村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年02月

科学的研究についての小さな囲み記事ですが、内容はあなどれません。科学の威力がいかんなく発揮された研究です。
とはいえ、この研究結果の価値を正しく受け止める人がどれだけいるでしょうか。とりあえず記事を張っておきます。
 
 
「勝ち組」はジコチュー? 米研究者ら実験で確認(朝日新聞デジタル20122281142分)
 お金持ちで高学歴、社会的地位も高い「勝ち組」ほど、ルールを守らず反倫理的な振る舞いをする――。米国とカナダの研究チームが、延べ約1千人を対象にした7種類の実験と調査から、こう結論づけた。28日の米科学アカデミー紀要に発表する。
 実験は心理学などの専門家らが行った。まず「ゲーム」と偽って、サイコロの目に応じて賞金を出す心理学的な実験をした。この結果、社会的な階層が高い人ほど、自分に有利になるよう実際より高い点数を申告する割合が多かった。
 ほかに、企業の採用面接官の役割を演じてもらう実験で、企業側に不利な条件を隠し通せる人の割合も、社会的階層が高い人ほど統計的に有意に多かった。別の実験では、休憩時に「子供用に用意された」キャンディーをたくさんポケットに入れる人の割合も同じ結果が出た。
 
 
上は朝日新聞デジタルの無料版ですが、朝日新聞の本紙の記事にはもう少し付け加えられた部分があるので、それを書き写しておきます。
 
 
また、横断歩道で歩行者が待っていても停止しなかったり、赤信号を無視したりする車は、高級車ほど多い傾向も公道の観察から浮かんだ。研究チームは「(お金や地位など)社会生活のための資源が増え、他人に頼らないで済むようになるほど、自己中心的な社会観が形作られる可能性がある」と指摘している。
 
 
要するにお金持ちで、高学歴で、社会的地位の高い人ほど、反倫理的あるいは利己的なふるまいをするという研究結果です。
言い換えれば、悪いやつほど出世するということです。
このことは多くの人が実感するのではないでしょうか。
そしてこれは、私がこのブログで再三主張していることでもあります。
たとえば次のエントリーなどがその代表的なものです。
 
「悪人は善人を駆逐する」
 
権威ある学者なども当然「勝ち組」に入りますから、一般の人よりも反倫理的なふるまいをしていることになります。そして、そういう人が善や悪や正義や利己主義について考察して倫理学をつくっているわけですから、その倫理学がまったくデタラメになるのは当然です。アリストテレスにしてもカントにしてもサンデル教授にしても、みな同じです。私はそれを「天動説的倫理学」と呼んでいます。自分が悪い人間だということに気づかない人が善悪や正義を論じるなど、茶番でしかありません。
 
私はまったく浅学非才の人間ですが、自分の中に悪や反倫理的傾向や利己的傾向があることを知った上でものごとを考えていますから、少なくともその点に関してはどんな高名な学者よりも優っています。
 
 
ただ、この研究はたいへん素晴らしいものですが、問題はこの研究をした学者たちも「勝ち組」ですから一般の人よりも反倫理的な傾向を持っているということです。そのために、せっかくの研究を自分たちでぶち壊しています。
つまりこの研究チームは、成功している人たちが反倫理的なのは金持ちになるほど他人に頼らないですむからだという「解釈」をしているのです。この解釈に立つと、今は貧乏な人間も金持ちになれば同じことをするのだ、だから金持ちも貧乏人も同じだ、ということになります。この解釈は金持ちにとってはうれしいでしょう。
もちろん、この解釈は「科学」ではなく、研究チームの人たちの「価値観」です。
 
それはともかく、社会の支配的な地位にある人ほど悪い人間だということは肝に銘じておく必要があります。
文明人は未開人よりも悪く、都会人は田舎者よりも悪く、高学歴者は低学歴者よりも悪く、金持ちは貧乏人よりも悪く、権力者は庶民よりも悪いのです。
そうしたものの見方を私は「地動説的倫理学」と呼んでいます。
 
今の世の中は「天動説的倫理学」に支配されていますから、高学歴者や権力者が一般の人々を「指導」したり、おとなが子どもを「道徳教育」したりして、そのため世の中はむちゃくちゃなことになっています。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は、どうしてこんなどうでもいいことで悩むのだろうという相談です。もっとも、本人は真剣に悩んでいるようです。そのギャップが妙な味を出しています。
  
折りたたみ傘嫌う夫 許せない2012224  読売新聞)
 50代主婦。同じ50代の夫は酒もたばこもやらず、家族のために身を粉にして働き、私と娘、ペットの犬を愛してくれます。でも、人としてどうしても許せないところがあります。折りたたみ傘が嫌いな点です。
 朝から雨だと、夫は大きい傘を差して出かけます。でも小雨の日や、途中で雨が降り出しそうな日は、折りたたみ傘を持たず、防水仕様の登山帽とダウンコートで出かけるのです。
 使わない理由として、夫は「山歩きをする時は傘を使わないし、折りたたみ傘は使った後に干してたたむのが面倒」と言います。でも、私たちが暮らしているのは山ではありません。夫が周囲から「傘も買えない貧乏な人」と思われるのも嫌だし、私も顔から火が出るほど恥ずかしくなります。
 何とか夫に折りたたみ傘を使ってもらうため、良い方法を教えてください。(東京・S子)
 
 
この相談の回答者はライターの最相葉月さんです。相談が相談だけに、回答の内容も紹介するほどのことではないでしょう。「うちの夫はイギリス紳士だと思うことにしてはいかがでしょうか」というくだりがあることだけ書いておきます。
 
この相談のおかしいところは、第一に、『夫が周囲から「傘も買えない貧乏な人」と思われるのも嫌だし、私も顔から火が出るほど恥ずかしくなります』というところでしょう。いつも傘を差さずに濡れている人がいるからといって、終戦直後でもあるまいし、「傘も買えない貧乏な人」と思う人はいないでしょう。今は100円ショップでも傘を売っています。
そして、もうひとつおかしいのは、折りたたみ傘を持たないことを「人としてどうしてもゆるせないところ」と表現していることです。たかが傘を持たないことをそこまでいうかと驚いてしまいます。
 
問題は、折りたたみ傘を持とうとしない夫ではなく、それを許せない妻のほうにあることは明らかでしょう。
 
では、妻はどうしてこのような妙な考えを持ってしまったのでしょうか。
そのヒントは、「夫は酒もたばこもやらず、家族のために身を粉にして働き、私と娘、ペットの犬を愛してくれます」というところにあります。つまり、この夫はほとんど完璧で、批判するところがないのです。
批判するところがないなら、批判しなければいいのですが、そうはならないのが人間心理のおかしなところです。
 
私は同じような例をもうひとつ見たことがあります。
昔、「新婚さんいらっしゃい」に似た番組があり、カップルが出てきて、相手に対する不満を述べるという番組ですが、そこに、美人で、家事もよくするし、性格もいいという奥さんが出てきました。その夫は、奥さんのつくる味噌汁がいつも具がいっぱいなのが許せないと主張しました。具だくさんの味噌汁は、下品で、田舎くさいというのです。料亭で出るような、具の少ない味噌汁がいいそうです。
具だくさんの味噌汁は栄養があって、塩分も少なくてすみ、家庭料理としてはむしろすばらしいと思いますが、その夫は「田舎」ということをキーワードに、味噌汁やそれをつくる妻をさげすみました。つまりその夫は田舎に対する差別意識を持っていて、それを妻にも押し広げたわけです。
私は、この夫はなぜこんなへんなことですばらしい奥さんを批判するのかと思い、ほかに批判することがないからではないかと思い至りました。つまり批判するためにむりやり批判のタネを捏造しているのです。
 
折りたたみ傘を持たない夫を批判する妻も同じ心理でしょう。
 
では、なぜこうした心理になるのかというと、別にたいした理由ではありません。要するに私たちはつねに人を批判する生活を送っていて、いわば人を批判することが“生活習慣病”になっているのです。とくに家庭内で、夫婦間や親子間で批判するという習慣は、人格の中心的なところに刻み込まれますから、なかなか訂正できません。ですから、家庭内に批判する人がいないと、むりやり批判する理由をつくって批判するというわけです。
 
ちなみに私たちがつねに政治家を批判しているのも、やはり“生活習慣病”なのかもしれません。
 
ここで注意しなければならないのは、折りたたみ傘を持たない夫や、具だくさん味噌汁をつくる妻を批判するのは、批判するほうがおかしいと気づきやすいですが、子どもを「わがまま」だとか「だらしない」だとか「やる気がない」だとか批判する場合は、ほとんどの人がおかしいとは気づかないということです。しかし、親が自分の遺伝子を受け継いだ子どもを批判するというのは根本的に間違っていて、これも“生活習慣病”というべきものなのです。
 
それはともかく、折りたたみ傘を持たない夫を批判する妻が「人としてどうしても許せない」という表現を使ったように、こうしたおかしな批判は道徳の形をとって現れます。
ですから、道徳を総体として批判する視点を持っていれば、人間心理のあり方がより明瞭に見えるようになります。

光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋氏が再婚していたことについて、いろいろ議論があります。自分だけ幸せになるのはけしからんとか、幸せになるのは当然だとか、結婚するのはいいが隠していたのはけしからんとか。
これは明らかに議論が迷走しています。人の結婚をよいとか悪いとか言うほうが間違っています。とはいえ、なにか言いたくなる気持ちもわからないではありません。私もひと言いいたいことがあります。
 
とりあえずニュースソースを張っておきます。
 
光市母子殺害事件の遺族・本村さん 再婚相手は7才年上同僚
 220日、光市母子殺害事件の大月孝行被告(30才)の死刑が確定した。惨劇から13年──遺族の本村洋さん(35才)は会見で、こう思いを語った。
「死刑判決が下されたことに大変満足していますが、喜びの感情は一切ありません」
 そんな本村さんは、2年ほど前に再婚して、光市から少し離れたところに新居を構えて新たな生活をスタートさせているという。
「奥さんは7才年上の同じ会社の同僚だそうです。趣味のテニスを通じて仲良くなったそうですよ」(本村さんの知人)
 犯罪被害者学専攻で、本村さんと交流のある常磐大学大学院の諸澤英道教授が祝福の言葉を寄せる。
 「本当に長い裁判でした。本村さんは妻と娘を思いながら、つらく苦しい日々と闘ってきました。ぶつけようのない怒り、そして寂しさのなかで、彼の気持ちを理解し、ずっと支えてきたパートナーの存在は実に大きなものだったことでしょう。再婚され、共に生きていく人を見つけられたことを祝福したいと思います」
 殺害された弥生さんと夕夏ちゃんの命日には、再婚した妻とともにふたりの墓前を訪れ、手を合わせるという本村さん。会見の終了間際にこう語った。
 「被害者がいつまでも事件のことを引きずって下を向いて生きるんではなく、事件のことを考えながらも前を向いて笑って、自分の人生をしっかりと歩んでいくことが大事だと思います」
 死刑確定翌日、本村さんは本誌の取材に電話で一言だけ答えてくれた。
 「昨日の共同会見でお話しさせていただいた通りです。妻の支え? それはもう普通にしてくれているだけですよ」
※女性セブン201238日号
 
 
人が結婚するのはけしからんという主張は明らかに間違っています。結婚して幸せになるのはたいへんけっこうなことです。
ただ、本村さんの場合においては、ひとつ問題があると思います。自分が結婚して幸せになる一方で、元少年の被告を死刑にするべきだという主張を一貫して行っていたからです。
 
愛する妻子を殺されたときは、激しい喪失感や悲哀に見舞われたでしょう。そして、そこから犯人に対する復讐心が芽生えたとしても不思議ではありません。
そして、本村さんは犯人を死刑にするべきだという主張をマスコミにおいてきわめて強力に展開しました。犯人を死刑にするべきだと主張した被害者遺族はほかにもいますが、これほど強力に、長期に主張した人はいません。
 
私は本村さんの姿をテレビで見るたびに、いつこの人は事件のことを過去のこととして片付け、前を向いて生きていくのだろうと思っていました。
人間は誰でも、忘却という能力を持っているからです。
現に、本村さんは再婚しました。ということは、事件による精神的痛手はかなり癒され、前向きになったのでしょう。
本村さんは「被害者がいつまでも事件のことを引きずって下を向いて生きるんではなく、事件のことを考えながらも前を向いて笑って、自分の人生をしっかりと歩んでいくことが大事だと思います」と語っています。
当然のことでしょう。
 
問題は、それを死刑判決が確定してから語ったことです。なぜリアルタイムで語らなかったのでしょう。本村さんのような被害者遺族が時とともに傷ついた心を癒し、前向きに生きられるようになっていく姿を見せるのは、ほかの被害者遺族にも勇気を与えたに違いありません。
私が本村さんに言いたかったのはそのことです。
 
もっとも、世論は圧倒的に死刑賛成に傾いていて、そうした世論にとって本村さんは一種のヒーローでした。もし本村さんが心境の変化を語れば、少なからぬ人たちが梯子を外されたと思って本村さんを非難したでしょう(現に本村さんの再婚をけしからんと言っている人たちがいます)
本村さんは最初は世論を引っ張っていましたが、いつのまにか世論に引っ張られる人になっていたのかもしれません。

光市母子殺害事件の被告の死刑が確定しました。世論は圧倒的に肯定的です。ネットを見ても、2ちゃんねるはもちろん、ヤフーブログの新着記事のリストも死刑肯定が多く、被告への批判と、弁護団への批判があふれています。
最近の日本は政治も経済もパッとしませんが、死刑問題も同じです。どんどんだめな国になっていきます。
これを主導しているのは法務、司法、警察の官僚です。マスコミがそれに追随して、ネットなどの世論がさらにそれに追随します。日ごろ「マスゴミ」などと言ってマスコミ批判を展開している人たちも、死刑問題についてはマスコミにあやつられています。
 
死刑賛成派が論拠にするのは、世論が圧倒的に死刑賛成であることと、犯罪被害者及び犯罪被害者遺族の処罰感情です。
私はすでに、死刑賛成の世論がインチキなアンケートによってつくられているということを次のエントリーで指摘しました。
 
「法務官僚の『殺しのライセンス』」
 
もちろん適正なアンケートをやっても死刑賛成が多数になるでしょうが、そうした世論も官僚に追随するマスコミによってつくられた面が大きいことを考慮しなければなりません。
 
死刑賛成派の論拠のもうひとつは、犯罪被害者遺族の処罰感情です。今回はそれについて書いてみます。
 
殺人事件の被害者遺族が、犯人を死刑にしてほしいと思うのは自然な感情ですが、感情というのはとらえどころがなく、かつ移ろいやすいものです。たとえば、光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋氏は2009年に再婚して、今は2人で暮らしているそうです。事件が起きたのが1999年のことですから、再婚するのはむしろ当たり前ですが、今は事件直後の激しい処罰感情もだいぶやわらいでいることでしょう。となると、判決もその感情に合わせなければならないはずです(実際は一審、二審は無期懲役、上告審は死刑と、感情とは逆になっています)
 
また、世の中には本村洋氏のような人ばかりではなく、「犯人を死刑にしたからといって殺された者が生き返ってくるわけではない」などと言って、犯人に対する処罰感情を持たない被害者遺族もいます。そういう場合、日ごろ被害者遺族の処罰感情を理由に死刑を主張している人たちは、今回は死刑にする必要はないと主張しないといけないと思いますが、そういう主張は聞いたことがありません。
 
また、殺人事件の被害者が天涯孤独で、誰も悲しむ人がいなかった場合、判決文には「本来は20年の刑期にするべきところだが、幸い被害者には身よりがなく、事件の影響が限定的だったために、10年の刑期にする」などと書かれてもいいはずですが、そんな話も聞いたことがありません。
 
だいたい感情などというあやふやなものと人の命を天秤にかけるというのが根本的に間違っているのです。
 
さらにいうと、被害者遺族の感情を取り上げるなら、死刑になった加害者遺族の感情も取り上げないといけないはずです。死刑によって被害者遺族の処罰感情が癒されたとしても、死刑になった加害者遺族が社会や司法制度や被害者遺族に処罰感情を抱くなら、社会としてはプラスマイナスゼロということになります。
 
もっとも、加害者の親族の声がマスコミによって伝えられることはめったにありません。加害者の親族、とくに親は世の中から強く非難されますから、マスコミに出るどころではないのです。
それに、殺人など凶悪犯罪の加害者の場合、家庭が崩壊していて、肉親を探し出せないケースが多くあります。光市母子殺害事件の被告の場合も、父親から虐待を受け、母親が自殺するという家庭で育ちました。
この父親の立場から見ると、妻を自殺させ、子どもを殺人者にしたわけで、ほんとうに凶悪なのはこの父親ではないかということになります。ですから、こういう人はマスコミには出てこないものですが、なんと今回はフジテレビに出ていろいろなことを語りました。
 
「光市母子殺害事件に死刑判決。加害者の父語る」
 
父親は最初に「やっぱり我が子ですから、どんな罪を犯した人間でもかわいいです」と語っていますが、世間に受け入れられるように語っているのではないかという疑問を感じます。
私がとくに注目したのは、「私自身は(息子に対して)暴力と思ったことは1回もありません。自分では教育の一環で」と語っているところです。
父親がまったく反省しない人なのです。そういう父親に育てられた息子に反省しろと迫っても、むずかしいのは当然です。
 
この事件に限らず、凶悪事件のほとんどの加害者は、愛情のない家庭で育った被虐待児です。
被害者の多くは、被害にあうまでは幸せに暮らしていましたし、被害者遺族も同じです。
裁判官、検事、弁護士、被害者遺族、マスコミ、世間の人々の中で、実は加害者がいちばんかわいそうな人なのです。
親鸞が「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言ったのはこのようなことなのでしょう。

新聞を購読していると、たまに配達員のミスで新聞が配達されないことがあります。そんなときは販売店に電話して、配達してもらうことになりますが、ときにはこちらの勘違いで、実はちゃんと配達されていたのに電話してしまうことがあります。
 
私が子どものころ、そんなことがありました。夕刊が配達されていないと勘違いして、母が販売店に電話して、配達を依頼しました。父がそうしろと指示したのかもしれません。実際は家族の誰かがどこか目立たないところに置いていたのです。
時刻が遅かったので、販売店の店主がきて、謝罪とともに夕刊を置いていきました。ところが、そのあとすぐ、夕刊のあることがわかりました。
父は母に、すぐに新聞販売店に電話して、こちらの間違いだったと伝えろと言いました。しかし、母はぐずりました。
すると、父が激怒しました。このままでは配達員がミスしたということで店主から叱られるではないかというのです。
説明しておくと、当時は新聞配達は貧しい家の中学生とか苦学生がする仕事というイメージで、まだ高度成長による人手不足前ですから、雇用主のほうが優位な時代でした。ですから、少年の配達員が店主から叱られるというのは一応ありえたでしょう。
 
母はわざわざ電話するようなことではないと主張しました。こちらのミスを認めるのがいやだということもあったでしょう。配達員が叱られるというのは考えすぎだということも言ったかもしれません。
父は、少年が叱られたらかわいそうだ、もしかしたらクビになるかもしれないからどうしても電話しろと言って譲らず、なんだかすごい険悪なことになってしまいました。
 
結局、電話しないまま終わったのですが、この父と母のやり取りをみなさんはどう思われるでしょうか。
お父さんは新聞配達の少年の身を案じるすばらしい人だ、お母さんが間違っているというふうに思うのではないでしょうか。
 
現場にいた私は必ずしもそうは思いませんでした。なぜなら父の怒り方が尋常ではなかったからです。
こんな怒り方をするほうがおかしいのではないかというのが率直な感想でした。
 
そのとき私はまだ小学生でしたから、それ以上のことは考えられませんでしたが、のちのちこのことを思い出して、自分なりの考えをまとめたので、それを書いてみます。
 
父が言うように、少年の配達員が店主に叱られるということはありえます。ただ、それはあくまで可能性です。
しかし、私の家では母が父に叱られるということが現実として起きています。
何十%かの確率で叱られる少年と、100%の現実として叱られている母。
人が叱られるのがかわいそうなら、どちらがかわいそうでしょうか。あるいは、どちらを回避するべきでしょうか。
かわいそうになるかもしれない少年を救うために、母を確実にかわいそうにしている父は間違っていると私は思いました。
 
父が間違っていると思う根拠はもうひとつあります。
それは、父が新聞配達の少年を救いたいと思うなら、母から販売店の電話番号を聞いて、自分で電話すればいいのです。そうすれば確実に少年を救うことができますし、母を叱る必要もありません。
 
父は「貧しい新聞少年のため」という正義の旗印を手にしたことで、思う存分怒りを発散させただけともいえます。
 
ちなみに父は晩年まで、ユニセフやその他の団体を通して世界の難民などを救うためによく寄付をしていました。それだけを見ると、立派な人に見えるでしょう。しかし、身近な人間にはまるでやさしさを示すことのできない人でした。だからこそ遠い世界、抽象的な世界で人にやさしさを示していたわけです。
 
 
私の父は特別な人間でしょうか。
いや、程度の差はあれ、みな同じようなものではないでしょうか。
たとえば、殺人犯は死刑にするべきだと主張する人がいます。そういう人は、「殺された人とその遺族のため」ということを正義の旗印にしますが、どこまで「殺された人とその遺族のため」を思っているかはわかりません。
ただ人を死刑にすることを望んでいるだけの人かもしれません。

「正義」は今や、廃棄するのに困る粗大ゴミのようなものです。昔は、女性が結婚相手に望む条件の中に、「正義感が強い」というのも必ず入っていたものですが、今はほとんど見かけることはありません。死刑執行や厳罰を求める世論はありますが、それは「正義のため」ではなく、「被害者感情のため」です。アメリカの軍事行動を支持する人も、「それが正義だから」ではなく、別の理由を挙げます。
「正義」が大っぴらに登場するのは、エンターテインメントの映画やドラマやマンガの中だけです。
しかし、エンターテインメントの映画やドラマやマンガの中でも、実は「正義」にはきびしい制約が課されています。
 
私にとって最初の正義のヒーローといえば「月光仮面」です。私はこのテレビドラマを7歳のときに見たことになりますが、子ども心にいくつもの疑問を感じました。
まず仮面をして正体を隠しているのが不思議でした(正体は祝十郎という私立探偵です)。それに、「疾風のように現れて、疾風のように去っていく」と主題歌にあるように、現れてもすぐに去ってしまいます。また、「月光仮面」であって、「陽光仮面」とか「太陽仮面」ではありません。全体として、「月光仮面」は日陰者として描かれます。正義の味方がなぜ日陰者になるのか、不思議でした。
 
「スーパーマン」も似ています(「月光仮面」は日本でも「スーパーマン」のようなドラマをつくろうということでつくられたものですから、当たり前ですが)。普段は新聞記者になって正体を隠しています。姿を現しても、悪人をやっつけるとすぐに去ってしまいます。
 
「スパイダーマン」や「バットマン」は、その姿形がクモやコウモリという嫌われ者です。やはり正体を隠し、短時間しか現れません。
 
「鞍馬天狗」も、天狗という妖怪を模して、黒装束です。やはり正体を隠して、短時間しか現れません。
 
「ウルトラマン」になると現れる時間がタイマーつきで限定されます。やはり普段は科学特捜隊員などになって正体を隠しています(スーパーマンとウルトラマンは異星人の正体を隠して人間に扮しています)
 
つまりこれらの正義のヒーローには共通した特徴があり、
1、正体を隠している
2、たいてい日陰者や嫌われ者の姿をしている
3、短時間しか現れない
ということになります。
 
なぜこんなことになっているのでしょうか。
それは、正義のヒーローが長時間、大規模に活躍しないようにという設定なのです。
正義のヒーローはピンポイントで悪人をやっつけるだけで、それ以上のことをしてはいけないのです。
 
こういう設定は、私たちの正義に対する複雑な心情を反映したものでしょう。つまり、正義のヒーローが悪人をやっつけてくれるのはうれしいが、あまり大きな顔をされるのは困るということなのです。
 
しかし、現実の世界では、悪人をやっつけた正義のヒーローは「疾風のように去っていく」ことはなく、世の中に常駐します。
権力者、国家権力、司法警察制度などがそうです。これらは「正義」を自認して、年中「正義」を行っています。
そのため世の中はうんざりしたものになっています。
やはり「正義」は粗大ゴミとして廃棄処分しないといけません。

世の中に、自分は努力家だと思っている人はめったにいません。たいていは自分は努力のできないだめな人間だと思っています。
どうして人は努力することができないのでしょうか。
努力する人と努力しない人はどこが違うのでしょうか。いや、そもそも努力とはなんでしょうか。
 
努力というような基本的な概念について考える場合、私は人間と動物を比較することにしています。そうすると、人間についてだけ考えているときにはわからなかったことがわかってきます。
そこで盲導犬を取り上げてみることにします。あんなにも人間に尽くしてくれる盲導犬は“努力”する犬なのでしょうか。
 
盲導犬をつくるのは、まず犬選びから始まります。犬種は、昔はシェパードもいましたが、今はたいていラブラドール・レトリバーかゴールデン・レトリバーだそうです。血統もだいじで、両親ともに盲導犬だった子犬、片方の親が盲導犬だった子犬は優先的に選ばれますし、もちろんその子犬の頭のよさや性格も見て選ばれます。
選ばれた子犬は、ブリーディングウォーカー(繁殖犬飼育ボランティア)の家庭で月齢2カ月まで母犬と兄弟犬とともに育ちます(育つ過程で選ばれるというのが正確です)。母犬の母乳を飲み、愛情を受け、兄弟との間で犬としてのつきあいを学びます(ペットショップでは2カ月未満の子犬が檻に入れられて売られていますが、これはもちろんよいことでなく、子犬の性格がゆがむ恐れが大です)
 
子犬は次に、パピーウォーカー(子犬飼育ボランティア)の家庭に1歳まで預けられ、ここで人間との関係を学びます。人間の家族の一員として愛情をもって育てられ、人間といっしょにいると楽しいと思うようになることがたいせつです。
具体的にどのように育てられるかというと、映画「クイール」において、盲導犬訓練士がパピーウォーカーに子犬を預けるとき、「この子は、なにがあっても叱らないでください」と頼むシーンが出てきます。
一般に犬は子犬のときからしつけなければわがままになると考えられていますが、ここではまったく逆です。しつけ、つまり訓練は、人間との信頼関係が築けてからすることなのです。
もっとも、盲導犬の子犬を育てるとき「なにがあっても叱らない」という原則が確立されているわけではありません。これはこの映画と原作に描かれていることです。しかし、あまり叱っては、犬は人間の愛情を感じられなくなることは間違いないでしょう。人間は子どもを叱っては、「愛情があるから叱るのだ」とか「叱るのは愛情があるからだ」とかいう適当な理屈でごまかしていますが、もちろんよいことではありません。
 
1歳になった犬は、訓練士のもとで半年から1年の訓練を受けますが、もちろんすべての犬が盲導犬になれるわけではありません。合格率は60%程度だそうです。
 
 
1年半から2年かけて、結局不合格になる犬が40%もいるというのはなかなかきびしい結果ですが、不合格になる犬はなにがよくなかったのでしょうか。
まずひとつ考えられるのは、適性のない子犬を選んでしまったということです。
それから、育てるときに人間との信頼関係がうまくつくれなかった可能性もあります。
もちろん訓練士の力量が足りなかったということもありえます。
現実には、その三つの要素の複合が原因となっているのでしょう。
 
このとき、犬の努力が足りなかったから不合格になったのだと考える人はいません。
犬に限らず動物に努力を求める人はいません。
当たり前のことですが。
 
これが人間になるとどうでしょうか。
たとえば子どもをピアニストにしようとしてピアノを習わせたものの、なかなか上達しなかったとします。
このとき、素質のない子にピアノを習わせたということが考えられますし、ピアノの先生の教え方が下手だったということも考えられます。
しかし、すべての親やピアノの先生がそう考えるとは限りません。
子どもの努力が足りないせいだと考える人もいます。そうして子どもに、もっとがんばれ、やる気を出せと叱咤激励します。それでも上達しないと、子どもに失望します。
 
これが人間社会で行われていることです。自分のせいだと考えることのできない人が相手のせいにするために、「努力」という概念を持ち出すのです。
ですから、自分は努力のできる人間だと思っている人はめったにいなくて、ほとんどの人は自分は努力のできないだめな人間だと思わせられているのです。
 
「努力」という概念があるために多くの人が不幸になっています。
 
もっとも、「努力」にも使い道はあります。
それは人を非難するときに役立つということです。
それから、「今まで自分は努力してこなかった。これからは努力しよう」と自分を奮い立たせるときにも役立ちます。なにしろ私たちの頭には「努力」という概念が普通に入っているので、そう考えるのが自然です。
 
世の中には、少し努力すれば幸福になれるのに、努力しなくて不幸になっている人が多くいます。そういう人は、不当に努力を要求され続けたり、その他さまざまなことで性格がゆがんでしまったのでしょう。
努力すれば報われるという経験を何度もすれば、誰でも努力するようになります。そうするとそれは当たり前の行為で、「努力」と名づけることもありません。
 
カバ園長のあだ名で親しまれた故・西山登志雄氏は、「動物はいつも一生懸命」という言葉で動物の魅力を語っておられました。
人間も動物なのですから、「人間もいつも一生懸命」なのです。
一生懸命に見えない人間がいるのは、人間社会があまりにも愚かだからです。

2月13日、「大阪維新の会」が骨格となる政策「船中八策」を発表しましたが、これは網羅的な政策ですから、ひとつひとつを論評してもあまり意味はないでしょう。「維新の会」は政策の優先順位も発表してほしいものです。
 
それよりも、2月12日の朝日新聞に載っていた橋下徹大阪市長のインタビュー記事のほうが論評するに値します。はっきりいって突っ込みどころ満載です。ということは、今まで誰も橋下氏に突っ込まなかったのでしょう。ちゃんと突っ込んであげないと本人のためにもなりません。
政策論としては恐ろしく低レベルです。こんな議論が行われているのは日本の知的レベルが低いからだといいたいところですが、アメリカはもっとレベルが低いです。大統領予備選を見ていると、保守派の主張は、「小さい政府」を別にすれば、「家族の価値」「中絶禁止」「同性婚禁止」と、日本人からすれば議論する価値もないようなことばかりです。
 
 
橋下氏はインタビューにおいて「努力」を強調します。「今の日本人の生活レベルは世界でみたら、五つ星ホテル級のラグジュアリー(贅沢)なものです」と言ったあと、「努力」という言葉を連発します。
 
「東アジア、東南アジアの若者は日本の若者と同じような教育レベル、労働力になってきました。そのような状況で、日本人がラグジュアリーな生活を享受しようとするなら『国民総努力』が必要です。競争で勝たないと無理です」
 
「付加価値の創出は、努力がすべてだと僕は思っています」
 
「何歳で努力から解放されるかは制度設計次第で、役人にはじいてもらわないと具体的には言えません。常識的には60歳あたりでしょう」
 
「では、日本の生活のレベルを落としますか? 東南アジアレベルにしますか? 今の日本を維持しようと思えば、そりゃ努力をしないといけないですよ」
 
普通は政策論議をするときに「努力」という言葉も概念も持ち込みません。ですから、橋下氏のように「努力」という言葉を持ち出す人が出てくると、新聞記者や学者はとまどってなにも言えなくなります。
かといって、「努力」を否定することもできません。自分たちも日ごろから若い人たちに「努力」のたいせつさを説いているからです。
 
それにしても朝日新聞の記者なら、「国民総努力」と言われたときには、「なるほど、『進め一億火の玉だ』の精神ですね」ぐらい皮肉を言ってほしいものです(言ったとしても、記事に載ることではないですが)
 
しかし、橋下氏が言っているのはなにも特別なことではありません。ネットの掲示板やテレビの討論番組などでは当たり前に言われていることです。日本の学者や知識人はそうした議論を放置してきました。というか、批判することができなかったのでしょう。ですから、橋下氏がそうした議論を政策として次々に現実化していくと、あたふたするしかなくなってしまうのです。
 
ネットの掲示板やテレビの討論番組などで当たり前に言われていることというのは、ひと言でいえば「道徳」です。橋下氏もただ「道徳」を語っているにすぎません。
冷戦が終結し、マルクス主義が廃棄処分されてから、大きな思想というのはなくなってしまいました。そういう状況で議論をしていると、より道徳的な主張のほうが優位になっていきます。たとえば、犯罪者は厳罰に処するべきだ、凶悪犯は死刑にするべきだ、怠け者に福祉はいらない、それは自己責任だ、などの結論へと導かれるのです。
 
私はこれを「道徳の暴走」といい、また「道徳原理主義」ともいっています。
橋下氏の思想は「道徳原理主義」そのものです。それに競争の要素を強調すると「新自由主義」になり、それに生物学的根拠を持ち出すと「社会ダーウィン主義」になります。
 
マルクス主義なきあと、学者、知識人の思想的怠慢がこうした状況を招いてしまったのです(「怠慢」というのも道徳的な言葉です。道徳的な言葉は人を非難するときに便利です)
 
ですから、この状況を変えるには道徳そのものを批判する思想が必要です。このブログを読んで勉強してください。
とりあえず今は、橋下氏へどう突っ込むかを書いておきましょう。
 
「努力すれば競争に勝てるのですか。負けたときはどうしますか」
「努力すれば誰でもイチロー選手のようにヒットを打つことができるのですか」
「東南アジアの若者に負けないためという理由で努力する気になりますか」
 
橋下氏は「いったんは格差が生じるかもしれません。でも、所得の再配分もしっかりやります」とも言っています。
これには「所得の再配分がしっかり行われるなら、それを見越して努力しない人間が出てくるんじゃないですか」と突っ込んであげましょう。どう考えても「所得の再配分がしっかり行われる社会」と「競争社会」は矛盾しています。
 
ところで、アメリカの保守派が主張する「家族の価値」「中絶禁止」「同性婚禁止」もアメリカ式道徳です。道徳原理主義は世界をおおっています。

「日本をダメにした○○」という本がいくつもあります。たとえば「日本をダメにした九人の政治家」(浜田幸一著)、「戦後日本をダメにした100人」(ばばこういち著)、「日本をダメにしたこの民主党議員たち」(松木謙公著)、「日本をダメにした売国奴は誰だ!」(前野徹著)、「日本をダメにした10の裁判」(チームJ著)などです。「松下政経塾が日本をダメにした」(八幡和郎著)というのもあります。雑誌の特集やアンケートなどでも同じフレーズがよく使われます。
 
私は「日本をダメにした○○」を目にするたびに、日本はそんなにダメになりやすい国なのかと思って、つい笑ってしまいます。そういう本を書く人は自分を愛国者だと思っているのかもしれませんが、実際のところは日本をバカにしているのではないでしょうか。
たとえば、「天皇家をダメにした○○」という本が出版されれば、不敬だ、天皇家をバカにするのかという声が上がるに違いありません。とすれば、「日本をダメにした○○」はやっぱり日本をバカにしていることになるはずです。
 
もっとも、日本をダメにしたのがアメリカだというのなら、そういう説があってもしかたがないかなと思います。アメリカは圧倒的に強国ですし、日本を占領していたことがありますし、たくみに陰謀を張り巡らされたら、日本としても抵抗のしようがないわけで、決して日本をバカにしていることにはなりません。
 
しかし、たとえば「日本をダメにした九人の政治家」でいうと、何人かの日本の政治家がいかに悪質であったとしても、それだけで日本がダメにされてしまうとすれば、日本はよほどダメにされやすい国だということになります。いや、何人かの政治家が悪質であったとしても、ほかの政治家はどうなのでしょう。日本がダメにされるのを指をくわえて見ていたというのでしょうか。「日本をダメにした九人の政治家」というタイトルは、日本の政治家すべてをバカにして、さらには日本全体をバカにしていることになります。
 
「このままでは日本はダメになるぞ」という意味のタイトルがよく使われるならわかります。これは人々に警告を与え、危機感を喚起して、日本をダメにしないようにしようという意味ですから。
しかし、「日本をダメにした○○」は「ダメにした」と過去形ですから、もうどうしようもないわけです。なぜこんなタイトルがよく使われるのでしょうか。
 
「日本をダメにした○○」というタイトルを好む人は、よほど自虐的なのでしょうか。
いや、そんなことはないと思います。「日本はダメだが、自分はダメでない」と思っているに違いありません。
つまり、「日本をダメにした○○」という本を読む人は、日本全体を見下す優越感を味わっているのです。
 
日本全体を見下して優越感を味わう人というのは自己中心的な人です。
そして、おそらくその人は自分を愛国者だと思っています。
これは一見矛盾しているようですが、そんなことはありません。
愛国者というのは、世界の中で自分の国がいちばん偉いと思っているわけで、やはり自己中心的な発想の人なのです。
 
自己中心的な発想が二重の輪になっていると考えると、利己主義者と愛国主義者の関係がわかり、「日本をダメにした○○」というタイトルが好まれる理由もわかるのではないでしょうか。

大阪維新の会が国政進出の準備を進めています。国政となれば外交政策も打ち出さなければなりませんが、これがどうなるのかよくわかりません。
私は実は、橋下徹大阪市長は外交音痴ではないかと前から疑っています。鳩山政権当時、大阪府知事だった橋下氏は普天間飛行場の関空への受け入れを表明しましたが、そのとき日本政府やアメリカ政府になにも注文をつけませんでした。自治体の首長としては正しい態度ですが、日ごろから外交について考えている人間なら、あの状況ではなにか言いたくなるものです。
石原慎太郎都知事はアメリカや中国について年中なにか言っています。
橋下氏は自制心があるともいえますが、単に外交についてなにも考えていないのではないかと思ったのです。
 
たいていの日本人は、欧米にコンプレックスを持っていて、裏腹にアジアに優越感を持っています。しかし、最近は中国が日本を追い抜いてきて、多くの日本人は複雑な心境です。そのため反中国発言をする人もいますし、そうした発言はけっこう世の中に受けます。しかし、橋下氏はそうした発言もしていないようです。
 
ウィキペディアで「橋下徹」の項を見てみると、核武装を肯定する発言をしたということですが、これはあくまで政治家になる前のテレビでの発言です。外国人参政権についての発言もありますが、これは外交とは基本的に違う問題です。
 
橋下氏の外交についての考えを知りたいと思っていたところに、こうしたニュースがありました。
 
橋下市長が拉致問題で「不法国家である北と付き合いは一切しないという意思示せ」 政府に注文
「産経ニュース」2012.2.5 16:56
 大阪市の橋下徹市長は5日、市内で開かれた北朝鮮による拉致問題を考える集会であいさつし「政府はもっとはっきり意思を示してほしい。何がしたいのかさっぱり分からない」と政府の対応を批判した。
 市長は「大阪府、大阪市では拉致問題は許さない。不法国家である北朝鮮が正常な国になるまで付き合いは一切しないという意思をはっきり示していきたい」と強調。自身が府知事時代に打ち出した朝鮮学校に対する補助金支給要件の厳格化を上げ「全国の自治体でやればできる。これぐらい国が何で指示を出せないのか」と指摘した。
 集会に先立ち橋下市長は松原仁拉致問題担当相と会談。松原氏は朝鮮学校の補助金厳格化について「他の都道府県も大阪の先例に大きく学ぶべきだ」と評価した。松井一郎大阪府知事も同席した。
 
 
橋下氏の対北朝鮮政策は、いっさいつきあうな、もっときびしくしろというもののようです。
これはいかにも橋下氏らしい政策です。一般受けすることは確かでしょう。
しかし、このやり方で拉致問題が解決するかというと、そんなことはないでしょう。もうすでに日本政府は北朝鮮に対しさまざまな制裁を行っています。そして、北朝鮮はどんどん中国との経済関係を深めています。
北朝鮮と中国との貿易高は、2011年から2012年にかけて62%増加したそうです。
 
もしほんとうに拉致問題を解決しようとするなら、北朝鮮と話し合うことが必要ですし、なんらかの経済援助、つまりアメも必要になるでしょう。
しかし、そうした主張は国民感情に反しますし、橋下氏もそのことはわかっているわけです。
 
北朝鮮は日本と国交がなく、拉致事件を起こしたことで不法国家呼ばわりしても問題ありません。つまり、悪役に仕立ててバッシングできる相手だから、橋下氏は珍しく外交的発言をしたのでしょう。
 
やはり橋下氏は外交についてなにも考えてなくて、つねに悪役を見つけて、それをバッシングするという政治手法だけで突っ走っているように思えます。
 
しかし、それが悪いかというと、そんなことはないと思います。前にも書きましたが、政治家はなまじ哲学やどうしても主張したいことがあると失敗するものです。
たとえば、石原慎太郎氏は「『NO』と言える日本」で反米的主張をしたところ、激しい反発を受け、結局それで国政での展望を失ってしまいました。鳩山由紀夫氏は、「友愛」という哲学を持つ政治家ですが、哲学を持っていることによって失敗した感があります。
 
哲学やどうしても主張したいことがない政治家は、臨機応変に行動できるので、かえって成功する傾向があると思うのです。
そういう意味で、橋下氏が外交音痴であったとしても問題はなく、かえってプラスであると思います。外交はむしろほかの人に任せて、「国の統治機構を変える」という一点で突っ走っていけばいいのではないでしょうか。
 

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