村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年01月

橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の国政進出がこれからの政治の焦点になると思いますが、「ピーターの法則」と多くのデータから判断すると、国政進出は失敗に終わると結論せざるをえません。
 
「ピーターの法則」というのは、教育学者ローレンス・J・ピーターが提唱した法則で、能力主義の階層社会では、無能な人間はそのポストにとどまり、有能な人間は出世していずれ無能レベルに達するので、すべてのポストは無能な人間で埋め尽くされるという法則です。
もちろん上のポストほど能力を必要とするという前提があります。
この法則は学術的な説ではなく、ほとんど冗談のようなものです。人間の学習能力や、古い人間は引退して新しい人間が入ってくるということを無視しています。ただ、会社の上司の無能ぶりや、どこかの窓口で対応を受けた係員の無能ぶりをしょっちゅう罵倒しているような人にとってはありがたい法則です。
 
しかし、ピーターの法則が冗談であるにしても、有能な人間が昇進して仕事がむずかしくなると無能になってしまうということは確実にあります。
そして、少なくとも日本の国政と地方政治の関係においては、明らかにピーターの法則が適用できるように思われます。
つまり、地方政治で有能だった政治家が国政に進出するとみんな無能になってしまうのです。
 
その例を挙げる前に、逆の例を挙げてみましょう。こちらのほうがわかりやすいからです。
 
石原慎太郎都知事は、もともと国政にいて環境庁長官、運輸大臣を歴任し、自民党内で小さな派閥を率いる立場になり、次は総理総裁を狙うというところで無能レベルに達しました。自分でも限界を悟ったのでしょう、衆院本会議場で日本を「去勢された宦官のような国家」と罵倒して政治家を引退しました。しかし、その4年後、東京都知事に当選、それからは存在感を発揮して、次の都知事選では史上最高の得票率で再選されるなど、人気も得ました。つまり都知事というのは国政の要職よりはうんとポストが軽く、石原氏の能力でも余裕でこなせて、それがリーダーシップがあると見なされて人気のもとになったのでしょう。
 
河村たかし名古屋市長も、衆議院議員を5期務めましたが、民主党総裁選に出馬しようとしても推薦人を集められないことが何度も繰り返され、明らかに頭打ちとなりました。しかし、名古屋市長に転じてからは独自の政策を掲げて人気となっています。
 
中田宏氏は衆議院議員を3期務めたあと横浜市長に転じ、行政改革の手腕が評価されてなんなく再選されました。そのあとはどういう事情か市長を辞任しましたが、最近出版された「政治家の殺し方」(幻冬舎)という本が話題になっています。
 
以上の人たちの業績については評価が分かれるかと思いますが、少なくとも国政の経験があることで首長のポストを余裕をもってこなせて、そのために大胆な政策を打ち出せたりして、それが人気につながっているということは言えるでしょう。
あと、国会議員から知事に転じた人として、達増拓也岩手県知事、森田健作千葉県知事、松沢成文元神奈川県知事などがいますが、ある程度の評価は得ているのではないでしょうか。
つまり、国会議員から自治体の首長に転じると、国政では無能レベルだった人も有能レベルに復活するのです。
 
 
では、自治体の首長から国政に転じた人はどうでしょうか。
 
岩國哲人氏は、メリルリンチ日本法人の社長を務めるなどしたあと出雲市長に当選し、その行政手腕が大いに評価されましたが、国政に転じたあとはあまり活躍することもなく、すでに政界を引退しています。
 
片山義博氏は鳥取県知事を2期務め、改革派知事の代表格でしたが、菅内閣で民間人閣僚として総務大臣に就任し、地方行政を改革するには最適のポストと思われましたが、目立った成果を出すことはできませんでした。
また、増田寛也氏も岩手県知事時代は改革派知事として評価されていましたが、やはり総務大臣に就任したときは目立った成果は出せませんでした。
 
田中康夫氏は長野県知事として脱ダム宣言やガラス張り知事室などで注目されましたが、国政に転じてからは、現在新党日本代表ですが、小党ということもあって目立った活躍はありません。
 
北川正恭氏は、衆議院議員を4期務めたあと三重県知事に転じ、やはり改革派知事として大いに評価されました。知事を2期で辞任したため国政復帰が期待されましたが、「マニフェスト」という言葉を政界に定着させるなどの功績はあったものの、なぜか国政には復帰しませんでした。
 
つまり、自治体の首長として活躍した人は、国政に転じるとほとんど活躍できないのです。
アメリカでは知事として評価された人が大統領になるというケースがいくらでもありますが、日本の事情はまったく違います。どうやら地方自治と国政のレベルが大きく違っているのでしょう。そのためピーターの法則が発動して、自治体の首長として有能だった人も国政では無能レベルに達してしまうのです。
 
 
以上の例からすると、橋下徹大阪市長の国政進出もうまくいきそうもありません。
もちろん過去がだめだったから今後もだめだとはいえませんし、橋下市長のキャラクターはかなり強力です。
しかし、今まで橋下市長がやってきたのは地方公務員バッシングです。それによって人気を得てきたのです。
国政に転じると、国家公務員バッシングをしなければなりません。期待されているのはそれだからです。外交などはどうせ未知数です。
国家公務員の給料を引き下げ、さらには高級官僚に向かって、「官舎にいるなら民間並みの家賃を払え。払わないなら官舎を出ていけ」などと言って喝采を受けるというのが橋下流ですが、そんなことになりそうになれば、官僚はその前につぶしにかかるでしょう。今までの歴史がそうでした。
 
昭和初期に軍官僚の支配が確立されてからずっと日本は官僚支配の国でした。
これをくつがえすには相当な戦略が必要です。
橋下市長のキャラクターに頼るようではとうてい不可能です。

また成人式の時期となりました。成人式というと、マサイ族の男子は1人でライオンを仕留めないと成人になれないという話を思い出します。私はテレビでもこれを見たことがあります。
こんなサイトにも載っています。
 
マサイ族の若者はだいたい14,5歳になると1人でサバンナに出かけます。そしてライオンを仕留めると立派な成人と認められ、大事な部落の会議へも参加を許されます。尻込みしてライオン狩りへと出かけられない若者は、いつまで経っても成人と認められず、会議への参加はおろか結婚もできないといいます。
 
 
しかし、どこかあやしい感じがします。1人でライオンを仕留めるというのはハードルが高すぎる気がするのです。
そこでもう少し調べてみると、間違いだと主張するサイトがありました。
  
マサイ族の成人の儀式は「割礼」です。
男性だけでなく女性も行います。
ライオン狩りは行いません。
ライオンに立ち向かう勇気は必要とされますが、積極的に倒しには行きませんし、今は動物保護区になっているので、禁止されています。
 
 
調べてみましたがライオン狩りが現在は行われていないというのはどうやら本当のようです。
以下のような明確な記述がありました。
 
『ケニヤに26年滞在し、アフリカで最も多くの野生動物を殺した1人にあげられる J.A. ハンターはマサイ族のライオン狩りは既に1920年代には見られなくなったと書いている。
 グッギィスベルクは50年代にもまだ行われていたという。
バートラム(1978)は現在ではこの種のライオン狩りは禁じられているので、めったに行われないと言っている。
小原秀雄氏(1990)は最近やめになったとしている。
ライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないからだという。
マサイ族のライオン狩 olamayio はもはや行われていないことになっている。ケニヤ、タンザニア両政府によって禁じられているからだ(bluegecko.org)。
 しかしマサイ族が家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているともいわれる(forests.org)。』
 
 
ちなみにウィキペディアの「マサイ族」の項目には、成人の儀式として割礼のことは書かれていますが、ライオン狩りのことは書かれていません。
もっとも、テレビでやっていたぐらいですから、多少それに似たことはあったのでしょう。
 
 
マサイ男子は1213歳ころになると割礼を受け、その後戦士の時代に入る。戦士だけの集落を作り、長老から立派な大人になるための修行を受ける。野生の中で家畜や家族を守るための知恵を学び、体を鍛える。そんな修行も十分だと長老たちが判断した頃、戦士の卒業式「エウノト」が行われ、彼らは大人になる。
 
 
おそらくこうした修行の中にライオン狩りもあったということでしょう。成人になる男子全員がライオン狩りで一匹ずつ仕留めていたら、その地域のライオンはいなくなってしまうはずです(ウィキペディアによるとマサイ族の人口は推定20万から30万人)
 
マサイ族はアフリカでもっとも勇猛な部族とされています。そういう部族の一部で行われていたらしいことを全体で行われていたことにして、それが未開社会における成人儀式の代表例のようにいうのは、大きな間違いです。
 
また、南太平洋のバヌアツ共和国では、足首に木のツルを巻いて高いやぐらから飛び降りるという、バンジージャンプの原型とされる成人の儀式がありますが、これなども世界でもっとも特殊な成人の儀式でしょう。これを成人の儀式の代表例のようにいうのも誤解を招くことです。
 
なぜ私たち文明人は、こうした特殊な成人の儀式を好んで取り上げるのかというと、未開社会も私たち文明社会と基本的に同じだと思いたいからでしょう。
 
実際のところは、文明社会と未開社会は大きく違いますし、中でもいちばん違うのは成人のあり方です。
未開社会では成人になるのにあまり苦労はありません。狩猟採集社会では、木の実などを取ってこられて、(ライオンでなく)シカなどを狩れるようになれば1人前ですし、農耕社会では、ある程度畑が耕せるようになれば1人前です(種まきの時期など技術的なことは経験ある人の真似をしていればいいのです)。しかし、今の文明社会で1人前になるのはたいへんです。長い期間教育を受け、人間関係のスキルも学び、規則正しい生活ができるようになり、それでちゃんとした職業につくか、つくことが可能な状態になって初めて1人前とされます。
文明が高度化するに従って成人になることの困難は増していきます。
もちろんこれは儀式の問題ではありません。儀式とは入学式に出席するようなことで、問題は入学試験に受かることであるわけです。
 
現在の日本では、若者は社会に適応するのにアップアップして、ちょっとしたつまずきで不登校や引きこもりやニートになってしまいます。
また、親も子どもを1人前にすることにたいへんな負担を感じていて、それも少子化の一因になっていると思われます。
 
文明はどこまでも進歩するものではありません。資源や環境の制約があるからです。
それにプラスして、人間の能力も制約になります。
未開社会の赤ん坊も文明社会の赤ん坊も、生まれたときの能力は同じです。ですから、文明が進歩するに従って1人前になるまでに時間がかかります。
人間はスペックの決まったコンピュータのようなものです。たくさんのソフトをハードディスクにインストールし、やっと仕事に使おうと思ったら、作業が複雑でメモリーが足りず、もうコンピュータの寿命が迫っているというのが今の文明人です。
 
「人間の能力は無限だ」みたいな考え方は幻想でしかありません。
能力の限界は教育で対応しようというのが文明社会の基本戦略ですが、それも限界に近づいています。
つまり、これ以上教育できない状態になっているのです。
そのため教育改革は「ゆとり」と「学力」の間を行ったり来たりしています。
 
これからは教育を改革するのではなく、少ない教育でも適応できるような社会にすることを目指すべきです。
 
人間は生まれつき能力が決まっているということを認識すれば、文明の進む方向もおのずと決まってきます。
人間観と文明観を転換する時期です。

2012年の年頭に、なにか日本を元気にするような話題をと思いましたが、少子高齢化の進む日本にあまり明るい未来は考えられません。子育て支援などの少子化対策をやっても、結婚する人自体がへっているので、あまり効果はないでしょう(それでもやったほうがいいですが)。移民を受け入れるというのも、企業の利益にはなっても、日本人労働者の利益にはなりません。
「立派な老人国」になって世界の手本になるというのが、一応考えられる目標ですが、あまり楽しい目標ではありません。
 
もっとも、日本を元気にする方法がないわけではありません。ただ、それには大胆な発想の転換が必要です。
 
ひとつは、私が前からいっていることですが、選挙権の年齢制限を撤廃することです。
今、多くの人は未成年者に選挙権がないのは当たり前だと思っているでしょうが、ちょっと前は女性や黒人に選挙権がないのは当たり前だとみんな思っていたのです。
子どもには判断力がないから選挙権は与えるべきでないと主張する人がいるでしょうが、ちょっと昔は女性や黒人には判断力がないから選挙権は与えるべきでないと主張する人がいたわけです。
判断力がない人には選挙権を与えるべきでないという主張が正しいなら、認知症、精神障害、知能障害などの人にも選挙権を与えるべきでないとか、低学歴者には選挙権を与えるべきではないとかいうことになってしまいます。
昔は、階級や収入によっても選挙権が制限されていましたが、そうした制限は次々と撤廃され、今残っているのは年齢制限だけです。
これは年齢差別というしかありません。未成年者、子どもに人権が認められていないのです。
人権は誰にでもあるということを理解すれば、選挙権の年齢制限が差別にほかならないことがわかるでしょう。
選挙権年齢を18歳とか16歳とかに引き下げるべきだと主張する人がいますが、何歳に下げようが年齢差別をしていることに変わりはないので、あくまで選挙権の年齢制限を撤廃しなければいけません。
 
選挙権の年齢制限を撤廃すれば、日本人の年齢構成はそのままですが、有権者の年齢構成は大きく若返るので、日本の政治も若々しくなり、活気が出るはずです。
また、選挙権の年齢制限の撤廃は人権上からも当然のことで、これから世界の潮流になるでしょうから、日本の動向は世界の注目を浴び、日本人も自信やプライドを持つことができます。そういう点からも日本に活気が出るはずです。
 
 
もうひとつ、大胆な発想の転換でできる改革があります。
それは、会社の経営を民主化することです。
政治は民主化されているのに、経済の世界は民主化されていません。なぜみんなこのことをおかしいと思わないのでしょうか。
 
現在、株式会社は株主が最終的な経営権を持っていることになっています。しかし、これに対して会社というのは社会の公器であり、従業員や地域社会や顧客のための存在だという考え方もあります。会社の民主化は後者の考え方につながっています。
 
会社の民主化というのは要するに、従業員が経営者を選挙で選ぶのです。社長、つまり最高責任者を選ぶというやり方もありますし、役員全員を選ぶというやり方もあります。また、会社組織の最小単位が課だとしたら、課長をその課員が選ぶというやり方もあります。この場合、課長が部長を選び、部長が役員を選ぶという形になるわけです。
へんな経営者を選んだら、従業員の給料も上がりませんから、従業員も真剣に選ぶはずです。
少なくとも政治の世界が曲がりなりにもやっていけているのですから、会社が民主化されてもやっていけるはずです。PTA役員や町内会長も民主的に選ばれて問題はありません。
倒産した会社が組合管理の形で事業を続け、組合が優秀な経営者を引っ張ってくるというケースがありますが、これなども民主的に経営者を選んでいることになります。
 
もっとも、ほんとうにうまくやっていけるかわからないので、実験的に民主会社をつくってやってみればいいと思います。民主会社が株式会社以上に利益を出すとわかれば、民主会社に出資したいという人も出てくるので、資本主義の枠内でやっていけるはずです。
 
 
もっとも、私は選挙権の年齢制限撤廃は真剣に主張していますが、会社の民主化は、あくまでこういう考え方もあるということで提案しています。
サラリーマンの不幸のほとんどは上司に恵まれないということからきています。上司を選挙で選ぶようになれば、サラリーマン生活はバラ色になるかもしれません。

明けましておめでとうございます。
 
去年は大震災と原発事故があり、それに個人的にも、身近な人間が体を壊し、入退院を繰り返したことの対応に追われるということがあり、最悪の年でした。
今年はよい年でありたいものです。
 
私には「科学的倫理学」を普及させるという大きな仕事があります。
人間は道徳をつくったために、戦争から夫婦喧嘩まで、動物よりも激しく争うようになったということを世界の常識にしないといけません。
また、同じ人間が互いに「あいつは悪人だ、この人は善人だ、自分は正義だ」と思っていることのバカバカしさに気づき、愛情と思いやりを基調とする社会を築かないといけません。
 
もとになるアイデアはごく単純なものですから、本来は誰でも理解できるはずです。ただ、長年間違った考え方で生きてきた人はなかなか考え方を転換することができないので、その点に困難があるでしょう。
日本にこうした問題意識を持っていて、すぐ理解してくれそうな人が何人かいるのですが、こちらからコンタクトを取るには準備不足ではないかと思って、ためらっています。
このブログを書き続けるのがいいのか、それとも「道徳の起源」という本を完成させることに集中したほうがいいのかという問題もあります(もちろん自分の生活のための仕事もしているわけです)。
 
そういうことを考えつつ、この正月休みをすごしたいと思います。
ということで、このブログの更新も正月休みを取らさせていただきます。

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