村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年08月

いわゆる従軍慰安婦問題がまだ波紋を広げています。今までは思想的に偏った人が言っているだけだと思っていましたが、読売新聞の社説までが河野談話の見直しを主張しました。
 
河野談話 「負の遺産」の見直しは当然だ(829日付・読売社説)
 
しかし、読んでみてもぜんぜん説得力がありません。書いている本人が無理筋を言っていることがわかっているからでしょう。慰安婦問題の火をつけたのは朝日新聞なので、朝日新聞に対するいやがらせが主眼なのでしょうか。
 
慰安婦問題というのは歴史上の事実がもとになっているので、事実そのものを探求しなければ論じられないかと思っていましたが、少し調べてみると、実際の議論はそういうこととは別に行われていることがわかりました。要するに謝罪するかしないかという問題なのです。これは歴史の事実とはまた違って(もちろん歴史の事実を踏まえていなければならないのですが)、むしろ法学や倫理学、さらには心理学やフェミニズムの問題です。
 
事実を前にしたとき、私たちは必ずしもそれをありのままに見るわけではありません。自分に都合の悪い事実には目をふさぎ、自分に都合のよい“あやしい事実”に飛びついたりします。たとえばあまりにも欲の皮が突っ張った人間は「半年で元金が2倍になりますよ」という絶対にありえない話を信じて、詐欺に引っかかります。
慰安婦問題でも、どうしても謝罪したくない人は、不都合な事実にいろいろと難癖をつけ、好都合な事実にはいっさい検証なしに飛びついてしまい、その結果偏った“事実”が頭に入ってしまい、判断も間違ってしまうことになります。
 
たとえば、韓国では元慰安婦という人が多数名乗り出て証言しました。河野談話も元慰安婦16人からの聞き取りを踏まえています。
最初に実名で名乗り出たのが金学順という人です。この人の証言について、いろいろな間違いがあるという指摘があります。それによって金学順の証言は信用ならないとし、さらにはほかの人の証言にもおかしなところがあるとし、それで証言のすべてが信用ならないという論法で「強制連行はなかった」と主張する人たちがいます。
 
しかし、その人たちは一方で、たとえば済州島で女性を強制連行したという吉田清二の告白に対して、「済州島新聞」の許栄善記者が否定的な記事を書き、郷土史家の金奉玉が事実でないことを報告したということですが、そのことは検証なしに受け入れています。許栄善記者の記事や郷土史家の金奉玉の報告はそんなに信用できるものでしょうか。いや、そもそもこうしたことを日本に伝えたのは日本人ジャーナリストと思われますが、この日本人ジャーナリストは信用できるのでしょうか。右翼ジャーナリストが右翼メディアに発表したものでしょうから、むしろ限りなくあやしい話だと思われます(あと、秦郁彦氏も吉田証言を否定する文章を「正論」に発表していますが、秦郁彦氏は南京事件の死者数をきわめて少なく数える人です)
 
つまり、あっちの証言はいろいろ難癖をつけて信用しないが、こっちの証言は無条件で信用するということで、まったくのダブルスタンダードなのです。
 
ダブルスタンダードになる理由は単純です。日本人は当然ながら、日本人が悪いことをしたとは思いたくないのです。そのため「日本人が悪いことをした」という情報はいろいろ難癖をつけて否定し、「日本人が悪いことをしたというのは間違いだ」という情報には飛びついてしまうというわけです。
 
これはつまり、ごまかしてでも自分をよく見せたいという利己主義です。
普通はあまりこういうことをすると、周りから否定されてしまいます。しかし、慰安婦問題を日本人同士が論じると、これを否定する人がほとんどいないので、議論がどんどん利己的な方向に行ってしまいます。つまりデフレ・スパイラルならぬ利己主義スパイラルに陥ってしまうのです。
また、慰安婦問題を論じる人のほとんどは男性です。男性同士が論じると、ここでもやはり利己主義スパイラルに陥ってしまいます。
 
つまり日本人と男性という利己主義の二階建てで利己主義スパイラルに陥っているので、これを客観的に見ると、聞くに耐えない議論になってしまっています。
 
読売新聞の社説を読んでもわかるように、軍や官憲による強制連行を示す日本側の資料がないから、慰安婦に謝罪した河野談話を見直せという主張が現在(日本側で)行われているわけです。
これを国際社会から見ると、「加害者側の資料がないから被害者に謝罪しないと加害者側が言っている」ということになります。
つけ加えると、日本では軍や官憲と民間業者を区別する議論が行われていますが、これも国際社会から見たら、まったく意味のない議論です。慰安所を運営する業者は軍の指示を受け、かつ官憲の監視下で業務を行なっていたからです。
 
慰安婦問題は、右翼と左翼が対立している問題ではありません。
利己主義と非利己主義が対立している問題なのです。

前回の「走る子どもを怒る」というエントリーで、店内を走り回る子どもを怒鳴りつけた店員についてのニュースを取り上げましたが、またもや似たニュースがありました。どうやら子どもを迫害する傾向はどんどん強まっているようです。
  
電車内のベビーカー利用に賛否両論 啓発ポスター引き金
  列車でのベビーカー利用に理解を求める鉄道会社や東京都のポスターに、批判が寄せられている。車内で通路をふさぐなどと苦情があり、鉄道会社はマナー向上の呼びかけに力を入れている。
 「ベビーカーでの電車の乗り降りには注意が必要です。周りの方のお心づかいをお願いします」「車内ではストッパーをかけて」
 首都圏の鉄道24社と都は3月、利用者に呼びかけるポスター約5700枚をJR東日本や私鉄、地下鉄の駅に張り出した。少子化対策の一つで、担当者は「赤ちゃんを育てやすい環境をつくる」と話す。
 だが、利用者から「ベビーカーが通路をふさぐ」として、ポスターに対する疑問の声が都に寄せられた。都営地下鉄には「車内でベビーカーに足をぶつけられた」「ドアの脇を占領され、手すりを使えなかった」との声が相次いだ。
 JR東日本にも「ポスターがあるからベビーカー利用者が厚かましくなる」「ベビーカーを畳もうというポスターも作って」と意見が寄せられたという。ネットでは意見が1千件以上飛び交っている。
 ただ、ベビーカー利用者には事情がある。今月、JR新宿駅近くでベビーカーを押していた杉並区の主婦(38)は「子どもを病院に連れて行く時、電車に乗らざるを得ない。荷物と子どもを抱えてベビーカーを畳むのは無理」と話す。出産前は、通勤時にベビーカーを迷惑と思っていたが、考えが変わったという。
 JR東日本は列車内のベビーカー利用を認めてきた。かつて駅や車内でベビーカーを畳むよう呼びかけた私鉄9社や都営地下鉄は99年、母親の要望を受け、「周囲に迷惑をかけない」ことを条件に利用を認めるようになった。
 ポスター掲示を続ける小田急電鉄は、乗務員が車内を回る際、ベビーカー利用者に「通路をふさがないでください」と声かけをしている。「母親の育児ノイローゼを防ぐためにも外出は効果的」という都は、母親向けに「車内でもベビーカーから手を離さないで。暴走車になっちゃうよ」とマナー向上を呼びかけるチラシ約5万枚を保育所などで配っている。(藤森かもめ)
朝日新聞デジタル 20128261817
 
鉄道会社のポスターの狙いはあくまでベビーカー利用に対して一般客の理解を求めることであったわけですが、一般客は逆に、「ベビーカーが通路をふさぐ」など、ベビーカーの利用を非難する反応を示したというわけです。
 
ベビーカーというと、ノルウェーに行ったときのことを思い出します。
ノルウェーでは街のいたるところでベビーカーを見かけました。それも2人用、3人用も多く、4人用のべビーカーもあるのには驚きました。
ノルウェーは先進国にしてはかなり出生率の高い国です。1980年代までは低かったのですが、男女共同参画を進め、子育て支援策を充実させることで出生率が向上しました。
ただ、これは単に政策だけの問題とは思えません。子どもが普通にたいせつにされている感じがするのです。たとえば、ノルウェーにはスカンジナビア航空の飛行機で行ったのですが、客室乗務員が客に飲み物をサービスするとき、8、9歳の女の子がニコニコしながら横にいて、客にジュースを渡したりしているのです。女の子が手伝いをしたがったので、客室乗務員が好きにさせているということでしょう。これが日本なら、子どもに手伝いさせるとはけしからんといってクレームがつくに違いありません。
もちろんスカンジナビア航空でも、規則ではこういうことをさせてはいけないことになっているはずです。しかし、子どもがやりたがったら、おとなはそれを尊重するということが普通に行われているのでしょう。そして、その女の子は楽しい時間をすごし、人生経験を積むこともできたわけです。
ノルウェーには、電車の中のべビーカーに文句を言うような人はいないと思われます。
 
日本がノルウェーと違うのは、とくに都会の交通機関は混み合うことが多い点です。
おんぶやだっこという方法があるではないかという人もいるかもしれません。
しかし、ベビーカーを使いたい事情もあるでしょう(おんぶやだっこは重い)
 
どんな社会であっても、子育て中の親は周りのみんなでささえるものだと思います。そうでないとその社会は持続していきません。
そう考えると、電車内のベビーカーを非難する日本の社会のあり方はかなり異常です(外国ではしばしばベビーカー用のスペースが設けられた電車やバスを見かけます)
 
これもやはり「子ども差別」のひとつの表れというべきでしょう。
厳密には子どもではなく子ども連れの親が差別されているわけですが、根底にあるのは子どもをたいせつにしないことですから、「子ども差別」と言ってもいいでしょう。
 
これが「子ども差別」であることは、車椅子が電車に乗ってくることと比較するとよくわかるはずです。迷惑という点ではベビーカーも車椅子も変わらないでしょう(むしろ車椅子のほうがかさばります)。しかし、車椅子が電車に乗ってくるのは迷惑だと主張する人はまずいません。
 
とは言ったものの、最近は車椅子も迷惑だという声が多くなっているかもしれないと心配になり、検索してみましたが、そんなことはありませんでした。「Yahoo!知恵袋」で「ラッシュ時に車椅子で電車に乗る人ってどう思います?『遠慮』というのも考えていただきたい」という意見に対しては、圧倒的に否定的でした。
 
ベビーカーで電車にも乗りにくい社会では少子化が進むのも当然です。
 
このような子どもを迫害する傾向は最近急速に強まっている気がします。
その原因はなにかと考えたら、法務省の方針がかかわっているのではないかという気がしています。
日本は官僚主導の国で、マスコミもそれに追随していますから、法務省の方針は国民意識までも変えてしまいます。
 
2001年、少年法が厳罰化の方向へ改正されました。これはもちろん法務省の方針ですし、これに先立って、「少年犯罪が凶悪化している」という報道が盛んに行われました(統計的にはそうではなかったのですが)
そして、数日前の8月24日の朝日新聞朝刊の一面に「少年の有期刑引き上げ」と題する記事が掲載されました。
従来の少年法では、18歳未満の少年に対しては有期刑は最長15年とするなど、成年よりも量刑を軽くする規定がありましたが、法務省はそれをよりきびしくする方針を固めたということです。その理由としては、裁判員裁判を経験した市民から「少年事件で思ったような量刑が選択できない」といった不満が出ていたことが挙げられています。
 
少年法の厳罰化であれ死刑制度の存続であれ、つねに国民感情を持ち出すのが法務省のやり方です(財務省や厚生労働省も国民感情に合わせてほしいものですね)。そして、その国民感情を形成するために、明らかにマスコミは偏った報道をします。たとえば、少年法改正の前ごろから、殺人事件については必ず被害者遺族の感情が強調されるようになりました(加害者サイドのことはほとんど報道されないので、アンバランスです)
 
法務省が刑法改正に国民感情を持ち出すのは、それ以外に理由がないからです。つまりなぜ犯罪が起こるのか、どうすれば犯罪を防げるのか、犯罪者はどうすれば更生するのかといったことが法務省にはまったくわかっていません。
 
それは誰にもわからないのではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。ノルウェーの法務省はなぜ犯罪が起こるかわかっているのです。
これは「厳罰主義の果て」というエントリーで書いたことですが、ノルウェーの法務官僚は犯罪の原因として「幼年期の愛情不足。成長時の教育の不足。そして現在の貧困」を挙げたそうです。
「厳罰主義の果て」
 
ノルウェーの法務省と比べると、日本の法務省は明らかにバカです。このことをほとんど誰も指摘しないのは不思議です(もちろん日本の法務省だけでなく日本の法学界もバカなのですが)
 
ともかく、日本の法務省は明らかに少年をきびしい目で見ています。昔の日本人なら、「こんな若い者を罰するのは忍びない」とか「まだ若いんだから立ち直るだろう」といった感情があったものですが、今の法務官僚にはないようです。そして、それが日本全体に広がってきています。
これはつまり、おとなの劣化です。
決して子どもや若者の問題ではありません。
 
おとなが子どもや若者を迫害する社会に未来はありません。

人間は基本的に利己的な存在です。対等の関係だと争ったり妥協したり友好関係を築いたりしますが、強者と弱者の関係だと、強者が一方的に利己的にふるまうことになります。奴隷制度、植民地支配、人種差別、性差別などがそうです。
それに加えて、おとなが強者で子どもが弱者であることから生じた「子ども差別」もあります。しかし、「子ども差別」はほとんど認識されていません。これを認識するとしないとでは世の中の見方がまったく変わってきます。たとえば、「子ども差別」を認識しない人は、イジメの解決策を出すことができません。
ということで、今回は「子ども差別」を認識するためのレッスンです。
 
最近の新聞の投書欄にこんな意見が載っていました。
 
子どもの迷惑行為 謝れない親
会社員 (女性 氏名略)(東京都新宿区 46)
 
 母の入院先に毎週通っていた時のことだ。夕方、自宅へ帰るために駅へ向かいながら、帰宅時間を携帯で家に連絡していた。広い道幅にもかかわらず、前から走ってきて思い切りぶつかり、そのまま走り去ろうとした男の子がいた。謝りもしないで走り去ろうとしたその男の子に、私は「謝るぐらいして」と怒った。ところが、先を歩いていた父親が私の所まで戻ってきて、子どもに謝らせるどころか、「言い方が悪い」とくってかかった。母親も一緒にいたが、そんな父親に対し「放っておきなさい」と言うばかり。
 
 最近の親は、人に迷惑をかけたら、きちんと子どもに謝らせ、今後注意するように言い聞かせることすらできないのだろうか。私が年寄りで、ぶつかられたはずみで転倒し、骨折でもしていたらどうしていたのか。
 
 スーパーなどでも同じで、子どもが走り回っていても知らん顔の親たち。電車の中で子どもが大声を出していても、意に介さず自分たちの会話を続ける夫婦。他者への配慮などひとかけらも感じられない。大げさなようだが、日本人のよさは本当に失われているのではないか、と感じることの多い日々だ。
朝日新聞デジタル記事2012822
 
この人は子どもを一方的に非難していますが、この認識にかなり問題がありそうです。というのは、自分も道を歩きながら携帯電話を使っていたからです。2人がぶつかったのは、双方に不注意があったからでしょう。
この人は「夕方、自宅へ帰るために駅へ向かいながら、帰宅時間を携帯で家に連絡していた」と書いています。つまり、携帯を使う必要性を言うことで自分の正しさをアピールしたのでしょう。しかし、そんなことは他人にはどうでもいいことです。他人から見れば、ただ道を歩きながら携帯で話しているおばさんがいるだけです。
ちなみにぶつかった男の子にしても、道の前のほうに両親がいて、走って追いつく必要性があったわけです。
 
この人が「謝ることぐらいして」と怒ったのは、いつも子どもにはそのようにふるまっているのでしょう。しかし、今回は両親が後ろにいたので、父親に「言い方が悪い」とくってかかられてしまいました。果たしてどんな言葉の調子で「謝ることぐらいして」と言ったのかわからないので、この父親の態度が正しいのかどうか判断できませんが、文句をつけるのもおとなげないでしょう。母親の「放っておきなさい」という態度が妥当なところではないかと思われます。
 
この人は、父親から文句を言われて引き下がり、やり場のない不満をかかえてしまったので、この投書をしたのでしょう。普通なら子どもに怒りをぶつけて、すっきりしていたはずです。
 
よく飲食店などでミスをした店員に向かって「謝れ」と怒っている人がいますが、こういう人は、誰が見てもいい気はしないものです。この人の態度も同じでしょう。
 
ただ、この場合は子どもが相手です。子どもに向かって「謝れ」という場合は、子どもに謝ることを教えるという、教育やしつけのためという名目があります。そのためこの人の態度は正しいと考える人もいるでしょう。
しかし、謝ることはたいせつですが、人に向かって「謝れ」ということはまったく別です。子どもに「謝れ」というと、子どもはその態度を学んで、人に対して「謝れ」という人間になってしまう可能性があります。
この人は子どもに謝ることを教えたいなら、ぶつかったときに子どもに対して「ごめんね」と言えばよかったのです。そうすれば子どもは人にぶつかったときは謝るものだと学んだでしょう。
 
そもそもは「広い道幅」のところで子どもは走っていたのです。ぶつかったのは不注意ですが、それはお互いさまですし、子どもがおとなのように注意深くないのは当たり前のことです。子どもは走ってぶつかったり転んだりしながら運動能力を伸ばしていきます。
 
ただ、この投書にもあるように、子どもがスーパーの中を走り回ったり、電車の中で大声を出すのはどうなのでしょうか。
これについてはたまたま、店内を走り回る子どもを店員が怒鳴りつけたということに関するニュースがありました。
 
 
店内で走る子供を怒鳴る店員は失格だ! 「無印良品」批判ブログが大炎上
 
    広報アドバイザーを名乗る人物がブログで、店員が店内を走る子供を怒鳴る場面に出くわした、と書いた。これは接客業としてやってはいけない行為だから、この店員にもう一度基礎から研修させるべき、としたところ「迷惑行為の子供を叱って何が悪い!」などと批判が殺到しブログが「大炎上」した。
 
   また、「販売員ならだれでもなれる」という職業蔑視とも取れる表記があったため、火に油を注ぐ形になった。
 
「この店員を野放しにすするなら買い物はしない」
 
   筆者のプロフィールには、繊維業界の川上から川下まで担当する業界紙記者などを経て、現在はライターのほか、広報代行業、広報アドバイザーを請け負っていると書かれている。
 
   炎上したのは2012822日にアップされた「一体店員にどんな指導をしているの?」というタイトルのブログ。大阪にある「無印良品」の名前が実名で記されていた。
 
   内容は、店内で「走るな!」という男性の威圧する声が聞こえたため、声のする方向に目をやると、小学校低学年の男の子二人を睨みつける20代後半~30代前半くらいの男性がいたのだという。初めは父親か親戚のオジサンかと思っていたが、それが店員であることがわかって驚いた、という。いくら目に余る様子だからといって、店員が怒鳴るのはおかしいし、今回の場合はそれほど子供が騒いでいない。
 
「この店員がたまたまイラついていただけかもしれないが、これは接客業としては失格である。良品計画はもう一度この店員に基礎から研修を受け直させるべきだろう」
 
と書いた。
 
   さらに、日本では販売員は下に見られがちな職種であり、応募する側も「販売員ならだれでもなれる」。店側も品出しとレジ打ち、おたたみくらいを覚えてくれればいいという軽い気持ちがあるため、このような店員をたまに見ることがある。そしてこの店員を野放しにしておくのなら、この無印良品で買い物をすることは今後ないだろうと締めくくった。
 
「むしろ素晴らしい店員だ」と反論多数
 
   すると、このブログに書かれていることが許せないとネットで騒動になり、筆者のブログと「ツイッター」に批判が殺到「大炎上」することになった。このブログはポータルサイト「ライブドア」にも配信されていて、ここではコメントが23日の夕方までに1800を超えた。
 
「あんたが書かなきゃいけないことは、店内で子供が走り回っているのに注意しない親の方だろ」
 「うるさいガキ、それを野放しにする親、なにもしない店員に、客はうんざりしているのですよ」
 「走りまわっている時点で迷惑な客。子供は注意していることを理解させなければ反省しない。威圧した声で注意するのは当然。むしろよく教育されたすばらしい店員」
 
などというコメントが並んだ。
 
    筆者は今回のブログへの批判の多さに驚いたのか、
 
「今回のブログで多くの方々に誤解を与えたことはお詫び申し上げます」
 
などと23日の昼過ぎに謝罪文を掲載した。ただし、販売接客業は「怒鳴りつける」という手段を採ることは原則ない、などと付け加えた。
 
   ブログは一部が書き換えられ、本文から「無印良品」の名前を消した。そして、23日夕までにこのブログは削除されてしまったのか、現在はアクセスできなくなっている。
 
 
この広報アドバイザーを名乗る人物も少しおかしなことを書いていますが、店内を走り回る子どもを怒鳴りつけた店員を批判したのは当たり前のことだと私は思います。
もっとも、この人物は接客業の店員としてあるべき態度という観点から批判しているのですが、私は子どもが店内を走り回るのは当たり前のことだということから、子どもを怒鳴りつけた店員を批判しているので、その点は違いますが。
 
子どもは、ここは走ってよい場所だとか走ってはいけない場所だとかの判断はできませんから、店内であろうと走るのは当たり前のことです。ほかの客に迷惑になるとか、たいせつな商品が壊されるかもしれないとかいうことなら、子どもに対して「ここでは走らないでくれるかな」とか「向こうに行って遊ぼうか」などとやさしく言えばいいのです。当然のことですが、怒鳴りつければ子どもが傷つきます。
 
子どもが走るのを怒鳴りつけていいのなら、年寄りがのろのろ歩いていたり、レジでもたもたしているのも怒鳴りつけていいのでしょうか。子どもが走るのも年寄りがのろのろ歩くのも、どちらも自然な姿です。
 
もっとも、年寄りの動作が遅いといって怒鳴りつける人はまずいません。それは、年寄りは必ずしも弱者とは限らず、社会的に力のある人物であるかもしれないからです。
しかし、子どもは絶対的に弱者ですから、近くに親がいない限り遠慮なく怒鳴りつけられるので、そういう社会的習慣ができてしまったのです。
 
それにしても、この広報アドバイザーのブログが炎上したということは、子どもを怒鳴りつけるのは当然だと思っている人が多数いるということでしょう。
これがまさに「子ども差別」社会です。
子どもが走り回るのがいけないというのは、自己中心的なおとなの考えです。こういう考えのおとなは自分の子どもに対しても、「うるさい」とか「走るな」とか「ちゃんとしろ」とかしょっちゅう怒鳴っているに違いありません。
そして、子どものときにそうして怒鳴られて育ってきたおとなは、自分の子どもに対しても同じように怒鳴り、ときにこの広報アドバイザーのブログを炎上させたりするというわけです。
 
子どもがうるさいといって怒鳴る人は、赤ん坊が夜泣きしたときも怒鳴るでしょうし、それで泣き止まないと殴るかもしれません。「子ども差別」社会では幼児虐待が当たり前のように起きます。
 
「子ども差別」に気づくと、「怒りや暴力」を克服する道が見えてきます。もちろんその先にあるのは「愛と平和」というわけです。

(この記事は「レイプ・イジメ・慰安婦(前編)」の続きです)
 
韓国の李明博大統領が言及したことから従軍慰安婦問題がまた表面化し、橋下徹大阪市長が「慰安婦という人達が、軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられたという確たる証拠はない。もしそういうものがあったというなら、韓国の皆さんにも出してもらいたい」と言ったことからさらに燃え上がっています。
 
私はこの論争に加わるのは今まで避けていました。本格的に論じるなら、一次資料を提示して自分の説の正しさを主張しなければなりませんが、そういうことは私の任ではないと思っているからです。
しかし、人の説が論理的におかしいということなら指摘することができるので、今回少しこの論争に加わってみます。
 
はっきり言って、慰安婦問題で謝罪したくない人たちの論理にはおかしなところがいくつもあります。
たとえば最初のころは、「当時は『従軍慰安婦』という言葉はなかったから、これは現代に創作された話だ」という主張がありました。しかし、江戸時代には「江戸時代」という言葉はありませんし、「幕藩体制」という言葉もありませんが、だからといって江戸時代や幕藩体制がなかったわけではありません。明らかに論理的におかしな主張なのです。
 
ところで、今回私は少し一次資料にも当たってみましたが、そこには「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」という表現がありました。これは「従軍慰安婦」という言葉とそんなに違いません。
デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」文書庫
 
謝罪拒否派の典型的な主張が見られるので、池田信夫氏のブログから引用してみます。
 
慰安婦問題の特異性は、日本人が創作した話だということだ。ふつう「私が犯罪者だ」と嘘をつく人はいないが、奇妙なことに戦争についてはそういう「詐話師」がいる。この問題の発端となった吉田清治がその最たるもので、彼の『私の戦争犯罪』には、済州島で「慰安婦狩り」をした様子が詳細に書かれているが、なんとすべて嘘なのだ。本人ものちに「フィクションだ」と認めた。
 
この文章も論理的におかしいです。吉田清治が本に書いたことは「フィクションだ」と認めたとしても、それがほんとうだとする根拠はありません。「詐話師」の言葉のそこだけ信用するのは、どうしても論理的におかしいと言えます。
 
私は念のためにウィキペディアで「慰安婦」の項目を見てみましたが、そこにはこんな記述がありました。
 
529日付の『週刊新潮』でのインタビューで、吉田清治が『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』中の記述において、人間狩りをしたという主張は否定しなかったが、「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と認める。
 
これによるとフィクションなのは場所に関してだけのようです。そうすると池田信夫氏のブログの記述が信用できないことになりますが、果たしてどちらが正しいのかを私は示すことができません。池田信夫氏はほかの証拠も持っておられる可能性があります。ただ、池田信夫氏の文章が論理的におかしいとだけ指摘しておきます。
 
池田信夫氏はこうも書いています。
 
まず軍が慰安所の経営に関与していたことは周知の事実で、日本政府も否定していない。
(中略)
日本政府の調査でも、強制連行の証拠は出てこなかったが、外務省は河野談話で「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた」という曖昧な表現で政治決着をはかった。この「本人たちの意思に反して集めた」主語は誰だろうか。軍が慰安婦を集めた事実はないので、それは慰安所経営者だ。これを「性奴隷」と呼ぶなら、奴隷にしたのは業者であって国ではない。実は、これは吉見義明氏などの左翼も認めていることで、事実認識は秦郁彦氏とほとんど差がない。
 
軍が慰安所の経営に関与していたことを認める一方で、『これを「性奴隷」と呼ぶなら、奴隷にしたのは業者であって国ではない』と言うのはおかしいでしょう。「性奴隷にしたことに国は関与していた」と言うべきです。
池田信夫氏の言っていることはたとえば、「原発事故を起こしたのは業者であって国ではない」とか、「そのミスを犯したのは下請け業者であって東電ではない」と言うのと同じです。
 
次は産経新聞の「政治部・阿比留瑠比 やはり河野談話は破棄すべし」という記事からの引用です。
 
「慰安婦問題における政府の関与については平成5年の河野談話を発表したときの調査を踏まえ、すでに考え方は公表している」
 
 野田首相は7月25日の参院社会保障・税一体改革特別委員会でこう述べ、河野談話を踏襲し、折に触れて海外に発信しているとの認識を表明した。
 
 だが、その河野談話は極めて恣意(しい)的でいいかげんなものだ。よりどころは、韓国における元慰安婦女性16人からの聞き取り調査(内容は非公開)だけなのである。
 
 日本軍・官憲が強制的に女性を集めたことを示す行政文書などの資料は、一切ない。談話作成にかかわった石原信雄元官房副長官は産経新聞の2度にわたるインタビューで、こう証言している。
 
 「国外、国内、ワシントンの公文書館も調べたし、沖縄の図書館にも行って調べた。関係省庁、厚生省、警察庁、防衛庁とか本当に八方手をつくして調べた。政府の意思として女性を強制的に集めて慰安婦にするようなことを裏付けるデータも出てこなかった」
 
 「あるものすべてを出し、確認した。(河野談話作成のため)できれば(強制を示す)文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない」
 
 にもかかわらず、「強制性」を認定したのは強硬な態度をとる韓国への配慮からだった。当時の日本政府に「強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」(石原氏)からである。
 
この記事がなにを言っているかというと、要するに被害者側の証言はあったが加害者側の証言や文書がなかったので無罪だ(有罪ではない)と言っているのです。
こんな論理では、大津市イジメ事件はなかったことになってしまいます(大津市イジメ事件では被害者の証言すらなかった)
謝罪拒否派の総本山である産経新聞にしてこのお粗末さです。
 
このことを踏まえると、橋下市長が韓国に対して「証拠を出してもらいたい」と言うことのおかしさが明らかになるはずです。韓国側は被害者の証言を出しており、出ていないのは日本側の加害者の証言や文書です。日本側の加害者の証言や文書を韓国側に出せというのはまったくの筋違いです。
 
慰安婦問題がなぜこんなにおかしなことになるかというと、強者と弱者の関係が見えていないからです。
まず日本が強者で、韓国が弱者という関係で日韓併合が行われ、形としては同じ国になっても日本人が強者で、韓国人が弱者という関係があります。そして、軍や軍に使われる業者が強者で、民間人が弱者という関係もあります。さらに、男性が強者で、女性が弱者という関係もありますし、女性の中でも売春婦はもっとも低く見られる立場です。
 
こうした関係を考えると、元従軍慰安婦という人が名乗り出て証言をしたのはかなり驚異的なことです。この証言を、一部の人の証言は一貫性がないとか、こんな悲惨な体験をしたのに公的な場に出て証言しないのはおかしいとかいって否定するのが謝罪拒否派の人々です。
橋下市長が本気でこの問題に取り組むなら、韓国に行って、元従軍慰安婦の人に対して、「あなたはうそつきだ。お金目当てか売名行為だろう」と言わなければなりませんが、橋下市長にそんな勇気があるでしょうか。
あるいは、「軍が関与したのは事実だが、業者がやったことについては謝罪しない」と言うのかもしれませんが、それは多くの日本人の考えとは違うと思います。
 
レイプもイジメも慰安婦問題も、強者と弱者の関係から生まれた悲惨な出来事です。
権力関係がはっきり見える人には、悲惨な出来事が正しくとらえられるはずです。

複雑な問題も掘り下げていけば単純になり、まったく別に見えた問題も根っこは同じだったということがよくあります。最近のニュースからそういうものを取り上げてみましょう。
まずはアメリカ下院議員のレイプ発言です。これはアメリカで大統領選に影響を与えるほどの騒ぎになっているそうです。
 
「まっとうなレイプなら妊娠しない」、米共和党議員の発言に非難の嵐
820 AFP11月の上院議員選挙に立候補している米共和党の現職下院議員が、「まっとうなレイプ」の場合には妊娠することはほとんどないと発言し、猛烈な批判が巻き起こっている。
 
 トッド・エイキン(Todd Akin)下院議員(ミズーリ州)は、KTVIテレビのインタビュー番組に出演した際、レイプによる妊娠も含めて中絶に全面的に反対だとの考えを語るにあたって「まっとうなレイプ」に対しては女性の体が生物学的な反応を示すため、暴行された女性が妊娠することはほとんどないと主張した。
 
「まず、私が医師たちから聞いて理解している範囲では、(レイプによる妊娠は)非常にまれだ。まっとうなレイプであれば、女性の体にはそれをまるごと拒絶しようとする。そのための仕組みが幾つもあるのだ」(エイキン氏)
 
 さらに、仮に暴行された女性が妊娠した場合については、「これ(拒絶反応)が正しく機能しなかったか何かしたのだと仮定しよう。そのときには処罰が必要だ。だが、処罰はレイプ犯に科されるべきであって、胎児を攻撃するものであってはならない」とも主張した。
 
 この発言を受け、共和党大統領候補のミット・ロムニー(Mitt Romney)氏と副大統領候補のポール・ライアン(Paul Ryan)氏の選挙陣営は直ちに声明を発表。「ロムニー、ライアンの両氏は、エイキン氏の見解に同意しない。両氏による政権はレイプ被害者の中絶には反対しない」と表明し、エイキン氏と距離を置いた。
 
 エイキン氏はその後、「失言だった」と述べたが、中絶反対の立場には変わりないと語っている。(c)AFP
 
どうやらアメリカには、女性が真に拒絶すれば、レイプされても妊娠しないという俗説があるようです。これは逆にいうと、女性がレイプされて妊娠した場合は、実は拒絶していない、つまり性的快感を覚えていたということになります。レイプされて妊娠するケースはかなりありますから、大抵の女性はレイプされて喜んでいるということなのでしょう(エイキン議員は「処罰が必要」という言葉をおかしな文脈で使っています。議員の本音は、レイプされて感じる女性のほうを処罰したいのかもしれません)
もちろんこれは男の勝手な妄想ですから、非難されて当然です。
 
しかし、日本にも同じような考えはあります。女性はみんなレイプ願望を持っているとか、レイプされて最初は拒んでいても、そのうち感じてしまうとかです。AVなどでは、「レイプされて感じてしまう女性」はむしろ定番です。
 
こうした妄想が広がってしまうのは、女性の立場が弱くて、女性の声が社会的な広がりを持たないからです。レイプされた女性が警察に訴え出ると、警察司法はほとんど男の世界ですから、逆に訴え出た女性のほうが傷ついてしまうということがあります(セカンド・レイプ)
私が若いころは、ハンカチ一枚を女性の尻に敷けば裁判ではレイプにならないという俗説がありました。これなども実際にそういう判例があったのかもしれません(ハンカチ一枚だけですべて無罪になるはずはないですが)。日本ではレイプは親告罪ですから、レイプしても罪に問われないことが多く、それも「女性はレイプを望んでいる」といった妄想を拡大させたものと思われます。
 
これはストーカー被害にあっている女性がストーカーに対してきっぱりと拒絶しないためにストーカーの妄想が拡大してしまうのに似ています。もちろん女性がきっぱりと拒絶しないのは、それをするとストーカーが逆上してしまうのではないかと恐れるからです。
 
 
弱者がほんとうのことを言えないために、強者が勝手な思い込みをするというのは、大津市イジメ事件を初めとする多くのイジメ事件でも共通しています。
イジメの被害者はほとんどの場合、イジメられていることを周りに訴えません。訴えても教師も親も同級生も助けてくれないと思うからでしょうし、訴えるとさらにひどいイジメにあうことを恐れるからでしょう。
この背景には、イジメ加害者が強者で、イジメ被害者は弱者であるという関係があり、さらには親や教師が強者で、子どもは弱者であるという関係があります。この関係が見えない人間にはイジメそのものが見えないことになってしまいます。たとえば大津市イジメ事件では、担任が2度にわたって同級生からイジメがあるとの報告を受け、イジメられている生徒に直接聞いたら、イジメではない、遊んでいただけと言われ、もちろんイジメ加害者がイジメを認めるわけもなく、そのため担任はイジメではないと判断したわけです。
 
大津市イジメ事件はようやく表面化しましたが、今も教師が強者として支配する学校ではイジメと認知されないイジメが多数あることでしょう。
 
(長文のために、「レイプ・イジメ・慰安婦(後編)」に続きます)  

日本政府は韓国政府に対して、竹島の領有権問題を国際司法裁判所に共同で提訴するように求めています。ということは、中国政府が尖閣諸島の領有権問題を国際司法裁判所に提訴するよう求めてきたら、日本政府は受けるのでしょうか。
こんなことを書くと、「竹島と尖閣はぜんぜん違うだろ!」などと怒ってくる人が出てきそうです。
週刊文春と週刊新潮の見出しを見ると、激しい煽り文句が並んでいます。
 
「『野田総理』尖閣に立つべし」
「馬鹿の一つ覚え『大人の対応』で日本外交は負け続けた」
「驕れる韓国・中国をしめ上げろ!」
「経済制裁発動で中国韓国を“兵糧攻め”にせよ」
 
領土問題は週刊誌にとって優良コンテンツであるようです。
しかし、こんなことで頭に血をのぼらせても、興奮するだけ損というものです。日本がなにをやっても、中国が「尖閣は諦めました」とか韓国が「独島は差し上げます」とか言うわけがありません。
石原慎太郎都知事は、都が尖閣の土地を購入すれば中国が領有権を諦めるとでも思ったのでしょうか。
 
将棋の世界では初心者に“3手の読み”ということを教えます。自分が次にどう指すかを考えるだけでなく、自分の手に対して相手がどう指すかを考え、それに対する自分の手まで考えなさいということです。初心者というのは往々にして相手の立場に立って考えることができないので、それを戒める教えです。“3手の読み”ができれば、あとは経験を積むうちに10手でも100手でも読めるようになるというわけです。
 
石原知事を初め日本人の外交感覚は“3手の読み”以前の段階にあるようです。
 
ともかく、尖閣や竹島で興奮するエネルギーと時間があるのなら、ほかのことに振り向けるべきです。
というわけで、ここでは領土問題でヒートアップした頭をクールダウンさせることを考えましょう。
有識者や新聞の論説委員なども「冷静な対応」を呼びかけていますが、「冷静になれ」と言われても冷静になれるものではありません。それなりのやり方が必要です。
 
 
人間は平原において集団で狩りをするサルです。狩猟採集生活をしていたころ、人間は50人から250人くらいまでの群れをつくっていたと考えられ、群れ単位でなわばりを維持していました。なわばりの維持のために群れと群れの闘争も当然ありました。
現代人もそのころの人間と生物学的にはほとんど変わりません。ある生物学者は「現代人はラップトップを持った原始人だ」と表現しています。ですから、なわばりのために闘う本能は同じように持っているはずです。
 
なわばりの大きさは、狩猟の単位から戦争の単位となり、今は国家が戦争の単位です。
現在、尖閣や竹島の問題で頭に血がのぼるのは、基本的にはその本能のゆえです。
たいていの人は、人間は動物よりも上等だと思っています。自分の感情が動物的本能に基づくものだと思ったら、その感情もおのずと冷めるのではないでしょうか。
 
また、人間は序列を持つサルです。序列によって狩猟の連携が決まり、獲物の分配も序列によります。これはオオカミニに似ていると思われます。人間もオオカミも平原において集団で狩りをする動物です。ですから、人間は1万5000年以上も前にオオカミを飼い慣らして狩猟の手伝いをさせたのです。
人間は序列本能を持っているので、周りの人間との上下関係に敏感です。上司と部下、先輩と後輩の関係によって行動はまったく違ってきますし、初対面の相手とはどちらが格上かを素早く判断する能力を持っています(現実には名刺によって判断することが多いですが)
 
人間はまた、国家と国家の関係も序列本能によって判断すると思われます。
そのため日本人は、日本と中国との関係について、ひじょうに感情的になります。つまりこれまで日本人は中国を格下の国と思ってきたのですが、GDPで抜かれたころから中国が格上の国になってきました。国際社会もそう認識しているのですが、日本人としてはすぐに認識を切り替えることができず、なんとかして中国を格下の国と見なしたいという感情があるわけです。
そのため尖閣の問題についてもひじょうに感情的になってしまいます。
 
私の考えとしては、中国は日本よりも経済力はもちろん政治力外交力でも格上の国です。はっきりいって日本はぜんぜん太刀打ちできません。中国は民主主義国ではありませんが、10年単位で次の指導者を育成しており、毎年のように首相が変わる日本と政治力でまったく違いますし、国際社会での存在感も日本の比ではありません。日本人は「中国経済はもうすぐ崩壊する」などという幻想は捨てて、日本は中国の格下と認めてしまえば、尖閣問題についてもそれほど興奮することはなくなると思われます。
 
ちなみに韓国はまだまだ日本よりも格下です。
考えてみれば韓国という国は気の毒です。周りは中国、日本、アメリカ、ロシアという大国ばかりで、しかも自分は北朝鮮という荷物をかかえています。やたら他国の文化を韓国起源だと主張したりするのも、コンプレックスの裏返しでしょう。また、竹島問題や従軍慰安婦問題は、韓国が日本に対して優位に立てる数少いネタです。
そういうことを理解すれば、韓国に対してそれほど感情的になることもなくなると思われます。
 
日本において嫌韓や反韓を叫ぶ人は、もしかして韓国を日本と同等に近い国と見なしているのではないでしょうか。あるいは、日本という国をひじょうに卑下しているのかもしれません。
 
また、北朝鮮は日本よりも超格下の国ですが、核兵器を保有したという点では日本よりも優位で、しかもこの優位はあらゆることを凌駕するかもしれません。そのため、日本人は北朝鮮にどう対処していいかわからなくなっています。たとえば、8月29日から日朝協議が行われる予定で、拉致問題などの点からも日本にとっては重要な協議ですが、今のところ誰も話題にしません。
 
 ともかく、領土問題で興奮するのは動物的本能からきているのだと考えると、それだけである程度冷静になれますし、国と国の関係もよく見えてくるのではないでしょうか。

大津市イジメ事件について、私は自殺した少年の家庭環境の問題を一貫して重視してきましたが、家庭環境についての報道がほとんどありません。そうした中、朝日新聞が「笑顔の向こうは――大津・いじめ事件」と題して、3回の連載記事を掲載しました。とくに目新しい事実はないなと思っていたら、連載の最後に新事実がありました。
連載の最後の部分だけ引用します。
  
実はこのころ、担任は少年から「家族に厳しく叱られる」と電話で相談されていた。少年の父親からも「息子の金遣いが荒くなった」と相談があった。口座から引き出した金額は10万円を超え、父親が問い詰めると「ゲームソフトなどに使った」と答えたという。担任は「家庭生活に課題あり」「生活が不安定」ととらえ、気にかけていた。
一方で「いじめ」の言葉は宙に浮いた。少年が自殺するまで、どの大人も受け止められなかった。(朝日新聞8月19日朝刊)
 
自殺した少年が泣きながら担任に電話で相談していたという報道はありました。なんの相談かはわからなかったので、なんとなく同級生からのイジメのことを泣きながら相談したのに、担任は取り合わなかったのだという解釈がまかり通っていましたが、そうではなかったわけです。
父親から叱られることを担任に相談するのですから、少年は父親よりも担任のほうを信頼していたのかもしれません。
 
自殺の主因は、イジメよりも父親に叱られたことかもしれません。そうだとすると、父親が損害賠償を求めて学校や市を訴えているのはひじょうに妙なことになります。
今の制度は、親が子どもに対して間違ったことをするわけがないという前提に立っています。「親の恩は山よりも高く海よりも深い」とか「親、親たらずとも、子、子たれ」という封建道徳のままです。子どもの立場から親を訴える制度をつくるべきだと思います。
 
それはともかく、子どもが自殺したら、親の責任が大きいという当たり前のことがもっと広く認識される必要があります。
 
 
ところで、私は今回のイジメ事件について、マスコミの報道や世間の声があまりにも一方的に市や学校を非難することに危ういものを感じていました。私が学校でのイジメよりも家庭の問題が大きいのではないかと主張したのは、世の中の偏りを中和する方向に行ったほうがいいと思ったこともひとつの理由です。
で、大津市の澤村憲次教育長が19歳の男子大学生に襲われてケガをするという事件が起きて、懸念が現実になってしまいました。
学校や市教委を非難するのは、イジメをなくそうという建設的なものではなくて、誰かに「悪」のレッテルを張って、そいつをイジメたいという“イジメの連鎖”にすぎません。その結果として澤村教育長襲撃事件やその他の脅迫事件が起きたのです。
学校や市教委を非難している人は、自分がしていることの意味を考え直す必要があります。
 
 
それにしても、大津市のイジメ事件に関連して、有名人や一般人で自分もイジメを体験したと告白する人が実にたくさんいて、子どもの世界にイジメがこれほど広がっていたのかと驚きました。私の若いころはこれほどのことはありませんでした。子どもの境遇はどんどん悪くなっているようです。
 
子どもの世界のイジメの根本原因は、家庭や学校が子どもに対して抑圧的であることにあります。こうした世の中のあり方を私は「子ども差別」と呼んでいます。
 
人間は生まれながらに少し利己的です。利己的なおとなと利己的な子どもが対すると、おとなの利己主義が通ってしまいます。世代を経るうちに、文化の中におとなの利己主義がどんどん蓄積されていき、「子ども差別」社会が成立しました。教育やしつけも「子ども差別」の一環です。
しかし、おとなたちは「子ども差別」の存在を認めようとしません。そのため、イジメの原因をほかに求めることになります。いちばん一般的なのが、イジメの原因は個々の子どもの心(自由意志)にあるという考え方です。こう考えると、周りのものはすべて免罪されるので好都合です。あと、日教組とか大津市教委とかテレビ番組とかケータイとかゲームとか、その都度適当な原因がでっちあげられます。
 
たとえば奴隷制社会において、奴隷の間にイジメが起きたとします。対策としては、奴隷の過重な労働を軽減し、衣食住の生活環境を改善することですし、より根本的には奴隷制度を廃止することです。しかし、奴隷の主人たちはそんなことはしたくないので、環境はそのままにして、イジメをした奴隷が悪いとして罰したり、別の部屋に移したりという対策を取ります。
現在行われているイジメ対策や、有識者が主張するイジメ対策も同じです。学校や家庭のあり方はそのままにして、子どもの心ばかりを問題にしています。転校すればいいとか、学校に行かなくてもいいとか、警察力で対応するべきだとかいう意見も、学校と家庭のあり方を不問にしていることでは同じです。
 
家庭のあり方を変えるのは簡単ではありませんが、学校を楽しくのびのびと学べる場にすることは、少しずつでもやっていくことができます。
 
学校改革で私がいちばん重要だと思うのは、生徒が教師を評価する制度を取り入れることです(一部の私立学校ではすでに行われています)
現在、教育改革は逆のほうに行っています。つまり内申書重視ということで、教師が生徒を評価することが強まっているのです。私の考えでは、どんどんイジメがひどくなってきているのは、教師の権力が強まり、生徒が抑圧されてきているからです。
 
ラーメン屋であれ自動車会社であれ、顧客に評価されなければ商売は成り立ちません。ところが、教師という商売は、まったく生徒から評価されない授業をしていても成り立ちます。イジメられている生徒を無視しても同じです。ですから、生徒が教師を評価する制度の導入は当たり前のことです。
ところが、現在は校長や教頭が教師を評価することが強化されています。これではベクトルが逆です。
 
学校でのイジメをどう見るかということだけで、その人の人間観や社会観のすべてが試されます。そういう意味で、大津市イジメ事件は私たちにいろいろなことを考えさせてくれます。

尖閣諸島に上陸した香港の活動家らは強制送還ということになりました。竹島問題が同時進行していてわかりにくいのですが、今回の尖閣の騒動については、石原慎太郎都知事が都による土地購入を表明したことがきっかけになったといえるでしょう。
 
2010年、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、中国人船長を逮捕したことがきっかけで、日中間に大きな波風が立ちましたが、それがなんとか沈静化したところに石原知事の土地購入表明があったわけです。私は個人の所有を都の所有に移すことになんの意味があるのかと思っていましたが、石原知事の方針に賛同する声が意外に多く、都が開いた寄付金を募る口座には多くの金額が集まりました。そうした世論の動向に影響されたのか、野田政権は尖閣諸島を国が購入する方針を表明し、問題が拡大しました。
 
石原知事はタカ派政治家ですが、日本に石原知事が望むようなタカ派外交を展開する能力はありません。石原知事が国会議員時代にもそんなことはできませんでした。だから、「去勢された宦官のような国家に成り果てた」と日本に愛想をつかした演説をして議員辞職をしたのです。
 
日本にタカ派外交つまり毅然とした外交ができないのは、ひとつには日本が手痛い敗戦を経験して、そのトラウマから脱していないからであり、もうひとつは当然のことながら、タカ派外交の裏付けとなる軍事力に限界があるからです。
尖閣諸島はちっぽけな島ですが、たとえちっぽけな島であっても、双方が意地を張り合うと、イギリスとアルゼンチンが戦ったフォークランド紛争(双方の死傷者合計は約2700)のような事態になるかもしれず、それだけの覚悟が必要です。
 
日本人のほとんどは敗戦の経験から、もう戦争はこりごりと考えています。そのためいまだに憲法9条は多くの人から支持されています。
タカ派や右翼は憲法9条改正に賛成し、さまざまな勇ましい主張をしますが、同じ日本人なのですから、戦争へのマインドがそんなに違っているはずはありません。つまりタカ派もひと皮むけば、いわゆる平和勢力の人と同じようなものなのです。
 
冷戦時代は、戦争があるとすれば両陣営間のものですから、「巻き込まれる」心配をしていればよかったのですが、冷戦が終わると、国と国の戦争の可能性が出てきました。たとえば北朝鮮との戦争です。
2002年、北朝鮮が拉致事件を認めたことから日本人の反北朝鮮感情は一気に高まり、タカ派的言説があふれました。当時の安倍晋三官房長官の北朝鮮に対する強硬姿勢が人気を博し、小泉首相の後継者という立場を確立しました。
そして、2006年7月に北朝鮮が日本海に向けて数発のミサイル発射実験を行ったときには、タカ派の人たちは敵基地攻撃論を唱えました。つまり先制攻撃を正当化する理論です。このころが日本のタカ派の黄金時代だったでしょうか。
 
現在、北朝鮮に対する強硬論はほとんど聞かれません。拉致問題が風化したということはありますが、北朝鮮の日本に対する強硬な態度は以前とまったく変わっていませんし(というか、あなどるようになっています)、人工衛星搭載と称するミサイルを日本の方角へ向けて発射するなどもしています。
ミサイル発射のときは、日本は迎撃体制を取るなど大騒ぎでしたが、北朝鮮に対する攻撃論は出ませんでした。
なぜ日本のタカ派は北朝鮮に対する強硬論を唱えなくなったのでしょうか。
私が察するに、北朝鮮が200610月に核実験を行ったことが大きいと思います。2009年5月には2回目の核実験を行い、北朝鮮の核攻撃能力が現実のものになったと思われています。
つまり、北朝鮮が核を持ったとたんに、日本のタカ派は北朝鮮に対する“毅然とした態度”をなくしてしまったのです。これが日本のタカ派の実態です(日本人全体もそうです。ネットの掲示板にも北朝鮮のことはほとんど取り上げられません)
 
現在、竹島問題や歴史問題などで日韓の関係もひどく悪化しており、韓国に対する強硬な声があふれています。
しかし、これはタカ派的言説とは言えないと思います。というのは、韓国に対する強硬な意見というのは、政治的経済的文化的な面に限られていて、韓国に軍事的に対峙しろとか、軍事的に攻撃しろという声はないからです。
なぜないかというと、日本と韓国はそれぞれアメリカと軍事同盟を結んでおり、今年は日米韓の合同軍事演習までする関係だからです。日韓が軍事的に対立するというのはまったくありえないことです。
逆に言うと、韓国とは戦争にならないとわかっているからこそ、政治的経済的文化的な面で強硬なことをためらいなく言えるというわけです。ネットの掲示板にも反韓の書き込みがあふれています。
 
では、対中国ではどうかというと、中国の軍事力は北朝鮮の比でなく強力ですから、中国に軍事的に対峙することは考えられないはずですが、ただ、日本はアメリカと軍事同盟を結んでいるので、もしアメリカが日本のバックについてくれるとしたら、日本は中国に対して軍事的に互角以上の立場になります。
 
ここで、石原知事の考えが読めてきます。
石原知事が都による尖閣諸島購入を表明したのは、ワシントンでの講演の中でした。そのときは、なぜ日中間の問題をあのタイミングでアメリカで表明したのかよくわかりませんでしたが、実は尖閣諸島にはアメリカ軍の射爆撃場があります(30年以上使われていないそうですが)。つまり、石原知事はアメリカに対しては尖閣問題では日本につくしかないということをアピールし、中国に対しては尖閣問題では日本にはアメリカがついているのだということをアピールしたのです。
アメリカが尖閣問題で日本についてくれれば、石原知事は軍事面も含めて中国に対してタカ派ぶりを存分に発揮できるというわけです。
 
しかし、残念ながらアメリカは日本寄りの態度はとっていません。もしアメリカが日本を取るか中国を取るかという究極の選択を迫られたら、どう考えても大国中国のほうを取るでしょう。日中間の対立をアメリカを味方につけることで有利に運ぼうとするのはうまくいきません。そこは石原知事の誤算と思われます。
 
そのことは日本人のほとんどがわかっているので、対中国強硬論はあまり聞かれません。民主党政権の中国に対する弱腰を批判する声があるだけです。
これは海保の巡視船に衝突した中国人船長を逮捕したときも同じでした。日本の世論は、中国を非難するより、ビデオを公開しないとかいう理由で民主党政権を非難するほうに沸騰したのです。
 
北朝鮮は継戦能力はほぼゼロですから、核を持たないときは日本に一時的にミサイルを打ち込むことしかできません(あと、特殊部隊を上陸させてなにかするぐらいです)。日本のタカ派が元気なのは、そんな北朝鮮を相手にしたときだけです。
日本人はタカ派も含めて戦争の覚悟はまったくなく、したがって他国と軍事的に対峙する状況になるとどうしても弱腰になってしまいます。日本の外交はそれを前提にしてするしかありません。
 

尖閣や竹島や歴史問題などがこじれています。どうして日本の外交はうまくいかないのでしょうか。その原因はひと言でいうと「道徳教育の失敗」にあります。戦後教育が道徳教育をおろそかにしてきたことのツケが回ってきたのです。
 
戦後教育は権利ばかり教えて、義務を教えてきませんでした。その結果、権利ばかり主張する人間がふえ、日本外交は尖閣であれ竹島であれ北方領土であれ、領有権ばかりを主張するようになってしまったのです。
また、日本人は「おかげさまで」という感謝の心を失ってしまいました。日本が経済大国になれたのは日本製品を買ってくれた周りの国のおかげであることを忘れて、まるで自分一人の力でなれたかのようにふるまってきましたし、中には周りの国に「経済援助してやったのに」ということを言う人もいます。
「ごめんなさい」と素直に謝る気持ちも日本人はなくしてしまいました。そのために歴史問題についても素直に「ごめんなさい」と言うことができません。
こうしたことのために日本外交は行き詰ってしまったのです。
 
となると、日本外交立て直しの方策は明らかです。遅まきながら道徳教育をやり直すことです。文部科学省は日本政府の外交当局者と閣僚、国会議員を集めて道徳教育の講座を開き、権利ばかり主張しないこと、譲り合いの精神、素直に謝る心などを徹底的に教育するのです。そうすれば日本外交は道徳的になり、他国の信頼を得て、さまざまな外交懸案も解決していくでしょう。
 
 
以上の文章は戯文として読んでください。現実には道徳がこのように使われることはありません。
では、道徳はどのように使われるかというと、まったく逆に使われます。つまり、相手国に対する思いやりなど持たずに自国の利益だけを追求することが道徳的だとされるのです。
普通は、利己的にふるまうのは非道徳的なこととされます。
国の内と外ではまったく違ってしまうのが道徳です(なぜそうなるのかということはこのブログを読んでいればわかるはずです)
 
 
前回の『「イマジン」を超えて』というエントリーで、領有権の主張やナショナリズムは動物のなわばり本能からきているのだと述べました。今回はその補足です。
 
人間は基本的に本能に従って行動しますが、道徳に従っても行動します。つまり本能プラス道徳によって行動するわけです。
そのため、ナショナリズムは動物のなわばり本能よりも強力になっています。
なわばり本能だけなら、なわばりをめぐる闘争はそれほど深刻になりません。相手のなわばりを尊重することも本能の中に組み込まれていますし、深刻な闘争を回避することも本能に入っています。
しかし、人間の場合はそこに道徳が加わりますから、闘争は深刻化します。
 
たとえば、領有権をめぐる争いで、争いの深刻化を避けようとすると、必ず「弱腰」だという非難が起きます。さらには、「売国」「反日」という非難も浴びせられます。「少しでも譲ると相手は限りなく増長してくる」という論理も登場します。そのため相手に譲歩することも話し合いをすることもできなくなることがあります。
 
「弱腰」と非難することは、人間は臆病や卑怯であってはいけない、毅然として勇敢でなければいけないという道徳からきています。「売国」「反日」非難は、仲間を裏切ってはいけないという道徳からきています。つまり道徳のために国と国の争いは深刻化するのです。
深刻化の行き着く先は戦争です。
戦争が近づくほどに「弱腰」「売国」「反日」非難の声も高まります。
私は「道徳は戦争へと傾斜する坂道である」と考えています。私たちは少しでも気をゆるめると、戦争へと転がり落ちてしまいます。
 
国と国の争いを避けるには、まずこうした争いは動物の利己的な本能からきているのだということを理解することです。そして、「弱腰」非難などの道徳は利己的な本能の延長上にあるのだと理解することです。
 
私たちは一般に、本能をさげすみ、道徳を尊重します。しかし、両者は基本的に同じものなのです。
そのことを理解すれば、ナショナリズムからの脱却もやりやすくなるのではないかと思われます。

ロンドン・オリンピック閉会式は音楽中心の構成で、その最初の曲はジョン・レノンの「イマジン」でした。
「イマジン」はメロディこそ穏やかですが、その詞はなかなか過激です。ジョン・レノンが革命思想の持ち主であることをはっきりと示しています。
詞の中の重要な部分だけ抜粋してみます。
 
想像してごらん 天国なんて無いんだと
(中略)
想像してごらん 国なんて無いんだと
(中略)
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
(中略)
想像してごらん 何も所有しないって
 
全曲を聞きたい方はこちら。
YouTube「ジョン・レノン/ イマジン(日本語訳付き)」
 
宗教を否定して、国を否定して、どうやら私有財産まで否定しています。
とくに宗教を否定しているのは、欧米においてはかなり刺激的です。アメリカの保守派はほとんど聖書原理主義みたいなものですから、こんな歌は絶対認めるわけにはいきません。だから暗殺されたとは言いませんが。
 
ジョン・レノンが革命思想家であることは、「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を見るともっとよくわかります。これは完全な革命歌です。
私はあるとき、テレビのテロップで「Power to the people」を「人々に力を」と訳しているのを見て、情けなく思いました。これは当然「人民に権力を」と訳さなければなりません。
もっとも、それではあまりにも政治的で、歌にはふさわしくないかもしれません。次に紹介するのは「民衆に力を」と訳したものですが、これを見ても革命歌であることはよくわかるはずです。
 
「ジョン・レノンのパワートゥーザピープルの和訳と歌詞について」
 
 
普通、革命思想というものは、貧富の差や差別など社会の矛盾を見つめるところから考え出されます。空想的社会主義などがそうです。
しかし、ジョン・レノンの場合は違います。ジョン・レノンは生まれてすぐ両親から捨てられ、おば夫婦のもとで育ちました。父親が引き取りにきて、父親と数週間いっしょに暮らしたことがありますが、今度は母親が引き取りにきます。しかし、また母親に捨てられ、結局おば夫婦のもとに戻ります。つまりジョン・レノンは親から二度捨てられたのです。ジョン・レノンはこの体験を見つめることから愛についての考察を深め、それが革命思想につながったのです。
 
アメリカの保守派がもっとも重視するのが「家族の価値」です。実際の家族には、暴力的であったり、抑圧的であったり、互いに無関心であったりという数々の問題がありますが(すべて根っこにあるのは愛情不足です)、アメリカの保守派はそうした現実を見ようとせず、すべてを「家族の価値」として塗り込めてしまいます(日本の保守派も同じです)
しかし、ジョン・レノンは家族の中に愛と愛でないものがあることを見抜いて、きっちり仕分けすることができるのです。
 
ジョン・レノンにおいては、戦争も貧富の差もみな愛の不足の問題ととらえられ、愛と比べると国も宗教も財産もゴミのように捨て去ってよいものなのでしょう。
 
 
ともかく、オリンピック閉会式で「イマジン」が歌われる時代になりましたが、現実には国も戦争も宗教も貧富の差もなくなりません。
 
とりわけ韓国の李明博大統領は8月10日の竹島上陸に続いて、14日、天皇陛下の訪韓について「『痛惜の念』などという単語一つを言いに来るのなら、必要ない」と言うなど、日本について数々の暴言を吐きました。李明博大統領は「国なんてないんだ」と想像することのできない人なのでしょう。
そして、日本でもこの言葉に反応して韓国に暴言を吐いている人たちがいますが、やはり李明博大統領と同様に「国なんてないんだ」と想像することのできない人たちです。
 
しかし、こういう現実を見ると、ジョン・レノンのように音楽の力を使って想像力に訴えかけてもなかなかうまくいかないということがわかります。
では、どうすればいいかというと、私が考えるのは科学の力を使うことです。
 
早い話が人間は動物ですから、基本的な部分は生物学的に把握できます。
たとえば竹島、尖閣などの領土問題が深刻化するのは、動物のなわばり本能があるからです。ナショナリズムもなわばり本能に基礎があるので、なかなか克服することができません。
狩猟採集の時代には、なわばりを守り広げることが生きることに直結していました。それは文明が進歩しても基本的に同じで、帝国主義の時代には、植民地をふやすことが即国力を高めることでした。
しかし、グローバル経済の時代になると、領土の多寡は大した問題ではなくなります。日本のように領土の少ない国でも経済大国になることができますし、シンガポールのような小さい国でも政治的経済的に重きをなすことができます。
今では、領土争いをすることよりも貿易や投資をふやすことのほうがはるかに重要で、国益に直結しています。
 
領土争いやナショナリズムは動物のなわばり本能からきており、今では時代遅れになっているということを理解すれば、それを克服する道も見えてくるはずです。

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