村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年07月

アフガン支援国会議が8日、東京で開かれ、今年から2015年までの4年間に計160億ドル(約1兆2800億円)超を資金拠出するとした「東京宣言」を採択しましたが、今アフガン情勢はどうなっているかというと、アメリカもアフガン政府もタリバンに対する勝利は諦め、タリバンと話し合って政権内に取り込むことを目指しています。
もともとはビン・ラディンをタリバン政権がかくまったとして、タリバン政権を倒すためにアメリカが始めたアフガン戦争ですが、11年かけて元の木阿弥になってしまったわけです。
イラク戦争にしても、イラクの大量破壊兵器保有という虚偽の上の戦争だったことが明らかになり、むなしさだけが残ります。
アフガン、イラク国民の被害は別にしても、アメリカ国民にとっても兵士の死傷、戦費の浪費などで、ただ損害だけが残った格好です。
 
アフガン戦争、イラク戦争が始まったときは、アメリカ国民は「正義」の戦争と信じて熱狂しました。これが映画なら、タリバン政権を倒したところで、広場のフセイン像を引き倒したところで、映画はジ・エンドとなるのですが、現実にジ・エンドはないので、「正義」の戦争のほんとうの結末を見てしまうことになります。
 
「正義」に熱狂してしまうのは、もちろんアメリカ国民だけでなく、人類の病というべきものです。
日本では、小泉政権時代の抵抗勢力との「正義」の戦いが思い出されます。郵政選挙のときは、投票所に今まで一度も投票したことがないようなヤンキー風の兄ちゃんを何人も見かけました。「郵政民営化は改革の本丸」という言葉に踊らされたのでしょう。
その結果、郵政民営化は中途半端な形となっていますが、これが小泉氏や竹中氏の思う通りになっていたとしても、日本はそれほどよくなるのでしょうか。
そもそも抵抗勢力のレッテル張りをして叩いても、叩かれたほうは恨みを持っていずれ逆襲してきますから、下手をすると逆効果になってしまいます。
 
現在、橋下徹大阪市長は地方公務員を敵に仕立てて「正義」の戦いを演出していますが、この結末もろくなものにならないと思われます。
 
そもそも「正義」の戦いとはいっても、結局強い者が弱い者に勝利しているだけのことなのです。小泉政権も政治家である抵抗勢力とは戦いましたが、官僚組織とは戦いませんでした。橋下市長も地方公務員とは戦っていますが、中央官庁がからむ原発再稼働問題ではあっさり退却しています。
ですから、「正義」の戦いというのは、既製の社会体制の枠内で行われるので、社会を根本的に変えるものとはなりません。むしろ既製の社会体制の悪を助長することにすらなります(社会を根本的に変える革命は悪人やならず者のレッテルを張られていた者が起こすことになります。たとえばバスティーユ監獄にいた者たちです)
 
「正義」の戦いがろくな結果にならないということは、生活保護の不正支給問題をめぐる騒ぎを見てもわかるでしょう。お笑い芸人の河本準一さんは、500万円から1000万円までの金額を国庫に返納したということですが、大騒ぎの結果がこれではお粗末すぎます。
「不正」受給だから、それを追及する自分は「正義」だということで酔いしれていた人たちが多かったようですが、そんな「正義」で世の中をよくすることができないということがはっきりしたでしょう。
 
実際のところは、「不正」受給の裏側には「不正」支給があるわけです。また、「不正」支給拒否もあります。
生活保護の問題は、受給する側だけではなく、支給する側にもあり、むしろ支給する側を改革することがたいせつです。ところが、「正義」を振りかざすと、どうしても弱い者のほうを叩くことになってしまいます。
 
では、どうしたらいいか。
これは簡単なことです。「正義」だの「不正」だのを頭から追い出して、すべて損得だけ、つまり誰がどれだけ得をし、誰がどれだけ損をするかということだけを考えて、最善を目指せばいいのです。
「正義」にとりつかれると必ず損をすると思って間違いありません。

201110月、大津市で中2男子生徒が飛び降り自殺した事件が話題になっています。事件直後に大津市教委が全校生徒を対象に行ったアンケートの内容が最近明らかになり、「自殺の練習」を強要されていたなどというショッキングなことが伝えられたからでしょう。
 
とはいえ、この手の出来事はよくあって、パターンが決まっています。
生徒が自殺する→親はイジメが原因ではないかと調査を要求する→学校側はイジメはなかったと主張する→イジメはあったとする証言や証拠が出てくる→学校側はイジメと自殺との因果関係はないと主張する→親は納得がいかないので学校や加害生徒の親を訴える。
 
こうした事件が起きるたびに、教師や学校や教育委員会は自己保身ばかり考えて、生徒のことなど考えていないということがよくわかります。
 
今回、伝聞の情報が多く報道されていて、冷静な議論ができない状況になっています。そこに市教委が「いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた」などと発言したために、火に油を注ぐ結果となっています。市教委は生徒への聞き取り調査をしない理由に「いじめた側の人権」を持ち出しただけです。そもそも市教委など教育する側が生徒の人権を認めているわけがありません。人権を認めたら、勉強を強要することもできなくなってしまいます。
 
多くの人々は、イジメの加害者側を非難し、隠蔽する学校や教委を非難します。つまり悪者探し、悪者叩きをするわけです。これはなにかの犯罪が起きたときと同じパターンです。このやり方では問題の発生を防ぐことはできず、また同じ問題が発生して、悪者探し、悪者叩きを繰り返すことになります。こういう人たちは死ぬまで同じことを続けていくつもりなのでしょう。
 
私はこういう場合、被害者側、つまりこの場合は自殺した中2男子生徒の立場に立って考えるようにしています。
これは当たり前のことですが、こういう発想のできる人はなかなかいないようです。
 
中2生徒はイジメのせいで自殺したというのが一般的な考え方でしょうが、実際はイジメだけで死ぬわけではありません。イジメられても、一方で救いがあれば死にません。八方塞がりになり、まったく救いがないと思ったときに死ぬわけです。
学校でイジメられたとき、親に相談して、親が親身になってくれれば死なないでしょう。たとえば、学校に掛け合ってくれて、加害生徒の親に談判してくれて、場合によっては転校させてくれるなどすれば、死ぬ必要はないわけです。
ところが、たいていイジメられた子は親に相談しません。おそらく相談しても、お前が悪いからだと説教されるだけで、なにもしてくれないと思っているからでしょう。
つまり、学校で生徒にイジメられ、先生も助けてくれず、親も助けてくれない。まったく救いがないと思ったときに死ぬのです。
ですから、こういう場合、自殺した生徒の親が加害生徒の親や学校を訴えることには多少の疑問があります。親はいちばん子どもを救うべき立場なのに救わなかったという“罪”があるからです(とはいえ、死んだ子どもは訴えられないので、代わりに訴えるのは親しかいませんが)
 
では、この中2生徒もそうだったのかというと、事情が違います。この親は子どもが自殺する前に行動を起こして、学校側と交渉しているからです。
 
転落死の中2男子 大津市教委、いじめを確認
大津市のマンションで10月、住人の市立中学2年の男子生徒(13)が転落死した問題で、大津市教委は2日、全校生徒への調査で、男子生徒に対するいじめが確認されたと発表した。男子生徒は死亡の約1カ月前から同級生数人に殴られ、死んだハチを食べさせられそうになったり、ズボンをずらされたりするなどしていたという。学校側は父親から相談を受けていたが調査せず、死亡前にいじめを把握していなかった。
(中略)
また、学校側は、9月に父親から男子生徒の金遣いについて2回にわたり相談を受けたが、父親が「息子には言わないでほしい」と話したため、調査しなかったという。市教委の聞き取りでは、男子生徒が同級生から金品を取られるなどの事実は確認できなかった。
(後略)
 
このように子どものために親が行動して学校側と交渉するということは珍しいケースです。この場合、子どもが自殺するのがかなり不思議になってきます。
ただ、親は子どもがイジメられているという認識はなかったという報道もあります。「息子には言わないでほしい」と話したことについても、なぜかという疑問が残ります。
この父親は子どもを守る立場ではなく、教師と同じ教育的立場から子どもを見ていた可能性があります。たとえば、子どもが家のお金を持ち出したことを、イジメが原因ではなく、単なる盗みと見ていたのかもしれません。そういう視線で見られていれば、子どもは父親に相談する気になれないでしょう。
 
真相はわかりませんが、いっしょに暮らしている親が子どもの自殺を防げなかったという結果は事実です。死んだ子どもに口が利けたら、自分を理解してくれなかった親への恨みを口にしているかもしれません。
 
 
東京オリンピックのマラソンで銅メダルをとった円谷幸吉というマラソン選手がいます。まだ現役だった27歳のときに自殺しました。そのときの遺書が名文とされ、そこに記された感謝の心に感動したという人がたくさんいます。しかし、自殺する人にそんな感謝の心があるものでしょうか。私の理解はまったく違うのですが、ともかくその遺書を張っておきます。
 
 
「遺書」
 
父上様、母上様、
三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、もちも美味しゅうございました。
 
敏雄兄、姉上様、
おすし美味しゅうございました。
 
克美兄、姉上様、
ブドウ酒、リンゴ美味しゅうございました。
 
巌兄、姉上様、
しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました。
 
喜久造兄、姉上様、
ブドウ液、養命酒、美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
 
幸造兄、姉上様、
往復車に便乗させて頂き有難うございました。
 
正男兄、姉上様
お気をわずらわして大変申し訳ありませんでした。
 
幸雄君、英雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、
みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、
裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
 
父上様、母上様、
幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません。
なにとぞお許し下さい。
気が休まる事もなく、
御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
 
幸吉は父母上様のそばで暮しとうございました。
 
 
円谷選手はメキシコオリンピックでのメダルを強く期待されていましたが、ウィキペディアの「円谷幸吉」の項目によると、椎間板ヘルニアを発症して手術を受け、かつての走りができる状態ではなく、また、婚約したのに「オリンピックのほうが大事」と考えるコーチによって破談に追い込まれたということです。
メダルを期待されても走ることができず、婚約も破談になったということで自殺した心境は容易に想像がつくでしょう。
 
で、そのように自殺した人がなぜこのように感謝の心を記した遺書を書いたのかということです。
感謝の心を持っている人は基本的に幸せな人だと思います。自殺するほど不幸な人に感謝の心があるとは思えません。
では、この遺書になぜ感謝の心が書かれているかというと、私が思うに、ここに名前をあげた人に後悔の念や良心の呵責を持たせるためではないでしょうか。
自分は死にたいほど苦しんでいるのに、周りの人はただメダルを期待するだけで、少しも自分の気持ちをわかってくれない。その恨みが心に満ちていたでしょう。
そして、その恨みを晴らすいちばんいい方法が、感謝の心を表現することによって相手に後悔の念や良心の呵責を持たせることだと思えたのでしょう。
 
もちろんいちばん恨んでいたのはコーチかもしれませんが、コーチの背後には全国民がいるわけです。
結局、恨みは自分をいちばん守ってくれていいはずの親族に向けられ、この遺書が書かれたのではないかと想像されます。
感謝の遺書ではなく恨みの遺書だというのが私の解釈です。
 
 
自殺した子どもの立場になって考えると、親や家庭がいちばんたいせつなことがわかるはずです。親がちゃんと子どもをささえていれば、学校でのイジメによって子どもが自殺することはないと思います。
 
私がこう書くと、これを根拠にして自殺した子どもの親を非難する人が出てくるかもしれませんが、それは悪者探し、悪者叩きであって、私が最初に否定したものです。誰かを非難して解決できることではありません。

だめな教育を受けると、その分だめな人間になってしまいます。これは当たり前のことです。だからこそ教育改革がたいせつです。
もちろん完璧な教育があったためしはありません。ですから、誰もがそれぞれにだめな教育を受け、だめな人間になっているわけです。
ところが、「自分はだめな教育を受けたためにだめな人間になった」という認識を持っている人はほとんどいません。それでいて「今の教育はだめだから、教育改革をしなければならない」と主張するので、教育改革論議は混乱するばかりです。
 
日本においてだめな教育の代表例は英語教育でしょう。学校で英語を学んだだけでは、誰もしゃべれないし、聞き取れないということになってしまいます。ですから、短期でも留学するか、ホームステイするか、外国人の友人をつくるか、私みたいに何度も海外旅行するかしないと英会話はできません。
 
なぜそんなことになるかというと、英語教科書製作者は反実用主義という信念を持っているのではないかということを前回の「This is a pen」というエントリーで書きました。今回はその続きです。
 
 
英語教科書製作者や英語学者は、人間がどのようにして言語を習得するかについて知識がないのでしょう。いや、一般の人も誤解しているようです。
たとえば、英会話学習教材のCMで、ただ聞き流しているだけで習得できるということをうたうものがありますが、そんなことはありません。これは私自身で実験済みです。私が中学のとき、父親は私が使っている英語教科書をネイティブスピーカーが朗読するというテープを買ってきて、毎日それをかけました。しかし、聞き流しているだけではまったく効果がありませんでした。
ただ、一箇所だけ、
Miss.Chiken! Miss.Chiken! I am very hungry!
と声を張り上げるところがあり、そこだけは覚えてしまいました。教室で当てられて教科書を朗読したとき、そこだけテープと同じように正しい発音で読んでしまい、みんなに笑われました(Crown」という教科書です)
 
赤ん坊はただ聞いているだけで言葉を覚えるというのもまったくの誤解です。赤ん坊は生きるために必死になって言葉を覚えるのです。これは赤ん坊を観察してもわかるはずです。赤ん坊は目を丸くして、おとながしゃべるのを必死になって聞いています。
 
外国で生活すると外国語をよく覚えるというのも、覚えないとうまく生活できないので必死になるからです。
 
で、そうして言葉を覚えるとき、その言葉が使われる状況も同時に覚えます。つまり言葉というのは、TPO(時と場所と場合)によって使い分けられるので、TPOと同時に覚えないと使えないからです。
たとえば、友だち同士で使う言葉と改まった場で使う言葉は違いますし、男が使う言葉と女が使う言葉も違いますし、日本の場合は目上と目下で違ってきますし、相手を傷つける言葉や怒らせる言葉もあります。
 
ところが、日本の英語教科書は言葉とTPOつまり場面を徹底的に切り離す方針でつくられています。
たとえば、This is a penがその代表例ですが、誰が誰にどんな状況でいっているのかまったく想像がつきません。
むしろどんな場面で発されたのか想像がつかないような言葉ばかりを教科書に載せているに違いありません。
たとえば、
Are you a teacher?
Yes I am.
という例文がありましたが、これなどもどんな場面か想像がつきません。シャーロック・ホームズはある人物に会ったとき、その鋭い観察眼で古びた上着の袖にチョークの粉がついているのを見て、相手を田舎の教師だと見抜きます。それを確かめるために発した言葉ならありえますが。
 
おそらく英語教科書製作者たちは言葉と場面を切り離し、“純粋言語”として教えたいと思ったのでしょう。
そうしたほうがあらゆる場面で使えると思ったのかもしれません。
しかし、現実は逆で、場面と切り離された“純粋言語”は、覚えても使えないわけです。
そのため学校で英語を学んだだけでは英会話はできないということになります。
 
 
もっとも、最近の英語教科書はかなり改善されてきているようです。しかし、年配の人はだめな教科書で教育されたために、だめな英会話能力しか持っていないことになります。
そして、そういう人は自分がだめな教育を受けたためにだめになってしまったということがなかなか認識できません。
とはいえ、自分に英会話能力がないという厳然たる事実はあるわけです。
そこで、自分が英語をうまく話せないのは正しい発音が身についていないからだというふうに考える人が多いようです。
 
しかし、私の経験でいうと、発音が悪いために通じなくて困るということはそれほどありません。
たとえば、「ウォーター」というとたいてい通じません。もちろん私の発音が悪いからですが、「ウォーター」で苦労する日本人は多いようです。「ワラ」といったほうが通じるという説もありますが、「ミネラル・ウォーター」といえば通じるので、問題はありません。
「コーヒー」というのも意外に通じませんが、これは「カフェ」とフランス語風()にいい直せば通じます。
ライスを注文したらシラミが出てきたということももちろんありません。
 
ユーロの首脳が英語で記者会見しているのをテレビで見ることがよくありますが、みんなかなりへたな発音で話しています。
たぶん日本人は発音を気にしすぎです。RとLの区別ができないことを気にする人が多いですが、日本人はRとLの区別ができないというのは世界的に知られているので、相手が察してくれます。
 
たぶん私の発音では通じない単語もいっぱいあるのでしょうが、相手はいくつかの単語が聞き取れれば、あとは場面によって察してくれます。
 
 
もっとも、自分に英会話能力がないのは中学から始めたためだ、小学校から始めていればよかったのだと考える人が多いせいでしょう、日本の教育改革はへんなことになってしまいました。
というのは、2011年から小学校での英語必修化が始まったのです。
しかし、各小学校にネイティブスピーカーの教師を配置できるわけはないので、実際には日本人教師が小学生に英語を教えることになります。
つまり今までは中学生からだったのが、これからは小学生からへたな英語を聞かされることになるわけです。これではへたな発音がより深く身につくことになってしまいます。
 
「自分はだめな教育を受けたためにだめな人間になった」という認識のない人間が教育改革を論じると、教育改革が悪い方向に行ってしまうという典型的な例です。

チェコとベルギーに行ってきました。ビールのうまい国に行ったのかと言う人がいましたが、そういうことではありません。私の場合、海外旅行は妻主導で、私はほとんどついていくだけです。まあ、ビールはおいしかったですが。
 
成田で飛行機に乗り込む日本人を見ていると、圧倒的にシニア層が多いです。私が海外旅行をするようになった20年くらい前は、若い人が多かったものですが。バブルのころは若いOLがよく海外旅行に行くといって揶揄の対象になっていましたし、独身貴族という言葉もありました。
昔はヨーロッパの観光地でアジア人を見かけると、ほぼ100%日本人だったものですが、今は中国、韓国、その他の国の人がいっぱいです。また、今回気づいたのは、イスラム圏からの観光客が多いことです。中でも、男はジーパンにポロシャツみたいな、ヨーロッパ人と同じ服装で、女性は黒い服に完全にヴェールで顔をおおっているというカップルをよく見かけました。ホテルのエレベーターで乗り合せたので、どこから来たのか聞いてみると、サウジアラビアからと言っていました。この手のカップルは必ずといっていいほど手をつないでいます。最初はよほど仲がいいのかと思いましたが、みんながやっているということは単なる習慣なのでしょう。女を所有しているという意味なのかもしれません。
 
最近の若い日本人はお金がないので海外旅行に行けないのかもしれませんが、語学力に自信がなくて二の足を踏んでいる人も多いかもしれません。
私も初めて海外旅行をしたときは、自分の英会話能力のあまりの低さに情けなくなりました。聞き取れないし、話せないし、中学校から大学まで英語をやってきたのはなんだったのかと思いました。
 
これは私個人の問題ではなく、日本の英語教育のせいです。おそらく普通に学校で英語を学んできた人は誰でも聞き取れないし、話せないはずです。
とくに私の世代の英語教育はひどかったと思います。今回、書店に行って今の中学1年生の英語参考書を見てみましたが、今は多少改善されているようです。
 
私の場合、最初に習った英語は、This is a penです。その次がI am a boy、それから You are a girlです。
つまりbe動詞について学んだわけです。
中学1年生に英語を教える場合、文法中心にいこうという考え方は必ずしも間違っていないと思います。しかし、例文がひどすぎます。
This is a penなんていう言葉は絶対一生使うことがありません。世の中にペンを知らない人がいるのか。いたとして、その人にペンという言葉を教えることに意味があるのか。「これは紙に字を書く道具です」と教えるべきではないかということになります(あえて考えると、観光地の土産品などでヘビの形をしたペンがあって、それがなにかわからない人に対してはThis is a penという可能性があります)
I am a boyも同じです。自分が少年であることは見ればわかるはずです。I am a boyというのは、女の子に間違えられた場合だけでしょう。
つまり、例文を暗記しても、それを実際に使うことはないのです(ちなみに最近の教科書にI am a boyはないようです。I am Murataみたいに名前をいうのはあります。これは実際に使えます)
 
be動詞の次は、I have a bookI like an appleなどの一般的な動詞ですが、この例文も実際に使うことはないでしょう。
 
なお、母音の前の不定冠詞はaではなくanになるということも、このとき学びます。定冠詞のtheも出てきますし、三単現のsもかなり早い段階で学びます。
それから、数えられる名詞と数えられない名詞の区別も学びます。appleは数えられる名詞ですが、coffeewaterは数えられない名詞なので、a cup of coffeea glass of waterといわなければならないというわけです。英語に数えられる名詞と数えられない名詞の区別があるということに軽いカルチャーショックを感じたのを覚えています。
 
テストでa appleと書いたり、三単現のsを落としたり、a coffeeと書いたりすれば、当然間違いとされます。そのため、どうしてもこういう細かいことにこだわるようになり、これが英語が話せなくなる大きな理由だと思います。
 
ちなみに私は、カフェやレストランでビールを注文する場合、a glass of beerなどといったことはありません。必ずone beerです。もしa glass of beerなどといったら、ウエイターが「えっ、ボトルで出すなということか?」などと戸惑うに違いないからです。
オーストラリア在住の作家森巣博氏のエッセイによると、数えられる名詞と数えられない名詞の区別は重要ではなく、コーヒーを注文する場合はtwo  coffeeでも two  coffeesでもいいそうです。
 
私の英語はいい加減で、冠詞がなかったり、三単現のsがなかったりしますが、そのために伝わらないということはありません。
 
確か中学2年になると、教科書がリーダーとグラマーに別れました。私のリーダーの教科書では、アメリカ人のブラウン一家というのが出てきて、両親とトムとスージーがいろいろな会話をするのですが、この設定もおかしいです。アメリカ人同士の会話を覚えても、日本人が使うことは普通ないからです。日本人旅行者がニューヨークに行って現地の人と会話するとか、アメリカ人の学生を日本の家庭にホームステイさせるとか、そんな設定であれば、そこでの会話を丸暗記すれば役に立つでしょうが。
 
実際のところ、教科書に出てくるのは、「トムは毎日学校に行きます」とか「スージーは宿題をしなければなりません」とか「今日は晴れですか?」「はい、晴れです」とか、とても現実に使うことのない言葉ばかりでした。
 
英語教科書の製作者たちは、反実用主義という信念を持っていて、絶対に実用的な表現を取り入れまいとしていたのでしょう。
また、勉強というのは楽しいものであってはいけない、砂をかむような思いでするものだという信念もあったのかもしれません。
 
いや、実用的でないだけならまだいいのですが、使ってはいけない表現も出てきます。
たとえば、Who are you ?なんていう言葉は相当失礼な表現でしょう。しかし、授業ではWho are you ? I am a studentなどという言葉を繰り返し唱和させられ、頭に叩き込まれてしまいます。
また、補助動詞を学ぶときにYou must~やYou may~という表現も覚えますが、これも現実の会話で使うと、相当失礼になるおそれがあります。
つまり、実用的でない言葉ばかりでなく、使ってはいけないような言葉まで頭に入っているので、ますますしゃべりにくくなってしまうのです。
 
 
教科書が実用的でないので、ヒアリングも当然できなくなります。
私は最初のうち、英語で話しかけられると、まったく理解できず、何度も聞き返していました。しかし、あるとき、向こうから話しかけてくる場合、それはほとんど疑問形だということに気づきました。
これは当たり前のことで、会話というのはほとんどの場合、疑問形から始まります。しかし、This is a penから習ったこともあってか、そのことになかなか気づかなかったのです。
それからは、相手が話しかけてきた場合、これは疑問形に違いないと予測して聞くようになり、そうすると格段に理解しやすくなりました。
 
人間は人の話を聞く場合、真っ白の頭で聞くことはほとんどなく、予測変換みたいに、きっとこういうことを言うだろうと予測して聞くもので、だからこそ理解しやすくなるのです。
 
たとえば、初めてカフェでコーヒーを注文したとき、なにか聞き返され、それがまったくわからず、とまどいました。
実際のところは、ミルクとシュガーはどうするのかと聞かれていたわけです。コーヒーを注文した以上、それ聞き返されるのは当たり前のことです。それを理解してからは、英語以外のわけのわからない言葉で聞き返されても、「ミルク」と答えて、ちゃんと会話が成立するようになりました。
 
相手がなにを話しているかというのは、状況からかなりの程度予測がつきます。
たとえば、街角で立ち止まって地図を見ていると、よく誰かが話しかけてきます。それはたいていCan I help you?か、それに類する言葉をいっているのです。こちらは地図に集中してろくに聞いていなくても、そう判断してまず間違いありません。
 
また、私のような旅行者がよく話しかけられる言葉は決まっています。
「どこから来たのか」
「ここに来るのは初めてか」
「何日滞在するのか」
こういう予測がついていると、単語ひとつ聞き取れただけで全体が理解できます。
 
何回も海外旅行に行っていると、空港、ホテル、レストラン、商店、切符売り場での会話は容易にできるようになります。毎回同じ会話をしているからです。
ということは、ものすごく少ないボキャブラリーでも用は足りるということです。
 
もし中学高校の英語教育の目的が日常会話ができることというのであれば、ものすごく簡単に学べることになります。実用的な表現を丸暗記すればいいからです。
たとえば、日本の商店、レストラン、居酒屋などに外国人客が来た場合の会話とか、外国人に道を聞かれたときの会話とかも、決まり切ったものですから、それを全部教科書に載せておけばいいのです。そうすると、外国人旅行者は「日本人はすごく英語ができる」と喜ぶに違いありません。
 
もちろん英語教育の目的は、日常会話ができることだけではありません。最終的には英語の専門書を読めたり、英語で論文を書けたりすることまで視野に入れている必要があるでしょう。
しかし、9割の日本人はそこまでは望んでいなくて、とりあえず英語で日常会話ができればいいと思っているはずです。
とりあえず実用的な英会話を教え、かつ将来的には本格的な英語修得につながっていくという教科書は当然できるはずです。
 
少なくともこれまでの反実用主義を排し、例文を実際に使えるものにするだけでも、日本人の英語能力はグンとアップするのではないでしょうか。
 

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