村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

2012年11月

11月6日、ラオスで開かれたアジア欧州会議において野田首相は、「尖閣諸島が我が国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いがなく、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」と、「尖閣」の固有名詞を挙げて中国に対して反論しました。
それに対して、というわけではないでしょうが、中国の胡錦濤国家主席は8日、中国共産党第18回党大会での政治報告で、中国は新たな段階に向けた積極防衛戦略を実行し、幅広い軍の任務を遂行する能力を高めるべきだと指摘し、海洋資源については「われわれは、海洋資源の開発能力を高め、中国の海洋権益を断固として守り、中国を海洋国家としてつくり上げるべきだ」と述べました。
そしてアメリカではオバマ大統領が再選され、当選が確定した7日のニューヨーク株式市場では金融株とともに防衛関連株が大きく値を下げました。
 
この三つの出来事が指し示すものはなにかというと、日中間軍事衝突の可能性の高まりです。
 
支持率最低の野田政権は、総選挙をやると民主党が惨敗することはわかっています。選挙で負けない方法はなにかと考えると、戦争が起こるか、戦争の危機が高まることです。
戦争に直面すると、国民は本能的に一致団結しようとしますから、政権与党が圧倒的に有利になります。選挙が始まって、いいタイミングで軍事衝突が起こると、民主党勝利の目が出てきます。というか、それ以外に民主党勝利の目はありません。
もちろん野田首相はそのことはわかっています。なにをやってもさえない野田首相ですが、こと尖閣問題になると妙に歯切れがよくなります。自分は尖閣問題を利用するしかないとわかっているからでしょう。
 
ところで、冒頭でアジア欧州会議における野田首相の発言を紹介しましたが、新聞に載っていたのは正確にはこうです。
 
「尖閣諸島が我が国固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いがなく、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない。我が国は戦後、一貫して平和国家の歩みを堅持してきた」
 
つまり、最後の「我が国は戦後、一貫して平和国家の歩みを堅持してきた」という部分は余計だし、つながりも悪いと私が判断して削除したのです。
しかし、よく考えてみると、この部分は重要だったかもしれません。というのは、開戦の論理というのは、「わが国は最後まで平和を求めて努力してきたが、相手国がその努力にまったく応えないために、今回やむなく開戦を決意した」というものに決まっているからです。野田首相が我が国は平和国家であるということをわざわざつけ加えたのは、戦争を意識しているからかもしれません。
 
中国においても、政府が日本に強硬な姿勢を示すことは国民の支持を得るためにも重要です。ただ、軍事衝突を望んでいるとまではいえないかもしれません。
それでも、中国人は軍事衝突に対する心理的抵抗がほとんどないだろうということは知っておく必要があります。
 
中国は1962年にインドとの国境問題で大規模な軍事衝突を経験していますし、1969年3月にはソ連と黒竜江の中州にある島の領有権を巡って大規模な軍事衝突を経験し、同年9月には新疆ウイグル自治区でも軍事衝突が起きました。また、1974年、ベトナム戦争末期に、中国は南ベトナム政府が実効支配していた西沙諸島を攻撃して占領し、支配下に置きましたし、1988年にはベトナムの統治下にあった南沙諸島を攻撃して支配下に置きました。つまり中国は国境問題での軍事衝突は何度も経験していますし、島を攻撃して占領することも経験しているのです(あと、朝鮮戦争や中越戦争やチベット侵攻も経験しています)
ですから、日本人は戦後一度も軍事衝突を経験したことがないので、攻撃を決断する心理的なハードルはかなり高いのですが、中国人はぜんぜん違うのです。
 
もっとも、アメリカの存在があるので、中国も軍事行動には出られないだろうと考える人も多いでしょう。野田政権にしても、アメリカの意志に反した行動はできないはずです。
ここで、オバマ大統領の当選が問題になってきます。
 
オバマ政権は今後、軍事費を大幅に削減していく方針です。アメリカの産軍複合体にとってこれは絶対に許せないことです。
ケネディ大統領が暗殺されたのは、ケネディ大統領がベトナムから撤兵しようとしたためだという説があります。ブッシュ大統領が「イラクの大量破壊兵器保有」という捏造をしてまでイラク戦争をしたのも、産軍複合体の利益のためだと考えられます。
産軍複合体は軍事費を削減されないためになんらかの陰謀を巡らす可能性があります。
 
イスラエルが核兵器開発をやめないイランを軍事攻撃することがあるかもしれませんが、これはすでに織り込み済みです。
しかし、尖閣を巡って日中が軍事衝突すれば、これはまったく新しい事態ですから、オバマ政権も戦略を変更せざるをえません。
というか、産軍複合体にとってはこれ以外に手がないといえます。
ということで、産軍複合体が日本と中国を巻き込んで、偶発を装った日中間の軍事衝突を起こす可能性があると思われます。
 
もちろん、以上述べたことはあくまで可能性です。
しかし、「利害関係」を考えれば十分にあり得ることです。
少なくとも尖閣問題を「愛国心」や「正義」で見ているのはまったく愚かなことといわねばなりません。

最近、「こだわりの一品」とか「こだわりのラーメン屋」という表現をよく耳にします。この「こだわり」はいい意味で使われています。しかし、もともと「こだわり」という言葉はほとんどの場合、悪い意味で使われていました。
 
三省堂「大辞林」で「こだわる」を引くと、こうなっています。
 
(1)心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。
「金に―・る人」「済んだことにいつまでも―・るな」
(2)普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。
「ビールの銘柄に―・る」
 
「こだわる」の意味が変遷した経緯については、たとえばこちらのサイトを。
「『こだわる』の意味の変遷について」
 
私自身は、「こだわる」には用法がふたつあるのだと思っています。
つまり、「こだわる人」という場合には悪い意味になりますが、「こだわる人がつくった物」にはよい意味があるというわけです。
 
たとえば職人気質という言葉がありますが、職人には物づくりにひじょうにこだわりを持った人がいます。こういう人はしばしば採算を度外視してまでいい物をつくったりしますから、そういう人のつくった物は、商業主義が蔓延する世の中においてはひじょうに貴重です。まさに「こだわりの一品」であるわけです。
 
また、芸術家や作家もなんらかのこだわりを持っていることでその作品に特徴が出ます。というか、なんらかのこだわりなしに芸術家や作家になることはないというべきでしょうか。
「神は細部に宿る」という言葉がありますが、これはとりわけ芸術にいえることで、芸術作品においては些細な瑕疵が見えただけで感動がなくなってしまうことがあります。
そのため黒澤明監督は撮影のときは細部にまでこだわり、制作費と制作日数がかかりすぎて、一時は映画を撮ることができなくなってしまったほどです。
 
ということで、「こだわる」ということが物づくりに発揮された場合はよい物ができるので、「こだわる」という言葉がいい意味になってきたのは理解できます。
しかし、グルメレポーターが「ご主人のこだわりはなんですか」などと聞くことが普通になってきて、今では「こだわる人」までがいい意味になってきているような気がします。
しかし、「こだわる人」は決していいものではありません。
 
たとえば、職人気質の人というのは、たいていは頑固で気むずかしいものです。そのため頑固親父として妻や子どもから煙たがられているのが普通です。また、職人気質の人とは友だちづきあいもしにくいでしょう。
芸術家や作家も同じです。こういう人はそれなりの見識があるので、社会的には評価されますが、家族には敬遠されているに違いありません。
美しい作品がつくれる人は繊細な美意識を持っています。繊細な美意識とはキメの細かいフィルターのようなもので、みにくさと美しさが入り混じった現実をそのフィルターでこすことで美しい作品をつくりあげるわけです。そういう繊細な美意識の持ち主にとっては、現実の人間は受け入れがたいものであるのが当然です。
作家においても、よき家庭人であった人はきわめてまれです。夏目漱石にしても妻を殴っていました。
 
なんらかの「こだわり」を持っていることは、社会的成功のひとつの条件になるかもしれませんが、「こだわり」を持っていることと「円満な人格」とは相容れません。
私は前から「道徳を家庭に持ち込むな」と主張していますが、それと同じで「こだわりや美意識を家庭に持ち込むな」と主張したいと思います。

電車内で化粧することは是か非かという問題は、小さなことのようですが、これはすべてのマナーや道徳に共通することでもあるので、「電車内化粧問題」というエントリーに引き続いて、再び取り上げます。
 
具体的な迷惑がないのに、「それは見ていて不愉快だからマナー違反だ」と主張する人がいますが、この場合、その人の不愉快だと感じる感性や価値観は正しいのかという問題があります。
たとえば、「電車内で化粧をする人は羞恥心がない」と言って非難する場合、要するに非難する人と非難される人の羞恥心の感覚が違うだけで、どちらが正しいのかはわからないはずです。
 
自分の感覚が正しいと主張できるのは、その感覚が人間全般に共通する本能的、生理的な根拠を持っている場合だけです。そうした根拠がないのに「それはマナー違反だ」と主張すると、それは自分の感覚に他人は従うべきだという、たいへん傲慢な主張になる可能性があります。
 
こうしたことを書いていたところ、ちょうど朝日新聞11月4日朝刊に「電車内化粧 中三が考えた」という記事が掲載されました。漫画家伊藤理佐さんが書いた「やめなよ、電車内の化粧」という文章があって、それに対して多くの反響があったということをまとめた記事です。
 
朝日新聞に寄せられた投書は36通で、多くは伊藤さんに共感するものですが、「化粧より迷惑なことはたくさんある」「女性だけを責めている」などの反論も6通あったということです。
さらに、東京都大田区立羽田中学校からは3年生76人の感想が届き、ここでは「認める」派が3割超を占めたということで、「いいじゃないですか。迷惑にならないならOKです。公共の場だけど、自分の範囲だけのことなので」「家でする時間がないくらい忙しいんだと思う。その人が恥ずかしくないならいいんじゃないかな。私もしてみたい」といった意見がありました。
 
私は中学生のほうが容認派の比率が高いというところに注目しました。子どもほどまともな感覚を持っていて、おとなになるほど偏見が強くなるというのが私の考えです。
 
また、自分も電車内で化粧したことがあるという42歳の女性の意見もありました。
 
かつては「人前でするくらいなら、ノーメークでいればいいのに」と思っていたが、埼玉に住んでいたころ、約2時間の長距離通勤を経験して考えが変わった。夜遅くまで働き、睡眠は4時間。ゆっくり化粧できるのは電車内だった。「それぞれ事情があるので大目に見てほしい」
 
とはいえ、多くの人が電車内化粧に批判的であるのは事実で、これについて私は、化粧を人目にさらすと「女性は美しい」という“共同幻想”を壊してしまうからではないかと考えました。
とすると、この“共同幻想”はどれほど守る価値のあるものかという問題になってきて、これはむずかしくてなかなか結論は出ません。
 
ただ、一般論として言うと、私はマナーというのはできるだけ少ないほうがいいと思っています。経済の世界では、規制緩和をすれば経済が活性化して成長率が高まるということが言われますが、それと同じで、マナーを緩和して多様な生き方ができるようになったほうが社会が活性化すると思うのです。
 
人間性というものが基本的に変わらないことを考えると、マナーやルールをたくさんつくればいいというものではありません。人間はもっといい加減な存在として生まれついていると思います。
 

電車内でベビーカーを利用することについて論争が起き、これがかなり広く関心を呼びました。私は一度このブログで取り上げましたが、それからまたいろいろ考えたので、もう一度ベビーカー問題について書いてみたいと思います。
 
最初に書いたエントリーはこちらです。
「電車内ベビーカー問題!」
 
これはもともとマナー向上を訴える鉄道会社のポスターがきっかけで始まった議論です。これまで電車内でのベビーカー利用についての確立されたマナーというのはなかったようですから、これはマナーのつくり方の問題でもあります。
一般に新しいマナーはどのようにしてつくられるのでしょうか。
 
まず基本的認識として、私は人間には利己的性質と利他的性質の両方があると考えています。このふたつは必ずしもバッティングするものではなくて、人のために行動することが自分のためにもなり、自分のために行動することが人のためにもなるということがほとんどです。ですから、普段は利己的性質と利他的性質があるということは意識されませんが、物事を掘り下げて考えるときは、分けて考えるとわかりやすくなります。
 
電車内のベビーカーについては、「混雑時には乗るべきでない」とか「折り畳んで乗るべきだ」といった声が意外と多くありました。ただでさえ満員電車で窮屈な思いをしているのに、ベビーカーが乗ってくればますます窮屈になるから迷惑だということでしょう。これは言うまでもなく、人間の利己的性質から出る声です。
一方、利他的性質から出る声というのもあります。「混雑しているときにベビーカーで電車に乗らなければならない母親はたいへんな思いをしている。周りの人間はできるだけ配慮してあげるべきだ」という声です。
 
まったく相反する声があるわけです。こうした場合は、最終的に声の大きいほうが勝利して、それが社会のマナーとなります。
今のところ、利己的性質から出る声のほうが大きいような感じですが、まだマナーとして確立されるところまではいっていません。
 
ここで視点を変えて、ベビーカーで電車に乗る母親の立場で考えてみましょう。
子育て中のママの会みたいなものがあって、そこで利他的性質から出てくる声があるとすれば、それは、「私たちは通勤客の迷惑にならないようにできるだけ満員電車に乗らないようにしましょう。乗るときはベビーカーを折り畳みましょう」というものになるはずです。
しかし、そんな声は出ないでしょう。なぜなら、通勤客というのは毎日働けるだけの健康な体を持っているはずで、そんな人たちのために行動しようという気になるわけがないからです。
 
一方、利己的性質から出てくる声はというと、「乗客はみんな私たち子育て中の母親のために協力するべきだ」というものになるでしょう。しかし、今はそういうことを言うとバッシングを受けてしまいそうですから、現実にはほとんど声は出てきていないと思います。
黙っていても世の中のバッシングがひどくなれば、「私たちは通勤客の迷惑にならないようにできるだけ満員電車に乗らないようにしましょう。乗るときはベビーカーを折り畳みましょう」という声が出てくることが考えられます。
これは一見、利他的性質から出てきた声とまったく同じです。しかし、これはバッシングから自己防衛をするためですから、利己的性質から出てきた声です。
 
つまり周りに利己的な言動をする人がいると、自分も対抗するために利己的な言動を取らざるをえなくなるというわけです。
もともと人間は利他的性質よりも利己的性質のほうがほんの少し強く生まれついていますから、利己的言動が利己的言動を呼ぶという悪循環に陥りがちです。尖閣など領土問題を見ればよくわかるでしょう。
今のままでは、一般の乗客のほうが多数派で、子育て中の母親は少数派ですから、双方の利己的な主張がぶつかれば、ベビーカーは混雑時には持ち込んではいけないというマナーが確立されてしまいそうです。
 
とはいえ、人間に利他的性質があるのも間違いありません。
 
私は中学生のころボーイスカウトに入っていて、その活動の一環として赤い羽根や緑の羽根の募金活動をしたことがあります。当時は京都に住んでいて、休日に植物園の前や金閣寺の前で募金活動をすると、かなりの金額が集まりました。しかし、平日に繁華街である四条通りや京都駅前あたりで募金活動をすると、通る人数はうんと多いのに極端に少ない金額しか集まらないのです。
京都駅前や繁華街にいるのは平均的な人たちですし、休日に植物園や金閣寺に行く人たちもおそらく平均的な人たちです。同じ人間が募金したりしなかったりするのです。
この理由は簡単です。休日にのんびりと出かけ、自然や文化財に接して豊かな気持ちになると、利他的な性質が前面に出て募金しようという気持ちになるのです。反対に、平日にせかせかと歩いているときは利己的性質が前面に出て、募金する気持ちにならないというわけです。
 
現在、ベビーカーを非難する声が大きいのは、心に余裕のない通勤客が多いということでしょう。
しかし、その人たちも心のモードが切り替わると、また別の主張をするようになるはずです。
 
たとえば北欧では福祉が行き届いて、人々は日本人よりよほど余裕のある気持ちで生きているはずです。そういうところでは人々はヘビーカーにも寛容です。
日本が急に北欧のように変わることはできませんが、気持ちに余裕がないからベビーカーを非難してしまうのだということを理解するだけでも変わってくるはずです。
少なくとも、今ベビーカーを批判する声が大きいからといって、その声に合わせたマナーをつくる必要はないと思います。
 
ベビーカー問題は逆に、私たちの心の豊かさを示すバロメーターになってくれています。
 

山口県光市の母子殺人事件で死刑が確定した大月(旧姓福田)孝行死刑囚(31)の弁護団が1029日、再審請求をしました。殺害や強姦する意図はなかったとして、心理学者による供述や精神状態の鑑定書などを新証拠として提出するということです。
 
この事件は、死刑制度についての象徴的な事件になりました。大月死刑囚は犯行当時18歳ですから、通常は死刑にならないところですが、被害者遺族の本村洋氏が死刑を強く希望し、マスコミと世論が後押しし、一審と二審は無期懲役でしたが、差し戻し審を経て最高裁が死刑を確定させました。この過程で死刑賛成の世論が強化されたと思います。
それだけに死刑反対派の弁護士で形成される弁護団も意地になって、今回の再審請求をしたのかもしれません。
 
大月死刑囚については、一審判決が出たあと知人に書いた手紙というのがあり、検察は被告人に反省が見られない証拠として裁判所に提出しました。ウィキペディアの「光市母子殺害事件」の項目から引用します。
 
・終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君
・無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す
・犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか
 
 
これを読む限り、相当なワルのようです。しかし、これはそこらへんにいる不良が書きそうなことです。大月死刑囚のような異常で残虐な事件を起こした人間の書くことにしては違和感があるなと私は思っていました。
 
最近、「殺人者はいかに誕生したか」(長谷川博一著)という本を読んだら、そのときの疑問が氷解しました。本書の「第四章 光市母子殺害事件 元少年」から一部を引用します。
 
これまでの彼の残した発言や記述には、まるで別人のものではないかと思わせるような「大人性」と「幼児性」が混在しています。精神機能のある側面は発達し、他は幼児の状態のままなのかもしれません。あるいはコンディションが大きく変わるためかもしれません。私への電報は理知的な大人の文言です。新供述の「復活の儀式」や「ドラえもん」は幼児に特有の魔術的思考そのものです。さらに、これらとは次元を異にする迎合性が顕著です。
彼のこの複雑な性格を理解しない限り、「かりそめの真意」は接する人の数だけ生まれるでしょう。そして各人がそれを「本物の真意」と信じ込んでしまうでしょう。少しでも誘導的なやりとりがあれば(言外の意程度であっても)、犯行ストーリーは変遷していくでしょう。残念ながら、誰にも犯行動機をとらえることはできないということです。
 
つまり大月死刑囚はつねに相手に迎合してしまう性格だということです。ですから、知人に出した手紙は、その知人が不良っぽい人なので、その人に合わせて書いたものなのでしょう。その手紙の文面を見ただけで大月死刑囚を判断してはいけないのです。
 
ところで、著者の長谷川博一氏は東海学院大学教授の臨床心理士で、東ちづるさんや柳美里さんのカウンセリングをしたことで有名かもしれませんが、池田小事件の宅間守死刑囚に面会したときは世間からかなりのバッシングを受けたそうです。
長谷川氏は大月死刑囚と多くの手紙のやりとりはしていますが、面会は一回だけです。長谷川氏は中立的な立場なので、弁護団から面会を止められたということで、弁護団にはかなり批判的です。
長谷川氏は、凶悪な犯罪者は100%幼児期に虐待を受けており、それが犯罪の大きな原因であるという考えの方です。
 
「殺人者はいかに誕生したか」から、大月死刑囚に関するところを引用してみます。
 
さて、光市事件の元少年は、どのような過去を背負っていたのでしょうか。弁護団の犯行ストーリーは保留しておくとして、家裁の調査などで明らかになっている生育史を整理することにします。
物心つく頃から、会社員である父親は母親に激しい暴力をふるっていました。彼は自然と弱い側、つまり母親をかばうようになり、そのため彼にも暴力の矛先が向けられました。小学校に上がると、理由なく殴られるようになりました。海でボートに乗っているとき、父親にわざと転覆させられ、這い上がろうとする彼をさらに突き落とすということが起きます。三、四年生のときには、風呂場で足を持って逆さ吊りにされ、浴槽に上半身を入れられ溺れそうになったことが何度かあります。
(中略)
小学校高学年頃から母親のうつ症状は悪化し、薬と酒の量が増え、自殺未遂を繰り返します。彼が自殺を止めたこともあり、彼にとって母親は「守られたい」けど「守りたい」存在でもあったのです。このように錯綜する相容れない感情をいだく対象が母親であり、ひどく歪んだ共生関係に陥っていたのです。
中学一年(1993)の九月二十二日、母親は自宅ガレージで首を吊って自殺しました。母親の遺体と、その横で黙って立っている父親の姿を彼は覚えています。「父親が殺したんじゃないか」との連想を打ち消すことができません。その後、彼自身が自殺を考えましたが、次第に「母の代わりを探す」という気持ちが取って代わります。何度か家出をしますが、自宅の押し入れに隠れていたこともありました。そこは生前の母親が暮らしていた部屋の押し入れで、「母親の面影や匂いを抱いてそこにいた」と語っています。
母親の死後三カ月で、父親はフィリピン女性と知り合い、その女性に夢中になりました。そして1996(被告人の高校一年時)に正式に結婚し、異母弟が誕生します。彼は義母に甘える義弟に嫉妬を覚えました。しかし、そんな義母も、実母と同様、父親から暴力を受け、暴力の被害者という点では同じ立場に置かれたのでした。
1999年四月に就職しますが、一週間ほど出勤しただけで、義母には隠して無断欠勤します。四月十四日、仕事の合間のふりをして家に戻って義母に昼食を食べさせてもらったあと、甘えたくなって義母に抱きつきました。「仕事に戻りなさい」と言われ、甘え欲求が高じた状態のままで家を出、同じ団地内を個別訪問する「排水検査」に歩き回ったのでした。
これが、まったく面識のなかった本村さんの家を訪れるまでの経緯です。
 
この事件において、殺された母親と子どもがかわいそうなことは言うまでもありませんし、妻子を奪われた本村洋氏も同じです。
それと比較するべきことではありませんが、犯人の大月死刑囚もまたとてもかわいそうな人です。なにしろ物心ついたときから家庭には暴力が吹き荒れていたのです。まるで地獄に生まれ落ちたようなものですが、彼はそういう認識はなかったでしょう。地獄以外の世界を知らないからです。
彼が人間としてまともでないからといって批判するとすれば、それは批判するほうが間違っているのではないでしょうか。
 
本村洋氏や母子のことは、マスコミはそのまま報道しますが、犯人がどんな人生を送ってきたかはほとんど報道されません。検察が公開した手紙は大きく報道されましたが、これは人間の全体像を示す情報ではありません。
 
死刑については賛成の人も反対の人もいるでしょうが、量刑を決めるときは、犯罪者がどんな人間であるかをよく知らなければなりません。そのことを知らないまま、というか知らされないまま死刑賛成の世論がつくられているように思います。
 
もっとも、裁判官は被告の生育歴を知っているわけです。それでいて死刑判決を出せる裁判官というのは、私にとっては不気味な存在です。
 
しかし、光市事件のときはなかった裁判員裁判制度が今はあります。幼児虐待の悲惨さを直視できる裁判員が死刑制度を変えていく可能性はあると思っています。
 

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