村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年05月

クラブやディスコは午前0時(東京都は午前1時)までしか営業できないというのは初めて知りました。現実に深夜営業をしている店があるのは、風営法の許可を取らず飲食店として営業し、そこで踊らせているわけです。もちろん、これも無許可営業ということで違反ですが、これまでは警察もある程度大目に見てきました。しかし、最近警察の方針が変わってきたようです。
そこで、風営法の改正を求める署名運動が始まったというニュースです。
 
朝まで踊れるクラブ取り戻せ 規制撤廃求め全国署名活動
風俗営業法の適用によるクラブの摘発が各地で相次ぐ中、利用者やアーティスト、経営者らが29日、深夜にダンスをさせても風営法の適用対象にならないよう求める全国署名運動を京都市で始めた。「クラブは若者の表現の場。楽しみを奪わないで」。都市部を中心にクラブカルチャーが衰退している現状を訴えた。
 
■「表現の場 奪わないで」
 
 「ダンスが法律で規制されていること、ご存じですか」。京都・河原町三条の街頭で、クラブ利用者や法律家、経営者らでつくる署名推進委員会のメンバーが呼びかけると、若者らが足を止めて署名に応じた。目標は10万人。坂本龍一さんや大友良英さん、いとうせいこうさんら著名アーティストも呼びかけ人に名を連ねる。
 
 2010年12月に大阪・アメリカ村のクラブ経営者が無許可営業容疑で逮捕されて以来、京都や福岡、東京など各地で摘発が続く。大阪府警保安課は「客のけんかや騒音など近隣から苦情があり、取り締まりに乗り出した」と説明する。
 
 署名推進委のメンバーで、学生時代からクラブに通ってきた西川研一弁護士(41)は29日、京都府庁で会見し、「風営法による取り締まりは表現の自由への過度な侵害。ごく一部にドラッグや騒音の問題があるとしても、個別の法律で対応すべきだ」と訴えた。
 
 
警察の取り締まりは法に則っていて、正しいことなのですが、恣意的であるという問題があります。「客のけんかや騒音など近隣から苦情があり」ということですが、苦情は今に始まったことではないはずです。なぜ今取り締まりを強化しているのでしょう。
 
風営法違反が常態化している業界はほかにもあります。たとえば麻雀店です。
多くの麻雀店は午前0時で店を閉めますが、深夜営業をする麻雀店も少なからず存在します。そういう店ではもちろん賭け麻雀が行われています。つまりここには風営法違反と賭博禁止法違反というふたつの違法行為があるわけです。
警察はもちろんそのことはわかっているのですが、取り締まりをしません。たまに摘発をすることがありますが、これはタレコミがあったりしたために放っておけない場合だけです(マンガ家の蛭子能収さんが新宿歌舞伎町の麻雀店で逮捕されたことがありましたが、これは珍しいケースです)
深夜営業の麻雀店では深夜に人の出入りがあるので、近隣に迷惑をかけている場合も当然あります。
 
麻雀店の違法営業は放置して、クラブだけ取り締まるのはおかしな話です。
もちろん私は麻雀店の違法営業を取り締まれと主張しているのではありません。それをやると麻雀賭博が地下にもぐり、犯罪組織と結びつく可能性が大です。警察もそれがわかっているわけです。
 
麻雀店を取り締まらないなら、クラブも取り締まらなくていいと私は思うのですが、警察幹部の考えは違うようです。
 
ところで、島田紳助さんのことが騒がれていたころと比べて、最近暴力団のことがあまりマスコミに出ないことに気づかれたでしょうか。これは明らかに警察の方針が変わったのです。
20096月、警察庁長官に就任した安藤隆春氏は、暴力団取り締まりに力を入れ、全国に暴力団排除条例の制定を進めました。そのため警察と暴力団の緊張が高まり、暴力団取り締まりのニュースもよくありましたし、島田紳助さんのことも騒がれたわけです。
ところが、安藤長官は201110月、もっと長く務めると思われていたのに突然退任しました(警察庁内部で路線対立があったのでしょう)。後任の片桐裕長官はどうやら安藤氏のようには暴力団取り締まりに熱心ではないようで、そのため最近は暴力団関係のニュースがめっきりへったというわけです。昨年末の紅白歌合戦も暴力団と芸能人の交遊はまったく問題とされませんでした。
 
警察の取り締まりの方針はこのように恣意的なものです。マスコミはもっとそのへんを報道してほしいものです。
 
私が思うに、クラブの取り締まり強化は、警察幹部が学校秀才であることと大いに関係があります。つまり学校秀才というのは、不良っぽい若者が集まって楽しそうに騒いでいると、やたらと取り締まりたくなるのです(自分たちはそういうことがやりたくてもできなかったので)
 
たとえば青森ねぶた祭りでは1990年代、カラス族といわれる若者集団が大量に出現し、騒ぎを起こすということがありました。しかし、それだけでは取り締まれないので、警察は迷惑行為等防止条例を制定して取り締まり、カラス族を祭りから排除してしまいました。
同じころ、広島の胡子大祭という祭りに暴走族が多数集結し、警官隊と衝突するという事件が起きました。そのため広島県警は暴走族追放条例を制定し、祭りから暴走族を排除してしまいました。
 
このころ日本はバブル崩壊による不景気の真っただ中で、とくに地方は若者の数も少なく、活力が失われていました。そうした中、地方に元気な若者が出現したわけです。ところが、警察やその他の人たちは、元気な若者を盛り立てるのではなく、逆に排除してしまいました。これは私の目にはまったく異常なことと映りました。
若者が祭りの日に集まって騒ぐのは当たり前のことです。そうした騒ぎが形式化されて今の祭りになっているものもたくさんあります。
日ごろあまり楽しみのない地方の若者にとって祭りの日は特別の楽しみです。昔のおとななら若者が多少ハメを外しても大目に見ていたはずですが、今の大人にはそうした余裕が失われたのかもしれません。
それはともかく、元気のある若者を取り締まっていては、日本全体の活力が失われてしまいます。
 
そもそも創造的な発想というのは、品行方正とか規律正しさとかと対極のところにあります。
 フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグを描いた映画「ソーシャル・ネットワーク」には、ザッカーバーグらがドラッグをやりながら乱交パーティをしていると警察に踏み込まれるというシーンがあります。そういうことをしながらザッカーバーグは大型上場として株式市場で大きな話題になる企業を育て上げたわけです。
かたや日本では、ヒルズ族が盛り上がっていましたが、その代表的存在のライブドアの堀江貴文氏がなんだかよくわからない罪状で塀の向こうに落とされてしまいました。
堀江氏以降、若者のオピニオンリーダーといえる人物は出てきていません。
 
日本をだめにしているのはなにより警察司法官僚だと、つくづく思います。

お笑い芸人河本準一さんの生活保護費不正受給の話題が盛り上がっています。
といって、河本さんが生活保護費を不正受給したわけではありません。生活保護費を受給しているのは母親だからです。
では、母親が不正受給したかというと、そうともいえません。河本さんが十分な仕送りをしていないなら、母親が生活保護費を受給するのは正当です(ほかの条件は無視しての話ですが)
ですから問題は、河本さんが十分な収入があって母親を扶養することができるのに扶養していなかったという「扶養義務違反」があったのかなかったのかということです。
これについて私は、親子関係というのは外部からはうかがい知れないことがあるので、単純には判断できないと主張しています。
 
そもそも「扶養義務」の基準が明確でないという問題もあります。
これに関しては法令で基準を明確化するべきだという意見も出てきています。しかし、親子、兄弟の関係にそうした法的義務を持ち込まれるのは、誰にとってもうれしいことではないはずです。
そもそも人類の歴史は大家族から核家族へと、家族関係や親族関係が希薄化する方向へと進歩()してきました。今では結婚して家族をつくることすら困難になり、孤独死がふえています。ですから、親族だから扶養しろという発想が時代に合わなくなってきているのです。福祉制度もそれに合わせることが必要だと思います(私は家族関係の希薄化がいいことだとは思いませんが、家族関係に法的義務を持ち込んでも家族関係がよくなるとは思えません)
 
河本さんにも問題はあったかもしれませんが、そこに片山さつき議員が出てきて話がこじれてしまいました。政治家という権力者が芸能人とはいえ個人を攻撃したからです。
 
私は物事の判断基準として、「弱きを助け、強きをくじく」という原則を持っています。強者と弱者が戦っていたら、とりあえず弱者に味方することにしています。例外がないとはいえませんが、それでたいていは正しいはずです。
 
ということで、私はとりあえず河本さんの味方をしたわけですが、世の中には片山議員より河本さんのほうを非難する人もたくさんいます。こういう人の心理はどうなっているのでしょうか。
 
何年か前、タレントのあびる優さんが万引きしたことをテレビで告白し、そのためとくに2ちゃんねるで大バッシングを受けるということがありました。私は芸能界の末席にいる弱い立場の若い女性タレントを攻撃してなにが楽しいのだろうと思っていましたが、あるとき考え直しました。私は彼女を弱い立場の人間と思っていましたが、多くの2ちゃんねらーにとっては、彼女は自分よりも人気も収入もある強い立場の人間なのです。ですから、弱い者いじめをしているという意識はまったくなかったのでしょう。むしろ自分たち弱い者が力を合わせて強い者と戦っているぐらいの意識だったかもしれません。
 
しかし、これは“自分基準”です。自分より強いか弱いかで判断しているわけです。
 
河本さんは私より間違いなく人気も収入もある人間です。しかし、私はそんなことで物事を判断したりしません(たいていの人もそのはずです)。片山議員が出てきたら、片山議員対河本さんではどちらが強いかで判断します。
 
“自分基準”の人にとっては、片山議員も河本さんもどちらも自分より強い人です。そうなると、より攻撃しがいのある(人気稼業なので)河本さんを攻撃するという判断になるのでしょう。
 
あと、河本さんのほうには「不正」というレッテルが張られているということもあります。片山議員の行動にはいろいろ批判がありますが、「不正」というレッテルは張られていないようです。
ちなみに私は、「不正」だの「正義」だの「善悪」だので物事を判断することはありません。「正義」や「善悪」というのは権力者につごうよくつくられているものだからです。
 
2ちゃんねるでフジテレビ批判というのも一時盛り上がりましたが、これもフジテレビの社会的位置や役割など関係なしに、“自分基準”で攻撃しがいのあるところを攻撃したのでしょう。右寄りの人がフジサンケイグループを攻撃するなどおかしいのですが、テレビ局は視聴率とスポンサーを気にするだろうから攻撃しがいがあると判断したわけです(実際はぜんぜん攻撃しがいがなかったわけですが)
 
世の中は権力、権威、貧富、差別などが入り組んだ複雑な階層社会になっており、それを見抜いて物事を判断しなければなりません。しかし、“自分基準”の人たちは、社会のあり方とはかけ離れた行動をしてしまい、社会から浮き上がってしまいます。
最近、こうしたことがはっきりと見えてきているのではないでしょうか。

偶然同じ5月25日に、裁判関係の大きなニュースがふたつありました。ひとつは、肺がん治療薬の副作用についてのいわゆるイレッサ訴訟で、大阪高裁(渡辺安一裁判長)は国と企業の責任を認めず、原告側逆転敗訴となったというニュースです(大阪地裁の一審判決では企業の責任は認められていました)。もうひとつは、いわゆる名張毒ブドウ酒事件で、名古屋高裁(下山保男裁判長)は奥西勝死刑囚の再審請求を棄却する決定をしたというニュースです。私は両事件については詳しくありませんが、裁判所は相変わらずだなあと思って、ニュースを聞いていました。
 
26日の朝日新聞朝刊に、例によって裁判員制度3周年ということで、映画監督の周防正行さんのインタビューが載っていました。周防さんは痴漢冤罪事件を扱った映画「それでもボクはやってない」の脚本・監督をしたことがあり、裁判についてはかなり詳しい方です。その周防さんはインタビューの中でこんなことを語っています。
 
刑事裁判の不条理を問うた映画「それでもボクはやってない」(2007)の取材で行き着いたのは、日本の刑事裁判を悪くしたのは裁判官だという結論でした。一人ひとりはとても優秀な人たちなのに、99.9%という有罪率が前提となり、裁判所という組織の判断を重んじる人材ばかりが優遇される背景もうかがえました。裁判官が変われば、日本の刑事裁判は変わると思っています。
 
「日本の刑事裁判を悪くしたのは裁判官だ」とここまではっきりと言える人は日本にはなかなかいません。
新聞の司法担当記者などは裁判の事情にそうとう詳しいはずですが、こういうことは言いません。
 
司法は立法、行政とともに三権を形成しています。立法、行政、つまり国会と内閣は日々マスコミの批判の対象になっています。政治家、閣僚は名指しで批判されています。しかし、裁判官は名指しで批判されることはまずありません。
 
いうまでもないことですが、判決は裁判官の価値観によって左右されます。
西部劇には「縛り首の判事」というのが出てくることがあります。つまりなんでもかんでも縛り首の判決を下すので有名な裁判官で、その裁判官に当たった犯人はがっくりするというわけです。
日本では、少年犯罪の裁判には温情派の裁判官と厳罰派の裁判官に分かれる傾向があるといわれます。これは一般の人でも体罰賛成派の人と体罰反対派の人がいるのと同じようなものでしょう。
 
映画「それでもボクはやってない」について検索していたら、映画評論家兼弁護士の坂和章平という方のブログにこんな記述がありました。
 
判決は裁判官が下すものだから、裁判官がどんな価値観・人生観を持っているかが決定的に重要だが、一般的に裁判官の個性やカラーは表示されないため、容易にそれを知ることはできない。田舎の裁判所であれば、裁判官も弁護士も数が少ないから、それぞれのキャラをお互いに理解しているが、東京地裁の大きさになると、その事件ではじめて顔を合わせる裁判官というケースがほとんどだから、弁護士だって裁判官のキャラを全然知らない人が多いはず。
 そんな場合大切なのは、裁判官の訴訟指揮のやり方や証人尋問への介入の仕方そして自らの尋問(補充尋問)における質問内容に注目し、裁判官の考え方を理解すること。一人前の弁護士ならそれに注視していれば、裁判官がどんな心証を形成しているのか、ほぼ正確に予測がつくはず・・・。
 
そんな弁護士の目で見ると、最初に金子徹平事件を担当した大森裁判官は無罪判決を書く裁判官として有名だというだけあって、「疑わしきは罰せず」を地でいっている実に珍しい裁判官。これは、行政訴訟で住民側勝訴、行政側敗訴の判決をたくさん書いて有名となった、かつての東京地裁の藤山雅行裁判官と同じような異例中の異例。大森裁判官が司法修習生に対して、刑事裁判における原理・原則を心の底から熱く語っている姿を見ると、きわめて感動的。
 ところが、徹平や荒川弁護士にとって不運だったのは、審理の途中で裁判官が大森裁判官から室山裁判官(小日向文世)に交代したこと。裁判官に定期的な転勤があるのはやむをえないが、裁判官の交代が致命的な影響を与えるケースは多い。しかして、室山裁判官の訴訟指揮と証人尋問の内容は・・・?彼の訴訟指揮、すなわち、証人尋問への介入や自らの質問そして弁護側申請の証人採否の判断等がかなり偏ったものであることは、一目瞭然。荒川弁護士ほどのベテランになれば、これを見ているだけで、こりゃいくら弁護側が頑張ってもムリ、つまり、結論ありきの判決になることは予測できたはず・・・?
 
マスコミは判決の内容は報道しますが、明快に判決を批判することはありません。せいぜい解説文に批判的なニュアンスが感じられることがあるくらいです。
もちろんマスコミが裁判や判決を批判していけない理由はなにもありません。間違っていると思えば堂々と批判すればいいのです。
その際、裁判官の名前はもちろん、その裁判官の人となりも紹介しつつ批判してほしいものです。そういう人間くさい部分に多くの人は反応するからです。
 
それから、最高裁判所裁判官国民審査というのもずいぶんひどい制度です。この国民審査は総選挙と同時に行われ、無記入は信任と見なすことになっているので、絶対確実に全員が信任されてしまいます。これでは審査の意味がありません。
こんなおかしな制度ですが、批判しているのは一部の人たちだけです。マスコミはまったく批判しません。
こんなおかしな制度をみずから改めようとしない最高裁の裁判官も、まともではありません。
 
マスコミや国民は政治家ばかり批判していますが、その同じくらいのエネルギーを裁判官批判に向けてもいいはずです。

人間性善説と人間性悪説のどちらが正しいのかについては、結論が出ていません。ですから、各自が勝手なことを言っているのが現実です。
その結果、社会制度の設計や運営についても、議論が分かれることになります。たとえば、生活保護を申請してきた者について、基本的にその言い分を信じるのか、疑ってかかるのか、明確な方針がなく、窓口の人のそれぞれの判断によるということになります。
 
しかし、私は性善説か性悪説かという問題について答えを出しています。
その答えというのは、
人間ちょいワル説
というものです。
 
この表現ではふざけていると思われるかもしれませんが、より正確な表現では、人間は完全に公平な存在ではなく、ほんの少し利己的な存在である、ということになります。
これは人間に限らず動物は基本的に同じです。なわばりを譲り合うよりは奪い合います。「完全な公平」というのは神や第三者でないとわかりませんから、動物は公平よりは少し利己的にふるまうわけです。
 
とはいえ、動物や人間は利他的な性質も持っています。近親者の利益のために行動し、仲間を助けたりもします。
つまり、動物や人間は利己的な性質と利他的な性質と両方を持っているが、利他的な性質のほうがほんの少し強いというわけです。
動物はほんの少し利己的な生き方をずっと続けていますが、人間は学習したことを文化として次の世代に伝えていくので、ほんの少し利己的だったものが文化の中に蓄積されていき、動物よりも利己的にふるまうようになっています。
そのため、戦争をして帝国をつくったり、奴隷制度をつくったり、派遣社員制度や契約社員制度をつくったりしているわけです。
 
利己的な者同士が争うと、当然強いほうが有利です。
利己的な男と利己的な女が争うと、男は腕力が強く、女は子育てという負担もあるので、男が有利です。そのため女よりは男のほうがより利己的にふるまう文化ができます。これが性差別です。
 
そして、夫にとってつごうのよくない妻は「悪妻」と呼ばれます。
ちなみに「悪妻」という言葉はありますが、「悪夫」という言葉はありません。これは世の中が性差別社会だからです。
また、親にとってつごうのよい子どもは「善い子」と呼ばれ、親にとってつごうの悪い子どもは「悪い子」と呼ばれます。
 
これが「善」と「悪」の正体です。
 
ですから、「善」と「悪」を基準にものごとを考えると、わけがわからないことになります。性善説と性悪説のどちらが正しいかわからないのもその一例です。
 
世の中のさまざまな問題は、「善」か「悪」かではなく、誰がより利己的であるかというふうにとらえるとよくわかります。
「善」か「悪」かを基準とするのが現在の倫理学で、これは根本的にデタラメです。
誰がより利己的かということを基準にするのが正しい倫理学ということになります(私はこれを「科学的倫理学」と呼んでいます)
 
 
さて、正しい倫理学によると、この世は利己的な人間がつねに互いに争っており、その結果、強い者がより利己的にふるまい、弱い者はあまり利己的にはふるまえず、強い者にしいたげられているということになります。
ですから、権力者、権威者、金持ちなど社会の上層にいる者は大いに利己的にふるまっており、下層にいる者はしいたげられているというわけです(しかし、下層にいる者もチャンスがあれば利己的にふるまうので、単純ではありません)
 
ここで、生活保護の問題について考えてみることにしましょう。
人間は利己的ですから、だまして生活保護を受給しようという者も出てきます。ですから、申請してきた者を完全に信じることはできず、審査するのは当然です。
ただ、窓口の者、つまり生活保護支給を決定する立場の者もまた利己的です。生活保護支給を決定する立場の者は、支給総額を抑制するようにという命令を受けているはずです。そこで彼はどうするかというと、厳密に審査するのが本来ですが、それはひじょうにめんどうなので、ある程度いい加減になります。どのようにいい加減かというと、断るとめんどうになりそうなこわもての人の申請を通し、その分、気の弱そうな人の申請を却下するということになります。
 
現在、生活保護の不正受給が問題になっていますが、これは申請する側にも問題はありますが、審査する側のほうにより大きな問題があると考えるべきです。
生活保護を申請する者よりは審査する者のほうが有利な立場なので、審査する者がより利己的にふるまっているに違いないのです。
 
さらに考えると、生活保護を申請する者よりも、道路建設を陳情する者のほうが権力も組織力も知恵もあるので、道路建設を認可する官僚や政治家を動かして、より多くの税金を引き出しています。科学技術関係の予算も、権威ある学者も当然利己的ですから、(国民にとって)必要以上に獲得している可能性があります。原発にしても、電力会社、官僚、学者などが税金や電気料金でもうけるためにつくってきたという面があります。
こうした権力者、権威者がやってきたことと比べると、生活保護費の不正受給などごく小さな問題としか思えません。
 
現在、生活保護費の不正受給を問題にする人がたくさんいるのは、現在のデタラメな倫理学にだまされているからです。
正しい倫理学に基づいて考えれば、なにが問題かがよく見えてきます。

5月21日で裁判員制度が施行されて3周年だということで、メディアは改めて裁判員制度について特集を組んだりしています。
裁判員制度は、なぜ人が人を裁けるのかという根本的な疑問は別にしても、おかしなところがいっぱいある制度です。
 
たとえば、裁判員は量刑までも判断しなければならないのですが、これは過去の判例などを知った上で判断しなければならず、本来は素人の仕事ではありません(結局、裁判官から教えられて判断するわけです)。ちなみにアメリカの陪審員は有罪・無罪の判断をするだけです。
なぜ日本の制度が量刑までも判断するものになったかというと、日本の刑事裁判は有罪率が99.9%なので、有罪・無罪の判断にはほとんど意味がないからです。
有罪・無罪についての判断は、事実についての判断ですが、量刑についての判断は“罪”についての判断ですから、神の領域だということで、その判断はしたくないという人もいるでしょう。
 
また、行政裁判には裁判員制度は適用されません。行政裁判は、9割近くが国側勝訴に終わるといわれているので、本来はこういうところにこそ市民感覚を生かすべきなのですが、裁判員制度をつくった人たちは国側寄りの人たちなのでしょう。
 
また、裁判員裁判の対象になるのは、重大な犯罪に限定されています。具体的には殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、強姦致傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、保護責任者遺棄致死、覚せい剤取締法違反、危険運転致死罪などです。これらは数も少なく、いわば“特殊な犯罪”です。
窃盗や傷害などのような、数の多い“普通の犯罪”に触れてこそ犯罪の本質が見えてくるわけで、今の制度ではせっかく裁判員をしても犯罪の本質が見えないままになるおそれがあります。
 
では、「犯罪の本質」とはなにかということですが、朝日新聞の5月22日朝刊の裁判員制度に関する記事の中に、それを感じさせるくだりがあったので、引用してみます。
 
神戸地裁で知的障害がある38歳の男性被告が自宅に放火しようとした放火未遂事件を担当した会社員男性は障害者支援のあり方を考えるようになった。
公判では被告が同居していた家族から暴力を振るわれ、邪魔者扱いされていたことがわかった。養護学校も家庭環境が改善されるよう働きかけていなかったと感じた。
判決は実刑。社会の中で更生させるのは難しいという評議の結果だった。「障害に対応しきれていない社会が、犯罪者を生み出している面もあるのではないか」と思い始めている。
 
放火未遂事件は重大犯罪ですから裁判員裁判の対象になったわけですが、これは「犯罪の本質」について考えざるをえない事件です。
知的障害のある男性被告は家族から暴力を振るわれ、邪魔者扱いされていたということですが、こうした立場の人間に罪を問うということ自体がおかしいわけです。少なくともこの男性被告が家族からまともな扱いを受けていれば、自宅に放火するなどということはしなかったはずです。
この行為が犯罪になり、実刑判決がくだるというのが今の刑事司法制度です。
私に言わせれば、この被告を有罪にすることで、この被告に暴力を振るい、邪魔者扱いをしてきた家族や、なんの働きかけもしなかった養護学校の職員を免罪しているようなものです。
つまりいちばん弱い立場の者に罪をかぶせ、周りの人間を救うのが、ある意味、刑事司法制度の本質です(これがつまり「犯罪の本質」でもあります)
 
当然、障害者は犯罪者に仕立て上げられやすくなり、刑務所の中には多く障害者が収容されていることになります。このことは「累犯障害者」(山本譲司著・新潮文庫)という本に詳しく書かれています(著者の山本譲司氏は元国会議員で、秘書給与詐取で実刑判決を受けた人です)
 
もちろん障害者以外の犯罪者もいっぱいいますが、たいていの犯罪者は、親が離婚するとか、死ぬとか、暴力を振るうとかの崩壊家庭で育ち(あるいは崩壊家庭から逃れて親戚の家や養護施設で育ち)、当然あまり教育は受けられず、また、障害者といえるほどでなくてもあまり能力に恵まれず、そのため社会の底辺で悲惨な生活をし、生きていくために窃盗をしたり、誰かに利用されたために犯罪をしたりした人です。
こういう人は犯罪を繰り返しますから、犯罪の多数はこうした人によって占められていますが、重大犯罪にいたることはめったにないので、ほとんどは裁判員裁判の対象になりません。
 
犯罪者の多くがこうした悲惨な人生を歩んできた人である一方、犯罪者を裁く裁判官、検事はエリートとして恵まれた生活をしています。
恵まれた裁判官、検事が恵まれない人間に有罪を宣告して刑務所送りにするのが法廷という場所です。
 
重大犯罪だけを対象とする裁判員制度では、こうした「犯罪の本質」がなかなか見えてきません(重大犯罪では犯罪の凶悪さに目を奪われて、犯罪者の境遇が軽視されてしまいます)
 
裁判員制度はうまく考えられています。“特殊な犯罪”だけを選び出して、国民に国民を裁かせ、そして、“普通の犯罪”の中に見える「犯罪の本質」を覆い隠しているわけです。

さすがに全国紙ではほとんど取り上げていないようですが、週刊誌やネットで話題になっているのがお笑い芸人河本準一さんの母親が生活保護費を不正受給していたのではないかという問題です。国会議員までが取り上げていますが、有名芸能人とはいえ、あくまで個人の問題です(厳密には有名芸能人の母親の問題です)。国政の場で個人の問題を取り上げていいのでしょうか。
 
片山さつき「河本を罰するのが目的ではないがグレー許さん」
お笑いコンビ・次長課長の河本準一(37才)の「母親生活保護不正受給疑惑」。自民党参議院議員の片山さつき氏や世耕弘成氏がネット上で言及し、厚労省に調査を依頼するなど、その波紋は広がるばかりだ。
 推定年収5000万円という河本だが、母親のことは扶養していないと主張している。これだけの高給取りでありながら、母親ひとり養えないというのは本当なのだろうか…。
 生活保護を受けようと思う人は、原則として本人が居住地の自治体窓口に申し出なければならない。自治体ではその際、本人の預金通帳や給与明細のコピー、年金の照会書などの提出を受け、その人が実際に生活保護が必要なほど困窮しているかどうかを調査する。
 だが、調査の範囲は、あくまで申し出人本人に限られる。ある自治体の担当者がその調査の限界について打ち明けた。
 「生活保護を希望する本人の収入や財産についてはできる限り調査します。しかし、調査権は別居している家族にまでは及びません。『扶養照会』といって、お子さんなどご家族の方に扶養する能力があるかどうかを調査することにはなっています。収入を証明する書類の提出もお願いします。が、それでも“経済的余裕がない”といわれてしまえば、それまでなんです。
 仮にお子さんに何千万円もの収入があることがわかっていても、借金を背負っているといわれればそれまでです。本人以外の経済的な事情を強制的に調査する権限は、法律上、市区町村にはないんです」
 親に生活保護を受けさせるか否か。それはこの場合、扶養者=子をはじめとする家族と、被扶養者=親、双方のモラルに委ねられる部分が大きい。そしてそこに、生活保護制度をめぐる“グレーゾーン”が広がる余地がある。
 だからこそ片山氏はいう。
 「非常に問題なのは、売れっ子芸人として若者たちにとても大きな影響力を持つ河本さんほどの立場の人が、生活保護をめぐるグレーゾーンについてきわめて鈍感であることです。この問題を取り上げるのは、彼を罰することが目的ではありません。ただしこのケースも含め、グレーは許さない、あくまで黒にしていくよう国会で取り上げ、法改正をしていかなければならないと思っています」
  ※女性セブン2012531日号
 
昔あった「噂の真相」という雑誌は、芸能人はオピニオンリーダーという面もあり、選挙に出て政治家になる可能性もあるので、公人に準じる“見なし公人”であるという理屈で芸能人のプライバシーを書きまくっていました。しかし、政治家が母と子の関係という個人のプライバシーを取り上げるのはまた別の問題です。
片山さつき議員や世耕弘成議員はネット情報に敏感な政治家です。いわば“2ちゃん脳”の持ち主なので、個人のプライバシーには鈍感なのでしょう。
 
しかし、これからはこうしたことが政治の場でどんどん取り上げられるようになるでしょう。というのは、アメリカの保守派がもっとも重視するのが「家族の価値」だからです。片山議員や世耕議員のような日本の保守派も基本的には同じですから、これから日本でも「家族の価値」が重視されるようになっていくでしょう。
となると、母と子の関係はプライバシーだとばかりはいえなくなってくるかもしれません。
 
そこで、もうすでにプライバシーが表面化してしまったので、河本準一さんと母親との関係について考えてみることにします。
 
河本準一さんがかなりの高所得者であることは間違いないでしょう。そして、生活保護制度では三等親内の血族には扶養義務があるということですから、河本準一さんが母親の生活の面倒を見るべきだというのが、片山議員や世耕議員に限らず世の中の多くの人の考え方でしょう。
しかし、それはあくまでまともな家族関係を前提とした話です。河本準一さんと母親との関係がまともでなければ、扶養義務はありません。早い話が、子どものころ母親に虐待されていて、今も怨みに思っているというのであれば、母親の扶養を拒否しても許されます。
 
では、河本準一さんと母親の関係はどうだったのかということになりますが、これはまさにプライバシーのもっとも深い部分です。そういうところまで政治家や一部マスコミは踏み込んでしまっているわけです。
 
もっとも、河本準一さんの場合は母親のことを笑いのネタにしています。河本さんのオカンネタは確実に笑いの取れる“鉄板ネタ”だということです。そして、それをもって河本さんと母親の関係はよいはずだと考える人がいます。
しかし、これは考え違いでしょう。たまたま5月20日の朝日新聞に漫才コンビ「ナイツ」の塙宣之さんの言葉が載っていて、それによると、学校時代のある日、テレビで芸人が自分のコンプレックスを笑いに変えて、笑いをとっているのを見て、自分もイジメにあっていたコンプレックスを笑いに変えたら、その日以来イジメはなくなり、人気者になったということです。
つまり笑いのネタというのはたいていコンプレックスがもとになっているのです。たとえば自分はブサイクであるとか、バカであるとか、女にもてないとか。
河本さんがオカンをネタにしたのは、それが自分にとってのコンプレックスだったからでしょう。
ちなみに既婚者の男の芸人で、芸能人を妻にしている人を別にすれば、自分の妻の言動を笑いのネタにする人はまずいません。ほとんどの場合、それをすれば妻を笑いものにしたということで、妻との関係が壊れてしまうからです。
河本さんの場合、母親の存在が自分にとってのコンプレックスで、すでに母親との関係が壊れているか、壊れてもいいと思ったから母親を笑いのネタにしたのではないかということが十分に想像できます。
 
河本さんは2007年、「一人二役」という本を出版しています。これは自分と母親のことを書いた本で、母親は離婚後父親役も兼ねるようになったという意味で「一人二役」という題名になっているそうです。この本の印税がかなりの額になるので、それも河本さんを非難する材料に使われています。
 
私は「一人二役」という本は読んでいませんが、内容は母親を讃えるものであるようです。しかし、それを額面通りに受け止めるわけにいきません。題名のように母親はやさしさときびしさと両面を持った人だったのでしょう。河本さんは母親のきびしさがトラウマになっていて、それをなんとか糊塗するためにこの本を書いたということがやはり十分に考えられます。
たとえば、親から暴力をふるわれたことがトラウマになっている人が「親がきびしく育ててくれたおかげで今の私があるのだ」というふうに暴力を肯定するのと同じ原理です。
31歳の若さで自分と母親との関係を一冊の本に書いた動機はなにかと考えてみると、河本さんの心の葛藤が想像できるはずです。
 
私がここで書いたことはすべて私の想像ないしは推測ですから、それが正しいと主張するわけではありません。
しかし、片山議員や世耕議員や世間の多くの人は、まったく逆の推測に基づいて河本さんを非難しているわけです。
どちらが正しいかは今の時点ではわかりません(というか、河本さんと母親以外にはわかりません)
河本さんを非難している人たちは、自分の非難がなんの根拠もない推測に基づいていることを知らねばなりません。
 
 
これからは政治の世界でも、こうした家族のあり方がどんどん取り上げられるようになるでしょう。
たとえば、「大阪維新の会」が「家庭教育支援条例案」なるものを発表し、結局取り下げましたが、これも家族関係が政治の場に持ち出された一例です。
ちなみに橋下徹大阪市長は体罰肯定論者ですが、石原慎太郎都知事は戸塚ヨットスクールの支援者で、かつて「スパルタ教育」なる本をものしています。
政治の世界では、右翼や左翼、保守や革新という概念がほとんど意味を持たなくなっています。代わって家族観の違いが新しい対立軸になっていくでしょう。
 
原発は“安全神話”にささえられていました。
古い家族観は“愛情神話”にささえられています。
これからは「愛情のある家族」と「愛情のない家族」がきびしく仕分けされていく時代です。

こんなバカなことになるとは思っていませんでした。大阪市の職員を対象にした刺青調査のことです。
橋下徹大阪市長は、市の児童福祉施設の男性職員が腕の刺青を見せて子どもを脅したという出来事をきっかけに、市職員の刺青を禁止する方針を表明し、さまざまな刺青バッシングの発言をしました。しかし、そのうち本人も自分の考え違いに気づくだろうと私は思っていましたが、いまだにしつこくやっていたわけです。
 
大阪市職員110人が入れ墨
 大阪市は16日、教育委員会を除く全職員約3万3000人を対象に実施した入れ墨の有無を尋ねる調査で、110人が入れ墨をしていたとの調査結果を発表した。同日午後の服務規律に関する会合で、職員倫理規則に入れ墨禁止の規定を新たに設けることや、既に入れ墨がある職員に消去を指導する方針を確認した。
 
 調査は橋下徹市長の意向で1~10日に書面で実施。記名式で回答を義務付け「人権侵害に当たる」との指摘もあるが、橋下市長は入れ墨をしている職員を市民の目に触れる職場に配置しないなど調査結果を人事に反映させる方針だ。
 110人の内訳は、ごみ収集などを行う環境局が73人と最も多く、次いで市営地下鉄やバスを運行する交通局が15人、建設局が7人など。
  首から上、膝から足先まで、肩から手の指先までの人目に触れやすい部分については回答を義務付け、普段は服に隠れて見えない胸や腹、背中などの部分は任意回答。入れ墨やタトゥーの有無のほか、彫った部位や大きさも尋ねた。
  橋下市長は同日、市役所で記者団に「若者がファッションで(タトゥーを)入れる風潮も分かるが、市職員としてはだめだ。どうしてもやりたいなら公務員を辞めて個性を発揮したらいい」と述べた。
 
「どうしてもやりたいなら公務員を辞めて」などと過激なことを言っているようですが、よく読むと、内実は違います。刺青の職員を市民の目に触れる職場に配置しないようにするということですから、辞めさせるわけではありません。
服に隠れて見えない部分については任意回答にするというような配慮もしています。
刺青がある職員に消去を指導する方針ということですが、これも実際は困難でしょう。身体に手を加えるという問題ですし、医者の費用を誰が支払うのかという問題もあります。
 
橋下市長の間違いは、ヤクザの刺青とおしゃれとしてのタトゥーをいっしょにしてしまったことです。おしゃれとしてのタトゥーにはなんの問題もありませんし、また、服に隠れて見えないところとなると、さらに問題はありません。
 
では、ヤクザの刺青は問題かというと、私の考えではこれも問題はありません。つまり、ほんとうはヤクザの刺青もおしゃれとしてのタトゥーも同じなのです。なぜならヤクザにも私たちと同じ人権があるからです。このへんのことは次のエントリーで書きました。
「橋下氏の刺青差別発言」
 
それにしても、なぜ橋下市長は刺青はよくないという考えを持つようになったのでしょうか。
ひとつには、サウナや公衆浴場などによくある「刺青の方の入場お断り」という張り紙に影響されたということが考えられます。しかし、あれは警察が指導して張らせているものです。警察の判断を無批判で受け入れてはいけません。
刺青のある人は浴場に入れないなんていうことがあっていいわけありません。これはもう、人間としての常識で考えればわかることです。
数日前の朝日新聞にも、最近は浴場などでもこうした表示をしないところがふえていると書いてありました。
 
もうひとつ考えられるのは、学校の影響です。
日本の中学高校は、ありとあらゆる細かいことを規制します。服装から髪形から、要するにあらゆるおしゃれを禁止するのが日本の学校です。もちろんピアスも茶髪も禁止です。たぶん刺青禁止という校則はあまりないでしょうが、それはいうまでもないことだからです。
 
こういう学校で育つと、やたら人の服装やおしゃれを規制したくなる人間になってしまいます。たとえば、企業の人事担当者もそうですから、就活の学生は否応なしにリクルートスーツを強いられるわけです。
 
橋下市長の頭の中では、役所と学校というのは同じ原理で運営されるべきだということになっているのでしょう。つまり橋下市長のやろうとしているのは役所の学校化です。
そして、多くの人がこのことにあまり疑問を感じず、むしろ賛成しているようです。
 
イヴァン・イリイチという思想家は、社会が学校の価値観でおおわれていることを「学校化社会」と表現しました。
日本の現状もまさに学校化社会となっています。しかも、日本の学校は細かいことを規制するので、日本社会も細かい規制で息が詰まりそうになっています。
こういう社会からは、大胆で斬新な発想は生まれてきません。これは日本経済が低迷する一因ともなっています。
 
橋下市長は、競争原理による学力向上を実現するための学校改革に熱心ですが、今の社会に必要なのは学力よりも創造性でしょう。そのためには自由な学校でなければなりません。
 
しかし、橋下市長も多くの日本国民も自由な学校というのを知らないため、そういう方向の改革というのは想像もできないようです。
 
だめな教育はだめな人間をつくります。
そして、だめな人間はだめな教育をします。
こうして“だめスパイラル”に入っているのが今の日本です。

5月15日は沖縄返還40周年で、記念式典などが行われました。時のたつのは早いものです。70年前後には私もデモに参加したりしていましたが、当時のデモではベトナム反戦とともに沖縄返還(当時の言葉では「沖縄奪還」)を叫びました。日本政府も表向きは「核抜き・本土並み返還」を目指していましたが、実際は核持ち込みを認める密約が行われていたわけですし、「本土並み」は今にいたるも実現していません。
 
普天間問題を初めとする基地問題がいまだに解決しないのは、やはり根底に沖縄に対する差別があるからだと思います。この差別意識は一般国民にもありますが、官僚とマスコミにとりわけ濃厚にあります。高学歴エリートというのはもっとも差別意識の強い人たちだと考えておいて間違いはありません。
 
私がマスコミの沖縄差別に気づいたきっかけは、1995年のいわゆる沖縄米兵少女暴行事件です。この事件のあと、沖縄では総決起大会などが行われるなど大騒ぎになっていくのですが、東京に住んでいる私にはなにが起こっているのかさっぱりわかりません。どうやら少女暴行事件がきっかけらしいのですが、どんな事件なのかまったく報道されていないのです。いわば事件の周辺だけが報道されている格好です。
私は新聞やテレビのニュースにはかなり目を通しているほうですから、私が見落としていたということはあまり考えられませんが、念のためにと思い、図書館に行って新聞の縮刷版を見てきました。
私は朝日新聞を購読していたので、図書館では読売新聞の縮刷版を見ました。
事件が起こったのは1995年9月4日ですから、その日から見ていきました。やはり事件そのものの記事はまったくありませんでした。初めて事件に関連する記事が出たのは9月15日朝刊です。それも本文は14行の短い記事です。書き写しておきます。
 
日米地位協定の見直し申し入れ
女児暴行事件で沖縄県
沖縄県で今月四日、米兵三人が小学生女児を暴行する事件が起き、沖縄県は十四日までに外務省に米国側への抗議を要請するとともに、捜査の壁となっている日米地位協定の見直しを申し入れた。駐日米大使館にも抗議の意思を明らかにした。県内の市町村議会では抗議決議が相次ぎ、抗議の県民総決起大会も開かれる予定で、在沖縄米軍への県民の反発が高まっている。
 
これは事件を伝える記事というよりも、沖縄県が外務省や米大使館に抗議したという記事ですから、この記事を読んだ人も事件のことはほとんど印象に残らないでしょう。
 
9月19日夕刊に「地位協定見直しせず」という見出しのやや大きな記事が出ます。これは政府の意向を伝える記事ですが、沖縄の動きについても書かれています。ただ、事件に関しては「米兵による沖縄県の少女暴行事件」という言葉があるだけです。
 
20日朝刊に第3面ほぼ全面を使った記事が出ます。もっとも地位協定見直しを中心とした記事ですが、その背景説明としてやっと事件のことがひと通り書かれます。
このあたりから連日、事件に関連する記事が出るようになり、22日夕刊1面にはクリントン大統領が「遺憾の意を表明した」という記事が出て大騒ぎになっていくのですが、本土の人は結局、発端となった暴行事件とその捜査の進展をリアルタイムの報道で知ることはなかったわけで、この情報格差は大きかったと思います。
 
事件についてはウィキペディアの「沖縄米兵少女暴行事件」の項目から引用しておきます。
 
1995年(平成7年)94日午後8時ごろ、沖縄のキャンプ・ハンセンに駐留するアメリカ海軍軍人でいずれも黒人のA(22)、アメリカ海兵隊員B(21)C (20)3名が基地内で借りたレンタカーで、沖縄本島北部の商店街で買い物をしていた12歳の女子小学生を拉致した。小学生は粘着テープで顔を覆われ、手足を縛られた上で車に押し込まれた。その後近くの海岸に連れて行かれた小学生は強姦され、負傷した。
沖縄県警察は、数々の証拠から海兵隊員の事件への関与は明らかであるとして、同年97日に逮捕状の発付を請求した。しかし、日米地位協定によれば、被疑者がアメリカ兵の場合、その身柄がアメリカ側の手中にあるとき、起訴されるまでは、アメリカが被疑者の拘禁を引き続き行うこととされていた[1]。したがって、たとえ逮捕状が発付されても、日本側捜査当局は起訴前には逮捕状を執行できず、被疑者の身柄を拘束して取調べるという実効的な捜査手段を採ることもできなかった。
 
このような米兵の特権的な取り扱いによって、事件の捜査に支障を来していたことから、沖縄県民の間でくすぶっていた反基地感情が遂に爆発し、沖縄県議会、沖縄市議会、宜野湾市議会をはじめ、沖縄県内の自治体において、アメリカ軍への抗議決議が相次いで採択された。同年1021日には、宜野湾市で、事件に抗議する県民総決起大会が行われ、大田昌秀沖縄県知事をはじめとする約85千人(主催者発表)もの県民が参加した。これらの動きは、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や、日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるきっかけとなり、沖縄県知事も政府に対して強くその実行を迫った。
 
米兵3人が12歳の女子小学生を拉致し、暴行し、負傷させたという事件は、常識的な判断としてはかなりの大事件であり、ニュースバリューも高いと思われますが、読売新聞はまったく報道しなかったわけです(私の記憶では朝日新聞もテレビも。つまり本土のほぼすべてのマスコミが)
新聞業界には「犬が人をかんでもニュースにならないが、人が犬をかむとニュースになる」という言葉があります。米兵が少女を暴行するのは犬が人をかむようなものだと認識されていたということでしょう。
しかし、これが沖縄県でなく、たとえば鹿児島県とか北海道で起きたとしたらどうでしょうか。まったく報道しないということがあるでしょうか。
つまりマスコミにおいては、「米兵に沖縄の少女が暴行された」というのと「米兵に日本人少女が暴行された」というのとは同じではないのです。
私はそのことに気づいてから、本土マスコミの沖縄報道についてはつねに不信感を持って見るようにしています。
 
 
たとえば、40周年の日に鳩山由紀夫元首相が沖縄を訪れ、講演したということが記事になっています。
 
鳩山元首相:また「最低でも県外」講演で普天間移設に触れ
毎日新聞 20120515日 2343分(最終更新 0516日 0008分)
 鳩山由紀夫元首相は15日、沖縄県宜野湾市のホテルで講演し、米軍普天間飛行場(同市)の移設問題に関し「『最低でも県外』という気持ちを果たさなければ沖縄の皆さんの気持ちを十分理解したと言えない」と語った。鳩山氏は政権交代前の沖縄訪問で、「最低でも県外」と表明。首相就任後は県外移設で迷走したあげく、10年5月に移設先を同県名護市辺野古沖とする日米合意を決めた。にもかかわらず、再び沖縄で首相当時の決定を否定して、「最低でも県外」に逆戻りした。
 鳩山氏は記念式典出席のため、首相退任以来初めて訪沖。地元企業が参加する勉強会に招かれた。鳩山氏は「自分の思いが先に立ちすぎ、綿密なスケジュールを立てられなかった。結果として皆さんにご迷惑をかけ、心からおわびしたい」、「官僚、国会議員を説得できなかった不明を恥じる」と陳謝を繰り返した。
 普天間問題の決着を自ら「10年5月末」と区切ったことに関し、「予算の審議でまったく身動きできずに4月を迎え、4月、5月の2カ月ですべて進めるのは考えてみれば無理筋だった」と反省。
 鳩山氏は、日米合意について、首相として決定した当時は「(県外移設を掲げたのは)勉強不足だった」と「反省」していた。しかし、この日の講演では「辺野古に戻ってしまうような案を、私自身が作ろうとは思っていなかった」と述べ、事実上否定してみせた。【木下訓明】
 
この見出しの『また「最低でも県外」』という言葉には、明らかに批判的なニュアンスが感じられます。実際、鳩山元首相は首相当時、最終的には「県外」を否定して辺野古移設という日米合意を肯定したのですから、まさにブレまくっているわけです。
 
普天間基地問題で鳩山元首相を批判するのにはふたつの立場があります。ひとつは、鳩山元首相が日米合意とは違う「国外県外」を目指したことを批判する立場です。もうひとつは、「国外県外」を目指したのはよいがそれを実行する力がなかったことを批判する立場です。このふたつの立場は百八十度違います(もうひとつ、実行力がないのに願望を口にして混乱を招いたことを批判する立場もあり、多くのマスコミもそうですが、この立場の人は自分の意見を隠しています)
鳩山元首相が目指した「国外県外」は沖縄県民の多数意思と同じです。現に40周年記念式典における式辞で仲井真弘多沖縄県知事は「米軍普天間飛行場の県外移設、早期返還を県民は強く希望している」と言っています。
 
「最低でも県外」と発言した鳩山元首相を批判するマスコミは、実は沖縄県民を批判しているのと同じです。
マスコミは「日米合意」を墨守する外務・防衛官僚の側に立っていて、沖縄県民の側に立っていません。
マスコミや官僚に沖縄差別の意識がある限り、沖縄の基地問題はなかなか解決できないと思います。

韓国で仏教の僧侶がギャンブルをしながら酒を飲んだりタバコを吸ったりしている映像が公開され、韓国で大きな騒ぎになっているようです。宗教者は高潔な人だと信じている人にはショックなことでしょう。
 
韓国僧侶が徹夜賭博 隠し撮り映像で暴露
韓国で、仏教の最大宗派、曹渓宗の僧侶らが酒を飲んだりたばこを吸ったりしながら、徹夜で賭博に興じる姿を隠し撮りした映像が暴露され、宗派幹部6人が11日までに引責辞任を表明するなど大きな波紋を呼んでいる。韓国メディアが同日報じた。
 映像は、南部長城のホテルで4月23日の夜に撮られたとみられ、宗派の行事で集まり宿泊していた僧侶8人が翌朝まで、約13時間延々と賭博を続けていた。
 反主流派の僧侶が「動いた金は1億ウォン(約700万円)以上だ」と主張して映像を公開、9日に検察に告発した。(共同)
[ 2012511 21:51 ]
 
ギャンブルをしていたのは、一部の下っ端僧侶ではなくて、ある程度の地位の僧侶のようです。となると、この教団の腐敗はかなり深刻で、6人の幹部が辞任すれば解決するという問題とは思えません。
 
権威ある教団の腐敗ということでは、カトリック教会の性的虐待事件が思い起こされます。
これはカトリックの聖職者が学校、孤児院、神学校、聖歌隊などの子ども(多くは少年)を性的に虐待したという事件で、昔から広範囲に行われていたらしいところに深刻さがあります。
ウィキペディアの「カトリック教会の性的虐待事件」の項目から、事件の発端のところだけ引用しておきます。
 
アメリカ合衆国で最初にこの件に世間の注目を集めたのはボストン・グローブ紙であった。20021月、同紙はボストン教区の教区司祭ジョン・ゲーガン神父が、六つの小教区に携わった30年にわたる司祭生活の中で、述べ130人もの児童に対する性的虐待を行って訴訟を起こされたこと、またカトリック教会はゲーガンに対しなんら効果的な処分を行わず他の教会へ異動させただけで、それが事態を悪化させてきたと、特集を組んで報道した。ゲーガンは1991年の虐待事件に関して起訴され、1998年に聖職停止(司祭としての職務の剥奪)処分を受けていた。ゲーガンは2002年に禁錮9 - 10年の実刑判決を受けたが、2003823日にソーザ・バラノフスキー矯正センターで他の収容者に暴行されて死亡した。
 
このスキャンダルが発覚した後、6月には250人が解任されるという事態となったが、聖職は剥奪されなかった。そのため、アメリカ国民はこの「温情ある方針」に激怒した。米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は2003111日、過去60年間で米国カトリック教会の1200人を超える聖職者が、4000人以上の子供に性的虐待を加えたと報じた。さらに、2004216日には米CNNテレビで1950年から2002年にかけての52年間で、神父4450人が疑いがあると報道し、件数は約11000件に上ると報じた[8]。これはその期間中における神父の人数11万人の内の4%である。約11000件中立証できたのは6700件、立証できなかったのは1000件、神父が死亡したなどの原因で調査不可能になってしまったものが3300件であった[9]。しかも被害者団体はこれに対しても「司祭らは長年にわたり(性的虐待を)隠そうとしてきた。すべての真実を示すものではない」と批判した。
 
ボストン大司教バーナード・ロー枢機卿は、自身の教区に属するゲーガンへの対応に関して、世論の厳しい批判を受け、20021213日に辞任に追い込まれた。ロー枢機卿はゲーガン神父の問題行動に関しての報告をたびたび受けていたにも拘らず、効果的な対応を行わなかったとされる。ロー枢機卿の後任となったショーン・オマリー司教は被害者への賠償金の支払いなどの1200万ドルともいわれる多額の裁判費用の捻出のため、教区資産の売却を余儀なくされた。
 
教区の責任者としてロー枢機卿が厳しい批判を受けることになったのは、同教区でこのような問題が起こったのはゲーガンが初めてではなかったからである。かつて同教区の司祭であったジェームズ・ポーターが1950 - 60年代に、少なくとも125人の子どもへの性的虐待を繰り返して教区内で問題になり、本人も自身の性的嗜好の問題に苦悩して長上に相談し、さらには逮捕までされているにも関わらず、なんら実効的な対処が行わず、教区内を転々とさせるだけであったということが明らかになったのだ。ポーター自身は1974年に司祭職を離れて結婚生活を送るようになったが、1990年代にかつての被害者が名乗り出たことから、マスコミが彼の過去を次々に暴きだすことになった(ポーターは家庭生活を送っていた1984年になってもベビーシッターの少女への性的虐待を行ったとされている)。1993年、ポーターは多くの性的虐待の罪で懲役18 - 20年の実刑判決を受け、2005年にガンのため獄中で死去した。
 
同様の事件はアメリカだけでなく、ドイツ、オーストリア、アイルランド、イギリス、オランダ、スイス、ノルウェー、オーストラリア、メキシコなどでも表面化し、多くのケースで教会の上層部が事件を隠ぺいしようとしていたことも批判されました。
 
子どもへの性的虐待というのは人間としても最低の行為ですが、それが一部の不心得者といえないほどに広く行われ、さらに上層部の処分が甘いというのも見逃すことはできません。上層部に倫理観が欠けているのか、あるいは上層部も悪しき“伝統”に染まっているのかとも疑われます。
 
ただ、事件の深刻さのわりに、世の中の反応は薄いようにも思われます。カトリック教会の権威を維持したい人はどうしてもこの事件を過小評価するからでしょうか
 
しかし、権威ある集団ほどその内部は腐敗堕落していると思ったほうがいいと私は考えています。
というのは、世間の目が甘いとそれだけ腐敗堕落しやすいからです。
もちろん権力も腐敗堕落しやすいものです。
ですから、権力も権威も腐敗堕落していると考えておいて、ほとんどの場合間違いありません。
 
あの韓国の教団の僧侶たちもカトリック教会の神父たちも、修行に入ったばかりの若いころは純粋な心を持っていたでしょう。しかし、年を取るとともに純粋な心は失われ、また組織の悪しき伝統に染まって、腐敗堕落した人間になっていったわけです。
 
こうしたことはあらゆる世界に見られます。
たとえば、政治家を志す人の多くは、世のため人のためにという思いから政治家を志すのだと思いますが、当選回数を重ねるにつれ、世のため人のためという思いは薄れていき、自分が当選するため、自分の利益のために政治をするようになっていきます。
大学を出て官僚を志す人も、最初は国家国民のために働きたいという思いを持っているはずですが、年をへるにつれてその思いは薄れていき、官僚組織の悪しき伝統に染まって、省益のため、自分自身の天下りのために働く官僚になっていきます。
ですから、政治家や官僚が国民のためによいことをやってくれると期待するのはまったく愚かなことです(政治家や官僚を国民のために働かせるには国民の徹底的な監視が必要です)
 
人は年を取るとともに堕落し、また権威や権力を持つほどに堕落する。これは法則といっていいほどに確かなことです。
この法則を通して世の中を見ると、世の中のあり方がはっきりと見えてきます。
 
もっとも、この法則が正しいとすると、自分も多かれ少なかれ堕落した人間だということになりますから、この法則を認めたくないという人も多いでしょう。そういう人は逆に、人は年を取るほどよい人間になっていくなどと考えたりしますが、そういう考えに立つと、世の中のあり方がまったく見えなくなります。
こうした見方は要するに自己中心的なものですから、天動説的価値観といえます。
私のいう法則は、地動説的価値観ということになります。
もちろんどちらが正しいかは言うまでもないでしょう。
 

「ことわざ辞典」の前書きや後書きにはたいてい、「ことわざとは先人の知恵や経験が詰まったものであり、私たちにとっては人生の指針となるものである」という意味のことが書いてあります。私はこれを読むたびに、自分はことわざを人生の指針にしたことなどないけどなあと、納得いかない思いがしていました。
今、ウィキペディアで「ことわざ」の項目を見てみると、「(諺、英語:proverb)は、鋭い風刺や教訓・知識など含んだ、世代から世代へと言い伝えられてきた簡潔な言葉のことである」と定義され、また、「ことわざは、観察と経験そして知識の共有によって、長い時間をかけて形成されたものである。その多くは簡潔で覚えやすく、言い得て妙であり、ある一面の真実を鋭く言い当てている。そのため、詳細な説明の代わりとして、あるいは、説明や主張に説得力を持たせる効果的手段として用いられることが多い」と説明してあります。つまり、「教訓・知識」や「効果的手段」という実用的価値を認めているわけです。
 
確かにことわざの中には、実用的なものもあります。たとえば、「腹八分目は医者いらず」のように健康に関するもの、「月がかさをかぶると雨」とか「霧の深い朝は晴れ」とか天候に関するものなどです。
しかし、こうした実用的なものは、たくさんあることわざの中のごく一部です。ほとんどのことわざは実用的ではありません。それは、正反対の意味を持つことわざがたくさんあることを見ればわかります。
たとえば、こんな具合です。
 
<待機よりも行動をよしとすることわざ>
善は急げ
先んずれば人を制す
巧遅は拙速にしかず
案ずるより産むが易し
虎穴に入らずんば虎児を得ず
まかぬ種は生えぬ
 
<行動よりも待機をよしとすることわざ>
急がば回れ
せいてはことを仕損じる
果報は寝て待て
待てば海路の日和あり
残りものに福がある
 
また、たいていのことわざには反対の意味のものがあります。
人を見たら泥棒と思え⇔渡る世間に鬼はなし
喉もと過ぎれば熱さを忘れる⇔羹に懲りて膾(なます)を吹く
蛙の子は蛙⇔とんびが鷹を生む
三人寄れば文殊の知恵⇔船頭多くして船山に登る
 
つまり、ことわざにはほとんどの場合正反対の意味のものがあるので、人生の指針や行動の指針になるわけがないのです。
では、なんのためにことわざがあるのかというと、行動や決断のあとの「気休め」のためにあります。
 
人生は、右へ行くか左へ行くか、行動するか待機するか、決断の連続です。就職、結婚という人生の重大事から、今日の昼飯になにを食べるかといったことまで決断しなければなりません。
しかし、決断というのは明確に決断できるときばかりでなく、どちらがよいかわからない場合も少なくありません。そんなときは5149みたいなことでむりやり決断するわけですが、そうした場合はどうしても心残りが生じます。つまり、行動を決断したときには、待機していたほうがよかったのではないかという思いが残ってしまうのです。
そんなとき、「善は急げ」「先んずれば人を制す」ということわざを持ち出して、心残りをぬぐい去るわけです。
逆に、待機を決断したものの、行動したほうがよかったのではないかという思いが残っている場合は、「急がば回れ」「せいてはことを仕損じる」ということわざを持ち出して、心残りをぬぐい去るというわけです。
 
なにかを決断しなければならない場合、現実を分析するのに手いっぱいで、ことわざを想起している暇などありません。しかし、決断が終わると、少し余裕ができます。そんなときにことわざを想起して、自分の決断は正しかったのだと自分を納得させるわけで、それがことわざの効用なのです。
 
行動か待機かという決断はしょっちゅうあるので、それに関することわざもいっぱいあるというわけです。
 
ある人を信用するべきか信用するべきでないか迷ったとき、「人を見たら泥棒と思え」とか「渡る世間に鬼はなし」とかのことわざを思い出して、判断の参考にする人はいないはずです。人にだまされたあとで『「人を見たら泥棒と思え」というからなあ』とか、人に親切にされたあとで『「渡る世間に鬼はなし」というからなあ』というように、あくまで事後に、その現実を受け入れやすくするためにことわざは使われるのです。
 
あくまで心の問題なので、私はそれを「気休め」効果といっています。
 
「ことわざ辞典」を編纂するような人は立派な学者であるはずです。なぜそういう人がことわざの「気休め」効果に気づかないのでしょうか。
想像するに、ことわざの「気休め」効果を認めてしまうと、ほかの思想にも波及することを恐れているのかもしれません。
そう、ほとんどの思想はことわざと同じく「気休め」効果しかないのが現実ですから。

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