村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年03月

29日、3人の死刑囚の死刑が執行されました。記者会見に臨んだ小川敏夫法務大臣は「刑罰権は国民にある。国民の声を反映するという裁判員裁判でも死刑が支持されている」と述べました。
行政訴訟では「国民の声」などまったく無視した判決が連発されるのに、こんなところだけ「国民の声」を持ち出すとは、司法関係者も身勝手なものです。
「国民の声」を持ち出すのは、死刑そのものに論理的な根拠がないからです。「正義」を持ち出しても、「正義ってなんですか」と問われると、誰も答えられません。
「国民の声」ももちろん論理的なものではありません。「国民の声」とは要するに「国民感情」といってもいいでしょう。「感情」とは不合理なものです。
 
たとえば、話は変わるようですが、AIJ投資顧問が1000億円以上を消失させ、年金基金に大きな損失を与えたという事件があります。27日、衆院財務金融委員会にAIJ投資顧問の浅川和彦社長が参考人として出席し、質疑に答えましたが、私はこの人はまだ逮捕されていなかったのかと、軽い驚きを覚えました。お金の行方はまだよくわかっていません。浅川社長は隠しているお金を持って行方をくらませる恐れがないとはいえないので、早く身柄を拘束したほうがいいと思うのですが。
それはともかく、この事件が国民に与える損失はきわめて大きいものですが、この事件について国民感情はあまり大きく動きません。
それは考えてみれば当たり前で、殺人事件は具体的にイメージできますし、被害者や被害者遺族の心の痛みもわがことのように思うことができますが、1000億円の損失というのは具体的にイメージできません。それに、年金をもらうのは20年も30年も先だという人はますますピンときません。
 
つまり、私たちの感情が合理的ではないのです。殺人事件は少数の人に大きな痛手を与え、AIJ事件は多数の人に小さい痛手を与えるのですが、トータルしてどちらの痛手がより大きいかというと、AIJ事件のほうかもしれません。
 
私は株式投資を少しします。「少し」というのは、私はあまり投資向きの性格ではないことがわかったので、あまり売買をせず、株主優待と配当目当ての株を少し持っているだけにしているからです。
それでも、一応株式投資をした経験から、人間の感情はいかに不合理なものであるかを痛感しました。
つまり素人が感情のままに株式の売買をすると、たいてい損をするのです(プロはそういう感情でなく売買して儲けているわけです)
ですから、最近は経済学や投資の世界では、行動経済学や行動ファイナンスといって、人間の不合理な行動や感情を研究することがブームとなって、多くの本が出版されています。
 
ところが、法学や司法の分野では、相変わらず「感情」を根拠にして判決が下され、死刑が執行されています。
もちろん「感情」に合理的根拠があるか否かということはまったく検証されません。
たとえば、よく「足を踏まれたほうは痛みを覚えているが、踏んだほうはすぐに忘れてしまう」ということが言われます。そうすると、痛みの記憶を根拠に復讐すると、復讐されたほうは納得がいかないので、復讐がどんどんエスカレートしていく可能性があります。同様に「感情」を根拠に人を罰していると、社会の「処罰感情」がどんどんエスカレートしていく可能性があるわけです。
 
死刑のような重大事項は、「感情」という非合理的なものを根拠にして行うべきではありません。
一方、AIJ事件のようなことは、「感情」がなくてもきびしく追及していかなければなりません。
 
法学や司法の世界は、「感情」ではなく合理的な論理によって運営されるべきです。

芸能界を引退した島田紳助さんは、考えてみれば偉大な人でした。世の中の価値観にコペルニクス的転回をもたらしたからです。それは「おバカ」の発見です。
 
「クイズ!ヘキサゴン!!」で、バカな回答をするタレントが笑いをとっているのを見た紳助さんは、それらのタレントをおバカタレントとしてフィーチャーし、売り出しました。紳助さんがプロデュースした音楽ユニット「羞恥心」(つるの剛士、野久保直樹、上地雄輔)及び「Pabo」(里田まい、スザンヌ、木下優樹菜)は大人気となり、「おバカ」は価値あるものとなったのです。
 
それまでバカとは軽蔑されるものであり、私たちはバカにならないよう勉強し、またバカと見られないよう知ったかぶりなどをしてきたわけですが、そうした価値観が揺らぐことになったわけです。
 
もっとも、多くの人はそのことを認めたくないようです。当時、「日経ビジネスオンライン」に誰かがおバカタレントブームについて文章を書いていたのですが、それにつけられたコメントは圧倒的におバカブームを否定的に見ていて、まじめに勉強することのたいせつさを訴えるものでした。また今、「おバカタレント」で検索してみても、否定的な評価をする意見のほうが多く見られます。
 
もちろんバカか賢いか、知識があるかないかといったら、賢くて知識があるほうがいいのですが、それは人間を評価する物差しのひとつにすぎません。
おバカタレントはたいてい美男美女です。それに歌などの才能を持っています。性格も明るくて、好感度が高いです。おバカタレントはバカであっても、総合評価で高ポイントをあげているわけです。
 
さらに、おバカタレントは自己肯定感が強いのではないかと私は思っています。
人がおバカを好むのは、バカな発言などを聞いたときに優越感を味わえるということもひとつの理由です。人が優越感を味わうということは、その対象となる人のほうは劣等感を味わうことになるのが普通ですが、おバカタレントはそういうことがないようです。人に笑われても平気でいられるのです。この自己肯定感の強さに私たちは自分にないものを感じ、憧れを持つのではないでしょうか。おバカタレントの人気はそこにもあるのだと思います。
ちなみにオネエタレントも、オネエというのは社会的に低く見られますが、それをはね返すだけの強い自己肯定感を持っている人たちのような気がします。
 
私たちのほとんどは、学校において勉強ができるか否かという単一の物差しで測られ、そのことをずっと引きずり、劣等感を持たされてしまっています。しかし、その物差しは実社会ではそれほど役に立つものではありません。
たとえば、ダウンタウンの松本人志さんは、島田紳助さんとのトーク番組「松本紳助」において、自分は九九ができないということを語っていました。どうしても掛け算をしなければならないときは、足し算を繰り返すそうです。九九ができないというのは、学校の物差しではバカということになりますが、そんな評価にはほとんど意味がないということがわかります。
 
おバカタレントの活躍は、私たちの人を評価する物差しのつまらなさを教えてくれます。
 
最近テレビで目立っているおバカタレントは、鈴木奈々、坂口杏里といったところです。ローラもおバカのうちでしょうか。みんなおもしろくて、番組を盛り上げています。

私はテレビ番組の中ではお笑い番組が好きです。それもゴールデンアワーのものではなく、もっぱら深夜のものを見ます。お気に入りの番組は録画しておき、原稿を書き終わって寝るまでの間に見ます。気楽に見られるので、クールダウンするのにぴったりです。
よく録画する番組は、「アメトーーク!」「タモリ倶楽部」「芸人報道」「にけつッ!!」「ざっくりハイボール」「志村軒」「さまぁ~ず×さまぁ~ず」「ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ!」「東京都さまぁ~ZOO」などです(東京ローカルでのことです)
明石家さんまさんのゴールデンの番組もおもしろいのですが、さんまさんやスタッフの力が入りすぎていて、なかなか気楽に見られません。その点、深夜番組はゆるくつくられていて、万人向けでないので適度に毒もあり、私に向いています。
 
今、お笑い芸人の世界は底辺がきわめて広いので、テレビに出ているお笑い芸人は激烈な競争を勝ち上がってきた人たちです。ですから、いろんな意味でレベルが高く、芸人の書いた本がいくつもベストセラーになっていますし、映画監督をする人も何人もいます。
おそらく日本のお笑いのレベルは世界でも抜きん出ているのではないでしょうか。たとえば2人でかけ合いをする漫才という形式は外国にはないのではないかと思います。アメリカなどでは、スタンダップコメディという漫談の形式が主流ですし、それもほとんどが差別ネタです。“言葉の壁”があるために日本のお笑いが世界に出ていくということはありませんが、もしなんらかの手段で“言葉の壁”を乗り越えることができれば、日本のお笑いはマンガやアニメ以上に世界で評価されるのではないかと思います。
 
私は京都生まれなので、子どものころから関西のお笑いに親しんでいました。中でも好きだったのが吉本新喜劇です。もちろん今の吉本新喜劇とメンバーがぜんぜん違います。当時は岡八郎、平三平、花紀京、ルーキー新一などが人気メンバーでした。
ワンパターンのストーリーに加えて毎回同じギャグ、どうしてこんなものがおもしろいのかと自分でも思うのですが、それでもおもしろい。たとえば、ボコボコに殴られてフラフラになりながら「今日はこれぐらいにしといたるわ!」とか、「俺は空手を習うてるんやど!……通信教育やけどな」とか、毎回笑ってしまいます。
 
当時は松竹新喜劇も人気がありました。こちらは藤山寛美という天才的な役者がいて、きっちりつくり込まれた芝居で、レベルはぜんぜん高かったと思います。母親などはこちらを好んで見ていましたが、私は低レベルでバカバカしい吉本新喜劇のほうが好きでした。
 
ところが、父親はお笑いというものをまったく理解しない人でした。私が吉本新喜劇やその他のお笑い番組を見ていると、ひたすらバカにします。お笑い番組を見ることが父親とのバトルでもあったわけです。
 
父親は旧帝国大学出のインテリでした。昔のインテリがお笑いをバカにするのはきわめて一般的なことだったでしょう。
私の世代になって初めて、学生になってもマンガを読むといったことが一般化したのです。
 
父親と私とのバトルは、メインカルチャーとサブカルチャーのバトルでもありました。そして、私はサブカルチャーのほうに自分の原点を見いだしたわけです。
 
 
ところで、先日亡くなった吉本隆明は「大衆の原像」ということをよく言っていました。吉本隆明の世代においては「知識人対大衆」という認識が当たり前のことでしたが、吉本隆明は、知識人は大衆から遊離してはいけない、だから「大衆の原像」をいつも心に持つようにするべきだという考えだったのでしょう。
その意味では、吉本隆明は自分を知識人と規定して、自分と大衆とは別だと思っていたわけです。
しかし、私は基本的に自分は大衆(の1人)だと思っています。ですから、自分の考えは大衆の考えであり、大衆の考えは自分の考えであるので、「大衆の原像」などというものは必要ありません。
そして、「知識人対大衆」という図式でいえば、私は大衆の側から知識人を批判的に見ることになります。そうした視点が思想や学問の総体を批判する今の考えにつながったといえます。
 
「吉本隆明対吉本新喜劇」という図式でいえば、吉本新喜劇こそが私の原点です(このダジャレはまったくの偶然です)
 
思想的なことはいっさい抜きにしても、お笑いが好きな私と、お笑いを軽蔑していた父親と、どちらが幸せかといえば間違いなく私のほうだといえます。

シリーズ「横やり人生相談」です。世の中には何度も離婚を繰り返す人がいます。こういう人は、自分に離婚の原因があるのに、そのことに気づいていないのでしょう。最初の離婚のときに、あるいはその前に気づきたいものです。
今回の相談は、離婚をしたことを後悔しつつも、離婚の原因がどこにあるか気づかない人のものです。
 
 
「週末婚」の夫と離婚し後悔2011718  読売新聞)
 20代後半の会社員女性。先日離婚しましたが、そのことを毎日のように後悔しています。
 2歳年下の男性と2年交際し、迷いながらも昨春結婚しました。互いの仕事の都合で、週末だけ会う「週末婚」の形を取りましたが、週に1度会う時はいつもケンカになりました。
 例えば、私が彼の家に行っても、彼は私の荷物を持ってくれない。理由を聞くと「重そうにみえないから」と言われました。「持とうか」と声もかけてくれないことがショックでした。
 お金のことでもよくもめました。結婚前からいつも割り勘で、新婚旅行ですらそうでした。自分の趣味にはお金をかけるのに、おごるのは嫌なようで、週末に私が彼の家に通うための電車賃も出しませんでした。
 「彼に大事にされているなあ」と一度も思うことがなく、結局離婚しました。でもその後、自分の年齢や今後出会いがあるかなど、不安を感じるばかりです。よくよく考えて決めたはずなのに情けないですが、嫌なことばかり考えてしまいます。(兵庫・N子)
 
 
回答者は弁護士の土肥幸代さんです。
土肥さんは、2人の愛は本物ではなかったのでしょう、喧嘩ばかりの結婚生活に見切りをつけたのは正解です、今回の経験は同じ失敗を繰り返さないための貴重な反省材料とすればいいのです、というふうに回答しています。
 
私自身は、果たしてこれは離婚するほどのことかと思います。こんなことは離婚の理由にならないでしょう。確かに同じ失敗を繰り返さないための反省材料とすればいいのですが、どう反省するべきかは回答の中に書いてありません。
 
おそらく誰でも感じるでしょうが、喧嘩の原因がひじょうにつまらないことです。
たとえば、彼が荷物を持ってくれないということですが、彼に「重そうにみえないから」と言われ、相談者はそのことを否定していません。つまり、荷物は重くないようなのです。
相談者は、「持とうか」と声もかけてくれないことがショックだというのですが、そういうのは見せかけのやさしさです。
世の中には、妻が重い荷物を持ってつらい思いをしているのに、まったくそんなことに気づかず、自分だけ先にスタスタ歩いていってしまう夫がいます。こういうのは根本的にやさしさが欠けていますし、もう十分離婚の原因になります。しかし、この相談を読む限りにおいて、彼はそういう人ではありません。むしろ見せかけのやさしさは示さないが、ほんとうのやさしさを持っている人かもしれません。
 
いつも割り勘で、新婚旅行もそうだというのですが、この相談者は会社員として働いていて、共働きなのですから、割り勘であるのは当然でしょう。自分の趣味にお金をかけるのも当たり前のことです。おごってくれないのが不満だということですが、共働きの夫婦で、夫が妻におごるというのもへんでしょう。
夫が高給取りで、自分の給料はうんと少ないのに、夫は割り勘にしてくる。だから不満だというのならわかりますが、給料に差があるとは書いてありません。
週末に通うための電車賃も出さないということですが、確かに毎回妻だけが電車移動しているのなら、それも割り勘にするべきでしょう。
ただ、ちゃんとそのことを主張したのでしょうか。主張したのに出してくれないというのなら不満を持つのもわからないではありませんが、ただ、そういう小さいことを不満に感じるというのは、相談者のほうに問題があるかもしれません。
 
「彼に大事にされているなあ」と一度も思うことがなかったということですが、彼におごってもらったら「大事にされているなあ」と思うのでしょうか。
それは必ずしも大事にされていることにならないと思います。
たとえば、病気になったとき看病してくれたとか、困ったとき助けてくれたとか、そんなことが肝心のことです。
 
また、この相談者は彼のことを大事にしているのでしょうか。夫婦なのですから、自分だけ大事にされることを望んでいてはいけません。彼が困っているときに助ける心の準備があるでしょうか。
 
結局、この相談者は夫婦とは対等の関係であるものだということを理解していないようですし、見せかけのやさしさとほんとうのやさしさの区別もついてないようです。
このままでは見せかけのやさしさを持った男にひっかかってしまうかもしれませんし、ほんとうのやさしさを持った男を見逃し続けるかもしれません。
ですから、離婚を後悔するのは当然です。後悔の感情は正しい感情です。
 
私がこの相談に回答するとすれば、夫婦は対等の関係であることを理解し、見せかけのやさしさよりほんとうのやさしさが大事なことを理解し、彼ともう一度やり直しなさいと言います。

このブログはできるだけ、社会にとってあるいは人間にとって大きな問題を扱うようにしているのですが、ネットの特性として、重箱の隅をつつくような問題に関心が集まる傾向があるような気がします。そこで、これまでの流れもあって、私もそういう小さい問題を取り上げてみることにしました。
というのは、大阪の府立和泉高校での国歌斉唱時の“口元チェック”問題の報道に関して、和泉高校の中原徹校長が自身のブログで反論するということがあり、これがテレビ朝日の「報道ステーション」に対して謝罪を求める署名集めにまでつながっているからです。私もこの問題は二度も取り上げているだけに、放ってはおけません。
 
中原校長のブログを読んだときは、お粗末な反論だなと思いましたが、1人の校長に対して批判するというのもあまり意味はないと思い、前回のエントリーでは「つまらない弁解です」ぐらいの表現にとどめておきました。しかし、今回はもう少し批判したいと思います。
 
「報道ステーション」が誤報したとするガジェット通信の記事
 
「報道ステーション」に謝罪を求める署名集めのサイト
 
中原徹校長のブログ「読売新聞の記事について」
 
中原徹校長のブログ「国歌斉唱について」
 
中原校長は、自分は前を向いて歌っていたのでチェックしたのは教頭と主席教諭である、時間にして5秒ぐらいだった、凝視して監視していたわけではない、とブログに書いています。
しかし、口元チェックをしていたことは否定しようもありません。とくに歌っていたかいないかを判断するのは、「一瞥」するぐらいではむりですから、やはり「凝視」していたに違いありません。そういうことで私は「つまらない弁解」と書いたわけです。
 
また、中原校長は「私自身、人が歌っているのをジーっと疑惑の目で監視するようなことを生徒の晴れの門出の舞台ですることには反対です」と書いています。しかし、教頭と主席教諭にはさせているわけです。自分がしたくないことを教頭と主席教諭にさせるというのはどうなのかとも思ってしまいます。
 
そして、ここがいちばん肝心のところですが、中原校長は「大阪の条例・職務命令に基づき、教頭が数秒間は起立・斉唱を確認しなければならないのです。これは絶対に行わねばなりません」と書いていますが、これは事実に反します。
府教委の通達には、「式場内のすべての教職員は、国歌斉唱に当たっては、起立して斉唱すること」と書かれていて、これが「職務命令」ということですが、この通達には「起立・斉唱を確認しなければならない」というようなくだりはいっさいありません。
 
府教委の通達
 
「起立・斉唱を確認しなければならない」というのは命令ではなく、中原校長と府教委とのやりとりの中で出てきたことです。一部繰り返しになりますが、校長のブログから引用します。
『私自身、人が歌っているのをジーっと疑惑の目で監視するようなことを生徒の晴れの門出の舞台ですることには反対です。だからこそ、府教委に確認をしました。その結果、「じっと凝視したり、近づいたりすることなく、遠目で確認してください」との回答をもらいました』
つまり、校長がもらったのは「命令」ではなく「回答」なのです。もちろん通達ではなく、文書の形でもないはずです。
 
私が想像するに、中原校長は府教委に電話して、歌っているのを確認するべきかどうか聞いたのでしょう。そして、「遠目で確認してください」と言われたのでしょう(誰かと面会していても同じことです)。
誰が言ったのか? 府教委に口はありません。府教委の誰かが言ったわけです。誰とは書いてありませんが、事務方の誰かでしょう。教育長かもしれませんが、その下の人間かもしれません。
 
教育委員会というのは、首長に任命された民間有識者などの教育委員と、事務方である役人とで成り立っています。教育委員のトップが教育委員長で、事務方のトップが教育長です。
これを文部科学省にたとえれば、中原校長は事務次官か局長あたりの意見を聞いて、それを「文部科学省の命令」だと言っているようなものです。そんなものは文部科学大臣や副大臣や政務官に否定されればおしまいです。
で、実際そうなりました。生野照子教育委員長やほかの教育委員が次々と中原校長のしたことを批判したのです。
 
中原校長は自分の行為を正当化するために、「大阪の条例・職務命令に基づき、教頭が数秒間は起立・斉唱を確認しなければならない」と事実に反することをブログに書いてしまいました。そして、それに“釣られた”人たちが変な署名集めの運動を始めて、問題が広がってしまったのです。
 
中原校長は人が歌っているのを疑惑の目で監視するのには反対だったということです。それなら、教育長にもそのことを主張すればよかったのです。もし教育長が強い口調で「監視せよ」と言ってきたら、教育委員に直訴するという手もありますし、自分の意志ではねつけてもよかったのです(教育長というのはただの役人です)。民間出身の校長なのですから、そういう役割も期待されていたはずです(私が最初に中原校長のブログを読んだときには、教育委員会の組織的な欠陥を指摘するくだりもあったのですが、現在は削除されています)。
 
国歌斉唱や起立問題など、教育の世界においてはまったくつまらない問題で、ほかにだいじな問題が山積されています。中原校長は自分の果たすべき役割をしっかりと自覚してほしいものです。
 
 
ところで、中原校長はなぜ「回答」を「命令」と書いたのでしょうか。もちろんそれは「命令」にしておけば自分の責任を問われることがないからです。犯罪行為の責任を問われた旧日本軍の軍人が上官の「命令」を盾に責任逃れをしようとしたことが思い出されます。「命令」で動く組織は、自分で判断しない、無責任な人間をつくりだします。

大阪の学校の卒業式における国歌斉唱と起立問題から派生した府立和泉高校の“口元チェック”問題ですが、中原徹校長は自身のブログにおいて、チェックしたのは自分でなく教頭だとか、時間は5秒ぐらいだとか、1030メートルぐらい離れていただとか述べていますが、つまらない弁解です。橋下徹市長がせっかく「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しているのですから、橋下市長にも失礼です。
とはいえ、歌っているかいないかチェックするというのは、さすがに誰の目から見ても姑息な行為なので、弁解したくもなるでしょう。
 
しかし、ネットの反応を見ていると、相変わらず不起立教師バッシングの意見が多いようです。2ちゃんねるがそういう反応なのはだいたい想像がつきますが、BLOGOSというサイトの掲示板も8割ぐらいが不起立教師に批判的です。
 
『大阪の「口元チェック」騒動、あなたはどう見る?』
 
不起立教師を批判する論理は、ほとんどがルールや規律や命令は守るべきだからというものです。
国歌斉唱時には起立するべきだからという意見もありますが、これは価値観の問題ですから、価値観の違う人は説得できません。人に礼儀を尽くすのは合理的行動ですが、国旗や国歌に礼儀を尽くすのは合理的行動とはいえませんから、行為そのものの正しさを説明することはできないわけです。
そのためルールや規律や命令は守るべきだからという論理になります。
しかし、そのルールや規律や命令は正しいか否かという議論はありません。ルールや規律や命令にまったく無批判なのです。
 
なぜこういう人が多いのでしょうか。それは日本の教育がだめだからです。だめな教育はだめな人間をつくります。ルールや規律や命令を無批判に受け入れるのはだめな人間です。
 
日本の学校は圧倒的に、生徒にルールや規律を守らせることにこだわっています。そういう学校で学ぶと、人にルールや規律を守らせることにこだわる人間になってしまいます。
 
たとえば、日本の学校は生徒の服装や髪形や髪の毛の色に異常にこだわります。その結果、人の服装(とくに若者の服装)に異常にこだわる人間が量産されます。そのひとつの例が、2010年のバンクーバー冬季オリンピックにおいてスノーボード代表の国母和宏選手が制服を“腰パン”にしていたということで大バッシングを受けたことです。これから国を代表して戦いに行こうという若者を後ろから撃つ日本人がいっぱいいたのです。
このことは「リクルートスーツと学生服」というエントリーでも書きました。
 
こうした教育は富国強兵と軍国主義の時代のものです。兵隊と単純労働の労働者をつくるための教育です。そこから一歩も進歩していないのです。
左翼教師は軍国教育を批判して、平和教育への転換をはかろうとしましたが、たとえば生徒を校庭に整列させて、気をつけ、休め、前へならえ、右向け右、回れ右など軍隊と同じことをさせることにはまったく無批判でした(こうしたことは自衛隊か警察に就職しない限り役に立ちません)。
そのため戦後教育も、教科書の内容は多少変わりましたが、形態としては軍国時代のままなのです。
 
たとえば、教師は職務命令に従うべきだという意見があります。
戦争映画を観ていると、上官が「これは命令だ!」と言う場面がよく出てきます。「命令に従え」というのは軍隊の論理です。
一般の会社でも命令に従うべきではあるのですが、あくまで上司は部下を動機づけ、納得ずくで動かさなければなりません。納得いかない部下を「これは命令だ!」と言って動かす上司は指導力がないということになってしまいます。
 
ちなみに民主国家では、間接民主主義とはいえ国民が法律をつくるわけですから、国民はその法律が正しいかどうかを判断する力を持たなければなりません。ルールや規律や命令に従えと言っている人は、民主国家にはふさわしくない人です。
 
そのルールや規律や命令は正しいか否かということを考えさせる教育が必要です。

吉本隆明氏が亡くなりました。私の世代には特別な存在でした。60年代末には「擬制の終焉」や「情況への発言」や「共同幻想論」が本屋に積まれ、少なくとも左翼的な学生なら読まなければいけないような雰囲気でした。
しかし、私は吉本氏の難解な文章はまったく苦手なので、吉本隆明全著作集の詩篇を読んでお茶を濁していました。詩なら難解でも読むことができます。ちなみに吉本氏の詩はそれほど悪くはありませんが、たとえば私の好きな田村隆一、萩原朔太郎、三好達治などと比べると、格段に見劣りします。
 
吉本氏が思想界でカリスマとなったのは、ひとつには論争に強かったからです。とくに最初に花田清輝との論争に勝利し、これで論壇でのステータスが確立されたと思われます。
ちなみにサルトルはカミュとの「革命か反抗か」という論争で勝利し、それでカリスマ的思想家としてのステータスを確立しました。現在、橋下徹大阪市長がカリスマ的地位を確立しつつあるのも、論争に強いからでしょう。
論争に勝つというのは、誰の目にもその人が論客として凄いとわかります(正しいことを言っているとは限らないのですが)
 
なぜ吉本氏が論争に強かったかというと、すでに指摘されていることですが、左翼知識人がマルクス主義を金科玉条としていた時代に、吉本氏だけはマルクス主義を絶対視していなかったからです。その分フットワークが軽く、いわば「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ことが可能だったのです(その上、あの難解な文章も有利に働いたでしょう)
 
60年代、70年代というのは、思想界ではマルクス主義が崩壊していく過程でした。吉本氏はその先頭を走っていたので、つねに注目され、カリスマ的思想家と見なされるまでになりました。
しかし、マルクス主義がすっかり崩壊してしまった今では、吉本氏の業績も意味のないものになってしまいました。今、若い人が吉本氏の著作を読む意味はほとんどないでしょう。
 
それにしても、吉本氏の難解な文章は一種の“芸”というべきでしょう。
普通、難解な文章というのは、内容がないことをごまかしている場合が多いものですが、吉本氏の場合は必ずしもそうではありません。たとえば、吉本氏は「観念の遠隔操作性」という言葉を使っていたことがあります。私が文脈から判断するに、人間の認識は「灯台もと暗し」になっているということを言っていたようです。たとえば、自分の人生を棚に上げて天下国家を論じるようなことです。ですから、それはそれで重要な指摘です。
ただ、それを「観念の遠隔操作性」という言葉でいうところが独特です。複雑な現実をより複雑にして説明しているようなものです。
 
思想家には複雑な現実を説明するのに自分のつくった新しい概念を用いる人がいます。これによって一見うまく説明できるようですが、結局複雑な現実をさらに複雑にしてしまっていることが多いようです。
これはベクトルが逆です。
私は複雑な現実をより単純化して説明するということをつねに心がけています。
 
吉本氏は最終的に、親鸞の思想をよりどころにしたようです。
思想家とか論客は、なんらかの思想をよりどころにしないとやっていけません。
宮崎哲弥氏は原始仏教をよりどころにしていますし、五木寛之氏は日本仏教をよりどころにしています。呉智英氏は論語です。橋下徹氏は新自由主義ないしは私がいうところの道徳原理主義です。
右派の論客は国家主義や愛国主義をよりどころにしていますが、これは思想というよりも「拡大された利己主義」というべきものです。
ちなみに私は、道徳観のコペルニクス的転回による「科学的倫理学」をよりどころとしています(これは「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」という言葉でだいたい説明できています)
 
吉本氏の親鸞についての講演をまとめた薄い本があって、私も目を通しました(例によって難解ですが、親鸞とあれば私も一応チェックしないわけにはいきません)
その中に、「その思想の強度は、善悪についてどこまで掘り下げているかによって判断できる」という意味の記述がありました。
こういうところも吉本氏のあなどれないところです――というのは多少我田引水の評価かもしれません。
私は善悪について究極の解答を得たと自負しているので、私の思想の強度は最高だということになるからです。

橋下徹大阪市長や大阪維新の会の言動がお笑いの領域に入ってきました。
大阪府立和泉高校の卒業式で国歌斉唱の際、教職員がほんとうに歌っているか校長が口の動きで確認し、口が動いていなかった教員の処分を府教委が検討しているということで、橋下市長はこれを「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しました。
和泉高校の中原徹校長は実は弁護士で、橋下市長の友人でもあり、民間人校長として就任した人です。橋下市長と価値観を共有しているのでしょう。
 
口の動きを確認されるなら、口パクで対抗すればいいということになります。そうすると、今度は指向性マイクを使って声が出ているかどうかを確認することになるのでしょうか。
 
なぜこんなバカバカしいことになるのかというと、もともと国歌斉唱とか起立とかいうことがくだらないことだからです。くだらないことを追究していくと、くだらなさがどんどんあらわになっていくというわけです。
 
大阪府の国歌斉唱問題についてはこんなニュースもありました。
 
 
「信念ある人間なら自決の覚悟」維新府議が教員を批判
大阪府立学校の卒業式で、府教育長らの職務命令に反して君が代を起立斉唱せず戒告処分を受けた17人の教員について、大阪維新の会の中野隆司府議は12日の府議会で、定年退職前の教員らが多かったことに触れて「そろばんはじいて退職金に影響ないんかという程度の信念」「本当に信念ある人間なら自決するぐらいの覚悟があるでしょ」などと発言した。
 中野府議はキャリア約20年の元公立中学校教諭。戒告処分が退職金に影響せず、60歳以上が約半数(8人)だった点を指摘し、「ダライ・ラマさんがおられるチベットで中国が侵攻したときに何人の僧侶が自決したか」「年齢構成をみると、いかに信念のない人間の集まりであるかということがよくわかります」と主張。「(不起立は)即座に解雇というぐらいの強い態度を示すべきだ。議論を会派に持ち帰り、検討を加えたい」と述べた。
 一方、松井一郎知事が入学式でも不起立だった教員は現場を外して指導研修させるべきだとの方針を示していた点について、府教委は、別の府議の質問に「(現場を外す研修は)懲罰的な取り扱いになりかねない」と慎重な姿勢を示した。(金成隆一)
朝日新聞関西2012313
 
この中野府議は、不起立教師をダライ・ラマのいるチベット側の人間にたとえています。ということは、自分たちはチベットに侵攻した中国政府の側になるわけです。
語るに落ちるとはこのことでしょう。人間というのは心の深層では問題を正しくとらえているものなのですね。
 
不起立問題はバカバカしいことがわかりやすいですが、こちらのほうはどうでしょうか。朝鮮総連系の学校への補助金の問題です。
 
 
朝鮮学校補助金:大阪府内8校が交付申請 「総書記の肖像画職員室から外した」
  大阪府は9日、府内の朝鮮初・中級学校8校から「故・金正日(キムジョンイル)総書記の肖像画を職員室から外した」として、補助金交付の申請があったと発表した。府は交付要件の一つに、職員室から肖像画を撤去することを提示していた。現地調査し、撤去が確認されれば2月府議会に補正予算案を提案する方針。
  府私学・大学課によると、8校を運営する大阪朝鮮学園(東大阪市)から今年度の補助金計約8100万円の交付申請があった。府は10年度分については教室からの肖像画の撤去を求めたが、11年度分では、職員室からの撤去も求めた。
  大阪府には朝鮮初・中級学校が全9校あり、生徒数で補助金交付の要件を満たしているのは今回の8校。大阪朝鮮学園のある関係者は毎日新聞の取材に「教室からは十数年前に肖像画を下ろしている。府民に理解してもらうため、職員室からも下ろすことを決めた。補助金のために下ろすわけではない」と話した。【田中博子】
毎日新聞2012310
 
 
これはやはりバカバカしいことですが、実はあまり笑えません。これはマスコミもちゃんと批判しないといけません。
 
肖像画を掲げるのをやめることが補助金交付の条件になるというのは、いろんな意味でへんです。補助金がおりたらまた掲げ直すということもできますし、小さな肖像画をワッペンにしてつけるとか、たとえば橋下市長の肖像画を掲げておいて、その裏に金正日の絵を張って、それを拝むとか、いろんな抜け道があります。
もっと問題なのは、金正日の肖像画がだめということが通ってしまったら、今度はキリスト像がだめということにもなりかねないことです。
金正日はだめで、キリストはよいということを論理的に説明することができるでしょうか(金正日は日本人拉致事件の責任はありますが、日本の法律で犯罪者とすることはできません)
 
肖像画や国旗国歌はシンボルや偶像であって、合理的にとらえることができません。ですから、政治や行政はそういうことにかかわってはいけないのです。
そういうことをしている国は、宗教と政治が一体化したイスラム国と、個人崇拝の独裁国と、実質的に宗教国家であるアメリカぐらいのものです。
 
靖国神社も同じです。英霊の存在は証明することができないのですから、こういうことは政治の場でいくら議論しても時間のむだです。
孔子も「君子は怪力乱神を語らず」と言っています。
 
橋下市長も大阪維新の会も、政治や行政を本来の役割に戻さなければなりません。

非婚化、晩婚化の流れが止まりません。この理由はいろいろありますが、そのひとつに正しい自己評価ができない人がふえているという問題があると思います。
 
人間はさまざまな経験を積む中で、自分はこの程度の人間だという自己評価を確立していきます。正しい自己評価を確立して、その自己評価に見合った異性を選択すると、確率的にいちばんうまくいくことになります。
 
もっとも、なかなかそうはいきません。私は中学高校のころ、決まってクラスでいちばんきれいな女の子に惚れていましたが、自分がクラスでいちばんいい男であるとはとうてい思えません。これでは年中片想いで、相思相愛になれないのではないかと思っていました。
今の男の子でいえば、グラビアアイドルみたいな子とつきあいたいと思っているような状態でしょうか。
しかし、これは誰にでもあることで、たいした問題ではないと思います。多少身の程知らずの願望を持って、背伸びすることで自分を高めるということもあるからです。正しい自己評価があれば、そのうち現実的な相手を探すようになるでしょう。
 
問題は正しい自己評価ができていない場合です。
たいした人間ではないのに、自分はたいした人間だと思い込んでいる、つまり自信過剰な人間がそのひとつです。しかし、そうした人間はめったにいません。ときどきいるのは、はったりをきかしている人間や、劣等感の裏返しで偉そうにしている人間です。
 
ほとんどの人間は、実際の自分よりも低い自己評価を持っています。劣等感を持っていると言い換えてもかまいません。
そのため、自分と釣り合った相手ともつきあえないということになってしまいます。これが非婚化、晩婚化の原因のひとつになっていると思うのです。
 
むりしてつきあおうとすると、精神的な負担を感じて疲れてしまいます。こうした男が草食男子といわれているのではないかと思います。
もちろん草食女子もいるわけですが、だいたい男女のつきあいは男からアクションを起こすことになっているので、男子の負担のほうが大きいわけです。
 
もっとも、昔は男尊女卑というか、男が女を見下す価値観があったので、男子の負担はそれほど表面化することがありませんでした。たとえば「女なんて男が強引に迫れば落ちるものさ」といったことを年長者から教えられ、そんなものかと思い込むことで、自己評価の低い男でも行動を起こしやすかったわけです。
しかし、時代が変わり、「女なんてこういうものだ」的な価値観は根こそぎにされてしまいました。そのため、自己評価の低い男の問題が表面化してきたのです。
 
では、どうして自己評価の低い人間が多くいるのでしょうか。それは教育に原因があります。
 
親や教師は、扱いやすい子どもを望みます。そのため自信のない子どものほうが都合がいいわけです。
また、子どもに勉強させようとするとき、勉強すればバラ色の未来があると教えるよりも、勉強しないと社会から落ちこぼれるといって脅すほうが効果的です。あらゆる感情の中で恐怖の感情がいちばん強いからです。
そうして勉強しても、希望通りの学校に行けるのは少数で、多数は不本意な学校に進学します(つまり不当に高い目標を設定されていたわけです)。そのため劣等感を持ってしまいます。また、希望通りの学校に行けた子どもでも、自分の価値は学歴だと思い、人間としての自信を持つことはできません。
 
現在、親は子どもに対する教育にますます熱心になり、そのためますます子どもが劣等感を持ってしまっています。
その結果、非婚化、晩婚化が進んでいるというわけです。
 
ですから、非婚化、晩婚化を解決するには教育から変えなければならないと思います。
 
また、現在異性とつきあうのに困難を感じている人は、自分は自己評価が低すぎるのではないかと疑ってみる必要がありますし、さらには、自分が受けてきた教育をひとつひとつ見直してみる必要があると思います。

大震災1周年を迎え、改めて被災者の皆様にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
 
震災関連のテレビ番組を見ていると、強い悲哀の感情が押し寄せてきて、いたたまれない気持ちになります。1年ではなかなか傷が癒えません。
もちろん震災の規模があまりにも大きかったからですが、報道の仕方にも問題があるかもしれません。
 
私は津波で家や車が押し流されていくシーンをテレビで見ると、ついつい目をこらして、人が流されていないか、家の中から助けを求める人がいないかと探してしまいます。しかし、人の姿を見つけたためしがありません。まったく無人の映像ばかりです。
もちろんこれは編集されているからです。
震災当時シンガポールに在住していた知人とこの前会って話したのですが、シンガポールのテレビは、中国のテレビの映像を使うことが多いこともあってか、人の流される映像や死体がごろごろしている映像を平気で流していたそうです。
そういう悲惨な映像は見たくないという気持ちはもっともですが、真実に直面したほうがいいということもいえます。
 
私の母が亡くなったとき、兄はちょうど奥さんが出産間際だということで、母の死に目にあえませんでした。父は兄に、どうせあえなかったのだから、あくまで出産に付き添ってやれ、そのため葬式に来れなくてもいいと言いましたが、私は絶対に来たほうがいいと言いました。母の遺体を見るということが母の死という事実を受け入れるためにも必要だと思ったからです。火葬したあとの遺骨を見るのと、遺体を見るのとでは大きな違いがあると思います。
 
震災での遺体の映像を見るのはつらいことですが、それを見たほうが早く心の傷が癒されるということもあると思います。
もっとも、悲惨な映像は見たくないという気持ちももっともなことなので、簡単に結論は出せませんが。
 
私はこうした震災に対してあまりにも無力ですが、なにか役に立てることはないかと探すと、震災時に被災者が示した行動を理論づけることでしょうか。
 
あのとき被災者は忍耐心と助け合いの精神を示し、世界の人々から高く評価されました。しかし、従来の倫理学ではそれを理論づけることができません。従来の倫理学では、良心や道徳性は人間の高度な知性の働きによるものとされ、ごく平凡な人たちが無秩序の中で平常時以上に良心や道徳性を示すということは説明できないのです。
 
私の提唱する新しい倫理学では、利他行動や助け合い行動は本能に基づくものです。ですから、あの極限状態で虚飾をはぎとられた人間は、本能的な行動をとったということになります。
ちなみにああした災害時に助け合うのは日本人だけではありません。そのことは「災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(レベッカ・ソルニット著)という本に書かれています。この本によると、とくに欧米のメディアは、社会の下層の人たちが商店を襲撃したりする場面を好んで報道するため、間違ったイメージがつくられるということです。
 
新しい倫理学では、災害時の人々の行動は人間本来の姿が現れただけのことで、これを論じてもあまり意味はありません。むしろ問題は、さまざまな知識や文化に縛られた平常時の人間のほうにあります。
たとえばあの震災時、被災地の人たちは商品を求めてスーパーの開店を何時間も並んで待ち、開店しても商品はすぐに売り切れ、それでも文句を言わずに去っていきました。
これがもし平常時だとすると、並んだ客は、「何時間待たせるんだ」と文句を言い、「商品がないとはなにごとだ。商品をそろえるのは店の義務だろう。俺たちをバカにするのか」と怒りをエスカレートさせたに違いありません。
災害時じゃないのだから当然だという意見もあるでしょうが、こうした人の行動は商店の側の事情をまったく考慮しない利己的なものです。そして、こうした利己的なふるまいが当たり前とされるのが今の世の中なのです。
 
震災時の人々の行動が当たり前とされる世の中にならなければなりません。

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