村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2012年06月

海外旅行にいくので十日間程度ブログの更新を休みます。
旅行自体は十日間もいきませんが、前後にたまった仕事をやらないといけないのでたいへんです。
 
私はこのブログのほかにホームページもやっています。知らなかった人は、ブログの更新を休んでいる間、そっちのほうを読んでいてくださいと言いたいところですが、ホームページに書いてあることが微妙に恥ずかしくなってきました。
ホームページには、「道徳の起源」というタイトルでいずれ出版するはずの本の第1章だけを載せています。これがちょいと恥ずかしい。自分の力量に見合わないことを書いているからです。それに、そもそも書く必要があったのかという気もしてきました。
 
私の思想はきわめて単純なものです。たった1行で表現できます。
 
「道徳とは利己主義の産物である」
 
思想というのは難解な哲学用語で語られるものというイメージがありますが、そういうのは根本的に間違っているか、瑣末について語る思想です。
本物の思想は単純で強力なものです。
 
とはいえ、「道徳とは利己主義の産物である」だけでは単純すぎるので、もう少し説明するとこんな感じになります。
 
・人間はほかの動物と同じく基本的に利己的な存在で、つねに互いに生存闘争をしている。
・人間はほかの動物と違って言葉も武器として生存闘争をしている。
・他人の行動について、自分の利益になるものを賞賛し、自分の不利益になるものを非難する。そうした言葉づかいの体系が道徳である。
・道徳の中心概念は「善・悪・正義」である。他人の行動について、自分の利益になるものが「善」、自分の不利益になるものが「悪」、「悪」をなす人間を攻撃・排除・処罰することが「正義」である。
・弱者の道徳は強者の道徳に駆逐され、最終的に集団は強者の道徳に支配される。
・道徳によって集団に秩序がもたらされる面がある。
・道徳によって生存闘争が必要以上に激化する面がある。
・道徳を正しく把握することによって、必要以上の生存闘争を回避することができる。
 
全部日常語で説明できてしまいます。わからないということはないでしょう。
 
「強者が道徳をつくる」という思想は目新しいものではありません。マルクス主義は道徳をイデオロギーと見なしますし、フェミニズムは「女は男に従うべし」という道徳は男がつくったものだと指摘します。国際社会の「正義」が「アメリカの正義」であることも半ば常識でしょう。
 
しかし、今までは中途半端でした。たとえば、フェミニストは男が女に従順さを求めることを批判しますが、その一方で、母親として子どもに従順さを求めます(たぶん多くのフェミニストは)。これは明らかに矛盾です。
私はおとなと子ども、親と子の関係にまで踏み込んで道徳をとらえました。これによって初めて矛盾なく道徳(善・悪・正義)をとらえることができたのです。
 
私は善と悪の関係はどうなっているのだろうかということをねばり強く考えてるうちに、この考えがひらめきました。アームストロング船長風に言うと、「私にとっては小さなひらめきだが、人類にとっては偉大な思想である」というところです。つまり偶然に私はとんでもないことを思いついてしまったのです。
 
私は自分の思いついたことを世の中に伝えなければなりませんが、これはまったく非力な人間が世界記録のバーベルを持ち上げなければならなくなった状況に似ています。
当然不可能ですから、なにかやり方を工夫しなければなりません。
 
私が思いついたのは、これは「科学的」理論であると主張することでした。「科学的」と認定されれば、もう私の手を離れて、みんなが寄ってたかって発展させていってくれるでしょう。
ニュートンはきわめて名誉欲の強い、偏頗な性格の人だったようですが、そんなことはニュートン力学の価値にとってはなんの関係もありません。それと同じ状況にしようと思ったわけです。
ということで、私のホームページに載せた「道徳の起源」第1章には、この理論が学問の世界にどう位置づけられるか、科学(進化生物学)とどう関連しているかということをもっぱら書いています。
 
しかし、考えてみればこれは的外れです。それが科学的か否かというのは、本人が主張することではなく、科学界において決められることです。それに、科学者でも倫理学者でもない人間がそういう主張をすると、よけいうさんくさくなり、逆に「オカルト科学」と認定されかねません。
 
現在の私の考えとしては、自分の思想がどう位置づけられるかの判断はほかの人に任せて、自分の思想の核心的部分から書いていったほうがいいのではないかということに傾いています。
となると、「道徳の起源」第1章は廃棄処分にして、また別の第1章を書くことになりそうです。
 
とはいえ、「道徳の起源」第1章は、学問思想の世界全体を鳥瞰するという野心的な試みで、力不足ゆえ突っ込みどころ満載かもしれませんが、これだけスケールの大きいことを考えたということにはそれなりの価値もあると思います。
そういうことを踏まえて私のホームページを読んでいただくとおもしろいかもしれません。
 
 
「思想から科学へ」村田基(作家)のホームページ
 (現在このホームページは休止中です)

このごろの政治の世界はなにもおもしろいことがありません。
消費税増税について三党合意が成立しましたが、これは想定通りです。
新聞がこぞって増税賛成を主張し、そのバックには財務省がいるのですから、増税が実現しないわけがありません。
 
民主党政権は政治主導あるいは脱官僚依存を目指しましたが、結局失敗しました。
民主党政権を批判して、「国民に信を問え」と主張する人がいますが、自民党政権に戻ってもどちみち官僚主導の政治が続くだけですから、同じことです。
この三党合意を事実上の大連立だという人がいます。そうかもしれません。
つまり民主党も自民党も同じだということがはっきりしたわけです。
 
この状況に異を唱えているのは小沢一郎氏のグループですが、小沢一郎氏は検察とマスコミによって極悪人のイメージにされてしまっているので、たいして力を発揮できそうにありません。
 
となると、橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」に期待するしかないのかということになりますが、橋下市長は原発再稼働反対の旗印をおろしてしまい、少々期待を裏切りました。
 
原発をどうするかというのは日本にとって大きな問題で、さまざまな議論が行われていますが、原発の再稼働はそんな議論とはまったく別に粛々と進んでいきます。これはまさに官僚主導の典型です。
ダム建設や干拓事業なども、激しい建設反対運動が起き、行政訴訟が行われても、ほとんど中止されるということがありません。税金の無駄遣いだとか自然破壊だとかの議論が優勢になっても、まったく無視されます。
私などは、こうしたことは自民党政権だからで、政権交代が起きれば変わるだろうと期待していましたが、残念ながら期待は裏切られました。八ツ場ダム建設再開を見てもそれは明らかです(それでも自民党政権よりはましだと思いますが)
 
橋下市長は原発再稼働問題で民主党政権と全面対決する構えでした。橋下市長と反原発は似合わない感じですし、原発再稼働問題を最大の争点に設定するのにも若干の疑問がありましたが、私はお手並み拝見という気分で見ていました。結果、やはり押し切られてしまいました。
今では橋下市長のカリスマ性も少しはげ落ちてしまったようです。
地方自治体の首長という立場とはいえ、官僚主導をくつがえすほどの力はやはりなかったということです(国政進出すると違うかもしれませんが)
 
官僚主導というのは巨大な要塞のようなもので、今のところ誰も攻略することができません。
解散総選挙を何回やってもたぶん同じなので、別の作戦が必要です。
それは、官僚組織とマスコミを切り離すことです。
今は官僚とマスコミが一体になっていて、マスコミは国民の不満をすべて官僚ではなく政治家のほうに誘導してしまいますから、官僚は安泰で、政治が弱体化するばかりです。
 
 
では、どうやって官僚とマスコミを切り離すかということですが、それにはマスコミが官僚依存になっている理由を知らねばなりません。
記者クラブがあるとか、新聞社の本社の敷地が国有地の払い下げであるとか、いろんな理由があるでしょうが、私の考えでは、マスコミが独自に善悪の判断ができなくなっていることが大きいと思います。そのため警察依存、検察依存、裁判所依存、内閣法制局依存になるのです。
 
たとえば、小川敏夫前法相は、検察の虚偽捜査報告書について指揮権発動を野田総理に相談していたことを明らかにしましたが、これについてマスコミは指揮権発動は司法への「政治介入」であるとして批判一色でした。しかし、司法に「政治介入」をしてはいけないという主張は、司法は完全に官僚主導で行われるべきだという主張と同じです。つまりマスコミは司法官僚を絶対化してあがめているのです。
 
また、詐欺商法が行われていて、マスコミはそれを取材して実態を知っていても、それを実名で報道するということはまずありません。警察が逮捕して初めて報道するのです。
警察の逮捕、検察の起訴を見て追随するのがマスコミの習性ですから、警察と検察からもたらされる情報がなにより重要です。それが官僚依存になる大きな理由ではないかと思います。
 
しかし、考えてみればわかるのですが、警察官や検察官が新聞記者以上に正しい判断力を持っているとは限りません。警察官僚や検察官は学校では優等生で、その後もずっと特殊な社会に生きています。新聞記者のほうが世の中を幅広く知っているといえますし、庶民の感情もわかるでしょう。
勉強ができることや頭がいいことと、善悪の判断が正しくできることはまったく別の問題です。新聞記者に限らず一般の人でも、警察や検察のことをどんどん批判していいはずです。
私などずっと警察や検察や裁判所を批判しています。
もっとも私は、独自の倫理学を確立しているからですが。
 
マスコミはとりあえず、善悪の判断に警察も検察も関係ないということに気づかなければなりません。
 

早稲田松竹という映画館はいつも2本立てで映画を上演しているのですが、「ラスト1本割引」というのがあって、最後の1本だけ観ると安くなります。私は2本のうちの1本だけ観たいというときは、よくこの「ラスト1本割引」を利用していました。
この割引チケットは少し早めに発売されるので、チケットを買ってすぐ入場すると、前の映画の後半も観ることができます(私が観ていたのは昔のことですが、今も同じシステムのようです)。私は映画の後半だけ観るという趣味はありませんが、映画館には早めに行きますから、たいてい入場すると、前の映画のラスト10分ぐらいを観ることができます。いずれビデオで観るかもしれない映画なら観ませんが、どうでもいいような映画なら、外で本を読んでいるよりはと思って、いちばん後ろの座席に座って観ます。
 
そうするとたいてい、画面には撃ち合いや爆発が派手に展開されています。正義のヒーローが活躍するエンターテインメント映画は決まってそうです。
 
私はそれが映画のクライマックスシーンだとわかっていますが、もしそれがわからない人が観たらどうでしょうか。
つまり、上映時間をまったく勘違いした人がいて、自分は開映直後に映画館に飛び込んだと思っているのです(最近は入れ替え制のところが多いので、そういうこともなくなってきましたが)
そうすると、その人の目には、一人の男が次々と人を殺していく大量虐殺シーンが映ることになります。その人は、この恐るべき大量殺人鬼をヒーローが追い詰めていき、最後に壮絶な戦いをしてやっつけるのだろうと期待して胸を高鳴らせますが、そう思ったとたんにエンドロールが流れ、唖然とすることになります。
 
実際にはそんなことはないでしょう。ヒーロー役はブルース・ウィリスやシルベスター・スタローンなど有名な俳優ですし、殺される側は人相が悪く、服装からもいかにも犯罪組織の人間やテロリストに見えるからです。
しかし、そうした先入観がいっさいない人間がいたとすれば(現実にはいませんが)、正義のヒーローが殺人鬼に見えることになります。
 
つまり遅れてきた観客には正義のヒーローが悪人に見えるということですが、こういうことはむしろ映画ではなく現実に起こります。
 
殺人事件の犯人は圧倒的に男性が多く、女性はごく少数ですが、その少数の女性の殺人犯のほとんどは家庭内殺人事件の犯人です。
ということは、典型的なケースとして、次のような物語が想像できるでしょう。
 
その女性は長年、夫によるドメスティック・バイオレンスの被害にあっていました。周りの人に相談しても、「あなたにも悪いところがあるんじゃないの」とか「旦那さんの気持ちをわかってあげなさい」とか言われるだけです。しかたなく女性はひたすら耐えていましたが、夫の暴力はどんどんエスカレートし、子どもにも向けられるようになりました。女性はついに刃物を手にし、夫に立ち向かいました――
これが映画なら、観客が拍手喝采するところです。しかし、現実には女性は正義のヒーローとは認められず、悪人として逮捕され、刑務所に送られることになります。
 
なぜそんなことになるのでしょうか。それは警察も検察も裁判官も世の中の人々も「遅れてきた観客」だからです。最後のクライマックスシーンだけを見て、その前の長い物語を見ていないのです。
弁護士はその長い物語を説明して情状酌量を訴えるでしょうが、一人の国選弁護人の力は限られたものですし、言葉だけの説得ではなかなか人の心を動かすことはできません。
 
どんな事件であれ、それを見る私たちはつねに「遅れてきた観客」です。そのため正義のヒーローを次々と刑務所送りにしている可能性があります。
もし事件の前の長い物語をハリウッド張りの映画に仕立てて、裁判官や裁判員に見せることができれば、判決はまったく変わってくるかもしれません。
 
「リップスティック」という1976年制作のアメリカ映画があります。作家アーネスト・ヘミングウェイの孫娘であるマーゴ・ヘミングウェイとマリエル・ヘミングウェイが姉妹で共演したことで話題になりました。
この映画の主人公(マーゴ・ヘミングウェイ)は、ある事情で妹の学校の音楽教師を自宅に招いたことから、レイプされてしまいます。主人公は音楽教師を告訴しますが、音楽教師は裁判で無罪になってしまいます。そして、音楽教師は次に14歳の妹をレイプします。主人公はライフルを持ち出して、音楽教師を射殺します。
このあとはテロップによる説明です。これは現実にあった事件をもとにしており、主人公は裁判で無罪になったということです。
もちろんほとんどの観客は、無罪になってよかったと思うはずです。
 
つまり、このようにその前の物語を詳しく知って、主人公に感情移入していれば、判断はまったく変わってくるわけです(この映画は事件が無罪になってからつくられたので、順序が逆ですが)
 
どんな犯罪者もその犯罪の前に長い物語を持っています。テロリストにしても同じことです。
 
私たちはつねに「遅れてきた観客」であるという自覚を持たねばなりません。

最近、朝日新聞に小池龍之介という人が週一の連載をしていて、これがなかなかおもしろいです。こういう言い方は不遜かもしれませんが、私と考え方が似ています。
6月14日の夕刊には、犯罪についての考えが書かれていました。「ありえない!」と他人を批判する人間の心理は、「自分は、そのような非常識な人間ではなく、良識ある立派な者なのだッ」と自分に言い聞かせているのだと指摘したあと、こう続きます。
 
この対極だったのが「歎異抄」に言葉が残る親鸞です。彼はおおまかにこんなことを言います。「自分が殺しをしないのは、この心が善だからではない。たまたま恵まれた状況を与えられているから盗みや殺しをせずに生きていられるけれど、しかるべき環境と精神状態に置かれたら、盗みも、殺しもするだろう」
この話は親鸞が弟子に「私の言うことを聞けるか」と尋ね、「何でも聞きます」という答えを受けた後、「では今からたくさん人を殺してきなさい」「できません」とやり取りをしたことから始まります。「ほらできないだろう。でもそれは君の心が善だからではなく、たまたま今は殺しをする劣悪な精神状態におかれずに済んでいるからなのだよ」と述べるのです。
親鸞の目には、どんな失礼な発言も約束破りも、異常そうにみえる犯罪者も、「ありえない!」どころか「ありえる」ものに映っていたことでしょう。(後略)
 
 
もしかして小池龍之介さんは6月10日に大阪ミナミで起きた通り魔事件を踏まえてこの文章を書かれたのかもしれないと私は勝手に想像してしまいました。
なんの罪もない人を2人も殺したということで、誰もがこの事件の犯人を批判しますが、私はぜんぜんそういう気になりません。小池龍之介さんも当然同じでしょう。
 
大阪の通り魔事件の犯人礒飛京三容疑者は、小学校に通い始めたころ母親が亡くなり、父親が営んでいた材木店も倒産、父親もその後亡くなります。この情報からだけではよくわかりませんが、礒飛容疑者が愛情に恵まれて育ったのではないことは確かでしょう。
 
礒飛容疑者の親類「なんでそんな馬鹿なことを…」 小学校時代に生活暗転
 
今の世の中は、恵まれない環境で育った人を援助するのではなく、むしろ逆に、恵まれた環境で育った人と同じように行動しないといって非難しているわけで、これは異常な世の中というべきです。
 
もっとも、このように犯罪者に同情的なことを書くと、なんの罪もないのに殺された人とその遺族の気持ちを考えろと批判されるかもしれません。確かに殺された人と遺族に同情する気持ちはたいせつなことです。しかし、世の人々は被害者とその遺族に同情する気持ちがあるのに、なぜ犯罪者に同情する気持ちはないのでしょうか。せめて被害者とその遺族に同情する気持ちの半分でも犯罪者のほうに向ければと思わざるをえません。
というのは、被害者とその遺族にいくら同情し、犯罪者を非難しても、次の犯罪を防ぐことにはつながらないからです。犯罪者に同情し、犯罪者の気持ちを理解すれば、犯罪を防ぐにはどうすればいいかもわかってきます。
 
警察などが犯人を批判するのは商売だから当然ですし、不満解消のためにいつでも誰かを批判したがっている人がネットなどで批判するのもわかりますが、マスコミまでが同調するのは不思議です。犯罪者を非難してもなにも始まらないことになぜ気づかないのでしょうか。
 
 
小池龍之介さんはウィキペディアによると、東大教養学部卒、西洋哲学専攻で、お父さんのあとをついで浄土真宗本願寺派のお寺で副住職になった人です。しかし、本願寺派の教義に反した出版・活動をしたということで破門され、現在は新たな宗教法人の代表役員となっておられるようです。たくさんの著作があるので、かなり人気のある人なのでしょう。
 
私と小池さんの考え方は似ていますが、目指す方向性は違うようです。小池さんは自分自身を見つめ直し、怒りや嫉妬などの不快な感情をなくして、心安らかに生きる方法を説いておられるようです。
私は、一人ひとりが心安らかに生きられるようにということより、その方法を理論化して、世の中全体に広げたいと考えています。そのため、自分の考えを進化生物学上の理論として位置づけることに苦心し、また、倫理学に革命を起こす理論だと主張することに力を入れています。
私の行き方は、当面は小池さんのようには人気になりませんが、成功すれば効果は絶大なはずです。

私の思想はきわめて単純なものです。なぜこんな単純なことを今まで誰も思いつかなかったのか不思議なほどです。
 
動物は基本的に利己的な存在で、つねに生存闘争をしています。もちろん人間も同じです。ただ、人間は爪や牙だけでなく言葉も闘争の武器にします。言葉で相手を威嚇し、言葉で相手をだますことで、自分の利益をはかります。
もちろん言葉の役割はそれだけでなく、たとえば異性を口説くことにも使われたでしょうし、また、人間は群れをつくって暮らしていましたから、群れの中の連携を深めるためにも使われたでしょう。
たとえば、人間が巨大なマンモスを倒すことができたのは、言葉によって密接な連携の狩りができたからではないかと想像されますが、マンモスを倒したあと、肉を分配するときは誰もが自分の取り分をふやそうとします。そのときも言葉が道具に使われたはずです。あいつは怠けていた、あいつは失敗した、あいつは臆病なふるまいをしたなどと言って他人の取り分をへらそうとし、自分はこんなによく働いた、自分はこんなに仲間を助けたなどと言って自分の取り分をふやそうとしたでしょう。
 
そうした中で人間は言語能力を進化させ、道徳をつくりだしたというのが私の考えです。
 
もっとも、別の考え方もあります。
ダーウィンは、社会性動物には親が子の世話をしたり仲間を助けたりする利他的な性質があり、人間は利他的な性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。
このダーウィンの道徳起源説は今も進化生物学界の主流の考え方となっており、たとえば「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスも支持しています。
 
私の説は、ダーウィンの説と正反対のものになります。
ダーウィンの説は、人間は利他的性質をもとに道徳をつくりだしたというもの。
私の説は、人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというもの。
 
したがって現在、進化生物学的な道徳起源説はふたつあることになります。
たぶんこれ以外の説はありません。
ですから、どちらかを選ぶしかありません(道徳は神によって与えられたと考える人は好きにしてください)
 
もちろん私は私の説が正しいことを確信しています。
たとえば、ダーウィン説や今までの倫理学では、善悪の定義ができませんし、正義の定義もできません。しかし、善悪や正義は自分の利益を追求するための道具だと考えると、ちゃんと定義できます。
 
自分の利益追求に都合のよいものが「善」で、自分の利益追求に都合の悪いものが「悪」で、「悪」をやっつけることが「正義」です。
たとえば、親にとって、素直な子どもは「よい子」で、反抗的な子どもは「悪い子」で、「悪い子」をこらしめることが「正義」です。
アメリカにとっては、日本のように従順な国は「よい国」で、イランのように反抗的な国は「悪い国」で、「悪い国」をやっつけることが「正義」です。
つまり、「善・悪・正義」は三元論としてとらえると定義できるわけです。
 
なお、親は子どもよりも強く、アメリカはその他の国よりも強いわけで、道徳が成立するには必ずこうした権力関係が存在します。また、親と子は愛情で結びついているので、子どもは(自分にとっては不利益な)道徳を受け入れます。ですから、道徳・権力・愛情は密接に結びついています(イランとアメリカに愛情関係はありませんが、人間は誰でも子ども時代に道徳を学びます)
 
つまり、道徳を正しくとらえると、善・悪・正義、さらには権力、愛情といった人間関係の重要な要素がよりはっきりと見えてくるのです。
 
善悪、正義は人間の生き方を示す指針だと考えると、わけのわからないことになりますし、そのために今までの人文科学・社会科学はわけのわからないものになっていました。
人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだし、道徳を道具として生存闘争をしているという認識に立つと、人間のすべての行動は合理的ものとしてとらえることができるはずです。
 
 
 
以上、書いたことは今の段階の私なりの表現です。
前に書いたことよりも少しはわかりやすくなっているのではないでしょうか。
私の頭の中では、考えははっきりまとまっています。しかし、今まで誰も表現しなかったことを表現するには、一から全部自分で言語化しなければなりません。これがなかなかバカにならない作業です。
今日書いたことは、コペルニクスが太陽を中心に地球、金星、火星が回っている絵を描いたようなものです。これから、これを信じられるものにしていく作業も必要です。
気長に見守ってやってください。

ブログを始めて1年余りになりますが、ブログを書くことでだんだんと自分の頭の中が整理されてきて、表現も進化してきました。また、以前は自分の考えを表現することにためらいがあったのですが、だんだんと自信を持って表現ができるようになってきました。
 
なぜ以前は自分の考えを表現することにためらいがあったかというと、理由はいくつもあります。
ひとつは、私の考えは世の中の常識と正反対なので、なかなか理解してもらえないのではないかという懸念があったことです。
もうひとつは、私の考えというのはひじょうにスケールが大きく、一方私自身の能力はごく平凡なものなので、その落差があまりにも大きかったことです。早い話が私の能力不足です。
そしてもうひとつ挙げると、重要なことというのは、それなりの重みのある人物が言ってこそ信憑性があるのであって、どこの馬の骨ともわからない無名の作家が言ってもなかなか信じてもらえないのではないかという思いがあったことです。
今、三つ挙げましたが、これは互いに関連していて、要するに自信がないということに尽きます。
 
私がこうした認識を持つようになったのは、私が作家としてデビューするときのつまずきがトラウマになってしまったからではないかと思います。
 
私は1988年、「フェミニズムの帝国」という長編小説を出版して、実質的に作家としてデビューしました(その2年前から「SFマガジン」に短編をいくつか発表していましたが、世間的にはないも同然です)
「フェミニズムの帝国」というのは、女性が男性を支配する近未来社会を描くことで、現在の男性優位社会を風刺しようという社会派SFです。おもしろく小説を読むことで自然とむずかしいフェミニズム理論も理解できるというお得な小説でもあります。
86年から男女雇用機会均等法が施行され、男女の社会的役割についての議論が盛んになっていた時代です。「フェミニズムの帝国」を出版した直後あたりからセクシャル・ハラスメントという言葉が出てきて、これもまた大いに議論になりました。ですから、最適なタイミングの出版になるはずでした。
 
しかし、編集者はまったくそういうことを理解していませんでした。私は編集者というのは時代に敏感な人たちですから、今のタイミングに「フェミニズム」という言葉を冠した小説を出版する意味がわからないはずはないと思っていましたが、考え違いでした。
編集者はこの小説を「家畜人ヤプー」みたいなものだと理解していたのです。編集者はこの小説を「天下の奇書」だと言いました。そして、表紙に世紀末の画家、ビアズレーの耽美的で妖しい絵を持ってきたのです。
新人作家の小説をハードカバーで出そうというのですから、編集者もそれなりに評価していたと思われますが、まったく勘違いしているわけです。
 
社会的政治的な関心を持っている人に読んでもらいたいのに、耽美小説とか異端文学みたいなイメージの本づくりをされたら真逆です。耽美小説とか異端文学というのは社会に背を向けたものだからです。
 
編集者との最初の打ち合わせのときに、もう表紙のプランを示されました。デザイナーに依頼するのではなく、編集者本人がデザインもしたのです。編集者は2人いて、こちらは1人でした。編集者は2人とも男性です。
私は小説の狙いを説明し、コアな小説ファンではなく、小説よりもむしろ週刊誌をよく読むような層に読んでほしいのだと言いましたが、編集者はまったく理解しません。まるで固い岩に頭をぶつけているような感じでした。
対等の交渉をするには、こちらの言い分を聞いてくれないなら出版しなくてもいいというスタンスでなければいけませんが、ほかの出版社が無名の新人の小説を出してくれる可能性は限りなく低いです。原稿を読んでもらうことすら困難です。「SFマガジン」には新人コンテストに応募したことで短編を載せてもらえるようになったのですが、それが私にとっては唯一の出版社との回路でした。また、そのとき親から借金をしていましたし、長編の出版が決まったということを報告して、親には喜んでもらっていました。
 
結局、私はどうしてもそのときに出版したかったので、編集者に屈服しました。
 
「フェミニズムの帝国」はかなり話題になりましたが、その割に売れませんでした。小説としてまだへたなところがあり、それも売れない理由でしょうが、それ以上に装丁のせいで売れなかったと私は思っています。装丁と内容が真逆なのです。しかも帯の色は濁ったような嫌悪感をいだく青色でした。男性である担当編集者はこのフェミニズムの小説に嫌悪感をいだいていて、それが出たのです。
編集者に嫌われた本というのは悲しいものです。
 
私としては「フェミニズムの帝国」をベストセラーにして、次におとなと子どもの関係を軸にした小説を書くつもりでした。これもSF仕立てで、何百年も生き続けてきわめて深い知恵を身につけた「永遠の子ども」がいて、「永遠の子ども」が不良や登校拒否や引きこもりなどの子どもを組織し、それを子ども全体に広げて、おとな本位の社会に革命を起こそうとする物語です。おとなと子どもの関係というのは男女の関係ほど興味を持たれないので、あまり売れそうもありませんが、前作がベストセラーになれば勢いで少しは売れると考えました。そして、その読者の中の何割かは私の考えを理解してくれるはずと考えました。
 
私の考えというのは、男と女も支配的な関係だが、おとなと子どもも支配的な関係だというものです。つまり世の中には、あるいはひとつの家庭には、性差別と子ども差別のふたつの差別があると考えているのです。性差別は認識されていますが、子ども差別はほとんど認識されていません。そのため人間関係の根本が把握できないのです。
で、そのことを書いた思想書ないしは理論書を次に出版しようという考えでした。あらかじめある程度理解者をつかんでいれば、この思想ないしは理論はそこから世の中に広がっていくだろうと思いました。
 
つまり私は、「フェミニズムの帝国」、おとなと子どもの関係を軸にした小説、思想書という3段構えで、自分の考えを世の中に広めることを考えていたのです。
しかし、「フェミニズムの帝国」がベストセラーにならなかったことで第1段階で挫折し、また「フェミニズムの帝国」すら理解されなかったのだから、次に書く小説はなおのこと理解されないだろうと思い、次の小説が書けなくなりました。
書き下ろし長編の注文をいただいたので、そんなテーマ性のない単純なホラー小説でも書こうとしましたが、それも書けませんでした。短編小説は書けましたので、注文をこなしていましたが、短編だけの作家というのはなかなか成立しがたいもので、いつしか注文もこなくなり、忘れられた作家となりました。ライター稼業で生活はできていましたが、物書きとして技量を磨くことはできませんでした。
 
つまり、作家デビューのときのトラウマで私は作家として成功することはできなかったのですが、私の考えというのは世の中にとってきわめて重要なので、これはなんとしても世の中に広めなければなりません。
これから再チャレンジしていきます。
 

日本人は概してベトナムに好印象を持っています。ベトナムは共産党一党支配の国ですが、日本の右寄りの人たちも、中国はけしからんといっても、ベトナムはけしからんとはいいません。日本の企業も多く進出していますし、投資対象としてベトナム株も人気です。
 
ベトナム人は勤勉だということで定評があります。カンボジアやラオスなどの周辺国には、「ベトナム人の通ったあとはペンペン草も生えない」みたいなことわざがあるそうです。
 
私はベトナムに2回行ったことがありますが、ベトナム人は商売好きだという印象を受けました。通りに面した家の多くは3階建てで、1階に商売ができるスペースがあり(使われていない場合も多い)、2階、3階に人が住むという形になっています。また、ほんの少しのスペースがあれば、商品を並べて売っている人がいます。
とはいえ、ほとんど商売になっていないのではないかと思われるような商店も多く、私の印象では、もうからなくても商売が好きでやっているような感じでした。
 
ホーチミン市に行ったとき、泊まったホテルの前の広場に大きな銅像が立っていました。これはベトナムの救国の英雄とされるチャン・フン・ダオ将軍の銅像でした。
 
ベトナムは日本と同じころに元寇を経験しています。それも3度襲来され、3度とも元軍を撃退しました。その戦いの指揮をとったのがチャン・フン・ダオ将軍です。
 
チャン将軍は、強力な元の騎馬軍と正面から戦っては勝てないと思い、町を焼き払って退却します。元軍はタンロン(今のハノイ)を占領しますが、チャン将軍は地形を利用したゲリラ戦で補給路を攻撃し、食糧の尽きた元軍が退却すると、これを追撃して壊滅的な打撃を与えました。
2回同じやり方で撃退された元軍は、3回目は海から500隻の艦隊とともに攻めてきました。チャン将軍は河口のところの河底に、先端に尖った鉄のついた竹杭を多数打ち込んで待ち構えました。そして、引き潮になると元軍の大きな船に杭の先が刺さって船は動けなくなり、そこをベトナム軍は小さな船で攻撃し、火矢を使って元軍の船を焼き払って、またしても大勝利したのです。
 
いかに敵が強力でも、巧妙な作戦があれば勝利できるという格好の見本です。
元寇はベトナムの歴史でも最大の国難でしたから、ベトナム人なら誰でもこの話は知っています。ベトナムがアメリカと戦ったときも、基本的に同じやり方をしたわけです。ゲリラ戦で敵を弱らせ、最終的に勝利するという作戦です。
ベトナム軍(南ベトナム民族解放戦線)は、落とし穴を掘って、そこに尖った竹杭を立てておき、落ちた敵兵を殺すという戦法でアメリカ軍を苦しめましたが、これなど明らかにチャン将軍の作戦からの連想でしょう。
 
ところで、日本は元軍の襲来を2回撃退しましたが、これは作戦が巧妙だったからではなく、たまたま“神風”が吹いたからです。
このことも日本人なら誰でも知っています。
そして、日本はアメリカと戦ったとき、作戦の巧妙さで勝利しようとするのではなく、結局“神風”頼みになってしまいました。
 
ベトナム人も日本人も、歴史に学んで行動することは同じですが、背負っている歴史はまったく違い、そのため結果も違ってしまったのです。
 
ところで、元は3回目の日本攻撃を企てていましたが、ベトナムでの敗戦の痛手で、3回目の攻撃は中止となりました。ですから、チャン将軍は日本にとっても救国の英雄であるわけです。
 
 
チャン将軍についてより知りたい方はこちらのサイトへ。
「ベトナムの英雄」
 
「チャン・フン・ダオ将軍」
 

いわゆる東電OL殺人事件で有罪となり服役していたゴビンダ・プラサド・マイナリさんについて、東京高裁は再審開始と刑の執行停止を決定し、さらに東京高検の異議申し立てを却下したために、ゴビンダさんは釈放されました(身柄はいったん入管当局に移され、数日で帰国することになるそうです)
私は佐野真一著「東電OL殺人事件」を読んだこともあって、この事件には興味があり、ゴビンダさんは冤罪に違いないと思っていました。釈放はいいことですが、15年間も拘束されたことは取り返しがつきません。
 
そもそもは第一審で無罪判決が出た事件です。それが二審、三審で有罪となりました。また、第一審で無罪判決が出たとき、東京地裁は帰国を認める決定を下しましたが、東京高裁と最高裁は拘留を認める決定を下しました。日本の裁判所は上ほど腐っているということがよくわかる例です。
 
冤罪にはだいたいパターンがあります。
 
1、事件が世の中で大きく騒がれるが、なかなか犯人が逮捕できないので、捜査当局にプレッシャーがかかる(世間からだけでなく、上層部からもかかっているに違いありません)
2、プレッシャーから逃れるため、差別されている人や近隣から白い目で見られている人を犯人に仕立て上げ、逮捕する。
3、強引な取り調べで自白を強要する。証拠を捏造する。つじつまの合わないところは強引な論理でごまかす。
 
ゴビンダさんの逮捕はこの典型です。
ゴビンダさんは不法滞在のネパール人です。捜査当局はアメリカ人やイギリス人を犯人に仕立て上げるということは絶対にありません。
ですから、逮捕の瞬間から私は冤罪くさいなと思っていましたし、同じ考えを持った人も多かったでしょう。佐野真一さんも冤罪説を強く主張しておられました。
 
それにしても、いくら世間や上層部からプレッシャーがかかったとはいえ、捜査関係者はひとりの人の人生をむちゃくちゃにするようなことがどうしてできるのでしょうか。彼らには良心というものがないのでしょうか。
これについては、警察や検察や裁判所の仕事の特殊性があると思います。
 
昔のドラマでは、犯人が「俺はもう1人殺したんだ。あと何人殺しても同じだ」と言いながらナイフを人に突き付け、脅すというシーンがよくありました(1人殺しただけでは通常は死刑にならないということが知られるようになると、こうしたシーンは見られなくなりましたが、最近の厳罰化傾向によって、またこうしたシーンが復活するかもしれません)
捜査関係者の心理もこれに近いものがあると思われます。つまり「俺はもう1人刑務所送りにしたんだ。あと何人刑務所送りにしても同じだ」というような心理です。
 
警察官を志す人というのは、市民の安全を守りたいという動機からではないかと思われますが、実際はそうした仕事ばかりでなく、犯人を探して刑務所送りにしたり死刑にしたりという仕事もするわけです。市民を守る仕事と、犯人を刑務所送りにする仕事は、いわば真逆の仕事です。
これは司法試験合格者が弁護士を志すか、検事や判事を志すかということについて考えてみればよくわかるでしょう。弁護士になって人を助けたいという思いと、検事や判事になって犯罪者を罰したいという思いはまったく別のものです。
 
戦場に行って人を殺したり殺されそうになった兵士の多くは心に傷を負います。殺されそうになったことはもちろん、人を殺したことも心の傷になります。
警官や検事や判事も同じです。死刑でなくても人を刑務所送りにすることで心に傷を負います。社会的にそれは正しいことだとされていても、心の深層ではそうはなりません。
 
戦場では誤爆や誤射で味方を殺してしまうということがよく起きます。これはもちろん戦場の混乱も原因ですが、そもそも人を殺すという大決心をした人間にとっては、敵と味方の違いというのはささいなことだからです。つまり心の深層では敵も味方も同じ人間であるとわかっているのです。
 
アメリカ軍はイラクやアフガンでいっぱい誤爆をして民間人を殺しています。ときには謝罪もしていますが、まったく改めるということがありません。戦争に誤爆はつきものだというぐらいの意識でしょう。
警察や検察の考えも似ていると思います。犯罪を追及する以上、冤罪はつきものだぐらいに考えていて、冤罪であることが明白になっても、反省するふりすらありません。
 
犯罪者を刑務所送りにすることと、無実の人間を刑務所送りにすることは、心の深層ではそう違いません。犯罪者も無実の人間も同じ人間だとわかっているからです。犯罪者を罰するのは、良心を殺さないとできない仕事です。
 
人間を刑務所送りにするという仕事をしている警察官、検事、裁判官の心理状態を幅広く調査し、その心の傷を癒すことをすれば、少しは冤罪事件もへらせるのではないかと思います。
 
ちなみに裁判員制度というのは、一般市民に人を裁くということをさせて、その手を警察官、検事、裁判官と同じように汚させてやろうという制度だと私は思っています。

お笑い芸人河本準一さんの母親が生活保護を受給していたことがいまだに波紋を広げています。
最初は生活保護費の「不正受給」という言葉で報道されていましたが、河本さんが生活保護費を受給しているわけではないので、この表現は間違いです。一時は「河本さんが母親に生活保護費を不正受給させていた」という表現をするマスコミも見かけましたが、この表現は母親の人格を無視したものなので、これも不適切です。
 
実際は、河本さんが親族としての扶養義務を果たしていなかったという「道義的責任」の問題です。今はこのことが認識されてきています。
 
もっとも、それによって議論が困った方向に行っています。
たとえば自民党は、「生活保護に関するプロジェクトチーム」座長の世耕弘成参院議員が受給者の親族に扶養義務を徹底させる生活保護法改正案を議員立法で今国会に提出する意向を表明しました。また、厚生労働省も、不正受給に対する罰則の強化や、親族に扶養義務を果たしてもらうための仕組みを検討し、今月中に中間報告をまとめるとしています。
 
親族の扶養義務が徹底されるようになるというのは、どう考えてもうんざりする状況です。たとえば、兄が病気になって働けなくなり、生活保護を申請したとすると、弟の世帯の家計が調査されて、「あなたはお兄さんに毎月5万円の仕送りをする義務がある」などと命じられるわけです。そうなると弟の人生設計も変わってきますし、奥さんは「なぜあなたのお兄さんのために私まで犠牲になるのよ」などと不満を言って、夫婦関係まで壊れてきます。
 
もっとも、こんなことは専門家にとっては常識であるようです。生活保護問題対策全国会議の声明によると、扶養は保護の要件とされていないし、これは先進諸外国でも共通であり、扶養義務の強調は現代社会に合わない、ということです。
 
「扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために」 生活保護問題対策全国会議
 
 
しかし、相変わらず河本さんやその他の芸人をたたく人たちがいます。こういう人たちの心理はどうなっているのでしょうか。
 
まず人間についての基本的認識として、人間には誰でも楽してもうけたいという気持ちがあります。仕事のやりがいが同じなら、給料は少ないより多いほうがいいですし、同じ給料なら、つらい仕事より楽な仕事のほうがいいと思うものです。
ですから、生活保護は「楽してお金がもらえる」究極の制度ですから、自分も生活保護の恩恵に浴したい、中には不正をしてでも生活保護を受けたいと思う人も当然います。
 
もっとも、生活保護の場合はもらえる金額がかなり低いわけです。地域によっても違いますが、単身者で1カ月に生活扶助8万円プラス家賃扶助というところです(生活保護でリッチな生活をしているという話が一部でありますが、それは子どもがたくさんいたり、障害者加算がある場合です)
ですから、金持ちには自分も生活保護を受けたいなどという気持ちはまったくありませんし、生活保護受給者をうらやましいと思う気持ちもありません。
 
一般のサラリーマンは平均年収400万円ぐらいです。20代サラリーマンでも300万円ぐらいです。平均的な年収のある人も生活保護受給者をうらやむ気持ちはないでしょう。かりに絶対バレないうまいやり方で不正受給させてあげるといわれても、仕事を捨てて生活保護受給者になる道を選ぶ人はまずいないでしょう。生活レベルが低すぎますし、仕事のやりがいもなく、将来の展望もないからです。
 
しかし、世の中には非正規雇用などで相当年収の少ない人もいます。たとえば年収百数十万円で、仕事にやりがいもなく、このまま働き続けても将来の展望がないという人にとって、生活保護受給者はうらやましい存在です。多少収入が少なくなっても、仕事をしなくていいというのは大きなメリットです。
生活保護受給者がうらやましい、自分も受給者になりたいけど、なれない。こういう思いを抱えている人は、不正受給があるというともちろん攻撃しますし、不正受給でなくても受給者にはきびしく当たります。生活保護の支給レベルを下げろとか、生活保護制度をなくしてしまえとか極端な主張をすることもあります。
 
ちなみに富裕層は、生活保護制度が不十分だと治安も悪くなるし、自分たち富裕層に怒りが向いてくるかもしれないと思うので、生活保護制度についてはおおむね肯定的ではないかと思われます。少なくとも自分の払った税金が不正受給者に渡っているのは許せないなどと怒ることはありません。
 
ですから今、河本さんをたたいたり、生活保護制度をもっときびしくしろと主張したりしている人たちは、日ごろから生活保護受給者をうらやんでいる人たちではないかと想像されます。こういう人たちは、自分の収入では将来にわたっても親族を扶養する義務を問われることがないとわかっているので、扶養義務強化も大賛成です。
 
こういう人たちの言葉だけ見るときわめて攻撃的で差別的なので、困った傾向と思えますが、こういう人たちの境遇を合わせて考えてみると、やむをえないところがあると思えてくるはずです。
たとえば犯罪者の犯罪行為だけを取り上げると許せないと思えますが、その犯罪者が悲惨な境遇で生きてきたことを知れば、その犯罪行為もやむをえないところがあると思えてくるのと同じです。
 
考えてみれば、生活保護受給者をうらやむような、社会の底辺の人たちの声というのは、これまで社会の表に出てくることはまずありませんでした。インターネットの普及でようやくそれが数の力をともなって出てきたのです。
こうした声に便乗する片山さつき議員のような人はまったく愚かですが、かといって、いわゆる進歩的文化人がこうした声に対応する論理を持ち合わせていないのも困ったことです。
新しい思想が必要とされる時代です。
 

2ちゃんねるに危機が迫っています。警察が明らかに2ちゃんねるないしは元管理人の西村博之氏を狙っているのです。いったいどういう罪状になるのかはわかりません。それはこれから警察が考えるのでしょう。
警察が2ちゃんねるを狙っていることは、こんなニュースを見てもわかります。
 
「2ちゃんねる」で客募集、覚醒剤販売 大阪の男ら5人逮捕
2012.5.31 10:34
 九州厚生局麻薬取締部は31日までに、インターネット掲示板「2ちゃんねる」で客を募り、覚醒剤を販売するなどしたとして、覚せい剤取締法違反(営利目的譲渡など)の疑いで無職、城尾学然容疑者(37)=千葉県船橋市駿河台=や、無職、村山拓司容疑者(25)=大阪市平野区瓜破=ら男女計5人を逮捕した。
 福岡地検は、全員を同罪で起訴した。
 関係者によると、城尾被告ら船橋市の3被告は1月6日、覚醒剤約1グラムを宮崎県の男性に3万円で販売、村山被告ら大阪市の2被告は4月11日、営利目的で覚醒剤約3グラムを自宅で所持していた、としている。
 
これが単に覚醒剤販売事件を摘発したというニュースなら、「2ちゃんねる」と書かずに「インターネットの匿名掲示板」と書けばいいわけです。従来ならそうなっていたでしょう。しかし、このニュースでは「2ちゃんねる」という言葉が見出しの頭にきています。
同様のニュースはいくつも報じられていますし、西村氏が2ちゃんねるを譲渡したとされるシンガポールの会社を警視庁がシンガポールの警察に捜査するように依頼したというニュースもありましたし、西村氏の自宅や関係事務所など約10カ所が家宅捜索されたというニュースもありました。
西村氏の自宅などが家宅捜索されたというニュースがあったのは3月です。それからなにも動きがなかったので、めぼしい証拠は得られなかったのかと思っていたら、冒頭に掲げたニュースによって警察はまだ2ちゃんねるを狙っていることがわかりました。
こういうニュースによって2ちゃんねるのイメージダウンをはかっておき、西村氏が逮捕されたとき、逮捕は当然だという世の中の空気をつくりだす狙いと思われます。
 
私自身は、むしろ今まで2ちゃんねるに官憲の手が伸びなかったのを不思議に思っていました。とはいえ、今のタイミングで警察が手を伸ばしてきたのも不思議です。
この不思議を解明するために、過去の出来事から警察の習性について考えてみましょう。
 
1970年代末から1980年代にかけて、戸塚ヨットスクールにおいて生徒が何人も死亡したり行方不明になる事件が起き、戸塚ヨットスクールを非難する声がわき上がりました。しかし、警察はまったく動こうとしませんでした。これも当時は不思議なことでした。私自身は、戸塚ヨットスクールの支援者に石原慎太郎氏など有力者がいたことと、警察には体罰肯定論者が多いことがあるからではないかと推測していました。
しかし、83年にヨットスクールのコーチらが暴走族を捕まえてリンチするという事件を起こし、これをきっかけに警察は一気に戸塚宏校長以下関係者を大量逮捕し、“戸塚ヨットスクールつぶし”を行いました。警察の豹変ぶりに私は唖然としました。
 
暴走族をリンチした事件によって警察が豹変したということは、戸塚ヨットスクール側の弁護人も「意見陳述書」で指摘しています。
 
昭和58526日、戸塚ヨットスクールの可児コーチ外5名が、暴走族に対する傷害不法逮捕罪等で愛知県警察本部の指揮のもと半田警察署に逮捕された。この時をもって嵐とも言うべき一連の捜査が始まった。
(中略)
警察は、延べ1万3千人にのぼる捜査員を動員し、捜査範囲も33都道府県に広げ、事情聴取した参考人や被害者は合計約300人に達し、証拠物件など570点、供述調書や捜査報告書を積みあげると約7mの高さになるほどの大捜査を行ない、最終段階で検察庁は境野コーチを逮捕し、戸塚ヨットスクールを壊滅させ、警察において同年1114日、検察庁において1214日、約半年に渡った一連の戸塚ヨットスクール関係事件の捜査を終えた。暑い夏を経て捜査の嵐は去った。
 
なぜ暴走族リンチ事件によって警察は豹変したのか。その理由は容易に想像がつきます。
暴走族の取り締まりは警察の領域です。コーチらが暴走族をリンチしたのは警察の領域を冒す行為と見なされたのです。
 
在特会(在日特権を許さない市民の会)についても、最初は警察はまったく手を出そうとしませんでしたが、ある事件をきっかけに明らかに警察の方針は変わりました。
 
200912月、在特会は京都朝鮮第一初等学校前に押しかけ、朝鮮学校は隣接している公園を不法占拠しているとして抗議し、その際、公園に置いてあった朝礼台を撤去しようとし、スピーカーのコードを切断するなどしました。これについて朝鮮学校側は在特会を威力業務妨害で告訴し、在特会側は朝鮮学校を都市公園法違反であるとして告訴しました。
もし朝礼台などの設置が不法占拠であるなら、その撤去は行政の領域です。在特会は行政の領域を冒したことになります。そのため、警察は在特会にきびしく臨みました。
ウィキペディアの「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」の項目から引用します。
 
2010810日、京都府警は在特会の傘下グループ・チーム関西メンバー4人を威力業務妨害容疑などで逮捕し、同会会長・桜井誠宅の家宅捜索もおこなった。827日には、他のメンバー7人についても組織犯罪処罰法違反(組織的威力業務妨害)などの疑いで書類送検した。また、朝鮮学校が無許可で公園を占用していたとして、初級学校の前校長も都市公園法違反容疑で書類送検した。なお、朝鮮学校関係者からは逮捕者は出ていない。
2011421日、京都地裁は西村に対し威力業務妨害で懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。他の3人も執行猶予付の有罪判決。
 
要するに警察は自分たちの領域が冒されたと感じると、きびしい態度で出てくるのです。
となると、今警察が2ちゃんねるにきびしく出てくる理由も推測できます。
 
そもそも2ちゃんねる内の論調は、官僚組織にきわめてつごうのいいものです(主に「ニュー速+」を見ての感想です)。官僚の天下りやむだな公共事業などが2ちゃんねるできびしく非難されることはあまりありません。日教組批判はあっても、文部科学省批判はありません。普天間基地問題で辺野古に新滑走路を建設するという日米合意が批判されることはなく、逆に“沖縄のわがまま”が非難されます。最近の生活保護に関する騒ぎも、支給する行政側よりも受給する側がもっぱら非難されます。
ですから、警察や検察は2ちゃんねるを放置してきたのでしょう。
 
しかし、パチンコは圧倒的に非難されます(競輪、競馬などは非難されません。前回の「ギャンブルの倫理」というエントリーで指摘したように、不当なテラ銭を取るこちらのほうがむしろ非難されるべきなのですが)。パチンコはもちろん警察にとってはきわめて重要な利権です。
これまでは、2ちゃんねる内の論調はあくまで2ちゃんねる内だけのものでした。しかし、在特会がリアルでの活動を拡大し、韓流推し批判を名目にフジテレビや花王を批判するデモが行われるようになりました。つまり、2ちゃんねる内の論調がリアルの世界に進出してきたのです。
となると、次にパチンコを非難するリアルの運動が起きるのではないかと警察が恐れても不思議ではありません。警察が今2ちゃんねるつぶしに動き出した理由はそれではないでしょうか。
検察ではなく警察が動いていることもそれで理解できます。
 
警察や検察が一定の方向性を持って動き出したとき、それを止めるものはありません。
ほんとうならマスコミがその役割を担うべきですが、わが国のマスコミは逆に警察や検察に協力するのが通例です。2ちゃんねるが対象とあればなおさらでしょう。
 
「西村博之逮捕」のニュースを待つしかないのが現状です。

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