村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年02月

動物は利己的な存在です。社会性動物には親が子の世話をしたり、仲間を助けたりという利他的な性質もありますが、利己的性質と利他的性質のどちらが大きいかといえば、ミツバチなど特殊なものを除くと利己的性質のほうが大きいものです。
とくに哺乳類においては、親が死ぬと子も死ぬことになるので、親は子に対しても明白に利己的です。子育てが困難な状況においては親は子を食べてしまうこともあります。そうして次に子どもをつくる機会を待つほうが繁殖戦略としては正しいからでしょう。親が子を助けようとして自分の命を犠牲にするというのはまれにありますが、これはいわば事故とか誤算というべきものです。
もちろん人間においても同じです。戦乱の中で難民と化した人たちにおいて、親が生き延びるため子を捨てたり預けたり殺したりということはいっぱいありますが、子を助けるために親が命を亡くしたということはめったにありません。また、食糧難の時代には“間引き”ということも行われていました。
 
人間は利己的だとはいっても、相手のいる状況ではそんなに一方的に利己的にふるまえることはありません。むしろ互恵的な関係を築いたほうが、結果的に利己的な目的を達成できることのほうが多いものです。そうした互恵的な関係が進化して資本主義にいたったともいえるでしょう。
 
しかし、一方的に利己的にふるまえる場合もあります。それはおとなが子どもを相手にした場合です。おとなのほうが腕力はありますし、理屈を言うのも達者だからです。おとなは子どもに対して利己的にふるまい、その子どもはおとなになったときまた子どもに対して利己的にふるまうということが繰り返されてきました。つまり、おとなの子どもに対する利己的行動が世代連鎖してきたわけです。
 
この世代連鎖はまったく同じことを繰り返してきたのではありません。世代ごとにおとなの利己的行動は進化してきました。これは人間以外の動物にはほとんどないことです。動物の行動は本能の要素が大きいので、いくら世代をへてもほとんど変わるということがありません。しかし、人間の行動は本能よりも文化の要素が大きいので、その文化は世代をへるごとに進化していきます。
つまり、原始人のおとなは子どもに対してほんの少し利己的にふるまっていましたが、文明人のおとなは子どもに対して大いに利己的にふるまっているわけです。
そうしたおとなの利己的なふるまいを「教育」や「しつけ」といいます。
 
「教育やしつけとはおとなや親の利己的行為である」
このことを頭に入れておくと、教育問題がすっきりと理解できるようになります。
 
親は子どもに「言うことを聞きなさい」「素直になりなさい」「おとなしくしなさい」「行儀よくしなさい」と言います。
教師は生徒に「反抗するな」「校則を守れ」「勉強しろ」と言います。
企業は、従順で協調的で勤勉な人間、つまり不平不満を言わずによく働く人間をつくる教育を求めます。
国家は、よく働いて、きちんと税金を納め、喜んで戦争に行く人間をつくる教育を求めます。
現在の教育が親や教師や企業や国家のために行われていることは明らかでしょう。
 
もっとも、そうした教育にもそれなりの価値はあります。たとえば、勤勉な人間をつくることで社会は豊かになりましたし、戦争をいとわない人間をつくることで、その社会集団はほかの社会集団に打ち勝ってきたわけです。ですから、この教育はなかなかやめることができません。
 
ただ、この教育やしつけはもっぱらおとなのためのものなので、子どもの本性に合いません。そのため軋轢が生じます。
 
これに対する単純な策は暴力です。体罰ともいわれます。これで子どもを殺したりケガさせたりすると幼児虐待といわれますが、殺したりケガさせたりしなければ世の中的には問題になりません。
 
もう少し進化したやり方は、これは子ども自身のためになるのだと説得することです。「勉強すると将来高収入が得られる」「礼儀を身につけない人間は世の中からバカにされる」などです。
 
しかし、教育やしつけには、どうして子どものためになるのかわからないものも多くあります。そうした場合は、「これは人間としてしなければならないことだ」と説得します。
カントはこれを「定言命法」と言いました。つまり道徳や倫理の中心概念です。
 
なんのために歴史の勉強をするのかわからない子どもには、「人間は教養を身につけるべきだ」と説得します。
「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問する子どもには、「人間にはしてはいけないことがあるのだ」と説得します。
実はこれにはぜんぜん説得力がないのですが、それをごまかしながら人類は生きてきたのです。
ですから、カントを初めとする倫理学の本はどれも、ごまかすためにひたすら難解になっています。
 
 
以上のことを理解すれば、教育問題にどう対処すればいいかわかってくるでしょう。
たいていの教育問題は、豊かさや戦争に強いことを求める教育か、子ども(人間)の本性に合った教育か、どちらを選択するのかという問題に還元できます。
 
どちらを選択するかは、その人の価値観によることになりますが、豊かさや戦争に強いことを求める教育がごまかしの上に成り立っていることを知ってしまうと、やりづらくなるでしょう。
ですから、この考え方が広まると、世の中の教育が変わってくると私は思っています。

マスコミは消費税増税が政治の最大の争点のように言っていますが、私はどうもピンときません。増税すれば、お金が国民の懐から国庫へと動くわけですが、そのお金は国の借金を返したり国民の福祉に使われたりするわけです。つまりお金が右から左に動いて、また左から右へと動くわけで、国民としては損も得もありません(消費税増税は低所得層にとっては痛手ですが、その問題はここでは無視することにします)
 
愛知の地域政党「減税日本」は、橋下徹大阪市長との話し合いで減税を一時棚上げするそうですが、かりに減税が実施されたとしても、住民はそんなにうれしくないでしょう。減税された分、住民サービスが低下する理屈ですから、多くの人はどちらでもいいと思っているはずです。
 
ですから、増税だの減税だのは、そんなに重要な問題ではないと思うのです。
これは高福祉高負担と低福祉低負担とどちらがいいかという問題に似ています。たいていの人は、どちらでもいいと思っているか、判断しかねていると思います。中福祉中負担がいいと思う人が多数かもしれません。
高福祉低負担があればいいですが、それが不可能であることは誰でもわかっています。
 
ただ、問題は低福祉高負担という現実があることです。
正確にいうと、払った税金がむだに使われたり、一部の人の不当な利益になったりしているのです。
その金額はよくわかりません。福祉にかかる金額のほうがうんと大きいから、むだをなくす努力をしてもあまり意味がないという説もありますが、そんなことはありません。すでに述べたように増税も減税も損得と関係ありません。税金の使い方で損が発生するのですから、それこそがすべてだといってもいいくらいです。
しかも、この損は毎年発生し続けます。累積すると大きな金額になります。
投資信託には、売買手数料のほかに、信託報酬といって毎年払う経費があり、これが3%以上になるものもあります。株式を組み込んだ投資信託は値動きが激しいので3%ぐらいたいしたことないように思えますが、長期に保有しているとバカになりません。世界的に経済成長が鈍化していますから、むしろ保有するとどんどん損をしていくということにもなりかねません。
税金のむだ使いもそれと同じです。
日本はたいして経済成長しないのですから、むだ使いしている余裕はありません。
 
ところが、マスコミは税金のむだ使いの問題はあまり追及せず、増税論議ばかりしています。たとえば、八ツ場ダムの建設再開が決定されたとき、バンザイ三唱をした人たちがテレビに映っていました。あれはどういう人たちで、どういう思いでバンザイ三唱をしたのでしょうか。マスコミはそのへんを追及してほしいものです。
 
また、マスコミは国会議員の定数削減など政治家自身も痛みを分かち合うべきだと主張していますが、これも結局、不当な利益を得ている既得権益者から国民の目をそらせていることになります。
 
橋下徹大阪市長はこれまでむだな支出を削ることに力を入れてきました。橋下氏が大人気なのは主にそのことが国民に評価されているからでしょう。国民はバカではありません。私自身も、橋下氏のやり方にはいろいろ反対することもありますが、むだな支出を削ったというひとつのことだけで評価しています。
 
 
ところで、私は消費税増税そのものには反対ではありません(もちろんむだの削減が先だと思いますが)。このまま財政赤字が広がると国債が大きく値下がりする可能性があるからです。みんなの党のブレーンである高橋洋一氏などは国債の値下がりはないと主張していますが、相場のことはよくわからないものです(わかる人は確実にもうけられます)。事前に手当てしておくに越したことはありません。

シリーズ「横やり人生相談」です。人が不幸になる原因のひとつに、正しい自己認識が持てないということがあります。そんなことのために不幸な一生を送るのは実にバカバカしいことですが、人はなかなか自己認識を改めることができません。
今回の人生相談は、正しい自己認識を持っていないということがよくわかる相談なので取り上げました。
 
「40代女性 一人暮らし苦痛」201222  読売新聞)
40代後半の女性。一人暮らしをしています。最近、何のために生きているのかわからなくなってきました。
  2年前に離婚し、息子2人は独立しています。両親も亡くなっており、きょうだいもいません。働いているので生活には困りませんし、何事も一人で決めて一人でする自由も感じています。でも、息子や友人と会うのは1~2か月に1度で、人と全くしゃべらない日もあります。スーパーなどで楽しく買い物をしている家族連れを見かけると落ち込み、涙してしまいます。
  私はお人よしの世話好きで、人に何かをすることで喜びを感じる性格でした。夫や息子、両親のために一生懸命に生きてきたので、一人で生活することに戸惑っているのです。
  東日本大震災の被災者に比べればぜいたくな悩みですが、どうすれば一人でも楽しく生きていけるでしょうか。(奈良・U子)
 
 
この人生相談の回答者は評論家の樋口恵子さんです。
樋口さんは、他人のために働くことが好きという性格を生かしてボランティア活動や趣味の活動をすれば成果が得られますと回答し、さらに、まだ若いのだから中年婚活をしてみてはとアドバイスします。
この相談者の性格が本人の言っている通り「お人よしの世話好きで、人に何かをすることで喜びを感じる性格」であれば、樋口さんの回答でいいのですが、果たして相談者はそういう性格なのでしょうか。
私は相談者の性格は本人が言っているのとは違うのではないかと思いました(もちろん限られた文面から推測するだけなので、その推測が正しいとは断言できませんが)。
 
まず、相談者は離婚しています。離婚の原因は書いてありませんが、相談者にもなにか問題がある可能性はあります。
2人の息子さんがどれくらい離れたところにいるのかわかりませんが、年齢からして結婚から子育てという時期を迎えつつあるわけで、母親なら頼りにされていいはずです。母親がそんなに寂しい思いをするというのも不思議です。
「息子や友人と会うのは1~2か月に1度」と書いているので、身近に友人もいないようです。
働いているのに、職場の人間関係のことがまったく書かれていないのも不思議です。
 
相談者は自分のことを「私はお人よしの世話好きで、人に何かをすることで喜びを感じる性格でした。夫や息子、両親のために一生懸命に生きてきた」と書いています。もしそうなら離婚もないし、息子たちは母親を寂しがらせないように気をつかってくれるでしょうし、周りに友人がいっぱいいるはずです。
ですから私は、相談者の「お人よしの世話好きで、人に何かをすることで喜びを感じる性格」という自己認識は違うのではないかと思ったのです。
実際のところは、「おせっかいで、人がいやがっていても無視して、つねに自分勝手にふるまう性格」なのではないでしょうか。そのために夫や息子や周りの人は辟易して逃げていったと考えれば、つじつまが合います。
とくに気になるのが、「夫や息子、両親のために一生懸命に生きてきた」という表現です。普通は「両親は自分のために一生懸命いろんなことをしてくれたのに、自分は両親になにもしてあげられなかった」という表現になるものです。この人は、自分が人からされたことの認識はなくて、自分が人にしてあげていることの認識だけはあるようです。
もしそういう性格なら、ボランティア活動や趣味の活動をしても友だちはできないでしょう。自分の性格を直すのが先決です。
 
ただ、この相談者の場合、性格を直すのは比較的容易かもしれません。というのは、この相談者は人を非難していないからです。
 
普通、自分勝手な人というのは周りの人を非難するものです。
夫に一生懸命尽くしたのに、夫に裏切られたとか、息子に一生懸命尽くしたのに、息子は恩知らずだとか、周りの人は私がお人よしなのにつけ込んで、私を利用しようとする人ばかりだとか。
たとえば夫の悪いところをいくつも並べられると、それを聞く人は、ほんとに夫が悪い人で、相談者はよい人のように思ってしまいかねません。世の中はこうした自分勝手な人がほとんどなので、誰がよい人間で誰が悪い人間なのか、まったくわけがわからない状態になっています。
 
この相談者は自分のことを「よい人間」だと思っています。そのために自分の性格を直そうという発想が出てきません。
「よい人間」「悪い人間」ということを頭から追い出して、なぜ自分は不幸なのかと考えれば、その原因がわかり、対策もわかるはずです。
 
道徳が人を不幸にしているひとつの例です。

沈滞した日本の中で今いちばん勢いのあるのが橋下徹大阪市長なので、このブログもついつい橋下氏について書いてしまうことになります。
大阪府の教育基本条例案がまとまりました。これについていろいろな議論がありますが、こういう議論は時間のむだといっても過言ではありません。教育論というのは不毛と決まったものなのです。
たとえば、体罰是か非かというテーマで議論すると、体罰賛成派と反対派が熱くバトルを繰り広げることになりますが、結局結論は出ませんし、誰かが説得されて意見を変えるということもありません。
こうした事態を打破するには、教育の本質論をしなければなりませんが、それは大阪府教育基本条例とは次元の違う話になってしまうので、ここではやりません。
そこで、教育委員会についてだけ少し意見を述べることにします。
 
条例案には教育委員を罷免する規定があり、これによって「民意」を反映させるということですが、それに対して「教育の政治的中立」を冒すものだという反対論があります。どちらが正しいのでしょうか。
まず「教育の政治的中立」ですが、政治から中立であるということはどういうことかというと、要するに官僚支配、役人天国ということなのです。聖域ができると、そこが役人天国になるのは当然です。
私は教育委員会にどんな存在価値があるのかまったくわかりません。たとえば学校でイジメがあったとき教育委員会に訴えたら、教育委員会が迅速に解決してくれたという話はあまり聞きませんし、学校が体罰事件などを隠ぺいしているとき、教育委員会が指導したという話もあまり聞きません。むしろ学校をかばうようなことをしているという印象があります。
以前から教育委員会の形骸化ということが指摘されていたので、ここに改革のメスを入れるということは当然あっていいでしょう。
 
しかし、首長が教育委員会を完全に支配し、首長の考え次第で教育のあり方がころころ変わるのも困ったものです。首長は「民意」によって選ばれるといっても、教育問題が首長選の重要争点になるということはまずありえないので、「首長の教育についての考え」を「民意」だというのはむりがあります。
 
では、どうすればいいのかというと、答えはきわめて簡単です。
「教育委員公選制」にすればいいのです。
 
教育委員会は戦後、GHQの勧告でつくられたもので、アメリカの制度をまねたものです。ですから、最初は公選制だったのです。
ちなみにアメリカでは保安官や地方検事も公選制です。アメリカの推理小説を読んでいると、選挙が近づくと住民に愛想がよくなる保安官や、話題性のある事件を手がけてテレビに出たがる検事などが出てきます。
教育委員会は公選制だからこそ、首長から独立した存在であるわけです。
 
ところが、教育委員選挙が低投票率であることや政治対立が持ち込まれるなどの理由から公選制は1956年に廃止されます。
その結果、教育委員会は独立しているのかしていないのか、わけのわからない組織になり、実質的に役人が支配するものとなったのです。
 
そうした中、東京都中野区では、1981年から教育委員公選制を復活させました。これは区民の投票で直接選ぶのではなく、区民の投票結果を尊重して区長が選ぶという形式なので、「準公選制」と言われます。
 
ウィキペディアの「中野区教育委員候補者選定に関する区民投票条例」の項から引用します。
 
1981年、1985年、1989年、1993年の計4回、教育委員会準公選制が実施された。準公選による教育委員会は、栄養士の全校配置、図書館司書の配置、会議回数の増加、会議での傍聴市民の録音・写真撮影・発言の許可など様々な改革に乗り出し、一定の成果を収めた。
 
一方で投票率は第1回が42.98%、第227.37%、第325.64%、第423.83%と低迷。特定の組織を抱えた委員候補が有利になりやすい、教育委員会に党派的対立が持ち込まれるなど、かつて教育委員会公選制が行われていた時期と同様の問題点も浮上した。さらに文部省が準公選に対して違法の疑いと政治的中立が失われるとする懸念を表明する。
 
 
そのため1995年に準公選制は廃止されます。私の記憶では、文部省が再三「違法の疑いがある」と表明して、そのためにつぶされたという印象があります。
 
教育に「民意」を反映させることがだいじだと思うなら、大阪府も「教育委員準公選制」を採用するべきでしょう。これなら誰からも文句が出ないのではないでしょうか(文部科学省は別にして)。
 
つけ加えると、教師をクビにするときも、もっぱら「民意」によって決めればいいのです。これは保護者を含むあやしげな組織によって決めるというのではなく、教師と直接接している保護者と生徒が教師を評価するという形にしなければいけません。
こういう意見は極論だとして反対する人もいるでしょうが、こういう議論を深めていくと教育の本質に迫っていくことができます。

橋下徹大阪市長はなにかと話題の中心です。週刊誌は、解散総選挙になれば大阪維新の会が300人擁立して200人当選するなどと書いています。しかし、私の考えでは、かりにそうなったとしても日本の政治はよくなりません。
 
128日の橋下氏が出演した「朝まで生テレビ」を見ましたが、橋下氏の論争術もたいしたものではないと思いました。たとえば大阪市長選のマニフェストで区長の「公選制」を掲げていたのに、当選後は「公募制」に変えたことを追及され、答えに窮すると、「では、大阪をどう変えたいのか」と相手に切り返していました。これは明らかにすりかえですが、幸い相手がまともに答えてしまって、すりかえが成功していました。もし相手が論争術にたけた人で、「私の考えはどうでもいいんですよ。マニフェストが間違っていたことを認めるんですか」と切り返していたら、橋下氏は自分の間違いを認めざるをえなくなり、劣勢が印象づけられてしまったでしょう。
ボクシングでいえば、橋下氏はコーナーに追い詰められたものの、うまく身をかわして相手に決定打を打たせなかったという格好です。橋下氏は同じやり方で23回ピンチを切り抜けていました。
テレビ討論では、どちらが正しいことを言ったかではなく、観客が優勢と思ったほうが勝ちです。ボクシングのように有効打の数がポイントになります。
 
しかし、今回のテレビ出演で橋下氏の手口は読まれてしまったでしょうから、今後は同じ手口は使えなくなるのではないでしょうか。
 
その点、小泉純一郎氏はあの手この手で議論に勝利していました。
たとえば、自衛隊がイラクのサマワに行っていたころ、自衛隊は非戦闘地域でしか活動できないと特措法で決まっていたのですが、党首討論の場で岡田克也氏に「サマワは非戦闘地域ではないのではないか」と追及されたとき、「自衛隊がいるところが非戦闘地域だ」とあからさまな詭弁の答弁をしました。岡田氏がその詭弁をその場で追及できなかったために、結局それで通ってしまったのです。
小泉氏は言葉に気迫を込めていたために、岡田氏が気おされてしまったということもあるでしょう。
詭弁が通るというのも困ったことですが、劇場型の政治ではそういうこともあります。
橋下氏にそこまでの気迫があるかどうかですが。
 
また、橋下氏は「統治機構を変える」ということを繰り返し言っていました。これは民主党が「政治主導」や「脱官僚依存」と言っていたことの橋下氏的表現でしょう。
民主党の「政治主導」や「脱官僚依存」がうまくいかなくて、橋下氏の「統治機構を変える」がうまくいく根拠があるでしょうか。はっきりいってまったく見えません。
 
たとえば、「体制維新――大阪都」(橋下徹・堺屋太一共著)という本で堺屋太一氏は、民主党の失敗をたとえて、タクシーの客は行き先を言って運転はプロの運転手に任せておけばいいのに、自分で運転席を占拠してハンドルを握ってしまったようなものだと言っています。
はっきり言って、この認識は甘いのではないかと私は思います。確かに民主党は自分でハンドルを握って失敗したのですが、なぜ自分でハンドルを握ったのかということです。行き先さえ言って目的地に着くのなら、そうしていたはずです。
 
民主党がうまくできなくて、橋下氏にうまくやれるとは思えません。
たとえば、大阪維新の会が300人擁立して200人当選させたとしても、その200人はほとんどが素人同然です。中央省庁の官僚に立ち向かえるとは思えません。鉄砲の打ち方だけ教えた兵隊に近代要塞を攻撃させるようなものです。
「みんなの党」にはある程度実力者がいますが、数が少なすぎます。
 
民主党の失敗に学ばない者は、また同じ失敗をするに違いありません。
 
 
このエントリーをアップしようとしたら、やしきたかじんさんが食道がんで芸能活動を休業するというニュースを見ました。これも橋下氏にはけっこうマイナスになるのでしょうね。

このページのトップヘ