会っても、なにごとも起こりません。
アメリカではどうなのでしょうか。「cats and dogs」は死語になっているのでしょうか。
 
 
猫や犬でもこんなに気性が大きく変わるのですから、人間の気性も変わってきて当然です(人間の気性が変わったことが猫や犬の気性が変わった一因になっているのはもちろんです)
 
私が子どものころ、人間(とくに男ですが)は今よりもはるかに荒々しく、よく喧嘩をし、よく犯罪もしていました。盛り場でちょっと肩がぶつかったことがきっかけで喧嘩になるなどということは日常茶飯事でした。
このことは犯罪統計を見れば一目瞭然でしょう。
「少年犯罪は急増しているか」というサイトがあるのでリンクを張っておきます。少年犯罪以外もグラフになっているので、これがいちばん見やすいようです。
 
昔の人間のほうが気性が荒かった最大の理由は、昔は軍隊を経験した男が多かったですし、軍隊に行かなくても行くことを前提に誰もが教育を受けていたからでしょう。つまり、男が軟弱であることは許されなかったのです。
しかし、世の中は平和になり、豊かにもなりましたから、当然男は軟弱になっていきました。
そして、当然凶悪犯罪や粗暴犯罪もへりました。
 
しかし、多くの人は最近は凶悪犯罪がふえ、治安が悪くなったと思っています。
マスコミにおいて犯罪報道は優良コンテンツなので、犯罪報道は大げさになりがちですし、警察においても治安が悪化したと思わせたほうが予算獲得に有利になるということも一因です。
 
とはいえ、統計はそうではないことを示していますし、このことはインターネットなどでよく指摘されます。
 
そこで、誰が考えたのか、「体感治安」という言葉がつくられました。
つまり、「統計では犯罪はへっているかもしれないが、体感治安が悪化しているのは事実だ」などというわけです。
 
「体感温度」が実際の気温と違うのは、風と湿度と日当たりで説明できます。しかし、「体感治安」が実際の治安状況と違う理由は誰も説明しません。
 
ということで、私が説明しましょう。
「体感治安」が悪化しているのは、私たちが軟弱になり、犯罪や暴力に対する耐性が低下しているからです。
言い換えれば、私たちは犯罪過敏症になっているのです。
 
昔、盛り場で肩がぶつかったことがきっかけで喧嘩になり、怪我したり、打ちどころが悪くて死んだりしても、ありふれたできごととして、めったに新聞記事にもなりませんでした。しかし、今同じことがあれば、マスコミは大きく取り上げるでしょうし、私たちも大きな出来事だと思うでしょう。それは、犯罪に対する私たちの感性が変化したということなのです。
 
私たちが世界が変わったと思うとき、実際に世界が変わっている場合もありますが、私たちの感性が変わっている場合もあります(実際には両方が変わっていることが多いでしょう)。しかし、私たちは自分の感性が変わっているという可能性になかなか気づきません。
そんなとき、人間と動物を比較するのがひとつの有効なやり方です。

東京大学大学院教授の佐倉統氏は進化生物学を中心に科学全般から文系までを視野に収める気鋭の学者で、私は佐倉氏の本から多くのことを勉強させてもらっています。NHKEテレビの「サイエンスZERO」にも出演しておられるので、ご存じの方も多いかと思います。
佐倉氏の「科学の横道」(中公新書)という本を読んでいたら、作家の堀江敏幸氏との対談の中におもしろいくだりがありました。
 
 
堀江 たとえばこの間、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」という短いテキストを大学の授業で読んだんです。温泉が外傷の治癒にどれだけ効能があるのかを、ある研究者がネズミを使って実験するという話で、データの解析に悩んだその研究者が、語り手である中谷宇吉郎に相談してくる。で、あいだを飛ばすと、解析法にはめどがたって、そのあとこの実験のために、ネズミたちは温泉に連れて行かれるんですね。助手たちが200匹ぐらいのネズミをかごに入れて運び、実験のための傷をつけて、順番に温泉につからせる。ところがデータとはべつに出た結論は、ネズミは温泉が好きである、ということなんです(笑)。みんな目をつぶって気持ちよさそうにしているというんですよ。
佐倉そういう部分が面白いんですよね。研究のなかの余白の部分というか。
 
 
ネズミが気持ちよさそうに温泉につかっている絵が脳裏に浮かんで、思わず微笑んでしまいます。
もちろん、ネズミはほんとに気持ちよいのかという問題はあります。ですから、佐倉氏は「そのときの血圧や心拍を測るなりして、その気持ちよさをできるだけ客観的に探っていくのが科学なんですが」とも語っておられます。
 
とはいえ、ネズミが気持ちよさそうにしていると感じる感性はだいじなことです。そして私は、もしかしてこういう感性を持っているのは世界でも日本人くらいではないかと思いました。
つまり、これには国民性が関わっているに違いないのです。
 
たとえば、「『甘え』の構造」で有名な土居健郎氏が「甘え」について考えるようになったきっかけは、アメリカ留学中、アメリカ人の患者がアメリカ人の精神科医に甘えの態度を示しているのに精神科医がまったくそれに気づいていないのを見たことです。つまり、アメリカ人も甘えることはあるのですが、それを甘えであると認識する感性をアメリカ人は持っていないようなのです。
 
日本人は風呂好きです。自分がお風呂につかると気持ちいいので、ネズミも同じだろうと考えます。
しかし、世界には風呂好きでない国民も多いのです。
少なくともヨーロッパやアメリカでは、お風呂よりはシャワーですましてしまうことが多いようです。温泉はあっても、多くは病気を治すために利用されていて、温泉そのものを楽しむという文化もないようです。
もっとも、古代ローマ人は大の風呂好きで、ヨーロッパや北アフリカのあちこちに大浴場の遺跡が残っています。同じ土地に住んでいる今の人たちが風呂好きでないのは不思議な気がします(おそらくキリスト教の禁欲主義のせいでしょう)。ちなみに「テルマエ・ロマエ」という人気マンガは、古代ローマ人と現代日本人を世界の二大風呂好き国民として描いています。
ですから、風呂好きでない国民性の人が、温泉につかって目をつぶってじっとしているネズミを見たとき、それを気持ちよさそうだとは認識しない可能性が大です。意識レベルが低下しているとか、硬直しているとか思うかもしれません。
 
また、日本人は昔から動物と人間をそれほど区別しません。「生きとし生けるものいずれか歌を詠まざりける」という歌がありますし、シカの発情する声に自分の恋心を重ね合わせるということもあります。
こうした文化があるから、ネズミは温泉が好きだという発想も自然に出てくるのです。
 
ちなみにニホンザルのイモ洗い行動を観察して、動物にも“文化”があるということを世界で初めて明らかにしたのも日本人です。
また、仙台周辺のカラスがクルミの実を道路に置いて、自動車にひかせて殻を割るというカラスの“文化”があることを報告したのも日本人です(このとき、欧米からはそれは偶然のことではないかという反論があったそうです)
人間に文化があるのだから、動物にも文化があって当然だというのが日本人の発想です。
 
欧米人は人間と動物を画然と区別します。人間は理性、知性、精神、魂、良心、良識、道徳性などを持つ特別の存在だと思っているのです。
そのため進化論がなかなか受け入れられませんでしたし、進化論を受け入れる人も、人間の精神は別だと考えていることが多いようです。
欧米人の動物愛護のやり方も、日本人の目には、上の立場から一方的に愛護するというふうに見えて、違和感があります。
最近、欧米では大型類人猿には(人間と同様の)人権を認めるべきだという過激な主張が出てきていますが、これなども人間と動物を画然と区別するがゆえに出てきた極論です。
 
人間が正しい自己認識を得るには、人間と動物の関係を正しく把握することは当然の前提となります。その点、日本人は欧米人よりも圧倒的に有利な立場にあるといえます。
日本人はやたら欧米の思想をありがたがりますが、今後、欧米の思想はひとまとめにして捨てられ、日本発の思想が世界を覆うようになっても少しも不思議ではありません。

私が初めて就職したとき、困ったのは職場にいやな人間がいることでした。
いやな人間といっても、なにも特別な人間ではありません。私と相性が悪いというだけのことです。
学校なら、いやな人間とはつきあわなくてもかまいませんが、職場ではそうはいきません。もちろん、表面的なつきあいをしておけばいいわけですが、ただ身近にいやな人間がいるだけで不愉快な気分になってしまいます。
このへんはよくいえば繊細、悪くいえば小さなことにくよくよする性格です。
 
あんなやついなくなればいいのにと思いますが、いくら思ってもいなくなるわけではありません。そこで、心の中でその人間をバカなやつだ、自分勝手なやつだ、がさつなやつだ、調子のいいやつだなどと徹底的に否定しますが、そう思うこと自体が不愉快ですし、毎日そういう感情にとらわれているのはわれながら情けないことです。
そこで考えたのは、このいやな人間を徹底的に理解して、自分の中に取り込んで同化してしまえば、不快な感情はなくなるのではないかということでした。
 
そのとき思い出したのが、子どものころ目刺しをよく食べさせられたことです。
今の若い人は、目刺しを食べたことがないという人も多いかもしれませんが、要するにイワシの干物で、昔は安い庶民的な食品としてよく朝食などで食べられていました。もともとあまりおいしくない上に、頭の部分はほとんどが骨なので、とくにおいしくありません。ですから、私が頭の部分を残していると、父親は頭にカルシウムが多いのだから頭も食べろと言います。
私はしかたなく頭も食べましたが、どうせ食べるならと、頭から食べるようにしていました。そのことを思い出したのです。
 
いやな人間というのは、目刺しと同じように自分にとって栄養のあるもので、どうせ食べるなら頭から食べてやろうと思ったのです。
具体的には、いやな人間のいちばんいやな部分をよく観察しました。そうして観察していると、いやな人間がいやな人間であるのはそれなりの理由があるということがわかってきます。そうすると、それほどいやな気がしなくなるのです(もともと自分の感情がへんだったともいえます)
 
そうしたやり方を続けていると、いやな人間と思うことが少なくなり、会社にいることがそんなにいやでなくなり、けっこう気楽にサラリーマン生活が送れるようになっていきました。
 
いやなものはむしろ自分にとって栄養のあるものだから、頭から食べてしまって自分の中に取り込むというやり方は、いろんなことに応用ができます。
たとえば、私は政治的にはずっと左翼でしたが、左翼的な本ばかり読んでいると学ぶことはなくなってきます。そういうときは、右翼的な本を読んだほうが1冊当たりの学習量が多くて、おもしろいわけです。ということで、一時は右翼的な本ばかり読んでいました。といっても、山本七平、塩野七生、渡辺昇一、日下公人などですが。
ただ、右翼的な本ばかり読んでもまた学習することがなくなってきます。右翼的な本というのは、国家とか日本が出てくると、そこで終わってしまいます。世界とか人類に広がっていく発想がないので、やはりつまらなくなってくるのです。
 
右翼の人が右翼の本を読むのは、最初のうちはいいですが、ある程度読めば、今度は左翼の本を読むべきです。そのほうが多く学べるのは明らかです。
左翼は右翼の本を読むべきだし、右翼は左翼の本を読むべきだとアドバイスをする人は世の中にほとんどいないでしょうが、このアドバイスが正しいのは間違いありません。
 
世のほとんどの人は、いやなものを抹殺しようとしたり、遠ざけたり、罵倒したり、無視したりしていますが、そういうやり方はたいていうまくいきませんし、そのやり方を通じて自分が成長するということもありません。
しかし、いやなものを自分の中に取り込んで同化するというやり方は、自分を成長させます。知識が広がりますし、人間としての器も大きくなるはずです。
 
排除の発想で生きるのと、同化の発想で生きるのとでは、長い間に大きな違いが出てきます。
 
いやなものは自分にとっていちばん栄養があるものだと思って、頭から食べてしまうのがお勧めです。

日本では消費税増税が問題となっていますが、ヨーロッパでは新税論議が盛んです。
 
新税の中でいちばん大きなものは、金融取引税です。これはグローバルマネーの流動性を抑えて相場を安定させる狙いがあるもので、フランスとドイツは導入を主張していますが、イギリスが反対しています。イギリスなどを除いた形で導入されるのかが現在の焦点のようです。
 
ハンガリーではすでに昨年9月から「ポテチ税」が導入されています。ポテチ税というのは、国民の肥満を防ぐ狙いでスナック菓子など塩分や糖分の高い食品に税金をかけるものです。また、成人向けの映画や雑誌にかける「ポルノ税」も導入されています。
 
ルーマニアでは「魔女税」が議論されていると朝日新聞が報じました。
 
ルーマニアでは「魔女」が標的となった。
国内に千人以上いるとされる呪術師や占師で、古くから歴史の舞台裏で活躍。最近の世論調査でも約7割の人が「魔女の力を信じる」と答えている。
長く正規の職業と見なされていなかったが、昨年1月、魔女にも16%の所得税などを課すべきだとの議論が浮上。これに対し、一部の魔女たちが「呪い」で報復すると騒ぎ出した。(1月10日「朝日新聞」)
 
結局、「魔女税」の導入は見送られたそうです。
 
 
こうした新税が論議されるのは、もちろんヨーロッパ各国で財政危機が深刻化していることが背景にあります。
ということは、日本でも新税論議が浮上するのは時間の問題です。
たとえば、菅内閣で経産相を務めていた海江田万里衆議院議員は、経産相をやめてからなにをするのかと問われ、「今、いろんなおもしろい新税が出てきている。自分はもともと税金党だから、これから新税について勉強する」という内容のことを語りました。今はもっぱら消費税が議論されていますが、いずれ海江田議員あたりが中心となって新税論議も浮上してくるのでしょう。
 
とはいえ、他国でやっていることを真似するのでは芸がありません。新税というからには、今までにない税を考え出したいものです。
ということで、私が考えてみました。
それは、「親子同居税」です。
子どもがたとえば20歳すぎても実家を出ず親と同居を続けると、親から税金を取るのです。
これは子どもの自立を促進するという狙いですから、「自立促進税」という名前にしてもいいでしょう。
 
今、日本で問題になっていることに、晩婚化、非婚化、少子化、そして引きこもり、ニートの増加などがありますが、それらを一気に解決するのが「自立促進税」です。
それらのことは、子どもがいつまでも親元にいて自立しないことに大きな原因があります。親は子どもが自立してしまうと寂しいし、かつ収入に余裕があるので、あの手この手、意識的無意識的に子どもを親元に引き止めようとします。その結果、極端な場合には引きこもりになってしまいますし、1人前になって働いていても、実家にいると生活に不便がないので、いつまでも結婚しないということになってしまいます。
しかし、男女を問わず20歳すぎの子どもが家にいると高い税金を取ることにすれば、親は子どもに家を出るように勧めます。子どもがアパートを借りれば、そこに家財などの需要が発生しますし、1人暮らしは寂しいので結婚も早くなり、所帯を持つとそこにまた需要が発生しますし、子どもが生まれるとまた需要が発生します。つまり経済の活性化に大いに役立つのです。
 
結婚した子どもが親と同居するのは無税にしますし、親が高齢になったときの同居も無税にします。あくまで子どもの自立を促進するのが目的だからです。
子どもが家業を継ぐ場合は例外にするべきかとか、住民票だけ移して同居しているケースをどう捕捉するかとか、いろいろな問題はあると思いますが、この新税が実現できれば、直接的に税収が増えることはもちろん、経済活性化、若者の自立心の涵養などに大きな効果が期待できます。
 
イタリアなどでも若者がいつまでも親元にいてなかなか結婚しないという問題が起きています。
日本発の新税が世界に広がるということもありえます。 

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