いわゆる従軍慰安婦問題がまだ波紋を広げています。今までは思想的に偏った人が言っているだけだと思っていましたが、読売新聞の社説までが河野談話の見直しを主張しました。
河野談話 「負の遺産」の見直しは当然だ(8月29日付・読売社説)
しかし、読んでみてもぜんぜん説得力がありません。書いている本人が無理筋を言っていることがわかっているからでしょう。慰安婦問題の火をつけたのは朝日新聞なので、朝日新聞に対するいやがらせが主眼なのでしょうか。
慰安婦問題というのは歴史上の事実がもとになっているので、事実そのものを探求しなければ論じられないかと思っていましたが、少し調べてみると、実際の議論はそういうこととは別に行われていることがわかりました。要するに謝罪するかしないかという問題なのです。これは歴史の事実とはまた違って(もちろん歴史の事実を踏まえていなければならないのですが)、むしろ法学や倫理学、さらには心理学やフェミニズムの問題です。
事実を前にしたとき、私たちは必ずしもそれをありのままに見るわけではありません。自分に都合の悪い事実には目をふさぎ、自分に都合のよい“あやしい事実”に飛びついたりします。たとえばあまりにも欲の皮が突っ張った人間は「半年で元金が2倍になりますよ」という絶対にありえない話を信じて、詐欺に引っかかります。
慰安婦問題でも、どうしても謝罪したくない人は、不都合な事実にいろいろと難癖をつけ、好都合な事実にはいっさい検証なしに飛びついてしまい、その結果偏った“事実”が頭に入ってしまい、判断も間違ってしまうことになります。
たとえば、韓国では元慰安婦という人が多数名乗り出て証言しました。河野談話も元慰安婦16人からの聞き取りを踏まえています。
最初に実名で名乗り出たのが金学順という人です。この人の証言について、いろいろな間違いがあるという指摘があります。それによって金学順の証言は信用ならないとし、さらにはほかの人の証言にもおかしなところがあるとし、それで証言のすべてが信用ならないという論法で「強制連行はなかった」と主張する人たちがいます。
しかし、その人たちは一方で、たとえば済州島で女性を強制連行したという吉田清二の告白に対して、「済州島新聞」の許栄善記者が否定的な記事を書き、郷土史家の金奉玉が事実でないことを報告したということですが、そのことは検証なしに受け入れています。許栄善記者の記事や郷土史家の金奉玉の報告はそんなに信用できるものでしょうか。いや、そもそもこうしたことを日本に伝えたのは日本人ジャーナリストと思われますが、この日本人ジャーナリストは信用できるのでしょうか。右翼ジャーナリストが右翼メディアに発表したものでしょうから、むしろ限りなくあやしい話だと思われます(あと、秦郁彦氏も吉田証言を否定する文章を「正論」に発表していますが、秦郁彦氏は南京事件の死者数をきわめて少なく数える人です)。
つまり、あっちの証言はいろいろ難癖をつけて信用しないが、こっちの証言は無条件で信用するということで、まったくのダブルスタンダードなのです。
ダブルスタンダードになる理由は単純です。日本人は当然ながら、日本人が悪いことをしたとは思いたくないのです。そのため「日本人が悪いことをした」という情報はいろいろ難癖をつけて否定し、「日本人が悪いことをしたというのは間違いだ」という情報には飛びついてしまうというわけです。
これはつまり、ごまかしてでも自分をよく見せたいという利己主義です。
普通はあまりこういうことをすると、周りから否定されてしまいます。しかし、慰安婦問題を日本人同士が論じると、これを否定する人がほとんどいないので、議論がどんどん利己的な方向に行ってしまいます。つまりデフレ・スパイラルならぬ利己主義スパイラルに陥ってしまうのです。
また、慰安婦問題を論じる人のほとんどは男性です。男性同士が論じると、ここでもやはり利己主義スパイラルに陥ってしまいます。
つまり日本人と男性という利己主義の二階建てで利己主義スパイラルに陥っているので、これを客観的に見ると、聞くに耐えない議論になってしまっています。
読売新聞の社説を読んでもわかるように、軍や官憲による強制連行を示す日本側の資料がないから、慰安婦に謝罪した河野談話を見直せという主張が現在(日本側で)行われているわけです。
これを国際社会から見ると、「加害者側の資料がないから被害者に謝罪しないと加害者側が言っている」ということになります。
つけ加えると、日本では軍や官憲と民間業者を区別する議論が行われていますが、これも国際社会から見たら、まったく意味のない議論です。慰安所を運営する業者は軍の指示を受け、かつ官憲の監視下で業務を行なっていたからです。
慰安婦問題は、右翼と左翼が対立している問題ではありません。
利己主義と非利己主義が対立している問題なのです。