村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年10月

最近、電車の中で化粧をする女性がふえていて、不愉快だ、マナー違反だという声がよく聞かれます。電車内で化粧することはほんとうによくないのでしょうか。
今回は電車内化粧問題について考えてみます。
 
電車内で化粧していると、化粧品の粉が飛んで周りの人にくっつくということがあるかもしれません。これは明らかな迷惑ですから、いけないに決まっています。
では、そういう物理的、具体的な迷惑をかけないようにやればよいのかというと、そういうことではありません。見ていて不愉快だという声が多いようです。
 
見ていて不愉快というのは、感性とか価値観に関わってきて、人によって違います。
では、ほとんどの人が見ていて不愉快だと思えば、それはマナー違反としていいのかというと、そうともいえません。ほとんどの人の感覚が間違っているということもあるからです。たとえば、白人が多数派の社会で、黒人と同席するのは不愉快だという声が多いからといって、待合室を白人用と黒人用に分けるべきだということにはならないわけです。
 
電車内化粧が嫌われるのは、もしかして差別と関わっているかもしれません。というのは、電車内化粧をするのは、当然働く女性だからです。
 
もちろん、偏見や差別と関係のない、正しい感覚というのもあります。
では、正しい感覚と間違った感覚というのはどうして区別すればいいのでしょうか。
ひとつの判断基準として、進化生物学的な根拠があるかないかというのがあります。
 
たとえば嘔吐物、要するにゲロですが、朝の路上に見かけたりするとひじょうに不愉快です。なぜ不愉快かというと、吐瀉物には毒が含まれている可能性があるからです。同時に栄養物でもありますから、いくら飢えていても決して食べることがないぐらいに強烈な不快を感じるように私たちは生まれついているわけです。
糞尿に不快を感じるのも同じです。たとえば赤痢のような病気が移ってしまう可能性があるからです(母親は赤ん坊の便を不快には思いません。赤ん坊から母親に病気が移る可能性はないからです)
 
ですから、このような感覚には進化生物学的根拠があるといえます。
ただ、人間というのはひじょうに複雑で多様ですから、中にはスカトロマニアというのもいます。また私は、女性が口の中に指を突っ込んで透明なボウルにゲロを吐き続け、そのゲロをすくってまた食べるというフェチビデオを見たことがあります。
しかし、進化生物学を踏まえれば、そういう感覚はまともではないと判断できます。
 
ですから、路上に犬の糞を見るのは不愉快だから飼い主は糞の始末をするべしというマナーもおおむね正当なものであると判断できます。
 
ただ、化粧というのは高度に文化的なものなので、おそらく進化生物学を基準には判断できないと思われます。
しかし、多くの人が電車内化粧、つまり公衆の面前で化粧することを不愉快に感じるという現実があります。この不快感はどこからくるものなのでしょうか。
 
私が思うに、化粧というのは女性の美しさを底上げするものですから、その過程を見せてしまうと、すべての化粧した女性の美しさは底上げされたものだということがバレてしまうので、とくに女性は嫌うのではないかということです。
もちろん最初からバレてはいるのですが、日常的にそれを見ると、バレ方が違ってきます。映画のセットの裏側を何度も見せられるようなものです。
また男性も、女性の美しさに幻想を抱いていたいので、化粧をするところを見たがらないということもあるでしょう。
 
つまり化粧というのはあくまでごまかしなので、化粧の過程を見せたらごまかしにならないということで、電車内化粧は嫌われるのではないかと思われます。
 
では、電車内化粧はマナー違反かというと、私はあまりそうは言いたくありません。
なぜなら、電車内化粧をする人にはそれなりの理由があるはずだからです。
勤め人にとって朝の時間は貴重です。1分でも長く寝ていたいからです。それを考えると、電車内で化粧する人をあまり批判する気になれません。
 
それに、そもそも化粧というのはほんとうに必要なのかという疑問もあります。
たとえば、昔はストッキングは「第二の皮膚」と言われ、ストッキングをはくことはおとなの女性の身だしなみとされていました。しかし、いつのまにかナマ足ブームがきて、今ではナマ足が当たり前になっています。
そのうち“ナマ顔”が当たり前になる時代がこないとも限りません。
 
そもそも、男性の化粧がまったくないわけではありませんが、女性だけが義務のように化粧するというのはひじょうに奇妙な風習です。女性が男性と対等に働くようになると、化粧の時間が大きなハンデになります。
私は電車内化粧がふえているのは世の中の変化の兆しではないかと、どちらかというと肯定的にとらえています。

橋下徹氏が部落差別問題で週刊朝日にかみついたことが大きな問題になったおかげで、私自身の差別問題についての認識がどんどん深まってきました。考えれば考えるほど認識が深まるというのは、私の基本的なスタンスが正しいからでしょう――と自画自賛しておきます。
 
私の基本的なスタンスというのは、週刊朝日VS橋下氏のバトルの関係者の中でいちばん弱い人、いちばんかわいそうな人に寄り添い、その視点から物事を見るというものです。
で、いちばん弱くてかわいそうな人は誰かというと、もちろん橋下氏の父親です。橋下氏の父親は被差別部落に生まれ育ちました。当時はまだきびしい差別がありましたから、橋下氏本人やその親族や、また朝日新聞関係者や佐野眞一氏らと比べると、橋下氏の父親がいちばんつらい人生を送ったことは間違いありません(だからこそ差別は重大な問題になるわけです)
 
ところが、多くの人の議論は、橋下氏の父親そっちのけで行われています。ひどいことに、橋下氏までがそうです。橋下氏は父親の生きざまを「僕とは無関係な過去」と言います。これは差別ではないかと私は主張しています。
 
橋下氏がそんなことを言うのは、父親がヤクザであったこともひとつの理由でしょう。しかし、もしそうだとすればそれはヤクザ差別というべきです。
ヤクザは、犯罪行為を罰されるだけでなく、存在そのものが法律で規制されるという妙な存在です。これは差別というしかありません。この差別は警察がつくりだしたもので、警察の方針が違っていればこの差別はありません(多少のヤクザ差別はもともとありましたが)
 
つまり、橋下氏の父親は部落差別とヤクザ差別という二階建てで差別されているわけです。
その上、もう亡くなっているので、ますます配慮されない立場です。
その結果、橋下氏だけでなく、おそらく朝日新聞社側も橋下氏の父親のことを無視して検証作業をするのではないかと案じられます。
 
ただ、佐野眞一氏は、橋下氏の父親のことを突っ込んで取材する予定でしたから、予定通りそうすれば、橋下氏の父親の名誉回復をしてくれるのではないかと思われます。というのは、その人間のことを深く知れば、その人間がその生き方をしたことの必然性がわかり、差別したり非難したりするべきではないとわかるものだからです。
その意味でも、佐野氏がするのか誰がするのかわかりませんが、橋下氏の父親についての取材は継続してほしいものです。
 
ところで、橋下氏の父親の立場になって考えると、見えてくることがあります。それは、橋下氏の母親の生き方です。
橋下氏の母親が被差別部落出身のヤクザ者と結婚して子どもをもうけたというのも興味を引くところですが、離婚してからは、幼い橋下氏に父親のことを否定的に言い聞かせたのでしょう。仲が悪くなって離婚したのだから当然のことです。しかし、その一方で、実家の姓に戻さずに「橋下」姓を使い続けます。嫌いな男の、被差別部落につながる姓を使い続けた理由はなんなのでしょうか。
 
佐野氏の連載は、本来はこのあと、「これまであまり触れられてこなかった氏の母親について詳細に書かれる予定だった」ということです。
 
もちろん橋下氏の母親は橋下氏に最大の影響を与えた人間です。佐野氏の連載継続が望まれます。
将来橋下氏が日本の総理大臣になったとき、タブーのために父親のことも母親のこともほとんどわからないというのでは、日本の恥になってしまいます。
 
 
ところで、私はとても気の弱い人間です。それでも部落差別問題について大胆な発言ができるのは、いちばん弱い人、いちばんかわいそうな人の立場に立って考えるというやり方のおかげです。このやり方をしていれば、「その発言は差別的だ」という反撃を受けることはまずないはずです。そのために自信が持てるのです。
 
私は大津市イジメ事件では、自殺した中2男子生徒の立場から考えるというやり方をしました。そして、もっぱら自殺した生徒の父親についての疑問を書き、反論というか罵倒のコメントもされましたが、自信があるのでぜんぜんブレませんでした。
 
気が弱くてあまり強く主張できないという人は参考にしてください。
 

差別はむずかしい問題です。差別をどこまで正しくとらえているかで、その人の思想のレベルがわかります。
週刊朝日及び佐野眞一氏と橋下徹氏が対立した問題について、学者、有識者の発言がひじょうに少ないように思います。差別問題について自信を持って発言できる人がいないのでしょう。週刊朝日側は謝罪して、問題を検証するために朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」に審理を要請したということですが、果たしてその第三者機関がまともに審理することができるのでしょうか。
 
差別問題がむずかしくなるのは、差別されている側が必ずしも正しいとは限らないということがあるからです。
たとえば、アメリカで黒人の犯罪率は白人の犯罪率よりもはるかに高いという現実があります。このことをもって黒人差別を正当化する人がいますが、そういう人は、「自分は差別主義者ではない。犯罪を憎んでいるだけだ」という自己認識でいますから、差別について議論すると混乱することになります。
日本では、被差別部落出身者でヤクザになる人が多いという現実があります。
もちろんこれらは、差別が先にあって、それが犯罪率やヤクザにつながっているのですが、そういう時間軸が見えない人は差別を正しくとらえられないということになります。
 
また、差別は世代から世代へと引き継がれます。言い換えれば親から子へと引き継がれるということです。ですから、親と子の関係を正しくとらえないと差別もまた正しくとらえられないということになります。
ところが、人間の認識というのは基本的に「灯台もと暗し」になっているので、親子関係というのはほとんどブラックボックスになっています。
 
というようなことで、差別問題をとらえるのはむずかしく、これは橋下徹氏においても例外ではありません。
 
私は佐野眞一氏の「ハシシタ 奴の本性」という連載記事の第一回目を読みましたが、佐野氏に差別意識があるという印象を受けました。
もっとも、ほとんどの人に差別意識があるので、佐野氏を批判する資格のある人はほとんどいませんが。
 
一方、橋下氏の主張を聞いていると、明らかに差別意識があります。しかも、こちらの差別意識はより深刻です。というのは、自分の父親に対する差別意識だからです。
 
橋下氏は最初、週刊朝日の記事に対して、「血脈主義、身分制に通じる極めて恐ろしい考え方だ」と批判しました。それに続いて、こう言ったと報じられています。
 
橋下は「育てられた記憶もない実父の生き様や先祖のことだったり、地域が被差別部落であったとか、ボクの人格を否定する根拠として暴いていく、その考え方自体を問題視している」と述べ、さらに「人格のもとが血脈、DNAだという発想で、ボクとは無関係な過去を暴き出すのを認めることはできないし、違うんじゃないか」と怒りを露にした。
 
これはひどい発言です。なにがひどいかというと、自分の父親を徹底的に否定しているからです。「僕とは無関係な過去」とまで言っています。
もちろん否定する理由があれば問題ありません。たとえば父親から虐待されたなどは立派な理由になります。しかし、橋下氏は「育てられた記憶もない」と言っています。否定する理由が見当たりません(父親から殴られた記憶があると別のところで語っていますが、橋下氏は体罰肯定論者ですから、それで父親を否定するのは理屈に合いません)
橋下氏の両親は離婚して、橋下氏は母親のもとで育っています。母親から父親について否定的なことを聞かされていたということは考えられます。では、どんなことを聞かされていたのでしょうか。また、そのことをいつまでも鵜呑みにしているのも不可解です。母親からある程度自立する年ごろになれば、「お母さんの言っていることはほんとうなのだろうか。お父さんはそんなに悪い人間なのだろうか」という疑問が出てきて当然です。
 
人工授精で生まれた子どもは、ちゃんとした両親のもとで幸せに育っても、ある程度大きくなると、自分の生物学的父親はどんな人間か知りたくなることが多いらしく、スウェーデンでは、人工授精で生まれた子どもが自分の父親を知る権利を保障する法律が制定されています。アイデンティティを確立するためには「血脈」を知ることも無視できない要素のようです。
 
橋下氏の父親はヤクザであったらしく、橋下氏が小学校2年生のころに自殺しています。そのことをもって橋下氏が父親を否定するのはかわいそうです。父親は被差別部落に生まれ、差別の中で精一杯に生きた結果、ヤクザになり、自殺したからです。
 
橋下氏が父親を否定しているのは、ヤクザで自殺したという理由からかもしれませんが、実はそのことは被差別部落出身であることと切っても切り離せません。
ということは、橋下氏が父親を否定しているのは、父親が被差別部落出身であるからともいえるのです。
 
佐野氏の記事は差別的だと橋下氏は批判します。しかし、橋下氏は被差別部落出身の父親と結びつけて自分の人格が否定されているといって批判しているのです。つまり橋下氏は自己防衛をしているのです。
橋下氏のするべきは、父親を守ることです。
「自分は公人だからどんな批判をされてもしかたないが、被差別部落出身だということで父親を批判することは許されない」
これこそが橋下氏の主張するべきことです。
このような主張なら、被差別部落出身者はもとよりすべての差別に苦しむ人、さらには多くの一般の人々の共感を呼んだでしょう。
しかし「『血脈』をあばくことによって自分の人格否定をすることは許されない」という橋下氏の主張は、おそらく誰の共感も呼ばないでしょう。
なぜなら、この主張には父親への思いがまったくなく、ということは、差別されている人への思いもないからです。
 
橋下氏は「血脈」を否定することなく、自分の父親と向き合う必要があります。そうすれば、部落差別とヤクザ差別への認識が深まりますし、刺青への偏見もなくなるでしょう。
 
 
それにしても、私は橋下氏の母親はどんな人間かということに興味を持ちました。被差別部落出身のヤクザ者と結婚したのですから、なかなかの人間と思います。橋下氏は当然その影響を受けています。
また、橋下氏は幼児期は父親といっしょにすごしたようですから、その影響も受けているはずです。その意味でも父親がどういう人間であったかを知るのはたいせつなことです。
佐野氏の連載はそうしたことをすべて明らかにしてくれたに違いありません。
 
オバマ大統領については、そのルーツがすべてあばかれています。日本で政治家のルーツをあばくことがタブーになってはいけません。
朝日新聞の第三者機関は、橋下氏のルーツをあばくことをやめてはいけないと勧告してほしいものです。
 

限度をわきまえない人を見ると白けた気分になるものです。橋下徹氏のことです。
橋下氏は朝日新聞側が謝罪したあと、今度は佐野眞一氏を攻撃しています。
 
橋下代表、執筆者への非難継続 おわびには不満
 日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は22日、自身の出自に関する記事を週刊朝日に執筆したノンフィクション作家佐野真一氏について「明らかにペンの力での家族抹殺だ。逆に僕は佐野を抹殺しに行かなきゃいけない」と述べ、記者会見やツイッターで非難を続ける考えを示した。
 週刊朝日が、23日発売の最新号でおわびを掲載することについては「これから検証すると言っているが、再起不能で矯正不可能だ」と不満の意を示し、「次の記者会見に来るかどうか。そこにかかっている」と、市長記者会見で掲載経緯などを説明するようあらためて求めた。
2012/10/2220:38   【共同通信】
 
また、橋下氏は週刊朝日が母親宛てに佐野氏の記事掲載誌を送りつけてきたとして、「母親が怒り狂ったり、狼狽(ろうばい)したりする姿を記事にするつもりだったのか。こいつら人間じゃない、鬼畜。矯正不可能な鬼畜集団」とも発言しています。
 
 
私は週刊朝日掲載の佐野眞一氏執筆「ハシシタ 奴の本性」の中にこんなくだりがあることを思い出してしまいました。
 
橋下徹の父親が自殺しているばかりか、従兄弟が金属バットで人を殺しているという。橋下徹の周りには修羅が渦巻いている。
 
自分から佐野氏の文章の通りになってどうすると皮肉を言おうとしたら、ネットのニュースを見たところ、橋下氏がツイッターで週刊朝日に謝罪していました。
 
【訂正・お詫び】連載第一回の週刊朝日を、週刊朝日サイドが実母に送り付けた事実は存しませんでした。現物は実妹が購入してきたものです。週刊朝日サイドから実母へ送ってきたのは連絡が欲しい旨のレタックスで、当該週刊朝日発売日前です。
 
事実を訂正するとともに、このような誤った事実認識のもとに、週刊朝日を鬼畜集団と批判したことは申し訳ありませんでした。以後、公言する際は、しっかりと事実確認をしていきます。
 
実にバカバカしい顛末ですが、せっかくここまで書いたのですし、これもおもしろいかと思ってそのままにしておきます。
 
橋下氏は週刊朝日への攻撃については謝罪しましたが、佐野氏を「抹殺」するとしたことについては訂正していないようです。
判断力が狂っているとしか言いようがありません。
 
小泉純一郎元首相も敵を徹底的に追い詰める戦い方をしました。しかし、小泉元首相の場合は、敵は抵抗勢力であって、構造改革のためという目的がありました。
橋下氏が佐野氏を「抹殺」しようとするのは、個人的恨みによる個人攻撃です。佐野氏を「抹殺」したところで国がよくなるというものではありません。そんなことをする暇があったら、大阪市政や維新の会の運営に力を注ぐべきです。
 
日本維新の会は1020日、全国遊説を開始し、熊本、鹿児島、福岡で橋下代表が街頭演説を行いましたが、世の中の反応はイマイチで、「政策がよくわからない」という声が多かったようです。首相公選制や一院制や道州制は、それをやっても世の中がよくなるのかどうかよくわかりませんし、脱原発、TPPについての考え方もよくわかりません。本来なら「既得権益をぶっ壊す」ということを強調すれば国民に受けるはずですが、維新の会に集まった現職国会議員がいかにも古くさい人たちなので、それを言っても説得力がありません。
橋下氏も自分がなにをやろうとしているのかわからなくなっているのではないでしょうか。
 
で、これまでの成功体験から、得意の論争術でバトルを演じて受けようというのでしょうが、個人攻撃は政治家のやることではありません。
「お前はボクシングの亀田兄弟か」と突っ込んでおきます。
 
 
なんだか脱力してしまいましたが、DNAと差別の問題についてまた書くことにします。
 
ウィキペディアの「橋下徹」の項によると、橋下徹氏の出生地は「東京都」となっており、「東京都渋谷区幡ヶ谷の六号坂通り商店街近くのアパートで幼少期を過ごした」ということです。
橋下氏が東京生まれなら、「橋下氏は被差別部落の出身」というのは違うことになります。
しかし、父親は被差別部落で生まれ、被差別部落で暮らしていたようです。その父親の血を引いているということからか、ウィキペディアには「橋下は被差別部落にルーツがある」という表現があります。週刊誌などもそうした観点を採用しているようです。
 
橋下氏は賢明にも「僕は東京の生まれだから、被差別部落の出身ではない」ということは言いません。それを言ったら、被差別部落で生まれた人は差別されて当然のように聞こえるからです。
それに、差別主義者というのは、どこで生まれても関係ないと考えているでしょう。つまり差別主義者が被差別部落の人を差別するのは、その地域に住んでいることよりも“血”を理由にして差別しているに違いないからです。
つまり差別主義者というのは、橋下氏のいう「血脈主義」だというわけです。
橋下氏は「血脈主義」という言葉をほとんど差別主義と同じ意味で使っているようです。
 
しかし、親の血が子に受け継がれることを「血脈」というのなら、「血脈」には悪い意味はありませんし、「血脈」が存在することを認める考え方を「血脈主義」というのなら、「血脈主義」にも悪い意味はありません。
人でも動物でも親の血を引いて、親の性質を受け継ぎます。それを認めることを「血脈主義」というのなら私も「血脈主義」ですし、おそらく世の中のほとんどの人が「血脈主義」です。
 
橋下氏が「血脈主義」を悪い意味で使うのは、実は橋下氏が“けがれた血”があると考えているからです。
「父親には“けがれた血”があるかもしれないが、自分の血は違う」というのが橋下氏の認識です。ですから、父親と自分を同一視する人を「血脈主義」といって攻撃するのです。
 
正しい認識は、「父親に“けがれた血”はないし、自分の血も同じだ」というものです。
こういう認識なら、父親と自分を同一視されても、「自分は父親と別人格だ」と言って反論はしても、「血脈主義だ」と言って相手を攻撃することはありません。
 
橋下氏は「血脈主義」という言葉を使うことによって、父親に“けがれた血”があるという自分の差別的認識を天下にさらしてしまったのです。
げに恐ろしきは差別主義です。
朝日新聞の人などは橋下氏以上に差別主義であるに違いありません。
 
 
差別主義については、こちらのエントリーでも書いています。
「これからの『差別』の話をしよう」

前回の「差別に負けた?橋下徹氏」というエントリーで、週刊朝日が「ハシシタ 奴の本性」という佐野眞一氏の連載の第一回目を掲載し、それに対して橋下徹氏が取材拒否という態度に出て、結局朝日新聞側が謝罪して連載も中止したという顛末について、私は橋下氏が取材拒否をしたのは橋下氏らしくない、橋下氏は国政進出の心労や維新の会の支持率低下で自信を失っているのではないかと書きました。
どうせ推測ですから、正しいも間違っているもないのですが、別の推測のほうが有力に思えてきたので、半ば訂正する意味で今回のエントリーを書くことにします。
 
橋下氏が被差別部落の出身で(正確には実父が被差別部落の出身というべきですが)、「橋下」はもともと「ハシシタ」と読むことや、実父がヤクザだったことなどはすでに報道されていたので、私は最初、橋下氏が佐野氏の記事にかみつく理由がよくわかりませんでした。そのため、自信を失っているのではないかという推測を述べたのです。
しかし、よく考えてみると、佐野氏の記事は今までの週刊文春や週刊新潮の記事とは違います。文章の迫力と説得力が違うのです。
たとえば私は、橋下氏には政治的な思想はなく、テレビのトーク番組で受けるようなことをやっているだけだとこれまで述べてきました。佐野氏も基本的に同じ考えですが、書き方は私とぜんぜん違います。週刊朝日から引用してみます。
 
橋下の言動は、すべからくテレビ視聴者を相手にしたポピュリズムでできている。ポピュリズムといっても、それを最初に政治の世界に取り入れた小泉純一郎とは天と地ほどの違いがある。
好き嫌いは別にして、小泉の言動が「千万人と雖も吾往かん」という信念というか狂気をはらんでいたのに対し、橋下の言動を突き動かしているのは、その場の人気取りだけが目的の動物的衝動である。
ヤクザとの交友關係が発覚して島田紳助が芸能界を引退したとき、大阪府知事時代の橋下は「紳助さんはバラエティー番組の宝。僕が府知事になれたのも、紳助さんの番組(『行列のできる法律相談所』)に出させてもらったおかげ」と言ってのけた。
そのとき、やはりこの男はそんなおべんちゃらと薄汚い遊泳術で生きてきたのかと、妙に得心がいった。それだけに、橋下徹はテレビがひり出した汚物である、と辺見庸が講演で痛烈に批判したとき、我が意を得た思いだった。
視聴率が稼げるからといって、この男をここまでつけあがらせ、挙句の果てには、将来の総理候補とまで持ち上げてしまったテレビの罪はきわめて重い。
 
 
それから、維新の会には何人かの現職国会議員が集まりましたが、これらの議員があまり魅力的な人物ではなく、選挙目当てで集まったように見えるので、そのため維新の会の支持率が低下したのではないかということは誰もが語ります。佐野氏も同じことを語りますが、その語り口が違います。
 
国会議員というより、場末のホストと言った方が似合いそうな男たちがもっともらしい顔でひな壇に並んだところは、橋下人気にあやかっていることが丸見えで、その醜悪さは正視できなかった。
新聞は、民主、自民、みんなの党に離党届を出した衆参の国会議員七人が新党に合流した、などと政治記事らしくきれいにまとめた。だが、打算ずくでパーティ券を売ってひと儲けした市議会、府議会議員たちを含めて、こういう下品な連中は、私から言わせれば“人間のクズ”という。
 
あまりにも感情的で、一方的に決めつける文章は、ノンフィクションにふさわしくありません。しかし、これは前振りであって、客を引きつける口上です。このあと、橋下徹氏の実父である橋下之峯の縁戚にインタビューした内容が語られ、それは本来のノンフィクションの書き方になっています。
 
とにかく佐野氏に徹底的に橋下氏を批判しようという意図があることは明白です。この調子で連載を続けられたらたまらないと橋下氏は判断したのでしょう。佐野氏のノンフィクションライターとしての力量は半端ではありません。
しかし、佐野氏に直接クレームをつけても、佐野氏が相手にしないことはわかっています。週刊朝日編集部も佐野氏と同じ立場と考えられます。しかし、朝日新聞本社を相手にすれば勝てると橋下氏は判断しました。朝日新聞はもともと部落差別問題にひじょうに敏感な新聞社だからです。そこで、橋下氏は朝日新聞系列のメディアすべてを取材拒否の対象にするという手法で朝日新聞本社を引っ張り出し、喧嘩に勝ったわけです。
 
つまり、今回の橋下氏の動きは、ひじょうに喧嘩上手なやり方で、勝てるという読みに基づいていたものではないかと思います。どっちにしても推測ですが、前回のエントリー「差別に負けた?橋下徹」で書いたことよりはこっちのほうがありそうです。
 
私は今回の問題についていろいろ考えました。
本来、佐野氏及び週刊朝日編集部は、八尾市の中の地名は伏せたほうがよかったかもしれませんが、ほかに問題はないとして突っ走ることもできました(朝日新聞本社が止めなければですが)。ただ、戦略の誤りはあったでしょう。
要するに、記事の構成が間違ったのです。
 
“前振り”のところで橋下氏を全面否定するようなことを書き、次に橋下氏は被差別部落の出身だということを書くという構成になっており、これは人格否定の根拠に被差別部落出身を持ち出したように読めてしまいます(そういう読み方は誤解だとして突っぱねることは可能ですが)
“前振り”は、「橋下氏はいずれ総理になることが有力視される人物なので、その人物像を明らかにすることはきわめて重要だ」といったことにとどめておき、橋下氏の人物評価はいっさいしなければよかったと思います。そうすれば、橋下氏の生い立ちを記述するところに被差別部落出身だと書いてもなんの問題もなかったでしょう。
 
佐野氏の連載は中止になってしまいましたが、佐野氏は書き下ろしの形でいいので、ぜひともこの原稿を完成させて出版してほしいものです。
 
 
ところで、橋下氏は朝日新聞側を批判するとき、「人権」という言葉を使いませんでした。日ごろから人権嫌いを公言しているからでしょう。そのため「血脈主義」や「身分制」という言葉を使い、さらに「DNAを暴く」という言葉も使いました。
橋下氏の言っていることを聞くと、「血脈」や「DNA」を持ち出すことがいけないかのようです。
そんなことが社会通念になってしまってはいけないので、ここは反論しておきたいと思います。
 
「血脈」も「DNA」も、その人間がどんな人間かを知るためには重要な要素です。「血脈」も「DNA」も差別とは関係ありません。むしろ「DNA」は差別をなくすために役立つものです。
いうまでもありませんが、「ヤクザのDNA」や「被差別部落のDNA」などというものはありません。被差別部落が差別されるようになったのは、なんらかの社会的な理由によるものだからです。
 
橋下氏はこうツイートしています。
 
週刊朝日は、僕の人物像を描くとしながら、僕の実父や祖父母、母親、遠戚のルーツを徹底的に暴くとしている。血脈を暴くことが人物像につながるという危険な血脈思想だ。そして僕の人格を否定することを目的として血脈を暴くと言うことは、これは僕の子どもや孫の人格否定にもなる。
 
「血脈を暴く」という表現を使ったのは(週刊朝日だけでなく橋下氏も使っている)、血脈が隠されている、あるいは血脈を隠しておきたいからでしょう。「血脈を知る」という表現ならなんの問題もないはずです。両親や祖父母のことを知ることは、その人を知ることにつながります。危険な思想でもなんでもありませんし、橋下氏の子どもや孫の人格否定になることでもありません。
 
橋下氏は「血脈」を隠しておきたい気持ちがあるのでしょうか。その気持ちが実父が被差別部落出身であることからきているのなら、橋下氏自身が差別主義者ということになります。
 
橋下氏は実父について、「父親の思い出はひとつだけ。23歳のとき、食事中に箸を投げたら、背負い投げされてぼこぼこにされたんです」と語ったそうです(ウィキペディアの「橋下徹」の項目による)
橋下氏が体罰肯定論者であることと、このときの体験が無関係であるはずはありません。
 
両親が離婚して母親のもとで育ったので、父親を嫌いになるのは不思議ではありませんが、自身の「DNA」の半分は父親のものですし、記憶はなくても幼児期に父親とふれあった体験は人格形成に当然影響を与えています。おそらく橋下氏はそのことを認めたくないので、「血脈」や「DNA」を否定したいのでしょう。
 
私に言わせれば、「血脈」や「DNA」を否定することこそ危険思想です。

「週刊朝日」1026日号が「ハシシタ 奴の本性」(佐野眞一執筆)という連載記事の第一回を掲載し、それに対して橋下徹氏が「血脈主義、身分制に通じる極めて恐ろしい考え方だ」と批判し、今後朝日新聞系のメディアの取材を拒否すると表明しました。
この時点で私は、橋下氏らしくない対応だなと思いました。「週刊文春」に実父がヤクザだったと書かれたときは、それがどうしたという対応をしたのとは大違いです。被差別部落出身だということは誰もが薄々わかっていたことで、今さら書かれても大したダメージはないはずです。
 
これに対する週刊朝日側の対応も意外でした。被差別部落に言及する以上は、それなりの覚悟があってやっていることかと思っていたら、あっさりと謝罪してしまったからです。さらに、佐野眞一氏の連載も中止すると決めました。
 
週刊朝日側の対応については、週刊朝日編集部と朝日新聞本社の意向にずれがあったのかもしれません。編集部はそれなりの覚悟を持って、理論武装していたかもしれませんが、本社が謝罪を指示したということが考えられます。朝日新聞的な考え方からすれば、被差別部落出身ということを書き立てるのはありえないことだからです。
 
しかし、こういうことで謝罪されては困ります。橋下氏は「血脈主義」という言葉を使い、週刊朝日の表紙には「橋下徹のDNA」という言葉があります。血脈もDNAも、その人間を決定するひとつの要素ですから、それを書いてはいけないとなると、人間性を探求する上で大きな障害になってしまいます。
 
というようなこともあって、私は週刊朝日のその記事を読んでみました。
うーん、これはかなり困った記事です。
読み物としてはおもしろいです。とくに反橋下の人が読むと、とてもおもしろいでしょう。要するに橋下氏のことをクソミソに書いているのです。
しかし、その後の展開が、橋下氏がなぜそうなったかのルーツを探るとして、被差別部落の話になっていきます。
つまり橋下氏がだめな人間であることと被差別部落出身であることが関係しているように読めるのです。
これは連載第一回目ですから、厳密にはここで判断してはいけないのかもしれませんが、このような展開になっていることがすでに問題であると思います。
 
なぜこのような書き方になってしまったのかというと、佐野氏(及び週刊朝日編集部)にあまりにも反橋下感情が強くて、冷静さを欠いてしまったからではないかと思われます。
私は佐野氏のほかのノンフィクションを読んだことがありますが、今回のような感情的な書き方はしていませんでした。
また、佐野氏が橋下氏を攻撃する意図を持っているなら、いつもよりよけい冷静に、足元を固めて反撃される可能性を徹底的になくして攻撃しなければいけません。しかし、今回は簡単に反撃されてしまいました。
 
というわけで、今回は週刊朝日側が謝罪したのは当然であると私は判断しました。
 
しかし、橋下氏の対応が正しかったかというと、そうではないと思います。
橋下氏もまた間違った対応をしたと思います。
 
ソフトバンクの孫正義社長も佐野氏に出自のことを書かれましたが、孫社長は佐野氏や出版社に謝罪を求めるような対応をしませんでした。孫社長と比べると、橋下氏の対応は器が小さいと言わざるをえません。
 
また、橋下氏は週刊文春や週刊新潮に実父がヤクザだと書かれ、今回調べてみると週刊新潮の記事の見出しには「血脈」という言葉が使われていますが、そのときはむしろ開き直り、取材拒否というような対応はとっていません。
 
ですから、今回も部落出身のどこが悪いんだと開き直ればよかったはずです。そのほうが橋下氏らしいでしょう。
週刊朝日に謝罪させても、被差別部落出身だと書かれたことは消せないわけで、その意味でも橋下氏の対応には疑問が残ります。
 
私が推測するに、橋下氏は国政進出の心労や維新の会の支持率低下で自信を失っており、そのため今回のような対応をしてしまったのではないでしょうか。
こうした対応は、部落差別の解消にはつながらず、むしろ部落差別の陰湿化を招いてしまうのではないかと危惧されます。
 
(この項目は「血脈やDNAを否定する危険思想」に続きます)

このごろ「子どもの騒音」に対する風当たりがどんどん強くなっている気がします。
1014日の朝日新聞朝刊東京版に「『騒音』苦情 悩む保育園」という記事が載っていました。
世田谷区の保坂展人区長がツイッターで「役所に寄せられるクレームの中で、『保育園で子どもたちの声がうるさい』というものがあり、対応に苦慮している」「防音壁を作ったり、子どもを園庭に出さないということも起きている――」とつぶやいたところ、多くの反響を呼び、2000以上リツイートされたものもあったといいます。
記事によると、保育園の騒音対策として、運動会を屋内でやったり、夏でも窓を開けなかったり、園児が園庭に出る時間を制限したり、ピアノ演奏時は窓を閉めるといったことが行われているということです。
 
 
「子どもの騒音」といえば、マンションの上の部屋で子どもが走り回るのがうるさいということがしばしば問題になります。
公園で遊ぶ子どもの声がうるさいという苦情もあるそうですし、電車の中など公共の場で子どもが騒ぐと、親が周りから白い目で見られたりします。
 
保育園についていえば、少子化が進んで昔よりはうんと「子どもの騒音」の発生源はへっているはずですし、住宅の気密性というか防音機能も強化されているはずです。それなのに「子どもの騒音」への苦情がふえているのはどうしてなのでしょう。
 
騒音の大きさはデシベルで表され、通常は条例で規制されています。騒音にも工場、工事、交通などの区分があり、住宅地か商業地か、また時間帯によって規制の値が違います。しかし、朝日新聞の記事には、保育園の騒音についてデシベルという言葉はいっさい出てきません。ほんとうに保育園の騒音は、苦情を言いたくなるほどうるさいのでしょうか。
 
たとえば、マンションの階下の住人が子どもの立てる音がうるさいと苦情を言ってきた場合、果たしてほんとうに子どもの立てる音がうるさいのか、階下の住人が気にしすぎなのかという問題があります。小さな音でも気にする人もいれば、少々の音など気にしない人もいます。
こうした問題を解決するために、デシベルという客観的な数値があり、子どもの立てる音は生活騒音に分類され、規制値も決まっています。ですから、騒音を測定すれば、客観的に判断できるはずです。
 
保育園の騒音はまだ測定されていないのかもしれません。しかし、保育園の騒音が昔よりも大きくなったということはないはずです。赤ちゃんの泣き声は昔も今もかわりませんし、同様に保育園の子どもの立てる音も昔も今も変わらないはずです。
 
ということは、保育園への苦情がふえたとすると、それは「子どもの騒音」を気にするおとながふえたということになります。
つまりこれは「子どもの問題」ではなく、「おとなの問題」なのです。
 
昔の子どもは自由に音を立てられたのに、今の子どもは音を立てることを制限される。これでは今の子どもがかわいそうです。
 
ですから、保育園への苦情がふえたのなら、子どもを指導するのではなく、苦情を言うおとなを指導するべきなのです。
 
しかし、現実には苦情を言ってくるおとなを説得したり黙らせたりするのは困難ですから、子どもを指導するという対応をとることになります。
世田谷区の保坂展人区長にしても、苦情を言うおとなは有権者ですから、「あなたががまんしなさい」とは言えません。
結局、弱い立場の子どもにがまんさせることになってしまいます。
新聞にしても、購読者はおとなですから、「おとなの問題」を追及することはできません。
 
うるさくすると叱られるなどして行動を制限された子どもはその分、人格が歪み、将来は人格の歪んだおとなになってしまいます。そうしたおとなは、子どもがのびのびしているのを見ると怒りを覚え、子どもの立てる音がうるさいと苦情を言ったりします。そのため子どもの行動を制限し、そうして育った子どもは人格が歪み……ということを人類は繰り返してきたわけです。
このように子どもの人格をゆがめることを“しつけ”といいます。
 
そして近年、ますます歪んだおとながふえて、そのため保育園への苦情もふえているというわけです。
赤ん坊が夜泣きするのがうるさいといって虐待する親も、歪んだおとなのひとつの姿です。
 
このような負のスパイラルは断ち切らねばなりません。それは、「子どもの騒音」問題は「子どもの問題」ではなく「おとなの問題」であるととらえることから始まります。

森口尚史なる人物がiPS細胞から心筋の細胞を作り心不全患者に移植して成功したと虚偽の発表をし、それを信じた読売新聞が一面で報じ、ほかのマスコミも追随したことが批判されています。いきなり人体に応用するというのはありえない早さですし、森口尚史氏も、記者会見を見る限りではいかにも怪しげな人物です。どうしてだまされてしまったのでしょうか。
 
人間は誰でも欲の皮が突っ張っていますから、そういう意味では誰でもが詐欺にあう可能性があります。人間がもうけ話に飛びついてしまうのは、猫が猫じゃらしに飛びついてしまうみたいなものです。
とはいえ、普通は理性によるブレーキが働き、「こんなうまい話があるだろうか」と考え直すものです。
 
今回の森口氏の嘘は、もうけ話ではありません。しかし、日本人にとっては広い意味での“もうけ話”です。iPS細胞を使った手術が成功したとなると、山中伸弥教授のノーベル賞の価値がさらに上がり、またその手術を成功させたのが日本人の森口氏ですから、二重に日本にとって誇らしいことになります。
この“もうけ話”は個人にとってのもうけではないので、理性によるブレーキがききにくかったのでしょう。
むしろ逆に、これを事実として伝えることは日本のためだということで、拍車がかかったに違いありません。
「愛国無罪」という言葉がありますが、同じような意味で、私はこれを「愛国バイアス」と呼んでいます。
 
もし森口氏が、「iPS細胞を使って手術をしたら失敗してしまった。山中教授の研究成果には疑義がある」と発表していたとしたら、マスコミは大いに疑って、森口氏の経歴や研究実績を調べて嘘と突き止めたに違いありません。
 
旧石器捏造事件というのもありました。これはある考古学研究者が次々と古い地層から石器を掘り出し、そのため日本の旧石器時代の始まりはアジアでもっとも古いということになって、日本人の自尊心を大いに満足させたのですが、実はこの研究者が自分で埋めた石器を掘り出していたという事件です。この研究者はあまりにも石器を発掘するのがうまく、“神の手”と呼ばれていました。それだけに疑う人もいましたが、その疑いを表明した人は逆にバッシングされていたといいます。
最終的には、この研究者が石器を埋めているところを隠し撮りした映像が決め手となって、捏造が発覚しました。もし隠し撮りの映像がなかったら、なかなか発覚しなかったに違いありません。
これも、この研究者の“発掘成果”が日本人にとって誇らしいものだったため、「愛国バイアス」が働いてしまったのです。
もしこの研究者の“発掘成果”が日本の旧石器文化はたいしたものではなかったというものなら、すぐに捏造が発覚していたに違いありません。
 
また、かなり古い話ですが、和田心臓移植事件というのもありました。これは日本で初めての心臓移植手術ということで、やはり日本人の自尊心を大いに高めました。そのため、この手術について疑義を表明した作家の渡辺淳一氏らは世間から大いにバッシングを受けました。しかし、のちに和田寿郎医師のやったことはほんど犯罪に近いことだったとされています。
 
欲の皮を突っ張らしてしまったために詐欺にあった人がいると、しばしば周りの人が気づいて、被害の拡大を止めてくれます。
しかし、日本人全体をいい気持ちにさせる詐欺は、誰も止めてくれないどころか、お互いに情報交換することでますます詐欺を信じる方向に行ってしまいます。
「大本営発表」もそのひとつです。行き着くところまで行かないと止まりません。
これが「愛国バイアス」の恐ろしいところです。
 
尖閣諸島や竹島の領土問題についても同じことがあるかもしれないので、私は領土の帰属についての日本の報道は鵜呑みにしないようにしています。
 
従軍慰安婦問題については、少し調べて、まさに「愛国バイアス」がてんこ盛り状態になっていることがわかりました。日本人にとって気持ちのいい情報ばかりをやり取りしているうちに、とんでもないところまで行ってしまっているのです。河野談話を見直せと主張している人たちの議論は、韓国の反発を招くだけではなく、国際社会に出すと日本人が大恥をかいてしまいます。
 
人間は生まれつき利己的にできています。ですから、そのことを踏まえて自分の認識をつねに補正していないと、正しい認識は得られません。
これは国家規模でも同じことで、日本人は日本についてつねに都合よく考えているということを自覚して、補正しなければなりません。
それができない「愛国者」はすなわち「情報弱者」となってしまいます。
ネットの中にはこの手の「情報弱者」があふれています。

今年のノーベル平和賞がEUに授与されることに決まりました。人ではなく機関や組織が受賞するというのはそんなに珍しいことではありませんが、EUというのは想定外で、意表をつかれた感じです。
この授賞のメッセージ性についてはすでにいろいろ論じられていますが、私が改めて感じたのは、欧米の人というのは、自分たちが世界を動かしているのだという意識を普通に持っているのだなということです。
逆にいうと、日本人にはそういう意識がまったくないということです。
 
スポーツのルールが、日本人選手が活躍するとしばしば欧米人選手が有利なように変えられてしまうのは、皆さんもご存じの通りです。これは欧米人がずるいというよりも、日本人があまりにもそういうことにうといということではないでしょうか。
 
今週は東京でIMF・世界銀行総会が行われていましたが、日本が世界に対してなにかメッセージを発するということはありませんでした。白川方明日銀総裁は前から欧米に対してバブル崩壊後の日本の経験を発信していて、欧米からも評価されていますが、こうするべきだという言い方はしていないはずです。欧州の景気減速は日本経済にも悪影響を与えていますから、城島光力財務相はたとえばギリシャやスペインはもっと財政再建に努力すべきだとか、ドイツは欧州共同債発行に賛成するべきだとか発言してもいいはずです。しかし、日本人は欧米に対して、そういう“上から目線”の発言をしたためしがありません。
むしろ逆に、今回のIMF・世界銀行総会で日本でいちばん話題になったのは、中国の財政相らが欠席したということです。世界のことよりもアジア・ローカルのことに関心が向かうのです。
 
日本が欧米に対して対等の発言ができないということは、内田樹氏の「日本辺境論」を読んで改めて認識しました。日本は昔から中国文明の辺境にあって、文明の成果だけを取り入れ、現在は欧米に対して同じことをしているといった内容です(かなり粗雑な要約です)
 
私が「日本辺境論」を読んだのは、ちょうど鳩山政権が普天間問題で迷走していたときでしたから、日本が普天間問題を「国外・県外」で解決できないことに納得してしまいました。
なぜ解決できないかというと、鳩山政権のせいというよりは、辺境意識を脱することのできない日本人が鳩山政権にまったく協力しようとしなかったからです。
 
ところで、今回のノーベル平和賞のメッセージ性について、私は勝手に、日本、中国、韓国などの東アジアもEUを見習うべきだという意味もあるのではないかと解釈しました。少くとも東アジアの人たちはそう受け止めたほうがいいということはいえるでしょう。
 
中国人は日本人のような辺境意識を持たず、むしろ文明の中心であるという意識を持っていると思われますが、ただ、欧米に対してあまりものが言えないことでは日本とそう変わりません。
たとえば、中国はアヘン戦争でイギリスに敗れ、それからヨーロッパの列強は中国に不平等条約を押しつけて、中国は半植民地化されます。日本の中国侵略はその流れに乗っかったものですが、現在中国は日本の侵略については文句を言いますが、欧米についてはなにも言っていないはずです。
日本が中国や韓国と過去の侵略や植民地支配についてやり合っているのはまったくバカげたことです。日本は欧米に使われて代理戦争をやっているようなものです。日本は中国や韓国と手を組んで、いっしょになって欧米にものを言うべきでしょう。
そうすれば、東アジアの対立は解消され、いずれはEUのようになっていくことも不可能ではありません。
そのときは、EUにならってAUという名前になるのでしょう。
 
そうなるためにも、日本や中国は欧米と対等のプレーヤーであるという自覚を持たなければなりません。

今年のノーベル文学賞は中国の小説家、莫言氏に授与されることに決まりました。期待された村上春樹氏は残念な結果となりました。
莫言氏は映画「赤いコーリャン」の原作者だということですが、私の認識の網にひっかかるのはそこだけで、あとはなにも知りません。
それにしても、中国人作家が受賞したとなると、村上氏の受賞は遠くのかもしれません。授賞する側は地域的な偏りを嫌うからです。
 
私は最初のころは村上氏の作品のよい読者でしたが、「ノルウェイの森」があれよあれよとミリオンセラーになっていくのを見ているうちに読みそこない、そこからあまり読まなくなりました。みんなが読むものは読まなくてもいいかという心理がありますし、私は「科学的倫理学」を理論づける作業をしなければならないので、楽しみのための読書をしている場合ではないということもあります。
 
もちろん村上氏はたいへん優れた作家です。力の入った長編だけでなく、いかにも力を抜いて書いたようなエッセイがおもしろいというところにその力量が表れています。
 
しかし、村上氏の思想的な側面はというと、正直あまり評価できません。
たとえば村上氏は2009年、エルサレム賞を受賞し、エルサレムでの授賞式の記念講演において、「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と語りました。これは当時、イスラエル軍がパレスチナのガザ地区に侵攻して国際的な非難を浴びていたので、それを踏まえたものであることは明らかです。
しかし、私は「壁と卵」の比喩にひじょうな違和感を覚えました。今、ウィキペディアで調べてみると、いろいろな人が批判しています。文芸評論家の斎藤美奈子氏は「こういう場合に『自分は壁の側に立つ』と表明する人がいるだろうか」と書き、作家の田中康夫氏は「壁の側にだって一分の理はあるのでは」と語り、フランス現代思想の浅田彰氏は「壁と卵の比喩は曖昧すぎる」と語ったそうです。
ただ、ペレス大統領などイスラエルの政府要人が集まった場所での発言ということで評価できるという見方もあります。
 
私が「壁と卵」の比喩に違和感を覚えたのは、この比喩ではイスラエルとパレスチナの関係が永遠に変わらないことになってしまうからです。
確かに今はイスラエルの軍事力が圧倒的なので、「壁と卵」の比喩でいいですが、歴史を振り返ると、無敵の軍隊や無敵の国家というのはありません。いつかは必ず敗れるときがくるものです。
ですから、私なら、軍事力で保たれている国というのはいつかは滅びる、今は壁でもいずれ卵の側になることを忘れるな、というふうに言います。このほうがイスラエルの要人にもこたえるのではないでしょうか。
 
それから村上氏は9月28日、日中が尖閣問題で対立していることについて朝日新聞に寄稿しました。今や村上氏は大作家ですから、この文章は朝日新聞の一面(と三面)に掲載され、かなり注目されました。
 
村上春樹さん寄稿 「魂の道筋、塞いではならない」
(現在全文は読めなくなっているようです。読みたい人はどこかのサイトで探してください)
 
しかし、読んでもあまりピンときませんでした。ただひとつだけ印象に残ったのは、領土を巡る熱狂は「安酒の酔いに似ている」と表現したところだけです。
要するに愛国的熱狂は「安酒の酔い」だと言ったわけで、これは比喩としてはそんなに悪くありません。しかし、現在愛国的熱狂にとりつかれている人は、「なぜこれが安酒の酔いなのだ。高級酒の酔いとどこが違うのだ」と思うでしょう。そして、そう思う人を説得する論理がありません。
つまり「壁と卵」もそうなのですが、「安酒の酔い」も文学的表現なのです。
村上氏は文学者ですから、それでいいと言ってしまえばそれまでですが、やはり政治的問題について発言するときは、ある間違った考え方があるとして、その考え方がどう間違っているかを明らかにするものでなければならないのではないでしょうか。
 
尖閣問題で日中間が揺れるこの時期に村上氏が寄稿した文章だけに、多くの人がその内容に期待したのではないかと思われますが、正直期待外れと言わざるをえませんでした。
もっとも、このことが村上氏の作家としての評価を下げるようなことにはなりませんが。
 
 
ちなみに私は、ナショナリズムや愛国主義は「国家規模の利己主義」だと言っています。
領土を巡る愛国的熱狂は「国家的利己主義の熱狂」ということになります。
利己主義の熱狂は、自己満足ですから、必ずあとでむなしくなります。
これが「安酒の酔い」ということだと思います。
私流の表現だと「オナニーのあとのむなしさ」ということになります。
 
安倍晋三自民党総裁の著書の題名は「美しい国へ」で、麻生太郎元首相の著書の題名は「とてつもない日本」です。題名からしてオナニー臭が漂っています。
 
愛国主義が実は「国家規模の利己主義」だとわかれば、愛国主義に熱狂することのむなしさもわかるはずです。

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