動物は利己的な存在です。社会性動物には親が子の世話をしたり、仲間を助けたりという利他的な性質もありますが、利己的性質と利他的性質のどちらが大きいかといえば、ミツバチなど特殊なものを除くと利己的性質のほうが大きいものです。
とくに哺乳類においては、親が死ぬと子も死ぬことになるので、親は子に対しても明白に利己的です。子育てが困難な状況においては親は子を食べてしまうこともあります。そうして次に子どもをつくる機会を待つほうが繁殖戦略としては正しいからでしょう。親が子を助けようとして自分の命を犠牲にするというのはまれにありますが、これはいわば事故とか誤算というべきものです。
もちろん人間においても同じです。戦乱の中で難民と化した人たちにおいて、親が生き延びるため子を捨てたり預けたり殺したりということはいっぱいありますが、子を助けるために親が命を亡くしたということはめったにありません。また、食糧難の時代には“間引き”ということも行われていました。
人間は利己的だとはいっても、相手のいる状況ではそんなに一方的に利己的にふるまえることはありません。むしろ互恵的な関係を築いたほうが、結果的に利己的な目的を達成できることのほうが多いものです。そうした互恵的な関係が進化して資本主義にいたったともいえるでしょう。
しかし、一方的に利己的にふるまえる場合もあります。それはおとなが子どもを相手にした場合です。おとなのほうが腕力はありますし、理屈を言うのも達者だからです。おとなは子どもに対して利己的にふるまい、その子どもはおとなになったときまた子どもに対して利己的にふるまうということが繰り返されてきました。つまり、おとなの子どもに対する利己的行動が世代連鎖してきたわけです。
この世代連鎖はまったく同じことを繰り返してきたのではありません。世代ごとにおとなの利己的行動は進化してきました。これは人間以外の動物にはほとんどないことです。動物の行動は本能の要素が大きいので、いくら世代をへてもほとんど変わるということがありません。しかし、人間の行動は本能よりも文化の要素が大きいので、その文化は世代をへるごとに進化していきます。
つまり、原始人のおとなは子どもに対してほんの少し利己的にふるまっていましたが、文明人のおとなは子どもに対して大いに利己的にふるまっているわけです。
そうしたおとなの利己的なふるまいを「教育」や「しつけ」といいます。
「教育やしつけとはおとなや親の利己的行為である」
このことを頭に入れておくと、教育問題がすっきりと理解できるようになります。
親は子どもに「言うことを聞きなさい」「素直になりなさい」「おとなしくしなさい」「行儀よくしなさい」と言います。
教師は生徒に「反抗するな」「校則を守れ」「勉強しろ」と言います。
企業は、従順で協調的で勤勉な人間、つまり不平不満を言わずによく働く人間をつくる教育を求めます。
国家は、よく働いて、きちんと税金を納め、喜んで戦争に行く人間をつくる教育を求めます。
現在の教育が親や教師や企業や国家のために行われていることは明らかでしょう。
もっとも、そうした教育にもそれなりの価値はあります。たとえば、勤勉な人間をつくることで社会は豊かになりましたし、戦争をいとわない人間をつくることで、その社会集団はほかの社会集団に打ち勝ってきたわけです。ですから、この教育はなかなかやめることができません。
ただ、この教育やしつけはもっぱらおとなのためのものなので、子どもの本性に合いません。そのため軋轢が生じます。
これに対する単純な策は暴力です。体罰ともいわれます。これで子どもを殺したりケガさせたりすると幼児虐待といわれますが、殺したりケガさせたりしなければ世の中的には問題になりません。
もう少し進化したやり方は、これは子ども自身のためになるのだと説得することです。「勉強すると将来高収入が得られる」「礼儀を身につけない人間は世の中からバカにされる」などです。
しかし、教育やしつけには、どうして子どものためになるのかわからないものも多くあります。そうした場合は、「これは人間としてしなければならないことだ」と説得します。
カントはこれを「定言命法」と言いました。つまり道徳や倫理の中心概念です。
なんのために歴史の勉強をするのかわからない子どもには、「人間は教養を身につけるべきだ」と説得します。
「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問する子どもには、「人間にはしてはいけないことがあるのだ」と説得します。
実はこれにはぜんぜん説得力がないのですが、それをごまかしながら人類は生きてきたのです。
ですから、カントを初めとする倫理学の本はどれも、ごまかすためにひたすら難解になっています。
以上のことを理解すれば、教育問題にどう対処すればいいかわかってくるでしょう。
たいていの教育問題は、豊かさや戦争に強いことを求める教育か、子ども(人間)の本性に合った教育か、どちらを選択するのかという問題に還元できます。
どちらを選択するかは、その人の価値観によることになりますが、豊かさや戦争に強いことを求める教育がごまかしの上に成り立っていることを知ってしまうと、やりづらくなるでしょう。
ですから、この考え方が広まると、世の中の教育が変わってくると私は思っています。