最近、電車の中で化粧をする女性がふえていて、不愉快だ、マナー違反だという声がよく聞かれます。電車内で化粧することはほんとうによくないのでしょうか。
今回は電車内化粧問題について考えてみます。
電車内で化粧していると、化粧品の粉が飛んで周りの人にくっつくということがあるかもしれません。これは明らかな迷惑ですから、いけないに決まっています。
では、そういう物理的、具体的な迷惑をかけないようにやればよいのかというと、そういうことではありません。見ていて不愉快だという声が多いようです。
見ていて不愉快というのは、感性とか価値観に関わってきて、人によって違います。
では、ほとんどの人が見ていて不愉快だと思えば、それはマナー違反としていいのかというと、そうともいえません。ほとんどの人の感覚が間違っているということもあるからです。たとえば、白人が多数派の社会で、黒人と同席するのは不愉快だという声が多いからといって、待合室を白人用と黒人用に分けるべきだということにはならないわけです。
電車内化粧が嫌われるのは、もしかして差別と関わっているかもしれません。というのは、電車内化粧をするのは、当然働く女性だからです。
もちろん、偏見や差別と関係のない、正しい感覚というのもあります。
では、正しい感覚と間違った感覚というのはどうして区別すればいいのでしょうか。
ひとつの判断基準として、進化生物学的な根拠があるかないかというのがあります。
たとえば嘔吐物、要するにゲロですが、朝の路上に見かけたりするとひじょうに不愉快です。なぜ不愉快かというと、吐瀉物には毒が含まれている可能性があるからです。同時に栄養物でもありますから、いくら飢えていても決して食べることがないぐらいに強烈な不快を感じるように私たちは生まれついているわけです。
糞尿に不快を感じるのも同じです。たとえば赤痢のような病気が移ってしまう可能性があるからです(母親は赤ん坊の便を不快には思いません。赤ん坊から母親に病気が移る可能性はないからです)。
ですから、このような感覚には進化生物学的根拠があるといえます。
ただ、人間というのはひじょうに複雑で多様ですから、中にはスカトロマニアというのもいます。また私は、女性が口の中に指を突っ込んで透明なボウルにゲロを吐き続け、そのゲロをすくってまた食べるというフェチビデオを見たことがあります。
しかし、進化生物学を踏まえれば、そういう感覚はまともではないと判断できます。
ですから、路上に犬の糞を見るのは不愉快だから飼い主は糞の始末をするべしというマナーもおおむね正当なものであると判断できます。
ただ、化粧というのは高度に文化的なものなので、おそらく進化生物学を基準には判断できないと思われます。
しかし、多くの人が電車内化粧、つまり公衆の面前で化粧することを不愉快に感じるという現実があります。この不快感はどこからくるものなのでしょうか。
私が思うに、化粧というのは女性の美しさを底上げするものですから、その過程を見せてしまうと、すべての化粧した女性の美しさは底上げされたものだということがバレてしまうので、とくに女性は嫌うのではないかということです。
もちろん最初からバレてはいるのですが、日常的にそれを見ると、バレ方が違ってきます。映画のセットの裏側を何度も見せられるようなものです。
また男性も、女性の美しさに幻想を抱いていたいので、化粧をするところを見たがらないということもあるでしょう。
つまり化粧というのはあくまでごまかしなので、化粧の過程を見せたらごまかしにならないということで、電車内化粧は嫌われるのではないかと思われます。
では、電車内化粧はマナー違反かというと、私はあまりそうは言いたくありません。
なぜなら、電車内化粧をする人にはそれなりの理由があるはずだからです。
勤め人にとって朝の時間は貴重です。1分でも長く寝ていたいからです。それを考えると、電車内で化粧する人をあまり批判する気になれません。
それに、そもそも化粧というのはほんとうに必要なのかという疑問もあります。
たとえば、昔はストッキングは「第二の皮膚」と言われ、ストッキングをはくことはおとなの女性の身だしなみとされていました。しかし、いつのまにかナマ足ブームがきて、今ではナマ足が当たり前になっています。
そのうち“ナマ顔”が当たり前になる時代がこないとも限りません。
そもそも、男性の化粧がまったくないわけではありませんが、女性だけが義務のように化粧するというのはひじょうに奇妙な風習です。女性が男性と対等に働くようになると、化粧の時間が大きなハンデになります。
私は電車内化粧がふえているのは世の中の変化の兆しではないかと、どちらかというと肯定的にとらえています。