村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

2012年11月

一般に「教育」というのはよいこととされていますが、それは大いなる誤解です。人間は生まれつき学習意欲や好奇心が備わっており、それ以上に教育すると害が出ます。
学習環境が劣悪な途上国で学校をつくるのはもちろんよいことで、こういう場合は教育もよいことになりますが、今の日本ではもうすでに教育が過剰になっていますから、これ以上教育しようとすると害が拡大するだけです。
 
「しつけ」についても同じようなことが言えます。子どもが発達とともに身につけていくべきことを、親が発達よりも早くしつけようとすると当然害が生じます。
 
 
過剰教育や過剰しつけの害はいたるところに見られます。たとえば、次に紹介するのは、掲示板「発言小町」にあったもので、若い女性が婚約中の男性についての愚痴を書いたものです。
 
関白宣言…な彼に…(愚痴)   ナスカ 2012118 12:15
 一年後に結婚予定のナスカと申します。
彼は5歳年上。
大人の魅力に溢れた素敵な人でした。
 
ところが、結婚が決まった瞬間から、関白宣言さながらの俺様ぶり。
何か意見など言おうものなら、「はいって言えばいいんだ」…と怒涛の如く怒鳴り「これまで甘やかしてきたのがいけなかった、俺の責任でもある」などと言い私を教育してます。
 
先日は怒られ中に辟易してしまい、どこか遠いところを眺めてしまっていたのですが…「聞きたくないなら、それで構わない。今すぐここから出ていきなさい」「聞けるようになったら、来なさい」などと言われてしまいました。
 
近頃は反抗し、休みの日に会わずにいたりしていますが、「浮気をしたら別れる。お前がその気にならない限りそういう間違いは起きないのだから」と持論を展開。
 
結婚前にこんな関白宣言。予定外でした。
彼は、どこらへんまで突っ走るんだろうか…。
と…不安です。
 
長~い愚痴に付き合っていただきましてありがとうございました。
 
この書き込みに対するレスは圧倒的に「別れなさい」と助言するものです。そのうちDVに変わるだろうという意見も多くあります。
 
それにしても、結婚が決まったとたんに豹変するというのも困ったものです。私は、ある女性が2年ほど同棲して結婚したら男がDV男に豹変したという話を聞いたことがあります。結婚する前に相手をよく見きわめなさいといっても、そうなるとどうしようもありません。
 
この男性は、婚約するまでは礼儀ということを心がけていたのでしょう。婚約したとたんに、もう身内だから礼儀はいらないとなって、ほんとうの姿が出てしまったわけです。
 
ともかく、「私を教育してます」という言葉があるように、本来対等であるべき男女関係に「教育」が入り込んでしまったので、この男女関係は誰が見てもだめなものになってしまいました(もちろんこういう関係からみずから抜け出そうとしない女性のほうにも大いに問題があります)。
 
 
これは男女関係に「教育」が入り込むとだめになるといういい例だと思いますが、では、親子関係ではどうでしょうか。
同じ「発言小町」の掲示板に、子どもを教育・しつけしようとして悩む親の書き込みがありました。
 
何度同じことを注意させるのか。疲労コンパニオンの母です  あおざかな 2012924 9:07
 小学2年生の息子です。親がどんなに注意しても、いっこうに直そうとしません。見てて思うに、とにかく、テキトーな性格&物事を感覚でこなしてしまい、人の話を聞いてないといった感じで、注意しても、我流を通してしまいます。生活面では挨拶です。とにかく、挨拶をしません。いったい何万回「挨拶をしないさい」といったことか。。言うと、頑なに挨拶をしなくなってしまったので、今は、ひたすら、親の私が、挨拶をする姿を見せています。いつか、子供が「挨拶は大事なコミニケーションの一つなんだ」と気が付いてくれるのをひたすら待つしかないと思っています。
勉強についても、たとえば、漢字の書き順。。注意した、その瞬間から、間違った書き順を書き始めます。楽器の習い事をしていますが、先生からも注意をされています。「なぜ、この練習をしているか考えながらやりなさい。何を注意されたの?」っと。。。家では、先生に注意されたことを本人の口で説明させてから、練習させます。ゆっくり練習させて、何度も音階を練習し、さて、曲をやらせると・・・。はぁ・・・。まったく、直ってません。。(超脱力です)いつも、この繰り返し。。主人に言わせると、「注意されたことをすぐにできる子供なんていない。やろうとしてる気持ちはあってもできないんだよ。あれぐらいの年齢の男なんて何も考えてないんだから。」といいます。いったいどうしたらいいのかわかりません。習い事も勉強も、こっちが放り投げ当てしまえば、どれだけ親子喧嘩が減ることか。親は細かいことをイチイチ言わず、子供にまかせて、それがたとえ我流を通す事になっても、将来的に自己肯定感に結びつき、自信をもって人生を歩んでいけることになるのでしょうか?今朝はあまりに同じことの繰り返しで、頭をひっぱたいてしまいました。
なんで、直そうしないんだろう・・何も考えないんだろう。。。
 
この書き込みに対するレスは、ほとんどがもっと肩の力を抜いてとか、息子さんのだめなところばかり見ずいいところを見てあげてくださいといったものですが、うちも同じだというものもあります。
 
とにかく、これが過剰教育・過剰しつけの典型的な例だと思います。子どもの発達よりも親の期待が先に行きすぎてしまっているのです。
言い換えれば、この親は子どもに合わせるということができなくて、子どもを自分に合わせようとしているのです。
こうしたことは広く行われていると思います。
 
 
ところで、掲示板のふたつの書き込みを並べて紹介したのは、このようにして教育・しつけされた男の子が将来、婚約者に対して強圧的な態度で教育するような男性になるのではないかということを示したかったからです。
 
「疲労コンパニオン」の母親は、息子に必死であいさつをさせようとしていますが、あいさつや礼儀ができるようになってもよい人間になるわけではありません。そもそもあいさつや礼儀は他人とのつきあいに有効なだけで、恋愛関係や夫婦関係をうまくやっていくにはあまり役に立ちません。いや、逆にあいさつを強要するようなやり方が恋愛関係や夫婦関係に出てきてしまって、マイナスになります。
つまり子どもへの過剰教育が、婚約者を教育するような人間をつくるというわけです。
 
いい親子關係が築ければ、その子は将来いろんな人といい関係を築けるようになるはずです。
教育・しつけが親子関係を阻害しているのでは、本末転倒もいいところです。

「ブータン、これでいいのだ」(御手洗瑞子著)という本を読んでいると、ブータンの子どもたちは人見知りしないと書いてあって、あれっと思いました。私の認識では、幼い子どもの人見知りは発達の過程で普通に生じるもので、逆に人見知りしない子は母親との信頼關係がつくれていない可能性があってよくないという説を聞いたことがあります。
ともかく、ブータンの子どもはみんな人見知りせず堂々としているということです。著者は、知っている人ばかりのコミュニティで生きているから、知らない人を警戒する感覚がないのではないかと推測しています。
 
日本では子どもが人見知りをするからといって悩む親がよくいます。しかし、人見知りの原因もわからないし、対策もわからないというのが現状です。こういう、人間についての基本的なことがわからないというのは困ったものです。
しかし、ブータンの子どもが人見知りしないとすれば、日本の子どもが人見知りするのは、親が外部の人を警戒していて、子どもがそれを察知しているのではないかと考えられます。あるいは、外部の人の態度が子どもに冷たく、子どもはそれを察知しているのかもしれません。
 
ブータン人は外部の人にも身内と同じように接するということは、同書のほかのエピソードからも推察できます。
ブータン人ガイドが外国人観光客を案内しているとき、客が道のぬかるみに足を取られて動けなくなっていると、ブータン人ガイドはそれを見て助けるどころか笑っていたということがあったそうです。私はこれを読んだときは、さすがにこれはあんまりではないかと思いました。客はバカにされたと思って傷つくでしょう。
しかし、考えてみると、私にとっていちばん親しい友人は高校時代の友人ですが、私が20代か30代であれば、親しい友人がぬかるみに足を取られて動けなくなっていたら、きっと笑っていたでしょう。ぬかるみに足を取られても、危険とかケガするということはありません。放っておいても自分で脱出するでしょう。これは絶対笑う場面だと思います。
ですから、ブータン人ガイドは、自分が仕事で世話をする観光客を自分の親しい友人と同じように見ていたということなのでしょう。
 
もっとも、今の日本で同じことをやったら、たいへんです。笑ったガイドは大バッシングを受けるでしょう。ガイドは「大丈夫ですか」などと言って心配そうに駆け寄って、手助けしなければなりません。しかし、それは処世術として身につけた行動様式で、心からの行動とは限りません。ブータン人が笑ったのは少なくとも心からの行動です。
礼儀の発達していないブータンのほうが心のつながりがあるということだと思います。
 
ブータン人の子どもが人見知りせず堂々としているのは、ほとんど叱られたことがないということも影響していると思われます。
同書には、ブータン人は失敗してもへこまないと書いてあります。著者はその理由として、ブータン人は「人間の力ではがんばってみてもどうにもできない」と思っている範囲が日本人よりずっと大きいからではないかと推測しています。つまり失敗したとき、ブータン人は自分を責めずに、「まあ、仕方がなかった」と割り切ることが多いというのです。
したがって、ブータン人は人が失敗しても責めません。失敗を許す文化があるのです。
ですから、ブータン人はいつも自信満々で堂々としているというわけです。
 
しかし、そのために外国人との間に摩擦が起きます。
ブータンで働いている外国人の間では、「ブータン人に一定以上のストレスをかけてはいけない」ということが半ば常識になっているということです。
というのは、ほとんど叱られた経験のないブータン人は、あまり叱られると逆ギレしてしまうことがあるからです。
 
ブータン人は叱ることがない一方、喜怒哀楽をとても素直に表現し、ですから逆ギレ以外にも実はよく怒るそうです。大きな身振り手振りで正論を振りかざして怒り、しばらくするとケロッと忘れて笑っているということです。
 
つまりブータン人は普通に「怒る」一方、「叱る」ことはほとんどないということになります。
 
よく日本では、「怒る」のはよくない、「叱る」べきだということが言われます。しかし、こういう価値観はほんとうに正しいのでしょうか。
 
「怒る」というのは人間である以上あって当然です。しかし、「叱る」というのは自然な行為ではありません。
 
文化人類学の古典に「未開人の性生活」(マリノウスキー著)という本があります。その中からニューギニアのトロブリアンド島の原住民に関する記述を引用します。
 
トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。
時には腹を立て、怒りを爆発させた親が、子供を打つことがあるが、その場合でも子供は猛烈に親にさからい、打ってかかる。「報い」とか強制的な罰の観念などは、彼らにとって縁遠いものであり、それどころか嫌われている。私は何回か、子供がひどい悪行をしたので、何かの方法で心を鬼にして罰したほうが、子供の将来のためになると暗示した。しかしこの考え方は彼らにとって不自然であり、また不道徳と思われたらしく、一種の憤りをもって拒否された。
 
ここにはいわば道徳発生以前の社会が描かれています。この社会には「怒る」はあっても「叱る」や「罰する」はありません。
文明人であるマリノウスキーは、子どもを罰したほうがよいという考え方を述べています。しかし、文明社会の家庭のほうが子どもが非行に走るなどの問題が生じていますし、文明人のほうが未開人を奴隷にするなどのひどい悪行をしてきました。
 
日本では、昔は地域のおとなたちが子どもを叱っていたから子どもがちゃんと育ったなどということが言われていますが、これはまさに“歴史修正主義”です。
私の子ども時代は、たとえば人の家の柿の木から実を盗んだとか、野球のボールで人の家の窓ガラスを割ったなどというときに怒られましたが、これはあくまで自分の利害のために「怒る」のであって、子どものために「叱る」のではありません。子どものために「叱る」人なんていなかったのではないでしょうか。
しかし、子どもは怒られることで、おとなはどんなときに怒るのかということは学習できました。
 
「怒る」のは人間である以上しかたがありませんが、「叱る」というのは文明とともにどんどん増大してきたもので、それによってほんとうに人間が幸せになっているのか、考え直す必要があると思います。

漫画家のさかもと未明さんが飛行機内で赤ん坊が泣き続けるのにキレて、着陸態勢に入っているにもかかわらず席を立って、「飛び降りる!」と出口に向かって通路を走り、またその赤ん坊の母親に向かって、「あなたのお子さんは飛行機に乗せてはいけません。赤ちゃんだからなんでも許されるわけではない」と言ったということで、この言動が当然ながら批判されて騒ぎになっています。
 
「JALクレーム騒動のさかもと未明、新幹線でも同様の騒ぎを起こしていた!?」
 
「子どもの騒音」問題についてはこのブログで何度も取り上げてきました。騒ぐ子どもよりも、それに耐えられないおとなのほうに問題があるのだというのが私の考えで、さかもと未明さんの行動はまさにその典型的な例です。
とはいえ、また同じようなことを書くのも芸のない話なので、今回はまったく違う角度から書いてみたいと思います。
 
さかもと未明さんの行動で思い出すのが、元田中角栄秘書で政治評論家の故・早坂茂三氏のことです。
1995年5月、全日空機に乗った早坂氏は、離陸時に座席のリクライニングを倒したままだったので、スチュワーデスから座席を元に戻すよう注意されたところ、「俺は太ってるからいつもこうしているんだ」などと言って言うことを聞かず、機長が説得に当たってもやはり頑として言うことを聞かず、飛行機はいったんピットに戻り、出発が大幅に遅れたという出来事があり、新聞でも報道されました。私の記憶によれば、機長に対して「俺は全日空の社長と親しいのだ。お前をクビにするのは簡単だ」という意味のことを言ったという報道もありました(これは週刊誌の記事だったかもしれません)
座席が倒れたままだと、万が一のとき後ろの人が脱出しにくいので、離着陸のときなど座席を立てるのは当然のことです。早坂氏の言動は異常というしかありません。
 
とはいえ、機内で異常な行動をとってしまうということはよくあるようです。「機内暴力」や「機内迷惑行為」で検索すると、多くのサイトが引っかかります。
国際的にもその対策の重要性が言われ、2001年には国際民間航空機関(ICAO)の総会で、安全阻害行為を犯罪とする立法モデルが承認され、それを受けてわが国では2004年に航空機内における安全阻害行為などの禁止・処罰規定を定めた「改正航空法」が施行されました。
 
ですから、さかもと未明さんの行動は「機内迷惑行為」としてとらえることもできるわけです。
 
では、どうして機内で異常な行動をする人が多いのでしょうか。
これはひとつには、高い運賃を払っているのだから、自分はそれなりのサービスを受けるべきだという思いがあるからでしょう。
しかし、それよりももっと大きな原因は、飛行機に乗るときに恐怖心があることだと思います。
 
飛行機に乗るときは誰でも事故のことが心配になるはずです。私が生まれて初めて飛行機に乗ったのは、羽田から釧路空港に行くときで、飛行機が小型だったせいか、空港建物から直接機内に行ける通路(ボーディング・ブリッジというそうです)ではなく、タラップで乗る方式でした。タラップを上がるとき、恐怖心から飛行機に乗るのをやめようかと思ったほどでした(連れがいたので、そういうわけにはいきませんでした)
それから数え切れないくらい飛行機に乗っていますが、今でも乗るたびにこれで死ぬかもしれないと思って乗ります。ただ、死ぬ確率はきわめて少なく、旅行に行く価値と天秤にかけて、乗るわけです。
飛行機の事故で死ぬ確率は鉄道や道路の事故で死ぬ確率よりも低いという説もありますが、時間当たりの死ぬ確率はやはり飛行機が圧倒的に高いはずですから、乗るときに恐怖心がそれだけ強くて当然です。世の中には怖いから絶対飛行機に乗らないという人も少なからずいます。
 
こうした恐怖心は人によって違いますが、大なり小なりあるはずです。この恐怖心が人に異常行動を取らせるのでしょう。
中には、恐怖心があるのに自分にはそうした恐怖心はないのだと思い込む人がいます。早い話が強がっている人です。
たとえば早坂茂三氏は、いかにも自分は大物であるという雰囲気を漂わせている人でした。こういう人は、自分が飛行機に乗ることに恐怖心を持っているということが認められないのでしょう。ですから、精一杯強がって、そのためスチュワーデスの指示に従うということもできなくなってしまったのではないかと想像されます。
 
おそらく機内で異常行動を取る人は圧倒的に男性が多いのではないでしょうか。
 さかもと未明さんは女性ですが、女性には珍しく保守的というか右寄りの思想の持ち主です。男性のように強がって生きている面があるのではないでしょうか。
 
人間である以上、弱さがあるのは当たり前です。人間の弱さを認めない思想はろくなものではありません。
 
もちろんさかもと未明さんの今回の行動は、直接的には赤ん坊の泣き声に耐えられなくなったわけで、なぜ耐えられなくなったかというと、さかもとさん自身が幼いころ抑圧されていたからではないかというのが私の考えです。
それに加えて機内であったということが異常行動を増幅させたということだと思います。

1121日、自民党は選挙公約を発表しました。そのタイトルが「日本を、取り戻す」です。このタイトルに違和感を覚える人は多いのではないでしょうか。
 
「日本を、取り戻す」ということは、今までは日本ではなかったのかということになります。自民党の認識としては、民主党政権下で日本はひどくなったということでしょうが、いくらひどくなっても日本は日本です。「日本を、取り戻す」という表現は、日本と日本人に対する侮辱です。
自民党としては、今度の選挙で「政権の座を取り戻す」という思いがあるのでしょうが、それを「日本を、取り戻す」と表現してしまうところに自民党の傲慢さが表れています。
 
民主党政権は素人っぽくて、つねにドタバタしていましたが、こういうのは向上していく余地がありますし、国民の声が届く可能性もあります。しかし、傲慢な者は権力の座にあぐらをかいて、国民の声を無視します。
 
自民党の公約については経済政策が注目されていますが、私は今の日本は官僚支配の国だと思っているので、自民党に政治主導をやるつもりがあるのかということに注目しました。しかし、ぜんぜんその気配はありません。
自民党の公約は、行政改革についてこう書いていますが、抽象的な表現でわけがわかりません。
 
305「真の行政改革」の推進
これからの時代にふさわしい行政の在り方を希求し、その実現に努めます。バラマキ政策の尻拭いのための財源の捻出や増税の言い訳の道具にしか過ぎない見せかけの「行政改革」は、むしろ行政をイビツにします。限られた人的・物的資源を最も効率的、機動的に活用し、行政機能や政策効果を向上させるという本来の目的に沿った行政改革を断行します。
また、政官の役割分担を明確にし、相互の信頼の上に立った本当の意味での政治主導を目指します。行政が民間の感覚や常識から遊離しないようにしっかり監督すると同時に、行政の能力を最大限に発揮させることも政治の責任です。
 
民主党政権は「事業仕分け」をやりましたが、あまり評判はよくありませんし、蓮舫さんなどが批判されています。やり方が中途半端だ、もっと徹底的にやれと批判するのはわかりますが、どうやら「事業仕分け」などするな、官僚様に任せておけという立場からの批判のほうが多いようです。
もちろんこうした世論はマスコミがつくりだしています。
ちなみに自民党の公約は、行政のむだについてこう書いています。
 
307ムダ撲滅の推進
政治や行政に対する国民の信頼を取り戻すため、政府の不要不急・無駄遣いを一掃すべく、あらゆる角度から制度や事業の意義や効果を不断に総点検し、歳出改革をゆるぎなく進めます。
 
ムダ撲滅などまったくやる気がなさそうですが、こうしたことを批判するマスコミは見かけません。
 
 
日本維新の会と太陽の党が合併しました。代表は石原慎太郎氏ですが、実態は日本維新の会が太陽の党を吸収合併したというべきでしょう。太陽の党は一時は減税日本との合流を決めましたが、維新の会の橋下徹氏に反対されて、すぐに合流は撤回されました。これを見ても維新の会主導であることがわかります。
ところが、維新の会と太陽の党の政策合意には、維新の会が主張してきた脱原発とTPP交渉参加が入っていません。もちろん合併する以上、ある程度は太陽の党に配慮する必要はあるでしょうが、脱原発は選挙の目玉政策にもなりうるものです。
どうして維新の会が脱原発とTPPで譲歩したかというと、もちろん両者がきわめて強い既得権益構造で固められているからです。
橋下氏は日本の強固な既得権益構造に、戦う前に敗北したようなものです。今年の夏、原発再稼働反対を主張したものの、結局再稼働を容認することになってしまった経験から、勝ち目がないと学んだのでしょう。
しかし、これでは日本維新の会の存在価値がありません。期待していた国民もがっかりでしょう。
 
3年余りの民主党政権を経て、元の木阿弥になってしまう。これが日本の政治であるようです。

「日本時間」という言葉がありました。日本標準時のことではありません。それとは別の意味の「日本時間」という言葉があったのです。
 
「ブータン、これでいいのだ」(御手洗瑞子著)という本を読んでいたら、ブータン人はきわめて時間にルーズだということが書かれていました。
時間にルーズなのはブータン人だけでなく、途上国ならどこも同じでしょう。
そして、昔の日本人も同じだったのです。
 
私は京都の生まれですが、子どものころ、母親が待ち合わせの相手がなかなか来ないと「『京都時間』やなあ」と言っていました。バスが遅れたときなどにも言っていたような気がします。もちろん母親だけでなく父親やほかの人も言っていました。
京都人は時間にルーズだということを「京都時間」という言葉で表現していたのです。
 
しかし、考えてみると、京都人がほかの土地の人よりも時間にルーズだったということはなさそうです。おそらく京都だけでなく、全国各地に同じ「○○時間」という表現はあったはずです。
そう思って検索してみると、やはりありました。
「博多時間」でグーグル検索をすると、上位四つのサイトが「博多人は時間にルーズだ」という意味のことを書いたものです。
「仙台時間」で検索すると、いちばん上のサイトがそうでした。
「名古屋時間」で検索すると、いちばん上と5番目のサイトがそうです(ただ、流行が東京や大阪よりも遅れて入ってくるという意味の「名古屋時間」という言葉もありました)
「島根時間」「静岡時間」もありました。「青森時間」はありませんでしたが、「津軽時間」はありました。
 
やはりほとんどの日本人が、自分たちは時間にルーズであるということを自覚して「○○時間」と言っていたのです。
ということは、当然「日本時間」という言葉もありました。私は親などが言っているのを聞いたことがあります。
つまり日本人は時間にルーズだということは共通認識だったのです。
より正確に言うと、時間には正確であるべきだという認識はあるのですが、現実の行動はそうなっていないということを自嘲気味に「○○時間」や「日本時間」と言っていたわけです。
当時、1950年代、日本人が唯一時間に正確だとして誇りにしていたのは国鉄でした。外国の鉄道はそれほど正確ではなかったようで、日本人は外国人に対して国鉄のダイヤの正確さだけは自慢していました。というか、日本の伝統文化は別にすれば、それぐらいしか自慢するものがなかったのです。まだ「メード・イン・ジャパン」が粗悪品の代名詞であった時代です。
 
今回、「日本時間」を検索しましたが、日本人は時間にルーズだという意味だとするサイトは発見できませんでした。標準時とまぎらわしいので、「京都時間」や「博多時間」と違って早くに絶滅してしまったのでしょう。
 
ところで、「ブータン、これでいいのだ」という本によると、ブータン人は会議に遅刻してきてもぜんぜん悪びれず、堂々としているそうです。そして、遅刻を怒る人もいないそうです。そういうことを怒る人は徳の低い人と見なされる傾向すらあるといいます。
もっとも、ブータンの中ではそれでいいのですが、外国と交流するときに当然摩擦が生じます。年内に空港ができる予定だったのに、まだ基礎工事の段階で、すでにツアーを企画していた外国の旅行会社からクレームが入るなどは日常茶飯事だということです(著者の御手洗瑞子さんはブータン政府の観光担当スタッフとして働いていた人です)
 
今の日本人はきわめて時間に正確です。ということは、年中遅刻してはいけないと気をつかい、遅刻しそうになるとあせり、遅刻すると恐縮してペコペコと謝ります。時間に正確なおかげでビジネスはうまく回り、日本は豊かな国になりましたが、時間に正確であるための気苦労もたいへんです。
つまり物質的豊かさと精神的貧しさを引き換えにしているわけです。
最近、日本人はそういうことに気づいてきました。ブータンについての関心が高まっているのも、そういうことが背景にあるのではないかと思われます。
 
 
ところで、麻生太郎元首相の著書「とてつもない日本」の「はじめに」に日本人についてのエピソードが紹介されています。インドの地下鉄公団総裁がこのように語ったということです。
 
――自分は技術屋のトップだが、最初の現場説明の際、集合時間の八時少し前に行ったところ、日本から派遣された技術者はすでに全員作業服を着て並んでいた。我々インドの技術者は全員揃うのにそれから十分以上かかった。日本の技術者は誰一人文句も言わず、きちんと立っていた。自分が全員揃ったと報告すると、「八時集合ということは八時から作業ができるようにするのが当たり前だ」といわれた。
 悔しいので翌日七時四十五分に行ったら、日本人はもう全員揃っていた。以後このプロジェクトが終わるまで、日本人が常に言っていたのが「納期」という言葉だった。決められた工程通り終えられるよう、一日も遅れてはならないと徹底的に説明された。
 いつのまにか我々も「ノーキ」という言葉を使うようになった。これだけ大きなプロジェクトが予定より二か月半も早く完成した。もちろん、そんなことはインドで初めてのことだ。翌日からは、今度は運行担当の人がやってきた。彼らが手にしていたのはストップウォッチ。これで地下鉄を時間通りに運行するよう言われた。秒単位まで意識して運行するために、徹底して毎日訓練を受けた。その結果、現在インドの公共交通機関の中で、地下鉄だけが数分の誤差で運行されている。インドでは数時間遅れも日常茶飯事であり、数分の誤差で正確に動いているのは唯一この地下鉄だけである。これは凄いことだ。
 我々がこのプロジェクトを通じて日本から得たものは、資金援助や技術援助だけではない。むしろ最も影響を受けたのは、働くことについての価値観、労働の美徳だ。労働に関する自分たちの価値観が根底から覆された。日本の文化そのものが最大のプレゼントだった。今インドではこの地下鉄を「ベスト・アンバサダー(最高の大使)」と呼んでいる――。
 
麻生氏は時間に正確なことは「日本の文化」だと認識して誇りに思っているようです。しかし、すでに述べたように、もともとの日本の文化は時間にルーズなものだったのです。
日本人がインド人よりも時間に正確なのは、単に先に近代化したということにすぎません。そんなことを日本文化の誇るべきことと思っているとすれば、思想が薄っぺらすぎます。
 
この手の思想の薄っぺらさは右翼全般に見られます。明治時代に欧米から輸入した文化を日本固有の文化だと勘違いしているのです。
 
 
話は変わりますが、橋下徹氏の日本維新の会と石原慎太郎氏の太陽の党が合併しました。原発、TPPなど重要な政策で一致しないのに合併するのは野合だとマスコミやほかの党は批判しますが、それでも合併するのはより本質的なところで一致しているからです。
たとえば2人の共同記者会見の場において、石原氏は橋下氏の衆院選出馬について、「次は殴ってでもやらせようと思っている」と語りました。
「スパルタ教育」の著者で戸塚ヨットスクールの支援者である石原氏と、体罰肯定論をテレビで公言してきた橋下氏は、「殴ってでも」という言葉で通じ合うことができるのです。
また、日本維新の会と太陽の党の合意文書の冒頭にはこう書かれています。
「強くてしたたかな日本をつくる」
タカ派の思いが集約された言葉です。
つまり橋下氏と石原氏はタカ派という点で強く結びついており、原発、TPPなどは大した問題ではないのです。
 
しかし、「強くてしたたかな日本」において日本人は幸せになれるでしょうか。
そもそも「強くてしたたかな日本」は日本本来の姿でしょうか。明治時代に輸入した欧米の価値観ではないでしょうか。
 
東日本大震災のとき、被災地の人々は悲惨な状況の中で互いに助け合い、その姿は世界の人々を感動させました。これこそが日本人の本来の姿であり、誇るべきものだと私は思います。
「強くてしたたかな日本」はいわば外に対しての強さであり、被災地の人々が示したのは芯の強さです。
どちらを選択するのかというのは、今回の総選挙の隠れた争点だと思います。
 
ところで、「日本時間」「京都時間」「博多時間」「津軽時間」などの言葉には、「自分たちは時間にルーズだがそれでいいじゃないか」というひそかな誇りがあったと思います。それがあるので、日本人はブータン人に親近感を持つことができるのだと思います。

安倍晋三自民党総裁が絶好調です。もっと金融緩和を行うべしと発言すると金融株や不動産株が上がり、脱原発は無責任と発言すると電力株が上がり、自民党の200兆円の国土強靭化計画への期待で建設株が上がっています。
しかし、どれも目先の利益を追求するだけの話です。今以上の金融緩和がほんとうに経済にプラスになるかはよくわかりませんし、原発の稼働は電力会社の経営にはプラスでしょうが、たまる一方の放射性廃棄物は未来への負の遺産となります。
 
10年間で200兆円を投資するという国土強靭化計画にしても、自民党は従来型の公共事業とは違うと主張していますが、どう違うのかよくわかりません。昔、自民党の公共事業は、地方活性化のためといわれ、また景気回復のためといわれましたが、今回は防災のためと名目が変わっただけとしか思えません。
公共事業で景気を回復させれば税収が増えるのでむしろ財政赤字はへるという理屈がありますが、この20年余り、その理屈通りにいったことはありません。小渕首相は公共事業を推し進めて「日本一の借金王」と自嘲し、森内閣もその政策を引き継ぎましたが、財政赤字が増えるばかりで、結局小泉内閣によって公共事業をへらす方向に転換しました。
 
自分たちの世代で電気やお金を存分に使い、放射性廃棄物や財政赤字は次の世代に負担させる。こういう政策が現実になりそうです。
 
 
安倍総裁は教育改革にも熱心で、自民党は教育分野に関する公約案をまとめました。
 
教科書検定を抜本改革 自民の教育公約案、強い保守色
 自民党の教育分野に関する公約案が明らかになった。教育委員会の責任者を首長が任命する常勤にするほか、教科書の検定基準でアジア諸国との歴史的関係に配慮する「近隣諸国条項」を見直す。安倍晋三総裁主導の保守色の強い内容で、21日に正式決定する。
 「教育再生実行本部」(本部長=下村博文元官房副長官)がとりまとめ、16日に安倍氏に提出した。
 個々の学力に応じて留年や飛び級を選べるようにし、大学の秋入学も促す。自虐史観や偏向した記述が多いとして、「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる教科書で学べるよう」にすることを目的に、教科書検定基準を抜本的に改革することも打ち出す。
 いじめ問題などで対応の遅れが指摘された教育委員会の改革策として、自治体首長が議会の同意を得て任命する常勤の教育長を教育委の責任者と位置づけ、責任の所在を明確化。「いじめ防止対策基本法」を制定し、自治体のいじめ防止策に国が財政面で支援する仕組みを作る。
 そのほか、年間何度も挑戦できる達成度テストの大学入試への採用なども盛り込んだ。
 
この案の中で子どものためになりそうなのは、留年や飛び級を選べるようにすることぐらいでしょうか。
「日本の伝統文化に誇りを持てる教科書で学べるようにする」なんて、子どもにとっては大きなお世話です。なにに誇りを持つかは自分で決めることです。
「『近隣諸国条項』を見直す」なんていうのも、子どもにとってはどうでもいいことです。
 
おとなだけで教育を論じているから、どうしても「おとなにとって都合のいい子どもをつくる教育」になってしまいます。ほんとうならまず子どもにアンケートを取って、それをベースに議論していかなくてはいけません。
今の消費社会では、各メーカーは消費者のニーズに合った商品を提供しようと努力していますが、たとえば社会主義体制やなにかの配給制度のもとだとすると、各メーカーがそんな努力をするでしょうか。今の教育制度は、社会主義体制みたいに上から指導するというもので、子どもや保護者のニーズはそっちのけになっています。
教育改革をするのなら、あるいはほんとうにイジメ防止をしようと思うなら、「子どもが毎日楽しく通える学校づくり」を目標にするしかないと私は思います。
 
 
経済政策や教育改革が若い世代を無視したものになっているのは、前回の「『選挙権の世代間格差』にも注目を」というエントリーで書いたように、少子高齢化で世代構成がいびつになっている上に、20歳未満の若者に選挙権が認められていないからです。
「高齢者のやりたい放題」になっているのが今の世の中です。
 
いや、もともとは上の世代にも下の世代を思いやる気持ちがあったのですが、日本ではその気持ちがどんどん失われています。子どもが普通に遊んでいるだけでうるさいと苦情が出る時代です。
 
今回の総選挙における隠れた争点は「おとな対若者」という世代対立だと思います。「目先の利益を追い求める政治」か「未来の利益を考える政治」か、「子どもをおとなのつごうに合わせる教育」か「子どもを幸せにする教育」かが問われています。

1216日投票予定の総選挙は、「一票の格差」が違憲状態のまま行われます。そのため最高裁が選挙無効の判決を下すのではないかという声もあります。
しかし、実際のところは最高裁に選挙無効判決を出すような根性はないでしょう。みんなそのことがわかっているので、野田首相は解散をしたのですし、多くの人も解散に賛成しています。
 
「一票の格差」、つまり選挙区定数不均衡が一向に改められないため、政治の世界も歪んだものになっています。たとえば、昔から農業はコメ価格維持や補助金などできわめて厚く保護されてきましたが、これは都市よりも地方の一票の価値が大きいことが大いに影響しています。現在のTPP論議にも影響しているに違いありません。
 
「一票の格差」については多くの人が問題だと考えていますが、あまり注目されていないのが「選挙権の世代間格差」です。
つまり20歳未満に選挙権がないために、若い世代がきわめて不利になっているという問題です。
 
年金制度が若い世代に不利なものになっているのは周知の通りです。これは少子高齢化が進んで、少ない若者世代が多い年寄り世代を支えるという形になってしまっているからですが、この制度を変えようという機運は一向に盛り上がりません。これはやはり20歳以下に選挙権がないということも大きな理由だと思われます。
雇用制度も若い世代に不利になっているのではないでしょうか。フリーター、派遣の若い人が増えています。
財政赤字が増え続けているのも、年寄り世代が若い世代にツケを回すのを止めることができないからです。
教育制度も、中学高校に通う人に選挙権がないので、結局おとなが勝手に決めています。これではまともな教育制度になるわけがありません。
 
選挙権年齢を引き下げるべきだという意見があって、18歳だとか16歳だとか議論されていますが、私自身は選挙権の年齢制限そのものを撤廃するべきだと考えています。つまり0歳児から選挙権を与えるのです。何歳で区切っても、その区切り方に理由はないので、撤廃するのが筋です。
あるいは、20歳未満に選挙権がないのなら、60歳以上にも選挙権がないという制度にするという手はあります。こうすれば少なくとも「世代間格差」はなくなります。
 
 
ところで、どうして選挙権に年齢制限があるのでしょうか。
日本国憲法は、選挙人の資格についてこう規定しています。
 
第四十四条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。
 
ここには「年齢によって差別すべし」という規定はありません。それでも公職選挙法に選挙権20歳以上、被選挙権は衆院25歳以上、参院30歳以上などとなっています。これはなにを根拠にしているのかと探してみたら、憲法の別のところにこういう規定がありました。
 
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
 
つまり「成年者による普通選挙を保障する」という条文があるので、これを根拠に選挙権に年齢制限を設けているということでしょう。
これがもし「成年男性による普通選挙を保障する」となっていたら、これは明らかに女性差別だということになります。
ですから、「成年者による普通選挙を保障する」は明らかに子ども差別、弱年者差別です。単に「普通選挙を保障する」と書けばいいのです。
そもそも「普通選挙」とは「制限選挙」の反対語ですから、制限があってはいけないのです。「成年者による普通選挙」は形容矛盾です。
 
情けないことに、日本国憲法が子ども差別、弱年者差別を容認しているということになります。憲法改正をする際には、「成年者による」というくだりを削除してほしいものです(それと義務教育規定も削除して、代わりに学習権を設定してほしいものです)
 
しかし、「成年者による普通選挙を保障する」という表現ですから、未成年者に選挙権を与えてはいけないという意味にはなりません。ですから、憲法改正なしに、18歳以上とか16歳以上とかに変えることはできますし、年齢制限を撤廃することもできます。
 
選挙権の年齢制限を撤廃しろという主張はやりすぎだと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
旧憲法下で帝国議会が始まったとき、選挙権があるのは25歳以上の男子で国税15円以上を収めている者と規定され、選挙権があるのは総人口の1.1%でした。それからどんどん有権者人口が増えて、新憲法では女性も有権者になりました。ただ、弱年者だけまだ選挙権がないのです。
 
どんな高齢者になっても選挙権はありますし、知的障害者、精神障害者にも選挙権はあります。弱年者にだけ選挙権がないのは差別というしかありません。
昔は黒人や女性に選挙権がないのは当たり前だと考えられていました。今、弱年者に選挙権がないのは当たり前と考えるのは、それと同じです。
 
 
〈追記〉
憲法に「成年者による普通選挙を保障する」と書いてあるのに、公職選挙法で衆院25歳未満、参院30歳未満の成年者の被選挙権が認められていないのは、どう考えても憲法違反でしょう。公職選挙法は服役中の受刑者の選挙権も認めていませんが、これについては違憲訴訟が起こされています。成年者の被選挙権が認められないことについても違憲訴訟が行われてもいいはずです。

1114日の党首討論において、野田首相は16日の衆院解散を表明しました。12月4日公示、16日投票に決まったという報道もあります。
しかし、なにが争点になるのかよくわかりません。いわゆる第三極というのも、どういうふうにまとまるのかわかりません。こういうグズグズの状況で選挙をするというのが野田首相のねらいなのでしょうか。
 
党首討論には「国民の生活が第一」の小沢一郎代表も質問に立ちましたが、首相の解散表明のあとなので、その存在はかすんでしまいました。
 
小沢氏については12日に控訴審判決があり、無罪となりましたが、これも遅すぎる無罪判決と言えるかもしれません。
小沢氏は民主党代表であった2008年、「総選挙に勝てば嫌でもやらなければいけない」と述べ、首相に就任する考えを示していましたが、翌年検察の強制捜査を受け、代表を辞任しました。検察の動きさえなければ、政権交代とともに“小沢首相”が実現していたわけで、そうなれば“政権交代の果実”を手にすることができたのではないかなどと考えてしまいます。
 
小沢氏の無罪判決について、さまざまな政治家がコメントをしていますが、中でいちばんまともに感じたのが日本維新の会の橋下徹代表のコメントです。
 
「今回のメディアの論調は推定無罪もへったくれもなかった。あそこまで心証有罪を築く報道をやっていいのか。戦後メディア史上の大失態ではないか」(朝日新聞1112日夕刊)
 
しかし、橋下氏がそんな立派な見識のある人であるはずがありません。考えてみると、橋下氏は光市母子殺害事件の弁護団に対して懲戒請求をするようにテレビで呼びかけて、問題を起こしたことがあります。直接には弁護団を標的としていますが、その根底にあるのは被告を死刑にするのが当然という考えで、橋下氏の言動こそまさに「推定無罪もへったくれもない」ものです。
 
結局、橋下氏のやっていることは、マスコミや死刑反対派弁護団を非難すると大衆に受けるだろうということで非難しているだけで、一貫した思想があるわけではありません。
非難するなら、なによりも検察を非難するべきですが、検察非難はあまり大衆受けしないでしょうし、リアクションが怖いという打算もあるのでしょう。
 
私は小沢氏の裁判については検察やマスコミに大いに問題があったと思っていますが、だからといって、小沢氏を支持しているわけではありません。小沢氏は、たとえば自民党幹事長時代に大いに力を発揮して政治を動かしましたが、いい方向に動かしたという印象はありません。
 
一方が悪だと、それと戦っているもう一方は正義だとついつい考えてしまいがちですが、それはエンターテインメント映画などに影響されすぎです。現実には、暴力団同士の抗争を考えてもわかるように、悪と悪が戦っている場合がほとんどです。北野映画のキャッチフレーズを使うと、「全員悪人」です。
検察もマスコミも政治家も「全員悪人」というのが私の認識です。
 
で、それを見ている一般国民も「全員悪人」です。ただ、権力がないので検察やマスコミや政治家ほど悪いことができないだけです。
 
「全員悪人」の世界では、誰もが批判される要素を持っているので、たいていの批判はそれなりに当たっています。ですから、先に批判したほうが有利になるので、この世界ではつねに批判が飛び交っています。その最たるものが政治の世界です。
橋下徹氏はこの状況にうまく適応している人間です。そのため多くの支持を集めることに成功しています。
 
一方、小沢氏はあまり誰かを批判するということはありません。というか、そもそもあまり公にコメントを発表するということがありません。水面下の工作で力を発揮するタイプの政治家でしょう。
しかし、こうした政治家は、テレビやインターネットなどのメディアが発達した現在では時代遅れと言わざるをえません。
 
アメリカ大統領選挙を見ていると、テレビ討論会の出来不出来で支持率が大きく変動します。こうした傾向はケネディ大統領時代から始まっています。日本ではかなり遅れて始まったということでしょう。
テレビのトーク番組によく出演してディベート力を鍛えた橋下氏がその点で有利な態勢を築いています。
しかし、結局これは「全員悪人」の世界で優位に立っているだけのことです。
 
「全員悪人」の世界を根本から批判するような大きな思想が出てこないことには世の中はよくなりません。

11月8日の報道ステーションで、ほめれば学習効果がアップするということが科学的に立証されたということを言っていました。しかし、この実験はかなりへんです。ほめられたグループと、ほめられなかった(ほとんど無視された)グループの比較しかしていないからです。ほめられたグループと叱られたグループを比較しないと意味がないのではないでしょうか。
 
「ほめれば上達」実験で証明
人体の生命活動を解明する国の研究機関である生理学研究所が、「ほめられると学んだことをより忘れにくくなることが証明された」と発表した。生理学研究所の実験チームは、右利きの成人男女48人を対象に、左手でパソコンのキーボードを早く、そして正確に入力するトレーニングをさせた。その直後、48人を「トレーニングの成績にかかわらずほめる」「他人がほめられている映像を見る」「自分の成績を示したグラフだけを見る」という3つのグループに分けた。そして、翌日に再び同じ作業をしたところ、ほめられたグループは前日よりも約20%多く入力できた一方、ほかのグループは約14%にとどまっていたという。
 
この実験結果は、報道ステーションでしか報道されていません。ほかのメディアはこの実験のおかしさに気づいていたので、報道しなかったのではないかと思われます。
 
また、1020日のNHKEテレで「すくすく子育て『子どものほめ方』」という番組をやっていました。
番組の最初に、ある夫婦が3歳ぐらいの子どもがなにかするたびに大げさにほめているVTRが紹介され、それを材料に専門家を交えて話が進められます。
子育て中の夫婦5組が視聴者参加という形でその番組に出ていたのですが、司会者に聞かれると全員が同じようにほめていると答えていました。そういう夫婦を番組に集めたと言ってしまえばそれまでですが、「ほめて伸ばす」という考えが相当広く受け入れられているということでもあるでしょう。
 
ところが、その番組に出ていた2人の専門家は、大げさにほめることには否定的です。「下心が見えるようなほめ方はよくない」とか「お父さんお母さんにとってつごうのよいことをしたときにほめられるということを学習してしまう」といったことを言っていました。
確かにわざとらしい感じのほめ方はよくないでしょう。それでは親子關係がほんとうの人間関係にならないはずです。
 
それにしても、子育てに限らず、社員教育やスポーツのコーチングでも、ほめることのたいせつさが強調されます。なぜほめることのたいせつさが強調されるかというと、おそらくみんな叱りすぎているからです。
子育て中のお母さんで、毎日子どもを叱ってばかりで、叱り疲れして、お母さん自身が悩んでいるという話もよくあります。
 
ほめることと叱ることはワンセットで、要するにアメとムチにたとえられます。
人を自分の思う通りに動かそうとするとき、相手を説得するという方法もありますが、それは時間がかかりますし、相手がこちらの考えに同調してくれるとは限りません。それよりはアメとムチで動かすことが手っ取り早い方法です。
とくに相手が小さい子どもだと、説得するにも相手に理解力がありませんから、アメとムチでやるしかないのが実情です。
 
アメとムチをバランスよく、適切に使い分けるのがよいはずですが、なかなかそうはいきません。どうしてもムチに頼りがちになります。
その理由は簡単です。アメよりもムチのほうが効果的だからです。
アメがほしいのはがまんすることができますが、ムチの痛みはなかなかがまんできません。とくにムチには即効性があります。
たとえば子どもがうるさくしているとき、「いい子だから静かにしてね」とやさしく話しかけるよりは、「うるさい!」と叱りつけたほうが簡単で効果的です。そのため誰もがほめるよりも叱ることに傾きがちです。
そして、主に叱られて育った子どもは、自分が親になると同じように子どもを叱ります。いや、さらに叱るほうに傾きます。つまり世代を経るごとにほめるよりも叱るほうに傾いていくのです。
そうして今では、親は子どもを叱りすぎて、自分でも理不尽だと思いながら止められないというような状態に陥っています。これに暴力が伴うと虐待ということになります(実際は暴力が伴わなくても精神的虐待です)
 
このような“叱りすぎ社会”だからこそ、ほめることのたいせつさが強調されるというわけです。
 
 
ところで、そもそも子育てにアメとムチはほんとうに必要なのでしょうか。
たとえば企業ではセールスマンの成績を向上させるために、成績が悪いと叱り、成績優秀者には特別の褒美を出すというようにアメとムチが使われていますが、これは会社の利益のために行われているわけです。
子育てでアメとムチを使うのは、子どものためだということになっています。つまり、子どもを善悪の判断ができる人間にするためだということです。
しかし、アメとムチで操作されてきた人間が自分で善悪を判断できるようになるでしょうか。
アメとムチで人間を操作することは、決してその人間のためではなく、操作する側の利益のために行われているのが実態ではないでしょうか。
NHKEテレの「すくすく子育て『子どものほめ方』」でも、専門家は「ほめる」ことよりも「大好き」と伝えることがたいせつだと言っていました。
 
親が子をアメとムチで操作すること自体が悲しいことです。

「差別的」であるとして連載が中止になった佐野眞一氏の週刊朝日掲載「ハシシタ 奴の本性」第一回はなかなかおもしろい読み物で、佐野氏が9月12日の「日本維新の会」の旗揚げパーティに出席して、会場の人間に取材していると、阪神タイガースの野球帽をかぶり、リュックを背負った老人と出会った話が書かれています。
老人は90歳だということで、名刺には「なんでもかんでも相談所 所長」と書かれ、裏には「家訓 男は珍棒 女は子宮で 勝負する」と書かれています。老人は橋下徹氏の出自について差別的なことをしゃべりまくりますが、そのあとの部分を引用します。
 
ところで、会になぜ参加したんですか。本題の質問に移ると、またまた頓珍漢な答えが返ってきた。
「今の政治家は誰も戦争を知らん。だから橋下を応援しとるんや」
橋下も戦争を知りませんよ。そう言おうとしたが、「男は珍棒 女は子宮」と信じて疑わないおっさんが、橋下なら中国、韓国と戦争してくれると言おうとしていることに気づいて、それ以上聞くのはやめた。
いかにも橋下フリークにふさわしい贅六流のファシズムだと思った。
 
この90歳の老人が戦争を望んでいると結論づけるのは必ずしも正しくはないと思いますが、ありえないことではないと思います。
 
若い世代が戦争を望む心理については、フリーライターの赤木智弘氏が「希望は戦争」という言葉で表現しています。赤木氏によると、将来にまったく希望の持てないフリーターや派遣などの若者にとっては、戦争が起こって社会が流動化することがチャンスだというわけです。
 
では、老人が戦争を望む心理はどうなっているのでしょうか。私の父親はもう亡くなりましたが、もし生きていれば95歳です。この父親が戦争関連の本をいっぱい持っていました。戦争物は子どもが読んでもけっこうおもしろいので、そのため私もへんに戦争通になってしまいました。
父親は大学工学部を出て海軍に入り、技術将校として呉や横須賀に勤務し、外地に行ったことはありません。空襲でもそんな危険な目にはあわなかったようです。内地勤務の海軍将校というのはきわめて恵まれた生活だったようで、毎日ビールを飲んでいたと言っていました。また、そのころは女性にもてたということもよく自慢していました(実際、当時の海軍士官は女性の憧れの的だったようです)。戦後は技術者として中小企業に勤務していましたから、もしかして父親が人生でいちばんよい思いをしたのは海軍時代だったのではないかと思われます。
父親は戦争を望んでいるということはなかったと思いますが、戦争の悲惨さを体験していないだけに、戦争に負けたことが納得いかないという心理はあったのでしょう。戦争関連の本をよく読んでいたのもそのためではないかと思います。
 
中曽根康弘大勲位は海軍主計将校でした。乗っている艦が被弾するという経験もしたようですが、主計将校は基本的に戦闘には参加しませんし、業者から接待される立場ですから、技術将校以上に恵まれています。中曽根氏がずっとタカ派政治家であったのは、やはり戦争中にいい思いをしたからではないかと思います。
 
野中広務元自民党幹事長は、戦時中は兵卒でした。内地にいて戦闘経験はないようですが、軍隊で悲惨な思いをしたに違いありません。政治家としてはずっとコワモテでしたが、戦争反対の姿勢は一貫していました。ウィキペディアの「野中広務」の項目によると、しんぶん赤旗のインタビューを受けたことについて、「政治の最大の役割は戦争をしないこと。『戦争反対』であれば、どんなインタビューでも受けますよ」と語ったということです。
 
石原慎太郎前東京都知事は、父親が商船三井の前身の山下汽船に勤務して、関連会社の重役にまで出世し、戦時中に住んでいたのは山下汽船創業者の別邸だったということで、戦時中の食糧難など知らない恵まれた生活だったようです。もし石原氏が平均的日本人のように飢えを経験していたら、タカ派政治家になることはまずなかったでしょう。
 
戦時中、日本人のほとんどは悲惨な目にあいましたが、少数ながらいい目にあっていた人もいて、そういう人の戦争に対する態度は普通の日本人とは異なっています。佐野氏が出会った90歳の老人もその類の人だったのでしょうか。
 
その人が橋下氏に期待するのは正しいといえるかもしれません。橋下氏は週刊朝日と佐野氏との喧嘩のやり方を見てもわかるように、喧嘩上手な人ですから。
 
戦争を経験した世代でも、戦争を希望する人がいます。今の世代で戦争を希望する人はもっと多いでしょう。
 
そもそも男性は女性のようには、自分の子どもが自分の子どもであるという確信が持てません。そのため、自分が死ぬことの虚しさは女性以上で、それから逃れるために、自分の死をなんとか粉飾しようとしてきました。「名誉の戦死」はその最たるものです。
 
「名誉の戦死」を間近に見る時代がやってきたようにも思えますが、「名誉の戦死」というような粉飾がいつまでも通用するはずがありません。
戦争についての認識を深めることが戦争を回避する最良の手段です。

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