村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年03月

前に「科学VS倫理学」というエントリーで取り上げたニュースですが、より詳しく書かれた記事があったので、もう一度取り上げておきます。読む価値はあると思います。少なくとも格差や貧困が自然になくなることはないということがよくわかります。
 
この記事もまた、金持ちや社会的地位の高い人間が反倫理的で利己的なふるまいをする理由を、「自立」や「ピンチの時には家族や友人を頼らない傾向」や「気高さ」といった言葉を使って説明していて、金持ちや社会的地位の高い人間に甘いところを見せています。子ども用のキャンディーを人よりもたくさんポケットに入れる行為は「せこい」と表現してほしいものです。
 
悪い人間ほど出世するというのが私の考えですが、出世して金と権力を手にしたから悪い人間になった(悪い要素が表面化した)という考えも論理的は成立します。しかし、金持ちになったからキャンディーをたくさんポケットに入れるようになったというのは考えにくいでしょう。もとからキャンディーをたくさんポケットに入れるような人間だから出世したと考えるほうが自然ではないでしょうか。
人を押しのけるタイプの人が出世して、お人よしはあまり出世しないというのは、私たちが日ごろ実感していることではないかと思います。
 
社会の上層部にいるのは悪い人間だということは、必然的に社会の下層部にいるのはよい人間だということになります。このことは、とくに上層部にいる人間にとっては認めたくないことでしょう。
 
たとえば昨年11月、中国でひき逃げされて倒れている女の子の横を18人の人間が通り過ぎていくという出来事が話題になりました。このとき、19人目に通りかかって助けたのは、廃品回収業の女性でした。
 
暴力団を例にとるとわかりやすいかもしれません。ヤクザ社会で出世するのは、よい人間ではなく悪い人間です。では、カタギ社会ではどうでしょうか。カタギ社会でも出世するのは、よい人間ではなく悪い人間だと考えればいいわけです。
 
ブッシュ政権時代、ネオコンといわれる人たちがアフガン戦争とイラク戦争を主導していましたが、このネオコンといわれる人たちはみなマフィアとしか思えないような顔をしていました。
 
学者や知識人もまた社会の上層部にいる人間です。こういう人間がつくった倫理学がまったくデタラメなものになるのは当然です。
こういう倫理学を私は「天動説的倫理学」と呼んでいます。倫理学のコペルニクス的転回が必要です。

日本におけるキリスト教徒の数はひじょうに少なく、人口の1%を越えることがありません。これを“1%の壁”と言うそうです。世界の主要先進国の中ではもちろん最低です。
アジアにおいても日本のキリスト教徒の少なさは際立っています。韓国ではキリスト教人口が29.2%で最大勢力、仏教は22.8%で2位です。台湾は道教が1位で、キリスト教は2位で4.5%、3位が仏教です。中国のキリスト教人口は把握しにくいのですが、ウィキペディアの「中国のキリスト教」という項によると、人口の10%を越える段階に達しているということです。
 
なぜ日本ではキリスト教人口が極端に少ないのかについてはいろいろな議論があります。たとえば「教えてgoo」の「なぜ日本ではキリスト教の普及率が悪いのか?」という質問に寄せられた答えのいくつかを挙げると、もともと日本人は無宗教に近い、一神教は日本人に合わない、国家神道と衝突した、江戸時代に邪教とされた、植民地化されてキリスト教を強制されたことがないから、といったことがあります。
 
しかし、日本人がもともとキリスト教と合わなかったということはありません。なぜならフランシスコ・ザビエルらが布教した戦国時代、キリスト教は日本で急速に信者をふやしたからです。何人ものキリシタン大名が生まれ、キリスト教信者が仏教徒や神道徒を迫害する事例がふえたために秀吉はバテレン追放令を発するほどでした。江戸幕府ももちろんキリスト教を禁止しましたが、キリスト教徒を中心とした大規模な一揆、島原の乱が起き、また、隠れキリシタンとして信仰を続けた人たちがいたことを見ても、その信仰心が篤かったことがわかります。
戦国時代や江戸時代初期にどれくらいのキリスト教人口があったのかはわかりませんが、少なくとも布教が行われた地域においては“1%の壁”があったなどということはないはずです。
 
明治時代にはキリスト教禁制は解かれましたから、戦国時代のように布教が進んでもよかったはずですが、そうはなりませんでした。これがなぜかということを誰も説明できていないようです。
 
そこで、私の考えですが、私はキリスト教が明治維新と一体となってしまったために、日本人はキリスト教を拒否するようになったのだと考えています。
つまり日本人は明治維新が嫌いで、明治時代が嫌いなのです(これは前回のエントリー「踊らされる橋下氏」でも書きました)。
 
考えてみれば、勤皇の志士たちは「攘夷」をスローガンにしながら、自分たちが政権を取ると開国政策に転じてしまったのですから、庶民にしたらこれほどの裏切りはありません。そして、明治政府の三大改革といわれる新学制、徴兵制、地租改正も庶民にとってはなにもよいことがありませんでした。
もっとも、明治政府としてはこうしたことをしなければ日本が植民地化されてしまいかねなかったので、しかたがなかったのですが、庶民としては納得がいきません。結局、この納得いかない感が現在にいたるまで尾を引いていて、そのため日本人は今も国際社会でどうふるまっていいのかわからないのです。
 
もちろん明治維新による欧化政策によって鉄道や電信ができ、それは便利なものとして受け入れましたが、精神的な面、たとえばキリスト教などは受け入れる気にならないのです。
日本の庶民にとって明治時代とは、伊藤博文や東郷平八郎や夏目漱石のような「ヒゲをはやして不機嫌な顔をした男たち」の時代です。
ところが、日本のエリートである知識人はそのことを認めようとせず、明治時代を持ち上げるので、そのためたとえば日本のキリスト教“1%の壁”も説明することができないというわけです。
 
明治維新の評価をめぐるエリート層と庶民の対立葛藤は、西洋近代文明をどう評価するかという問題であり、さらには文明と自然をどうとらえるかという大きな問題にもつながっていきます。

大阪維新の会の「船中八策」について、立ち上がれ日本の平沼赳夫代表が「国家観がない」と批判しました。もともと橋下徹氏は、みずから志して政治家になったわけではなく、なりゆきでなった人で、地方政治しか経験していないので、そういう批判があるのは当然でしょう。
私も同じく「国家観がない」と批判します。というか、国家観が矛盾だらけです。
 
橋下氏は「明治以来の国の統治機構を変える」ということを再三言っています。その一方で、大阪維新の会というぐらいですから、「維新」という言葉を肯定的にとらえているはずです。そうすると、橋下氏は明治維新をどう評価しているのでしょうか。
明治維新でできた統治機構がよくなかったから変えるというのか、明治維新当時の統治機構はよかったが、経年劣化したから変えるというのか、どちらかよくわかりません。
「維新」という言葉は右翼の好む言葉です。橋下氏は右翼的なイメージが時代に合っていると思って、自分も使ってみたというところではないでしょうか。
 
「船中八策」という言葉はもちろん坂本龍馬からとっています。坂本龍馬はたいへん人気がありますから、橋下氏も使ってみたというところでしょうか。
しかし、坂本龍馬は明治維新の担い手ではありません。18671014日に大政奉還があり、坂本龍馬は同年1115日に暗殺されました。正しくは幕末に活躍した志士というべきです。
明治維新の中心的な担い手は大久保利通であり、西郷隆盛であり、木戸孝允です。この3人のうち、大久保利通と木戸孝允はまったく人気がありません。西郷隆盛は大人気ですが、これは維新政府に反旗をひるがえした人です。
さらにいうと、木戸孝允は人気がありませんが、桂小五郎は人気があります。同じ人間が幕末と明治維新以降ではまったく評価が変わってしまうのです。
坂本龍馬にしても、もし暗殺されずに明治維新の担い手になっていれば、まったく人気がなくなっていた可能性があります。
伊藤博文、山縣有朋となると、さらに人気がありません。高杉晋作、吉田松陰の人気と対照的です。
 
なにがいいたいかというと、明治維新や明治政府や明治時代というのはまったく人気がないのだということです。
このことは明治ものの小説やドラマがまったく人気がないことを見てもわかります。これは「低視聴率の理由」というエントリーでも書きました。
 
人気というのは大衆レベルのことです。ですから、日本の大衆は明治時代が嫌いだということです。八っつあん、熊さんが呑気に暮らしていた江戸時代が好きです。学校に行かされ、規律を学ばされ、横並びで競争させられ、挙句に労働者や兵隊になるしかないという時代を好きになるわけがありません。
もっとも、一部の頭のいいエリートにとっては違います。こういう人は明治時代になると立身出世することができました。
ですから、今でもエリートである知識人はやたら明治時代を持ち上げるのです。
 
橋下氏は「明治以来の国の統治機構を変える」と言っていますが、「維新」という言葉を使い、子どもを横並びで競争させる相変わらずの教育を推進し、地方公務員たたきはしますが、中央官庁の官僚はほとんどたたきません。統治機構のなにを変えるのでしょうか。むしろ“明治返り”しようとしているように見えます。
 
橋下氏のプレーンの堺屋太一氏や古賀茂明氏はもともと中央官庁のエリートです。
 
橋下氏は「明治以来の国の統治機構」という手のひらの上で踊っているだけかもしれません。
 

連日なにかしらの発言をして世の中を騒がせている橋下徹大阪市長がまたまた妙な発言をしました。といっても、これを妙と思う人はほとんどいないかもしれません。むしろ“日本の常識”とされています。
しかし、「日本の常識は世界の非常識」という言葉もあります。これはその典型ではないでしょうか。
 
 
橋下市長、入れ墨職員「クビ無理なら消させよ」
大阪市の橋下徹市長が、市職員の入れ墨を禁止するルール作りを関係部局に指示した。
市の児童福祉施設の男性職員が子どもたちに入れ墨を見せ、2か月の停職処分を受けたが、市側の指導で長袖シャツで隠したまま職務を続けていることを問題視し、「入れ墨だけでクビにできないのなら、消させるルールを」と服務規律を厳格化する方針だ。
市の職員倫理規則に入れ墨の規定はないが、橋下市長は関係部局への指示の中で、「入れ墨をしたまま正規職員にとどまれる業界って、公務員以外にあるのか」としている。
 2012321529  読売新聞)
 
 
いうまでもなく、刺青を迫害・差別しているのは日本だけです。世界のどこの国でも、刺青はオシャレのひとつです――と書いたものの、念のために調べてみると、イスラム法では禁止されているようです。
ということで、「イスラム国は別にすれば、刺青を迫害・差別しているのは日本だけです」と言い換えます。
 
日本でも刺青はずっと認められた文化でした。刺青が迫害されるようになったのはごく最近のことです。
要するに、ヤクザは刺青をしている、ヤクザは刺青を見せることで相手を威嚇する、だから刺青は悪だ、という論理なのでしょう。
これは、どこかの犯罪者がナイフを使って人を威嚇したからナイフは悪い、という論理とほとんど同じです。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではなく、「ヤクザ憎けりゃ刺青まで憎い」というわけです。
 
ちなみに刺青の人を排除してもいいという法的根拠はありません。
鳥取県警本部の暴力団排除条例に関するサイトから引用しておきまます。
 
「意見の要旨と意見に対する警察本部の考え方について」
(意見の要旨)「公衆浴場等に入浴する刺青のある人を、条例で排除できないか」
(警察本部の考え方)「公衆浴場等への立ち入りを一律に禁止することは、人権上の問題もあることから、本条例には規定しておりません。
なお、今後とも公衆浴場等の暴力団の利用につきましては、施設の管理者等に対して、暴力団の排除を働きかけてまいります」
 
ここも妙な論理になっています。刺青の人を規制することは人権上の問題があるといいながら、公衆浴場等の管理者に対しては暴力団の排除を働きかけていくというのです。公衆浴場等の管理者にとっては人権上問題のある行為を強要されるわけで、まさに警察による“迷惑行為”です。
 
サウナなどにはたいてい「刺青の人の入場お断り」みたいな表示がありますが、これはやはり警察の指導によるものなのですね。しかし、入場を断る根拠がまったくありませんから、刺青の客から「なぜ入っていけないんだ」と抗議されたら、サウナの人も対応に苦慮することになってしまいます。
 
 
ということで、刺青の人を排除するのは差別にほかならないわけですが、こうした問題についてマスコミは警察に追随するしか能がありませんから、世の中全体がこれが差別であることに気づいていません。ですから、橋下市長が刺青についておかしな発言をしても、ほとんど人がおかしいと気づかないわけです。
 
ところで、児童福祉施設の男性職員は腕の刺青を見せて子どもを脅したそうで、それはよいことではありません。しかし、それは子ども脅す行為がよくないので、刺青が悪いわけではありません。刺青を消させたところで、その男性職員がたとえば拳骨を見せることで子どもを脅し続ければなんの意味もありません。
 
橋下市長は体罰肯定論者で、「口で言ってわからない年齢の子には痛みをもって反省させることが重要」と言ったことがあるそうです。男性職員の刺青を見せるという行為は、橋下市長の主張する物理的暴力よりはよほど洗練されたやり方です。むしろ橋下市長はこの男性職員のやり方に学ぶべきでしょう。

最近の若者はあまり出世志向がないそうです。私も若いころは会社勤めをしていましたが、出世したいという気持ちはまったくありませんでした。むしろ上のポストにつかされそうになったら、会社を辞めようかと思っていたくらいです。
出世したくない理由はいくつもありますが、そのうちのひとつについて書いてみます。
 
私は小さい出版社で編集者として働いていましたが、編集者というのは、基本的によい雑誌や本をつくって読者に喜ばれるようにがんばればいいわけです。仕事をがんばることが人の喜びになり、また収入という形で自分の喜びになる。つまり利他行為と利己行為が一致していて、迷いとか葛藤の入り込む余地がありません。ですから、仕事そのものは楽しいわけです(人間関係とか給料が安いとかの問題はありますが)
 
しかし、編集者でも上のポストになると、経費のことを考えるようになり、私のような下っ端にいろいろ言ってくることになります。ひじょうにセコいレベルになると、誌面にあまり写真を使うななどと言ってきます。当時は活版印刷で、写真を入れると写真製版のコストが別にかかったのです。また、評論家のコメントとか入れると謝礼が必要になりますから、もっぱら謝礼など必要のない役所や企業への取材で記事を書けなどと言われました。
出版社というと勤務時間がルーズというイメージがありますが、私のいた出版社はタイムレコーダーがあり、ちゃんと残業代が出ました。残業は30分単位ですから、29分でタイムカードを押すのはバカバカしいことです。ところが、私のすぐ上のポストの人間は、25分くらいになると仕事をやめて帰ろうと言います。さらに上の人間から言われていたのでしょう。こちらは30分か31分でタイムカードを押したいので、そこで妙な駆け引きが生じることになります。
 
なんだか書いていて情けなくなりましたが、中小企業というのはえてしてこんなものではないでしょうか。
 
もっと上のポストの人間になると、印刷会社と価格交渉をします。私も詳しくは知りませんが、相当きびしいやり取りが行われていたようです。そこにおいては、こちらの利益は向こうの不利益、向こうの利益はこちらの不利益という関係で、利他行動と利己行動が完全に不一致になります。
これは大きな葛藤を生じます。こういう立場には立ちたくないと私は思っていました。
 
 
「スマイル0円」で働いている店員は、給料は安くてもそれなりに幸せです。自分のスマイルが客の幸せになり、自分の幸せになるからです。
しかし、その店員が出世して、アルバイト店員の給料を決めたり、仕入先と交渉したりするようになると、まったく違ってきます。アルバイト店員の幸せと自分の幸せが対立し、仕入先の幸せと自分の幸せが対立します。
 
今の若者が出世を望まないというのは、そういう立場に立ちたくないという理由もあるのではないでしょうか。
 
今日書いたことは、前回のエントリー「科学VS倫理学」を補足するものです。
 
悪い人間でなければ出世できないのが文明社会というものです。
悪い人間のおかけでこの文明社会は築かれてきたことになります。
しかし、そろそろ文明社会の転換の時期が迫ってきているのかもしれません。

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