村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年09月

自民党新総裁に選ばれた安倍晋三氏の顔をテレビで見ていて、私は安倍氏が嫌いであることを改めて認識しました。安倍氏の顔と比べると石破茂氏の顔のほうがよほどましで、石破氏がキモカワイイといわれるのも納得です。
政治家の顔の好き嫌いなんかどうでもいいではないかと思われるかもしれませんが、どうせ誰がやっても同じようなものですから、せめて不愉快でない顔の人に総理大臣をやってほしいものです。
 
自民党から民主党に政権交代しても、政治はほとんどなにもかわらないことがわかりました。民主党政権は最初、「コンクリートから人へ」と言っていましたが、結局「人からコンクリートへ」と戻ってしまいました。脱原発も腰砕けになっていますし、沖縄の基地問題もなにも変わりません。オスプレイ配備にまつわる動きを見ていると、自民党政権時代そのままです。
なぜ変わらないかというと、民主党が目指した政治主導が官僚主導に負けてしまったからです。自民党政権は官僚主導の上に乗っていましたから、今の民主党政権は昔の自民党政権と同じです。
 
政権交代が起っても大して変わらないのですから、首相が変わってもなおさら変わらない理屈です(小泉政権時代は多少変わりましたが、小泉政権はあくまで官僚のいやがることは避けていました)
ですから、自民党総裁が安倍氏になっても石破氏になっても、どちらでもいいようなものです(もっとも、安倍氏が自民党総裁になると選挙で自民党と日本維新の会がバッティングしそうで、選挙情勢は変わりそうです)
 
とはいいながら、テレビで安倍氏の顔を見ていると、どうしようもなく不愉快になってしまいます。なぜ不愉快になるかと考えてみると、「前に失敗したのになんでこんなに得意そうな顔をしているんだ」という思いがあるからだと思います。あれだけの失敗をした人というのは、もう少し謹慎しているか、出てくるにしても申し訳なさそうにして出てきてほしいものです。
 
とはいえ、この言い方では単なる感情論ですから、もうちょっと論理的に攻めてみたいと思います。
 
安倍氏は5年前の失敗についてどう考えているのでしょうか。「みなさんにご迷惑をおかけした」という形での謝罪はしていますが、私の知る限り反省の言葉は述べていません。
安倍氏は、「5年前の失敗は潰瘍性大腸炎という難病のせいだったが、今はアサコールという特効薬ができたのでもう大丈夫だ」という態度であるようです。
潰瘍性大腸炎というのは、厚生省指定の原因不明の難病ということです。「原因不明の難病」というと、たいへんな病気のようなイメージになります。そのため、フジテレビの「とくダネ!」という番組で「お腹が痛くて辞めちゃった」「子どもみたいだね」というコメントがあったことに対して、人の病気をからかうのは許せない、人権侵害だという声も上がっています。
 
しかし、潰瘍性大腸炎というのは、症状の出現にはストレスが大きく関わっています。ストレスが強くなると症状が強く出て、ストレスがなくなると症状が消えるということを繰り返すのです。ですから、心因性という言葉を使うのは不適切かもしれませんが、病気を身体の要素と心の要素に分けると、心の要素がきわめて大きい病気なのです。
 
安倍氏は日本消化器学会発行の「消化器のひろば」において専門医と対談して、それがウェブ上に公開されています。
この対談を読むと、ストレスの要素が強い病気だということがわかりますが、安倍氏は自分の病気を心の面からとらえるということをまったくしていません。一部を引用してみます。
 
安倍 なぜか2回目(1996年)の選挙のほうで大変つらい思いをしました。たびたび強い便意が起こるのですが、選挙カーからおりるわけにはいかないので脂汗をかいて我慢していました。本当に苦しかったですね。最大の危機は1998年、自民党国会対策副委員長を務めていた時でした。点滴だけの生活が続き、体重は65kg から53kg に減りました。そこで政治家の進退を賭けて慶應病院へ3 ヵ月入院しました。政治家は志を遂げるために自分の病気は徹底して秘匿しなければなりません。病気は大きなマイナスです。家内の昭恵は「政治家なんか辞めてください」と涙ながらに訴えるし、身近な人は病気を公表して政界からの引退を勧めましたが、私は治療の結果で決めようと考えていました。腸の全摘手術も検討されました。この時、ペンタサの注腸療法がよく効いて日常生活にほとんど問題がなくなりました。ここで政治家への道へ邁進することを決断しました。
 
私がひとつ引っかかるのは、なぜか2回目の選挙のほうでたいへんつらい思いをしたというところです。1回目はなにも考えず無我夢中だったが、2回目は国会議員を1期勤めたために落選するのが怖くなったというような心理があったのかと推測されますが、安倍氏自身はそれについてはなにも触れていません。このときに自分の心理を分析し、自分は早くも守りに入っているのではないかといった反省があれば、自分の心を強くすることができたのではないかと思います。
 
最大の問題は、このとき「ペンタサの注腸療法」なるものがよく効いたので政治家としてやっていけると判断したわけですが、この判断は結果的に間違っていたということについての反省がないことです。
今、安倍氏は「アサコール」という新薬が効いたからもう大丈夫と判断しているようですが、この判断は前回とどこが違うのでしょうか。
反省のない人は同じ失敗を繰り返すに違いありません。
 
反省ができないのは安倍氏の生き方全般に現れているような気がします。
たとえば、安倍氏は首相在任中に、従軍慰安婦問題について「狭義の強制性はなかった」と発言して、韓国はもとよりアメリカからも批判の声が上がったため、結局海外メディアのインタビューで「強制性」を認め、河野談話見直しの持論も封じ込めました。
しかし、今回の自民党総裁選でまたしても河野談話の見直しを言っています。野党の一議員なら言えても、総理大臣としては言えないということを学ぱなかったのでしょうか。
そもそも従軍慰安婦問題について謝罪したくない人というのは反省欠如体質の人といえるでしょう。
 
首相当時、「お友だち内閣」という批判を浴びました。これは心の弱さから周りを気心の知れた人間で固めようとしたからではないかと推測されますが、本人がそうした反省を語ることはありません。反省がないと、また同じ失敗を繰り返しそうです。
 
私は反省しない人間の顔を見るのが嫌いです。

週刊文春10月4日号が「大沢樹生・喜多嶋舞長男(15)が虐待告白『僕はパパに殺されます』」という記事を載せています。子どもが親の虐待を告発するというのはひじょうに珍しいケースなので気になり、コンビニで立ち読みしましたが、結局買ってしまいました。
というのは、私は少し前に「息子はダメ人間」という記事で、「赤ん坊のときはどうだったか」という発想はいろんなときに役に立つと書きましたが、これはちょうどそのよい例と思えたからです。
「息子はダメ人間」
 
大沢樹生さんは元「光GENJI」のメンバーで男優、喜多嶋舞さんは女優ですが、私の世代にとっては喜多嶋舞さんというと、当時のスーパーアイドルだった内藤洋子さんの娘さんというイメージが強いです。
2人は1996年に結婚し、翌年に長男・文也君(文春記事における仮名)が生まれます。2人は2005年に離婚しますが、親権は喜多嶋舞さんのほうに、そして文也君は大沢樹生さんと同居するという形になりました。
親権者と同居者が別になったために、文也君はあまり同居者である親に依存することができず、それが親の虐待を告発するという異例の行動を可能にしたのかもしれません。また、文也君は小さいときに警察や児童相談所と関わったことがあり、祖母との関わりもあり、それも親への依存をへらすことになったのかもしれません。現在は中学時代の同級生の自宅にかくまわれているということで、そういうかくまってくれる場所があることも大きいでしょう。
 
文春の記事によると、両親が離婚する前から文也君は喜多嶋舞さんに虐待されていたということです。ウェブ版がないので、手で打ち込んで引用します。
 
僕の記憶にあるのは、家族三人で暮らした目黒の家なんですけど、この頃からママにボコボコにされる毎日を過ごしていました。ママはアメリカ育ちで英語がペラペラなので、僕にもそうなって欲しかったんでしょう。保育園から戻るとまず英語のレッスンをしていました。AからZまでアルファベットが並んだ教材があって、押すとappleとかcatとかお手本の声が流れるやつ。だけど、僕が単語をうまく発音出来ないと、思いっきりビンタされるんです。ママの表情を見ていれば、うまく言えたかどうかわかるので、ビクビクして顔色を窺っていました。
保育園のお弁当のことでもいつも殴られていました。「お弁当を残しちゃだめよ」と言われていたのに残してしまう僕も悪いのかな、と思っていたんですけど、蓋を開けて食べ残しを見つけると、弁当箱ごと僕の頭に叩きつけるようなことはしょっちゅうでした。ケチャップまみれになったり、お米まみれになって泣いていたのを覚えています。
(中略)
小学校に入ってから“風呂”が始まりました。水を張った浴槽に向かって立たされて、肩を浴槽の縁に押しつけながら、後頭部の髪を掴んで水に沈めるんです。息が苦しくて、「もダメ、死ぬ」という時に、プロレスのタップみたいなことをママにするんですけど、そうすると一瞬だけ上げてくれるんです。でも息が出来るのは一回だけで、またすぐ水に浸けられてしまうんです。それを何回も繰り返すんですけど、終わったころには動けないくらいぐったりしちゃうんです。ママは満足するのか、何もなかったかのようにキッチンに戻ったりするんですけど、僕はその場でいつまでも泣いていました。
怒り出すとすぐに包丁を僕の喉元に突きつけたりするので、だんだん僕もおかしくなってきて、小学校一年生の時には僕の面倒を見に来てくれていた、お父さん方のお祖母ちゃんに叱られただけで、包丁を持ち出したこともありました。
(中略)
離婚の本当の理由はわかりませんけど、ママが出て行った日に何が起きたかははっきりと覚えています。あの日、パパは一階のリビングのソファーで寝ていました。ママは何かを理由に僕のことを怒り終わると、寝ているパパのところに連れていき、「パパにちゃんと謝りなさい」って言ったんです。
僕がパパを起こせないでいると、ハイヒールのヒールの部分で僕の頭を思いっきり殴ったんです。頭が切れて、周りが血だらけになりました。パパは僕の悲鳴で目を覚まし、二人が殴り合いのケンカになりました。ママがボコボコにされて「出ていくわ」という話になって、結局、その日のうちに出て行きました。
 
こうして2人は離婚し、文也君は大沢樹生さんと2人で暮らすようになりますが、今度は大沢樹生さんから虐待されるようになります。これについてもかなり詳しい描写がありますが、それは省略して、最後の場面だけ引用します。
 
そんな中で、先週日曜日、僕が家を出て行くことに決めたあの“事件”が起きました。居酒屋のバイトの帰り、門限に遅れて、家の鍵を開けるとパパが無言で蹴っ飛ばしてきたんです。有無を言わさず蹴られ、その後はパンチが十五分ぐらい続きました。「風呂に入れ」と言われたので言われたとおりにすると、今度はいきなり押さえつけられ、日本刀を喉に突きつけられました。パパはすごい恐ろしい顔で僕を睨み付け、「これ引いたら死ぬぞ。オイ、ナメてんじゃねえぞ。どんだけ俺たちを裏切ったら気が済むんだ」というと、さらに僕を殴りつけました。この時、僕は「ああ、もうこの家に僕の居場所はないんだな」とはっきりわかったのです。
翌朝、僕は家を出ました。
 
以上は、文也君が語ったことです(正確には文春の記者が聞き取って書いたことです)
もちろんほかの人にはほかの人の言い分がありますから、それも引用します。
以下は、大沢樹生さんと再婚相手の早苗夫人が文春の記者に取材されたときのやり取りです。
 
――文也君は大沢さんからも長年にわたり暴行を受けていると語っています。
「それはありません。中学に入ってからはほとんど手を上げていません。小突く程度はありますが、どこの親でもある程度の話です」
――大沢さんが文也君に包丁を突きつけたことは?
(早苗夫人)「私が彼(文也君)に包丁を突きつけられたんです。包丁はひっきりなしでした。最初は祖母にやっていました。『助けて』と声がして行くと、祖母に至近距離で包丁を突きつけて、『殺すぞ』と」
(大沢)「あの子は虚言癖があって、自分が加害者でも被害者にすり替えて話すんです。心療系のクリニックにも通わせています」
 
次は、祖母に取材したところの、祖母の言葉です。
 
文也君から包丁を突き付けられたことは「ああ、あれは幼稚園くらいのまだ物の分別が付く前のことです」とのことだった。
 
そして、喜多嶋舞さんも取材に応じて、次のように語りました。
 
――英語のレッスン中に殴ったことは?
「私が彼に勉強ごとを教えたということは一切ございません。英語の玩具自体も家になかったと思います」
――包丁を突きつけた?
「小二の頃、一度、家庭教師さんと祖母がいたとき、彼が包丁を出して暴れたというのを聞きました。また、他のときに祖母に包丁を突き付けたと祖母から聞きました」
――水をはった浴槽に顔を押し付けることは?
「彼ね、水泳が好きで一年生のころから一人でお風呂に入ってたんですよ。『見て見て、イルカだよ』とか言ってお風呂に潜ったりするのを見せてくれたりして、後は自分で身体を洗ったりしてたので、彼が浴槽にいるところに近寄ったこともないので、何なんだろうというのが正直な感想ですね」
――ハイヒールで殴ったことが離婚の原因では?
「そんなことしたら、すごいですよね。私が一番悲しいのは、本人がそう思い込んでしまっていること。どうしてこういうことを思うようになっちゃったのか」
 
まさに「藪の中」です。これがあんまりおもしろいので、長々と引用してしまいました。
 
文春の記事は虐待を強く疑わせるような結末になっていますが、虐待があったと断定しているわけではありません。
 
実際のところはどうなのでしょうか。「藪の中」だから、真実はわからないということですませてしまっていいのでしょうか。
 
問題は文也君の「虚言癖」です。文也君はほんとうに虚言癖なのでしょうか。
 
ここで「赤ん坊のときはどうだったのか」という発想が効いてきます。
「生まれつきの虚言癖」なんて聞いたことがありません。いったいどこの時点で虚言癖になったのでしょうか。
両親ともに虚言癖でないのに子どもが虚言癖になるということがあるのでしょうか。
そもそも文也君はなぜ嘘をつく必要があるのでしょうか。嘘をついてなにか利益があるのでしょうか。
一方、両親のほうは嘘をつくことで世間の批判をかわすことができます。
 
こう考えると、文也君はほんとうのことを言っていて、両親が嘘を言っているという結論になるはずです。
両親は文也君を虐待した上に、虚言癖という汚名まで着せたのです。
 
しかし、世の中には親による幼児虐待を隠蔽し、子どもが嘘をついているという結論に持っていきたい人がたくさんいます。
アメリカでは1980年代に、幼児期に親に虐待(とくに性的虐待)されたとして親を相手に賠償金を求めるという訴訟が相次ぎました。最初は訴えが認められていましたが、そのうち虐待を隠蔽したい人たちが基金をつくって訴えられた親を支援し、また心理カウンセラーが虐待された記憶をねつ造しているという本が書かれるなどして、敗訴が相次ぐようになり、現在ではこうした訴訟はなくなってしまいました。
 
大津市の中二男子生徒自殺事件において、もっぱら学校でのイジメが自殺の原因とされ、親が虐待していたのではないかという疑惑が完全に隠蔽されているのも同じ構図といえます。
 
韓国の元慰安婦の証言を嘘と決めつける人が多いのも同じです。
 
自民党新総裁に選ばれた安倍晋三氏の「美しい国」にも、幼児虐待などはないことでしょう。
 
家族の問題を正しく理解しないと国家の問題も社会の問題も理解できません。

9月25日から北京で日中政府の外務次官級協議が始まりましたが、どう決着するかまだ見えません。日中関係が悪化したままだと、日本経済への悪影響も心配されます。
 
そもそも尖閣問題がこれほどこじれてしまった発端は、石原慎太郎都知事が都による尖閣購入計画を発表したことにあります。
購入計画の発表自体が中国側の反発を招きましたが、石原知事は購入後は船着場や灯台などを建設し人を常駐させて実効支配を強化するもくろみで、もしこれが実現したら、さらなる中国側の反発を招くことは必至です。
そこで日本政府は都に代わって尖閣を購入することにしました。政府は石原知事が要求した船だまりの建設などは拒否したので、あくまで土地を買い上げるだけで、現状変更をするつもりはなさそうです。
そして、そのことを中国に説明すれば、中国は理解してくれると日本政府は判断したのでしょう。
しかし、中国は態度を硬化させ、習近平氏は「国有化は茶番」と批判しました。
 
なぜ中国は日本政府のやり方に反発したのでしょうか。
日本では土地の売買は自由で、土地を個人が買っても都が買っても国が買ってもそれほど違いはないのですが、中国では土地はすべて国有ですから、「日本政府が国有化した」ということが特別なことに感じられたのだという説があります。
また、中国は中央主権の国ですから、地方自治についての理解が少なく、日本では政府が都に一方的に命令する立場にないということが理解されていないということもありそうです。
 
ともかく、日本政府としては国有化を中国にとってもよいことなのだと理解してもらうしかありません。
 
さて、問題の火付け役となった石原知事は、責任を感じて謹慎しているかというと、そんなことはありません。中国の海洋監視船が尖閣諸島の領海を侵犯したときには、「追っ払えばいい。まさに気が狂っているのではないか」とか「『寄らば切るぞ』といったらいい」などと言い、反日デモが暴動化したことについては「酷い。これはテロ。民度が低い」と暴言を連発しました。
 
さらに、9月21日の記者会見では、記者から『知事はしきりに「シナ」と言うが、相手が嫌がる呼称を使うべきでない』と言われたのに対し、「嫌がる理由はないじゃないか」「ナンセンスだね」と言って、これからも「シナ」を使い続ける意志を示しました。
(石原語録:知事会見から 毎日新聞 20120922日 地方版)
 
日中が対立状況にあるときに、まさに火に油を注ぐ発言です。私はあまりにも思慮が足りないのではないかと腹を立てていましたが、あるときふと思い至りました。
石原知事はみずから憎まれ役を演じることで日本を救おうとしているのではないかと。
 
今、日本政府は「都が尖閣を購入すると、反中国の石原知事は必ず中国のいやがることをする。それを阻止するために国が購入する必要があったのだ」ということを必死で説得しているはずですが、石原知事が中国人の神経を逆なでする発言をすればするほどその説得に信憑性が出てくるわけです。
さすが石原閣下です。私のような小さな人間には容易に推し量れない大きな考えを持って行動しておられるのです。
「勧進帳」で弁慶が義経を打擲するような気持ちで反中国発言をしておられるに違いありません。
 
しかし、石原知事の発言は中国にあまり報道されていないと思われます。今は国と国の対立になっているからです。
 
となると、石原知事は次の手を考えておられるでしょう。
私のような小さな人間に石原知事の考えを推し量るのは容易なことではありませんが、乏しい想像力を総動員して考えてみました。
 
石原知事は自分の命を惜しむような人ではありません。特攻隊を賛美する映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」をプロデュースしたくらいです。
また、尖閣購入のための寄付を募り14億円余りを集めましたが、使い道がなくなり、返すこともできないという状況です。そのお金に込められた志を思うとき、石原知事は慙愧に堪えないに違いありません。
となると、ここで国のためになるなら自分の命を捨てようという思いが湧いてきても不思議ではありません。
 
つまりハラキリをすることを考えておられるのではないでしょうか。首相官邸前で、「都が尖閣を購入して、さんざん中国にいやがらせをしようとしたのに、国に阻止された。無念でならない。国に抗議するために切腹する」という文書を残してハラキリをすれば、それは全世界を驚かせるニュースになり、当然中国にも伝わり、日本政府は石原を抑えるために尖閣を国有化したのかと、すべての中国人が納得するに違いありません。
 
そのとき石原知事は、できれば桜吹雪の中で死にたいでしょうが、季節が違うのでそうはいきません。そこで、返還不能の寄付金を1万円札にして、大型扇風機でお札の紙吹雪を舞わせて、その中でハラキリをするという演出が考えられます。そうすればお札が通行人に拾われるという形で国民に返還することもできます。
 
三島由紀夫がハラキリしたのですから、作家である石原慎太郎氏が同じことをしても不思議ではありません。
そんなことはありえないと思っているあなたは、石原氏の大きな心がわからない小さな人間です。
 
もちろん私自身は、石原氏にそんなことはしてほしくないと願っています。

久しぶりのシリーズ「横やり人生相談」です。読売新聞の「人生案内」が有料化されてしまったので、ネタが探しにくくなってしまいました。
今回は、ダメ息子に悩む母親の相談です。
 
私はこのブログで政治のことや教育のことや犯罪のことや家族のことを書いていますが、バラバラのことを書いているつもりはなく、私の中では全部つながっています。
中でも根底にあるのは家族の問題です。
たとえば、アメリカの大統領選を見ても、同性婚禁止、中絶禁止など、家族に関わることが大きな争点になっていますし、戦争も夫婦喧嘩も似たようなものです。また、異常性が感じられる犯罪をする者はほとんどの場合、ゆがんだ家庭で育っています。
ですから、「元気があればなんでもできる」ではありませんが、「家族のことがわかればなんでもわかる」ということなのです。
 
中でも親子関係は家族関係の中核になります。
今回の相談は、母親と息子以外のことはいっさい書かれていないという“純粋親子関係”についてのものです。ほかの要素がないだけに、親子関係について考えるのにいい材料になるはずです。
 
〈悩みのるつぼ〉高校生のダメ息子に悩んでます
■相談者:母親 50代
 50代の女性です。親への依存心が強いうえ怒りの沸点が低く、やらなければならないことにも向き合わず、逃げられないとなると怒って感情を爆発させる。そんな甘えの強い高校生の息子に悩んでいます。
 「悪い成績を見るのが嫌だから、模試は受けたくない」「朝勉強しようと思ったけど、寝坊したからテンションが落ちて今日はやる気が起こらない」「集中力が続かないからできない」と、いつもできない理由ばかり並べ、助言や注意をしても「それは~だからできないんだ!」とまたもできない理由を並べ、怒って声を荒らげ始めます。そして、結局逃げてしまいます。
 逃げられないとなると、そのストレスで感情を爆発させ、私に対処せよとばかりに「どうしたらいいの?」と尋ねてきます。相談と言いつつ、最初から怒っているので、下手なことを言うとさらにヒートアップ。その繰り返しで、私を「ひとごとみたいな対応で、助言もしてくれない。子どもがどうなってもいいんだな」と責めます。
 いさめても、弁が立つうえ威圧するので揚げ足を取られ、なぜか私が悪いことになってしまいます。大学に入っても、ダラダラとして単位も取れず……という姿が目に浮かびます。自分に甘く、親への甘えも人一倍の息子をどう自覚させ、どうまともな大人にしていけばよいでしょうか?
朝日新聞デジタル20129221500分 
 
この相談の回答者は評論家の岡田斗司夫さんです。
岡田さんは、息子がダメ人間であることを変えるのはむずかしいといいます。母親が息子と口喧嘩ばかりしていると、息子はダメ人間であるだけでなく、「イヤなダメ人間」になります、ほっといて「ダメだけど好人物」にしたほうが息子も母親も幸せになれますよ、というのが岡田さんのメインの回答です。
それに追加して、「息子の将来」よりも「いまのご自分」を大事にしてください、2人は鏡なんですから、とも書いておられます。
 
この回答に不満があるということはありません。誰が考えても、息子よりは母親のほうに問題があるに違いなく、母親を説得するには岡田さんの回答がベストのように思えます。
ただ、岡田さんは「息子はダメ人間」という母親の言い分をそのまま受け入れていますが、私はそこのところを追究してみたいと思います(私は母親を説得する必要がないので、岡田さんと違って好きなことが書けます)
 
最初にも触れましたが、この相談には母親と息子以外の人間がいっさい出てきません。
もし「夫は『お前は息子にかまいすぎだ。放っておけ』と言って、私と意見が合いません」というような記述があれば、この母親は過干渉の人ではないかという推測ができますし、「2つ上の姉はしっかりしていて、息子と大違いです」というような記述があれば、なぜ姉と弟は違うのかということから、母親の子どもへの接し方に問題があるのではないかというふうに追究していくこともできます。
しかし、この相談はすべてが母親の息子についての主観的評価で、現実との接点がないので、この主観的評価が正しいのか否か判断できません(だから岡田さんもそこはスルーしたのでしょう)
 
しかし、現実との接点がまったくないとは必ずしもいえません。というのは、この息子も赤ん坊だったときがあるわけで、そのときはどうだったかを考えれば見えてくることがあります
 
この息子は赤ん坊のときからダメ人間だったのでしょうか。ほかの赤ん坊よりも母親への依存心が強く、怒りの沸点が低く、やらなければならないことにも向き合わず、オッパイを飲むときもハイハイするときもダラダラしていたのでしょうか。
そんなことはないはずです(もしそうだったら母親もそう書くでしょう)
つまりここに現実との接点というか、認識の土台があるわけです。
「赤ん坊のときはまともだったが、高校生の今はダメ人間である」ということは、成長のどこかの段階でダメ人間になった、あるいは成長の全過程でダメ人間化が進行した、ということになります。
いったいどんな理由でそんなことになるのでしょうか。いちばん考えられるのは、親が育て方を間違ったということです。あるいは親がダメ人間なので、子どもがそれを見習ったということもあります。
 
しかし、この母親にそういう認識はないようです。
「親はまともな人間で、ちゃんと育ててきたのに、子どもはダメ人間になった」ということはひじょうに考えにくいのですが、世の中にはそう考える人もいます。そういう人は、悪い友だちとつきあったからだ、低俗テレビ番組などのメディアのせいだ、世の中の風潮に染まったからだと主張しますが、こうした声はけっこう世の中に存在します。しかし、親の影響力が悪い友だちの影響力に負けるというのは、やはり親に問題があるということになるはずです。
 
もしかして、生まれつきダメ人間がいるのだと主張する人がいるかもしれません。しかし、自分はダメ人間でないのに、自分と自分が選んだ人の遺伝子を受け継いだ子どもがダメ人間であるというのも通常ありえないことです。突然変異を持ち出す人がいるかもしれませんが、もし生まれつきのダメ人間なら、教育によってなんとかしようというのも無意味になります。
 
ともかく、「赤ん坊のときはどうだったのか」ということを原点にして考えると、「親はダメ人間でないのに、子どもはダメ人間である」ということは通常ありえないということがわかるはずです。
 
 
ということは、この相談の場合は、どう考えても母親に問題があるということになります。
母親が「助言や注意」をすると息子は逃げてしまい、「逃げられないとなると、そのストレスで感情を爆発させ」るということですが、そうとう「助言や注意」で追い詰めているに違いありません。
つまり、母親があまりにも息子の問題に首を突っ込むため(過干渉)、息子に当事者意識が芽生えないのだと考えられます(岡田さんはそのへんを洞察して回答しています)
 
では、なぜ母親はそういうことをするのかというと、ダメな息子とかかわることが生きがいになっているからです。息子がダメでなくなり、自立していくと、自分の生きがいがなくなってしまうので、自立を阻むために過干渉をするわけです。
 
なぜダメな息子とかかわることが生きがいになっているかというと、それ以外の人間関係(とくに夫との関係)がほとんどないからであると想像できます。
ここで、相談にほかの人のことがいっさい書かれていないことがつながってきました。
 
夫婦仲がよければ、子どもが自立してもそれほど寂しくありません。しかし、夫婦関係が壊れていると、子どもが自立すると孤独になってしまいます。そのため、夫婦仲の悪い親が子どもの自立を阻むということがよくあります(父親は娘の自立を阻み、母親は息子の自立を阻むというのがよくあるパターンです)
 
ですから、この母親の相談への回答としては、息子さんのことは放っておいて自分の生きがいを見つけてくださいということです(岡田さんの回答とほとんど同じです)
 
 
ところで、「赤ん坊のときはどうだったのか」という発想はいろんなときに役立ちます。
たとえば、「近ごろの若い者はなっていない」と嘆くおとながよくいますが、こういう人には「近ごろの赤ん坊をどう思いますか」と聞いてみるといいでしょう。まともな思考力のある人なら、自分の考えのおかしさに気づくはずです。

日本が中国や韓国とうまくやっていけないのは、帝国主義や植民地主義に対する反省が中途半端であるからだと思います。逆にいうと、ちゃんと反省すれば、日本、中国、韓国は文化的にはきわめて近いのですから、東アジアにEUみたいなものができても不思議ではありません。
 
過去の反省については、橋下徹氏もまともな発言をしています。
 
過去の戦争「総括すべし」 尖閣、竹島めぐり橋下氏「恨み持たれてもしょうがないことも」
産経ニュース2012.9.19 12:59 
 新党「日本維新の会」の代表を務める橋下徹大阪市長は19日、尖閣諸島や竹島の問題に絡み「中国、韓国が何を怒っているのか、しっかり過去の戦争を総括すべきだ。恨みを持たれてもしょうがないこともある」と述べ、問題解決には過去の歴史の再検証が不可欠との認識を示した。
(後略)
 
橋下氏は従軍慰安婦問題について、「強制連行の証拠はない、あるなら韓国の皆さんにも出してもらいたい」と発言して、韓国民の怒りを買ったばかりですが、これについては安倍晋三氏へのエールだという説があります。むしろこちらのほうが橋下氏の本来の考えかもしれません。
 
日本が過去に中国、韓国にひどいことをしたのは当たり前のことで、これを自虐だなんだといって認識しないのは、よほど無知か自己中心的な人です。もっとも、こういう人は日本でも少数派です(ネットだけ見ているとけっこういるようですが)。歴代の政府がちゃんと謝罪して、多くの国民がそれを支持しているのが実際です。
 
しかし、日本人で反省する人も、日本軍が略奪、強姦、虐殺をしたことや、日韓併合で創氏改名の強制をしたことなど、非人道的な行為について反省している人が多いようです。日本がアジアに対して帝国主義的、植民地主義的政策をとったことについてはそれほど反省されていないように思われます。
というのは、帝国主義、植民地主義というのは西洋近代文明と切っても切り離せないもので、西洋近代文明を否定する人はほとんどいないからです。
 
しかし、文明だからといってすべてがいいわけではありません。むしろ文明には病理があります。
このことについて、私は精神分析家で「唯幻論」という独自の思想で知られる岸田秀氏の文章から、まさにコペルニクス的転回とも呼べる発想の転換を学びました。(「唯幻論」についてはいずれ取り上げたいと思っています)
 
記憶による引用ですが、岸田秀氏はこのようなことを書いていました。
「文明はがん細胞のようなものである。近代文明はとりわけ増殖力のつよいがん細胞である」
 
世界が近代文明でおおわれていくさまは、まさにがん細胞の増殖に似ています。
 
日本の場合は、最初は尊皇攘夷をスローガンに、がん細胞つまり近代文明を拒絶しようとしました。しかし、それをやると列強に植民地化されることが明らかだったので、やむをえずみずから近代化をはかりました。つまり決して近代文明をよいものとして受け入れたわけではないのです。
 
私は岸田秀氏の文章から、人類の歴史は「悪人が善人を駆逐する」歴史ではないかと考え、ここから私の思想がブレイクスルーしたともいえます(岸田秀氏は現実否定的な考えの人ですが、私は現実否定を通して人間性の回復をはかろうとする点で違いがあると思います)
 
もちろん近代文明にはすばらしいものがいっぱいあります。私たちは近代文明のおかげで物質的に豊かで、身体的に健康な生活が送れるようになりました。
また、芸術、文化、娯楽なども進歩し、私たちは精神的にも豊かな生活ができるようになりました。
つまり近代文明は物質面、精神面ではすばらしいのですが、倫理面は違います。倫理面はむしろ悪化、堕落しています。
 
たとえば、白人が黒人を奴隷化して、その逆ではなかったのは、単純にいえば白人が文明人だったからです。非文明人である黒人には白人を奴隷化してもうけようなどという邪悪な考えはありませんでした。
帝国主義、植民地主義も同じです。みずからの利益のために平気で人を虐げるというのが帝国主義、植民地主義です。
近代文明人は人を殺すことも平気でできるようになり、20世紀の戦争による死者の数は、それ以前のすべての戦争による死者の数よりも多いといわれます。
 
以上のことを踏まえれば、いち早く近代化して悪に染まった日本人が中国や韓国にひどいことをしたというのは当たり前のこととして認識できるはずです。
文明化をすべてよいことととらえていると、日本は韓国を植民地化することでインフラを整備して識字率も高めて文明化してやったなどと、逆に恩着せがましくなったりします。
しかし、文明は倫理面では堕落している(悪は進化している)と考えると、日本人は韓国人に人として悪いことをしたとして反省し、謝罪するは当然のこととなります。
 
今、中国、韓国に対して謝罪したくない日本人は、いまだに欧米列強のまねをするのが正しいことだと思っているのでしょう(すでに欧米からは梯子を外されているのですが)
 
文明を物質面、精神面、倫理面と分けて、近代文明の倫理面を否定的にとらえると、東アジアの一体化の道が見えてくると思います。

冷戦崩壊後、日本の右傾化が進んで、いわゆるオピニオン誌も右翼系のものがほとんどになりました。田原総一朗氏は「朝まで生テレビ」に出る左翼論客が姜尚中さんしかいないと言って嘆いたことがあります。
もちろんそれは日本の左翼の知的怠慢に主な原因があるのですが、優勢になった右翼もこのところ劣化が進んでいます。
私は右翼でも左翼でも中道でもない「上」という政治的立場ですから、右翼と左翼を公平な観点から見ているつもりですが、最近、劣化した右翼が日本をますますだめにしているという思いを強くしています。
 
劣化した右翼のひとつの姿は、「言いっぱなしタカ派」です。タカ派的言説は一般受けするので、ことあるごとにタカ派的言説をまき散らしますが、そのあとのことにはまったく無責任です。
 
現在、悪化した日中関係をどう修復するか(あるいは相手が屈するまで強硬策を貫くか)という問題に直面しているわけですが、このことについてタカ派はまともな意見を言うことができません。
その代表例が石原慎太郎都知事でしょう。もともと尖閣諸島を巡る日中の対立は石原知事が尖閣購入計画を表明したために起きたものですから、ちゃんと責任を取ってほしいものですが、相変わらずの無責任発言を続けています。
 
「追っ払えばいい」領海侵入で石原知事
産経ニュース2012.9.14 16:57  
 尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺で中国の海洋監視船6隻が14日、相次ぎ日本領海を侵犯した問題で、東京都の石原慎太郎知事は同日の定例会見で「人の家にずかずかと土足で踏み込んできた。追っ払えばいい。まさに気がくるっているのではないかと思う」と厳しく批判した。
(後略)
 
石原知事、監視船に「寄らば切るぞと言ったらいい」 デモには「酷い、これはテロ」
産経ニュース2012.9.19 16:23
 東京都の石原慎太郎知事は19日、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺海域を中国の監視船が多数航行、一部は領海侵入もしたことについて「もっと過剰、過激なことになったら『寄らば切るぞ』と言ったらいい」と述べ、牽制(けんせい)すべきだと指摘した。
(後略)
 
 
「追っ払えばいい」といっても、どうやって追っ払うのでしょうか。それが簡単にできないから困っているわけです。また、「『寄らば切るぞ』と言ったらいい」といっても、それでも寄ってきたらどうするのでしょうか。まさに無責任発言のきわみです。
そもそも、日中関係をこれからどうするかという戦略がまったく見えません。尖閣周辺のことしか考えていないようです。
 
とはいえ、石原知事は一貫してタカ派的発言を続けていて、わかりやすいことはわかりやすいです。
 
では、日本維新の会代表で大阪市長の橋下徹氏はどうでしょうか。橋下氏もやはり一般受けするタカ派発言をこれまでしてきました。この事態についての発言によって政権担当能力があるか否かが見えてくるかもしれません。
 
尖閣「警察常駐させるべきだった」 橋下大阪市長
日本の尖閣諸島国有化をめぐる中国の反日デモについて、新党「日本維新の会」代表に就く橋下徹大阪市長は18日、報道陣に対し「(8月に)香港の活動家が上陸した時から日本の警察を常駐させておけばよかった。最大のチャンスを逃し、(政府の対応は)非常に下手だ」と主張。尖閣の実効支配を強めるべきだとの考えを示した。
 
 橋下氏は「中国は(日本の)実効支配を一度認めると、韓国が実効支配する竹島のようになるのをよく見ている」と指摘。「憲法9条によってお気楽な教育を受け、日本人が(領土について)厳しい認識を持たなかったことが非常に悪い方向に来ている」とし、「日本が覚悟を持って(領土を)守っていけるのかを国民に問いたい」とも語った。
朝日新聞デジタル20129182024
 
今、日中關係がもめているときに憲法9条を持ち出すのがいかにも日本の右翼らしいです。9条批判さえすれば格好がつくと思っているのでしょう。
あと、警察を常駐させておけばよかったと言っていますが、自衛隊を常駐させろと言わないところはまともです。ただ、日中間にはトウ小平時代に「尖閣棚上げ論」の合意が成立したとされており、警察を常駐させるというのは合意に違反するということで中国が怒るはずです(今回中国が怒っているのも尖閣の国有化が合意に違反しているからということのようです。また、日本政府が船だまりなどをつくらない方針なのも同じ理由からです)
ただ、この記事はわかりにくいですが、別の記事を読むと橋下氏の言わんとするところがよくわかるので、そちらも引用します。
 
橋下市長、尖閣諸島に「警官、常駐させろ!」
 大阪市の橋下徹市長(43)は18日、大阪市役所で報道陣の取材に応じ、尖閣諸島で香港の活動家が上陸した際の政府の対応について「最大のチャンスを逃した。あのまま警察官を常駐させればいいじゃないか」と苦言を呈した。
 
 8月15日に香港の活動家が上陸した際、島で待機した警察官や海上保安官らが現行犯逮捕した。橋下氏は「(活動家を)わざと上陸させたんだと思った。ホント、情けない。日本の警察が上陸したんですから、なんでそれを持って事実の積み重ねをしないのか」と批判した。
 
 外交安全保障は現状維持が大原則という持論を前置きした上で「現状維持の範囲内でいかに事実を積み重ねていくかが大事。相反することだが最大の腕の見せどころ」と、警察官を常駐させた上で居住のテントやトイレ、船着き場建設など“実効支配”を徐々に強化していく方策を説明した。
 
 一方、今後取るべき対応について説明を求められると、橋下氏は「言ってしまったら、相手に手の内をさらしてしまうことになる。国政政党(日本維新の会)を率いる立場になって、なんでもかんでもしゃべる立場じゃない」と口をつぐんだ。
20129190603  スポーツ報知)
 
つまり「現状維持」と見せかけながらテントやトイレなどを設置して「実効支配」を強化していけというわけで、なるほどこのやり方なら中国も怒るタイミングがむずかしいことになります。ただ、うまくいくとは限りません。巧妙なやり方というよりは姑息なやり方というべきでしょうか。
 
ただ、これはもう終わった話ですから、今言っても意味はありません。
これから日本はどうするべきかについては、本人も「しゃべる立場じゃない」と言っているように、なにも語っていません。
なにも語っていないのに、9条批判や政府批判や実効支配強化のアイデアを言うなどして、それなりのことを語ったかのように思わせるのはさすがです。
 
ともかく、石原知事にしても橋下氏にしても、今後日本政府はどうするべきかについてまともなことは語っていません。
つまり、現実の行動についての策がないので「言いっぱなしタカ派」だというわけです。
 
もっとも、これは日本特有のことかもしれません。アメリカやイスラエルのタカ派が言うことは、現実の行動に直結しています。つまりいつでも戦争をするということを踏まえているのです(ですから、本物のタカ派は勇ましいだけのことは言いません)
 
では、中国はどうかというと、中国はこれまでインドと何度も国境紛争で武力衝突をしていますし、ベトナムとの間でもやっています。領土問題は武力衝突に直結するということがわかっていますし、それだけの覚悟はあるはずです。
また、中国は二次大戦後、戦争経験のない日本と違って朝鮮戦争と中越戦争を経験しています。しかも、そのときの戦い方は人海戦術です。
また、中国は死刑大国で年間数千人の死刑執行が行われているといわれますが、日本での死刑執行数は毎年ヒトケタです。
 
日本が中国と同じ土俵に上るのは愚かなことです。「言いっぱなしタカ派」に乗せられるとそんなことになりかねません。

中国で反日デモが燃えさかっています。長く続いた東アジアの平和が終わる予感がします。
 
反日デモの直接のきっかけは、日本政府が尖閣諸島を国有化したことですが、日本政府としては石原知事の東京都が買い取るよりは穏便に処理するので、そのことを中国に説明すれば理解してもらえるという考えだったのでしょう。しかし、中国政府からは日本政府と東京都の出来レースに見えるのかもしれません。
私としては、今回の事態については、最初に火をつけた石原知事が責めを負うべきだと考えますが、世の中にこういう声はそうとう少ないでしょう。
 
そもそもナショナリズムというのは「国家規模の利己主義」のことですから、ナショナリズムとナショナリズムは必ず衝突します。これは夫婦の双方が我を張れば必ず夫婦喧嘩になるのと同じです。
 
戦後の日本人はそのことが体験的にわかっていましたから、ずっと日本のナショナリズムを抑制してきましたし、日本のアジア外交も抑制的でした。
しかし、冷戦が終わってから、日本は右傾化し、ナショナリズムが台頭してきました。
ナショナリズムが台頭するのは、人間が利己的に生まれついている以上、ある程度必然のことといえます。
 
今回の中国における反日デモは尖閣諸島の領土問題がきっかけで、最近韓国と日本の関係が悪化しているのも、竹島の領土問題がきっかけです。しかし、それはあくまできっかけで、より大きな問題として「歴史認識」の問題があると思います。
たとえば、中国はフィリピンとも領土問題でもめていますが、中国で激しい反フィリピンデモが起こったという話は聞きません。また、中国はロシアとも領土問題をかかえていましたが、これは2004年に解決しました。
中国とロシアの領土問題が解決したというのは、たまたま昨日の新聞で読みました。〈風〉中国の領土問題 愛国主義と実利外交のはざま■坂尻信義(中国総局長、ウラジオストクから)という記事から一部を引用します。
 
9月初旬にアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれた「ウラジオストク」という地名は、ロシア語で「東方を支配せよ」という意味だと、この港町に常駐する同僚から教えられた。ただ、中国では「海参●(●は山かんむりに威)という呼び名が定着している。「ナマコの入り江」という意味だ。
 
 清朝と列強が結んだ北京条約で、ロシア帝国は極東の沿海地方を割譲させ、太平洋への足場となる不凍港を手中に収めた。しかし、この不平等条約で奪われたはずの土地の領有権を主張する声は、ナショナリズムが渦巻く中国でも、あまり聞かない。
 
 胡錦濤(フーチンタオ)国家主席は2004年、ロシアのプーチン大統領(当時)を北京に迎え、両国の国境問題の決着を宣言。ロシアが大ウスリー島(中国名・黒瞎子島)の半分を中国に渡すことなどで、約4300キロの国境を画定させた。
 
 この決定は島を実効支配していたロシアでも、さらなる果実への期待があった中国でも批判された。それでも2人の指導者は、行き着くところ軍事衝突しかない「ゼロサムゲーム」に終止符を打った。中ロ貿易は胡錦濤体制の10年間で、約8倍に伸びた。両氏は7日、固く握手した。(朝日新聞デジタル20129170300)
 
領土問題も、双方が感情的にならなければ、経済合理性によって解決できるといういい例です。
しかし、日中、日韓はなかなかこうはいかないでしょう。それはやはり「歴史認識」の問題があるからです。
 
戦後、日本は中国、韓国と国交を回復してから、侵略戦争や植民地支配について基本的にはきちんと謝罪しています。
ウィキペディアの「日本の戦争謝罪発言一覧」という項目から引用します。
 
1972929 - 田中角栄総理大臣。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 
1990524 - 今上天皇。 「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。」
 
1992117 - 宮澤喜一首相。「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。」
 
1993823 - 細川護煕首相。「()我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」
 
しかし、その一方で、植民地支配や侵略戦争を正当化しようとする有力政治家の発言が繰り返され、日本の謝罪はどこまで本気なのかという疑念を中韓両国で生んできました。
とくに最近は右傾化が進んだために、その手の発言がふえてきました。ただ、発言の内容は昔と変化しています。昔は、「あの戦争は侵略戦争ではなかった」とか、「日韓併合は植民地支配ではなかった」というのが主でしたが、最近はもっぱら「慰安婦の強制連行はなかった」とか「南京虐殺はなかった」というふうにスケールダウンしています。
 
慰安婦問題についてはこのブログで取り上げ、「軍や官憲による強制連行の証拠はないから河野談話を見直せ」という主張は国際社会ではまったく通用しない愚論であることを指摘しています。
 
「南京虐殺はなかった」という主張は、30万人虐殺という数字が過大であるということから始まったものですが、かりに3万人であれ、0人であれ、日本軍が中国各地で略奪、強姦、虐殺を行ったことが否定できるわけではないので、いったいなんのために「南京虐殺はなかった」と主張するのか意味がわかりません(これは「アウシュビッツにガス室はなかった」という主張と同じです。ガス室があってもなくても、ユダヤ人がナチスにひどい目にあわされたことは変わりません)
 
つまり「強制連行はなかった」とか「南京虐殺はなかった」とかは、重箱の隅をつつくような議論になっていて、日本の右翼の劣化を示しています。こういう主張をする人には、「植民地支配は謝罪しないんですか」とか「侵略戦争は謝罪しないんですか」と聞いてみたいものです。
 
とはいえ、重箱の隅をつつくような議論をしてまで謝罪したくないという心理にも、一分の理はあります。
それは「欧米列強は謝罪していないのになぜ日本だけが謝罪しなければならないのか」という理屈です。
たとえば、「日本軍は確かに略奪や強姦や虐殺をしたかもしれないが、どこの国の軍隊もそういうことは大なり小なりしているもので、ソ連軍なんか日本軍よりもっとひどいのに謝罪していないではないか」といったものです。
 
この理屈にはもっともなところがあります。ですから、これをどんどん追究していけばいいと思うのですが、残念ながら日本の右翼は、この理屈を日本が謝罪しないための方便にしか使っていません。
日本の右翼はまた、「日本はあの戦争によってアジア諸国を欧米の植民地支配から解放した」と戦争の正当化をはかる一方で、「日本が半島や大陸を植民地支配したのは当時の価値観では正当だった」と矛盾した主張をしますが、この矛盾が放置されているのも同じことです。
 
つまり日本の右翼は、日本の植民地支配や侵略戦争を日本とアジア諸国の関係だけでとらえていて、グローバルにとらえていないのです。
 
日本が植民地支配や侵略戦争を謝罪したなら欧米もまた同じように謝罪しなければなりません。当然の理屈です。
日本は一応謝罪したのですから、次は欧米に対して「君たちも謝罪するべきだ」と主張する権利を持つことになります。これは国際政治において有力なカードです。
 
そもそもアメリカ合衆国は先住民虐殺の上に成立した国であることを謝罪していませんし、白人は黒人を奴隷化したことを謝罪していませんし、もちろん欧米は植民地支配したことを謝罪していません。
これは欧米白人が傲慢であるからですが、日本の知識人は欧米式の教育を受けているために、こうした認識がほとんどありません。
 
日本は日露戦争に勝利したことで、欧米列強にしいたげられていた有色人種から希望の星と見なされる時代がありました。日本の右翼はその栄光の時代を忘れたのか、欧米にはほとんど物が言えず、中国や韓国にばかり物を言う存在に成り下がりました(石原知事などその典型です)
 
日本のナショナリストも中国のナショナリストも韓国のナショナリストも同様に愚かですが、日本のナショナリストが最初にその愚かさから抜け出さなければなにも始まりません。
 

ニュース番組を見ていたら、自民党総裁選に立候補した5人が出てきたので、チャンネルを変えてしまいました。自民党から民主党への政権交代を見てわかったのは、自民党でも民主党でも大して変わりはないということですから、党首の交代などさらにどうでもいいことです。
 
とはいえ、下馬評によると実質は石原伸晃氏と石破茂氏の争いで、どちらかというと石破氏が優勢なようで、このままだと石破茂首相が誕生しそうです。石破茂首相でいいのでしょうか。
 
はっきり言って私は石破氏が嫌いです。石破氏の政策や思想以前に、石破氏の顔が嫌いです。
石破氏はブサイク顔ですが、それ自体は問題ではありません。
石破氏の目つきと顔が脂ぎっているのが嫌いです。
 
そんなことはどうでもいいではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。目つきと顔が脂ぎっていることは人格に直結しているからです。
 
石破氏は危ない目つきをしています。このことは多くの人が感じているのではないでしょうか。
とはいえ、なにをもって危ない目つきとするのか、客観的な基準はなさそうなので、このことはおいておきます。
 
顔が脂ぎっていることには客観的な基準がありますし、人格と関係していることもわかっています。
 
汗には2種類あります。暑いときや運動したときにかく汗は、ミネラル分が少なく、水とわずかな塩分だけですが、緊張したときやストレスのあるときなどにかく汗は、ミネラル分が多く、ベタベタしています。つまり脂汗です(冷や汗も同じですが、一般に冷や汗は瞬間的なものをいうので、ベタベタするほどかくことはない理屈です)
 
私が「これが脂汗か」と初めて思ったのは、初めていわゆるフリー雀荘に麻雀を打ちに行ったときです。
麻雀は普通仲間4人で打ちますが、フリー雀荘には1人で行って打つことができます。麻雀小説や麻雀マンガを読むと、フリー雀荘を舞台にプロの博奕打ちやイカサマ師が命懸けの戦いを毎日繰り広げているようなイメージがあり、私はずっと敬遠していましたが、あるとき蛭子能収さんのエッセイでフリー雀荘の実態が書かれているのを読んで(実際はサラリーマンや自営業者や学生が普通に打っているだけです)、自分も行ってみることにしました。
しかし、行ってみると、初めてのことばかりで戸惑いの連続です。
相手の3人はもちろん全員知らない人で、それまで友だちとばかり打っていましたから、それだけで緊張します。
また、フリー雀荘にはマナーがあって、たとえば捨て牌は6枚を1列に並べるとか、王牌のいちばん最後の牌は転がり落ないように下ろしておくとか、暗槓するときは必ず4枚見せるとか、先ヅモはしないとかです。これらは当たり前のマナーなのですが、ずっと仲間内で打っていると、こうしたマナーが身についていないので、いちいち注意されてしまいます。
トイレに行って戻ってくると、私の席に知らない男が座って打っています。これは「代走」といって、ほかの3人を待たせないために店の人が一時的に代わって打つのですが、知らないとなにがどうなっているのかと頭がパニックになってしまいます。
3、4時間打って、家に帰ってきましたが、服を着替えるとき、全身がひどくべったりとしていることに気づきました。こんなことは初めてです。私は3、4時間ずっと脂汗をかいていたに違いなく、こんなに長く脂汗をかいたのは初めてだったのです(2回目以降はそんなことはありませんでした)。
 
女性に嫌われる典型として、「脂ぎったオヤジ」という表現があります。
女性にもてるプレイボーイは脂ぎっていません。女性にもてることを諦めている人も脂ぎっていないでしょう。もてないのにもてたいと格闘している人が脂ぎってしまうのです。
 
石破氏の顔はつねに脂ぎって見えます。やはり欲望が強すぎて、つねに現実と格闘しているのでしょう。
欲望が強いことは悪いことではありませんが、年を取れば現実と折り合うことも覚えねばなりません。
 
タレントの片岡鶴太郎さんはお笑い芸人をやっているころは脂ぎっていました。成功したいという願望が強く、お笑い芸人として人気になるだけでは満足していなかったのでしょう。そして、鶴太郎さんは俳優の仕事をし、またプロボクサーの資格を取り、鬼塚勝也選手や畑山隆則のセコンドを務めるなどし、絵を描いて、自作を展示する美術館ができるほどになりました。そして、そのどこかの時点で、鶴太郎さんの顔からはすっかり脂が抜けてしまいました。
 
私が石破氏を初めて見たのは「朝まで生テレビ」においてで、20年近く前のことかと思いますが、そのときから石破氏の顔は脂ぎっていて、しかも55歳になった今も同じくらい脂ぎっています。
こういう人はリーダーとしてふさわしいのでしょうか。
脂ぎっている分、パワフルになにかやってくれそうですが、リーダーにはバランス感覚が要求されます。
軍事オタクとして仕事をするのが向いているのではないでしょうか。
 
はっきりいってあの顔で世界の指導者と並ばれるのは、日本人として恥ずかしい気がします。
 
ところで、知識人やマスコミは選挙においては「人物より党」とか「人物本位より政策本位」で選ぶべきだと主張します。つまり人格は関係ないというのです。こういうのは知識人特有の近代主義的な考え方で、一般の人々の考え方とはかけ離れています。
一般人は政策論争を聞いてもどちらが正しいのか判断できません。判断しようとすると、専門的な領域に入ってしまいます。
むしろ人物や人格を見て選ぶのが正しい態度だといえます。
いくら立派な公約を掲げていても、実行力がないとか、最初から嘘であるというのでは話になりません。ですから、たいせつなのはその人物は誠実であるか、実行力があるかを見抜くことです。
そして、こういうことについては知識人よりも一般の人のほうが長けていたりします。
 
テレビも、候補者1人1人に政策を聞いていくというのでは、時間がかかりますし、視聴者のほうもなにが正しいかよくわかりません。それよりも候補者全員に嘘発見器をつけて、「あなたはほんとうに国のことを思っていますか。いいえでお答えください」とやって、全員の反応を比べるぐらいのことをしてほしいものです。こちらのほうがきっと有意義なはずです。
 
ともかく、政策本位より人物本位で選ぶべきだというのが私の考えですが、そうすると脂ぎった顔の人はやっぱりだめということになります。

文部科学省は9月11日、「児童生徒の問題行動調査」を発表しました。それによると2011年度に全国の学校が把握したイジメの件数は7万231件にのぼりますが、これは前年度より9.5%少なく、現在の調査形式になった2006年度以降で最少だということです。
ということは、イジメは毎年へっているのか――と思うと間違ってしまいます。イジメによる子どもの自殺が社会的な騒ぎになると件数は増加し、騒ぎが沈静化すると件数は低下するということが繰り返されているからです。今年は大津市の中2男子の自殺が大きな騒ぎになりましたから、来年の調査の件数は大きくはね上がることでしょう。
 
つまり、子どもの世界でイジメがふえるからおとなが騒ぐのではなく、おとなが騒ぐから子どもの世界でイジメがふえるということになります。
いや、これはあくまで調査によって把握された件数の話ですから、表現としては正しくありません。
しかし、子どもの世界でなにか変化が起きたからおとなが騒ぐのではなく、おとなは自分たちが騒ぎたいときに騒いでいる。つまりおとなの心理が騒ぎをつくりだしているという面があることは否めません。
 
ここで話は飛ぶようですが、数年前、「中国人が日本の水源地の土地を買っている」という話が広がりました。私はこれは最初からうさんくさい話だと思っていました。というのは、目的がよくわからないからです。日本で水をペットボトルに詰める工場をつくって中国に持っていくのでは採算が合わないでしょうし、それなら最初から日本のミネラルウォーターを輸入すればいいわけです。
で、実際に調査してもそうした事実は把握できていません(森林資源のために土地を買うということはあるかもしれませんが)
では、なぜこういう話が広まったかというと、これは関東大震災のときに朝鮮人が井戸に毒を投げ入れているという噂が広がったのと同じだと思うのです。
関東大震災のときは、朝鮮人に対する日ごろからの漠然とした不信感がパニック心理で増幅されてそうした幻想を生み出したわけですが、現代の日本人は、急速に経済力をつけた中国人に漠然とした不安を感じていて、それが「水源地を買い占められる」という幻想につながったのでしょう。
水は命の元ですから、井戸に毒を入れられるのも水源地を買い占められるのも、想像するだけでも恐ろしいことです。しかし、中国人が日本の水源地を買い占めて水を汚染させても、中国人にはなんの利益もありません。そんなことをするわけがないのは、少し考えればわかることです。
 
現在のおとなは、子どもや学校に漠然とした不安を感じていて、それがなにかのきっかけがあるとマスコミを通して増幅し、大きな騒ぎを演じてしまいます。今回は大津市の中2男子生徒の自殺に関する「自殺の練習」という報道がきっかけだったわけです。
 
しかし、今回の「児童生徒の問題行動調査」を見ると、イジメよりももっと大きな問題があるのではないかと思わされます。
イジメの件数は多いですが、これは調査の仕方によっても変わってきますし、深刻度もわかりません。
その点、自殺件数というのは正確ですし、深刻度もよくわかります。
そこで自殺についての調査結果を見てみると、2011年度の小中高生の自殺者は200人でした。そして、「自殺した児童生徒が置かれていた状況」という調査項目があって、朝日新聞の記事によると、自殺の直前の状況に「いじめの問題」があったとするのは4人だけでした。
では、ほかにどんな状況があったのかというと、今回の調査結果はまだ文部科学省のホームページにアップされていなかったので、2010年度についての調査結果になりますが、自殺の状況で最大なのは、「進路問題」で11.8%、次が「家庭不和」で9.6%、その次が「父母等のしっ責」で7.4%でした。「いじめの問題」は2.2(3人)にすぎません。
 
つまり小中高生の自殺原因の多くは進路問題、家庭不和、父母等の叱責であって、イジメはごく少ないのです(最大は「不明」の53.7%ですが)
子どもの自殺を防ぎたいと思うなら、学校のイジメをなんとかすることよりも、親が子どもを叱るのをやめて夫婦仲良くすることが手っ取り早くて効果的ということになります。
 
しかし、おとなにとって子どもを叱ることは“生活習慣病”なので、なかなかやめることができませんし、夫婦関係の修復も容易なことではありません。そのため、マスコミもこの問題は追及しません。
親に叱られたあとに子どもが自殺したという事件はたまに報道されることがありますが、こうした事件が騒ぎになることは絶対にありません。
おとなが騒ぐのはもっぱら「イジメが原因で自殺した」という事件です。これならおとなは自分の責任を問われることがないので、安心して騒げるというわけです。
 
ところで、私は大津市の中2生徒自殺事件が大きな騒ぎになったのは、「脱ゆとり教育」と関係があるのではないかとにらんでいます。
子どもが重い教科書を持って学校に通うのはかわいそうだといったことから「詰め込み教育」が批判され、「ゆとり教育」が始まりましたが、今度はこんな薄い教科書では学力が心配だということで「脱ゆとり教育」に切り替わりました。
「ゆとり教育」にせよ「脱ゆとり教育」にせよ、なんの根拠もなく、恣意的に変えているだけです。
「脱ゆとり教育」は小学校では2011年度、中学校では2012年度から始まっています。つまりまた子どもたちは重い教科書を持って学校に通うようになったのです。
おとなたちは「脱ゆとり教育」つまり「詰め込み教育」への回帰を目の当たりにして、これでよかったのかという漠然とした不安を感じているに違いありません。
その不安がひとつの自殺事件を大事件に育て上げたというわけです。
 
実際のところはわかりませんが、おとなの恣意によって教育と子どもが翻弄されているのは間違いなく、ここから改めていかなければなりません。

数日前にブログタイトルを変更しました。
今までは「村田基の『正しすぎてごめんね』」でしたが、このタイトルにはブログ開設時のちょっと自信のない気分が表れています。約1年半ブログを続けてきて、違和感が拡大してきたので、思い切って変えることにしました。検索エンジンなどは一時的に混乱するかもしれませんが。
 
私は自分の根本にある考え方の正しさに絶対的な自信を持っていますが、世の中の人が理解してくれるかどうかについてはそれほどの自信がありません。そういう思いが最初のブログタイトルの「正しすぎてごめんね」というところに表れたわけです。
今は多少自信もついてきましたし、それに、自信なさげに見えたのではアピール力も弱くなってしまいます。
 
では、新しいブログタイトルはどうするかということですが、私の根本の思想は、人間がどのようにして道徳をつくりだしたかを進化生物学に基づいて説明するものです。
(これについては、このブログの「オカルト科学!?を参照)
 
ですから、学問のジャンルでいうと進化倫理学の範疇に入ります。しかし、「進化倫理学」という言葉を打ち出しても、一般の人にはまったく興味がわかないでしょう。それに、内藤淳著「進化倫理学入門」(光文社新書)という本があって、この本は私と正反対の考え方(つまり普通の倫理学)なので、誤解されるおそれもあります。
 
従来の倫理学は人間中心、自分中心の発想に基づくものですから「天動説的倫理学」と名づけ、私の倫理学は発想のコペルニクス的転回によるものですから「地動説的倫理学」と名づけるというやり方も考えていました。しかし、説明なしに「地動説的倫理学」といっても、やはり意味がわかりません。
そこで、最初のうちは「科学的倫理学」と名づけていました。
しかし、今の段階ではあくまで自称「科学的」です。自称「科学的」というのはオカルト科学と同じですから、かえってうさんくさく思われるだろうと思い直し、最近は使わなくなりました(最初のころに書いた文章では「科学的倫理学」を使っています)
 
新しいものに名前をつけるというのはむずかしいものです。
「真正倫理学」と名づけようかと思いましたが、これもかなりうさんくさいです。
「新倫理学」というのはそれほどうさんくさくありませんが、意味がわかりませんし、インパクトもありません。
 
それに、そもそもブログタイトルに「倫理」とか「道徳」という言葉を使うと、それだけで多くの人にスルーされてしまうに違いありません。
というのは、「倫理」とか「道徳」という言葉がタイトルにある文章がおもしろかったためしがないということは誰もが学習しているからです。
これは従来の倫理学がまったくデタラメな学問であったせいです。
私はその倫理学を改革してまともな学問にしようとしているのに、「倫理」や「道徳」という言葉を使うとデタラメな学問と同じと見なされてしまうというのは皮肉なことです。
 
もっとも、「悪の倫理学」とか「悪魔の倫理学」というのはありかもしれません。インパクトがあり、引きつけられる人もいそうです。
しかし、こういう言葉を使うとキワモノと見なされますから、やはりだめです。
私の思想は常識と違いますから、キワモノと見なされるおそれはつねにあります。
 
たとえば、ジョルジュ・バタイユという作家で思想家は、「過剰の蕩尽」という言葉で、人が必要以上のものを生産するのは祝祭や戦争で蕩尽する快楽を得るためだという思想を発表しました。常識とは逆ですが、これはこれでカルト的な人気のある思想です。
 
しかし、私は自分の思想はコペルニクスの地動説みたいなもので、やがてはこちらがメジャーになるべきだと考えています。バタイユみたいなものといっしょにされないように注意しないといけません。
 
で、いろいろと考えた結果、「倫理」や「道徳」という言葉を使うのはやめて、結局「村田基の逆転日記」とすることにしました。
なにが逆転なのか意味がわかりませんが、わからない分、知りたくなるということもあるでしょう。
で、読んでみれば、発想の逆転があることは事実ですから、羊頭狗肉ではありません。
ちなみに私の出世作であるSF長編「フェミニズムの帝国」は、男女の社会的役割が逆転した近未来社会を描いたものですし(出世作といっても出世してないけど……)、短編小説でも逆転した発想のものを得意としていました。
道徳についての考え方を逆転させると、世の中のあり方がまったく違って見えてきます。このブログではそうした世の中の見方を日記として書いています。
 
ということで、ブログタイトルが変わった事情を説明させていただきました。

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