ロンドン・オリンピックが始まりました。私は夜型の生活をしているので、テレビで見るには好都合です。といっても、積極的に見るのはサッカーぐらいです。サッカーの試合はおもしろいですが、柔道や重量挙げなどはもともと興味がないので、テレビをつけて、“ながら視聴”をしているだけです。
私の場合、東京オリンピックが中学2年生のときにありました。そのときは私も世間とまったく同じに盛り上がっていましたが、終わったあとは、こんな国を挙げてのお祭り騒ぎは一回経験すれば十分だと思いました。
ですから、大阪万博のときはまったく白けていましたし、その後、花博やらなんやらの万博のときも同じです。札幌と長野の冬季オリンピックのときは、なんか遠くでやってるなというような感じでした。
ですから、石原都知事がやっている東京へのオリンピック招致など、私にとってはとんでもない話です。大金をかけて、ただ国を騒がしくするだけではないかという気分です。
今のところオリンピック招致はほとんど盛り上がっていませんから、私と似たような思いの人も多いのではないでしょうか。
ちなみに2020年にはトルコのイスタンブールも立候補しています。どう考えても、東京よりはイスタンブールのほうがいいのではないでしょうか。こういう新興国でのオリンピック開催は、かつての東京オリンピックと同じで、国民の自信にもなりますし、国際社会にとってもトルコについて認識を深めるきっかけになります。
オリンピックといえば、「平和の祭典」と称されますが、天邪鬼な私は、なんでこれが「平和の祭典」なんだよと思っていました。
オリンピックがほかの国際スポーツ大会と違って特別に盛り上がるのは、メダル獲得選手の国籍に応じて国旗掲揚と国歌演奏があり、国ごとにメダル獲得数を競うという形式のせいではないかと思われます。つまり必然的にナショナリスティックな感情がかき立てられるのです。ですから私は、これは「平和の祭典」ではなく「擬似戦争」か「戦争の代用品」とでも言うべきではないかと思っていたのです。
しかし、よく考えてみると、オリンピックは戦争と違って人は死にませんし、家が焼かれたり、難民が出たりすることもありません。この違いは決定的に大きいといえます。
人がはオリンピックに熱狂することで戦争願望(?)を満たし、戦争の起こる可能性が低くなるなら、「平和の祭典」という言い方もありかなと思えます。
サバイバル・ゲームというのがありますが、あれを表面的に見ると戦争そのものです。しかし、サバイバル・ゲームでは絶対に人が死んだり傷ついたりすることはありません。それにゲーム参加者は自分の意志で楽しみのために参加しているので、この点でも戦争と決定的に違います。ですから、サバイバル・ゲームに目くじら立てたりするのは愚かなことです。オリンピックにならって「平和の遊戯」と呼んでもいいかもしれません。
このところ世の中は、イジメだ自殺だと騒いでいて、私もブログでもっぱらそのことを書いてきましたが、オリンピックが始まったことで変わるかもしれません。
1989年、連続幼女誘拐事件の容疑者として宮崎勤が逮捕され、8月10日に供述通りに遺体が発見されたことから世の中は大騒ぎになり、マスコミは連日その事件の報道に埋め尽くされた感がありました。私はこの報道の嵐は当分は沈静化しないだろうと思って見ていましたが、意外と早く沈静化しました。
その理由は、認識している人は少ないかもしれませんが、8月26日、礼宮さまと川嶋紀子さまの婚約内定が報道されたからです。当然、そのおめでたい報道が連日行われ、そうすると連続幼女誘拐事件の報道が目に見えてへってしまったのです。
皇室の婚約と、市井の猟奇犯罪事件とはなんの関係もなく、それぞれ別に報道するべきことですが、受け止めるほうはそうはいきません。こちらでおめでたい気持ちになって、あちらで猟奇犯罪はけしからんという気持ちになってと、素早く切り替えられるものではないのです。
今回も、オリンピックが始まり、連日日本人選手の活躍が報道され、人々が選手を賞賛したり、激励したりする気持ちになると、イジメはけしからんという気持ちとの両立が困難になります。たとえば、テレビのワイドショーで日本人選手の活躍を伝えたあと、「さて、大津市のイジメ事件ですが、またまたこんなひどい実態が明らかになりました」と続けられても、視聴者はなかなかついていけません。
ですから、イジメ事件の報道はこれから沈静化すると私は予想しています。
もっとも、イジメについて考えるのは大いに意義のあることだと感じています。
多くのおとなは、イジメを子どもの世界のことととらえています。つまり、イジメる子どもが悪いから、その子どもを罰すればよいという認識です。おとなについては、せいぜい教委や学校の隠蔽体質を批判するぐらいです。
しかし、私の認識としては、社会や学校や家庭のあり方が悪いから子どもの世界にイジメが発生するのです。そういう認識から書くべきことはこれからもありそうです。