村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年05月

5月1日、「大阪維新の会」市議団が「家庭教育支援条例案」を発表しましたが、これに対して批判が噴出し、市議団は7日、条例案を白紙撤回することを決めました。いかにも「大阪維新の会」らしい顛末です。
このことは全国的にはあまり報道されていないので、念のためにふたつの記事を張っておきます。
 
家庭教育支援条例案:虐待防止狙い 維新の会、提案へ
 毎日新聞 20120502日 大阪朝刊
 大阪市議会の最大会派「大阪維新の会市議団」(33人)は1日、児童虐待事件が多発する現状を踏まえ、家庭教育の支援などを目的にした「家庭教育支援条例案」を5月議会に議員提案する方針を決めた。第2会派の公明党と協議し、可決を目指す。
 条例案は、家庭用道徳副読本の導入▽乳幼児との触れ合い体験学習の推進▽発達障害課の創設▽保護者を対象にした保育士体験の義務化−−などの内容で、「親学」を提唱する高橋史朗・明星大教育学部教授の助言を受けて条文を検討している。
 教育関連では、橋下徹市長が提案した教育行政基本条例案と市立学校活性化条例案の2案が5月議会で議決される見通しで、維新市議団はこの2案を補完する条例と位置づけている。【林由紀子】
 
大阪維新の会:「発達障害は親の愛情不足」 「家庭教育支援条例案」に批判続出 市議団提案延期
 毎日新聞 20120507日 大阪夕刊
 橋下徹・大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」の市議団が議員提案を予定している「家庭教育支援条例案」に批判の声が広がっている。条例案は、児童虐待や子どもの非行などを「発達障害」と関連付け、親の愛情不足が原因とする内容だが、医師や保護者らが「根拠がない」「偏見を助長する」と猛反発。発達障害の子どもを持つ保護者らの13団体は7日午後、議会を訪れて提案中止を要望。市議団も5月議会での提案見送りを決めた。
 条例案は今月1日、維新市議団が公表。児童虐待が相次ぐ現状を踏まえ、家庭教育の支援や親に保護者としての自覚を促す目的で作られた。「親になるための学びの支援」「発達障害、虐待等の予防・防止」など全5章、23条から成る。
 しかし、発達障害について「乳幼児期の愛着形成の不足」が要因と指摘し、「伝統的子育て」によって障害が予防できるなどと言及した条文に批判が続出。高田哲・神戸大大学院教授(小児神経学)は「親の育て方が原因であるかのような表現は医学的根拠がないばかりか子どもや家族が誤ったイメージで見られかねない」と危惧する。
 長男(16)が広汎(こうはん)性発達障害という母親(45)=東大阪市=は「私のせいで子どもが発達障害になったと言われているようで傷ついた。最近は理解も広がってきたと思っていたのに、怒りを通り越して言葉にならない」と憤る。「大阪自閉症協会」「大阪LD親の会 おたふく会」など大阪府内を中心に活動する13団体は7日、「学術的根拠のない論理に基づいている」として条例案撤回のほか、当事者団体や専門家を含めた勉強会の開催を求めた。
 インターネットの「ツイッター」でも1日以降、「うちの子は失敗作ですか」「ニセ科学だ」などと抗議が噴出。橋下市長は7日、記者団に「発達障害の子どもを抱えているお母さんに愛情欠如と宣言するに等しい」と苦言を呈し、市議団に条例案見直しを求めたことを明かした。【林由紀子】
 
これに関し、名前を挙げられた高橋史朗・明星大教育学部教授は、「ある県の極めて粗雑な非公式な私案」がマスコミに流れ出たのは理解に苦しむと言いつつも、「環境要因や育て方が(発達障害の)二次障害に関係するとの見解までもタブー視」するのはよくないと主張しておられます。
 
 
この条例案には、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因である」「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」というくだりがあり、この部分が非科学的であるとして集中的に批判されています。確かにその批判はもっともですが、私はこの条例案のあまり批判されていない別の点について批判したいと思います。
 
この条例案の前文の前半部分を引用します。
 
家庭教育支援条例 (案)  
(前文)
 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
 
つまり、昔は家庭や地域社会がちゃんと子どものしつけや教育をしていたが、最近は家庭や地域社会の教育力が低下してきているという認識が示されているわけです。この認識は幅広く共有されており、マスコミでも普通に語られています。たとえば、最近の親は家庭でするべきしつけをせず学校任せにしている、といった具合です。
ですから、このくだりを読んでも疑問に思う人は少ないでしょう。
しかし、「昔は家庭や地域社会が子どもをちゃんと教育していた」というのは、実はトンデモ歴史観なのです。
子どもの教育やしつけのことがうるさく言われるようになったのは最近のことです。昔は今のように子どものしつけや教育をしていなかったのです。
 
私は、昔の寺子屋では子どもに行儀を教えることはなく、子どもはそれぞれ好き勝手な格好で勉強していたということを次のエントリーで指摘しました。
「オランダの学校と寺子屋」
 
今回は、「日本人のしつけは衰退したか」(広田照幸著・講談社現代新書)に基づいて、昔は今のように子どもの教育・しつけをしていなかったということを言いたいと思います。
適当に目についた部分を引用します。
 
特に、幼少期のきびしいしつけが重視されてきた西洋とは対照的に、日本の伝統的な子供観は、子供は自然に大きくなって一人前になるものだという考え方が支配的であった(山住正己「近世における子ども観と子育て」)。昭和初めの熊本県須恵村に住み込んだ米国人の人類学者は、小さい子供が傍若無人にふるまっても大人たちがほとんど怒らないことを詳細に書き残している(スミス&ウィスウェル「須恵村の女たち」)。日本の伝統的な考え方に基けば、「子どもは年頃になれば自然に分別がつくもの」だから、小さいときにきびしくしつける必要などないと考えられていたのである。
 
実際、両親そろっている場合でも、都市下層では経済的・文化的にみて子供に十分な配慮をしてやれるだけの余裕に乏しかった。また、時間的に余裕がある場合でも、子供のことは家庭内で優先順位がけっして高くなかったからであろうか、子供は放任されていた。昭和初めの小学校教師がみた都市下層の家庭の様子を紹介しよう(古関蔵之助「細民街を生活環境とする子供等」)
共稼ぎの場合。「父母は朝早く出て夜遅く帰宅する。労働者が家を留守にすることは夥しいもので、仕事の都合では数日間子供の寝顔しか見られぬ事がある。……父母は留守勝ち故、三銭おくからこれで好きなものを買へとあてがふのである」。
母親が主婦の場合。「夫が朝早くから外に出て働いてゐるのに、家を預かってゐる主婦は昼寝をしたり、隣近所の人々とお茶を飲みつゝ、我が子の行動などには皆目無関心で、雑談に耽つてその日その日を無意味に暮らしてゐる」。実際には、内職に従事する率が非常に高かったから、内職のじゃまにならないよう、子供を追い出した家庭も多かったはずである。
 
このように、農村でも都市でも、多くの親たちはしつけや家庭教育に必ずしも十分な注意を払っていなかった。村では、しつけや人間形成のさまざまな機会は、近隣や親族・若者組など大きなネットワークに拡散的に埋め込まれていた。都市でも、下層から庶民層にいたる広い層で、家族という単位自体が不安定で流動的であったし、経済的・時間的余裕の少ない多くの親にとって、子供のことはなおざりにされがちであった。「昔の親は子供をしっかりしつけていた」というイメージにあてはまらない親の方が、むしろ普通であったのである。
 
この一冊の本からの少しの引用だけでは十分な根拠を示したことにはならないかもしれませんが、あとはこの本を読むなり、昔の庶民の生活を調べるなりしてください。
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」と主張する人はほとんどの場合、なにか根拠を示すわけではなく、ただ自分の印象を語っているだけですから、比較すればよくわかるはずです。
 
ちなみに、とくに教育やしつけをしなくても人間は悪くなりません。もともと悪く生まれついているわけではないので、当たり前のことです(子どもに教育やしつけをしなければならないという近代的教育観のほうがへんなのです)
 
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」というのは、年寄りが「昔はよかった」「近ごろの若い者はなっていない」というのと同じようなものです。マスコミまでこんな妄言を信じてしまうのは困ったものです。
 
しかし、こうした間違いを放置しておくと世の中が間違った方向に行くことになりかねません。たとえば以前、統計的には少年犯罪は減少し続けていたにもかかわらず、「少年犯罪がふえている・凶悪化している」ということが盛んに言われ、それを根拠に少年法が厳罰化の方向に改変されてしまうということがありました。
正しい歴史観を持たないと、「家庭教育支援条例案」みたいなトンデモ法案が通ってしまうことにもなりかねません。

5月6日、フランス大統領選では社会党のオランド氏が当選し、ギリシャの総選挙では与党が過半数割れしました。これについて朝日新聞では沢村亙ヨーロッパ総局長が『「罰する選挙」いつまで』という解説を書いていて、私はその「罰する選挙」という言葉に注目しました。
その解説から一部を抜粋しておきます。
 
新大統領誕生を祝う群衆で埋まったパリのバスチーユ広場で6日夜、若者が気勢を上げた。「サルコジをやっつけたぞ」。アテネで食事配給に並んでいた初老男性は「懲らしめねば大政党は変わらない。だから政治を一新してくれそうな左派政党に乗り換えたよ」。
政府債務(借金)の危機が深まったことで、欧州の選挙は政治家を「選ぶ場」から「罰する場」へとすっかり装いを変えた。それでもここまで政治家が嫌われた選挙は珍しい。
 
ギリシャ総選挙を伝える記事の中にも「罰する選挙」の実態を伝える部分があります。
 
「これはリベンジ(仕返し)だ」。前回選挙で連立与党の「全ギリシャ社会主義運動」(PASOK)に投票したクシノスさん(49)は「独立ギリシャ人」に一票を投じた。景気が悪く、レンタカー会社を解雇され、家族4人が月約400ユーロ(約4万2千円)で食いつなぐ。「国民に我慢ばかりを強いる連立政権に罰を与えたかった」
(中略)
空調技師のティレマコスさん(40)は、PASOK支持から、移民排斥や反欧州連合(EU)を掲げる極右「黄金の夜明け」に変えた。給与は半分になり、勤め先の同僚は20人から5人に減った。次は自分の番かもしれない。過激だからこそ政治の腐敗を一掃してくれると思ったという。「全部腐った政治家たちのせいだ。みんな刑務所にぶち込んでほしい」
 
ギリシャでは緊縮財政に対する国民の不満が高まり、それが与党を「罰する選挙」になった格好です。しかし、それまでの放漫財政で利益を得ていたのは国民自身でもあり、その政治を支持していたのも国民ですから、今さら与党を罰するというのは論理的にもおかしいのですが、不満が高まれば誰かを罰したくなるのでしょう。
 
「罰する選挙」といえば当然、日本の総選挙のことも連想されます。次の総選挙は間違いなく民主党を罰する選挙になるはずです。
かといって、自民党にも入れたくない、自民党も罰したいという気持ちの人も多いので、「大阪維新の会」が大幅に票を獲得しそうです。
しかし、これはあくまで「罰する選挙」で、罰することが目的ですから、「大阪維新の会」がどんな政治をしてくれるかということは関係ありません。そもそも「大阪維新の会」の力は未知数です。「罰する選挙」をやるたびに政治が劣化していくということは大いにあることです。
 
今や「罰する」ということは時代のキーワードかもしれません。
国歌斉唱のときの不起立教師が罰されることについて、教師に同情する声は意外と少なく、罰されるのは当然だという声のほうが多数です。それだけ人を罰したいという人が多いのでしょう。
とくに教師の場合は、同情されないのはしかたないかもしれません。というのは教師は生徒を、遅刻しただの校則を守らなかっただので罰する立場だからです。今、仕返しされていることになります。
 
犯罪に対しても「罰する」ということがどんどん強化されています。死刑を望む声、厳罰を望む声が多くなり、過失に対しても厳罰が求められるようになりました。
カントの倫理学によると、行為というのは動機において評価されるべきで、結果において評価してはいけないということになっていますが、今は危険運転致死傷罪というのがつくられています。わき見運転をしても、事故が起きないと無罪放免で、わき見運転をしたためたまたま大事故が起きると、その者は罰されるという法律です。つまり、動機ではなく(行為でもなく)結果において罰するという法律で、カント先生がこれを知ったらさぞや嘆かれることでしょう。
もちろんこんなおかしな法律ができたのは、過失でも罰したいという人がたくさんいるからです。
 
犯罪者を罰したい人というのは、犯罪者が罰されると、そこで満足してしまいます。ですから、犯罪者が刑務所に入ると決まった時点で、もうその犯罪者に対する興味を失います。しかし、ほんとうの問題はそこから始まるのです。その犯罪者は刑務所の中でどのようにすごし、改心したのかしないのか。また、出所してから保護司の援助のもとに社会復帰できたのかできないのか。ここがいちばん肝心のところですが、こうしたことはマスコミもまったくといっていいほど報道しません。
 
「罰する選挙」をする人たちも同じでしょう。政権与党を罰することが目的で、そのあとのことは考えていないはずです。
 
こうした「罰する時代」はどうなっていくのでしょうか。
幼児虐待をする親もやはり罰する人です。罰することがエスカレートして、わが子に大ケガをさせたり殺したりしてしまうわけです。「罰する時代」もどんな恐ろしいところに行き着くかわかりません。

私も時々そのブログを拝見しているあるカリスマブロガーは、「自分の頭で考えろ」ということを繰り返し言っておられます。確かにもっともなことで、ネットの言論を見ても、みな同じようなことばかり主張しているのは、要するに人の受け売りだからです。私もこのブログでついつい自分の頭で考えることのたいせつさを説きたくなりますが、「自分の頭で考えろ」と言われたからといって、自分の頭で考えられるようになるわけではないと思って、自制しています。
 
「すべてのものを疑え」ということもよく言われます。哲学系の知識人がよく言いますし、成功した起業家などが言うこともあります。私もついつい言いたくなるのですが、実際すべてのものを疑うことなどできるわけはないので、これも言うのは自制しています。
 
世間の常識を疑い、自分独自の考えを持つのはたいせつなことですが、それは簡単にできることではありません。また、自分独自の考えを持っても、それが間違っていては話になりません。単なる変人になるだけです。
数ある世間の常識の中で間違った常識に気づかないといけないわけです。
そのためにはどうすればいいでしょうか。
 
学者や知識人は、知識を深めたり、知性を磨いたりすることがたいせつだと説くでしょうが、私の考えは違います。
いや、知識を深めたり、知性を磨いたりすることも必要ですが、それだけではだめです。肝心なのは、感性であり、直感や直観です
 
世間の常識のすべてを疑うのは現実的ではありません。おかしいと思うものだけ疑えばいいのです。そして、おかしいものをかぎ分けるのは、知性というより感性、つまり直感や直観だというわけです。
 
こうした感性は生理的、原始的、本能的なもので、むしろ知性の対極にあるものです。
そして、生理的、原始的、本能的な感性は、おとなよりも子どもにより強くありますから、子どもの感性を取り戻すことがたいせつになってきます。
また、子どものころに感じた疑問を思い出すこともたいせつです。
私の場合、子どものころに感じた疑問をずっと追究してきたといっても過言ではありません。
 
たとえば私は幼稚園か小学校1年生のころ、消防と警察の役割を学び、消防の仕事が火事を消すことだと知って、それはとてもたいせつな仕事だと思いました。
しかし、警察の役割はピンときませんでした。防犯パトロールはたいせつな仕事だと思いましたが、犯罪が起きたあとに犯人を探して捕まえることの意味がわからなかったのです。
もっとも、犯人を捕まえることでその犯人の次の犯罪を防ぎ、また別の犯罪を防ぐ意味もあるということを知り、一応納得しましたが、あくまで「一応の納得」です。消防の役割にはなんの疑問も感じなかったのとは大きな違いです。
 
また、私はなぜ学校に行くのかよくわかりませんでした。たとえば1日5時間授業を受けたとして、そこで学んだものの価値はとうてい5時間分あるとは思えませんでした。私の直観では1時間分ぐらいの値打ちがやっとでした。
それでも、なんとか学校に行くことを納得したのは、父親が毎日会社に行ってたいへんな思いをしているのだから、子どもの私も毎日学校に行ってたいへんな思いをしなければ不公平だという理屈からでした。
 
結局、私の思想は、警察や犯罪対策についての疑問、学校についての疑問を追究することで形成されたようなものです。
 
それから、私はみんなが同じことを言う状況にとりあえず不快感を覚えます。
そういう状況が長く続くと、当然不快感はより強くなります。
たとえば、なにか犯罪が起こるたびにみんなは犯罪者を非難します。犯罪はしょっちゅう起こっていますから、みんなは毎日のように同じことを言っているわけです。いくら言っても犯罪がなくなるわけでもないのに、まったく進歩のない人たちです。私はこういう人たちをどう説得すればいいかと考えて、自分の思想を深化させてきました。
 
みんなが同じことをずっと言い続けているというのは、たいていその言っていることが間違っているからです。みんなが正しいことを言えば、すぐに事態は正しい方向に修正され、言う必要はなくなってしまうはずだからです。
ですから私は、みんなが同じことをずっと言い続けているときは、まったく逆のことを考えて、それが正しいという理屈を考えてみます。そうすると、しばしば逆の考え方のほうが正しいと思えたりします。こうしたやり方も自分独自の考えを形成するのに役立ちます。
 
要するに「すべてを疑え」というのは非現実的ですから、正しく疑うためには、感性を働かせること、子どもの感性を取り戻すこと、子ども時代の疑問を思い出すこと、みんながいつも同じことを言う状況に不快感を持つことなどがたいせつだと私は考えています。参考にしてください。

5月3日の憲法記念日に朝日新聞は、衆院の一票の格差が違憲状態となっている問題を大々的に取り上げていました。しかし、相も変わらず問題のとらえ方が偏っています。
 
「決められぬ」政治の象徴 一票の格差いつまで
  最高裁から「違憲状態」と指摘されたのに、衆院の「一票の格差」の是正が進まない。各党の利害が絡み合い、先送りを続けるさまは「決められない政治」の一つの象徴だ。「決定できる民主主義」を掲げる橋下徹・大阪市長からは、独自の憲法改正案という「挑戦状」が突きつけられた。
 「一日も早く(違憲状態を)脱却しなければならない」と野田佳彦首相(民主党代表)が呼びかければ、自民党の谷垣禎一総裁も「何をおいても解決しなければ」と応じる。2人は2月と4月のいずれの党首討論でも、一票の格差の早期是正に意欲を見せた。
 だが、選挙制度改革を話し合う衆院の各党協議会は16回の協議を重ねた今も、着地点すら見えない。
 
これを読むと、すべて国会あるいは政治家が悪いようですが、そんなことはありません。実際は、国会と裁判所と両方が悪いのです。
 
まず最高裁判決にある「違憲状態」という言葉ですが、これは「違憲」とは違います。「違憲状態」と「違憲」とどう違うのかについては一応法律的な説明がありますが、その違いにはあまり意味がありません。というのは、「違憲状態」であろうと「違憲」であろうと、選挙は有効だからです。
1972年衆院選と1983年衆院選について最高裁は「違憲」判決を出していますが、「違憲」判決が出たからといって、なんということもありません。つまり、選挙における「一票の格差」は違憲だが、選挙そのものは有効なのです。
 
ですから、国会議員が真剣に「違憲状態」の解消をはかろうとしないのもやむをえない面があります。つまり、宿題をやりなさいと言われているのですが、やらなくても叱られないようなものだからです。とりわけ議員定数の削減というのは国会議員にとっては身を切る改革ですから、お尻に火がつかない限りなかなかできません。
 
国会議員選挙が行われるたびに各地で「一票の格差」の大きさは違憲であるとして訴訟が起こされるのは、裁判所が国会を動かすような強い判決を出してくれることを期待しているからですが、裁判所はまったくその期待に応えていないということになります。そもそも最高裁の判例では、衆議院では2倍以上、参議院では6倍以上の差が違憲ないし違憲状態とされるのですが、これもひじょうに甘い基準といえます。
 
もちろん最高裁としても、選挙の無効を宣言してしまうと大混乱になるので、それは回避したいでしょう。だったら、「違憲状態」で選挙を行えば次は選挙無効の判決を出すというような警告を出すという手もあるはずです。
 
最高裁はめったに違憲判決を出さないことで定評がありますが、その最たるものが自衛隊違憲判決を回避したことです(長沼ナイキ基地訴訟)。違憲判決を出すと大混乱になることを恐れたからでしょうが、最高裁が自衛隊の合憲・違憲の判断を示さないものですから、政治家同士が合憲・違憲の意見を戦わせることになりました。しかし、合憲・違憲の決定は政治家の仕事ではありませんから、いくら議論しても結論の出るわけがありません。この議論に費やされた時間とエネルギーのむだは膨大なものです。
また、自衛隊が合憲とも違憲とも定まらないというのはまさに「国のかたち」が定まらないということで、日本の政治の劣化の大きな原因にもなっています。
 
現在、「決められない政治」という状況があるのは事実ですが、それは「決められない裁判」にも大いに責任があるのです。
しかし、マスコミはほとんどといっていいほどそのことを指摘しません。
なぜそうなのかというと、おそらく司法とか裁判所とか裁判官を権威としてあがめているからでしょう。
検察の権威はフロッピーディスク改ざん事件などで少し揺らぎましたが、裁判所の権威はマスコミにおいてまったく揺らいでいないようです。
 
裁判所は司法の世界において、警察や検察以上に権威です。
「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する」という言葉がありますが、これは権威についても同じです。権威は腐敗するのです。
地裁、高裁、最高裁と並べると、もちろん最高裁がもっとも権威です。行政訴訟を見ていると、地裁、高裁においてはけっこう住民側、国民側が勝訴することもありますが、たいてい最高裁でひっくり返されます。行政訴訟で原告側の勝訴率は10%程度といわれます。
つまり、地裁、高裁の裁判官はけっこう住民や国民を思いやる判決を下すのですが、腐敗した最高裁の裁判官にはほとんど思いやりの心がなく、利己心で判決を下します。裁判官も役人ですから、仲間に有利な判決を下してしまうのです。
最高裁の裁判官に国民のための判決を求めるのは、八百屋で魚をくれというようなものです。
 
マスコミでも主筆や論説委員などは権威ある人ですから、最高裁の裁判官と通じるものがあります。ですから、最高裁を批判することはできません。
 
この国の政治がだめなのは、マスコミも含めた権威が腐敗しているからです。

春の叙勲を伝えるニュースの中に、紫綬褒章受賞者として萩尾望都さんの名前がありました。少女マンガ家も叙勲される時代になり、またその年齢になったということで、ちょっとした感慨がありました。
 
私が若いころは、断言してもいいのですが、男が少女マンガを読むということはまったくありませんでした。当時、男性にとって少女マンガというのはまったくの異文化で、主人公の大きな瞳に星が光る絵柄が合いませんし、ストーリー運びの“文法”みたいなものも理解できないからです。しかし、1975年ごろだったと思うのですが、「SFマガジン」に萩尾望都さんのマンガを絶賛するエッセイが載っていたので、ためしに萩尾さんの「ポーの一族」を読んでみました。萩尾さんの絵はそんなに少女マンガっぽくなく、男にも抵抗感がないので、読めました。もちろん「ポーの一族」は大傑作ですから、感動しました。
 
私は萩尾さんを読むことで少女マンガを読むコツみたいなものが身につき、それからどんどん少女マンガを読むようになりました。当時は少年マンガや青年マンガ以上に少女マンガを読んでいました。
少女マンガは繊細で、内面的です。社会人になって間もないころの私には、現実に傷ついた心を癒す効果があったのでしょう。
 
私がよく読んだのは、萩尾さんのほかは樹村みのり、ささやななえ、山岸涼子、竹宮恵子といったところです。当時、よく行く喫茶店に「別冊少女コミック」が置いてあって、それを手がかりに読んでいったということもあります。
そして、私がよく読んでいたマンガ家はみな昭和24年生まれで、「花の24年組」といわれている人たちでした。「花の24年組」だから読んだわけではありません。自分なりに選んでいった結果がそうなったのです。それだけ「花の24年組」には才能ある人がそろっていたということでしょう。
 
「花の24年組」や個々のマンガ家についてはすでにいろいろ論じられていて、今さら私がつけ加えられることはそんなにありませんが、ひとつ、このことは誰も指摘していないのではないかと思われることがあるので、ここで書いておきます。
 
樹村みのりに「悪い子」(1981年刊行)という短編集があり、私は久しぶりに樹村みのりの新刊が出たと思って買い求めましたが、その表題作の「悪い子」(「プチコミック」19808月号掲載)を読んで驚きました。幼児虐待、つまり親にいじめられる子ども、あるいは親に愛されない子どもがテーマとなっていたからです。
親から「悪い子」と言われている子どもが描かれ、子どもが子どもを屋上から突き落とすという(たぶん当時現実にあったのと近い)事件との関連が示唆され、最後に、その「悪い子」を観察していた主人公は「この子供はわたしだ」と思います。つまり幼児虐待と犯罪の関連性を指摘し、また幼児虐待を自分自身の心理的問題ととらえ、さらには「悪」とはなにかについての答えも示唆しているのです(子どもを「悪い子」と認識するおとなの側に真の「悪」があります)
 
当時、私も手探りでまったく同じことを考えていたので、私とはまったく別の人生を歩んでいる樹木みのりさんが同じ考えに到達していたということに驚いたのです。
ちなみに心理学から幼児虐待の問題を正面から扱った画期的な本である「魂の殺人」(アリス・ミラー著)が出版されたのは1983年ですから、その3年ほど前です。
今でこそ幼児虐待を扱う本はいっぱいありますが、当時はほかにほとんどありませんから、樹村みのりさんも発表するには勇気がいったのではないでしょうか。
 
ちなみに昔は、子ども向きの「まま子いじめ」の物語が山ほどありました。ただ、この物語の読者は、自分は愛情のある実の親に育てられてよかったと思いながら読むわけです(とはいえ、心のどこかにまま母にいじめられる子どもと自分を重ね合わせる部分もあったと思いますが)
しかし、「まま子いじめ」の物語はいつのまにか消えてしまいました。おそらく親がそうした本を子どもに与えたがらなかったからでしょう。
そうした中、樹村みのりさんの「悪い子」は画期的でした。幼児虐待の物語をおとなである自分自身の問題として復活させたからです。
 
「花の24年組」はおそらく相互に影響し合っていたでしょう。とくにささやななえさんは樹村みのりさんと親密な交際があり、そのこともあってか幼児虐待の原作つきドキュメンタリー「凍りついた瞳」「続・凍りついた瞳」を書き、評判となりました。
萩尾望都さんの母と娘の問題を描く「イグアナの娘」はテレビドラマ化もされました。
山岸涼子さんはもともと家族関係の問題を物語性豊かなホラー短編にしていました。
 
今、小説でもドラマでも映画でも、幼児虐待を扱うことは普通になりました。たとえば小説では田口ランディ、天童荒太、湊かなえなどがいますし、異常な犯罪者が登場する映画では決まってその犯罪者の生い立ちが描かれます。
 
団塊の世代というのは、若い世代にはうっとうしい存在かもしれませんが、いろいろ画期的なことをしてきたのも事実です。たとえば、自分で作詞作曲をして歌を歌うというのは団塊の世代から始まったことです。それまで作曲というのは音楽大学で専門の教育を受けた人しかしてはいけないものと思われていたのです。
おとながマンガを読むことも、男が少女マンガを読むことも、団塊の世代から始まったことです。
 
そして、幼児虐待を自分自身の問題としてとらえることも「花の24年組」が始めました。
しかし、そのことはあまり評価されているとは思えないので、ここで指摘しておくことにしました。
 
現在、幼児虐待事件はよくニュースになります。しかし、ニュースに接するほとんどの人は、虐待する親を非難するだけで、自分自身の問題としてとらえることができません。
幼児虐待を自分自身の問題としてとらえることができるか否かで、世界の見方はまったく変わってきます。

4月29日、群馬県の関越自動車道で大型バスが側壁に衝突し、7名が死亡するという事故がありました。30日のニュース番組はどれも、この事故のことを大々的に取り上げています。
「どれも」といいましたが、もちろんすべてのニュース番組を見たわけではありません。それでも、すべてのニュース番組が大々的に取り上げていることは間違いないと思います。というのは、30日は休日で官庁や企業からのニュースはありませんから、必然的にこの事故を大々的に取り上げざるをえないわけです。
その結果、バス会社は過当競争で、運転手に過酷な労働条件を強いているという、まったく同じ内容のニュースばかりになってしまいます。
もちろん、事実がそうなのだから、同じ内容になるわけですが。
 
私は夜型の生活をしているので、少し寝るのが遅くなると、テレビで朝の情報番組が始まってしまいます。内容は前日のニュースのおさらいで、それがどの番組もあきれるほど同じです。4時から始まる番組を見て、次に4時25分、4時30分、4時45分から始まる番組を見ると、まったく同じ番組を見ているようです。ニュースの順番もほぼ同じで、ということはニュースバリューの判断も各局同じだということです。結局、女子アナの顔が違うだけなので、女子アナの好みで番組を選ぶしかありません。
 
普通、番組のつくり手は、他局と同じ内容の番組はつくりたくないので、なんとかして独自性を出そうとすると思うのですが、どうやらそうではないようです。むしろ他局と同じ内容だと安心するのかもしれません。そういえば、なにか大きな出来事があったとき、ひとつの局が中継の特番を始めると、他局も追随し、テレビ東京以外みんな同じ場面を中継しているということがよくあります。
 
朝8時からのワイドショーや午後のワイドショーにはコメンテーターが出てきますが、コメンテーターの言うこともみな同じです。事故が起これば、悲惨だ、深刻だと言い、事故の責任者を非難します。よい成績を上げたスポーツ選手がいると、みな同じように絶賛します。
普通、人はほかの人と同じことは言いたくないものですし、とくにみなが同じことを言う場合はバランス感覚が働いて逆のことを言ったりしそうなものですが、そういうことはありません。
 
テレビや新聞はこうして同じような内容になっていますが、ネットの中の意見はどうかというと、やはり同じようなものです。事件や事故、政治に関することは、もう判で押したように同じです。
 
もちろんそれが正しければいいのですが、現実はそうではありません。
正しい意見というのは現実を変える力があります。みんなが正しい意見を持てば現実は変わるはずです。みんながずっと同じことを言い続けているというのは、それはきっと正しい意見ではないのです。
 
みんなが同じことを言う。しかも、ずっと同じことを言い続けている。そんなときはうんざりするという普通の感情を持ちたいものです。

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