村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年10月

シリーズ「横やり人生相談」です。
日本では結婚した夫婦3組のうち1組が離婚するといわれています。おそらく多くの離婚は、小さな行き違いの積み重ねが大きな亀裂となるという過程をたどるものと思われます。ですから、小さな行き違いを甘く見ないで、正しく対応することがたいせつです。
 
今回の人生相談は、結婚前の同棲中の若いカップルのちょっとした行き違いですが、女性のほうはかなり深刻なダメージを受けています。
 
作った食事が手抜きだと言われました  とうふ 2012105 15:52
 トピを開いて頂きありがとうございます。20代女性です。来年結婚を予定に彼氏と同棲しています。
相談したいのはトピの通り、一昨日に彼氏に食事が手抜きだといわれたことが悲しくショックでした。
 
その日の晩御飯は味噌汁・ごはん・ハンバーグ・コールスローサラダでした。品数は少ないですが、ハンバーグはミンチからつくり、味噌汁もダシからとり、サラダはプロセッサーで刻み、ごはんは彼氏の帰ってくる時間に合わせて炊き立てを出しました。
帰ってきた彼がその食事を食べると「手抜きじゃないか」と言いました。そう言われて私は一瞬「・・・え?」となりました。それに加えて「今日は仕事だったの?」と彼氏にイヤミを言われ、一気に気分が悪くなりました。(私は病気で医師の指示もありパート勤めです。)
私は怒りを抑え「手抜きをしたつもりはないよ?どこが手抜きなのかな?」と聞きましたが、彼氏は「いや、手抜きだし」と吐き捨てるように言いました。
 
もう顔も見たくなくなってしまい、部屋に戻りました。そして昨日彼氏は「何を一人で怒っているんだ。」と言うのです。その発言にもブチっとなり、「私はアンタのために作ったご飯を手抜きって言われたから怒ってるの!それを言われて腹が立ったから部屋に戻ったの!人の気持ちを解れよ!」と怒りました。しかし彼は「手抜きだったからそのまま言っただけじゃないか!」と言うだけ。
 
私のキレ方はおかしいですか?これまでも喧嘩はあり乗り越えてきましたが、なんだか今回はどっと疲れてしまいました・・・。
 
先輩方、どうかご助言お願いします。
 
 
これは読売新聞系の掲示板「発言小町」に載ったものです。こうした相談や質問がトピックとして立てられ、それに誰でもがレスをつけられるという形式です。
このトピックには400余りのレスがつきました。私がざっと読んだ感じでは、7割から8割は彼氏のほうを批判するものですが、やはり手抜きではないか、おかずの品数が足りないのではないか、彼氏にとってはボリュームが足りないのではないかという意見もありました。
 
私の感覚でも、家庭の夕食としては物足りないと思います。ハンバーグのつけあわせが何か書いてないので、おそらくコールスローサラダがつけあわせなのでしょう(ハンバーグだけお皿に載っているなら別ですが)
町の洋食屋ならハンバーグのつけあわせはニンジンとポテト、定食屋なら千切りキャベツというところでしょう。ですから、この食事は、定食屋のハンバーグ定食のつけあわせがコールスローサラダになっているだけです。なんで家庭料理が定食屋と同じなんだよという気がしてしまいます。物足りないだけでなく、栄養バランスもよくありません。
 
このトピ主はこのあと自分で次のようなレスをつけています。
 
トピ主です
()
私はレスの中で「もう一品増やしてみては?」という意見を取り入れてみようと思い、昨日から毎日作った献立をノートに書くことにしました。今思えば食費を二万円以内に収めようと、食事内容をケチっていたことがあります。(もやし・豆腐・大根葉をよく使う)。彼に不満が募るのは当然ですよね…。
 
私の話を少しさせていただきます。
私の母は全く料理をしない人です。私と父は夕食のお金を渡され、コンビニや定食屋で食べてこいという食生活でした。家庭科の調理実習で、包丁が全く使えずお皿もまともに洗えなかった私を、教師は失敗例として皆のまえで取り上げました。
 
大学進学のため一人暮らしを始め、料理も始めてみました。バカでも分かる料理初心者の本を本屋で必死に探し、火傷や切り傷をしながら独学で勉強しました。だから今回の件で、非常に腹が立ったことを理解して頂けると幸いです。
 
 
こういう事情ですから、彼氏が彼女の料理に不満を持つのも当然といえるでしょう。
 
ただ、問題は彼氏の言い方です。「手抜き」という言い方をして、どう手抜きなのかを言いません。
多くの人はこの言い方に反発を覚えて、彼氏を批判するレスをしたものと思われます。
 
「手抜き」という言葉には、相手の心のあり方を道徳的に非難する意味合いがあります。
私が「手抜き」という言葉で思い出すのは、現在野球解説者の江川卓氏のことです。
 
江川卓氏は高校時代に“怪物”と呼ばれたほどの実力派投手でしたが、プロ入りするときにいわゆる「空白の1日」という手法でドラフト破りをして、むりやり巨人に入団しました。このいきさつから読売以外のマスコミは江川投手に圧倒的な反感を持ち、江川投手のデビュー戦となった阪神戦で、阪神のラインバックに逆転スリーランホームランを打たれたときには記者席から「バンザイ」の声が上がったという話があります。
江川投手は実力のわりにはホームランを打たれる傾向がありました。普通は、力のある投手がホームランを打たれたら、「失投」とか「気のゆるみ」とか言われるところですが、江川投手の場合は決まって「手抜き」と言われました。
「気のゆるみ」よりも「手抜き」のほうが非難の色合いが強くなるからでしょう。
 
ですから、彼氏から「手抜き」と言われた彼女がキレてしまったのもある程度理解できます。
いや、彼女がキレたのもよくないですが、それよりも彼氏の言い方のほうが問題でしょう。
 
「手抜き」と言われても、なにをどう直せばいいのかわかりません。それよりは、「おかずの数が少ない」とか「そんなにケチらずに、もっと食事に金をかけろ」とか言ってくれれば、お互いに話し合っていい方向に持っていくことができます。
 
私が思うに、彼氏は実質ハンバーグしかおかずのない食卓を見て、これは自分がないがしろにされているからだと判断して、腹を立てたのでしょう。そのため「手抜き」という言葉で彼女を非難してしまったのです。しかし、それは彼の誤解で、定食みたいな食事が彼女の家では普通のことでした。
ここに2人の行き違いの根本があります。
まったく別の暮らしをしていた2人がいっしょに暮らすようになると、必然的にこうした行き違いが出てきます。
 
こうした行き違いをなくすひとつの方法は、相手の実家に行ったときに、そこでの暮らしぶりをよく観察することです。そうすると、日ごろ不審に思っていた相手の行動が実家では普通の行動だということがわかったりします。
 
もっとも、それでも行き違いは避けられません。
 
そういうときは、相手を道徳的に非難する言葉を極力使わないことです。
 
私はかねてからの持論として、「家庭に道徳を持ち込むな」と言っています。
道徳は相手を非難・攻撃する道具であって、相手と仲よくしたいときには道徳を持ち込んではいけません。
たとえば、私は自民党の安倍晋三総裁を「反省がない」「ストレスに弱い心ではだめだ」と言って道徳的に非難しましたが、これは安倍総裁に退場してほしいからです。安倍総裁に期待しているならこんな言い方はしません。
 
 
相手を道徳的に非難したくなったときは、自分の心に怒りがあるのです。怒りは愛情の対極です。この原理に気づけば、怒りを抑えて愛情を回復することができます。
このことを理解すれば、離婚という事態も大幅に防止できるものと思います。

人間はみな、完全に公平であるよりはほんの少し利己的に生まれついているので、つねに利益を巡って互いに闘争しますが、最終的に力のある者は公平以上の利益を得、力のない者は公平以下の利益を得る結果となります。そして、人間社会はそのような不公平を制度化したものとなっています。
有能な者はその能力に応じてより多くの利益を得、無能な者はその能力に応じてより少ない利益を得るというのは公平なあり方ですが、人間社会はそのようなものではありません。力のある者が不当な利益を得る、つまり権力者及び権威者が甘い汁を吸うという社会なのです。
これは「科学的倫理学」の基本です。これを頭に入れておくと、世の中のあり方がよりはっきりと見えてくるはずです。
 
権力者及び権威者といってもいろいろありますが、裁判官は権力と権威を持っていることでは間違いなく最高クラスです。高給取りであるだけでなく、どんな間違った判決を出してもほとんど名指しで批判されることがないほど身分が保障されています。
その裁判官が不当な利益を得ているのではないかということで裁判が行われているということを、たまたまいろいろなブログを紹介するBLOGOSというサイトを見ていて知りました。天木直人氏という元外務省官僚のブログです。このことは知らない人がほとんどだと思うので、ここに引用しておきます。
 
大手メディアが決して報じない最高裁裏金疑惑裁判 
  こんな裁判が行われていたのだ。10月3日の日刊ゲンダイで初めて
 知った。
 去る9月27日に東京地裁で最高裁の裏金疑惑裁判が行われていたのだ。
 警察の裏金問題があれほどメディアにとりあげられ騒がれたのに、なぜ
 最高裁の裏金疑惑をメディアは一切報じないのか。
 司法の最後の砦である最高裁が犯罪を犯している疑いがあるということ
 は究極の矛盾であるというのに。
 しかも日刊ゲンダイが報じたのは単なる裏金裁判が開かれていたという
 事実だけではない。
 日刊ゲンダイのその記事は傍聴者の証言を引用してこう書いている。
 普通は誰でも出入り自由の法廷であるがこの日は警備員約40人が開廷
 1時間ほど前から鉄柵とロープを張り、歩行者の動きに目を光らせていたと。
 裁判所職員が携帯で「現在、原告者側何名、報道関係者何名」などと
 報告する姿が目撃されていたと。
 傍聴者は入廷前にカメラや携帯、録音機持ち込みなど厳しくチェックされ
 ていたと。
 私が最も驚いたのは法廷に使われた部屋が小さい上に、傍聴席がわずか
 8席しかなかったと日刊ゲンダイの記事が書いていることだ。
 これは裁判公開の原則に反する異常さだ。
 それほど最高裁が国民から真実を隠そうとしているということだ。
 そしてその傍聴者はこう証言している。
 肝心の裁判は、訴状や答弁書の簡単な確認だけで終わりたった5分で閉廷
 されたという。
 私もイラク訴訟の原告の一人として名古屋高裁の法廷に何度も足を運んだ
 ことがある。
 その体験から、この国の裁判が如何に形式化しているかを知ったが、それ
 にしてもこれはひどい。
 私がこの記事を読んでつくづく思ったのは司法記者の怠慢である。
 司法記者は取材用の席を特別に与えられている。国民に裁判を正しく伝え
 る使命があるからだ。
 その使命と引き換えに与えられた特権を自ら放棄している・・・
 
このブログだけでは、日刊ゲンダイの記事がほんとにそのようなものであったのかわかりませんが、こちらのサイトで確かめることができますし、ここからのリンクでより詳しいことがわかります。
 
★阿修羅♪ 大手メディアが決して報じない最高裁裏金疑惑裁判 天木直人
 
この最高裁裏金疑惑というのは、元裁判官の生田暉雄弁護士が告発したことから始まったもののようです。
警察の裏金疑惑というのは、天木直人氏が指摘するようにマスコミでも大きな問題になりました。
検察の裏金疑惑の場合は、それを告発した元検事の三井環氏がテレビ番組に出演する日の朝に逮捕され、この逮捕は疑惑つぶしではないかとマスコミでかなり騒がれました。結局、三井環氏は実刑判決になり、検察の裏金疑惑はうやむやになっています。
 
しかし、最高裁の裏金疑惑というのは、私は今までまったく知りませんでした。大手メディアがまったく報じないのですから、当然ではあります(グーグルのニュース検索でもまったく引っかかってきません)
もし最高裁が裏金づくりをしているのが事実なら、生田暉雄弁護士が言うように「日本国民は、犯罪者集団に裁かれているのです」ということになります。
 
もっとも、今の段階では事実かどうかわかりません。生田暉雄弁護士が変人で、まったく間違った言いがかりをつけているだけかもしれません。
しかし、もしそうだとすると、裁判所が傍聴者を監視し、傍聴人席を8人分しか用意しないというのが不可解です。疑惑がまったくの間違いなら、堂々と情報公開すればいいのです。
警察や検察と同じに最高裁が裏金づくりをしていたとしても、「科学的倫理学」の立場に立つ私はまったく驚きません。というか、そういうことはあって当然だと思います。
 
それにしても、このことをまったく報道しないマスコミとはなんなのでしょうか。ひじょうに大きな問題につながる疑惑だけに、ニュースバリューも大きいはずです。
 
最近の日本がまったく沈滞して、政治の力ではなんともならないのは、官僚の力が強すぎて、かつマスコミが官僚と一体化しているからだと私は考えているのですが、マスコミはとりわけ裁判所、検察、警察に従属しています。警察が容疑者を逮捕すれば容疑者を批判する記事を書き、検察が起訴すれば被告を批判する記事を書き、裁判所がおかしな判決を下してもほとんど批判しません。
これはマスコミが善悪や正義についてみずから判断する力をまったく持っていないからです。
 
こうした状況を打破するためにも、私が提唱する「科学的倫理学」が重要になってきます。マスコミが「科学的倫理学」を理解すれば、自信を持って警察司法権力を批判することができるようになります。
 
もっとも、今はマスコミも権力と権威の側に属しています。少なくともそう思っているようです。
しかし、警察司法権力は国民から強制的に徴収する税金によって成り立っていますが、新聞社やテレビ局は一般国民に支持されてこそ経営が成り立つのです。そのことを理解すれば、マスコミの進むべき方向もおのずとわかるはずです。

映画監督のスティーヴン・スピルバーグ氏が小中学生時代にイジメにあっていたことを告白し、話題になっています。読み書きが困難になる「ディスレクシア」と呼ばれる学習障害が原因でイジメられたということですが、スピルバーグ氏ほどの人物でもイジメられるということは、イジメというのは全世界的に存在する深刻な問題だということでしょう。
 
スピルバーグ氏、学習障害を告白 「映画で救われた」
 
イジメというのは動物の世界にもあり、生まれつきの障害があるなどの“毛色の変わった”個体は兄弟からイジメられることがありますし、場合によっては親が養育拒否をすることもあります。
人間の世界のイジメは、そうした生まれつきの要素だけでなく、さまざまな要素が加わって、より複雑に、より深刻になっているといえます。
中でも学校という存在がイジメを深刻化させていることは間違いありません。
たとえば、地域には昔から自然発生的な子どものグループがあって、子どもはそこで遊びや人づきあいを学ぶわけですが、そこのグループ内にも当然イジメが発生することがあるでしょう。しかし、イジメられた子はそこのグループを抜けて別のグループに行くこともできますし、そのグループ内で自分をイジメない子とだけつきあうということもできます。
また、江戸時代の寺子屋は、義務で行くわけではないので、そこでイジメられたとしても、行かなくてもいいわけですし、ほかの寺子屋に行ってもいいわけです。
しかし、学校においてイジメが発生した場合、子どもは学校に行かないわけにいきませんし、クラスを抜けるわけにもいきません。
学校というのはまったく特別の存在なのです。
スピルバーグがイジメられたのも、学校に行ったから、あるいは学校があったからといえるでしょう。
 
となると、イジメ対策として、学校のあり方を根本的に変えようではないかという議論が起きてもよさそうなものですが、残念ながらそういう議論はまず聞きません。学校はそのままにして、子どものあり方をなんとかすることでイジメに対処しようという議論がほとんどです。
たとえば岐阜県可児市では「いじめ防止条例」が可決されましたが、この条例は子どもが読みやすいように「です」「ます」調で書かれ、たとえば「子どもは豊かな人間関係を築き、互いに相手を尊重しなければなりません」「保護者は、子どもにいじめは許されない行為と理解させるよう努めなければなりません」といった条文があります。しかし、もちろん条例ですから、学校制度を変えるようなものではありません。
 
いじめ防止条例、可児市議会が可決
 
多くの親は、子どもが学校でイジメられていても、学校へ行かないという選択肢を考えることができません。いわば“学校信仰”のようなものがあるのです。
どうして“学校信仰”があるのかということは、福沢諭吉の「学問のすゝめ」の冒頭部分を読めばよくわかると思います。
 
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」というのは有名な書き出しですが、これはいわば理想を述べたもので、現実はそうではないということがこのあと具体的に書かれます。そして、この段落の最後はこう締めくくられます。
「前にも云へる通り、人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。唯學問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無學なる者は貧人となり下人となるなり」
これが福沢諭吉のいいたいことであり、だからこそ若い人に学問をしなさいと勧めているわけです。
 
学問によって貴賤貧富の差が生じるというのですから、学校に行くことがたいせつになりますし、学歴もたいせつになります(学歴があるイコール学問があるではありませんが、それほど違いませんし、人が学歴を見て学問のあるなしを判断するのもしかたのないことです)
こうして“学校信仰”あるいは“学歴信仰”が生まれることになります。
 
いや、ことはそう単純ではありません。
現在の“学校信仰”は福沢諭吉先生の想定外のものになっているのです。
 
福沢諭吉はあくまで若者を対象にして学問のたいせつさを説いています。つまり学問とはみずから学ぶものであり、それは大前提なのです。
 
しかし、今の学校はみずから学ぶ場ではありません。義務教育ですから、学ばされる場なのです。親や教師は子どもにむりやり学ばせています。
これは当然子どもにとってストレスとなり、そのため学校は特別に多くのイジメが発生する場となっているのです。
 
孔子は多くの弟子を育てたので教育者とも言われますが、弟子はすべてみずから入門してきた者たちで、孔子がむりやり教えたということはありません。
また、「孟母三遷の教え」というのがあって、孟子の母は子どもの教育のために三度の引っ越しをしたということですが、孟母が直接子どもに「勉強しなさい」と言って勉強させたということはないはずです(だからこそ引っ越ししたのです)
 
つまり義務教育や近代学校制度というのは、それまでの学びとはまったく違うものなのです。
なぜここで学びが義務となったかというと、帝国主義の時代には国の存続のために子どもをむりやり教育しなければならなかったからです。兵士や労働者や学者や官僚を養成しないと、その国はほかの国との競争に負けてしまいます(古代ギリシャのスパルタや日本の武士階級でも強制の教育はありましたが、これらも戦士をつくるためのものです)
そういう意味では、義務教育が行われたのもある程度やむをえないことだったといえますが、果たして今も同じことを続けている必要があるのでしょうか。
義務教育がないと植民地化されるという時代ではありません。
 
義務教育のために、親は子どもにむりやり勉強させることになります。そうした親子関係は不幸です。
義務教育か家庭の幸福かといったら、どちらがたいせつでしょうか。
 
憲法を改正して義務教育を廃止し、学校を子どもがみずから学ぶ場にすれば、学校でのイジメも大幅にへるでしょうし、親と子の関係もよくなり、幸せな家庭がふえるはずです。

最近、このブログでは世の中のだめなところを指摘することが多くなっている気がします。たまには世の中のよいところも書いてみようかと思っていると、ちょうど内閣改造がありました。これまでの閣僚でなにかほめることはないかと探してみると……なかなか見つかりません。
あえていうと、安住淳氏は財務大臣になったとき、不適任ではないかとかなり危ぶまれましたが、とくに失敗もなく要職をこなしてきたのはよかったかもしれません。
藤村修官房長官も、派手さはありませんが、野田内閣がそれなりの安定感を持っていることに寄与してきたといえるでしょう。
枝野幸男経済産業大臣は、脱原発の方向で存在感を示したこともありましたが、大間原発建設再開を認めるなどブレてしまったので、評価できなくなってしまいました。
あと、途中就任の森本敏防衛大臣、4人の死刑執行をした滝実法務大臣が印象に残るぐらいで、ほかの大臣がなにをやったのかよくわかりません。
 
新内閣では10人の新閣僚が選ばれましたが、一応知っているのは田中真紀子文部科学大臣、前原誠司国家戦略大臣、樽床伸二総務大臣、下地幹郎郵政民営化大臣だけで、あとの6人は名前も知りませんでした。
財務大臣になった城島光力氏は、政策関係の役職については党政調会長代理を務めたことがあるくらいで、財務にはほとんど通じていないのではないかと見なされています。野田総理が城島氏を選んだのは、財務官僚の振り付け通りに動けばいいということなのでしょうか。野田総理の、これからも財務省主導でやっていくという意思表示かもしれません。
 
新内閣になにかほめるところを探しましたが、なにもありません。世間的にも新内閣の評判はあまりよくないようです。新聞を見ると、「論功行賞内閣」「輿石東幹事長の影響力」「離党阻止狙い」といった言葉が並んでいます。
 
自民党政権時代から閣僚人事というのは、派閥均衡順送りといわれて、実力よりは当選回数に応じて順番に大臣になっていくというのが基本でした。野田内閣も同じやり方をしているようです。
 
問題は、こうしたやり方にあまり批判の声が上がらないことです。
野党やマスコミは一応批判しますが、どことなく「こんなものだ」と納得している節があります。
 
また、民主党内においても、「なぜあっちばかり優遇するんだ」という不満の声はありますが、「なぜ実力者を起用しないんだ」という批判の声があるという報道はありません。
 
一応今の国会議員は「国家国民のため」に政治家になったはずです。
「自分が閣僚になりたい」という思いがあるのは仕方がないとして、それがかなわないとなったら、「その役職にふさわしい実力のある人が閣僚になってほしい」と願うのが当然です。
しかし、現実にはみんな自分の派閥やグループの人間が閣僚に選ばれてほしいと願い、それが叶うと満足し、叶わないと不満の声を上げています。
つまり「国家国民のため」ではなく、「自分や自分の派閥のため」に政治をやっているに違いないのです。
これは自民党の総裁選を見ていても同じです。多くの国会議員は派閥の論理で投票していたように思われます。
 
政治家が「国家国民のため」に働いてくれると期待するのはまったくバカバカしいことです。
 
こうして書いてくると、結局よいところをほめるのではなく、いつものようにだめなところを指摘することになってしまいました。
 
もっとも、政治の世界を取り上げた以上、こうなるのは仕方のないことです。
この世の中は上層部ほど悪い人間で占められているからです。政治家、官僚、学者、財界人などはたいてい悪い人間(不当に利己的な人間)ということになります。
 
世の中の上層部ほど悪い人間であるということは、自民党総裁選で地方の党員票は基本的に「誰が総裁(首相)にふさわしいか」ということで投じられていたのに、国会議員票は主に派閥の論理で投じられていたことを見てもわかるでしょう。
ということは、政治の世界の下部であるところの地方党員は正しい人間が多いということになります。
 
この認識は常識と逆ですから、なかなか理解されませんが、これを理解するとしないとでは、世の中がまったく違って見えてきます。
 
ですから、私が政治の世界を批判しているときは、実は政治の下部の世界を肯定しているわけで、そういう意味では、今日の文章は世の中のよいところを書いたというふうに理解していただきたいと思います。

橋下徹氏の新党「日本維新の会」が発足しましたが、具体的な形を見てしまうと、夢から覚めたような気分になってしまいます。
そもそもは橋下氏の個人商店のような政党ですが、その橋下氏が次の選挙に出ないとなると、節操もなく寄ってきた現職議員と、公募で集まった一年生議員ばかりの集団となり、国会内でどんな仕事ができるのか疑問です。
いや、維新の会が明確な指針を持っていれば、一年生議員でも働けると思いますが、維新の会がなにをやろうとしているのかよくわかりません。
 
「維新八策」というのが維新の会の基本方針です。
 
最初に、「今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リンゴのなる木の土を耕し直します」と書いてありますが、これは完全に小泉純一郎氏が首相に就任して最初の施政方針演説で言った「米百俵の精神」のパクリでしょう。
で、中身を見てみると……中身がありません。本でいえば目次があるだけで本文がありません。
「基本方針」の中に首相公選制、参議院廃止、道州制という文字がありますが、これはいわば入れ物の形を変える話であって、中身を変える話ではありません。また、優先順位もわかりません。維新の会の候補者は、議員になってもなにをやればいいのかわからないでしょう。
 
理念がない、優先順位がわからない、実現が容易でないといったことはすでに批判されています。なぜそうなるのかというと、私が思うに、橋下氏はテレビのトーク番組(「たかじんのそこまで言って委員会」みたいな)で受けそうな政策を羅列しているだけだからです。首相公選制、参議院廃止、道州制というのは、派手だから一般受けしそうです。
 
「維新八策」の「八策」はもちろん坂本龍馬の「船中八策」から取ったものです。
「維新」という言葉も、右翼的イメージがあって普通あまり好まれませんが、今は右翼が受ける時代だからということで使ったのでしょう。しかし、橋下氏は「明治以来の統治機構を変える」ということを言っているのですから、「明治維新」の「維新」という言葉を使うのは矛盾しています。
 
そうした矛盾が「日本維新の会」の英訳に露呈してしまっているというニュースがありました。
 
「維新の会」の英訳に外国人は「???」- ゲンダイネット(20129281000分)
  橋下新党「日本維新の会」が今月12日、政党のロゴを発表したが、そこに書かれていた英語名「JAPAN RESTORATION PARTY」に、外国人から疑問の声が上がっている。
 
 「RESTORATIONと聞いて、英語圏の人がすぐにイメージするのは、英国史における『王政復古』です。RESTORATIONの本来の意味は、復古や復活のこと。橋下新党を『日本復古の会』と読んでしまう外国人も多いのではないか」(英国人記者)
 
 「維新」を広辞苑で引くと、「物事が改まって新しくなること」「政治の体制が一新されること」だが、「明治維新」は天皇親政の“復活”だったことから、「MEIJI RESTORATION」と英訳されている。そこから、日本維新の会も「JAPAN RESTORATION PARTY」と訳したようだが、米国を中心に取材活動をしているジャーナリストの堀田佳男氏も、こう指摘する。
 
 「リストア=修復という言葉の通り、『RESTORATION』だと古いものを元に戻す、というニュアンスになります。明治維新の直訳をそのまま使うのは、あまりいい訳とは言えませんね。まして、これから新しいものを作っていこうという日本維新の会だけに、奇異に感じている外国人は多いと思います」
 
  実は、維新の会にも同様の問い合わせがあるという。事務局の担当者は困惑気味に言う。
 「確かに、英語の解釈では『王政復古』の意味になるのではないか、という声が寄せられています。ただ、この名称は執行部が決めたことですので何とも……」
 
  右傾化が目立つ維新の会は、名が体を表しているように見える。
 
 (日刊ゲンダイ2012925日掲載)
 
ほんとうは「革命」とか「革新」という言葉を使うのが正しいのでしょうが、日本ではそれは左翼のイメージになってしまいます。
私の考えでは、どうせ日本の歴史から取ってくるなら、「大化の改新」の「改新」を使えばいいと思います。
「日本改新の会」あるいは「日本改新党」でいいのではないでしょうか。
 
ともかく、国民が橋下氏や維新の会に期待したのは、なにか政治理念を実現してほしいということではないはずです。
橋下氏が大阪府知事に当選したとき、最初に取り組んだのは、財政非常事態宣言を出して財政再建の道筋をつけることでした。府職員の給料カットや補助金のカットなどを、圧倒的な抵抗勢力と戦いながら実現していったその成果とその姿勢が支持されたのだと思うのです。
国政においても、国家公務員の給料カットはもちろん、財政のむだを省くいわゆる“シロアリ退治”が期待されているのではないかと思います。ですから、最初は既得権益を徹底的に排除して財政再建に集中的に取り組むということを公約にすればいいと思うのです。
民主党は「事業仕分け」をうまくやれませんでしたが、維新の会は「本物の事業仕分け」をするということで、既成政党との違いを明確化することができます。
 
それにしても、自民党新総裁になった安倍晋三氏と比べると、橋下氏は対照的なところがあります。
橋下氏は府知事就任間もないころ、確か府下の自治体の首長とバトルを演じたときだと記憶していますが、最後は半泣きになってしまいました。しかし、そうした姿をさらしてまでもがんばっている橋下氏に支持が集まり、また橋下氏自身、そうした経験を通じてたくましくなっていったと思うのです。
一方、安倍氏は自分の病気を隠し、つねに自分のいい姿ばかりを国民の目に見せていました。
半泣きの無様な姿を見せた橋下氏はたくましくなり、いい姿ばかりを見せていた安倍氏はいつまでもひ弱で、結局ストレスに負けてしまいました。
 
そういう意味では、橋下氏に期待したい気持ちは大いにあります。
識者は理念や政策がだいじだと言いますが、理念や政策よりも人間がだいじだということを改めて思います。
 

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